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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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渡来人としての秦氏まとめ 京都移住は弥生時代中期

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上田正昭が考える「渡来の画期」とは、次の四段階になっている。
 
Ⅰ 弥生時代前後(前3~後3世紀の間?なお、筆者は縄文時代中期~後期から渡来は始まっているとみる)
Ⅱ 応神・仁徳を中心とするの五世紀の前後
Ⅲ 雄略朝を中核とする五世紀後半から六世紀前半
Ⅳ 白村江の敗北を中心とした主として百済からの移民
 
 
この中でⅢ.Ⅳを「今来の才伎(いまきのてひと)」と言う。
するとⅠ・Ⅱは「古渡」の人々ということになろうか。
渡来の中で、最も耳目に届き、また集団として大きかったのが、上田が新羅系とする秦氏(はたうじ)、百済・伽耶系とする漢氏(あやうじ)、そして高句麗系の高麗(狛 こま)氏である。いずれも古代日本に、文献上も考古学上も間違いなく、貢献してきた技術氏族・文化・芸能氏族である。
 
 
◆秦氏は新羅系
「ハタ」と読ませる氏族には秦氏以外に
波多朝臣
波多造
羽田朝臣などがある。
『新撰姓氏録』ではこれらの氏族を皇別とし、渡来とはしていない。
 
「秦氏のはた」
 
1145年『三国史記』(高麗(こうらい)の金富軾ら編集)には、慶尚北道に「波旦県」の記述がある。これに注目したのが鮎貝房之進説である(『雑攷・第二輯』下巻)。上田はこれを取らずはた=海=パダ説をとった。
 
ところが1988年三月、慶尚北道蔚珍郡(うるちんぐん)竹辺面(チュッピョンミョン )鳳坪里(ポンピョンリ)で大発見があった。524年の新羅碑が農民の農作業中に出土し、そこに新羅六部や王以下の高官がウルチン郡の住民を徴発したこと、「奴人法」「殺牛」まつりのこと、などが書かれており、古地名「波旦」も記述があった。
 
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考古学では国内の京都巨椋の宇治市街地遺跡から出ている朝鮮半島からの移民の痕跡、伏見深草遺跡から出た弥生時代の柄がついたままの木鍬が、古墳時代には風呂鍬、馬鍬(まぐわ)が渡来人による農耕技術の道具が持ち込まれたことを証明している。つまり4~5世紀には巨椋・伏見・稲荷周辺に渡来人秦氏の子飼いの部民がすでに入っていたと考えられる(上原真人『『お稲荷さん』よりも昔の稲荷』)。
 
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馬鍬
 
 
 
 
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風呂鍬
 
 
 
欽明紀には深草秦氏の大津父(おおつち)の記録があり、巨椋や伏見の秦氏はつまり深草秦氏であったとかんがえてもよかろう。深草周辺はそのために開墾、開拓が早く、すぐに屯倉が置かれた。その農業生活の開始は弥生時代中期にはもう行われていたのは間違いが無い。従って秦氏の来訪は、記録にある葛城襲津彦の時代4~5世紀の古墳時代以前だったことがわかったのである。
 
 


 
継体・安閑~欽明に推移する中で、この時代に秦氏とともに突然現れる謎の氏族がある。
 
蘇我氏である。
 
秦氏は京都南部の開発からやがて大蔵へと官僚化してゆくが、秦氏を大蔵に取り立てるのは蘇我氏である。
それはこれまで蘇我氏といえば配下は漢氏と言われてきたが、実は秦氏も蘇我氏とは非常に深い関係にあった。つまり蘇我氏と秦氏は、聖徳太子と秦河勝の関係そのままなのである。
 
さらに、上田が言うには、済州島(チェジュド)で「ハタ」は「巨・多」を意味するとされるわけだが、その「多」を名前にした多氏とは「はたうじ」そのものであるかも知れないのである。ということになると、これはえらいことになると気がつかねばならない。九州~関東まで広がる多氏の系譜である。いわゆる太安万侶にまでつながる、筑紫国造家や阿蘇氏の巨大な血脈である!
 
となると弥生・古墳時代からの装飾古墳や直弧文へつながるステータスシンボルの派生元も?
 
ここにからんでくるのが海人族安曇と宗像氏の存在である。
装飾の太陽信仰は海洋民族特有のモチーフ。
直弧文や弧文、弧帯文の言わんとするのは永遠の生命のよみがえりという道教的テーマである。
「あま」とは天と海を指す言葉であり、さらに太陽を意味している。
アマは海人であり、しかも天孫でもあり、彼らが運んだ人を渡来人と言うのである。
 
 
 
 
 
 
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[転載]景初三年のイナバウアー V字型の謎を解く

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http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_0?20131115042625
フィギュア・スケートのイナバウアーの姿勢

● 王様型就寝スタイルと心身開放
「あなたは寝ているときに、どんな寝相をしていますか?寝姿勢によって性格判断ができるという面白い研究報告があります。1970年代、アメリカの精神科医ダンケル博士が行ったものです。それによると、人の寝姿勢は以下の4つに分けられるといいます。

● 王様型
<<大の字で仰向けになって眠る>>

気持ちが開放的で、自分に自信を持っている人がとる寝姿勢です。精神的にも安定しています。

● うつぶせ型
<<うつぶせになってベッドを支配するような姿勢で眠る>>

この寝姿勢は、支配心の表れだと言います。几帳面で正確に物事を処理するのを好む一方、生活を予定通りにコントロールしたがり、予想外の出来事に対応するのが苦手な人です。

● 半胎児型
<<足を少し曲げて横向きで眠る>>

最も寝返りをしやすく、内臓を守りやすい寝姿勢です。バランス感覚を働かせられる人で、直面する出来事にも過剰なストレスを感じることなく対処できます。また、病気のときや不安が募るときにも、この姿勢をとることが多いようです。

● 胎児型
<<横向きで体を丸め、枕などを抱きかかえて
内臓や顔を隠すようにして眠る>>

このタイプは、自分自身を解放できず守りに入り、特定の人間関係に依存したがりします。また、生活を楽しんだり、困難にもあえてチャレンジしようとする気持ちを持てず、心が閉鎖的になっています。」
http://allabout.co.jp/gm/gc/299092/

つまり王様型の大の字は心身を最も解放する姿勢である。

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●「目」つまり他者を意識する自尊心を消し去ると心は無に近づき空っぽになる=神や祖霊の入る「容器・袋・壷」になる。
「(1)「こうなれれば」という空想。それが私たちの「望み」の基本的な姿でもあります。そこには「人の目」のイメージがあります。心を病むごとに、イメージが「強迫的」になり、「現実」はぶ厚いガラスを隔てたように感じられるようになります。

 (2)望みに向かい、自己と現実の不完全性にありのままに心を晒した時に現れる、濃い感情。それは「愛」と「恐怖」と「罪」です。「自尊心」は、これを見据える苦しみを支えるために、「心の自立」の中で「生み出す自尊心」として先に増大していることが必要です。

 ここで「人の目」のイメージと「自意識」が消え去ります。一度闇の中を通ることによって、心が解き放たれるのです。

 (3)それらの濃い感情にただ打たれ、それらが過ぎ去った後に現れる、未知の自分。これは(1)の空想イメージが消え去った、「ただこのありのままの現実を生きる自分」への確信の増大として、意識にはまず捉えられます。

 心に湧き出る感情は、より豊かさを増します。「愛されることを必要とせずに愛することができる」という感情としてです。」
『ハイブリッド人生心理学 第5巻 理論編(下)-病んだ心から健康な心への道-』
http://tspsycho.k-server.org/books/ps05/06.htm

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●人間が最も解放された空虚な器形はイナバウアー!

