大城道則は『古代エジプト死者からの声』河出ブックス 2015
の中で、エジプト人にとって彼岸は地中海ではなくナイル川だったと書いている。
死者はナイルを渡ってやってくると考えられた。
日本でならそれは海の彼方、ニライカナイ、補陀落渡海などと、多く海の向こう側にあると信じられていたわけだが、なぜエジプト人たちは河の向こう側を彼岸だと思ったのか?
その理由の一番は、エジプトの前の海、すなわち地中海では、対岸にはギリシアなどの、ちゃんと人がたくさん住む南欧があったからだと言う。
世界の大きな気候変動は、かつての(西欧・アフリカ世界の中心であった)エジプトにとっても、例外なく訪れている。今から4000年ほど前、つまり紀元前3000年くらいのエジプトは「緑のサハラ」がまだ展開しており、アフリカ北部は森林に覆われた肥沃な土地だった。しかし4000年ほど前の寒冷化(Hイベント)によって、偏西風はアジアのヒマラヤ山脈に熱風を送りはじめ、それが山脈に跳ね返されて、西へ押し寄せる。これによってまともにその乾燥した熱風を受けるサハラ緑地はどんどん乾燥化していった。
この状況は、ちょうど人類の祖先である猿人が森林を出て北へむかわねばならなかった太古の様相H1に似ている。
この乾燥がエジプト人に大きな死生観の変化をもたらしたという証拠がピラミッドなのである。ギザのピラミッドは、ちょうどその乾燥初期に造られた遺跡である。それは中国や朝鮮や日本にも新しい動乱期と墓制が始まった大きな動き=長江文明の黄河文明人南下による滅亡期に当たることになる。4200年前から3800年までの二回の寒冷化や旱魃が、東アジアの政治状況や死生観に多大な影響を与えたのと同じことが、エジプト周辺、アフリカ北部で起きたのであろう。
植物相が一変し、砂漠化が始まると、当然、動物も移住を余儀なくされ、サハラからキリンやサイなどが南へ移動し始めた。突然のように、あれよというまに、サハラは砂漠へと変化していった。乾燥と旱魃は弱い人類と文明をあっというまに変えてしまう。人口は、旱魃による不作、それによる民族侵入、大乱、動乱、それらが持ち込んでくる疫病などによって滅び行く。たわないものである。
当然、死生観も大転換した。それは日本の縄文時代に、中期以降、環状列石という死者復活、再生の呪の機能を持った墓設備が登場したのと同じである。アジアは寒冷によって、西アジアからアフリカ・地中海では灼熱の乾燥によって、それぞれ大きな生き方の変化、大移動、戦乱が起こったのである。
人が若くして死ぬ、夭折する。幼児期に死ぬようになると、豊かだった時代にある程度長く生きられていた時代とは、当然、生きること、死ぬことへの願いのスパンが極端に短縮されるのである。
つまりピラミッド内部の王の間などの空間施設や、あるいはミイラ技術もまた、王族たちの再生のための復活機能を持ったモジュラー、ユニット(専用機器・機能)だったことになる。それは共通して、個人の墓でもありながら、ある種の呪や魔術、儀式の舞台である。すなわちそれらの巨大な設備は、祖霊復活のための集団儀式のためという、ただの個人墓とは意味合いの違うものへ大変化する。その根幹にあるコンセプトは、一族はらから全体のための祖霊としての降臨に価する巨大な設備でなければならない。規模と底辺死生観が大自然・地球の環境変化によって始まったのである。それが巨大なプロジェクト化して新しい文明が脱皮してできあがる。アウフヘーベンされるのである。ちょうどあ昆虫や蛇が脱皮して、大きくなったり、まったく別の形態と機能を持った(成虫は全体として生殖する体へ変化する。成長とはいかなる動物においても子孫を残す生殖機能を手にするためにある)変態のような事件である。
図1 シリア・トルコの位置図と同緯度・同縮尺での日本列島
日本とほぼ同緯度に位置している。ジェット気流の移動などが気候に大きな影響を与えており、日本における気候変動と同じセンスで、気候変動が発生していることが分かってきた。
日本とほぼ同緯度に位置している。ジェット気流の移動などが気候に大きな影響を与えており、日本における気候変動と同じセンスで、気候変動が発生していることが分かってきた。
九州とエジプト・中近東・地中海沿岸地域の緯度は近い。基本的に豊かなところである。
このように、世界の人類はみな同じような環境変化によって、ある地域では男王から女王へ、政治王から巫覡王へと、逆戻りを余儀なくされる時期がある。だから、その時期の死生観や呪術には、ある共通点が生まれてくるのである。
エジプト人にとって、地中海が彼岸ではなということは、日本で考えれば、それは日本海側がそうなったのではないか?という着想を生む。そして太平洋側や瀬戸内の死生観と日本海側の死生観にギャップが生まれたならば、王としては国家的な統一は非常に困難になってしまうだろうということも。だから大乱は起こるのであろう。
このような状況下で、エジプトでは「死者への手紙」「死者の書」などが書かれてゆくようになった。
ギリシアでは呪いの札カタデスモイ Katadesumoi が墓所敵対した死者や族長、異民族墓などに置かれ始める。呪いの場所を代表するのはギリシア人にとっても河であった。やはり対岸がエジプトだったからだろう。
カタデスモイは鉛の札で折りたたんで呪の言葉や形象を描いてある。
そこに釘や矢のようなものを突き刺す場合もあり、日本のわら人形のような呪符である。地中海では共通してそれを河の岸部におき、呪うべき死者の再生をくいとめようとする。つまり日本の古墳時代の直弧文である。再生禁忌の印。
つまり両者は当時から対面する異民族のことを知っており、たがいの交流があったということになる。だから太陽の船のような構図は、本来、環境変化前までは互いに彼岸が海であり、船で交流がはじまってからは、地中海はむしろ観念よりも貿易など実業のための現実世界になったのである。すると彼岸は河へと変化した。そこが日本人と少し違う太陽神の性格を生み出すことになったはずである。川幅の狭い日本では、河川流域の氾濫する場所では、彼岸というよりも河童などの妖怪がすむ場所となる。
それも人を食う神=魔物の地域的なとらえかたに影響する。