「一般論としていえば、系図は、①長い年代・期間に何度かにわたり書き継がれたか、②長い年代に活動した多くの人々の人間関係を所伝史料を基にしてある一時期にまとめて書き表されたか、さらには①②併せた事情がある、というものである。そのため、どの家、どの社寺等に伝わる系図であっても、ほぼ例外なく、多くの問題個所を抱えている。具体的には、系図の編纂・転写・謄写のときの誤記や系線の引き誤り、作成者・編纂者・謄写者などの誤解や基になった史料自体に誤りがあるなど、問題の原因は数え切れない。これになんらかの系譜仮冒・系譜修飾や(実際には正当ではなくとも)正当な相続権があるという主張などの目的が加われば、ますます系図には疑問点が増えることになる。 」宝賀寿男
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/murasaki/kentou1.htm
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/murasaki/kentou1.htm
「記紀では、『日下部』は、日向出身の髪長媛(仁徳天皇后妃)の御子の名代部として登場する。(髪長媛の皇子=記の所伝では、波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)またの名を大日下王と波多昆能若郎女またの名を「若日下部命」の二人、紀においては、大草香皇子と幡梭皇女の二人)」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm#日下部
つまり日下部氏の出身地は日向である。
日向国は最初、鹿児島県と宮崎県南部を指していた。
熊本県南部の球磨郡と隣接するのは鹿児島県曽於郡の吾平(あいら)地方=霧島連山の南側一帯である。
神武の最初の妃となった吾平津比売はここの出身であるので、その子孫であろう髪長媛も霧島に近い出身であろう。
日向国は最初、鹿児島県と宮崎県南部を指していた。
熊本県南部の球磨郡と隣接するのは鹿児島県曽於郡の吾平(あいら)地方=霧島連山の南側一帯である。
神武の最初の妃となった吾平津比売はここの出身であるので、その子孫であろう髪長媛も霧島に近い出身であろう。
つまり日下部氏の出自もここが一番古いことになる。
「記紀では、「顕宗紀」の即位前記に履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(顕宗23)※と億計王(仁賢24)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事が日下部の初見である。日下部連使主の子とされる吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏の関わりが想起される。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”と記載があることは注目に値する。
伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。」
http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm#日下部
このように日下部氏は河内王朝では嫡子となるべきが殺された分家の血筋を護る立場にいて、鹿児島県の阿多とのかかわりが深かった。というよりもそこの出身だったと見られる。それが伊予(愛媛県)の久米部ともつながりがあり、こちらは山部となった。
「二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。
さきの山城国の大住郷の首長であった大住忌寸も山守の名をもっていた。『古事記』の安康天皇の条に意祁・衰祁の二王子は父王が殺されたと聞いて逃げ、「山代の苅羽井に到りまして、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひつ」とある。その老人は山代の猪飼であったという。山代の苅羽井は、隼人の移住地の大住の地であった。そこからこの顔に入墨をした面黥ける老人も異族ではなかったかと想像されるのである。
『日本書紀』には、神武帝に従った大久米命が目のふちに入墨をしていた、とあるから、この入墨の老人も隼人族に属していたのではあるまいか。大住郷の大住忌寸山守が山守部の首長であったことから、猪飼の老人も山守部に属していたかも知れない。葛城の山人との関係も見逃しがたい。二王子には母方の葛城氏の血が流れている。二王子の姨の飯豊皇女も、葛城氏を背景とした高巫であった。」
谷川健一『古代学への招待』2010
クメはクマである。
熊襲のうちの球磨族である。
その子孫が京都南山背で大住忌寸である。ここは地名も大隈からとって大住である。その久米部=山部である。
それが大和に於いては葛城氏とえにしが深い。
久米部=山部=葛城氏=熊襲である。
●久米部の全国分布
(a)久米郷 大和国 高市郡
(b)久米郷 伊勢国 員弁郡
(c)久米郷 常陸国 久慈郡
(d)久米郷 伯耆国 久米郡
(e)久米郡 美作国
(f)久米郷 美作国 久米郡
(g)久米郷 周防国 都濃郡
(h)久米郡 伊与国
(i)久米郷 伊与国 喜多郡
肥後国球磨郡久米郷(和名抄)
久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)
久米郷 筑前国志摩郡
久(多)米駅 豊前国
(a)久米郷 大和国 高市郡
(b)久米郷 伊勢国 員弁郡
(c)久米郷 常陸国 久慈郡
(d)久米郷 伯耆国 久米郡
(e)久米郡 美作国
(f)久米郷 美作国 久米郡
(g)久米郷 周防国 都濃郡
(h)久米郡 伊与国
(i)久米郷 伊与国 喜多郡
肥後国球磨郡久米郷(和名抄)
久米(上加世田遺跡、土師器椀墨書)
久米郷 筑前国志摩郡
久(多)米駅 豊前国
●山部の九州での分布
阿蘇神社社家宮川一族(山部氏族)
山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)
益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)
阿蘇神社社家宮川一族(山部氏族)
山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)
益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)
こうしてみると、久米部も日下部ももとは海人系だったが、なぜか山部と靫(靱)負部となって内陸部にいる。
阿多隼人と同じ吾平・阿多を根城にしていた。
ということは彼らは熊襲ではなかったか?
