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本日、二百十日/越中おわら風の盆・古代「風鎮祭」

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立春から数えて二百十日めである。
 
二百十日は台風襲来の特異日とされ、奈良県大和神社で二百 十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」など、各地で風鎮めの祭りが執り行われる。
 
 
持統天皇紀
「「五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波(諏訪)・水内等の神を祭らせた」
とあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。」
http://marishi.weblogs.jp/blog/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE/
 
とはいいながら、今の日本の気候ではそのとおりともいかぬようになったのであるが。
 
 
 
オオカゼの起こるこの季節、各地で風を抑える「風鎮祭」が始まる。
 
それが「秋」を告げる最も古い祭である。
 
 
このときから「風切り」の祭も民間で開始される。
これを諏訪では「薙切神事(なぎきり)」と言う。
 
 
 
家屋の屋根に鉈をかかげてオオカゼを切る。
 
ようするに「なた」とは風を切る呪具である。
 
 
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民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
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殺っておきながら異常にきを使う日本人・それが日本古代史の原点

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さて、このように見てくると
われわれ日本人の霊的観念の造り上げ方には、
ひとつのパターンがあることに気がつくはずだ。
 
 
日本人の矛盾にあふれる生き方の答えがここにある。
 
 
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残虐無道に蘇我入鹿は斬首された。
その断罪には冷酷で、科学性がある選択だったはずである。
ところが、時がたつと、その霊魂が宮に顕れたという噂が出るようになり、手のひらを返すように「畏れ」を口にする。
 
 
 
別の一面で風を畏れ、それを鎮撫する祭を執り行いながら、反面では、霊魂に蓋をするような×の呪符をする。
日本人の「おもてなし」「もったいない」などなどの極めて品格ある、わびさび理念の裏側で、世界に類を見ない、異形者と敗北者への冷酷無比な差別と隔離の思想が同時存在するのである。
 
 
 
それこそが日本人なのである。
 
 
 
 
すべてが都合によって決められる。
 
 
 
 
そのTPO感覚は、どうやら世界と隔絶してきた。
 
 
 
ここにまず気づかねば前へは進めない。
 
 
 
閉ざしていながら開放された矛盾の行動の同時存在である。
 
 
 
 
 
 
それはぼくにも、もちろんあなたにも確実にある。
 
 
 
それが、どこがどう外国と違うかを、認識することが古代史と歴史認識「観」再構築の第一歩だと思っている。
 
 
 
ぼくとは、わたしとは、日本人とはいったなんなのかを考えるのが、歴史ではないか?
 
 
 
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そがのいるか~~~? のCMは傑作であることについての薀蓄

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このCMは頭にこびりついて困る。
 
 
 
史上、頸を切られた叛逆人と断罪された蘇我入鹿を、CMに使ったというのが、まず肯首に値する。
 
素晴らしい快挙と言える。
 
 
 
 
 
ま、とにかくおもろい。
 
 
 
 
 
そんなのいるか~~~?
この記事いるか~~~?
 
 
 
それがいるのやなあ。
 
 
 
 
 
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ぷふふふ
 
笑える。
 
 
 
 
PUHU
Puhuuuu・・・・・・
 
 
 
 
この頃は料理の鼻歌代わりに使っている。
 
 
 
 
そなのいるか~~~
 
 
Pu・・・
 
 
Puhhuuuuuuu
 
つまんないと思ったらクリック
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生野と号くる所以は・・・/荒ぶる障壁神・境界神を科学する

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「生野と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、昔、此処に荒ぶる神ありて、往来の人を半ば殺しき。此に由りて、死野(しの)と号く。以後、品太天皇、勅りたまひしく「ここは悪しき名となす」とのりたまひて、改めて生野(いくの)となせり」

『播磨国風土記』神前郡
地名の悪名が良名に変えられる実例である。

皇學館大學の橋本雅之は、以上の風土記地名説話を「生野説話」と名づけてその特異な障壁神を語る。
生野の「荒ぶる神」は道行く人の半数を殺してしまうのだとされていた。そのような異常なことが果たして起こりうるのだろうか?
 
 
生野は現在の兵庫県朝来(あさご)市生野町で、ここは播磨と但馬の境目にある交通の要衝であった。そこがかつて「死野」と呼ばれていた。生野はのちに銀山が開かれている。江戸幕府の資金源である重要な鉱山であった。
 
風土記その他の伝承には、こうした半ば人が死に、半ば生きて通れたという「フィフティフィフティ」な危険性のある神が登場することがままある。
 
「出雲の大神、神尾山に在しき。この神、出雲の国人の此処を経過ぐる者の十人の中五人を留め、五人の中三人を留めき。」
(播磨国風土記揖保郡)
 
「昔者、この川(山道川やまじがわ)の西に荒ぶる神あり、行路く人、多に殺害され半ばは凌ぎ、半ばは殺にき。」
(肥前国風土記基肄(きい)郡)
 
「この川上(佐嘉川)に荒ぶる神あり。往来の人の半ばを生かし、半ばを殺しき」(肥前国風土記佐嘉郡)
 
「この郡に荒ぶる神ありて、往来ふ人多に殺害されき」(肥前国風土記神崎郡)
 
このように交通の要衝にいて、人を殺すことのなる神を「境界神」と言う。
境界にはこのように危険な存在がいたということになる。
 
 
 
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この概念は
1 往古肉体労働による税の支払いが存在したころ、過酷な労働を終えて故郷に帰る人々が、よく峠などで息絶えることがあったことから、出た説話。
2 交通の要衝や峠や河津には、旅人をねらう盗賊が多かったため。
3 生贄のための旅人急襲が非常に多かった
などが考えられる。
 

筆者は橋本のような神学者や民俗学者のような、荒神そのものの性格を分析する立場に無いので、より客観的にその科学的発生原因にしか興味が無い。
 
例えば摩多羅神やマハーカーラのような「人を食う神」には「障礎神(しょうそじん)」という分類がある(中沢新一)。障礎神(の実例記事は『八幡愚童訓』にある八幡神の顕現した姿が鷹で、それが十人行けば五人が食われたという表現で、上記の「生野説話」の境界障害神によく類似している。
 
いずれも「人を食う神」が聖なるものであると言っているのである。正邪が神には表裏一体となる。

『日本書紀』大化二年(六四六)三月甲申条
「復、役はるる辺畔の民有り、事了りて郷に還る日に、忽然に得疾して、路頭に臥死ぬ。是に、路頭の家、乃ち謂りて曰く、『何の故か人をして余路に死なしむる』といひて、因りて死にたる者の友伴を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄路に臥死ぬと雖も、其の弟収めざる者多し。」

要するに上記事例の1の実例である。
 
労役され、それが終って一時故郷へ帰る部民。その途中で病に倒れたが、人家の前であった場合、そこの家人が門前で人が死ぬことを忌み嫌い、同行の人に賠償金を請求するなどのもんちゃくがよく起きたようである。だから、面倒なので同行のものが、たとえそれが弟・親族であっても、その遺骸を打ち捨てた。
この記事には聖なるものであるはずの神に穢れの部分を思いつかせる重要なキーワードが隠されている。
家族を打ち捨てる行為には、「畏れ」という観念を冒涜する行い、という大前提がある。神をも畏れぬ行いである。
 

このように往古、いや、つい最近まで・・・いやいや現代でも・・・であるが、民衆は常に理不尽を聖なるモノとするほかなき、脆弱な存在であった。つまり、それらすべてを神=理不尽な摂理としてあきらめねばならない人生観を持つしかなかったのである。なぜか。

政治が腐っている=人間が主観の限界を燃えられないままだからである。完全なる客観的思考をするだけの能力がないからである。

それが神の生まれてくる二次的な要因である。

一時的要因は、もちろん、自然界の摂理の理不尽。
二次的には、それを処理できない政治と科学の未熟である。
ということは、この理不尽は人類が乗越えていかねばならない、最大の政治的課題だと、あなた、気づいた?
 
