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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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熊襲と日下部と狗奴国と久米部と山部と葛城氏の縁故

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 「一般論としていえば、系図は、①長い年代・期間に何度かにわたり書き継がれたか、②長い年代に活動した多くの人々の人間関係を所伝史料を基にしてある一時期にまとめて書き表されたか、さらには①②併せた事情がある、というものである。そのため、どの家、どの社寺等に伝わる系図であっても、ほぼ例外なく、多くの問題個所を抱えている。具体的には、系図の編纂・転写・謄写のときの誤記や系線の引き誤り、作成者・編纂者・謄写者などの誤解や基になった史料自体に誤りがあるなど、問題の原因は数え切れない。これになんらかの系譜仮冒・系譜修飾や(実際には正当ではなくとも)正当な相続権があるという主張などの目的が加われば、ますます系図には疑問点が増えることになる。 」宝賀寿男
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/murasaki/kentou1.htm

 「記紀では、『日下部』は、日向出身の髪長媛(仁徳天皇后妃)の御子の名代部として登場する。(髪長媛の皇子=記の所伝では、波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)またの名を大日下王と波多昆能若郎女またの名を「若日下部命」の二人、紀においては、大草香皇子と幡梭皇女の二人)」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm#日下部
 
 


 
つまり日下部氏の出身地は日向である。
日向国は最初、鹿児島県と宮崎県南部を指していた。
熊本県南部の球磨郡と隣接するのは鹿児島県曽於郡の吾平(あいら)地方=霧島連山の南側一帯である。
神武の最初の妃となった吾平津比売はここの出身であるので、その子孫であろう髪長媛も霧島に近い出身であろう。

つまり日下部氏の出自もここが一番古いことになる。
「記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)※と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。

伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm#日下部
 
このように日下部氏は河内王朝では嫡子となるべきが殺された分家の血筋を護る立場にいて、鹿児島県の阿多とのかかわりが深かった。というよりもそこの出身だったと見られる。それが伊予(愛媛県)の久米部ともつながりがあり、こちらは山部となった。
 
 
「二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。
 
さきの山城国の大住郷の首長であった大住忌寸も山守の名をもっていた。『古事記』の安康天皇の条に意祁・衰祁の二王子は父王が殺されたと聞いて逃げ、「山代の苅羽井に到りまして、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひつ」とある。その老人は山代の猪飼であったという。山代の苅羽井は、隼人の移住地の大住の地であった。そこからこの顔に入墨をした面黥ける老人も異族ではなかったかと想像されるのである。
 
『日本書紀』には、神武帝に従った大久米命が目のふちに入墨をしていた、とあるから、この入墨の老人も隼人族に属していたのではあるまいか。大住郷の大住忌寸山守が山守部の首長であったことから、猪飼の老人も山守部に属していたかも知れない。葛城の山人との関係も見逃しがたい。二王子には母方の葛城氏の血が流れている。二王子の姨の飯豊皇女も、葛城氏を背景とした高巫であった。」
谷川健一『古代学への招待』2010
 
 
クメはクマである。

熊襲のうちの球磨族である。

その子孫が京都南山背で大住忌寸である。ここは地名も大隈からとって大住である。その久米部=山部である。

それが大和に於いては葛城氏とえにしが深い。
 
久米部=山部=葛城氏=熊襲である。
●久米部の全国分布
   (a)久米郷 大和国 高市郡
   (b)久米郷 伊勢国 員弁郡
   (c)久米郷 常陸国 久慈郡
   (d)久米郷 伯耆国 久米郡
   (e)久米郡 美作国
   (f)久米郷 美作国 久米郡
   (g)久米郷 周防国 都濃郡
   (h)久米郡 伊与国
   (i)久米郷 伊与国 喜多郡
      肥後国球磨郡久米郷(和名抄) 
      久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)
      久米郷 筑前国志摩郡
      久(多)米駅 豊前国
 
 
●山部の九州での分布
阿蘇神社社家宮川一族(山部氏族)  
山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)
益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)

こうしてみると、久米部も日下部ももとは海人系だったが、なぜか山部と靫(靱)負部となって内陸部にいる。
阿多隼人と同じ吾平・阿多を根城にしていた。

ということは彼らは熊襲ではなかったか?
 
曽於とは現在の曽於市・霧島市・伊佐市・姶良郡を言った。
 
「鬼が在ったとされる犬ヶ岳が古く、狗岳(いぬ)とされた。大隅の曽於(そお)は隼人の故名。その「そお」は南方で犬を意味するとされ、のちの隼人司が吠を発する職掌から、隼人は「狗(いぬ)」に擬せられた。

 日本書紀、景行紀には宇佐の川上に住む「鼻垂」 、御木川の川上に住む「耳垂」、高羽(田川)川の川上の「麻剥」などの土蜘蛛が登場する。土蜘蛛の伝承とは、大和の王権の支配が地方にまで及ばぬ時代、古墳早期の話であろうか。豊前での前方後円墳の出現は早い。
 
 求菩提域においては、「土蜘蛛」の伝承と、古く、狗岳(いぬ)や狗ノ岩屋にみえる「狗人」の痕跡、そして忌避されて「鬼」とされた先住の族が重なる。」
戦国奇譚http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/076b480d6ac6c5d486e177e013d05b5e

どうやら犬地名を鉱物と修験だけに限定しないほうがよさそうである。むしろそれらの大元に隼人や球磨(狗奴国?)があるような気配である。
 
曽於郡には大崎町があるが、「おおさき」は「おおさけ」で、耳元まで口が裂けた犬やキツネを現している。
 
曽於郡に犬馬場という特徴的な姓がある。
http://folklore.office-maeta.jp/008.htm
 
しかし曽於が犬のことだと書いているのは一人戦国奇譚サイトしかない。
http://search.yahoo.co.jp/search?b=1&n=10&ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E6%9B%BD%E6%96%BC%E3%81%AF%E5%8D%97%E6%96%B9%E3%81%AE+%E7%8A%AC
 
あまりあてにはならない。
 
葛城襲津彦の「そつひこ」とは「襲の男」という意味になっている。
「襲」は「曽」である。
 
いずれにせよ日下部の大元は草部、葛城氏や日下部氏や久米部たちが熊襲に関与していたことだけは間違いなかろう。
 
これが火の君のことなのか?それともこれに火の君が取って代わるのか?
火の君の祖は建緒組(たけおくみ)と言う(肥前国風土記)が、「組」とはクメではあるまいか?
 
もしそうであるのならであるが、肥後・肥前は日下部氏=火の君→火中君→阿蘇氏へと統率者が代わっていったとすることができるだろう。それが応神王朝→飛鳥王朝→大和朝廷への激動のあいだの為政者変化である。
 
次に阿蘇氏を分析してみたい。
 
 
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阿蘇氏/古代と中世を分ける

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阿蘇氏と一言で言っても、鷹の羽紋を調べれば山ほど出てくる。
類似家紋が多いのは、それだけ古代以後に阿蘇氏とのえにしを結んだ無縁氏族が多かった、つまりそれだけ阿蘇氏が往古から有力豪族だったということの証明になる。
 
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もういちど前章の氏族分析の肝を書いておこう。
「一般論としていえば、系図は、
①長い年代・期間に何度かにわたり書き継がれたか、
②長い年代に活動した多くの人々の人間関係を所伝史料を基にしてある一時期にまとめて書き表されたか、
さらには①②併せた事情がある、というものである。
 
そのため、どの家、どの社寺等に伝わる系図であっても、ほぼ例外なく、多くの問題個所を抱えている。具体的には、系図の編纂・転写・謄写のときの誤記や系線の引き誤り、作成者・編纂者・謄写者などの誤解や基になった史料自体に誤りがあるなど、問題の原因は数え切れない。これになんらかの系譜仮冒・系譜修飾や(実際には正当ではなくとも)正当な相続権があるという主張などの目的が加われば、ますます系図には疑問点が増えることになる。 」宝賀寿男
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/murasaki/kentou1.htm
 
 
まず頭の中で中世に阿蘇氏を名乗った氏族はこの際邪魔になるので、切り捨てておくべきだろう。
それが古代阿蘇氏を知るための第一の仕事になる。
 
つまり源流である多氏から出てすぐの阿蘇氏こそが知りたいのである。
 
 

 
 
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阿蘇氏には
1 阿蘇国造家
2 そこから出た阿蘇神社大宮司家がある。
 
この二つが本当に『先代旧事本紀』の「国造本紀」が言うように、同じ氏族かどうかの問題がまずある。
 
さらに阿蘇国造家が多氏先祖である神八井耳命の、本当に直系子孫であるかがまた問題である。
 
長い歴史が火の国にはある。
 
まず熊襲が南部で分裂し、球磨族と曽於族に分離している。曽於はつまり阿多隼人になるのであろう。
球磨は北上し、高森町の古墳群氏族=草部吉見系阿蘇氏となったか?これが全国の日下部氏であろう。(別記して分析する。)
 
 
ようするに大きな流れでは、熊襲は火の君になったとし、それが日下部氏を飲み込む。そこへやってきたのが阿蘇国造氏である。国造は中央から派遣された国司であり、阿蘇国造は巫ぎの為政者である。
 
そこから阿蘇氏となって、熊本だけでなく九州一円を管理してゆく大氏族になるのである。
その拡大振りは、日本全国規模で長野県、茨城県へと広がってゆく。これが「杵島」氏族である。阿蘇山の杵島岳を聖地として肥前で嘉島、熊本でも嘉島、茨城で鹿嶋という地名になった。長野では金刺、諏訪氏を生み出す。諏訪とは「すわ」・・・「そお」から来たかとも思う。
 
「そお」は犬であるという意見もあった。
 
犬は狗で、狗奴国の狗、犬をステータスとし、犬の遠吠えをするのは阿多隼人である。
熊襲は民族で二分したのではなく、混生して分離したと考えられる。
 
 
 
草部吉見系の系譜『草部吉見神社所蔵系図』
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ここで気づくのは、国造家は神八井耳命の孫から派生したと言うのに対し、吉見系は日子八井命から出ると、系譜が違うことである。そして吉見系の方が「兄」、日子八井命が神八井耳命の兄とされるので、古いということである。
 
すると阿蘇国造家や大宮司家よりも前から、つまり6世紀くらいから肥後にいた氏族、豪族が草部吉見氏ということがわかる。それは火の君か葦北国造しかいない。阿蘇氏国造家が熊本にやってきたのは、『日本書紀』によれば実は持統天皇の頃で8世紀になるのである。
 
 
つまり阿蘇氏に限っては多氏系譜は大和から来たことになってしまう。
 
健磐龍命は神八井耳命の子とされるが、火の君、阿蘇の君、筑紫の君の三君は、元々九州で勢力を持っており、ヤマトの勢力が火の君、筑紫の君を滅ぼした後、阿蘇の君を取り込む為、天皇家(大王家)につながる系譜をついだともされる。
要するに磐井の乱で筑紫君が滅び、それを肥君猪手が受け継いで継承していた多氏系譜が、ここで無縁の阿蘇氏に取って代わられたということになろうか。阿蘇氏はまず最初にこの多氏神八井耳命系譜を手に入れておく必要があった。それが草部吉見氏との婚姻であろう。
その後玉名の中君や有明海の蒲池媛との外戚、葦北の君との外戚など、九州一円を同族に取り込む懐柔策で、阿蘇氏は巨大化していったのではあるまいか?
 
