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邪馬台国東遷説は年縞花粉激減で証明できる
南米エクアドルのグアヤキル港の 西約90km,太平洋岸にある貝塚遺跡バルディビアValdiviaは、諸氏すでにここで日本の縄文土器に類似する土器の出土地として認知されていることと思う。約3000年ほど前の遺跡である。
そのすぐ北にあるのがコロンビアである。
ここに貝塚遺跡や、紀元前200~紀元後500年(ほぼ日本の弥生時代に相当する時代)の遺跡がいくつも存在する。
その中で地下式墓を持つティアエラデンドロ遺跡を今回紹介しよう。
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この遺跡の画像は、2015年秋現在、ネット上ではWikiにしか掲載写真がない。
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Wikiティエラデンドロ地下式墓内部を拡大編集
ドーム状の天井に幾何学模様のひし形。
柱には逆三角形の顔。どこかしら長野県の「仮面のビーナス」や平面土偶を思わせる形。
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国宝仮面のビーナス土偶 長野県茅野市中つ原遺跡
土偶編年はすでに詳細な時代区分がなされているが、現在、破壊されずに残っているものはみな大型土偶で、破壊を目的にした「転ばぬ先の死産の禁忌」土偶群とは利用目的が違っていたと考えている。
この遺跡はウィラ山・グリージョ山という5750mの高峰を仰ぎ見る高地にある。
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クリ-ジョ山は常に雪に覆われたコニーデ(円錐型・富士山型)で、どこかしら長野県の、山麓茅野市に縄文のストーンサークルがある八ヶ岳や浅間山や劔岳を髣髴とさせる三角錐型の高山である。その麓の谷あいにある山の山頂にこの遺跡はあり、さらに700mほど下に世界遺産センターが建っている。
これは理学の安田喜憲が撮影してきたティエラデンドロ地下式墓の貴重な内部写真である。
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一見して、下図の柱に描かれた模様は、大きな鋸歯文、その下に横線が引かれ二つの逆三角形を逆U字型の曲線がつなぐ、ちょっと曲がった双方矢印のような絵柄。そして画面右下の絵柄は逆三角形が三つ、下線でつながれた形状をしている。
上図の壷の絵柄は、上向きの二等辺三角形状にとぐろを巻く蛇である。
これは真上から見たクリ-ジョ山ではあるまいか>するとまるで記紀の聖山・三輪山が蛇が三重にとぐろを巻く蛇=大物主神の形であることと似た観念で描かれた図柄だと見えてくる。故・吉野裕子なら欣喜雀躍しそうな装飾絵画だといえる。
南米・中南米の先住民はもちろんアステカやインカやマチュピチュ同様にモンゴロイドである。はるかなアジアから、ベーリング海を渡ったアメリカインディアンたちと同じ血を引いた古モンゴロイドであり、アイヌ同様に「彫りの深い顔つきの」「やや浅黒い小麦色肌の」南方系の人々である。
彼らの信仰する観念は倭族とよく似ている。巫女女王に仕え、珠と蛇を絵柄にし、農耕に生きた。上の地下式墓の絵柄が、どことなく北部九州の装飾古墳に似ていると感じる人は多いはずだ。
ここで筆者が気づいたのは、中国少数民も中南米の各文明も、日本人も、古くから金よりも銀を愛好する民族だったということである。南米・メキシコと言えば銀山が有名であるし、日本でも江戸時代までは銀本位制であった。雲南・貴州のミャオ族・トン族ら三苗民族も晴れの日に銀の豪華な装飾品を代々伝世している。