もちろんそんな人間の欠陥の本質に、まじめに取り組もうという政治家などひとりもいない。
 
 
 
どうも昼間はデジタル画面が見えなくなった。
記事は少なくなる。しかし内容は濃くなる。
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想定不可能な災害など歴史上の記録からは実はありえない・台風

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「飯田武郷は,『日本書紀通釈(畝傍書房,1940年)』において,藤原清輔の『袋草紙(11世紀)』から,源俊頼の「信濃なる,伎蘇路の桜,咲きにけり,風の祝に,隙間あらすな」(信濃の木曽路の桜が咲きました,風の祝に,隙間を許すな)の歌を引用して,次のように,記している。
『袋草紙』に云うに
 
信濃なる木曾路のさくら咲きにけり   
             風のはふりにすきまあらすな        俊頼朝臣
 
この歌につきて,是は信濃国は,極めて風はやき所なれば,
 
1仍て諏方の明神の社に風の祝と云う物をおき
1春の始に深く物に籠もり居て,祝して,百日の間尊重するなり
3然は其の年凡そ風閑にて,農業の為,吉なり
4それに自ら,すき間もあり,日光も見せつれば,風をさまらすと云ふ,
 
 
 


 
とあるが、その風祝(かぜのはふり=阿蘇氏神長じんちょう)をすでに古に派遣しておいた、最大の原因は、持統五年の大雨であったと考えてよかろう。
 
先に書いたようにその記事は持統天皇紀の五年に記録があり、「長雨」とさらりと書いてはいるが、これが今回の近畿地方以東に未曾有の災害をもたらした台風18号に等しきタイフーンであったことは間違いない。
 
今回もそうだっただろうが、京都桂川の氾濫時の危険性は、過去、そこに大堰を河勝が築いたという故事からも、充分に想定可能な事故であったと言える。九州のように、毎年のように台風や大雨による氾濫が起こる地域では、あらかじめ体験もあるが、近畿や関東では台風への経験不足もあって、観光客などはいつまでも渡月橋周辺を立ち去らないで巻き込まれるようなテレビ画像が見られた。堤防の無い桂川は非常に危険に満ちていることは誰の眼にもあきらかであった。
 
 
 
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都市が平地に進出することのいかに危うい行為であるか、国は見直す必要がある。
往古、縄文人は河口付近の湿地や上流河川沿線の河川敷には絶対に居住地を持たず、それはみな近場の台地上に作られた。

こうした古代人の知恵をないがしろにし続ければ、今のダイナミックな気候変動の前に、毎年「風祝」対「人を食う神」との鎮魂=つまり「畏れ」が意識されない現代では、今後もさらに手ひどいしっぺがえしを食らうことになるのだろう。
 
危険を予知できない現代人たちが、ただただ「怖い」と口走っていた。その恐怖が人間を賢くするのである。子供たちは初めておののきを知ったことだろう。神は怖いのだ。人間はちっぽけでなにもできない存在なのだと気がついたならば、彼らはひとつ大きな勉強をしたことになる。
 
国家としても、この台風災害が今年だけで終ると思っているようではだめだろう。「数十年ぶりの災害」だと驚いて対策を考えるというが、今後毎年、全国でこのような大災害はどんどん増えるかも知れない。そうなれば国家予算は毎年膨大に災害対策にまわすことになり、今のとらぬたぬきの皮算用などコッパ微塵にされかねまい。
消費税増税で年金不足を補うなどと甘い言葉を信用できないことは国民が一番よく知っている。
 
大災害の記録は山ほどあるのだ。
なぜそこに学ばないのか。
大地震も津波もちゃんと記録されてきた。
 
この台風が福島原発のキズ口をさらに大きくすることの無いように祈る。
 

被災地に哀悼。
 
 
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装飾古墳画像公開ファイルの復活のお知らせ

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Yahoo公開ファイルに装飾古墳コレクションが復活しました。
以前までYahooフォトアルバムで公開していたファイルですが、一年間ほど移動するのを忘れておりましたら、ヤフーさんが自動的に別アカウントの未使用公開ファイルの方へフォトアルバム終了で自動移動してくれていました。
 
 
装飾古墳画像コレクション(要Yahoo!ID) http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
URLクリックで複数ファイルが表示されます。
お好きな地域を選んでクリックし、
「ファイル名」の上にある表示選択ボタン(三つ並んでいる黒いボタン)クリックでスライドショーか画像列挙かを選べます。
 
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朝倉市珍敷塚古墳奥壁
 
 

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what a wonderful world!

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縄文海進を観た
 
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このアイロニーに富んだ世界
 
 
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人の英知などと「軽口」だと知った。
 
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しかし日本人は笑い
 
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福島に比べれば、がんばれば元に戻せると
 
 
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けなげにもまた立ち上がる
 
 
 
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いとおしきもの
 
 
がんばれ復興!!
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ヤマトタケル天皇

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『常陸国風土記』だけはヤマトタケルを天皇として数々のエピソードを記録している。
 
「倭武天皇の威武に人々が服したので天皇と称した」(西野宣明)
「多くの東国来訪したタケル=勇者をひとりの天皇として擬人化した」
「常陸国の壬生氏が自前の皇子をヤマトタケルにしたてて天皇とした」
 
などなど諸説があるが、ヤマトタケルという特定人物がいたとはいいにくい。
ある種のアンチヒーローであり、創作された人物であると思われる。
 
そのモデルは氏族間にあったヒーロー伝説のコラージュされたものであろう。
 
そもそもヤマトタケルは、聖徳太子と同じような、理想像である。
 
これは記紀の中の貴種流離譚の一種と捉えておくべきである。
 
 
語り部のふくらませたヒーロー像である。
 
 
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物部守屋の遺骸は打ち捨てられたか?『日本書紀』「もちあげ」と「おとしめ」の思想

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播磨国風土記印南郡
「原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」
 
原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。
 
 
この大石はいわゆる「石の宝殿」と呼ばれる各地の石棺あるいは石室石材切り出しの残照である。
生きる石ともされてあとから神社が建てられることが多かった。
兵庫県高砂市の石の宝殿にも生石(おおしこ)神社の祠が寄り添っている。
 
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風土記の記事の年代観では聖徳王=厩戸皇子の摂政時代には守屋はすでに死んでいるというのが記紀の主張で、矛盾する。

しかし守屋が『日本書紀』記述どおりのようには「謀反しておらず」「誅殺もされておらなかった」としたなら、この記事の方が史実を伝えていると考えてみるのも面白い。
守屋が生前、物部氏が往古から竜山や印南の石材を切り出して墓を作っていた先祖物部(ものべ)ゆかりの石を自分の墓に使わせうと、各地から取り寄せていたとして、ここの「宝殿」もそのひとつで、途中で頓挫したか、省かれたと考えられる。
 
神社社伝や『峯相記』などのさまざまの後世の「あとづけ」はこの際無視してよい。史実とは無縁である。
この生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾を総称して、「日本三奇」と呼ぶ。
 
 
 
 
では守屋の亡骸はいずこに埋葬されたのか。
そしてその死とは、『日本書紀』が書くような謀反による誅殺だったであろうか?
極めて疑わしい。
 
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大阪府八尾市太子堂に守屋の墓があるが、これは後世の健勝碑的なものである。背後の古墳は守屋とは時代が違う。

聖徳太子という架空の存在が、記紀では、守屋の霊魂をかささぎ森の宮神社から四天王寺に移し、守屋廟を建立している。
 
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そもそも四天王寺は仏教寺院である前に守屋を鎮魂する社であった。もちろん祟り封じのためである。
 