その背後にいたのは大和の額田部などの名代部であろう。
靫負部だった日下部氏は大伴氏の衰弱によって有名無実の統治者になったのだろう。
それはそのまま中央の河内王家の衰弱であり、継体大王の登場につながる。
継体大王の系譜に息長氏があるのは、豊前・北九州における息長海人族との往古からの秦氏新羅神信仰と多氏の高木信仰の融合があって、英彦山・求菩提山そして宇佐八幡信仰の成立を生み出すのであろう。大陸系と朝鮮系の渡来が、鷹羽=田川郡で成し遂げられたのである。弥生時代、北部九州の那珂川の東西に棲み分けた二種類の遺伝子が、やっとこのとき豊前で一体化したのだと思える。
 
 
 
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草部吉見系=日下部氏

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阿蘇山麓中通古墳群
 
 
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◆阿蘇神社
 名神大社、888年以後は大神宝使発遣対象社。
 第7代孝霊天皇御代 孝霊9年(紀元前281年)6月勅命により、神武天皇の御子である神八井耳命 (カムヤイミミノミコト)のまた御子である健磐龍命(タケイワタツノミコト)=阿蘇大明神-一の宮)を主神とし、御妃神である阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト=二の宮)、阿蘇初代国造である国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト=十一の宮)及び近親十神を含めて十二神(12宮)を祀る神社として創建されました。
 その昔、阿蘇大明神は満々とたたえた湖水を外輪山の立野付近を蹴破って水を流し阿蘇を開拓しました。
 
 第12代景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建させたと伝えられます。(肥後国誌等)
◇創建後は、遣唐使派遣の際に勅命により航海安全を祈願する等、皇室・国家からの信奉が篤いと言われています。
これらの神様の御陵墓は6世紀頃に築造された中通(なかどうり)古墳群と伝えられています。
 源頼朝は社領を寄進しましたが、豊臣秀吉は九州平定時に社領を没収しました。しかし、肥後藩主となった信仰心の厚い加藤清正は阿蘇神社をりっぱに再興し、その後肥後藩主になった細川氏も阿蘇神社を保護してきました。
 この間、時代のながれにより、北条氏や南北朝とかかわりをもち現在に至る歴史ある神社です。
 
 

『隋書』
倭国から隋王朝には600年(推古8年)~614年間に6回遣使派遣
『隋書俀国伝』には『有阿蘇山 其石 無故火接天者 俗以為異 因行祭祀』
(隋書だけが倭国を「俀国(たいこく)」と表記している。これは大和のことではなく阿蘇山がある九州南部の国家ではないかという意見がある。)
 
推古天皇(実名は額田部)の時代に国交再開され、火国においても6世紀には額田部設置。
額田部は額田を名に負う推古女帝のための名代部で、馬などの軍事的役割を持っていた。
このように名代部は全国の要所に派遣があり、どこが本拠地とはなかなか決めにくい。
推古が大和の額田部首長のもとで誕生し、乳母としたためにこれを諱にしてある。
ただし、推古が実在したか、大和の姫だったか、などは記紀史観をはずしてしまえば実はわからないのである。
記紀の伝承はあくまでも大和朝廷中心主義史観で書かれており、これに頼り切った過去の歴史観は改められる時代に入っている。
 
 

<阿蘇神社由緒略記>
【御主神健磐龍命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元七十六年春二月阿蘇に下られ草部吉見神の娘阿蘇都比命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て阿蘇の国土開発の大業を始められた。当時大湖水であった阿蘇火口湖を立野火口瀬より疎通し阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(七月二十八日の御田祭神事の起り)。

 また歳ノ神を祭り(三月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
 
 業成っては阿蘇山麓に大巻狩を行い鳥獣の害を除き(九月二十五日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い中昔源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した。祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり現今国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ十一世紀以降肥後一の宮と仰がれ肥後の国熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。国土の開拓とはただ産業の振興のみならず吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。

 第七代孝霊天皇の九年六月御子速瓶玉命に勅して大神を祭られたのが当社創建の始めで平成三年より二、二七三年前であり、第十二代景行天皇の十八年惟人命に勅して特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。
 
◎皇室 国家の尊崇第五十三代淳和天皇(弘仁十四年)、従四位下勲五等に叙し健磐龍命に封二千戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正二位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年一代一度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く肥後の国の一の宮とせられた。
爾来禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時阿蘇神領を没収し改めて天正十五年三百町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。明治四年五月国幣中社、明治二十三年四月官幣中社に、大正三年一月官幣大社に列せられた。
 
 

阿蘇神社十二神一覧
十二神 祭 神 内容
 一の宮 健磐龍命    阿蘇大神(神武天皇の皇子神八井耳命の御子)
 二の宮 阿蘇都媛命   阿蘇大神の妃(草部吉見神=日子八井耳命の娘)、(日子八井耳命系)
 三の宮 国龍神・吉見神(日子八井耳命) 二の宮の父神で草部吉見に住む。本宮は草部吉見社
 四の宮 比御子神  三の宮の妃(日子八井耳命系)
 五の宮 彦御子神   惟人命または八井耳玉命で甲佐宮に住む(国造速瓶玉命の第一の御子)
 六の宮 若比神   五の宮の妃
 七の宮 新彦神     三の宮の第一子。国龍神の弟。(日子八井耳命系)
 八の宮 新比神   七の宮の娘神(日子八井耳命系)
 九の宮 若彦神      七の宮の御子(日子八井耳命系)
 十の宮 弥比神    七の宮の妃(日子八井耳命系)
十一の宮 国造速瓶玉命 阿蘇大神の第一子。本宮は国造神社北宮。
十二の宮 金凝社     綏靖天皇(第二代天皇) 諸神社3132社。
 「阿蘇郡誌」による 
 
 
●健磐龍尊は叔父のカムヌナカワミミノミコト(綏靖天皇)の支配する大和の地(山城国宇治)を避けて且つ、祖父(神武天皇)の故郷である九州に行き、祖父の兄(ミケヌノミコト)が支配している高千穂を避け、阿蘇の地に新天地をつくりました。(日向神話)
 
 
 
●健磐龍尊は草部の豪族であった国竜吉見命の助力により阿蘇を開拓したと伝えられる。
 
●速瓶玉尊
国造の祖---国造本記
速瓶玉尊は水神を意味します。中道古墳群と北山の間に鹿漬川が流れ熊本平野へ続いています。
 
●火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連及び科野国造等は同族(国造本記)
吉見系阿蘇氏と国造家が阿蘇氏系譜に付け加えられた存在であることがこれらから見えてくる。
 
 
◆氏族
阿蘇氏と一口で言うが、氏族というものはあとからどんどんほかの氏族や部が編入され、加担し、さらに吸収され、かつまた滅ぼされて帰順することなどでふくらんでいくものである。さらに中世以後は、阿蘇に入った菊池氏などの在地豪族としての阿蘇氏との姻戚関係を結ぶなど、無関係な外来氏族や、全国国司たちもそうだが、勝手な系譜参入などは当たり前である。これでは私は阿蘇氏であるなどと今言っても、どこまで古代の本家に関係したのか怪しいものになってしまう。それは特に藤原姓や秦姓を名乗るものが日本で一番多いこととも関係する。要するにその時代、その地域の重要氏族には、あとからどんどんえにしを求める「他人」が入り込むのである。もちろんそのほとんどが元は無関係な氏族だったのであり、さらにほとんど大半は部民として氏族に支配されたものどもの子孫なのである。
 
ではこれでは氏族分析など無意味ではないか?と思われるだろう。ごちゃまぜになったり、断絶してあとを他人が受け継いだのなら、古代氏族が今に正統な残存をしている可能性は皆無となってしまう。それこそが天皇家が万世一系ではないはずだということの証拠になるのである。特に中世の戦国時代などは、どんどん氏族も武家も消えて行き、雲がよければ代替わりして今に到るのである。
 
では阿蘇氏とはどう把握すればよいのか?

まず古代阿蘇氏と中世阿蘇氏を頭の中で完全に切り離す必要がある。
古代阿蘇氏ですら、社伝が言うように、さまざまな系譜が加わったことが明白である。
吉見系に限らず、12の神々のほとんどは阿蘇氏に加担した在地の外戚の神である。
国造家は中央派遣の知事である。これは中世武家も同じで、氏が同じだからといって他人である。
そもそも阿蘇国造が「阿蘇神社阿蘇氏」に入るには始祖神を名乗る、あるいはその子神の子孫と言う必要が生じる。

もっと言うならば阿蘇神社阿蘇氏よりももっと古い阿蘇一族がその前に在地にはあったはずである。
それが草部吉見系である。
 
『古事記』もいわゆるタケイワタツの系譜つまりカムヤイミミとは違う「ヒコヤイミミ」系譜を認めている。
このヒコヤイミミ系譜が熊襲あるいは日下部の系譜であろう。
国造は大和の額田部氏であると見られる。ならば額田の大野にある野津古墳群や大野窟古墳も額田部氏ではないかという件が出てもおかしくない。
 
 
 
●多氏
阿蘇氏のどの部分の氏族がでは多氏直系なのだろうか?それはまた別記することになるだろう。
 
 
 
この分析に関連する遺跡・社寺
人吉市青井阿蘇神社
高森町草部吉見神社(日子八井耳命墓陵比定地)
阿蘇市中通古墳群(阿蘇国造氏墓陵推定地→長目塚古墳)
阿蘇市手野阿蘇国造神社
阿蘇市阿蘇神社
上の園古墳群 熊本県阿蘇郡高森町高森上の園・穿戸
熊本県上益城郡山都町伊勢旅草
上益城郡山都町 幣立神宮
城南町 塚原古墳群
 
久留米市の吉見山があり、熊本の御井に高良山がある。
 
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「こうら」=かわら=石灰岩・花崗岩である。
 
中世阿蘇系譜に三上氏がある。近江の三上山の古墳群には阿蘇ピンク石石棺があり、甲山という。
甲は「こう」で、これも石灰岩か花崗岩であろう。息長氏同族。継体系譜。
 
オオホド王と
 
大伴の名に負う靫帯びて 万代に恃み(よろずにたのみ)し心いづくか寄せむ   大伴家持・万葉集
久米部は熊襲
刑部は忍坂媛の名代部。それが葦北では靫負。刑部の靱負部アリシト=葦北国造=あらひと=現人=香春町現人神社=ツヌガアラシト=敦賀国造=秦氏
忍坂媛の兄はオオホド王。その子供は継体大王。今城塚古墳には阿蘇ピンク石が。
額田部媛は推古天皇、その墓にも阿蘇ピンク石。
 
 
いよいよ複雑怪奇な阿蘇氏である。
 
さあ!?あなたならどうする?
 
 
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阿蘇大観峰から臨む阿蘇連山
 
 
 
とにかく行って見てくることだよ。雄大な阿蘇へ!!
 
 
 
 
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万葉集で古代を語る1 東歌 葛飾と渡来工人

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可都思加能 麻末能手兒奈乎 麻許登可聞 和礼尓余須等布 麻末乃弖胡奈乎
かつしかのままのてこなよ かつしかのままの井みればたちひらし 水汲ましけむてこなしおもほゆ
万葉集 巻9の1808   高橋虫麻呂
 
可豆思加乃 麻萬能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
 かつしかの ままの うらみを こぐふねの ふなびとさわぐ なみたつらしも
 
万葉集には東国の歌が非常に多い。
いわゆるあづま歌である。

その中でも、葛飾を詠んだものがたくさんある。
葛飾は今は東京(武蔵国)東部の地域名であるけれど、奈良時代には千葉県(下総国)市川市、船橋市あたりまで含めて葛飾である。

枕詞「かつしか」のあとにだいたい「ままの」とくる。
「真間」は葛飾の港の名前である。
 
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船橋は今巨大なショッピングモールなどが有名だが、往古はもちろん加古(あま)が漁に出て行く港町である。これは東京ディズニーランドのある浦安も同じだった。
 
千葉県の房総半島南部には縄文遺跡も多いが、弥生時代の海食崖墳墓も多く、海人族が銚子や三浦半島や東京湾岸に多数来ていたことが知れる。
 
東国に和歌が多いのは、考古学の墨書土器が関東で一番出てくることとリンクしている。
その理由は明確で、関東が渡来人の部民が多く入ったからである。
これが貴族クラスが多ければ、それほど文字や日本語(大和言葉)を勉強する必要もなかったかも知れない。
だが東国へやってきた渡来人は多くが工人たち技術者で、日本語の書き取りや読み取り、会話に慣れていない。

だから文字と言葉を必死に勉強したのである。
和歌を多く詠んだのも、そういう日本語勉強の一環であろう。
こういうことを書く人はあまりないようで、森浩一『萬葉集に歴史を読む』でも、渡来人にまでは結びつけていない。
 
畿内ではインテリ渡来人たちが書記・通訳として宮中に採用され、上代仮名遣いが生まれる。彼らは逆に、従来の日本語を表記するために朝鮮での音韻を取り入れて表記した。そのために記録の中の日本語は仮名の数が非常に増えてしまう。つかいかってが悪いのでやがてこれは衰退し、今のような五十音におさまったのである。
要するに上代仮名遣いの仮名の多さ、朝鮮音というものは、一時的な宮中だけのブームで終ってしまうのである。だからここから日本語が朝鮮語から生まれたと考えるのは意味が無い。あさはかである。
 
