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127年~128年の災害


この間の日本に記録はない。
中国後漢にはどうか。



『後漢書』永建2年(127年)
2月、鮮卑が遼東と玄菟に侵略。護烏桓校尉の耿曄が匈奴の南単于を率いて鮮卑を撃破。
夏6月、母の李氏に皇后を追尊。西域長史の班勇と敦煌太守の張朗が焉耆、尉犁、危須の三国を討ち、これを破った。
秋7月日食有り、太尉の朱寵、司徒の朱倀を免職とし、劉光のを太尉・録尚書事とし、許敬を司徒とした。

永建3年(128年)
春正月丙子(初六日)、京師洛陽で地震。
夏六月旱。
秋七月茂陵(西漢武帝陵)で火災。
「相次ぐ天災を受けて」巡察や救貧政策が採られた。
9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。冬12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎將軍の来歴が罷免された。


以上である。
災害、天災記録は実に淡々と書き記してあって、ここに臨場感はまったくないが、「相次ぐ天災の受けて」128年、天子の命によって巡察や貧民の救済措置がとられたとあるのは、異例な事態であったことを匂わせている。



記紀には、このような弥生時代の記録は一切ない。いや古墳時代の記録もないと考えてられる。なぜなら、記紀とは、天武以降の天皇による近畿地方の政治の正統性を書き連ねることが目的の、記紀成立時代のイデオロギーによって描かれたいつわりの日本史書であるからにほかならない。


奈良時代直前の日本人には、弥生時代、古墳時代以前の記憶はつまり皆無だったということである。相応の時代に当てられた記事のすべては、史実ではなく、天皇政治のための虚偽のデフォルメであると考えてよい。具体的に言えば、雄略~天智時代の記憶はまだ残っていたようだが、それ以前は神武からすべてが天皇家の正当性と、藤原摂政制の正統性のための不比等のねつ造であり、記紀以前にあった史書があったにせよ、現在ないということは抹消、焚書されたと考えて当然である。ほかに答えなどありえない。



せいぜい、百歩譲っても、過去の史実を伝えようとしたあらゆる豪族たちの記録は、利用されこそすれ、あくまでも天皇・摂政のために改竄されている。



さて、NHKが127年の災害の可能性を取り上げ、現代のメガ災害、メガ台風について先日、タイムリーな番組を放映したことは諸氏ご存知である。

環境考古学によって127年あたりに登呂遺跡が滅んだ、1700年にも温暖化があり災害が頻発したなどをさる研究者が語っていた。

その後、今回の温帯低気圧と台風17号の連動による大災害が関東地方以北に起こった。

温暖化による大災害、寒冷化による大災害は、もちろん地球史上何度も起きている。だが、現代の温暖化はそれまでとはまったく違って人災である。人為の産業の途上国への拡大が作り出した異常ないびつな温暖化である。ゆえに、上記した過去の地球史にのっとった「正常な温暖化」と、現代の温暖化には、決定的に摂理と人為の差があることは言うまでもなく、同一線上で論じることには違和感が否めない。


地球環境は、現在、寒冷化に向かっている。そこに人為的温暖化がかぶさっている状態である。地球は氷河期へ向かおうとしているのに大気は産業によるCO2 によって暖められる。ここには明白な自然現象=神のなりわい=への人間の作為による環境破壊が「摂理をゆがめている」現状が見えるはずである。


だからこそ、気象環境は毎年歪められた状況を示す。

春。いきなり初夏のように暑くなり、一週間ほどで平年の春に戻り寒くなる。長雨はいつまでも続き、いきなり真夏になり、また平常の夏になる。秋はいきなりやってきて、また一週間ほどで残暑となり、冬はいきなり豪雪からはじまり、暖冬になっておわる・・・。



すでに1980年代から、このような状況はゆるやかに始まっていたのだろう。


持統天皇の8年に大風が頻発している。こうした中国的な気象観察記録は記紀にはまったくなく、奈良時代の『続日本紀』からやっと書き加えられ始める。ここからがまずはある程度は正確な日本史であると考えられる。歴史、日本をそうとらえるならば、記紀はまったく地誌でも史書でもないのである。


翻って、例えば日本国憲法の成立は、マッカーサーがアメリカ・西欧のキリスト教を日本に植え付けるために作られた憲法であったと、安田喜憲は書く(『日本神話と長江文明』2015)。マッカーサーはそのためには、当時、右から左へと急進的に大きく振れた日本人歴史家たちのマルクス主義歴史学を、本来は共産主義を全否定べき立場であるにも関わらず、「日本神話」を否定する史観の日本人に植えつけるには、絶好のものとして、暗黙に認可したのである。憲法は、このように、西欧的資本主義による日本のねじ伏せのために存在し、描き出されたものだった。そして日本人は、神話の持つ、日本人としての自立した独自の史観やアイデンティティをまったく喪失してしまい、歴史学は歪んだマルクス主義歴史学こそを正統と考えるいびつな始まり方をさせられたのである。


キリスト教史観とは一言で人間中心主義である。至上主義ともいえる。資本主義の根幹にこれがある。あらゆる地球の作り出す事象には、有機物と無機物の二種と気象があるが、動物と植物と鉱物という三つしかない事物のうち、キリスト教・・・いやすべての宗教が常に最高の位置におくものは人間である。あらゆる宗教は人間の幸福のためにあるが、ほかの生物や無機物のためには実は何もしない。すべて偏った宗教である。人間の幸福のためにすべてはあり、だからこそ人間の幸福とは資源を消費し、浪費してこそ成り立つものである。人間以外はすべて人間のための犠牲になるべき贄である。

ところが、敗戦後の日本で、花田清輝だけはこう考えた。

「これまでの精神は人間を最高峰とするピラミッドになっていて、それが当然正しいとわれわれも考えていた。しかしこれからは人間以外の物質・・・なんとなれば極端には鉱物を最高の存在とすら考えを改めるしか復興などありえないのだ」


縄文の野性の思考や、中国の道教は、円・・・つまりあらゆるものがサイクルの中のひとつとして平等であり続けた。縄文時代は一万年以上の長い間、円の思想で、あらゆる事物・事象を平等にとらまえた。しかし弥生以降、われわれは稲作を中心とする人間至上主義に大転換してゆく。キリスト教も仏教も回教も、みな、そうした人間幸福追求のためにだけしか誕生しない。どこにも自分たちが棲んでいる地球環境への優しさが皆無である。

老子は、しかしそこに宇宙のサイクルを最高峰とし、それこそが神の摂理であると考えた。仏陀ですら考え付かなかった、ギリシア天文学や哲学を東アジアの精神史に誕生させた。


今、地球環境は、それまでの人間中心主義の身勝手な資本主義によって、破壊されようとしている。だから地球が困り果て、神は怒りで爆発しはじめているのである。


資本主義は、自分の乗っている枝を自分の手で切っている。
イベントはいずれやってくる。カタストロフィとともに。
恐竜たちを全滅させた完全破壊の能力を宇宙も地球も持っている。そして今は、その破壊力のほんのちょっとした力を使っているに過ぎない段階である。

巨大な渦巻きを持ったヤマタノオロチは、そこまで来ている。はやく気づかねば人類は滅亡するだろう。スサノヲという、暴風雨しか八岐大蛇は退治できないと日本神話は書いている。それはおそらく真実である。しかし、今回、18号というヤマタノオロチは17号というスサノヲの手助けで北関東に未曾有の災害をもたらした。神はすでにわれわれを見放している。



もはや遅い。























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