『日本書紀』守屋の乱(丁未の乱(ていびのらん))で、
 
1 聖徳太子が蘇我馬子に命じて
2 守屋を誅殺せんとし
3 四天王に祈って
4 物部同族である迹見赤檮(とみの・いちい)に弓矢で射殺させた。
 
とある。
 
 
「とみの・いちい」の「とみ」とは「鳥見」で、生駒山を本拠としたトミのナガスネヒコを思い出させるからくりである。
物部氏のいい伝えである「旧事紀」では、首領であるニギハヤヒの方がナガスネヒコを殺すことになっている。
すると守屋がいちいに殺された(しかも弓削物部のステータスである弓矢で)という書きようは、旧事紀氏族伝承のまったく真逆になっているわけである。

物部氏が河内の靫負(ゆげい)氏族である弓削氏から妻をめとるのは、つまり河内にやってきて王となった物部氏という構造なのである。「ゆげ」は「ゆげい」であり、その中でも弓を作る氏族である。武器集団ということになる。一方物部氏は鉄剣(ものざね)氏族である。

この二つを手にした物部氏は、おそらく当時、河内最強の王者であり、大和から山背の畿内各地に広大な領地を持っていた。これはあとからやってくる氏族にとっては先住「天皇」だったはずである。
 
だから旧事紀も『日本書紀』も、ニギハヤヒは後着氏族神武によって計略的にやられ、出雲にはナガスネヒコの霊だけを流したのである。ところが三輪山の大物主が崇神の代になって大暴れする。これは河内本家と石上物部の反逆的行為である。そこで飛鳥時代まで物部本宗家は大連ととして君臨。それが新勢力蘇我氏によって排除されたという政治的事件が守屋の乱である。勢力争いである。
 
そこで聖徳太子という聖人が登場せねばならなくなる。
旧天皇である物部大連を滅ぼせるのは、新参氏族の蘇我ではなく、あくまでも新しい天孫の血を引くモノの指示でなければならない。
 
『日本書紀』は蘇我氏をおとしめる代わりに厩戸を聖人に仕立て上げた。
そしてその蘇我氏が厩戸の子孫を殺したと書きたてることで、今度は蘇我本宗家入鹿の誅殺を正当化したのである。
 
その理由は中臣氏が物部氏の祭祀家臣団だったからにほかならない。守屋の霊魂を讃え、鹿嶋とともに香取をその鎮魂地とした。霞ヶ浦より以北にあったナガスネヒコの先祖縄文氏族の結界として置いたのである。
守屋の正しい墓は四天王寺守屋廟にあったはずである。

その痕跡は阿蘇ピンク石礼拝石である。
 
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これは石棺の蓋である。それが熊野権現を遥拝する敷石になってしまっている。

しかし石棺の身と中身の亡骸がない・・・。
「川に捨てられた仏像を拾い上げ祭った」と仏教のはじまりのエピソードが存在する。
欽明天皇は蘇我稲目には仏像を祭れと言い、守屋の父・尾興には川に捨ててもよいと、二枚舌を使っている。
それで尾輿は百済伝来の仏像を川に投げ捨てる。
それはもしや守屋のことなのではないのか?
殺した蘇我氏には鎮魂せよ、殺された物部氏には忘れろ・・・ではないか?
こうして阿蘇ピンク石というヨミガエリ封じの呪の石棺が用意され、守屋の遺骸は収められた。
しかしその後、誰がいつそうしたかは知らないが、遺骸は引き出され、どこかの川に遺棄されたのかも知れない。
最近、どうもそう思われてならないのである。
なぜなら、守屋の遺骸に弓矢で殺された痕跡などまったくなかったからなのではないかと。

持ち上げる、おとしめる・・・。
記紀「伝説」には氏族に対してこの二種類の書きようをするのが常である。
持ち上げるのは残虐に滅ぼしたからである。
おとしめるのは史実はそうではないからである。
 
 
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 ものざねの「モノ」とは金属、「ざね」は武器。
物部とはモノ=霊魂を祭る氏族だとよく言われるが、その物部氏の霊魂とは「ふつのみたま」という鉄剣なのだから、もののべとは鉄によって国家を治めた大王という意味になる。
 
旧事紀では、八十(やそ)物部と中臣は同じ九州の豊国において宇佐氏や豊前草場の氏族たちを取り込んで、ニギハヤヒとともに東征してくる氏族になっている。
物部。中臣。宇佐。宗像は同族である。

印南地名 播磨稲日大郎姫 いなび・いなみ 犬並

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石の宝殿のある高砂市を含む印南郡はもと「いなびのこほり」である。
「いなび」がつづまって「いなみ」「いんなみ」。
そのいなびとは「稲日」である。芦屋道満・宮本武蔵・山片蟠桃出身地。
稲日野(いなびぬ)も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ  柿本人麻呂

「播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、生年不詳 - 景行天皇52年5月4日(122年6月25日))は、『古事記』『日本書紀』『播磨国風土記』に記される第12代景行天皇の皇后。日本武尊(ヤマトタケル)の母。針間之伊那毘能大郎女・印南別嬢とも。」
 
「記紀のイナビノオオイラツメは、『播磨国風土記』の賀古郡・印南郡条に登場する「印南別嬢」(いなみのわきいらつめ)と同一人と考えられる。「ワキイラツメ」の名は、『古事記』で妹とされ、『日本書紀』で別名とされた「ワカイラツメ」の名に通じる。風土記によれば、印南別嬢の父は丸部臣(わにべのおみ)の祖・比古汝茅(ひこなむち、彦汝命か)、母は吉備比売(きびひめ)である。景行天皇は印南別嬢を妻問いに播磨へと出向いた。別嬢は身を隠したが、天皇に探し当てられ、2人は城宮(加古川町木村?)で結ばれた。年経て没した後は日岡に墓を造ったが、遺骸を運ぶときに川の中に沈んでしまい、櫛箱と比礼(薄い肩掛け)のみを埋葬したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E7%A8%B2%E6%97%A5%E5%A4%A7%E9%83%8E%E5%A7%AB
 
 
 

ここと揖保郡など播磨西部は物部氏の古い所領で、あとから山背秦氏らも入っている。しかしそれは平安遷都に伴う移住であり、それ以前ここにいた秦氏は秦部や、海人族である波多部や鴨部や息長や和邇(=倭直?)の部民=加古(水夫)地名の元(いずれも邪馬台国中枢氏族がこれだろう)、であろう。おとなり岡山県東部、つまり吉備地方に波多の邑がある。
 
 
 
「加古の地に縁の深い天皇は、社伝にもみえるとおり景行天皇。上の伝承に続いて、こうある。
 この岡に比礼墓(ひれはか)がある。

 褶墓(ひれはか)と名づけたわけは、昔、大帯日子命(おほたらしひこのみこと。景行天皇)が
 印南別嬢(いなみのわきいらつめ)を妻問いなされた時、
 御腰に帯びられた八咫の剣の上結には八咫の勾玉、下結には麻布都鏡(まふつのかがみ)を懸けて、
 賀毛の郡の山直(やまのあたひ)らの祖、息長命(おきながのみこと)〔またの名は伊志治(いしぢ)〕を
 仲人として妻問いに下っておいでになった時、摂津の国の高瀬の済(わたり)まで来て、
 「この川を渡ろうと思うのだが」

 と渡し守に頼んだ。すると、渡し守である紀伊国の人、小玉(をだま)は、
 「私を天皇の贄人(にへびと。天皇に贄を進上する部民)となさるのですか」
 と申し上げた。 その時に勅して、
 「朕公(あぎみ。親愛なる君よ、の意)、そうではあろうがぜひ渡してほしい」
 と仰せになった」
http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_hyogo02.html

景行天皇もおそらく吉備に関する記事が多く、この天皇は吉備王家氏から出た伝説を基にした王であろう。つまり鉄の大王である。いなび媛との間にヤマトタケルは生まれるが、その一番上の兄に「櫛角別王(くしつのわけのおうきみ)」がいる。