もちろん渡来人が来たのだから、外来語としてのさまざまな専門用語は当然入って定着した。技術者が来れば当然、専門用語は当事者のお国の言葉になる。医療用語がドイツ語が多いのと同じことである。そして地元の先住者もそのほうがいいと思った言葉は取り入れる。しかしそれは全部、「基層語」ではない。「食べる」「さかな」「やま」など、最初からあったような基本的言葉には朝鮮語はまずもってほとんど使われてはいない。
 
関東は縄文人と南方から北上した海人族とが和合していた土地で、いくら渡来人が入っても、そうした基本的な日本語は変わらないのだ。つまり日本語の基層には彼ら縄文と海人=島人が大きく影響して、全国的にそうである。朝鮮語とまったく違うのは上代仮名遣いが使っていたような難しい発音が全部淘汰されてゆき、母音がつくはっきりとした言葉だけ(50音)が残ったことである。これはオーストロネシア言語という基層言語に共通したことで、ハワイやトンガなどもやはりそうである。
 
東国で和歌が最も多いのは上野国、群馬県である。
さまざまな渡来人が入っている。多胡という地名があるくらい多かった。わざわざ土地を割譲してやっている。
「胡」の文字をペルシア人のこととか言う人が群馬県には多いけれど、それは中国での漢字の意味ではあっても、日本では漢字の意味にいいかげんなところがあって、呉と書いてあっても中国南部とは限らず朝鮮南部も「くれ」である。「唐」も「から」であるから朝鮮につかっている。「高麗」も高句麗にも高麗にも使う。朝鮮でもこれは同じようなことがおきている。つまり漢字の母国では一文字の意味にこだわって使うが、輸入した国では割合ゆるい使い方をするので、多胡は渡来人が多いところという地名になる。けして西アジア人が山ほどいたわけでもないし、秦氏が大月氏国から秦国にはいってやってくる証拠にはならない。
 

関東の渡来人には畿内から派遣された土木工人、開拓要員もいたが、単独で高句麗や新羅から来たものも多かった。つまり帰化しないでやってくるやや「ざっかけない」人々である。許可なしでくるのは、要するに本国での紛争などで住めなくなっての逃避行渡来である。そういう人々が日本海から日本アルプスを抜けて北関東や信州や尾張・三河・駿河・伊豆・相模・越後などに三々五々入ってくる。

国はさまざまである。だから共通語はどうしても日本語にならざるを得ないのである。
東京で、よくロシア人とイギリス人などが立ち話しているのを聞くと、日本語でしゃべっていることはよくあることだと思う。
 
ところで「かつしか」という地名は「かつ」が「勝」で渡来人族長、「しか」は海を渡った人のステータス地名であるかと感じる。

葛飾で「生まれも育ちも葛飾です」という人はそのころ探すのが大変だっただろうと思うスミダ(川)。
 
 
たまにはやさしい古代史も書かないとね。
 
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転載・全国那珂・那賀・名賀・中・仲郡の分布図と海人族居住地

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全国なか地名の分布(古代律令体制下での地名)
「なか」地名と海人族

◆那珂郡(なか・の・こおり、なが・の・こおり)
日本本土最古の「なか」地名は那珂郡(筑前国)福岡県福岡市博多区・那珂(中)川沿線・弥生時代奴国存在・奴の津由来であろう。「な」は難波の「な」である。波が強く航行に難儀する海のそば。

海部郷の記録(律令体制下での表記で宗像郡・那珂郡・怡土(いと)郡に相当する)。

安曇族・宗像族の集中する記録上日本本土最古の海人集団発祥地。
壱岐・対馬を中継地として広く大陸と交流した最古の船人であり、貿易者であり、漁師であり、海中に水没する海士たちの日本一の密集地。
安曇、久米、宗像海人族などがいた。しかし管理者としての海部氏族の記録はまだ見つかっていない。3世紀後半の『魏志倭人伝』記述まで遡れる全国まれな地域。「倭人」。「魏志」は女王国の一大率という国際迎賓施設を伊都国に置いていたと書く。つまり倭人伝に描き出される倭人像とは、とりもなおさずまず伊都国、あるいは奴の津を挟んだ西側の奴国の倭人の記事であると推定してよいだろう。その倭人の風俗はまさしく海人族の風習である。
律令下では東の岡県主(おか=おんがの・あがたぬし)と力を二分する伊都県主が管理。これ以外に海の管理者である海部があったはずだが氏族名が記録に残っていない。一時的に勢力を持つ宗像氏が管轄したか?
弥生時代には中川を挟んで西側は甕棺墓地帯、東側は周溝墓地帯であるから奴国と伊都国は種族が違った可能性もある。こうところから見て伊都国と奴国は中川を挟んで隣接していたとも考えられる。

彼らの派生元を想定するに玄界灘に浮かぶ中継地・壱岐・対馬(魏志の一大國・對馬國)であろうか。日本最古の海人族所在地と見られる。

※※※つまり「なか」地名の震源地は玄界灘である。(更に追求を要す)

「なか」は「なが」と濁るところもあり、表記も「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」などと多岐に及ぶ。

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律令体制化以前の奴国・伊都国の県主。

◆なか・なが地名と海人族、海部の関係一覧
発信地
●筑前国那珂郡  福岡県旧奴国・伊都国の奴の津=博多湾

太平洋側
●日向国那珂郡  
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 宮崎県佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域だが南北那珂郡があった。笠沙の岬と都井岬の馬が有名。曽於君の勢力が強い地域なので肩身が狭そうである。持田古墳群近し。米良街道を北上すると西都原古墳。これらの古墳群の中で前方後円墳を持てるとすれば海部か阿多隼人の曽於君しかおるまいか。5~6世紀の古墳群なので、倭五王時代のものである。宮崎県には装飾古墳が少ないので、しかし海人勢力としては弱い。

●讃岐国那珂郡   
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香川県。旧伊予国で途中から讃岐郡に分離。ここは吉備海部との深い物資交換の歴史あり。目前の瀬戸内に浮かぶ小島を一手に引き受けている郡であるから、まず海人地名。
♪まわれば四国は讃(さん)州なかのこおり 象頭山金昆羅大権現・・・と歌にあるように金毘羅大権現で有名。サンスクリットの海の神クンピーラ由来の信仰。
海郷(大内郡山田郷)が置かれた場所とは違うのが注目点。


●阿波国那賀郡  
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徳島県南部の高知県に隣接する忌部族(氏ではない)由来地名。唯一海岸部ではなく、山間部で、何か訳あって内陸に隠れたのであろう。隣に土佐物部(ものべ)部落あり。

●紀伊国那賀郡  
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和歌山県。ながぐんと濁る。海部郡・名草郡の奥地。キーワード熊野水軍。粉河寺。皮田。大古墳群多数倭五王時代。紀氏所管であろう。大伴部がいた記事あり。長忌寸意吉麻呂は紀伊国那賀郡を本拠とする長氏の出で、東漢(やまとのあや)系の渡来氏族
直(あたい)から天武11年 ...

大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)すと 網子(あご)ととのふる 海人(あま)の呼び声(こゑ) (3-238)

名草、海部、ながは海人がいたところということ。

●伊勢国(伊賀国)名賀郡 
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三重県。一時的に伊賀国。名張町と合併。鈴鹿山地国境にあって所属が決めにくかったようだ。
同じく濁る。伊勢海人族。記録に「名賀郡は伊賀国に、度会郡は伊勢国に、それぞれ属す。」とあるから伊賀国だった時代があったようだ。
観阿弥・世阿弥出身地・・・つまり杉の木服部一族(海人系秦部?)のいたところということになろうか。忍者の里。松尾芭蕉。徳川家康の脱出。

●伊豆国那賀郡
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  静岡県伊豆半島西部。中郡、仲郡、那可郡ともいう。大宝元年(701年)から和銅3年(710年)までの間に、仲郡が成立し後に那賀郡。鴨郡、田方郡に隣接。いずれも海人地名である。漁師町。

●相模国中郡
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  神奈川県西部、秦野市周辺。寒川神社六摂社のひとつ寒田神社(ヤマトタケル)あり。中世には波多野氏の管理地。「さぶた」はサビから。製鉄地名。

●武蔵国那珂郡  
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 埼玉県本庄市(児玉町秋山、児玉町小平)及び児玉郡美里町(大字広木、駒衣、中里、古郡、甘粕、木部、白石、猪俣、円良田)がここ。ここはさきたま古墳群のオワケの一族か?秋山村があったらしくこれは縄文蝦夷地名だろうか。荒川(旧利根川)最上流で秩父に隣接。船の資材である森に遡上して炭を焼き製鉄し船クギを得ただろうが、途中でオワケ氏族と関係したか?ワカタケル時代にはすでにそこにいただろう。

●常陸国那珂郡 
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 茨城県。現在「仲郡」ここの息須(おきす)神社に相模の仲郡から来た寒田郎子(さむたの・いらつこ)という地名記録がある。寒田地名は確かに神奈川県西部の秦野市にあるのでそこも記録にはないがかつての仲郡であろう。

日本海側
●石見国那賀郡
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 島根県石見地方中部浜田市周辺。石見国府所在地。海直(あまの・あたい)管理地か?
江の川は唯一中国山地を越える川である。重要。安芸国=広島県と深く関わる。間に出雲を挟んでの敵対なのかどうかは不明。

●丹後国中郡
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  京都府大宮町・峰山町周辺。丹波道主(のちの丹波国造か)の娘で記録では崇神の妃である竹野姫に関係する。旧たには郡。「たには」は丹波。谷の端か?山が多い。丹後半島。近くの海岸部・岩滝町に太田南遺跡群。紀年銘鏡。となりの竹野町に著名な前方後方墳あり。網野銚子山古墳は間人姫か竹野姫か?
「中」表記には字義通り「真ん中の」意味がある地域もあろうかと思う。
1 網野銚子山古墳   竹野郡網野町網野    前方後円墳   中期  198m
2 神 明 山 古 墳   竹野郡丹後町宮     前方後円墳   中期  190m
青龍三年(235年)紀年入り、日本最古の方格規矩四神鏡が著名。青龍は魏の年号ゆえに、ヤマトや九州よりいち早く単独で朝貢していた地方豪族のいたところと理解。近くに天橋立、加悦町、与謝町。宮津市の北部。ここは半島伽耶国由来地名。逃れてきた渡来氏族と見た。筆者長い滞在(峰山半年、宮津半年)の経験あり。



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「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」は表記の年代別の変遷にすぎず、意味はみな同じであろう。
諸説あり
サンスクリットのナーガ=太陽信仰と関わるヘビ=オロチから。
郡と郡との真ん中に位置するから。
波が荒く難かしい海に面した場所。
奴国の勢力の移動居住地。
など。

このほかにナガスネヒコ由来で、群馬の仲曽根や大阪の曽根、沖縄の仲宗根などの大元地名などというおもろい説もある。じうれにせよ縄文時代からあった古い地名であろうから、語源を探れば大陸をどこまでもたどれそうな地名。

朝鮮語起源や中国南部の長江文明起源もあるだろうが、遡ればこれらの地名にも必ずまだ大元はあるはずである。手近の類似で決め付けるのは早計な論理。古代はもっと視野を地球規模にする必要がある。

◆なかとなが
濁るところと濁らないところがあり、「なが」と濁る地域には共通項が垣間見言える。濁る濁らないは地方色で、そこにいた民族特性であろう。
熊野、伊勢、武蔵、北関東で濁るようである。
一方濁らない地域はおそらく大陸系(中国・半島)の音訓であろう。

韓国語で那珂は「ナカー」と発音する、ところが那賀・名賀になると「ギリー」に変化。中は「ジュンあるいはエイ」。仲は「サイ」でばらばらになってしまう。つまり「なか」地名は半島語由来とは見えない。
それが中国語として同じ単語を入れて韓国語変換してみると、またまったく違う音になる。
現代音声ではなにがどこなのかさっぱり難しい。やはり現代語ではまったく比較にならない。

「な」の大元表記は「灘」ではないかと思う。
兵庫県灘市は「なだ」と読むが、大分県杵築市奈多は「なた」と発音する。半島系在日の人は「なだ」を、「濁らない!」と怒る人が多い。「なか」も濁らないのは半島海人族の発音だろうか?