「大震災とそれにともなう避難生活の長期化で、避難者の運動不足による血栓症によるさまざまな病気の恐れが指摘されている。これにどう対処するかを扱った番組が放送されていた。4月20日のNHK総合テレビ番組「ためしてガッテン」がそれである。避難先での簡易な運動でその恐れが吹き飛んでしまうというからすごい。

 方法は、椅子に座ったような状態で、床に両足のかかとをつけ、後方にそらした体側に足先をそらすというもの。これに呼吸を合わせていわゆるイナバウアーをするというものだった。詳しくはインターネットで、この番組を検索することで詳細がわかるはずである。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=rMfiHxT16vQJ&p=%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC+%E5%BF%83%E8%BA%AB%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB%E9%96%8B%E6%94%BE&u=www.geocities.jp%2Fm_shilar%2Fwalking-urawaza.htm
イナバウアー効果→http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/41e801efafc9db7f8b6bef3ff03e54f3

荒川静香のイナバウアーは鍛え上げた柔軟な体が生み出すもので、極端すぎるので一般人には逆効果。ご注意。
いずれにせよこの姿勢は立った状態ですべてをさらけだした形。つまり「無」の姿勢である。
無防備、開放、祖霊を受容する姿勢。
だから心身を楽にしてくれるのだろう。
「どうぞいつでも降りてきて、わたしをお好きにしてください」という形。

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いったい何がいいたいのか?


●古代巫女の神へすべてを開放する姿NO.1はこれ
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_1?20131115042625

●まず大事なのは大の字が基本でこれは魔よけを示す姿
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_2?20131115042625

●そしてもうひとつ、この時高く両腕を天に差し上げ、腕を両側へ逆八の字に反らせることが肝要
●自らを心身ともに開放し、心をまったくの無にして、神や祖霊を呼び出し、おのれに受け入れ、憑依させる形
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_3?20131115042625

●その姿は鳥の羽ばたく姿になる。(白鳥は黄泉へ魂を運ぶ鳥。黒カラスは太陽を運び、青鴨は祖霊をもって帰る鳥)
●これが究極の羽振りの姿勢
●さらに鳥のように両腕を羽ばたかせたり、左右方向へ両腕を動かすと「袖振り」になる。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_4?20131115042625

●この両腕の袖振りの形を固定化して示している生物がこれ。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_5?20131115042625

●その形を絵にしたものがこれ
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●それを象徴的威信財として身につけたものがこれ。これは巫覡王の印で、形象埴輪にもなった。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_7?20131115042625

●中国では大地母・西王母のティアラに
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_8?20131115042625

●日本ではそれが王の聖なる印となり、V字型の石見型盾になった。
それが魔よけと祖霊の降り立ちいます位置であり、しかも威信財となった証拠は、その盾に刻み込まれた呪符である直孤文である。すなわちV字型は「降霊棒」。

●王冠もV、方格規矩四神鏡もTLV、靭や王椅子の背もたれもV、神社の千木もV。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_9?20131115042625
●シカの角もV。これは神樹の形なのでシカも聖なる祖霊の宿る角樹を持った王の印。


イエーイ!V^^

基本はまずTの上に○
これが人間の形であり、アンクの形。
次により開放されるVの字になった。
そしてVの先端に縄文からの永遠と回帰観念の象徴である渦巻きが取り付けられることで蕨手文(わらびて・もん)が完成する。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_10?20131115042625
福岡県うきは市珍敷塚古墳の蕨手文

この形はつまり祖霊回帰の輪廻転生つまり一族の永続性と不滅を示す象徴なのだろうと思う。
ウソだと思うなら全部並べてお見せしよう。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1605353/img_1605353_54405049_11?20131115042625

鬼道・・・景初の頃、鬼道を操る巫女女王がいた。彼女の祖霊を降ろす姿もイナバウアーだっただろう。



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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

異神 Ijin うしろどの神々グラビアで

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この国には、いくつかの不可思議な神が存在する。
渡来が持ち込んだらしきそれら中世の信仰対象は、多くが「うしろど」「うらど」の神とも呼ばれて、ハレの表には置かれずに、立派な寺院や神社の裏側や、離れの別院などにひっそりと安置されながらも、なぜか民間や修験者たちの深い信仰をうながしてきた。
 
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まずは山本ひろ子大明神女史の『異神』から、それらのご本尊を拝んでいただきましょう。
 
 
 
 
 
◆日光山常行堂内陣・摩多羅神宝殿
 
 
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◆摩多羅神 またら・じん
 
 
 
比叡山西塔常行堂内陣
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輪王寺摩多羅神二童子図
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◆摩多羅神七曜図と北斗七星面(輪王寺)
 
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◆宇賀神及び宇賀神弁財天
 
比叡山無動寺弁才天堂及び京都市正善寺宇賀神像
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果たしてこのような異神は誰がいつごろ持ち込んだのだろうか?
その答えは最後のお楽しみである。
 
神のうしろ戸に渡来あり。
 
 
 次回新羅明神・牛頭天王など
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『日本書紀』が表明した「もうひとつの中華日本」「日本は中華国家である」宣言

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『日本書紀』が言いたかった最大の結論。
それは
日本はもうひとつの中華である。だった。
 
上田正昭も書いているが、藤原不比等も蘇我馬子も、結局同じように日本を独立国家として、中国に認めさせたかったのである。そこで聖徳太子=蘇我馬子は煬帝に「日出る処の天子より日没する処の天子へ」と対等な書き方をした。
 
その心は、日本という国名は「もうひとつの中国」であるという意思表示になったのである。なぜなら中華思想とは天にひとつの太陽信仰と同じ、太一・・・北極星を天子とする唯一絶対思想だからである。しかし倭国の太陽信仰もまた唯一絶対のアマテラスの国家だと朝廷はしておきたかった。ところが『日本書紀』には星を神格とする神はまったく登場しない。星は中国のステータスだったからにほかならない。
 
だからこそ『日本書紀』はアマテラスを天孫の祖とし、それ以外の無為自然の神々をうしろどへ押し込めたのである。その持統天皇の考えは不比等の考えたものであり、女帝正当化の中国へのいい訳であった。そのためにかつての卑弥呼の存在をどこかに匂わせて、いにしえの正統王朝だった後漢と女王が正しく付き合った=だから女帝も正統な国王であると。
 
そのためには一旦伊勢に追い出された女神を復活させ、それがまるで古くからの唯一絶対信仰であるように書いた。
 
 
『日本書紀』のウソは確かにウソだが、そこには独立国家たらんとした馬子や不比等の「正義」「愛国」が横溢した大法螺である。この大嘘はスケールが大きい。だから煬帝も怒りながらも見にいかせた。いったいどんあ国なのだ・・・。しかし噂では、過去、あの三国志の曹操・・・北朝復活の中興の祖・・・一族も倭人とつきあっていた。また倭人は遅れた国家だがその徳は高く、品性卑しからざる蓬莱の人だと聞く。
 