「くし」は奇しで高貴なという意味。「つの」は若狭・但馬との関係。ツヌガアラシト=アメノヒボコとなる。息長氏や秦氏や敦賀氏、常世連などに関与する渡来系の名前である。中国地方が早くから日本海で半島や北東中国とまじわっていたことが名前からわかる。それは吉備が最古の製鉄と縄文稲の栽培地だということが証明している。

吉備といえば鉄である。六甲から吉備中山、そして備後・美作にかけて製鉄のための鉄鉱石や、砂鉄を生み出す花崗岩基層ががっしりと存在するのが中国山地の特徴である。西日本の地層はこの花崗岩岩盤が居座って、そのうえに表土がのかっているのが地質学での特徴である。だから台風などで簡単に表土が流れ出すと、もとにもどりにくく、森が復活しにくい。それで鉄をとりつくすと吉備王国は衰亡し、畿内・九州へ移住していったようである。東日本は広大な台地を持ち、そうはなりにくかった。

景行天皇はつまりそうした吉備王家の巨大古墳を造れた豪族であろう。それが九州へは熊襲の製鉄をうばうために遠征するのである。

「いなび」は稲日であるが、これに一本横線を足すと稲目になる。蘇我稲目。いなびはイネがたおやかな日を浴びて育つ場所。「いなみ」は稲美。
 
 
「入浪」説
「印南野は、兵庫県中南部、東を明石川、西を加古川、北を美嚢川で限られ、南に播磨灘を望む台地状の地域です。西国往還の要衝で、『播磨国風土記』や『万葉集』に「印南野」、「稲見野」、「稲日(いなび)野」として、広漠とした未開拓の原野のさまが記されています。
 
 台地のまわりを流れる河川とは急崖で隔てられているため、水利の便が悪く、近世初期まで開発されませんでした。江戸時代に入って加古川、明石川等の水を引き、秋冬に溜池に水を貯える開発がおこなわれ、日本でも有数の溜池密集地帯となりました。江戸時代には綿作、大正以降は稲作が進み、播磨の穀倉地帯となっています。
 
 この「いなみ」は、(1) 『播磨国風土記』は、仲哀天皇が筑紫に下られる際、「滄海(うなばら)甚く平(な)ぎ、波風和ぎ静けかりき」、故に「入浪の郡」と名付けたことによる、
(2) 「イ(接頭語)・ナミ(滑らかな台地)」の意とする説があります。 」
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei04.htm#(13) 印南野(いなみの)
 
 
いずれの説も「いなみ」からはじめており本来の「いなび」の由来にはなっていないのでダメ説である。
「いなぶ」は否ぶで、否定する、断るなど否定的意味である。

ここは良字解釈の稲美にしておくが、もっと歴史的になにかが起きた地名かもしれない。高砂市に米田町があり米田神社もある。

それに兵庫は酒どころでもある。灘の生一本。酒米山田錦特産地。しかし灘は神戸市で印南ではない。
しかし例えば加古郡から割譲されたのだから、水夫をこばむ土地とか考えうるが不確実。実際高砂は漁港である。
 
 
「猪なぶ」る?
猪の多いことは桜ヶ丘銅鐸が証明するが?
 
「いんなび」
いんは因島の「因」
「伝承では、神功皇后の乗った船がこの島に立ち寄った際に、陸から多くの犬が吼えて困ったので皇后が「犬の島」と名づけ、それがなまって「インの島」になったとも、平安時代に島が院領だったことから「院の島」が「因の島」になったとも、細島に島の前面が隠されているので「隠の島」から「因の島」になったとも言われている[1]。なお、10世紀ころに源順(みなもとのしたごう)が編纂した「和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)」には印乃之蔓(いんのしま)と記載があり、発音は現在と同じである。」
 
「犬」=工人
確かに渡来工人や隼人などに関わる可能性は播磨印南にもある。これかも知れぬ。「いぬなみ」
そもそも播磨や倉敷などは工人の国である。
 
 
播磨はかつては吉備、出雲と低い分水嶺でつながった国家である。
そして丹後・若狭ともつながっており、日本海渡来人と瀬戸内海人が混在した地域。
鳥取の大山が噴火した頃に、凝灰岩も多量に形成され、竜山石は石棺素材になった。その中心氏族は物部氏と秦氏である。
 
 
 

いずれにせよ播磨の印南地域は稲作とは久しく無縁であった。
記事のほとんどは石、鉱物、塩、海産物などで、主要生産穀物は麦である。
山に囲まれた河川沿いは狭く、水田には不向きで、水源もなかった。加古川方面の膨大な池は、ここが雨の少ない瀬戸内気候で水田には不向きであることを物語る。
ということは「稲美」はあとからの表現で「持ち上げ地名」になるだろう。
 

今のところ不明。

 
 
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月夜よし/芋名月

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月夜よし 川音さやけし いざここに 
            
             行くも行かぬも 遊びて行かむ 
                                   (万4-571) 大伴四綱か?
 
 
つくよよし かほとさやけし いさここに ゆくもゆかぬも あそひてゆかむ
 
 

都へ発つ人も、発たぬ人も、ひととき川音もここちよい今日の月を見て遊んで行かれよ。
 
 
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万葉集には大宰帥大伴卿、大納言に任(ま)けらえて京に入る時に臨み、府の官人等、卿を筑前国蘆城(あしき)の駅家(うまや)に餞(はなむけ)する歌と前置きしてある。つまり大伴旅人にハナムケとして贈った贈歌。
【補記】天平二年(730)冬、大伴旅人は大納言に任ぜられて京へ向かった。その時の送別の宴で詠まれた四首のうち最後の一首。左注に「右一首、防人佑大伴四綱」とある。四つのうちのどの一首かは定かでない表現のために、作者が確定しにくい和歌であるが、大伴四綱でよかろう。
 
 
 
 
この歌には李白の「もうこうねん」が意識されている気がする。
 

黄鶴楼送孟浩然之広陵 李白 (こうかくろうにもうこうねんのこうりょうにゆくをおくる りはく)
黄鶴楼送孟浩然之広陵
故人西辞黄鶴楼
烟花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽
唯見長江天際流
黄鶴楼に孟浩然の広陵に之くを送る
故人西のかた黄鶴楼を辞し、
烟花三月揚州に下る。
孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き、
唯見る長江の天際に流るを。
 
 
しかしながら送迎歌としては孟浩然は左遷の旅立ち、旅人は出世栄達の旅立ちである。
共通するのは、どちらもどっちにしてももう逢えないかも知れぬのだからじゃんじゃん楽しもうじゃないか、である。
 
筆者なら「逝くも逝かぬも」としてもっと哲学的にしちゃいたいところだが。
筑紫野の大宰府で旅人の壮行会をした贈歌である。
男の悲しさが満月に映し出されたようないい歌だ。
 
本日奇しくも芋名月。
 
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 Kawakatu手製きぬかつぎの煮殺がし 
 
 
 
 
衣カツギ ころもほどける 月夜には
             さぞや吾妹の  声も澄むなり                 愚作
 
 
 
 きぬかつぎは新サトイモの小芋。
 吾妹は「わぎも」と読んで「芋」に掛けてある。
やや、やらしかったか。あだにすぎますな。15R指定の和歌になった。お下品どすなあ。
 
 
 
 
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文字刻んだ最古の須恵器 能美・和田山古墳群の気になる釉薬?