灘は荒い波を表す文字であろう。
神戸市灘区の対面する海は狭い海峡で波が早い。それでここに来た倭直一族=椎根津日子子孫たちは速水瀬戸と呼んだ。この「はやすなと」というのが神になって「速吸比売」はやすなとひめ として大分県の北海部郡佐賀関半島の突端に祭られているから、両地域は同じ種族の海人族だったと想定できる。ここにはちゃんと椎根津日子神社もある。だからヤマトの古い氏族である倭直・倭国造氏は東九州から来たと想定できる。

灘の津が博多湾と大阪湾の古い呼称である。
大阪湾を住之江と呼ぶが和歌の古い表記では「墨の江」となっている。
葦が生い茂りそれがバクテリアを放出し、鉄成分を集めると、当時汽水湖だった河内湖は墨のように黒かったと考えている。大阪府花は葦である。
波が荒くて容易には近づけない湾どが「な」である。それに意味がわからない「か」がつく。
「なた」ならばあら波が多いと理解できるが、「なか」とは?
辞書で調べると
中・・・ナ・カ   ナだけで中、カは国の中心部、河川と河川の中間の土地と出た。

中心部ではそのままであって中で充分事足りる。奈良時代に二文字表記指令が出ている。それでよい文字でそれぞれの土地で勝手に表記は決められた。
河と河の間は普通河内である。河の中流域なら理解できそうだ。しかしほとんどが海岸部にあって海人族地名なら灘のほうがふさわしかろう。まあ、保留にしておくとする。
鴨郡が同時存在する地域多し。これもヒントになりそう。
 

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東海系パレススタイル土器・S字状口縁台付甕の分布と狗奴国版図推測・纒向は狗奴国の王都

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纏向遺跡で大量に出土したことで有名な東海系土器の中で、ベンガラによる彩色をほどこされることの多い
「パレススタイル」土器と言う物がある。
 
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中でもS字状口縁台付甕(北陸地方では「くの字状」とも言う。さまざまの分類があり愛知の八王子遺跡の名をとって八王子古宮式土器とも言う)というパレス式土器の下に小さな台を持つ甕の全国分布から狗奴国が尾張地方にあったと言う説が昨今、愛知県の研究者から出てきている。NHKの歴史番組もこれを取り上げたことで、一躍、邪馬台国所在地問題が紛糾しはじめた。話ではこの甕は九州からも出たと言われているのだが・・・。
 
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◆S字状口縁台付甕(くの字状甕・八王子古宮式など多種存在)分布地一覧
●愛知県濃尾平野一円の遺跡・古墳・方形周溝墓から出土
一宮市朝日遺跡・八王子遺跡・古宮遺跡
清須市廻間遺跡
名古屋市北区中丸町志賀公園遺跡
愛西市鵜廻遺跡など
西尾市
大口町
西上免遺跡
など多数
●愛知以西の分布地
三重県松阪市阿形遺跡・四日市市・亀山市・鈴鹿市十宮古里遺跡など各所で
岐阜県養老郡養老町橋爪 象鼻山古墳群や本巣市、各務東山遺跡・加佐美山1号古墳などで多数
滋賀県湖南・湖北地域で多数
奈良県桜井市纏向遺跡・秋津遺跡で東海系パレス式土器として多数
京都府向日市など
兵庫県揖斐川沿線
福井県福井市栗森町寄安遺跡など
石川県
富山県富山市今市遺跡
四国・九州・山陰・山陽各県検索ヒット見当たらず

●尾張以東の分布地
静岡県伊豆地方狩野川河口部、浜松市引佐町など
長野県松本市弘法山古墳・長野市籠沢遺跡などで多数
山梨県笛吹市宮ノ上遺跡・甲斐銚子塚古墳など一円で多数
栃木県小曽根浅間山遺跡など
群馬県前橋市波志江中宿遺跡・太田市道原遺跡2号方形周溝墓など
茨城県石岡別所遺跡・二の沢AB遺跡など
東京都世田谷区堂ケ谷遺跡・江戸川区上小岩遺跡など
千葉県国分寺台など東京湾沿岸で
埼玉県熊谷市大字東別府字一本木遺跡、東京電力?特別高圧送電線路鉄塔用地内遺跡など
神奈川県相模湾沿岸真間、高座郡寒川町倉見川遺跡など多数
新潟県
 
 
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九州南部から出ることを期待しながら検索したが、残念ながら今回はヒットしなかった。
 
 
尾張様式とされるが、森浩一は『地域学のすすめ』2002のなかで、パレス式土器は熊本球磨地方の免田式土器とともに重要であり、伊勢湾全域=三尾勢(さんびせい=三河・尾張・伊勢地方)全体における尾張氏・海部氏に関わる重要な土器であると書いている。
 
その分布はごらんのように太平洋側にベルトのように広がり、非常に重要なことは東海系で多い2世紀頃の方形周溝墓→前方後方墳→方墳地帯とのリンク、多孔銅鏃とのリンクを示している。
 
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茨城県の二の沢遺跡の弥生時代の方形周溝墓は前方後方墳への変化を見せている
 
 
◆前方後方墳は方形周溝墓から始まる
方形周溝墓は近畿から東海、関東へひろがっており、九州でも熊本県や大分県の大古墳によりそうように出土し、そこの大古墳の被葬者たちの祖先にあたる人々の墓であると推定されている。
 
弥生時代の方形周溝墓は尾張地方では高塚を持ち、「橋」を持つようになって巨大化してゆく。つまりそこから前方後方墳が出来上がったと考える研究者が関東を中心に多い。このことは数度に渡ってここでも図解している。
 
その墳墓様式とS字状口縁台付甕とがリンクしている。
 
 
 
 
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◆分類
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◆パレス式のベンガラと高師小僧
ベンガラは鉄成分の多い土壌で発生するカツ鉄鉱と言われるものである。これは熊本県の阿蘇地方に多いが、
リモナイトと呼ばれる。ほかにも種類はあるが、尾張三河地方では高師に、カッ鉄鉱を集めるアメーバの多い池があり、地名を取って高師小僧と言われている。
 
この円形ドーム状の塊は奈良時代には薬とされ、王族の漢方薬でもあった。
 
パレス式土器に使用されたベンガラが、そういうものから採集されたことは想像に難くないだろう。
 
 
 
◆尾張氏は狗奴国王か?
この問題を解く鍵は記紀の神武東征にある。
神武はなぜ淀川や紀ノ川を遡らずに、わざわざ遠回りの熊野へ行ったのか?にすべてのヒントが集約する。
そこにいたのは尾張氏の先祖である高倉下であり、彼が神武に渡したのは物部氏の神剣だったとある。
 
紀伊半島熊野を回ればすぐに伊勢湾である。そこは尾張氏・海部氏の本拠地なのである。これはヤマトタケルの熱田訪問や、天武天皇の尾張勢力・海部勢力のそれぞれ援軍とまったく同じ、東海・東国の力をかりるための遠廻りほかなるまい。
 
熊野も伊勢も尾張勢力の版図だったわけで、これは畿内で同族だった物部氏(ニギハヤヒ・ナガスネヒコ)への裏切りになる。
 
そうすると神武は日向を出るとき、そこに尾張氏がいることをある程度、塩土翁から聞いていたといえるかもしれない。であるならば尾張氏と海部氏は南九州に行くことがあったのであろう。だから鹿児島や宮崎からもS字状口縁台付甕が出てもおかしくないことになる。
 
 
尾張地方には隼人の祭祀廟があり、知多半島には「はず」という地名があって、これは大隈隼人の女族長の名前である「はず」と同じである。
 
また尾張衣の君(えのきみ)という豪族は、そもそも出自が南九州だったと考えられる。
 
であるから、南九州の海人族と熊野から尾張地方の海部氏族は同族、あるいは同盟であって、狗奴国の版図を尾張・伊勢にしぼりこまずに、筆者は日本列島の太平洋側の関東までに推定きた。
つまり南日本である。
 
 
 
 
 
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これが狗奴国の勢力圏ではあるまいか?
邪馬台国は北部九州にあろうが、大和にあろうが、「卑弥呼(狗奴国の襲撃を)以って死す」だったわけであるから、まず畿内に最初の国家を作り始めたのは神武=狗奴国王だったはずであろう。
 
邪馬台国の重要な氏族であろう和邇氏は天理市から近江湖西地域へ移動している。そもそも卑弥呼が魏に朝貢したのは、それまで深いえにしを持ってきた呉越と、北東部の北魏(燕)が滅びたからである。どちらもが神仙思想=「鬼道」の伝承地なのである。華北はそうではない。背に腹は変えられず手のひらを返したのである。
 
崇神は3世紀ころのこととして『日本書紀』では、宮中にあったアマテラスと大和大国魂の神を、それぞれ倭国造に命じて放逐し、代わりに大和大物主を急遽祭った。大物主とは出雲の神大国主でもあるが、要するにうらぎられた氏族の神だったに違いない。敗北したから祟る神になった。だから鎮撫せねばならなかった。しかもアマテラスも倭大国魂も、先の王である邪馬台国の太陽と海の神だったのおである。だから入れ替えてしまうのだ。
 
同族だった尾張と海部に裏切られたのは物部氏である。ところが物部氏が出雲に流された(殺された)のではなく、流されたのはナガスネヒコだけだったのである。ニギハヤヒは帰順し、ナガスネヒコを殺すのである。この先住縄文的な勢力は、やはり海人族である久米か安曇か隼人であろう。なぜなら神武や尾張や海部は球磨族だったからだ。
 
まず安曇族であろうと思うのは、近江の湖西の安曇川に、鴨一族がいるからである。ここの鴨にオルドス式短剣や鴨稲荷山古墳がある。そして和邇氏と小野氏はそのすぐ南に入っている。敗北者がここに押し込められた。
和邇氏が敗北したと考える理由は、飛鳥時代の聖徳太子が小野妹子を遣使として送ったけれど、国書をなくしたなどと書かれていることから、尾張氏などの葛城系南九州勢力が安曇系氏族を追いやった=狗奴国が邪馬台国に勝利したからにほかなるまい。
 
また天理市の和邇赤坂から彼らが消えて、燕との1~2世紀でのえにしを思わせる東大寺山古墳中平年号入り鉄剣が出たことも邪馬台国と北魏を関係を十二分に感じさせる。さらに言えば聖徳太子・蘇我派の時代に北魏様式の仏像が入り始め、これがすぐに新羅・百済様式になり、天武以後の白鳳天平時代にまた北魏様式が復活する。これは政権の二転三転を感じさせる。
 
 
また椎根津彦子孫である倭国造・倭直の大和神社、アマテラスの笠縫神社のそれぞれ場所移動も起きている。
 
狗奴国勢力と邪馬台国残存勢力の激しいせめぎあう激動期が継体天皇~磐井の乱~蘇我氏滅亡のあいだに二転三転することと極めてリンクしているのである。
 
こうしてみると、3世紀、纒向遺跡は邪馬台国の居城であるはずがなくなる。それは狗奴国が勝ち取って新たに建設した狗奴国の水垣の宮であるはずだ。だから東海系パレス式土器が大量に出て、巨大な水路がめぐらせてあり、さらに弧文という葛城・尾張連合のシンボルが出たのである。
 
あのしるしは、卑弥呼への鎮魂と、祟り神封じ込めの呪符であろう。
 
ということは当然、箸墓などに卑弥呼をほうむるはずがない。
 
アマテラス同様、もっと遠くに追いやったはずではあるまいか?
 
 
 
めざせ!20000
ポイント!
目的は10万ポイント
一位だ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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なぜ永遠のウズを断ち切ったのか?

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このように世界中で、どのような時代でも
人類は永遠を渦に見てきた。
 
 
ではなぜ日本の古墳時代の人々だけは、その渦巻きを断ち切ってしまったのか?
それを考える学者が誰もいない。
だからぼくは考え続ける。
 
 
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なぜ渦巻きを断ち切り、しかも×までしてしまうのか?
なにゆえに永遠の生へのあこがれは断ち切られた?
 