まさに大和の中核にいたのは、その北朝=黄河文明=騎馬民族によってかつての正統な王家のあった長江から四散した人々の子孫であった。つまり先の王家である。
倭人にはその誇りがあったのだ。
もう二度と中華などに属国にされまいという強烈な意思である。
『日本書紀』がほかの史書と違うところは、その倭人としてのアイデンティティにあふれた書き方をしていることである。つまりあきらかに朝鮮とは違って、自分たちは中国の属国ではないという、当時までアジア諸国の誰もいえなかったことをはっきりと国書や正史にしたためた誇り高き独立国家だということである。
 
 
『日本書紀』のウソをいわゆる日本人の大言壮語と言うのは簡単であるが、しかしそんなことを書いたら、大陸の隣接する国家なら滅ぼされてしまうだろう。日本だけはそれが書けたというのは、それだけの覚悟があったからであろう。
 
 
実は蘇我氏があの国書を送った最大のきっかけは、秦氏の金力・情報力に裏打ちされていたものであると考える。いや、蘇我氏がにわかに登場してくる裏側に秦氏は多大な影響・・・いやいや蘇我氏と葛城氏と秦氏は朝妻の地で同族となった結果、蘇我氏が出たと言ってもいいかも知れない。
 
その秦氏は、縄文後期、熊本の曽畑(そばた)で波旦系土器が来た土地に入ったのが最初ではないか?
組合せ式釣り針と曽畑式土器の縄文時代の到着は秦氏の先祖=祖秦の人々が持ってきたのだ。
 
熊本に多い装飾古墳にあふれる太陽信仰のモチーフは、あきらかにおおもとは長江文明のものである。
ということは新羅ウルチン郡の秦氏たちは、もしかするとDNAが倭人と同じ、長江から四散した倭種のひとつかも知れないのである。はらからである。同じ長江人遺伝子から分派した朝鮮経由の人々が、やや遅れて九州西部に入ったのかも知れまい。
 
 
 
このことはこれから徐々に解明していけるだろうと思っている。
 
 
 
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異神 2 新羅明神・牛頭天王など

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◆新羅明神
 
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◆牛頭天王
 
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◆摩可迦羅天曼荼羅図
 
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「摩多羅神とは摩訶迦羅天であり、また吁枳尼天(だきにてん)である。この天の本誓に「経に云う。もし私が、臨終の際その者の死骸の肝臓を喰らわなければ、その者は往生を遂げることは出来ないだろう」。この事は非常なる秘事であって、常行堂に奉仕する堂僧たちもこの本誓を知らない。決して口外せずに秘かに崇めよ。」光宗(こうじゅう)『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55741884.html
 
当ブログで、これらの神々は「宿神(しゅくじん)」であり、人を食う神々であることを既述してある。
「人を食う」とは、大自然の猛威を表す言辞である。
 
これを荒神とも言う。
 
これらの奇妙な信仰の背景には、世界共通の荒ぶる自然への畏怖が存在する。
その源流として筆者があげたのは、インドのマハーカーラ=摩可迦羅天や荼枳尼天である。
いずれも猛悪にして血を好む神であり、宿曜経では「参(しん)」=オリオン座などとも言われる。
 
これを持ち込むのは、まずは密教である。
中でも天台密教は、真密の本義を空海が教授しなかったためか、こうした変革的な邪教を胎内にはらむ傾向があった。
 
天蜜内部にこれらの邪教を持ち込んだのは、渡来人、それも還俗したままのウバソクや修験であろうが、ざっくばらんに言ってしまえば被差別の底辺に置かれたセンミンであろう。例えば芸能民などを多数輩出した秦の民、葛の民に相違ない。
 
邪教と書いたが、言い換えるなら原始信仰である。
それは宗教というようなものでなく、より原初的な畏れである。
 
 
シャク神などと同じ、縄文から続く自然への恐怖と畏怖から、これらの宿神は生まれた。そして決して消えない。なぜなら、観念の外側で、今もまだそれらの畏怖や恐怖は現実に起きているからにほかならない。
 
 
むしろ教義を持った信仰である「宗教」よりも頑迷で、しかもわかりやすいがために、無学な人々の中にしっかりと根付いた根つきの信仰だと言える。それは迷信のように見えて、実は人類の生き様をぴたりと言い当てる真理なのだろう。
 
哲学や科学ではどうしようもない事象を、これらの神は救う存在ゆえに、知能・知識の高いものでさえある恐怖体験があった場合容易にこれに傾倒することさえある。
 
太古から続く来訪神とも相通ずる、民俗学上非情に興味深い信仰の神。
 
 
 
ダークサイド=うしろどの守護神であろう。
 
 
渡った人は戻れなくなる無明の橋である。
 
 
面白い。
 
 
 
 
 
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唐古・鍵で九州須玖式土器

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当然出るはずのものが出た、ということになろうか。
 
ランクリよろしくね!
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 「弥生時代を代表する集落跡の「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」(奈良県田原本町)から出土した土器片が、同時代中期中ごろ(約2200年前)に九州北部で作られた土器と判明し、町教委が15日、発表した。同遺跡を含む近畿の弥生時代の遺跡から九州の土器が確認されたのは初めて。専門家は「瀬戸内海を通じて直接交流があった可能性がある」としている。

 須玖(すぐ)式と呼ばれる土器の破片で、甕(かめ)の口縁部(こうえんぶ)にあたる。長さ13センチ、幅5・3センチ。昭和63年に出土し、今回、土器の再整理作業中に確認された。

 須玖式土器は、筑前(ちくぜん)地域(福岡県)で出土する弥生時代中期の土器。口縁部をL字形に折り曲げ、赤く彩色する特徴がある。

 唐古・鍵遺跡では、これまで出土した土器の西限は吉備地域(岡山県)。逆に九州側から見た場合も、弥生時代中期の九州の土器が出土した東限は吉備地域だった。町教委の担当者は「広域交流の可能性を示し、問題を提起する土器」としている。

 土器片をみた田崎博之・愛媛大教授(考古学)は「たとえ出土したのが1点でも、当時の広域交流を考える上で重要な意味を持つ」としている 

 土器片は16日~12月23日、町内の唐古・鍵考古学ミュージアムで展示される。」
産経新聞 11月16日(土)9時26分配信
 
 
 
 
 


 
 
 
須玖(すぐ)式土器
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◆弥生時代の土器概説
前期の土器
わが国最古の弥生土器は、福岡空港にほど近い板付遺跡の発掘調査によって、初めて知られるようになった。
同地出土の土器は、その遺跡の名を取って板付式と呼ばれている。

この最古の弥生土器は、博多平野を中心とする玄界灘沿岸地方を主に長崎県壱岐・対馬・五島列島という限られた地に分布している。

最古の弥生土器よりはほぼ一段遅れて、遠賀川式土器は瀬戸内海沿岸部のごく限られた土地で作られ、そこを拠点にして波紋のように周辺部へ広がっていった。

他方、大阪湾沿岸部にもいち早く上陸した後、この地の豊かな風土に恵まれて、畿内の弥生土器が開花する。
木葉文で飾った壷や彩文土器が、その一つの現われである。

前期の土器の種類
(板付式土器) (瀬戸内第1様式) (畿内第1様式)