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 石川県能美市の能美古墳群にある国指定史跡「和田山・末寺(まつじ)山古墳群」から出土した古墳時代中期(5世紀末)の須恵器2個に、「未」「二年」の文字が刻まれていたことが分かり、同市教育委員会が19日、発表した。文字が確認できた須恵器では国内最古という。
 
 能美市教委は「『未』は十二支のヒツジを表しているとみられる。暦や時刻、方位を表す身近な漢字から、文字文化が広まったことをうかがわせる第一級の史料」としている。
 
 つぼ(高さ約15センチ、口径約10センチ)の胴部中央に2センチ四方の大きさで「未」の文字、食物を盛る高坏(たかつき)のふた(高さ約5センチ、口径約12センチ)の縦3・5センチ、横1・3センチの範囲に縦書きで「二年」の文字がそれぞれ記されていた。
 
 いずれも須恵器の表面が乾くまでの間に、竹ぐし状の道具で書いたとみられる。このため、市教委は「5世紀末には中央の有力者だけでなく、地方の工人など広い層にも文字が普及していた可能性を示す」としている。
 国内で本格的に文字が使用されるようになったのは5世紀半ばとされる。5世紀の鉄剣には文字が記されているが、有力者が系譜や功績を記す政治目的のため、専門の職人に作らせたと考えられている。
 
 文字が刻まれた古墳時代の須恵器は、これまで堺市の野々井古墳群で出土した6世紀製作とみられる鉢の破片が最古とされてきた。
 
 能美古墳群の須恵器は1977(昭和52)年、旧寺井町教委の発掘調査で和田山23号墳(円墳、直径22・5メートル)西側の溝から出土した。
 
 45個の高坏が祭壇を作るように長方形に敷き詰められ、その上につぼなどが重ねられており、古墳で営まれた祭祀(さいし)で、供え物として使われていたとみられる。
 能美市教委は2011年10月、再調査を開始し、須恵器2個の表面に文字状の線が確認されたため、鑑定を進めていた。
 
 須恵器は21日から10月27日まで、能美市立博物館で展示される。
 
 
 
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画像で見る限りであるが、この須恵器の肩の部分には釉薬がほどこされているように見えるのが気にかかる。
釉薬がかかっているとすれば、五世紀の国内での生産はありえない。
日本の最古の釉薬は、以前も書いたが平安時代の猿投山製常滑焼が最古である。
古墳時代に釉薬のかかった須恵器があったとすれば、輸入品しか考えられないのだ。
そうなると最古の文字入りとは言っても、半島ですでに文字が刻まれた製品が輸入されたことになるのであるから、日本で最古の文字入り土器というような誤解されそうな記事になってしまう。
 
この記事だけではなんとも言えないが、少なくとも釉薬かどうかについての専門家からの物言いがないことが非常に気にかかる。
 
考古学はよく先走るので注意が必要。
それに出土したのが1970年代で、いまごろ文字があることに気付いたのだろうか?
ちょっと奇妙ではある。
 
さらに地元研究者の言辞で「工人まで文字が広がっていた可能性がある」というのも奇妙は分析である。
むしろ工人だからこそ知っている。なぜなら工人の多くは渡来人であり、土器製作時に作製年月日を入れるのは週間であり、それは文字というよりも符牒、作成証明なのである。
だから高貴な人から工人まで、と言うと、何か倭人全部が文字を知っていて、さらに工人というものがいかにも当時の再下辺の人間であるかのような誤解を生むことになる。むしろ工人は高度な文化を知っていてこそものが製作できた、身分は低くとも通常の常民とはわけが違うからである。
 
今後の分析を待つが、マスコミはまずそういう再確認にはほとんど言及しないのがツネである。
 
 
こういうところがどうも筆者は第一報の人気優先報道の傾向が好かないのである。
この記事については信頼感が低いと見た。 
 
 
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播磨国風土記の書写「孤本」という問題点

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これは橋本雅之も書いていることだが、『播磨国風土記』には写本がひとつしかないという点である。これを「孤本」という。
古代の記録や史書はすべてが原本が消失し、あるのはすべて写本であるが、いずれも複数写本があって、比較検討が可能である。しかし播磨国の古風土記だけは三条西家本を原本とする複数書写本しかない。
 
『万葉集』などは写本だけで30本ほど残っていて比較検討して底本が決められた。しかし写本がひとつしかないと、その一冊を底本とするしか手はなくなるので、書写が全部間違いがないかどうか決めがたくなる。これまでに多くの写本を検討した結果、『播磨国風土記』写本のすべての原本は三条西家本であることがわかっているのである。だから細かい部分の書き間違いや誤解が、そのままになっていることを研究者は念頭に置かねばならない書物である。
 
参考 『風土記研究の最前線』2013
 
 
ちなみに風土記にはいわゆる奈良時代の古風土記以外に江戸時代などに新撰された風土記がある。
ご存知のように古風土記で残っているものは『出雲国風土記』『豊後国風土記』『常陸国風土記』『播磨国風土記』『肥前国風土記』のみで、あとは逸文である。
 
その詳細は後日別記する。
 
 
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風土記(古風土記)

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風土記とは和銅六年(713・元明朝)五月に当時の国内各国にその地方の様子を詳細に記録し、天皇に差し出すように発令されて、各地で編纂された地誌、日本志・日本書。『古事記』成立翌年に発布された。(続日本紀)
一般的に「播磨風土記」「出雲風土記」などと「国」を省いた言辞が使われているが、後世の新撰された風土記と区別するために、学術書では正式には「国」を入れる。
 
その内容指示は、
 
1 畿内・七道諸国の郡・里に好字をつけること
2 郡内で採れる銀・銅をはじめとする鉱物、草木、禽獣、魚虫のリストを作ること
3 土地の肥沃状態を記すこと
4 山川原野の地名由来を記すこと
5 古老の伝承を記すこと
 
という明確なものであった。(『続日本紀』和銅六年五月甲子条)
 
「畿内七道諸国。郡郷の名に好字を著け。其の郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物具さに色目を録し。及土地沃瘠。山川原野の名号の所由。又古老相伝うる旧聞異事。干史籍に載せて言上せよ」
 
 
これを受けた全国役所ではそれぞれ編纂を開始する。
 
 
そのうち、現在も写本が残存しているのは
 
常陸
播磨
出雲
豊後
肥前
の五国の風土記だけ。
 
このうち完本と言えるのは『出雲国風土記』だけ。ほかは一部欠損がある。
 
この五カ国以外はすべて逸文である。
逸文(いつぶん)とはほかの記録に引用されている文章。
ただし、それらの文章群にも地域によって確かなものかどうか疑わしいものがある。
逸文のある風土記で確かな地域は、
 
山城
摂津
伊勢
尾張
陸奥
越後
伯耆
阿波
伊予
土佐
筑前
筑後
豊前
肥後
日向
大隈
壱岐
 
である。
他の地域のものは疑念をさしはさむ余地があるとされている。
 
また風土記及び逸文すら残らなかった地域は、
出羽(秋田県・山形県)
上野(群馬)
下野(栃木)
武蔵(埼玉県・東京都)
安房(千葉県南端)
三河(愛知県東部)
遠江(静岡県西部)
丹波(京都府・兵庫県の笹山地域など)
但馬(兵庫県北部)
安芸
周防
長門
そして佐渡である。(北海道は当時埒外)
 
 
◆古風土記残存濃度分布図
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橋本雅之『風土記研究の最前線』より編集
 
 
 
◆付録・旧国名地図
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風土記をはじめとする奈良時代以後の史書・地理誌のすべては書写本しか残存していない。
これは察するに、朝廷の宮の天皇即位ごとの移転や、災害、火事、いくさ、あるいは管理のずさんさに起因したかと思われる。中には意図的な散逸も?
 
