豊饒 ぶにょう
【饒】
[音]ジョウ(ゼウ)(漢) ニョウ(ネウ)(呉) [訓]ゆたか
有り余るほど多い。ゆたか。「饒舌/肥饒・富饒・豊饒」
[名のり]あつし・とも・にぎ
[音]ジョウ(ゼウ)(漢) ニョウ(ネウ)(呉) [訓]ゆたか
有り余るほど多い。ゆたか。「饒舌/肥饒・富饒・豊饒」
[名のり]あつし・とも・にぎ
【豊】
音読み 呉音 : フ(表外)
漢音 : ホウ(ホゥ)
慣用音 : ブ(表外)
訓読み 常用漢字表内 ゆた-か、とよ
常用漢字表外
常用漢字表外
「豊」と「豐」は元々別字。「豊」は、「豆(たかつき)」に供え物を整えておいた事を意味する会意文字、レイの音を持ち「醴」の原字、「禮(礼)」に音を残す。「豐」は、音符「丰(ホウ)」×2+「山」+「豆(たかつき)」の会意形声文字。「丰」は穀物の穂で、たかつきの上に収穫した穀物の穂を山盛りにした様。「峰」等と同系。
(おまけ: たかつき 地名の高槻、高月などはその土地に大きな槻の木が生えていたからだという由来が多い。槻木とはケヤキ。ケヤキの名の由来は「■ ケヤキの古名は槻(ツキ)である。ケヤキの材質は堅いうえに腐食しない強靱さを持っている。そのため、ツキの語源は強木(つよき)だったとされている。あるいは、古代には神の依り代として神聖視されたため、「斉(ゆ)つ木」=「斉槻」(ゆつき)に淵源するという説もある(辰巳和弘)。槻(つき)の名称がケヤキ(欅)に変わるのは、平安時代の終わり頃らしい。「際だって目立つ」という意味の「けやけし」から「けやけき木」と呼ばれるようになり、それがなまってケヤキになったとされている。」keyaki は往古から西日本では街道の目印になった樹木で、関東では榎が多い。百枝を空に突き出す聖樹としてケヤキは記録があり、くすのきと並んで高木信仰のイメージツリーの意味も持つ。「つき」は「つえ」にも変化し、地名に反映する地域もある。これは杖が古今東西、高木信仰の「みつえしろ」だったからであろう。西洋では聖者の持つ杖はやがてクリスマスツリーになった。ただし「つき」は「調」で租税も指すので、租庸調に関わった地域ともかんがえられる )
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_07_07.htm
漢音と呉音発音の使い分けをする意味
「音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
「音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。
漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。
慣用音は、上記のどれにも収まらないものをいう。百姓読みなど誤った読み方が時代を経て定着した音読みが多い。「茶」における「チャ」(漢音「タ」・呉音「ダ」・唐音「サ」)という音は、誤った読み方ではないが、漢音と唐音の間に流入した音でどちらにも分類できないため辞書では慣用音とされる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E8%AA%AD%E3%81%BF
呉音は仏教用語に多く、日本の正式仏教がその由来を中国南部江南地域から(最初は空海ら)もたらされたためだろうと想像できる。だから地名で呉音を使う土地は、有力寺院が開発した屯田などであった可能性がまずは考えられる。
豊饒は「ほうじょう=豊穣」に同じで呉音発音する土地である。豊を「ぶ」、饒を「にょう」と読ませるのはいずれも呉音であるから、ここもおそらくそうであろう。河川に沿う低湿地で、栄養分豊かな土地である。隣接して「畑中 はたけなか」地名がある。こちらは豊饒地区よりも河川から遠く、水田には不向きだった地名になっている。