 
中期の土器
中期に入ると、九州の土器は文様を急速に捨て去っていく。
中期中頃になると、須玖式の名で親しまれている土器群が登場する。
これらは形も優美で、全体を赤く塗り磨きあげた丹塗り研磨土器が多く、直線的な凸帯文とともにその美しい形を競い合っている。
近畿地方では、中期中頃になると櫛描文が最盛期を迎える。
東日本に弥生土器が最初に普及したのは、中期の初め頃になる。
しかし同地が急に弥生土器に変身したわけではない。
そこでは磨消縄文や工字文をもつ縄文的な弥生土器が作られていた。

中期の弥生土器の種類
(須玖式土器) (瀬戸内第2、第3、第4様式) (畿内第2、第3、第4様式)

 
後期の土器
近畿地方の後期土器でもっとも特色のある技法は、叩き板による成形法であろう。
関東地方以西の土器の地方色は、次第にいくつかのまとまりに統合されていく。
東海地方から南関東に至る地域の土器は、口の周辺部を幅広く作って、粘土紐を縦に貼り付けたり、施文部以外の器面を赤く塗った、いわゆるパレススタイル的な特徴が共通しており、最初に発見された弥生町式の土器もその典型である。
弥生町式に続く前野町式の段階になると、土器作りは粗略化の方向へ向かい、文様をつけることもまれになる。
この頃、西日本ではすでに古墳時代に入っていた。
一方、東北地方では後期に至っても土器の文様にはまだ縄文文化の伝統が部分的に生き続けていた。

後期の土器の種類
(西新式) (瀬戸内第5様式) (畿内第5様式) (久が原式) (弥生町式) (前野町式) (天王山式)
 
 

 
 
◆唐古・鍵遺跡
 
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奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
近鉄橿原線石見駅下車 東へ徒歩約30分
近鉄橿原線田原本駅下車 タクシー約10分
 
約42万平方メートル
 
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈良盆地のほぼ中央、標高48~51メートルの沖積地に立地する。1936・7年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みを作った。その後、発掘調査は1977年に再開され、2009年3月までに106次に達している。
 
集落は、多条環濠を有し、大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。大環濠(内濠)は直径400メートルの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方メートルの面積を占める。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ勾玉、楼閣の描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺構・遺物から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。
展示品は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示している。
 
大阪府西部・滋賀県南部・三重県から愛知県西部・岡山県南部など各地の搬入土器が出土。
大型勾玉が2個入った褐鉄鉱(かつてっこう)容器が出土。(道教思想が入った証拠品)
ヒスイ製勾玉(新潟県糸魚川市周辺のものが原料)
送風管(大和式)
 
尾張氏になってゆく海人族、吉備王家などの共同居住地か?つまり出雲系である。
 
 
 


 
 
唐古・鍵遺跡は今のところ弥生時代の、紀元前4世紀から3世紀半ばまで続いた遺跡とされている。今後の都市部発掘次第では4世紀以降まで延びる可能性をはらみ、隣接する纏向遺跡と重なってくることも考えられる。学者によっては纒向よりも唐古・鍵を邪馬台国時代の遺跡だと考えるものもある。
 
銅鐸の生産地として認識され、全国の産物があつまる「やちまた」である。銅鐸鋳型については吉野ヶ里出土のものとの類似や、須玖岡本などとの関係が言われてきた。おそらく須玖岡本は奴国の遺跡であろうから、すでに前3世紀頃に九州からもここへ、大陸や九州での争いを避けて移住したものもいたことだろう。
 
筑紫の東側勢力と唐古・鍵が交流していたということになろうが、まだまだ例証としては少なすぎるようにも思える。
 
 
 
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奈迩波ツ尓 佐久夜己能波奈布由己母理 伊麻波波流倍等佐久夜己乃波奈

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  なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

   難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花     伝・和邇吉師(王仁)
 
奈迩波ツ尓 佐久夜己能波奈布由己母理 伊麻波波流倍等佐久夜己乃波奈
 
 
「王仁博士(わにはかせ)。生没年未詳。朝鮮(百済)からの渡来人で、日本に論語などを伝えたとされる、半ば伝説的な人物です。
『日本書紀』の応神天皇十五年八月条に記述があります。百済王が日本に阿直岐(あちき)を遣わして馬二匹を献上してきたが、阿直岐は経典をよく読みました。そこで皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ。応神天皇の皇子)が尋ねます。
 
「お前以上の学者はいるか」
「ならば王仁という者がいます。それはすぐれた人物です」
 
そこで荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)の二人を百済に遣わし、王仁博士を日本に招きました。翌年春、王仁博士は来朝します。そこで太子菟道稚郎子は王仁博士を師とし、あらゆる学問に通じるようになった、この王仁博士は書首(ふみのおびと、西文氏)らの始祖であると記されています。
また『古事記』応神天皇段では王仁を和邇吉師(わにきし)と記し、『論語』十巻と『千字文』一巻を日本に献上したと書かれています。
 
一族は河内の古市(大坂府羽曳野(はびき)市)に居住し、文字の開発・不朽に貢献しました。」
 
 
と言われているけれど、実際にそういう人物がいた証拠は朝鮮には存在しない。記録になし。この逸話は漢氏の創作した「あやし」い話じゃないかと、学界ではもっぱらの評判らしい。

この和歌については『土佐日記』で紀貫之が「仮名序」に於いて、
「「浅香山」とともに手習いの和歌の代表である」としている。
 
考古学的にはまさにそれを証明するように全国でこれほど木簡に書かれたものはない。古代の「いろは歌」とも言える。

その出土年代も幅広く、七世紀後半の桜井市山田寺跡出土の瓦~十世紀前半ころの醍醐寺五重塔天井板墨書に至るまで、実に400年間近くのあいだ、手習いの文字に使われている。西欧で言うならば映画「マイフェア・レディ」で使われた「スペインに降る雨は・・・」のような歌である。
 
この和歌がなぜワニ博士なる人物が詠んだとされたかは不明。

枚方市、交野市、寝屋川市など渡来系の多かった地域に博士の墓なるものが作られているがすべてはあとの時代の後付けで建ったものである。
 
朝鮮半島では、最近まで王仁に対する認識は皆無で、記録にも登場しないために無視されていたが、にっくきニッテイの倭人ずれに漢字や文字を教えてやった偉大な徳のある人として昨今にわかに祭りが始まっている。でっちあげが得意な恨思想の裏返しであろう。
 
多くの学者も王仁がいたとしても応神天皇時代にやってきたはずはないとしており、東西文氏が作り上げた仮冒・始祖伝説である可能性が濃厚。というよりも河内文氏が書記官として各種文書にたずさわってきたことが、日本に最初に文字を伝えたのは我々であるというステータスとして王仁を創り出させたと言ったほうが正確であろう(上田正昭)。

それにしてもわが国の古代雄族である和邇氏の文字を使うとは大胆でまぎらわしい。
 
 
そういう伝承よりも大事なことは、なぜこの和歌が手習い用になったかである。
つまりむしろ最初から、今来の渡来系の日本語手習い用に河内文氏の誰かがこの和歌を作ったんだということである。そう考えるのが必然的ではないか?
 