書写はそれぞれに数種類から数十種類が残されたが、その中から比較検討されて底本が定められ現在に到っている。
 
また風土記の中で編集した人物が特定できるのは、国造出雲臣広嶋の署名のある『出雲風土記』だけである。
 
いずれも地方地誌である限り、体裁は中央『古事記』の神話や天皇伝承に従ってはいるものの、散漫な記事の寄せ集めであり体系的なものにはなっていない。地域によりえにしの深い中央天皇を引っ張り出して、そこに朝廷権威追随の志向性を垣間見ることができる。
 
国文学の世界では万葉集を最高峰とする傾向が強く、風土記研究は低いところにおかれ続けている。
史学では重要な資料、民俗学でも同じく。学問に資料の上下差別をするところは明治以来の日本学界の弱点であろうか?面白いと感じるのは、日本の民衆の間では詩歌よりも散文を高く評価し、詩人は収入も少ないのに、愛好家・研究者のいわゆる文学界中では、詩歌研究に余念がなく、史書・地誌の民俗学的考察は低いといういかにも京都大学発祥の学究姿勢であろうか。なかなか研究史そのものの出発点における権威主義や、先達の嗜好性が主観的であることと感心させられる。日本の文学系学問は、まずは主観的を旨としているので、科学とは見えにくいものに仕上がっていると言える。それは教育全般でも、校長に出世するものは文学系教師からが多かった往古伝統の残存にも相通ずるか?その最大の原因は、明治維新政府が武士によってできあがり、江戸時代の古臭い儒教観念を払拭し切れなかった伝統である。
 
 
いずれにせよ風土記編纂指令は、ある程度国内が安定した統一政権がようやく整ったという意味と、そうなると対外的にいいかっこうがしたくなった大和朝廷が、必死で資料収集して、中国の風土記や史書を真似て、結果的には対外的に自国成立のいかに古いか、そして朝廷のいかに正統であるか、いかに強力であるかをうそぶくために存在するものである。もちろんそれは世界中がそういうものである。「えっへん」というがためのアイテムの一つでしかあるまい。
 
 
 
 
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日十大王解釈の難解さ 大日下皇子と日下部集団 「日本の歴史学」はキセル史学

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●和歌山県隅田八幡人物画像鏡銘文
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
 
 
大意
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月十日大王年、孚弟王(男弟王か?)が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい?)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
 
●癸未年八月(みずのとひつじ)
この西暦年は443年と503年の二つの説がある。どちらが正しいのだろうか?
 
●百済武寧王(むねいおう・斯麻王・日本語読みぶねい)
462年~ 523年の人。
在位:502年 ~ 523年
 
●継体大王
450年?~531年3月10日?。
在位は507年3月3日?~531年3月10日?
 
●大日下皇子(大草香皇子)
?~454年?
 
●意柴沙加(おしさか)の宮
これは忍坂宮である。
允恭天皇のとき,皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ),つまり雄略天皇の母のために設けられたという宮で、「刑部」が置かれたので「おしさか」=「おさか」=「おっさか」=「おほさか」となる。皇后になったのは454年1月28日である。従って計算上は、画像鏡紀年が443年だとまだ忍坂宮は存在しないはずである。これも503年説を後押しする。
 
また、画像鏡銘文の「斯麻」が武寧王であるなら、やはり443年説は消えることになる。
すると503年なら即位前の継体大王が銘文の男弟王に該当し、読み方は「オヲド」となるわけである。
従って故森浩一がとなえた日十大王=日下皇子説はかなり不利である。443年説も分が無い。
 
 
 

数字上はそうなる。
では503年なら継体大王はどこにいたかというと、
あくまで『日本書紀』が正しいとするならばの話、

「506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.94.9F.E6.B6.AF
 
のであるから、近畿どころか、まだ越前にいたことになり、合わなくなってしまうのである。
 
 
では継体は本当はどこにいたかが問題になる。
もし忍坂にいたのなら、『日本書紀』はうそを書いたことになる。
もし忍坂にいたとしても、ではなぜ斯麻王が忍坂宮の継体に贈った鏡が、和歌山県の神社に伝わったかがまったく不可解である。

また「白銅」を持って作ったはずの鏡が、なぜ青銅鏡なのかも不可思議。
問題はこの鏡が倣製=コピーで、しかも踏み返しによって人物画像が上から乗せられていることだろう。
 
森浩一はその技法は武寧王陵から出土した方格規矩四神鏡(宜子孫獣帯鏡)の上に踏み返されて置かれた獣帯模様の技法とよく似ていて、共通性があると主張した。だからこの鏡の斯麻は斯麻王で武寧であるとなるのだが、武寧であるなら大日下皇子とは年代が合わなくなってしまうのである。
 
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武寧王鏡
方格規矩鏡の上に獣帯絵柄を乗せてある
 
 
 
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隅田八幡鏡
神獣鏡の上に人物画像が乗せてある
 
 
 
ならば大日下皇子の時代を60年下げればどうなるのか?
『古事記』の大日下皇子は『日本書紀』では大草香皇子 (おおくさかのみこ) であるとされ、ともに仁徳の子である。
 
母は髪長媛(かみながひめ)。妻は中蒂姫命(なかしひめのみこと)(のちの安康天皇の皇后)。子に眉輪(まよわの)王。安康天皇元年天皇が大草香皇子の妹草香幡梭姫(くさかのはたびひめの)皇女と大泊瀬(おおはつせの)皇子(雄略天皇)を結婚させようと,根使主(ねのおみ)を派遣した。大草香皇子はよろこんでうけたが,根使主がいつわりの報告をしたため天皇に殺された。「古事記」では大日下王,波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)。
彼のための名代部が日下部であるとされる。
 
 
波多は海人族を指すので大伴氏靫負部だった日下部のことだろう。生駒山麓日下地名はそこから出たのであろう。その日下には物部氏の祖であるニギハヤヒを祭る石切劔箭神社がある。日下江は縄文海進時代の難波の最深部にあった港である。だから西から船で難波に着いた船はまずここに到着したことになる。日下部は尾張氏・海部氏・物部氏・宗像氏ら大和河内先住海人族のひとつである。すると『日本書紀』の言う大日下皇子のための日下部は最初から日下に存在しており、それが河内で作られた集団であるという記紀主張は、考古学上、日下部の痕跡である靫負装飾が登場するのは5世紀中盤となり、九州人吉で5~6世紀。日田で6世紀であるからほぼ正しいことになる。つまり日下部集団が物部ら海人族とやってくるのはないことになり、少なくとも日下部は河内の日下で作られ、大日下皇子死後、各地に派遣されていったことになる。
 
となるとニギハヤヒ集団の九州からの、神武より古い時代の東征という旧事紀の記事も疑わしくなってしまいかねない。
 
 
 
●日本史は「キセル史学」?
ここは記紀の年代観がやはりこねくりまわされたと見るのがいいように感じる。
つまり応神~武烈までの河内王朝(中王朝)の挿入年代がずれている可能性である。
言い換えるなら、宋書に河内王朝を充当させようとしたが失敗しているということになろうか。
 
この問題は永遠の謎であるにも関わらず、日本史の古墳から飛鳥への画期を語る最重要な課題であり、にも関わらず迷宮入りしている大問題。
 
 
逆に考えれば、日本史の飛鳥以前・・・つまり天武天皇以前は実はほとんどすべて謎だという証明でもあるだろう。文献上の「日本史」は天武以後の、わずか1300年間しかないのである。
それ以前の倭国の歴史はほとんど未明のまま。むしろ縄文時代の方がどんどん明確化されているという「キセル歴史学」なのである。
 
 
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そもそも開中費直で「かわちのあたい」でいいのか?
 
 
孚弟王がなぜ男弟王でいいのか?
 
 
 
斯麻がなぜ斯麻王なのか?
 
 
 
やっぱりこの国の史学は文学部に置かれた主観的、詩的なSFでしかないのではないか?
 
