今から2800年前ほどに、縄文海進が数度の冷涼化を経て後退すると、次第に今の平野が現れる。台地や内陸で展開されて来た貝塚遺跡や環状集落の人々が、その湿地平野に降りてくる。大陸でも民族大移動が世界中で起こり、東アジアでは前漢・後漢から三国志への動乱期。大陸から日本列島に逃避してくる渡来はどんどん増えた。
しかし、だからといって平野ですぐに水耕稲作は始まらない。なぜなら、その平野はそれまで長きに渡って海水の下にあったために、塩分が溜まっており、とても稲や作物には生長できる状態ではないからだ。
4500年前~2800年前の間に、九州でも東北でも日本海側でも、寒冷化による渡来と移住が起こっているが、水耕稲作はそこからさらに300年以上遅れるのは。そのためであろう。
だから最初の水田はどうしても河川に沿った少し高い場所、扇状地などから始まる。現代のように海岸線に水田や都市が広がる景色ができあがるのは、なんと、江戸時代の秀吉の干拓まで待つことになるのだ。
この夏の冷夏・台風による山間部河川沿いの洪水を見ても、河川沿線こそが水田の集中地である。それらはかなり古い時代から続いた穀倉地帯だということに気がつく。
平野の大水田地帯の完成はほとんどが地名「新田」・・・つまり埋立地から始まるのである。ということは、いくら稲作が弥生時代を始めさせたきっかけだと言っても、米の収穫量など江戸~現代に比べれば微々たるものだったはずで、米を民衆に至るまで全国民が食べ始めたのも弥生時代だったのではないのである。民衆の主食は山間や台地で畑作でとれる粟・稗の時代が相当長く続いた。
では米は誰が食べたのか?
もちろん一部豪族、王族、そしてほとんどは神への捧げものと物々交換の産物として使われたのである。平安時代、奥州藤原氏の繁栄は米と砂金である。すでに弥生時代から、日本の米は東アジア諸国には十分に認知されるブランドだったということだろう。