東国で万葉鵜歌が非常にたくさん作られたのは、そもそも日本語を習った渡来人が東国に多かったからにほかならない。東国の渡来人は最初から近畿地方を経由しないで、直接日本海から中部山地を越えて関東平野に入ったものばかりである。だから関西・西日本の渡来人よりも日本語にうとかった。北関東の強い訛りはその影響であろう。
 
 
もちろん書記が渡来系であっても、日本語の基層は朝鮮語の影響をほとんど受けなかったことは言うまでもない。むしろ言うべきは正反対で、渡来人が日本語に懸命に馴染もうとした痕跡が和歌での手習いなのである。
 
 
 
 
 
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「けみょう」/日本人の氏姓の構成・真実卑しい行為が姓を持つこと

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筆者の先祖の名前にこのようなものがいる。

●田 左衛門大夫 藤原 鑑秀
地名  役職名   姓名 実名
 
●●だの さえもんだゆう ふじわらの かねひで
 
豊後国春日神社大宮司だった人であるそうな。
 
ここには「仮名(けみょう)」が一切書かれていない。
「けみょう」というのは、太郎とか次郎とかいう一家内での順位を表す名前。
前に一文字ついて平次郎とか実五郎などとなることが多い。
 
 
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駆けつけワンクリ
 
 


 

畠山  荘司  平  次郎  重忠
地名  役職  姓  仮名  実名
 
「はたやま(埼玉県地名)の」「そしてはたやまそうという荘園の司の」
「たいらの」
「次男の」
「しげただ」という構成になるのが中世武士である。
で、通称は畠山重忠である。
誰?
源平合戦鵯越の逆落としで、自分の馬を背負ってひよどり坂を駆け下りた奇人・変人じみた荒武者である。
 
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埼玉県深谷市畠山の畠山重忠公史跡公園の銅像
 
 
 
参考 奥富敬之『日本人の生の歴史』
 
 
 


 

実名のことを「諱 いみな」とも言う。
「いみな」とは「忌むべき名前」で、人に知られると呪術を掛けられたり、のろわれたりするかも知れないので決して明かさない約束の名前である。普通は死んでから明かされる(祟られたりしない身近な人や、目上の人にはちゃんと名乗る)。だから畠山重忠さんは生前はずっと「畠山●●●」のような別名、愛称、通称で呼ばれていたことになる。
 
苗字に当たる地名名乗りは、居城が変わったりすれば当然苗字も変わった。
まず苗字、姓名なるものは帰属する集団名か地名でしかなく、そもそも世界中のどの人間も最初は姓などなかった。名しかないのが普通で、姓とはあとになって

1 権威的意味で
2 出自を明確にし、同名のものと区別させたいために

などの理由でつけるようになる。
 
原人の頃などはあなたが今も奥さんを呼ぶときのように「おい」だけだっただろう。
すべてはより明確な個体識別のために氏名は始まる。
 
 
新田 荘司 源 義重

同じである。

間に通称名が入るはずだが、省略してあるので不明である。
「そうたろう」とか「ごんじゅうろう」とか入るはずだが、正式名称としては必要ないから、記録には残りにくい。
「やまちゃん」だったかも知れない。うそ。

「悪太郎」「悪源太」などというあだ名が入る場合もある。これは元気があって生命力にあふれてやがる男、という意味のあだ名である。

「八幡太郎」などは信仰した神の名前。
 
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山口市今八幡宮八幡太郎義家像
 
 
 
武家の姓(かばね)には四つしかない。
源・平・藤・橘(げんぺいとうきつ)である。
源平はわかるだろうから、藤は藤原、橘とは藤原氏に嫁いだ橘夫人(県犬養の橘宿禰八千代)由来の氏姓である。

このように藤原四家以外の藤原氏は武家である。しのぎのためであろう。これは皇族でも、はじっこのものたちは同じであった。源平もそういう親王一家のはじっこのはじっこから出るというのが建前。
 
これが戦国時代の武家はそうではない。
源平藤橘の氏姓はあとから勝手に自称・仮冒したものばかり。
実際の出自はまったく不明なものばかり。
 
1食い詰め渡来人
2そこから出た不浪人・芸能人・やから・阿弥
3百姓・農民からひょんなことで
 
登場するのである。あ、おたくもそうでしょう?
そう言えることこそが民主主義がわかっているってことでしょう?
まさか、うちは佐藤だが、奥州藤原家一門だ~~~~なんて、酔ったついでに人に自慢してないよね?
佐藤・後藤は戌の糞というけれど、なぜだがわかってますよね?
 

東国の藤原秀郷(俵の藤太)の「藤原」は、先祖が畿内武士団藤原一家が食い詰めて関東の田原に入って名乗った。だから正式には
 
田原の ●●の 藤原の 藤太 秀郷

●●には役職名が入るが、それは年代によって出世もあるので最終役職名が入る。
通称は「俵藤太 たわらのとうた」である。
「俵」はもちろん地名の田原であるが、俵にしたのは炭俵の意味で、製鉄氏族を示し、「とうた」は製鉄の「ユリ」である「淘汰」にひっかけたあだ名で構成される。

その子孫を名乗ったのが滋賀県近江国の近藤家で、その子孫を名乗るのが当家や大友宗麟である。家紋は近藤流すべてが丸にくぎ抜きである。もっとも大友一家は実はどこの馬の骨かよくわかっていない。一般には近藤家から出たのが古庄氏でその子が大友氏初代となっている。
また相模国秦野を名乗った藤原子孫が波多野氏で、大友氏母方である。
 

 
これが貴族の場合は奈良時代の氏姓制度(うじかばねのせい)に順ずる。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%8F%E5%A7%93%E5%88%B6%E5%BA%A6
構成は武家と大差はないが、役職名が違う。
 
 
 
大事なことは、姓名のうち、決定的に今と違うのは、
姓とは所属する集団名であり、名字は地名だということである。
ここが平民とは名乗り方が違っているわけである。
 
 
では平民はどういうふうに明治時代に名字をつけたか・・・
適当につけたわけである。どういうこと?

佐藤さんが多かったからぼくもそうしようで佐藤をつけたとか。
砂糖きびを作っていたから砂糖にしたが、あとで一般的な佐藤にしたという具合。(実例がある)
あるいは藤原村の農家だったから藤原、藤原では恐れ多いから葛原とか佐藤とか後藤。
そういうつけかたである。
 
地域によってはひとりの庄屋さんがまとめてつけて、全戸が同じ名字の地域もある。
それが庄屋のよめはんのなまえの「およね」だったら「米田」なんて、いいかげんにしてよ、みたいな名づけ方だとしたら、どう思いますか?
 
 

さて、ちなみに・・・
山本 太郎さんという名前の構成は
山本・・・山の麓という立地名
太郎・・・長男という仮名
つまり実態がまったくない名前である。

朝刊太郎・・・新聞配達という役職名の長男。
川口松太郎・・・川口村の松ノ木のある家の長男
松下幸之助・・・松ノ木の下の家の幸せになってくれという、何番目かもわからない名前。
橋下徹・・・・・・・橋のしたの家の初志貫徹する男
北野たけし・・・・どっか知らないが北のほうの元気がとりえのガキ
御法川 法男・・・ノリ川地域の法律家一家の男(みのもんた)
というふうなのが現代の名前の構成である。

とにもかくにも名字などは最初は誰にもなかったわけである。
それが今は最高位にいる天皇にだけ姓がない。
近世までは天皇と平民には姓も名字もなかった。武士と貴族・官僚だけが区別を必要としたわけである。つまりそれは差別化と権威化にほかならない。真実卑しいからこそ権威を求めたのである。
 
 
 
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日本の中華思想記事

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『続日本紀』文武三年(699)
 
