さて、先の記事で邪馬台国の東遷説が正しかったことは証明された。環境考古学の年縞調査によって、樹木の減少が近畿地方で起きたのである。それは3世紀から始まる。
最初の原因は長江倭族の北部九州渡来である。樹木伐採が北部九州で起きた。そして彼等は大和へ移住した。
そのころから、古河内湖の年縞からナラ・ブナなどの照葉樹の花粉が激減する。それは北部九州では紀元前から紀元100年ごろの「倭国大乱」前に起きている。彼等は毎日使えば破棄した生活土器や、巨大な甕棺の作成のために必要な炭となる樹木を欲して、縄文後期の中国寒冷化によって追い出された先住長江渡来人たちのためである。
それを追いかけるようにして菜畑あたりに黄河文明人も侵入、侵略、その痕跡は長江文明人の甕棺内の戦争遺体や山口県土井ヶ浜の戦没者遺跡が語っている。
こうして倭族の甕棺墓が九州から消える。畑作牧畜民族との戦乱から逃れて再び東へ移住したのである。そして河内地方に甕棺によく似た土器棺が登場し、これが方形周溝墓に変化していく。しかし倭族は馬鹿ではなかった。大和の森林も最初は破壊されてゆくが、甕棺や土器はもう作らなかった。周溝墓への変化。森林伐採の失敗を理解したからである。だが同じくそこにやってきた東海・日本海系の朝鮮人たちは土器と埴輪の作成で森を破壊していく。大和の森林破壊はその主人公が朝鮮渡来人によったのかも知れない。
やがて円形周溝墓のブリッジ部分が切り取られた、縄文の前方後円墳型住居(柄鏡型住居)にそっくりな形状の巨大な墓が登場した。前方後円墳である。文化は縄文の南方的文化で、稲作漁労生活もそのままに、言葉も現地の縄文語=オーストロネシア膠着語を残存させた大同合体した和ぼ文化である。黄河漢民族華北人は、やってきたけれど、結局、古い渡来と縄文の血脈に飲み込まれたのである。おそらく焼畑や牧畜や肉食文化が盛んだった高山に敗北して住み着いたのだろう。
そして王には、江南長江文明人と混血した小さな背丈のものが調整役の巫覡王として選ばれた。それは最初女王で、やがて男王となってゆく。
こうした環境変化の流れを、各地の年縞分析は次々に明らかにしはじめている。しかし鳥取県米子市の角田遺跡の「羽人と出雲大社?」図の太陽に×があることからも、それが当時の世界的な環境変化=卑弥呼の温暖化の前後にあった急激な寒冷化時代を如実に描いていると言えるだろう。
同心円紋になぜ+印を書き加えたのか?
これはどうみても、船の人々の故郷で日食なり、寒冷化なり、あるいは火山噴火などがあって、稲作民族にとって大事な大事な太陽が消えた=環境大変化と民族大移動であることを表す図である。現在、ここは稲吉角田(いなよしすみた)遺跡と呼ばれているが、時代は紀元前1世紀頃の遺跡である。この頃の環境は・・・小温暖期で、むしろ滇王国が非常に栄えた時期。西欧でもローマ帝国の繁栄期である。
先に参照した安田の気象変動グラフで見ると
ではなぜ彼ら江南の人々ははるばる出雲へ逃避してきたのだろうか?
矛盾するように見えるのだが・・・?
実はこの頃の東アジアは前漢が大いに周辺を侵略していた時代。そこに日食が起きた。
「前漢書」
前漢元寿2年、前漢元寿2年、正月、匈奴および烏孫の使者来朝。4月壬辰晦、日食。
元寿と言えば紀元前1世紀末で、二年は西暦元年~二年である。
つまり角田遺跡土器の人々は、長江流域から、日食で一時的に退避してきたか?ということが考え得る。日食は卑弥呼の時代にも起きているが、滇王国も邪馬台国も、稲作文化人として、太陽=最高神であり、女王つまり斎王=巫女王は、太陽の代弁者であるから、太陽が欠けることがあれば当然、その王位から引き摺り下ろされることになる(「以て卑弥呼死す」)。
この絵には羽人のように羽飾りをつけ、鳥装した人物が描かれ、やはり1世紀頃の唐古・鍵遺跡でもほかにも鳥のような衣装の袖を振る女性巫覡が描かれるので、巫女王の逃避だと思える。つまり彼女は日食のために民意を失い、追い出されたか、殺されまいとして逃げ出したかではなかったろうか?
aの鹿は滇王国でも銅鼓型貯貝器に置かれ、ステータスである。
cは樹木の枝に鏡であろう。
dは高床式で千木のある神殿か。
eは出雲大社の往古の姿であろう。