 
 
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宇津、珍、ウズ
 
 
 
 
 
 
 
 
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穴師/アマテラスはなぜ流されたのか?『日本書紀』のロジック

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『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
 
六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以治之。是以、晨興夕、請罪祇。先是、天照大・倭大國魂二、並祭於天皇大殿之內。然畏其勢、共住不安。故以天照大、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城籬。
籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂、託渟名城入姬命令祭。然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭
 
 
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なぜ崇神はこの二つの古くからの神々を宮中から出さねばならなかったのか。
その理由は、大和大物主という大和の水垣の宮近くの在地神が、祟りをなしたからであるとされている。
そのために最初は宮中のアマテラスを祭る巫女を大物主の嫁にして、祟りを治めようとしたが、大物主は正体を見られたことでいよいよ荒ぶるようになって手に負えない。つまりアマテラスではこの祟る神は抑え切れなかったのである。それは倭大国魂=椎根津彦でもだめだった。そこで仕方なく大物主だけを鎮撫せねばならなかったわけである。
 
さて、それは現実にはどういうことだったのか?
崇神にとって、アマテラスも倭大国魂も、ともに古い時代の神々だったということになる。崇神がみまきに入る以前の太陽信仰と地主神=祖霊信仰を追い出して、あらたな土地神を祭ったのであるが、その大物主とはいかなるモノなのか?
 
アマテラスを追い出すとは、崇神の前の王朝までの、つまり3世紀前半までの女神を殺す行為であり、王殺しなのである。ということは崇神は、3世紀半ばに起きたなんらかの政変によって新しく大和を統治した新興勢力であり、アマテラス信仰とは別の信仰を持つものだったことになる。
 
大物主とは崇神が入って滅ぼした相手の信仰を象徴する神である。それが三輪山にいた既存氏族だったことになる。ということは三輪山を本拠にした氏族となるので、物部氏しか考えられない。
しかし物部氏の祖であるニギハヤヒが帰順し、ナガスネヒコが殺された時代は、10代前の神武の時代であるはずだ。なぜ二度もそういうことが起こるのか?
 
それは神武とは崇神であるからだろう。
 
崇神こそがニギハヤヒを追いやった勢力だったことになる。
では神武東征はなんだったのか?
 
神武とは崇神の前の王家東征伝承として、崇神がやったことをあてはめた存在である。しかし実際に神武のような人物とは物部氏や、倭大国魂を祭る倭直(おおやまとのあたい)という先住氏族の王の東征なのである。これは大和朝廷の前に政権が二転三転、何度も変わったことを如実に表している。
 
崇神の三輪王朝が四代続いて15代目に応神が登場する。この王朝は大和ではなく河内にあって、三輪王朝とは別の王家である。三輪王家を乗っ取ってそれがまた大和に入ったのである。そしてまた継体以後、それが欽明によって飛鳥に移動する。そして天武が登場してアマテラス信仰が復活する。いや復活したように書かれるのである。
 
 
天武と持統が壬申の乱直前に鈴鹿山地からはるか伊勢のアマテラスを遥拝し、そして天武は勝利したのに、実はアマテラスはそのまま伊勢に置かれたままである。ということは天武がアマテラス信仰したというのは『日本書紀』の(不比等の)うそである。旧態勢力をとりこむための方便でしかない。
 
崇神は笠縫邑にアマテラスを追い出す。ところがアマテラスはその大和三輪に近い田原本町の笠縫から、また今度は東の穴師の山上に移動させられ、そこでも落ち着けず、各地を巡幸させられたあげくやっと伊勢におさまるのである。しかし持統の代でもあいかわらずの遠隔地住まいのまま。
 
持統という女帝を反対勢力氏族に認めさせるために、不比等は詭弁を使い、旧王家の女神信仰を復活したとして、女帝つまりおのれの意のままになる女帝を強引に認めさせたわけである。
 
大物主がアマテラスの鎮魂祭祀でもおさまらなかったのは、それが自分を出雲へ流した相手、姉だったからだ。
と書けばおわかりだろうが大物主という出雲神とはスサノヲだったからである。
 
スサノヲには先住氏族・敗北者としての大和における先住出雲勢力とともに、大和先住の縄文勢力や海人族や渡来氏族のイメージが同衾しているのである。それが敗北者としてナガスネヒコひとりに代表されたのだ。そのためにナガスネヒコの雇い主である物部氏は親分としてナガスネヒコの怨霊を管理・監視することで生き残る。
 
歴史上いつも直接やられるのは氏族よりも部民である。闘わされてまければ殺される。しかしその長は帰順し新王朝の片腕になる。寝返るのである。
 
 
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穴師坐大兵主神社
 
 
櫻井市の穴師(あなし)には今、穴師坐大兵主神社がある。穴師山から吹いてくる風、北西からの「あなぜ」を祀っている。しかしそこは大和盆地の東にあり、つまり日の上がるところである。だからアマテラスはここに置かれたはずである。今の笠縫は多神社や秦楽寺のある「秦の庄」であるが、そこでは日は昇らないから穴師へ動かし、それでは近すぎたのでたらいまわしされてゆく。そしてようやく日の昇るかなたである伊勢に落ち着いた。その後、海部の食事の神である豊受大神によって監視された。それを大和からも遥拝できるようにしたのが檜原神社だ。なぜなら帰順した旧王家勢力の再び裏切ることを恐れたためである。神を消し去れば彼らの怨念が復活する。そういう脆弱な信頼関係である。それがこの国の最初の王家の実態であった。
 
 ※穴師とは「あな」怖ろしい「風」という意味の地名。あなぜの風(あなしのかぜ)の「し」は科野の「し」であるので風である。北西から辰巳に向かう風をあなぜのかぜという。これは北西からの秋のモンスーンのことで11月の風で、それは=たたら風でもある。兵主とは武器管理者だった物部氏のことである。石上神宮門前にスサノヲと同じな前の神が祀られている。その出雲健神社こそが物部氏のそもそもの祖神出雲スサノヲであって、石上とは縄文の石神=ナガスネヒコで、諏訪の風の神と同根である。主祭神フツのミタマは軍事氏族物部氏のステータスだ。
 
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ニギハヤヒとは大阪の日下にいけば、東の山に石切剣矢神社があり、ニギハヤヒが彼らの「先の太陽神」であったことを如実に物語っている。日下は日の昇る場所。生駒山こそが日本国名の生まれ出る山である。さらに物部氏もまた多氏同様に、海人系=太陽信仰の人々であること、それを殺した聖徳太子・蘇我氏もまたその同族であること、それが南九州からやってきた神武氏族であることがわかる。
 
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風の宮である。そこに太陽神が置かれたのは、持統が科野に都を作ろうとしたことともリンクし、さらにはニギハヤヒが天照國照彦=先のアマテラスだったこととリンクする。
 
その海部氏と尾張氏が物部氏を裏切り神武についたとされる氏族である。敗北者を監視するのは、史上、同族だった氏族に決まっている。
 
倭直という東九州から播磨へ入った氏族は、つまり卑弥呼の男弟のことなのだろう。
 
のちの渡来氏族が倭の姓を与えられたときに倭直は大倭値と改名するしかなく、「おおやまと」=「大和」神社もまた今の場所に移された。そこはあの黒塚古墳のすぐそばである。黒塚古墳の被葬者こそが難升米だったからだろう。なぜならば黒塚からは、U字型パイプ状遺物が出る。それこそが魏が卑弥呼に与えた黄幡だからである。
 
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黒塚古墳出土U字型鉄製品
 
 
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中国の史書にある黄幡。キヌガサの下の飾り部分がU字型になっている。
 
 
なぜ黄色い旗指物なのか?
それは黄色が鬼道の色であるからである。黄巾の乱。
 
 
 
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倭大国魂神社もまたあちこちさせれた。
 
 
 

主観と客観/技術の過去と未来

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主観的技術に関してはあきらかに過去が上です。
客観的技術では現代が上です。
縄文土器は主観的技術にすぐれた人が造っています。
そして原発は客観的にすぐれた人が造ったはずです。

その結果が今です。
 
 
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どんどん前へ
過去を見ながら
前へ!
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石上布都魂神社から見えて来る邪馬台国同盟

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石上布都魂神社(いそのかみ・ふつのみたま・じんじゃ)
岡山県赤磐市石上字風呂谷
祭神 素盞鳴尊
吉備津彦神社とともに備前一の宮二社のひとつ
宮司は物部姓である。http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/isonokamifutsumitama/isonokamifutu.htm
 
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赤磐郡は岡山県の西端 岡山市に隣接。今、赤磐市。
有名なものに古代赤米を使った清酒「赤磐小町」(筆者試飲したが甘くてパス。一升で一万円と言うのでパス)。
 
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日本書紀第8段第3の一書『其素戔鳴尊断蛇之剣、今在吉備神部 許也』
同第2一書『其断蛇剣、号曰蛇之麁正、此今石上也』
とあることから、素 戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときの剣が本社の神宝であるとする

仁徳朝(崇神朝ともいう)に、当社の十握剣を大和の石上神社に遷したとの伝承があること
 ・明治7年に、石上神宮の禁足地から古墳時代(4~6世紀)の遺構から多出する環頭太刀(カントウタチ)が発見され、これが十握剣とされること(詳細下記)などからみると、古墳時代(崇神朝とすれば4世紀前半頃、仁徳朝とすれば5世紀前半頃)には創建されていたかもしれない。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/ichi-hutu.html
 

由緒
 創立年代を詳らかにすることはできないが、日本書紀に 「其素盞嗚尊断蛇之剣今在吉備神部許也」 と、また 「其断蛇之剣号日蛇鹿正此今在石上也」 と記されており、種々の論考がなされている。
 
 『備前國式内書上考録』(明治初年)に、
 「上古素盞嗚尊蛇を断の剱は当社に在事明らかなり。 其後崇神天皇の御宇、大和國山辺郡石上邑へ移し奉るとあれば当社を癈せられしとは見えず、又延喜式神名帳にも大和國と当國と両國に布都魂神社を載せられたれば、当國石上神社を大和國に勧請して地名も石上といいしならん。 さすれば当國の石上本社なる事も分明なり。 又、垂仁天皇の御宇に剱一千口を作りて石上神宮に蔵むとあれば、蛇を断の剣も当國にある事分明なり。 され共、神道次第に衰へ、石上ふるきむかしのことを知る人もなくなりければ、大守曹源公是をなげき給ひ、大松山村の内にして地高二十石を神領とし、祠官金谷肥後を旧姓物部に復して栄事を司らしめ、又其後宝永七年寺社奉行門田市郎兵衛貴通、作事奉行村瀬勘九郎俊重に命して宮殿を再造有りし。」 と記されている。
 
 『赤磐郡誌』(昭和十五年)には
「此の社の元あった風呂ノ谷山頂には、突几る巌角が露れて、見るからに偉大なる感にうたれる。 其の前に本宮と柵称する小社がある。 其の社後の神泉には、常に水をたゝへ、其の御水によって、參詣者は其の他の病を治する等、誠に神秘の感がある。 是れ等により、此の神社の起りは、其の山頂の巌角を目標とした原始的信仰による磐境として始まり、適々素盞嗚尊の御佩せの太刀を載いて、此処に小社を営みて、霊剣を納めて奉斎したものが、現在の本宮であらう。 崇神天皇の御代(仁徳天皇の御代とも)に至り、此の御神剣を大和國に遷させられ、此の宮は留守宮になった事となる。」 と推考されている。
 
 ただし、本宮の所在については、風呂谷の山頂(大松山)が有力視されているが、『備前國式内書上考録』には
 「大松山村の神社を石上布都之魂神社と決定られしは恐らくは違へるならむか。 如何にとなれば、本部ノ式外に天松神社、一本大松神社とある社を考たがへたるに実は大松神社なり。」 として、 「今般取調べたる中に宅美郷新荘村熊野神社とある。 当社元権現といひしを明治二年四月官許を得て熊野神社と改号す。 いと古き社にて宝剣を神体とせり」 と、又 「風土記に旗下里を石上布留の里と改むとあるを考ふれば、前にいへる新荘村よりは凡十町ばかり下に伊田村といふありて、同村八幡宮の当りに石上といふ田地の字あり。 またおなじ村に古へありし寺を今は隣村に移して旗降山極楽寺と号し、その村名を幡地山村と云ふ。 是等によれば布都之魂神社は伊田村に在しならむも知りがたし。」 と異論を載せているが、いずれも実証性に乏しいようである。
 
『石上布都魂神社略記』(昭和二十年頃)には
「古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞嗚尊が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇 (やまたのおろち) をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。 その剣を天照大神に奉られた。 また大蛇をお斬りになった剣を 「蛇の麁正」(おろちのあらまさ) 「羽羽斬剣」 または 「布都斯魂剣」 と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが当社の鎮祀されたおこりであります。 なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮(現在の奈良県天理市布留)へ当社からお遷りになりおまつりされております。