「多褹、夜久、菴美、度感(種子島・屋久島・奄美諸島・徳之島あるいはトカラ)等の人、朝宰に従ひて来り、方物を貢ず。位を授けて物を賜ふに各差あり、その度感の中国に通ずること是に始まる。」
 
ここにある「中国」とは大陸の中華帝国のことではなく、前に朝宰=朝廷とあるのだからわが国のことである。
 
 
 
養老六年(722)四月二十五日「太政官奏」
「是をもって聖王制を立て、亦(また)務めて辺りを実するは、蓋し(けだし)中国を安むずるを以ってなり。」
 
この中国も日本朝廷を指す。
 
 
こうした中華意識の大元になるのはおそらく、『隋書倭国伝』に「その風俗夏華に同じ」とされた秦王国記事にあったかと思える。秦王国とは豊前~周防あたりにあった秦氏の居住地であるから、こうした日本の朝廷の中華思想の源泉もまた秦氏にあったと見える。
 
この「夏華」というのはいわゆる夏華族で、漢代には黄河流域に住まう漢民族の自称であるから、中華人民のことになる。その言葉を朝廷が自称し、使用したということは、「日本は中華国家」だと言っていることになる。
 
 
『続日本紀』霊亀元年(715)九月二日
「夏華載佇(さいちょ)」
延暦九年(790)五月五日
「陸奥外文」
「華土」
とあって、いずれも自らを「華」「夏華」としている。
 
あきらかに中華思想である。
 
そういうところから周辺諸国を蛮族と見る意識が芽生える。
半島や渤海などの諸国への蔑視の始まりである。
これは秦氏ではなく漢氏・文氏が王仁博士が持ち込んだ儒教、と書いたように、あきらかな儒教による選民国家意識のはじまりでもある。
 
8世紀のこうしたアイデンティティは、いわゆる右よりの帝国主義的な思想であり、中国と並立せんとした思想である。
 
『日本書紀』が「渡来」を「帰化」としたのも、つまり天武以降の国粋的思想を背景にしたものであった。
 
参考 上田正昭『渡来の古代史』
 
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蘇我氏と秦氏/深草秦氏と馬と産業

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『古語拾遺』長谷朝倉朝条
「長谷朝倉の朝に至りて、秦氏分け散(あら)けて、他族に寄り隷(つ)きき。(中略)此より後、諸国の貢調、年々に盈(み)ち溢(あふ)れき。更に大蔵を立てて、蘇我満智宿祢をして三蔵[斎蔵・内蔵・大蔵]を検校せしめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東西の文氏をして其の簿を勘録せしむ。・・・・」
 


 
忌部広成(いんべのひろなり)が平安時代初めに書いた『古語拾遺』であるので、この記事が正鵠かどうかは諸説あろう。また斎蔵の存在は忌部に偏った創作でもあろう。さらに蘇我満智という人物が実際にいたとも思えず、蘇我氏の始まりは稲目から始まったというのが定説である。
 
ともあれ、蘇我氏の本家が大蔵・内蔵氏族だったわけではなく、それは倉山田石河家の「倉」から見ても石河一族がそうだったのであり、祖人・蘇我満智のことも石河家が作った話であるだろう。稲目の前に置かれた満智・韓子・高麗の始祖三代は創作である。

だがここにある「長谷の朝倉」とは泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみやであり、雄略朝のことをさしている。
それまで渡来した秦氏一党は、あちこちに分派してほかの在来氏族の居住地に依託されいたらしい。それが秦酒君あたりから財力も充実し、例の「うずまさにもりあげるほどの朝貢物」を献上できいるようになり、蘇我満智の耳目にとまり、大蔵をもうしつかるようになった。
 
さて、この酒君というのが葛野秦氏の祖であろう。そこから河勝が出てくるのであるが、遺跡では巨椋池の宇治・深草のほうが圧倒的に古く弥生時代からである。すると深草秦氏はいったいどういう扱いになったのか?
深草秦氏には馬の記録と、水銀の発掘の記録が残っている。こちらは官僚にはならずに工業・貿易の集団になったと考えられる。

京都の深草から東へ向かうのに「深草屯倉からは馬で東国へ」と『日本書紀』は山背大兄の遭難記事に書く。
京都南部の伏見や宇治に最初の秦氏の考古学的痕跡が出てくるのは、先の記事で書いた巨椋(小倉)の宇治市郊外遺跡の五世紀である。深草には龍谷大学伏見舎と、となりの警察学校の真下に深草坊町(弥生)遺跡が埋め戻されて存在する。
 
また深草本町商店街には藤森神社があって、伏見稲荷大社が置かれている。
深草からはあの深草少将が通いつめた小野に通じる街道がちゃんとある。青春時代、筆者はここを遊び場にしていた。同級生も住んでいる。龍谷大学は母校である。
 
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ここから山科へ出れば琵琶湖から伊吹山を越えて尾張へ出る。また伊勢へも近い。
伊勢の水銀を馬で運んだのが秦大津父たちである。
その子孫の秦伊呂具(いろぐ)は水銀で大家をなした。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52167668.html
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つまり京都で最初に秦氏が繁栄したのは京都市南部~宇治市~八幡市つまり紀伊郡~綴喜郡あたりである。葛野よりも早いのだ。
紀伊郡とはそこが紀氏が入った地名である。だから秦氏と紀氏にも縁故がある。
その紀氏の古墳である紀ノ川河口部の淡の輪古墳群の土器は、京都葛野の物集女(もずめ)あたりまで到達している。これもだいぶんまえにここに書いた。
 
紀氏は葛城氏同祖の武内宿禰の子孫である。つまり海人系なのだ。その古墳を作っていったのは桂川にいた土師氏である。つまり淡輪式土器は土師氏物集女氏が作る土器ということになる。

秦氏は最初に大和の高尾張=葛城の朝妻に入っている記事があるが、それよりもはるかに早い弥生時代後期に、すでに彼らは宇治の三川合流湿地である巨椋池周辺に住まっていたのである。その後、平安時代になっても深草といえばかわらけ=土器の通称となっている。つまり深草秦氏は水銀だけでなく窯業・製陶業でも生活していた。
 
本町通の藤森神社には神功皇后を祭る廟がある。
ここはもと兵頭神社と言われ、物部氏の武器庫でもあった。

なぜここに武器庫が必要かといえば、それはちょうど奈良の珠木山のふもとの三輪に、穴師坐大兵主神社=穴師神社があるのとまったく同じ立地・・・つまり東国へ出るための街道があったからなのである。東国からの蛮族の攻撃を防ぐための武器庫なのである。
 
秦氏が分派して従来の大和氏族の子飼い状態になったことは、結果的に秦氏の複雑化、拡散、拡大をまねくきっかになったのであろう。

秦氏は葛城、物部、尾張、鴨、蘇我、波多、多など、大氏族とどんどん結合していく。だからひとり秦氏というよりも、大和・山背の氏族に浸透していったために複雑怪奇な氏族へとふくらんでいくのである。
 
しかもその部民となると、もう日本中に拡散した。まさに「くずのようにしつこい」きりがない氏族になる。
まさに巨・多の氏族である。するとネットワークが生まれる。産業のための情報通信網である。シンジケートになる。

これを豪族たちが利用しないはずはなかった。

つづく
 
 
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今年の紅葉を別ブログで

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今年もあちこち巡りました。
でご閲覧ください。
特に本日は国東半島を巡りました。
写真は並石ダム修験者の造った造形と紅葉
 