一方、豊は大分県全体を豊と呼び、国が割譲されてからはやはり呉音で「ぶぜん・ぶんご」となったので、呉音国名になっている。「ぶん」は語調整備の慣用音(「ぶご」は言いにくくすわりが悪いため)。大分が往古は豊であった理由は、1 豊かな土地だったから(文献記紀由来) 2正反対に悪い土地だったが、言霊思想でよい意味を持たせる日本の習慣 3 奈良時代の二文字・良文字地名改正命令から などが考えられる。「とよ」の訓は、本来この文字にはないことになっているが、すでに8世紀の記紀にはとよの音が出ている。
「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。」
豊国造・・・豊国(とよのくに)は、かつて日本にあった律令制以前の国の一つ。『国造本紀』によれば、成務朝に伊甚(いじむ=上総国東部=千葉県海岸部)国造と同祖の宇那足尼(うなてのすくね)が豊国造に任じられたとされる。
また神功皇后の本名が豊で、紀氏の祖・武内宿禰の妻(=山下影姫のことか?)だったからという説もある。豊前の田川郡に香春神社があり、祭神に息長帯姫大目命があり、その子?が豊比売とされているが、父は天忍骨命(=天忍穂耳命か?)で、この親子を神功皇后と武内宿禰あるいは仲哀天皇(たらしなかつひこ、ヤマトタケルの子)と見ることはさほど空想物語ともいえまい。なんとなれば豊前には「なかつ」地名が二箇所あって、福岡県側の行橋市がかつての仲津郡、大分県側が中津市である。また国造が同祖を持つという「上総 かずさ」国は隣接する上野国などとともにかつての親王任国であるが、つまり天皇家直轄地という意味で「けのくに」(け=神饌=毛を出す国)でもあり、豊前にも上毛郡・下毛郡(こうげ・しもげ)がある。
別に吉備国(岡山県東部)と宇佐は兄弟という双方の神社伝承(吉備津彦神社・宇佐神宮)があり、吉備国についての記紀記録に多い「吉備臣」は、吉備地方の諸豪族の総称的に使われ、実際には存在しない氏族名(あったのは笠・上道・下道臣)であるが、造山・作山の大前方後円墳が作られる5世紀前半から、吉備には「わかたけひこ」=稚武吉備津彦(大吉備津彦の先祖)がいて、この「わかたけ」が記紀の書く雄略天皇(わかたけ)のことか先祖のことを指す可能性が言われている。武内宿禰に関わるヤマトタケル(おうすのみこと)が雄略をモデルとしていることから、武内=ヤマトタケル=ワカタケというコラージュも考えさせる。さらにワカタケがワカタケルと同一人物であるならばそれが『宋書』の倭王武かとなり、九州と関東で出た鉄剣銘文の「ワカタケル」「オオヒコ」「タカリスクネ」「タカハシワケ」「タサキワケ」「オワケ臣」「ムリテ」などの人名が吉備津彦と並んで四道将軍だった大彦が筑紫国造や武蔵国造の祖であることともなにかの関係があると感じられ、北部九州と北関東の大古墳氏族がそもそも同族で、いずれも倭王の子であった大彦から派生、吉備津彦とも同族だったという見方もできるだろう。
オオヒコが葛城のソツヒコ系譜=武内宿禰系譜だと見ると、少なくとも5世紀前半前後に、近畿や吉備地方で、彼らはのちの王家に匹敵する大豪族となっており、三世紀の纏向遺跡から出土する吉備系祭祀土器や東海系・丹後系といったきわめて海人王国だった地域の実力者たちが、武内=葛城・木の一族であったことを想像するのは難しいことでない。つまり倭五王の後半部は、卑弥呼の時代から吉備系氏族が王家であったのであろう。そして前半部は武とは系譜の違う王家だったとか?ただし紀氏が九州から葛城氏よりも先に入るとするなら、前半は木、後半は葛城とも受け取れるかもしれず、倭五王系譜が武内系譜で、外戚・親族関係で一貫していた可能性も破却できない。
吉備を中継地として豊・北部九州と北関東各地が、大海部として天武以来の天皇家に海部として神饌海産物や大分君などの武力提供などがあったことが、これらのえにし記事の大元であったかも知れない。
参考 加藤謙吉『日本古代の王権と地方』
次回、飯高と日高 元正天皇乳部氏族と「ひたか・いいたか」
おまけのおまけ
「きび」を卑弥呼の本名と考えると、「とよ」は「臺與」の文字変換と?
すると宇佐と吉備が兄弟という伝承はにわかに意味が見えてくるか?