 備前岡山藩主池田光政公は特に、寛文年中に当社をご再興になりついで綱政公は延宝二年社領として二十石を、また宝永七年にご社殿を造営されました。(常時は山上にご建立)」 と記されている。
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file3/futumitama.htm
 


 
 
物部氏が河内・大和にやってくる前に吉備神部にいたことを証明する神社であろうかと思える。
 
布津御霊あるいは御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)
は物部氏に伝承される神剣。韴霊剣。蛇麁正(オロチノアラマサ)、天羽々斬剣(アメノハハギリノツルギ)、蛇韓鋤(オロチノカラサビ)、天蝿斫剣(アメノハエギリノツルギ)などの別称がある。今は大和の山辺にある石上神宮が保管とされる。

神話で素盞鳴尊がヤマタノオロチを切った斬蛇剣(ざんじゃけん)。『古事記』では十拳釼(トツカノツルギ)。『日本書紀』では「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」。
 
このとき尾から出たのは天叢雲剣(アメノムラクモ。のちに草薙劔クサナギノツルギ)であるが、これは尾張熱田神宮の宝剣。

(つまり物部氏の祖であるスサノヲが持っていたのが布津御霊劔で、それで切って出た草薙劔は尾張氏が持っていたということ。ということは物部氏と尾張氏には当初、近畿では同盟関係があったことになる)
 
 
天孫降臨では高天原から出雲へ降り立ったのは布津御霊とタケミカヅチ(中臣氏・藤原氏の祖神)となっている。
  
「ふつ」とは剣が空気を切り裂くときの音を表していると言われる。佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも言い、「ふつ」は物を断ち切る音を表す。とにかく別名が多すぎる。
 
 
この名前の剣はなぜかわからないが鹿島神宮(藤原氏の社)にも存在する。
おそらく物部氏を盟友としていた中臣・藤原という関係で、新たに造ったのではないか?
布津御霊神社の創建は、あくまでも記紀の記述に順じたものであるから、ここが「神部にある」という場所でいいかどうかは筆者には決めがたい。ほかにあったのかも知れない。

宮司の物部姓名乗りはあくまでも代々そうすべしという名乗りであって、代々宮司が正真正銘の物部氏血統であったかどうかは疑わしい。
 
『古事記』によると、素盞嗚命と天照大神(アマテラスオオカミ)が誓約(ウケイ)をして、天照大神が素盞嗚命の十握剣(トツカノツルギ)を三つに折って、天真名井(アマノマナイ)ですすぎ、噛み砕いて吹き出した息から生まれたのがこの宗像三女神、一方、素盞嗚命が天照大神の勾玉をすすぎ洗ったときに生まれたのが天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)をはじめとする五男神である。のちにこれを八王子と言う。東京や愛知に地名あり。
 
宗像の女神が兄弟のウケイから生じたという伝承は、つまり物部氏と宗像海部氏の関係を述べていることなろうか?ということは海部氏とは宗像氏が前身ということになるか?
 
 


 
丹後国造家海部氏の極秘伝によれば、一の宮籠(この)神社の主神・火明(ほあかり)命は、山城一の宮上賀茂神社の(賀茂)別雷(わけいかづち)命と異名同神であると言う。

『山城風土記』は「玉依姫が丹塗矢(にぬりや)を拾ってきたところ妊娠して子を産んだ。その子に父と思う人に酒を飲ませよ。と言ったところ、天に向かって杯を献げ、屋根を破って天に昇っていった。その子の名は賀茂別雷命、丹塗矢は火雷命である。」と書く。
 
『秦氏本系図』は「秦氏の娘が産んだ子は、戸の上の矢が父であるとして指差した。そして「雷公」となって屋根を突き破り天に昇っていった。鴨上社を別雷神と云い、鴨下社を御祖神と云う。戸の上の矢は松尾大明神である。」「松尾大社は、築紫胸形に坐す中部大神なり。」と書く。
 
胸形とは宗像である。
鴨氏の神が宗像にいるという。
そして鴨氏の神は火明命であると言う。
宗像神=賀茂別雷神=松尾神=火明命
これは同族関係を言っているのであろう。
物部氏、宗像氏、尾張氏、海部氏、秦氏の各地における政治上、軍事上の同盟関係が時代を追って存在したことになる。

しかしその同盟関係が決して神社社伝伝承の言うように、堅固な永続的なものだったとは言えまい。
TPOに応じてはつかずはなれずをしているはずである。
 
だから神社伝承からだけですべてを=にすることは無理である。
政略的婚姻などいくらでもあるのが普通である。
親戚とは言っても遠い親戚であろう。
 
 
 


 
 
石上布津御魂神社でも宗像神は摂社であり、またそこには武内宿禰も祭られている。
『海部氏系図』は、18世の孫の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)が丹波・但馬・若狭の海人を率い、神功皇后の新羅征伐に奉仕したと記し、『古事記』は難波根子建振熊命、『日本書紀』は武振熊を同時代の人物として挙げ、和邇氏の祖であると書く。

建振熊(たけふるくま)宿祢が但馬の海人を率いて新羅征伐に奉仕したとあるが、『粟鹿大明神元記』は神部直(三輪氏)が率いたと書く。伝承は複雑怪奇にからまってしまう。信用できない。

また、丹後は丹波国から分かれてできた国ですが、丹波国造家は三輪氏の祖の阿田賀田須命が和邇氏・宗像氏の始祖である。
 
 物部氏・和邇氏・宗像氏・尾張氏・海部氏・葛城氏系譜のすべて・三輪氏は同盟だとなった。
 
 


 
 
こう考えればいい。ここに出てきた氏族はもとみなひとつの連合体の傘下にあったと。
崇神はその連合体を打ち砕いて大和の盟主になった狗奴国王であると。
 
(もっとわかりやすくするのなら、邪馬台国を神武と見て、崇神を狗奴国と見れば二人の始祖王(はつくにしらすすめらみこと)の存在は単純明快になる。)
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太陽信仰論 渦巻きと円紋と霊魂再生

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84歳にして新著を出した大和岩雄氏『神と人の古代学 太陽信仰論』2012から編集
 
 
 
 
それぞれの壁画に描かれている渦巻きや円はすべて人や船につながっているように描かれている。
大和岩雄はこれらをすべて渦巻き・円紋=太陽=魂であるとしている。
 
1 は魂だろう。人物の祖霊のように見える。それが渦巻き=永遠の命という意味ではないか?
 
2 は珍敷塚古墳装飾。太陽に見えるが、なぜかもがり船とつながっている。
 
3 ももがり船である「太陽」はウロボロスの蛇で囲まれていて、太陽というより永遠の魂に見える。
 
2と3の船はともに舳先に黒い鳥がいて、一目でこれがもがり船だとわかる。また船には先が丸くなった柱のようなものがともに立っており、空の「太陽」はその柱につながっている。
 
問題はその柱のようなものである。
 
これは何か?
 
モンゴルからバイカル湖、またカスピ海周辺にはスキタイや匈奴が立てたポール墓という柱が立っている。地下には子供の屍骸が埋められている。その屍骸の多くはこれまで、砂漠の小動物によって食べてしまわれるのでほとんど出土がなく、墓だとは思われていなかった。ところがある地域で遺骸が出たことでポールが墓だとわかった。
 
 
夭折幼児に祖霊が宿るという死生観が、上記したアジア北部のステップ地帯に広がって、それは西アジア、バルカン半島とアジアをつないでいる。これがスキタイ民族の信仰である。そして縄文時代の日本でも、類似する石柱や木の柱が出る。だから縄文の死生観は西アジアから北周りできた民族の子孫であるかと思える。
 
 
 
柱に魂がやどる・・・。
降りてくる。という思想であるか?
 
するともがり船に立てられた柱もそういう「寄り代」ではあるまいかと気がつく。
 
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宝塚古墳出土船形埴輪に立つポールとV字型柱とキヌガサ
キヌガサは王族の印
Y字型石版は魔よけ、持衰の代わり
では左端のひときわ高い柱はなんのために?
 
 
 
 
太陽は祖霊のいる場所であり、そこに黒点があるのは黒い鳥として「太陽の使者」として死人の魂を運ぶ。
そして太陽にいる祖霊の霊魂をくわえて持ち帰り、新生児に降臨する。つまりヨミガエリの死生観である。
 
魂魄が引き継がれれば、それは不可能なはずの永遠の実現なのだ。
永遠の生はひとりの個人では達成不可能だ。しかし霊魂をつないでいけばそれは永遠に生きることと=になる。
血脈の永続である。
 
自然界で種が存続するとはそういうことである。
 
しかし科学では、その長い時間をつないできた種も、いつか必ず絶滅することがわかっている。そのように科学とは、客観性とは常に冷酷である。だから主観に生きる人々と、科学に生きる研究者との間には、ある種の言質によるトラブルが起きることも多い。「なぜ、そんな冷酷なことを平気で言えるのか、この罰当たりめ!!」という具合である。しかし現実はそうなのでしかたがない。
 
確かに、主観的考え方には科学的整合性はない。
しかし、そこには血脈への不合理に嘆く共感と、明日へ向かうための通過儀礼としての葬儀が生まれる余地があった。ひとつの区切りが必要だった。だから葬送儀礼は世界で大きくは違わない。悲しみは共感された。
 
太陽が生物に生命を与えることは古代人が、共通してどこでも夏至や冬至の日光を意識して墓を作ったことでわかる。日光の持つ霊的生命力が死者、あるいは新生児にいのちの息吹を与える・・・という日光感精神話も世界中にある。太陽光が夏至に差し込んでくる墓室も世界中にある。
 
それが渦巻きという永遠性ある絵柄に交差したのが円紋であろうか。
ウロボロスの蛇の絵柄はインドのヒンドゥ教で使われる哲学観念であるが、それがエジプトにまで伝わったのか、そうでなくエジプト人も同じことを考えたのかどちらであろう?
 
その共通観念を世界中に運んで行った人々がいたのだろうか?
 
いや、筆者はそれは海をつないで、伝わっていくものだと考える。
つまり海洋民族が出会い、伝播していき、淘汰され、結果的に非常に似た観念に仕上がった。
要するに人類の思いには大きな相違が無いと思えるのである。
 
 
諸氏はいかがでしょうや?
 
 
 
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ちょっと今頭を整理中

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ちょっと尾張氏のことでいっぱいである。
少し時間ちょうだい。
まいね。
すぐ戻る。
 
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尾張窯業の全国拡大と尾張・越前・若狭・丹後共栄圏と狗奴国そして織田信長と家康

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須恵器(器・硬質土器)
須恵器は朝鮮半島の陶質土器の系統に属し、その影響は初期の器形に色濃く表れている。須恵器の登場は日本陶磁史における最初の技術革新であった。すなわち、窖窯の採用、轆轤成形による量産、高火度の還元焔焼成などである。こうした朝鮮半島からもたらされた新しい製陶技術は、その源流が中国殷時代の灰陶にまで遡る。須恵器の生産地として有名なのが、大阪府南部の丘陵にひろがる陶邑古窯跡群であり、古墳時代の5世紀初頭からその活動が始まったとされている。その技術は、後に全国へと広がっていった。7世紀以降、中国や朝鮮半島の金属器を写した器形へと造形的に大きな変化を見た。奈良時代末に新たに出現した灰釉陶器や施釉陶器が流行するにつれ、須恵器生産は衰退の方向に向かうが、逆にその技術は後の中世陶器の基礎となった。中世の焼締陶器とともに、欧米のストーンウェア(Stoneware)に対応する訳語である器(せっき)の一種に分類される場合がある。
 
中世・近世の土器
6世紀頃から東日本では土師器の支流ともいうべき黒色土器が新たに出現し、また8世紀から須恵器生産の衰退した畿内以西でもその生産が始まった。とくに西日本では11世紀以降、その黒色土器の後身といえる、碗と皿を中心とした瓦器(瓦質土器)が量産された。土師器は中世になると供膳用の小皿や鍋・釜類が主体になり、これらはかわらけやほうろくなどとして中世・近世を通じて生産されつづけ現在にまで至る。
 