 
国東は修験峯入り、行者入りの聖地であります。
四国も海の向こうに見えました。
 
 
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十一/職能民の絵文字

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           (十 一)
 
 
 
 
 
 
 
この絵文字はある職能者の外見特性を示す符牒であると筆者は考えている。
さすがに往古に( )記号はない。
ただの地名で「十一 じゅういち」なのである。
民俗学の分析で、これは鍛冶屋を示していると筆者は考えた。
製鉄氏族というのは、世界共通で「片目」なのだ。
だから十一もまた、片目を表す漢字を使った絵文字なのではないか・・・。
 
今から約十年前、大分県竹田市にあるこの地名に出くわした筆者は、十一バス停の次のバス停が「鍛冶屋」であることに気づいた。そしてここの地形が北西から南東へゆるやかに下ってゆく「風の通り道」であることを知った。戌亥~辰巳の方角とは、季節風の通り道である。そうした扇状地に、古代から、多くの野だたらが作られたのは、出雲に限った話ではない。
 
鍛冶屋がたたらを見つめて三日三晩も火を絶やさぬように火の守をしなければならないことは、製鉄と古代史を知るものなら必ず知っている話である。
だから片目が火の粉で傷つくのである。
 
日本の村落の中で、伝承がある。
「頭屋」「とうば」というものが登場する祭りである。
鍛冶屋、製鉄にとって死者は縁起がよいとされ、生贄としての人身御供神事で、捉えてきた人質の片目を傷つけ、片足を傷つけ動けなくして、一年間、かこいものにしたあげくに、殺して神に捧げたのである。
風土記に多い、こうした記述は、要するに片目・片足とは中国太古の夏王朝の禹王が、いざりで片目だったことに由来した、道教的鬼道の流れを汲んでいると思われる。
 
いわゆる大和で言えば「穴師」、諏訪で言う「薙ぎ切神事」などと同根の儀式を鍛冶屋はモンスーンの頃に行ったらしいのである。
 
 


 
 
<地形>
 久住連山から南東へゆっくりと降りてゆく稜線上の国道沿線。両側は谷になっており、西側は「川床」地区で大きな川・玉来川(たまらいがわ)が流れる。この川はやがて県下最大の大野川に合流。合流地点から竹田市市街地、豊後大野市、県都大分市丹生地区へ流れ出す。背後は高千穂の峰とも言われる祖母傾山系が遙拝できる。東側は複雑な地形の棚田がいくつも作られ、それぞれ細い道。その先に小部落がある。久住連山が吹き下ろす風はこの東側傾斜地を一気に駆け下りると思われる。10~11月頃の「おろし」はいわゆる秋の季節風・モンスーンである。若尾五雄『黄金の百足鉱山民俗学への道』によれば、たたら製鉄は開始時期はこのモンスーンの吹く11月であったと書いている。

中世から歴代の領主たちが大切にしてきたこの地域でも最も社格の高い城原地域周辺(城原は「きばる」と読み、近隣には鬼原地名もあるところから、本来は鬼原かと思える。)

西側の玉来川の名称は、この川からある種の玉が採れた、あるいは水源のある熊本阿蘇地方からの新技術、新文化の到来を思わせる。はるかなる祖母傾山系は多くの鉱物を古代から産出する。また北部に白丹温泉があり、白い丹という矛盾した名前は温泉成分である硫酸塩素、炭酸塩素を意味するか。

久住連山は九州最高峰で、その中の硫黄山は今も有毒ガスを排出する。この硫化鉱脈を抜けて潤島川(うるしまがわ)、久住川などが南下、地域名は朽網。漆職人、木地師の存在を感じさせるこの川の名前は連山反対側のK町の氏族である漆間氏を排出したか。
また朽網氏の氏族名は硫黄成分の多い久住水系の水が臭いことから「臭み」がなまったものと郷
土史では定説化している。

玉来川西地区は建築、土木、石工、造園などの技術業種が点在し、多くの横穴古墳が見られる。ゆるやかな上り坂の上には奈良に染料を提供し、貴族婦女子に尊ばれた「紫草の里」という部落があり、やはり横穴墓群とむらさき八幡宮がある。紫草栽培は現在、サフラン栽培に移行したが、紫色の花で高額な植物という点では同じ。サフランは食用と薬用。

国道東側で最大の古墳は5世紀の帆立貝式前方後円墳「丸山古墳」。西側では少し南に離れるが
禰擬野の七つ森古墳群がある。ここは景行天皇が土蜘蛛を祭ったところ。
バス停は道の駅竹田を過ぎて上がってゆくに従い、上鹿口、下鹿口、十一(ここは梶の迫地区とい
う)、紙漉、地蔵堂、城原(城原小学校に景行天皇行宮跡)、轟、かじや。

民俗学者たちの研究に寄れば、鉱山開発者と運命共同体のように付きそう者たちには、飯炊き(かしき)、たたら師、鍛冶屋の他に、杣、番匠、ろくろ木地師、香具師、指物師、石工、農業従事者、仏師、白拍子などがあるといわれている。つまり、一箇の町そのものが鉱山周辺、たたら周辺
にはできてゆくと言ってよいだろう。生産が安定するとやがて大きな神社もできあがり、鉱山などでの死者を埋葬する仏閣(たいがいが禅宗か真言・天台である)ができる。

城原周辺はその後も大友、緒方、志賀、中川などの諸氏が相次いで入り、それぞれ城原神社に厚い信仰を寄せてきた。また島津氏も豊後攻めのさいにまずここへ入ってもいる。

こうしたことから竹田市一帯を含める大分県南部の広範囲が、古代から重要な地点にあったことがわかって来た。過去、頼朝の不審を買った義経が、まず竹田の岡城に籠もろうとした時、それを迎え入れたのは豊後大神氏の末裔・緒方三郎惟義であった。岡城は義経を匿うために惟義が築城したのである。

豊後大神氏もまた製鉄、鍛冶の氏族である。



十一地名がなぜ?から始まったこのフィールドワークで、この地域の職能民定住が見えてきた。

酒造業、紙漉、鍛冶、景行天皇行宮跡などなどの点在。かつ、武士たちが必要とした土地であっ
たことから、この地域はあきらかに刀鍛冶、農具鍛冶がいたはずであり、その地名が轟という槌撃
つ響きを地名とし、十一という「片目」=たたら鍛冶を連想させる地名として残ったと考える。
鍛冶神はたたらの火を三日三晩見つめ、飛んでくる火の粉で多くが目を痛めるという鍛冶職人そ
のものを表している。「一つ目小僧・その他」柳田國男。
また鍛冶職は時として歳神とされ、トウバ(鍛冶)たちから片目を傷つけられ片足を折られ動けなくされ、一年を災厄よけの神として食をまかなわれる行為が全国的に見られる。

そして年度が終わったあと、豊穣にかげりがあったり、村に災いがあった場合「鬼」とされ、秘密裏に殺害され、やがて祟らぬように神として再び神殿に収められたと思われないだろうか?