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蛇を三角で表す種族は、倭人、台湾パイワン族、ミャオ族、そしてここ中南米のティエラデンドロ遺跡の人々(広くはムイスカ文明人と呼ぶ)など、世界に多い。その三角は日本では北条氏のように蛇の鱗の幾何学模様だという説もあるが、この遺跡の壷のような蛇とコニーデ型聖山を合体させたデザインだということもできるだろう。
現在、この地域に住んでいるのはナサ族である。おそらく子孫であろう。身長が大変低く、平均150センチほどで、これも倭人やアステカ人や三苗たちに類似する。古老たちはみな爺さんよりも婆さん中心の合議制を取る女系社会で、これも女王中心、女帝中心だった往古の倭国人を髣髴とさせる。ガジャカンの木という神木を崇拝し知恵を与える木だと考えている。なによりも、牧羊、牧山羊をしない民族で、じゃがいもなどの植物食が中心である。稲ではないのはアメリカ大陸の高い山地という環境のためであろう。スペイン人などの外敵が来なければ平地で水田をやっていたかも知れない。ただ、インカなどの文化に共通するのは太陽の造る夏至や冬至や秋分・春分といった「太陽信仰とカレンダーによった太陽中心の、太陽により近い高所」を選ぶ嗜好性・志向性からであろう。
おとなりの縄文土器に似た土器が出たというエクアドルのバルディビアなどの多数の貝塚は、縄文人の強い匂いがしていると安田喜憲は書く。
記紀からわかることは、倭人の信仰も太陽を仰ぐ太陽信仰で、そこに星信仰はまったく登場しないことである。星信仰は畑作牧畜民と南島海洋民族=ラピタなどが信仰する観念である。また同じ畑作牧畜民族である西欧人の最古の文明であるギリシアでも天文といえば星占い、占星術による十二宮のカレンダーをメインにする。
だがわたしたちは往古、あきらかに太陽・夏至・冬至、特に神社信仰では春分・秋分を中心にするレイラインと太陰暦でものごとを計画し、考えてきた女系社会だった。
狩猟中心の西欧・漢民族の文化は、やがて野生動物を取り尽くすことで牧畜を考え付いた。その牧畜は地球から森林をどんどん消してゆき、北部から吹きすさぶ強烈な偏西風によっていよいよ土地は乾燥し、砂漠化してゆき、不作にあえぎながら仕方なく南下し、そこでまた同じあやまちを繰り返すばかりであった。今頃、中国では日本人の無償の緑化運動の大切さに気づき、共産党習主席もやっと成約に樹木を植えようをスローガンにするようになった。彼ら華北人のしてきたことと、彼らが往古蛮族・東夷・西蕃と馬鹿にしてきた北方民族たちとなんら変わりのない、侵略者国家である。
このように畑作牧畜の未来は閉ざされている。それは人類絶滅の一本道である。一方われわれ倭族の稲作漁労採集文化は、自然を残す未来に開いた人類永遠の文化だと言える。
●邪馬台国は東へ移動した。東遷説は正しかった
弥生時代、北部九州の森林はつぎつぎに消えていった。理由は土器と大型甕棺を大量に製造し、住居を大量に建てたからにほかならない。樹木花粉の弥生時代からの急激な減少は、大和の3世紀でも起こっている。つまり北部九州に渡来した朝鮮・華北民族が2世紀突如としていなくなる理由は、古河内湖地層の花粉調査で明白で、北部九州で原生林を切り尽くしたために、森林を探して移動した倭人たちが、大和の森をどんどん神殿や、炭にして、製鉄や建築やらで繁栄したと書かれた崇神天皇の御世そのものであり、その後記紀が、崇神時代はその後、疫病で荒廃しやむなく大物主を祭ったという記事に合致するのである。つまり崇神とは九州北部の王だったものの大和移住を示していることになる。
このように邪馬台国が九州菜畑から河内そして大和へと移動していったことは、年縞分析からもあきらかなのである。
四度の渡来があったのだろう。
最初は邪馬台国につながる127年頃の長江文明人が菜畑に。
次に遠賀川に多い半島系朝鮮人・・これも実は江南からの逃避者である倭族である。
さらに黄河文明人が気候変動で菜畑に。
そして四世紀以降に秦氏に代表される伽耶王族=これも長江由来の倭族であろう。