古代の陶器
日本における陶器の始まりは、7世紀後半に出現した緑釉陶器をはじめとする一連の施釉陶器である。いずれも中国や朝鮮半島からの影響という受動的なものであったが、そこには先進の文化を積極的に採り入れていこうとした、日本の古代国家草創期の活力と中国・朝鮮半島文化への憧憬が感じられる。
 
奈良・平安時代(538〜794)の陶器は三彩や緑釉を施した低火度鉛釉陶器と、高火度焼成の灰釉陶器に大別できる。前者は中国の唐三彩や朝鮮半島の緑釉陶器の影響下に生まれたもので、正倉院三彩に代表される奈良三彩や緑釉陶器という彩釉の施された陶器であり、当時「瓷」、「瓷器」、あるいは「青瓷(あおし)」と呼ばれていたことが文献から知られる。一方、後者の灰釉陶器は、8世紀後半から愛知県の猿投窯で本格的にその生産が始まり、当時「白瓷(しらし)」と呼ばれていた。これらが人工的な釉薬を施した日本で最初のやきものである。
大阪市立東洋陶磁美術館「陶磁の歴史」http://www.moco.or.jp/intro/history_j.html
 
 
 
 
 
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                               陶邑型須恵器
 
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常滑焼大甕
 
 
 
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越前焼大甕
 
 
 
 
 


 
 

陶器・焼き物と言えば代名詞なのが佐賀県唐津焼と並んで愛知県の瀬戸焼である。
古来、須恵器の開始と言えば、『日本書紀』崇神紀に登場する大阪泉州の陶邑(すえむら)に始まることになる。ここにはのちに三輪山の三輪を名乗った大三輪氏(おおたたねこ子孫)がいたわけであるが、南部の物部氏とは同族関係にあったと考えられる。その三輪氏の部としての窯業従事者は土を求めて拡散し、東海地方で常滑(とこなめ)焼などの、陶邑須恵器の源流を引き継ぐ陶器の生産体制を開くことになる。
 
尾張・三河の陶器生産はその場にとどまることなく、北陸福井・石川、瀬戸内広島、関東・東北宮城などへと広がっていった。
 
その中心地となったのが尾張・三河にまたがる猿投(さなげ)窯(豊田市など)である。その画期的な技術は釉薬である。日本で最初にここで釉薬が使用された。つまり尾張・三河地域は中国の技術を直接的に取り入れた陶磁器のオピニオンなのである。日本各地の焼き物技術はここを源流として広まることになった。豊田の自動織機などのはたおり技術とこれはリンクする。つまりトヨタ自動車が生まれた背景は古代からの尾張・三河工人=尾張氏が管理した渡来工人にある。
 
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猿投古窯(さなげこよう)で焼かれた埴輪が尾張最大の前方後円墳断夫山(だんぷざん)古墳から出てくる。
 
 

愛知では渥美窯・知多窯(常滑など)・瀬戸窯さらに岐阜の美濃窯が成立してゆき、そこから奥州平泉へも拡散。宮城県石巻市で渥美系工人が進出して水沼窯を開く。太平洋から北上川遡上コースの拡散である。
そもそも船の人である尾張・海部人々はこのように海を越えて拡散する。弥生・古墳時代からすでに彼らの全国拡散は始まっていたと思われるのは、遺跡や古墳から尾張系土器が広範囲に出土することでわかるのである。
 
代表的拡散地として福井県織田町、武生町、朝日町、さらに小松市などが上げられる。
織田町では越前焼、小松市では古九谷が存在し、総称して「加賀焼」と言われる。
越前焼の源流は猿投窯や常滑焼である。

この織田町にあったのが中世織田荘であり、そこから尾張に移住した武士があの織田信長の祖先である。
織田町剣神社に神護景雲四年銘文入りの銅鐘があり、織田家との関係を伝える。織田信長よりはるか以前の平安時代に、すでに尾張と織田には深い関わりがあった。それが古代の技術工人の移住である。
九谷焼が始まるはるか以前から、ここには知多半島の工人が入り常滑焼の源流を伝えていた。そうした背景の中で近世九谷焼も乗っかっていることになろう。
 
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古九谷焼。ただしその後の九谷焼はは主に有田焼の影響下にある。
 

オオヤマト古墳集団北部の大和古墳群に尾張系であろう前方後方墳が五基存在する。この古墳群は箸墓など三輪山麓纒向の古墳群の直後に造営された。主体は河内王朝最後の忘れ形見となった手白香媛(たしらかひめ=継体皇后)の墓とされる西殿塚古墳(前方後円墳)であるが、大和の古墳群をそれぞれひとつの集団・同族の墓群と見るならば、継体の福井・近江、尾張氏・出雲氏の前方後方墳がここに集っていることになる。大和神社と黒塚古墳はその中に囲まれたようにぽつんと建っている。大和大国魂神を奉祭する社に出雲系アジスキタカヒコネが八重事代主とともに祭られている。倭直という尾張より古い海人氏族が出雲神によって監視された様式。つまり現在の記紀の神々に監視される出雲神という「神霊の監視」体制とはまったく逆の、もっと古い監視体制がここに存在する。
それはアマテラスの遥拝所である檜原神社に三輪鳥居が置かれることに同じ論理である。
 
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邪馬台国は狗奴国によって乗っ取られたのである。大和で。
 
磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)はミマキイリ彦=崇神の都だとされ、それが纒向遺跡であることはもう間違いがないかろう。纒向は邪馬台国直後の狗奴国の都である。その崇神の妃の中に記紀共通した記録で尾張大海媛(おわりのおおあまのひめみこ)がいる。尾張氏の娘であろう。

このように越前と尾張の深い関係、若狭・丹後には海部氏の管理体制が置かれ、東海・日本海・東国は近江湖東の息長・三尾・三上氏を通して、むしろ大和・畿内を牽制できるほどの充実振りを見せ始めたのである。大和朝廷という観念ががいかに脆弱で、有名無実なものであったか。そしてのちのちまで全国氏族のかいらいとして利用されてきた錦の御旗でしかない存在だったことも見えて来る。
中世以降、為政者武家は天皇家を御旗・大儀にしてきたが、戦国大名の多くが織田信長も徳川松平も越前と尾張の古い関係を背景に勃興するのである。その資金源こそが大陸と直接つながった越前・若狭・丹後そして出雲という海運貿易にあることが、日本の歴史を大きく動かす原動力だったのである。

「おおあま」は天武の幼名でもある。
尾張氏は天武のメノトである。壬申の乱に活躍したのも尾張の海部や岐阜の多氏そして大分の海部だった。つまり天武台頭の背景にこれら狗奴国勢力のバックアップがある。
 
 
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あまてるみたま神とはなんだ?

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全国に天照御魂神社というのものがある。
 
「あまてるみたま」とは一体なんだろうか?
 
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溝口という女性学者はアマテラス神とは当初から女神だったのが、政治的に男神になったのfだと力説するのだが、
多くの歴史学者は、太陽の陽とは中国でもどこでも男性であって、女性は陰なのだから、それはない、と力説する。
 
筆者は陰陽あいまってはじめてアマテラス太陽神であるかと見る。記紀神話でもアマテラスはスサノヲあってこそ光り輝く。陰の存在があってこその光りなのである。
 
 
奈良の鏡作坐天照國照神とは火明命であると明示されていて、ここが尾張氏らの祭る神社であることは否定しがたい。
 
他田坐(おさだにます)天照國照神社は太陽光に向かって建てられたことは間違いない。
 
太秦の一般には秦氏が祭ったとされる木嶋坐天照御魂神社も、やはり太陽光を意識して建てられている。
 
太陽の感精がそのまま動物のまぐわいであることはあきらかで、いまさらそれが男女どちらかと論ずることに意味などないと思っている。雌雄のセックスなしに新たな生命の誕生=永遠は成り立たないのである。
 
 
「あまてるみたま神」が、太陽光を神格化したことは間違いがない。なぜならそれがあらゆる生命の大元だとかんがえられていたからである。
 
 
伊勢では、例えば謡曲で「伊勢は大物主とひとつ」であると謳われ、男女神の一体化が見えるが、これは言い換えると、伊勢には大物主が祭られ、巫女であるアマテラスがそれを押さえ込む構造だと言う事も可能である。
 
 
あまてるみたま神は海洋民族共通の信仰対象なのであって、太陽光の神格化なのであるが、しかし哲学的な次元の高さで言うならば、タカミムスビ(高木神)のほうが実は圧倒的に高次元の観念である。その理由はこの神が男女などという卑属で「ざっかけないものでは理解を超えて」「知的な」「独り神」であるからだ。
 
少なくとも、この神の観念を作り出せるものとは、卑俗なまぐわいを中心とした、どこにもありがちな、死生観よりもはるかに上にある、超越した存在である。そもそも神に人格を持ち込むようなアマテラス以後の神々と、タカミムスビのような宇宙の真理を表した神は、まったく同等に語れる共通点はない。それは観念なのである。
 
それをアマテラスとか火明とかいう氏族の「せこい」神々と比較して語ることそのものが不遜なのである。
宇宙の原理と太陽の原理では、その器の次元が雲泥の差があるのだ。
 
あまてるみたまにしても、所詮は負けてしまった先の氏族の太陽神なのであり、勝った氏族の太陽神と、なんら次元の変わらぬ低次元の、つまり民衆でもわかりやすくしてあるざっかけない神々のひとかけらでしかないのである。
 
タカミに存在する客観的存在に、そうした主観的神々が太刀打ちできるはずも無い。それらはみな、学のない。文字も読めない人々、ほとんどんどの古代日本人のために、やさしく書かれた「代用神」に過ぎないのである。
 
つまり老子が言う「道」をわれわれが理解し得ないように、タカミムスビもまた教養の圧倒的に不足しているわれわれには理解を超越した存在である。
 
それにくらべれば天照御魂神などに謎を見てしまう脳髄は・・・
 
 
あとは言うまい。
もtっと簡単に考えればすむことである。所詮は共同体同士の卑俗な争いが作り出した虚妄の神でしかない。
 
 
 
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アンデス出土のジャガー人間とは「人を食う熊神」である

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<ジャガー人間>古代アンデスの石彫発見 民博

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ペルー北部高地のパコパンパ遺跡で発掘されたジャガーの顔と人の体を持つ石彫=パコパンパ調査団提供
 ペルー北部高地のパコパンパ遺跡を調査している国立民族学博物館(大阪府吹田市)とペルー国立サン・マルコス大の合同調査団は6日、ジャガーの頭と人間の体を持つ石彫(せきちょう)を発掘したと発表した。紀元前800~同500年ごろの制作とみられ、古代アンデスで、この時期に宗教的権威を持つ指導者が登場したことを物語るという。

 遺跡は紀元前1200~同500年ごろの神殿跡。標高約2500メートルの尾根に3段のテラスがあり、石彫はもともと最下段と中段のテラスをつなぐ階段の上り口に据えられていたらしい。

 石灰岩製で、高さ1.6メートル、幅43センチ、厚さ24センチの等身大。牙をむき、両手を胸で合わせ、腰に帯を着けた様子が浮き彫りされている。

 年代や出土状況がわかる学術調査で石彫が発見されるのはまれ。調査団長の関雄二・国立民族学博物館教授(アンデス考古学・文化人類学)は「これより古い時代の図像は動物の体だけが描かれることが多い。霊的存在と信じられたジャガーと指導者が合体して、宗教的な力を発揮し始めた表れだろう」と話している。【鈴木英生】
 
 
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「宗教的な力」とは具体的にどのようなものだったのだろう?
それを知るための、この石像と非常によく似たトーテムポールを筆者は知っている。
それは中沢新一がかつて『精霊の王』第六章「後戸に立つ食人王」の中でこう書いた「人を食う神」であろう。
当ブログ「人を食う神・マハーカーラ 」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49267980.html
 
 
「肝臓を喰らわせなければ往生させてもらえない神とは民俗学的には「荒神」であり、民族学・宗教学的には障礎神(しょうそじん)と云う。」(中沢新一)
 
 
このセンテンスにつけられたアメリカインディアンの「人を食う熊神」の画像がこれである。
 
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この神は口に生まれたばかりの胎児をくわえ、ほうばりながら、下半身からは新たな魔物を生み出しているという矛盾した存在である。
 
「しかもこの神はカンニバル(カニバリズム・人食い・ラテン語でハンニバル)としての特徴も持っている。人が亡くなるとき、摩多羅神=大黒天=ダキニ天であるこの神が、死骸の肝臓を食べないでおくと、その人は往生できないのだという。往生とは、人が生前に体験した第一の誕生(母親の胎内からの誕生)、第二の誕生(大人となるために子供の人格を否定するイニシエーションを体験して、真人間として生まれ直すこと)に続いて、人が誰でも体験することになる「第三の誕生」を意味している。そのさいには、人生のあいだに蓄積されたもろもろの悪や汚れを消滅させておく必要がある。そうでないと、往生の最高である浄土往生は難しい。そこで、この恐るべき神が登場するのだ。人の肝臓には、人生の塵芥(じんかい・ちりあくた)が蓄積されている。そういう重要な臓器を、摩多羅神は臨終のさいに、食いちぎっておいてくれるという慈悲をしめすのだ。カンニバルとは人生からの解放をもたらす聖なる行為だ。」
中沢はこの神とはインドで言うマハーカーラであるとし、それは摩多羅神=大黒天=ダキニ天であると喝破した。
この熊神が果たしてそのような観念で造られたものかはわからないが、少なくとも神の表裏の観念には、世界共通して「人を災害で殺しながら、一方ではいつくしみある生命力で、新たな誕生をうながす」両面性を持たされていると言っていいだろう。これは世界中の民族に共通の神=自然の摂理の大原則である。
 
それをマハーカーラとか、ダキニとか、摩多羅神(またらじん)などと人々は名状した。
つまりこの神の観念とは、大自然への畏敬を表現したものだと言っていいのではなかろうか?
 