 
 
 
学者が勝手なオデッセイのシナリオを書いている。
 
 
それで歴史観がきまっていく・・・。
 
 
 
 
不可解。
 
 
明治政府の亡霊が作った皇国古代史観が畿内にはまだ潜んでいる
 
 
 
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筑紫は「ちくし」か「つくし」か

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筑紫
これを最古では「つくし」と読む。
というのがこれまでの常識で、本当はどう読むのかについて言及した真摯な研究が無い。
 
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筑紫の最古の文献登場は、『隋書』東夷伝の「俀」国伝である。
ここには「竹斯国」とあり、これを「つくしのくに」と読むように日本の研究でではこれまで言われてきた。
それでいいのだろうか?
 
文字をよくよく見れば「竹斯」の「竹」を「つく」と読む実例は日本にしかなく、竹は「つく」とは読めない。竹は「ちく」である。ならば「ちくし」のほうが古い読みであり、「尽くす」にあてた日本での説は、疑わしいというのが森浩一などから出されている。
 
隋書よりも古い魏志には「ちくし」「つくし」の国名は登場しない。伊都や奴国で九州が登場する。
 
ということは三世紀には筑紫という呼称、あるいは国がなかったということなのだろう。
それが隋書では登場する。
 
隋書の成立は唐の7世紀なので、「ちくし」「つくし」もその頃前後のの中国の人々の認知であろう。
 
その頃に「竹」文字をあてたということは、筑紫は「ちくし」なのである。
 
では「つくし」はなぜ言い始められたか?が問題である。
 
「尽くし」は魏志や同じ隋書にある「倭の極南海」などの表現から、大和朝廷から見た、日本列島の南のさいはてであるという、差別地名ではなかったか?であるならば「つくし」はぼくは使いたくなくなるのである。そのように考えが最近変わってきた。そのような、大和のために尽した地方国家のような扱いが、心外であると思えてきたのである。実際、磐井の敗北以来、九州氏族は元寇をはじめとして、常に日本の最前線で、国土を護ってきた。
しかしその多くは率先した国防意識の発現であり、決して大和朝廷にこびての行為ではなかったと言える。
それは九州に生まれた人間としておかしかろうか?九州は、1000年の日本国家の危機に常に対峙してきた。
ぼくの先祖も、おそらく、この国の危機を、筑紫の水際で、命を惜しまず闘ってきたのであろう。その誇りは今も九州人の中に営々としてあるだろう。
 
 
 
 
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仏をなぜ日本語は「ほとけ」と言うのか?

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「「仏」をホトケと呼び始めたのは、どうやら物部守屋(もののべのもりや 弓削守屋とも ?~587)という人であったという。この人は神道派であり、政治的に対立していたのが、仏教擁護派の蘇我馬子(そがのうまこ=?~626?)や厩戸皇子(うまやとのみこ 後に聖徳太子と呼ばれる 574~622)であったという。
 
 585年3月、疫病流行の際、蘇我馬子の礼仏のゆえであるとして、廃仏毀釈を行ったのであるが、親鸞聖人の残されている『正像末浄土和讃』や『皇太子聖徳奉讃』(和讃)や『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(和讃)の中に書き残されている。(岩波文庫『親鸞和讃集』というのがある)
 
 585年に流行した疫病はどうやら熱病の一種であったらしく、善光寺の仏像を浪速(大阪)に持ってきて蘇我が礼拝したからだということで、熱病=身体が火照る(ほてる) ということから、仏像を「ほとほりけ」(火照怪)と呼んで、浪速の海に捨てたという。
 
 日本にとって仏像とは異国の神という概念があったと考えるのである。
やがて「ほとほりけ」というのは言いにくかったのだろうか、略して「ほとけ」と呼ぶようになったという。そんなことも、親鸞著の和讃の中から知ることができる。

 親鸞さんは仏のことをホトケとは呼ばず、ほぼ必ずといって良いほど、著作物のなかではブツと読んでいる。これに対して、親鸞の妻である恵信尼の残している『恵信尼消息』ではホトケと読んでおり、蓮如さんの著物に至ってはホトケという呼び方がたくさん出てくるのである。」
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/hitokuchihouwa/bututowa-nanika.htm
 
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善光寺三尊像
 

なぜ「ほとけ」と読むのかの由来。
「いくつか説があるそうで、最有力なのは「ブッダ」が「浮屠(ふと)」と音写されそれが「ほと」に転じたというものだそうです。
更にこの「ほと」に「け」がついた経緯にも二つの説。
その道の人を意味して「家」であったというものと、霊妙なものを示す接尾語「気(け)」であるという説であります。
スルーするところでした。
「浮屠(ふと)」についてはブッダに同じだそうです。
なるほどこれは有力そうですね。
可能性が低くてもあと二つの説もご紹介します。
1、仏教伝来時に「ほとほりけ」という疫病が流行したから。
宗教も流行り病??
2、仏教は煩悩を解脱すること。この「解け(ほどけ)」が転じて「ほとけ」となった説。
「解く(とく)」は「ほどく」とも読むのですね。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/write.html
 

「1)ホトケの語源については異説が多い。たとえば、柳田國男『先祖の話』「46ホトケの語源」(定本柳田國男集、第10巻 筑摩書房 1962年)p.84――「そこで私の第二の想像説、死者を無差別に皆ホトケというようになったのは、本来はホトキという器物に食饌を入れて祭る霊ということで、すなわち中世民間の盆の行事から始まったのではないかという考えも、そう突拍子もないものとはいえなくなると思う。幾つもの方面からこの問題には近よって行かれる。ホトケのホトは浮屠または仏陀の音としてもわかるが、それにケの語を添えた理由は、今でもまだちっとも判っていない。あるいは浮屠家であろうといい、また朝鮮風の接尾辞だろうというなどは、本人もなお危ぶむほどの臆説であり、僧契沖のような考え深い国学者ですらも、ほとけのケは木であって、民草青人草の草に対する語だろうなどと、心細いことを言ったままになっている。」 」
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/buddha.htm
 
 
 


 

Kawakatu流でいくと・・・
守屋がそう呼んだのなら「ほっとけ」が語源か?
柳田國男は「ほとき」は仏教以前から「行器」であり、祭祀用具を「ほとき」と言うとも書いている。『先祖の話』
「ほと」は女性器でもある。その器が「ほとき」であるなら、仏具、神具全般が「ほとき」つまり女性を表すものであるとなろうか?そもそも日本では神のほうが古いわけで呪具を「ホト器」というのは、道教の大地母信仰由来やも知れぬ。

最初の仏像は守屋が川に打ち捨て、これを拾って信州善光寺の本尊としたというから、関西弁で「ほった(放った)器」だったかも知れない。
そんなことはどうでもいいから「ほっとけ」?
 
ほとけさんも「ほとけ」と呼ばれて、この国ではぶつぶつ言っているのだろう。
 
 
旅から戻っての第一番はこんなところですかな。
もうひとつ書くかも。
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全国天皇陵・参考地の分布図

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明治政府宮内省が陵墓、陵墓参考地だとしている日本の都府県である。
古代史愛好家諸氏は、この分布図を見てどう思われただろうか?
ちょっとおかしいのじゃないか?と感じなかっただろうか?
天皇とは大和あるいは近畿地方に墓があるはずではないのか?
そういう素朴な疑問に対して考古学者松木武彦はこう解説している。
 
 
「幕末が近づくと、勤皇の思想が高まるなか、公武合体を推し進めようとする幕府の意図も働いて、特定された天皇陵の修復が、1860年前半の文久年間を中心におこなわれた。このときに姿を大きく変えられた古墳も多い。また関係のない古墳が天皇陵にまつり上げられたり、自然の山が天皇陵として囲い込まれた例もある。
 
 明治政府も、天皇中心を標榜する国家を作り上げていくための政策のひとつとして、歴代の天皇陵をすべて定め、それらを整備しようとした。・・・・
 
 さらに、天皇以外の皇族の墓とされる場所が、近畿から遠く離れた都県にあることを知って、意外に思った人もいるだろう。これら遠方の皇族墓といわれる場所は、地方もまた万世一系の天皇のもとにあることを見せるよりどころとして設けられたものだ。したがって、なぜその皇族の墓がその地方のその場所に求められるたのか、根拠がはっきりしないことも少なくない。
 