曽於とは現在の曽於市・霧島市・伊佐市・姶良郡を言った。
「鬼が在ったとされる犬ヶ岳が古く、狗岳(いぬ)とされた。大隅の曽於(そお)は隼人の故名。その「そお」は南方で犬を意味するとされ、のちの隼人司が吠を発する職掌から、隼人は「狗(いぬ)」に擬せられた。
日本書紀、景行紀には宇佐の川上に住む「鼻垂」 、御木川の川上に住む「耳垂」、高羽(田川)川の川上の「麻剥」などの土蜘蛛が登場する。土蜘蛛の伝承とは、大和の王権の支配が地方にまで及ばぬ時代、古墳早期の話であろうか。豊前での前方後円墳の出現は早い。
求菩提域においては、「土蜘蛛」の伝承と、古く、狗岳(いぬ)や狗ノ岩屋にみえる「狗人」の痕跡、そして忌避されて「鬼」とされた先住の族が重なる。」
戦国奇譚http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/076b480d6ac6c5d486e177e013d05b5e
戦国奇譚http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/076b480d6ac6c5d486e177e013d05b5e
どうやら犬地名を鉱物と修験だけに限定しないほうがよさそうである。むしろそれらの大元に隼人や球磨(狗奴国?)があるような気配である。
曽於郡には大崎町があるが、「おおさき」は「おおさけ」で、耳元まで口が裂けた犬やキツネを現している。
曽於郡に犬馬場という特徴的な姓がある。
http://folklore.office-maeta.jp/008.htm
http://folklore.office-maeta.jp/008.htm
しかし曽於が犬のことだと書いているのは一人戦国奇譚サイトしかない。
http://search.yahoo.co.jp/search?b=1&n=10&ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E6%9B%BD%E6%96%BC%E3%81%AF%E5%8D%97%E6%96%B9%E3%81%AE+%E7%8A%AC
http://search.yahoo.co.jp/search?b=1&n=10&ei=UTF-8&fr=ie8sc&p=%E6%9B%BD%E6%96%BC%E3%81%AF%E5%8D%97%E6%96%B9%E3%81%AE+%E7%8A%AC
あまりあてにはならない。
葛城襲津彦の「そつひこ」とは「襲の男」という意味になっている。
「襲」は「曽」である。
いずれにせよ日下部の大元は草部、葛城氏や日下部氏や久米部たちが熊襲に関与していたことだけは間違いなかろう。
これが火の君のことなのか?それともこれに火の君が取って代わるのか?
火の君の祖は建緒組(たけおくみ)と言う(肥前国風土記)が、「組」とはクメではあるまいか?
もしそうであるのならであるが、肥後・肥前は日下部氏=火の君→火中君→阿蘇氏へと統率者が代わっていったとすることができるだろう。それが応神王朝→飛鳥王朝→大和朝廷への激動のあいだの為政者変化である。
次に阿蘇氏を分析してみたい。