 
二つの像を比較してみよう。
今回発見されたペルーの石像は、まだ鮮明な画像がネット上に提示されていない。
毎日新聞画像を拡大、加工してある。
 
 
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左像も右像も口の部分と下腹部部分はうっすらと幼児をくわえながら、下腹部から新生児を生み出しているように見える。いかがだろう。
 
もしそうであるなら、アメリカインディアンの神観念が、南米まで伝わった、あるいは北米インディアンが南米まで実際に代を経て南下した証明になる。
 
また同じ神観念は日本の縄文土器にも見つけることが可能である。
 
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しかし縄文の女神たちは胎児をくわえてはいない。
この微妙な相違にわれわれは何を見ればいいのか?
縄文人には大自然の神が子供を食べる=殺す存在とは感じなかったのだろうか?
いやそんなことはあるまい。
 
 
 
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縄文人は、日本人はその両面性
残虐と慈愛を
胎児を食うヴァギナとして融合させたワンシーンに集約させたのである
二律背反する二つの観念をひとつの絵柄に集約させた
このデフォルメの天才の血潮こそが
今日のわれわれをして
アニメ・グラフィックデフォルメの天才的パイオニアにしたと言えないだろうか?
 
 
実物か鮮明画像が早く見たい発見である。
 
 
 
 
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天照御魂信仰を図説する

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天照御魂信仰が太陽光を意識していることを図説する。
「あまてるみたま」とは神格であって人格ではなく、それは客観的科学観を踏まえた信仰である。
その共通性は海洋民族に独自のものであろう。
 
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ノーコメント。
文系の筆者はこれに関して知識不足。
 
画像出展 大和岩雄『神と人の古代学』大和書房 2012
80歳を過ぎてなお客観的分析にこだわる続ける大和さんにあまりある敬意を表する。
 
 
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歴史を追及する者は/学問の前提

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およそ
歴史を学ぼうとするものは
主観と客観をきっちりと仕分けできなくてはやっても無駄です。
 
 
そして最後は、やはり主観に帰ることのできる、柔軟で優しい心と、
絶対的客観の残酷性を、真摯に受け入れることができる、
柔軟でありながら堅固な確信を持っていなければなりません。
 
 
もしそれができないのであれば、ただぼんやりと歴史を楽しむことです。
ぼんやりと小説を読むように。
楽しむとは、そのように人それぞれで、表裏があります。
 
好きなだけでは、表面的な歴史しかわかりません。それでもかまいません。
 
かまいませんが、それは
 
 
 
 
 
 
 
真実ではありません。
 
 
 
 
 
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今日は遠出をしましてな

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ちょっと遠くまで行きました
ので、ここはお休みし、
あっちのブログでその銅山のある山上への道行きを紀行文にしております。
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
 
 
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ちょっと順位も落ちました
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森浩一絶筆新刊『敗者の古代史』を読む

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森浩一著
『敗者の古代史』記紀を読み直し、地域の歴史を掘り起こす
中経出版
2013年6月
 
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目次
①饒速日命
②タケハヤニス王
③狭穂姫
④熊襲の八十梟帥
⑤忍熊王(劔御子)
⑥市辺忍齒王
⑦菟道稚郎子
⑧両面宿儺
⑨墨江中王
⑩大日下王
⑪市辺忍齒別王
⑫筑紫君岩井
⑬物部守屋大連
⑭崇峻天皇と蜂子皇子
⑮山背大兄王
⑯蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿
⑰有馬皇子
⑱大津皇子
⑲大友皇子

タイトルを見ただけでもこれは歴史上の敗者への見直し論であることは一目瞭然である。
古代史初心者向け。
 
森さんは、それらのひとつひとつの論考に、決して決着をつけてはいない。なぜなら彼が専門学徒であり研究「者」であるからだ。

通り一辺の結論を書きたがるのは、われわれ在野の自称研究「家」だけである。
研究者・森浩一は断定は避けつつも、生前から、研究家・愛好者たちに実に示唆に富んだ天啓を与え続けてきた存在である。

考古学者にとどまらない「古代史学者」としてのパイオニアであった。
 
なぜ磐井の乱は「いわいの乱」であって、継体・磐井戦争とは言われないできたか?
なぜ壬申の乱などなどの例のような、勝敗を明確にしない年代名にしなかったのか?

そういう素朴な疑問からこの人の解釈は始まる。だから素人には親近感があり、理解しやすい書き方になる。
そしてさまざまの知識を与えつつも、さらなる疑問を増やしてくれ、調べてみたいと思わせてくる。
さすがは考古学による「村おこし」「地域振興」を考案したパイオニアである。
この人の後にこの人なし。

歴史推理と深い記紀知識という分野を切り開いた、「学者らしくない学者」である。
敗者へのいとおしい視線、そして勝者の論理で書かれた史書への消えることの無い疑念と懐疑。
森浩一は永遠の青年だった。

おとっつあん、じいさまのように、若いくせにすぐ権威的論考に感化されることの多い、若年寄ばかりの学界に常に新風を吹き込む森浩一の死は、まったき学界の至宝が消えたに等しい。
 
 
いくつかの示唆に富んだキーワードを書いておこう。
 
「大和は山門と表記した」
「白肩の津とは今の盾津である」
「桜井茶臼山古墳は外山茶臼山とぼくは呼んでいる」
「外山とは鳥見である」
「先代旧事紀のニギハヤヒ東征は記紀の神武東征よりはるかに具体的」
「饒速日の「饒」は「にょう」で、豊と同じく食料のこと」
 
最後の一文で筆者は自分の住む豊後にも「豊饒(ぶにょう)地名があることをはっと思い出さされた。
そういう良字表記の地名の場所は、まずたいがいが贄を出す部民がいたものである。地名のはれがましさに反比例して、たいがいひどく差別された人々が住んでいた。つまりそれらは「敗者地名」ではないかと、一度は疑ってみたほうが、天啓は与えられる。
 
 
物部氏とニギハヤヒについてはもう一度筆者自身も書き残していることがあるとこの本は気づかせてくれた。
 
死せる森 生けるKawakatuを動かす
である。
 
合掌
 
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『先代旧事本紀』天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊随行二十五部以下全名簿

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東遷に随行した従者名「先代旧事本紀」による。
●三十二人をして、並びに防衛と為し天降し供へ奉らしむ
 
○天香語山命:尾張連等祖=饒速日尊の御子
○天鈿売命:猿女君等祖
○天太王命:忌部首等祖
○天児屋命:中臣連等祖
○天櫛玉命:鴨県主等祖
○天道根命:川瀬造等祖
○天神玉命:三嶋県主等祖
○天椹野命:中跡直等祖
○天糠戸命:鏡作連等祖
○天明王命:玉作連等祖
○天牟良雲命:度会神主等祖
○天背男命:山背久我直等祖
○天御陰命:凡河内直等祖
○天造日女命:阿曇連等祖
○天世平命:久我直等祖
○天斗麻彌命:額田部湯坐連等祖
○天背斗女命:尾張中嶋海部直等祖
○天玉櫛彦命:間人連等祖
○天湯津彦命:安芸国造等祖
○天神魂命(亦た三統彦命と云ふ):葛野鴨県主等祖
○天三降命:豊田宇佐国造等祖
○天日神命:対馬県主等祖
○乳速日命:広湍神麻続連等祖
○八坂彦命:伊勢神麻続連等祖
○伊佐布魂命:倭久連等祖
○伊岐志邇保命:山代国造等祖
○活玉命:新田部直等祖
○少彦根命:鳥取連等祖
○事湯彦命:取尾連等祖
○八意思兼神の児表春命:信乃阿智祝部等祖
○天下春命:武蔵秩父国造等祖
○月神命:壱岐県主等祖

●五部人を副従為て天降供奉らしむ。
○物部造等の祖天津麻良
○笠縫部等の祖天勇蘇
○為奈部等の祖天津赤占
○十市部首等の祖富々侶
○筑紫弦田物部等の祖天津赤星
 
 
●五部造伴領と為し、天物部を率て天降供奉る。
○二田造
○大庭造
○舎人造
○勇蘇造
○坂戸造
 
●天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯て天降供奉る。( 25部隊)
○二田物部○須尺物部○芹田物部○赤間物部○横田物部○狭竹物部○浮田物部
○肩野物部○足田物部○尋津物部○田尻物部○住跡物部○久米物部○讃岐三野物部
○大豆物部○筑紫聞物部○羽東物部○相槻物部○布都留物部○播麻物部○当麻物部
○鳥見物部○嶋戸物部○筑紫贄田物部○巷宜物部
 
 
●船長同く共に梶取等を率領て天降供奉る。
○船長跡部首等の祖天津羽原
○梶取阿刀造等の祖天津麻良
○船子倭鍛師等の祖天津真浦
○笠経等の祖天津麻占
○曾曾笠縫等の祖天都赤麻良
○為奈部等の祖天津赤星
 
 
 
 
ニギハヤヒの東遷に従った二十五部の物部(軍団)のうち、出自地の判明したものを大野七三氏は次のようにみている。
●二十五部の物部(部隊)の出自地
○二田物部=福岡県小竹町新多 ○当麻物部=熊本県益城郡当麻
○芹田物部=福岡県若宮町芹田 ○鳥見物部=福岡県遠賀町鳥見山
○横田物部=福岡県飯塚市横田 ○嶋戸物部=福岡県遠賀町島津
○赤間物部=福岡県宗像市赤間 ○狭竹物部=福岡県小竹町小竹
○大豆物部=佐賀県三田川町豆田(吉野ヶ里附近)
○大豆物部=佐賀県北茂安町豆津(吉野ヶ里附近)
○筑紫聞物部=福岡県北九州市企救 ○筑紫贄田物部=福岡県鞍手町新北
○十市物部=福岡県若宮町都地 ○弦田物部=福岡県宮田町鶴田
○筑後物部本拠=福岡県久留米市高良大社附近
http://asuka.jp-japan.net/index.php?page_id=42
 
 
 
大野氏のこれら氏族を九州地名に充当させる分析はほぼ正確であると思っている。
ともあれ、物部氏を核とするこれらの随行氏族の詳細さは、いかに旧事紀の偽書説があると言えども尋常ではない。負けた氏族ならではの列記の多さと執拗さが垣間見える。
しかも行く先々の宇佐や岡や吉備や播磨で、加担してくる氏族とその様子まで詳細に記録されており、一方記紀の神武の随行者は実に簡略で、その東征神話の作りもかなり大雑把である。
 
ただ神武の名前が山幸と同じであったりして、それが南九州からであったと思わせるに対し、ニギハヤヒの出発地は北部九州豊前周辺を基点とし、南九州からというのは同じでも、かなり途中が具体的である。
 
ということは神武東征は物部氏のニギハヤヒ東征をかなり下地にしたものではないかという疑念が生じることになる。
 
 
 
 
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