 これらの天皇陵や皇族の墓は、現在は宮内庁によって管理されている。そのほか、具体的には誰かれの墓と定められないが、規模が大きかったり、かつて際立った出土品が見つかったりした古墳もまた、「陵墓参考地」という名のもとに宮内庁管理下に入っていることが多い。さらに、天皇陵、皇族の墓、陵墓参考地のまわりにある小古墳(考古学では陪塚(ばいちょう)と呼ぶ)も、しばしばその管理下にある。」
 
 
皇室典範では天皇・皇后・太皇太后の墳墓が「陵(みささぎ)」、それ以外の皇族の墳墓が「墓(ぼ)」とされている。これらを含めて「陵墓」である。
 
 
 
諸氏よくご存知のように、これらの陵墓・参考地の多くは信憑性が薄いものが多い。
あくまでも大きさ、規模、出土品、記紀伝承に見合うような決め方であるためであるが、記紀の8世紀での伝承の記録そのものが信憑性が薄いことが多いのであろう。
 
皇族に関する記録では、とくに妃などはその出生地に墓を作ったということはないとは言えまい。
高野新笠のようにふるさと京都の大江・土師の集落に作られている。
竹野比売や間人皇女のように故郷である丹後に墓があるとされる例もある。
しかし、中には天皇そのものの陵墓が地方に比定されている例もある。
 
 
巨大だから立派な遺物が出るわけでもないことも言われている。
また天皇であるのに、その当時でも非常に小さな古墳に否定されている例もある。
極めて不可解である。しかし今更、それを再編集しなおすつもりはないようで、しかも発掘ができないとなれば、永遠に誰がどれだかわからないと言ったほうがいい状況で「ほったらかされている」わけである。
 
 
 
 
 
 

■陵墓参考地一覧
京都府 
天王塚陵墓参考地 
御室陵墓参考地 
東山本町陵墓参考地 
円山陵墓参考地
入道塚陵墓参考地 沓塚陵墓参考地 浄菩提院塚陵墓参考地 後宮塚陵墓参考地
中宮塚陵墓参考地 大亀谷陵墓参考地 
 
大阪府
藤井寺陵墓参考地 
大塚陵墓参考地
東百舌鳥陵墓参考地
百舌鳥陵墓参考地
コウボ坂陵墓参考地
檜尾塚陵墓参考地
 
奈良県 
黄金塚陵墓参考地
宇和奈辺陵墓参考地
小奈辺陵墓参考地
郡山陵墓参考地
畝傍陵墓参考地
磐園陵墓参考地
陵西陵墓参考地
富郷陵墓参考地
三吉陵墓参考地
大塚陵墓参考地
川上陵墓参考地
 
三重県
宇治山田陵墓参考地
滋賀県 
安曇陵墓参考地
下坂本陵墓参考地
 
兵庫県
玉津陵墓参考地 
市陵墓参考地 
雲部陵墓参考地
 
鳥取県 宇倍野陵墓参考地
島根県 岩坂陵墓参考地
山口県 西市陵墓参考地
愛媛県 妻鳥陵墓参考地 大井陵墓参考地
高知県 越智陵墓参考地
福岡県 勾金陵墓参考地
長崎県 佐須陵墓参考地
熊本県 花園陵墓参考地
宮崎県 北川陵墓参考地 男狭穂塚陵墓参考地 女狭穂塚陵墓参考地 鵜戸陵墓参考地
新潟県 西三川陵墓参考地
 
●宮内庁は陵墓と認定していないが学術上天皇陵の可能性が指摘される古墳
中尾山古墳(奈良県明日香村)文武天皇陵
牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)斉明天皇陵
植山古墳(奈良県橿原市)推古天皇陵
見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)欽明天皇陵:ただし後円部が畝傍陵墓参考地に指定
今城塚古墳(大阪府高槻市)継体天皇陵
 
 
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上田正昭・帰化と渡来本義

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まずは駆けつけワンクリック!!
 
 
日本ではじめて「帰化人」という言葉を著作に使ったのは上田正昭である(『帰化人』中央公論社 1965 昭和40年六月)。
 
それまで「帰化人」という言葉は世間一般でも学界でも、「なんの疑問もなしに使われていた」。
それが「渡来人」に代わったのは朝鮮人作家の金 達寿キム・タルス/キム・ダルス김달수1919年11月27日 - 1997年5月24日)の強い要望と、帰化人は差別を含む可能性がある、とした在日世論及び、それを異常に憂慮した日本史学界の影響であった。日本のこうした外国への気のまわし方は、世界から見れば奇妙で、こっけいで、気を回しすぎの面がある。敗戦国家ならではの半島への「思いやり」であろうが、変な国民性である。
世界の国家は、むしろそうした思いやりには無頓着で、自己中心的であるように見える。つまらぬ気を使いすぎ、●●談話とか、思いやり予算というような用語などの意味不明の「身を引いた」「ゆかしき」余禄を生み出している。自分で自分を卑下し、相手を思いやったつもりになっているのはこっけい。
 
金と上田を中心に、「帰化という概念もなかった時代に帰化人はおかしいだろう」となって渡来人が定着することになったという経緯がある。
 
 
 
◆帰化とは?
「帰化」とは中華思想の用語で「内帰欽化」から出た言葉。
後漢時代の歴史を書いた南朝宋の范曄 (はん よう、398年 - 445年)の『後漢書』には「帰化慕義」とあって、帰化とは中華の国の周辺の東夷・北狄(ほくてき)・南蛮・西戎(せいじゅう)などのイテキたちが中国皇帝の徳に「帰属し、ヨロコビ化す」という意味である。
 
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つまり「「帰化」は、王化あるいは皇化の思想にもとづく所産の用語」(上田『帰化人』)。
 
この帰化を好んで使用したのが『日本書紀』である。
『古事記』・「風土記」には帰化は一切出てこない。かわりに「参度来」「度来」「渡来」が使われている。
上田の『帰化人』は平成天皇もお読みになっている。
 
『古事記』応神天皇条に、
「新羅の国主の子有りき、名は天之日矛と謂ひき、是人参度来(まいわたりきつ)」
 
『播磨国風土記』揖保郡粒丘(いいぼのおか)条
「天日槍命、韓国(からくに)より度来(わたりきて)」
 
一方『日本書紀』アメノヒボコでは「来帰」として「帰化」を改変した、意識した用語になっている。
 
要するに帰化とは、その外国人が喜んで、その国の王に帰属することを望んだ場合に適する用語である。だから強制連行は帰化ではない。またやってきても、その国の風習・慣習・言語・宗教・文化などになじまぬものは「化外(けがい)」と言って、単に渡来した人とみなされた。渡来とは「渡ってきた」であり、同じ「帰」でもそこに欽こんで、喜んで、すすんで、という意味が入らない。漂着人も帰化人も俘囚も連行者も、広く「渡来」人である。
帰化にはあきらかに日本版中華思想が入っていると上田は明言する。それは正確に言うならば『日本書紀』編者たちの8世紀における中華思想=大和朝廷だけの権威主義用語である。
 
 
「養老令」には「投化」と記録がある。これも帰化である。
 
「王化を慕って帰順した渡来人が帰化人」である。
 
 
参考 上田正昭 『渡来の古代史』 角川選書 2013
 
 
 
次回、渡来人のうち新羅から来た秦氏を扱う。
これまで多くの秦氏分析をここに記してきたが、最近長らく扱わなかった。
ほとんどのことは書きつくしたと考えたからであるが、いい機会なので、あらためて秦氏や漢氏や狛氏について、ちゃんとした規定を示しておきたい。
 
 
 
 
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