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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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チワン族とウイグル族イスラム教徒と中国脱出者

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チワン族(壮族)(チワンぞく、チワン語: Bouxcuengh, 旧表記 Bouчcueŋь, ポウシューン)は、主に中国南部やベトナム北部に住居する原住民族である。中国では広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部に約1,854万人(2010年の第6回全国人口調査統計による)が住み、中国最大の少数民族となっている。言語はタイ・カダイ語族に属するチワン語を話す。チュアン族と言う日本語表現もある。

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

百越とよばれる人々はY染色体ハプログループO2(O2a/O2b)系統に属していたとされる[3][4]。O2a/O2bは長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O2aおよび一部のO2bは南下し百越と呼ばれ、残りのO2bは西方及び北方へと渡り、山東省、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとされ[5]、このO2b系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。O2a系統はオーストロアジア語族と関連していることから、百越はオーストロアジア語に近い言語(群)を話していたと考えられる。O2aと姉妹関係のO2b系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータ[6][7]とも符合する。

嶺南地区(ほぼ現在の広東・広西)の原住民族として長い歴史を持っている。数万年前の頃から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。周代(春秋戦国)の頃は百越と呼ばれる諸民族の一派で、駱越、西甌などの国家を築いた。漢代に南越国の支配下に入り中華文明の一部となったが、隋代までは、部落制社会が続いた[1]。唐代に封建制度社会に移行し、明代には少数民族首長の世襲支配を認める土司制度が行われた。勇猛なチワン族の兵士は「兵」(「狼兵」)と呼ばれ、瓦氏夫人に率いられた田州兵が倭寇鎮圧に動員されたこともある。清代になって改土帰流が行われ、直接支配地域になった。漢民族との接触の歴史が長く、経済活動に必要性があるため、漢語も広く浸透した。
近代には1850年に太平天国の乱が広西の金田村で始まったため、チワン族も多数参加した。1929年から1932年にかけて小平が広西で指導した右江革命根拠地にも多くが参加し、中国では革命的伝統が称えられる。日中戦争時には日本軍との戦いに参加する者もいた。

チワン族のいる自治区はアジアのイスラム教徒たちの移動ルートにあり、ウイグル族などのイスラム教徒とイスラム過激派の中継地でもあり、民衆が感化される可能性はないとは言えない。同時にウイグル族の中国脱出の中継地でもある。また広西チワン族の組織は不法出国者を車でベトナム国境に送り込んでおり、既に昨年 1~4月の3ヶ月だけで3000人以上を出国させている。



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