神の鳥居はおしなべて坑道(間歩)の木組み構造に似ており、その連続が事故の災いを防止する。それこそまさに福の神ではないか。福の神とは「吹く」風。それは11月の「息吹」「伊吹」「伊福部」となった。ひょっとことおかめの「おかめ」は時に「お多福」であるが、「おふく」地名にはこの吹き下ろす風への信仰が反映されたのではなかろうか。伊吹山、息長氏、伊福部氏などはすべて鉱物開発、たたら操業に関わる名称であろう。八幡神も鍛冶神であった。

2006年10月28日  かわかつ



T市のバス停巡りはさらに発見へとつながった。

まず地名で追ってゆくと、城原八幡神社からバス停轟木を経て国道へ出ると、いきなり「かじや」バス停が。
ここからまた農道へ入り福原へ。福原には木原山があり、広大な裾野は風が舞う盆地となっている。ほうれん草の出荷場を過ぎると道が二股になっており、一方は木原山への登山道で鉢山部落がある。片方は急激に降りてゆく坂道で、久住山から流れ落ちてくる急流・久住川にへばりつくような温泉のあった村。
ここも鉢山という。

下の鉢山からは御影石が出るため、岩盤が固く容易には鉱脈へは届かないそうである。上の鉢山は炭焼き部落だったことがある。
木原山の「きはる」こそが城原八幡の元の地名だろう。
この山をくるっとまわると雉子が原という場所で、おそらく木地師がいた山村である。その道を抜けて県道へ出て行くとTV塔が立つ三宅山に出る。

三宅山とは妙見山の別名であろう。みょうけんが訛って三宅となる例は多い。吉田東吾はまったく反対に解釈し、三宅が訛って妙見となったと「日本地名辞典」に書いてしまっているが、かわかつは逆だと思う。

残念ながら道路が壊れて通行止め。しかし、木原山は頂上までかろうじて登れた。なにもない。草某々で上がれない。
三宅山をあきらめてから、疣水へ。イボが治る水が湧いたところで、郷名はなんと鬼田である。手前に立石バス停。
阿鹿野は反対側の炭竈の上にあるが、ここはダム工事中でバス停廃止。

道がどんどんでき、新田開発で、地形もどんどん変わってゆく。昔を知る老人も少なくなり、民俗学のヒントもまた、次から次へと消えかかっている。誰も顧みない過去の真実が、わずかに神社や祭りの語り継がれた伝承にしか見えなくなってしまう。
焦る心。もっと保護されるべき過去が山村には沢山ありすぎて、ひとりの手に負える者ではない。柳田や折口、司馬、宮田、宮尾、谷川の諸氏はすごいフィールドワーカーだったのだ。

2006年11月1日 かわかつ

追伸;次回はかじや裏にある山から炭竈、白丹を抜けていよいよ閼伽野へ!
十一地名は京都市右京区、宇治市にもあるとこの興味深いサイトのあるじにお伺いした。
あなたもお近くの地名散策をおやりにならない?京都の方、ご一報待つ。
 
 


 
 
あなたはどう思われるだろうか?
筆者だけが気づいた奇妙な地名由来である。
 
 
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漢字の前に記号あり/仏教も漢字も西暦588年前後百済から/蘇我氏は政治王

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日本最古に使用された文字記号
(文字とするか単なる記号・符牒とするかはおそらく後者であろう)
下記の文字記号以前に中国から持ち込まれた文字はあるが、国内での使用例ではない。
 
 
1、 2世紀前半  三重県安濃町大城(だいしろ)遺跡から「奉」(「幸」「年」「与」か?)の字をヘラで刻んだ土器l
2、 3世紀前半  福岡市前原市三雲遺跡(3世紀)出土の3世紀半ばの甕 の口縁部の線刻「竟」
3、 3世紀後半  三重県片部遺跡 灌漑施設深さ1.5mからすすけた土器薄茶色土師器に墨で「田」
4、 4世紀初頭   熊本県柳町道跡 木製短甲破片に「田」の墨書
5、 4世紀前半  「田?虫?中?」の墨書土器(三重県松阪市嬉野町片部遺跡)
 
 

この五番目の墨書を今回は扱う。
「平成7年12月、三重県一志郡(現在松阪市)嬉野町の片部遺跡から4世紀前半の土器が出土、
口縁部に「田」とみられる約2.5cm四方の文学が見つかった。町教委などは8年1月に「日本で書かれた最古の文字」と発表したが、「記号ではないか」「虫という文学では」なとと異論も出ている。 」
http://www.daido-it.ac.jp/~doboku/koto/koukogaku/gaku21.html
 
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画像を見ればわかるが、1996年に同じ遺跡から出ている土器の場合は明確に「田」であるが、今回のはすぐに「田」とは認めがたい図柄だった。中、虫、あるいは巫を表すクロス(後述)など諸説ある。
 
 
ここで問題にするのはこの文字が田か虫かとかではなく、巫女を意味するマークであるクロス、十字のことだ。
 
 
機織の道具である「かせ・・・枷・桛」を十字に組み合わせたその記号とは?
 
 
英文字の「Ⅹ」をまっすぐにした記号・・・
 
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である。
 
 
 
ちなみに桛とは・・・
 
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技術者を言う言葉である「工人(こうじん)」の「工」という文字の元になった象形がこの道具である。
工場、石工、職工などにつく「工」はもともと機織の道具であり、中国ではあらゆる工作・技術の始まりを機織においていたわけである。なぜ土器製作ではなかったのかも不思議なところでもある。
 
衣食住ならまずは最初に食が来ていいはずなのだが?
 
道教の大地母である西王母は、土器製作の祖とされ、同時に機織の祖でもある。
それが持っていたのが桛である。
そのことは今年の夏にここに書いた。
 
 
つまり桛をクロスさせた上の図柄は「呪模様」であるから桛は呪を職業とした巫(かんなぎ)を差す記号なのだ。
また「井」も同じく巫師を示し、同時に名字でもある。「井さん」は中国では「せい」であるが、この名字は=先祖は巫を表してもいることになる。
 
日本なら「神宮さん」のような名前である。
 
クロスさせた桛絵柄は、これを文字と読んでいいのかは難しい。略号を文字というかどうかはまた別の問題になる。ただし漢字の始まりそのものが甲骨文字や象形文字であるから、そもそも文字は記号である。そこ意味があればもう表意文字である。日本の文字の場合、表音文字には意味がなく、ただの音の記号でしかないが、中国にはそれがない。面白いのは仮名やカタカナには、日本人は、意味はないのに言霊を持たせたり、呪や呪いを托している。形状に思いを込める。だから表音文字である仮名も習字・書道では芸術のひとつ、造形美に含んでしまう。意味のない物体に意味を持たせるのが日本人独特の霊的傾向である。器物に霊魂を持たせて妖怪にしてしまうのと同じである。
 
 
銅鐸や土器や古墳に最も多く描かれてきた呪模様である渦巻きと、この桛マークはイコールなのである。
それが「呪」ということになる。
呪をたんに「のろい」だとする誤解がある。
呪はのろいなのではなく、むしろ願いなのである。
呪いとは願いの負の表現に過ぎない。
願いの呪の中の裏側としてのろいやたたりは存在するに過ぎない。すべては「願い=呪」である。
 
これを誤解したままだと、直弧文や弧帯文が「呪」であると筆者が書いたことをまったく誤解してしまうことになる。
永遠の生命を願うこと、死者のヨミガエリを願うこと、その反対に死を望むことは、実はうらはらの同根の呪なのである。
 
漢字を伝えたのは半島からやってきた学者たち、つまり明確に百済の文氏を筆頭にした書記たちである。それが特定できる誰かだったことなどありえない。ただし、そのきっかけは百済の衰亡があかかっていた聖(明)王~昌王の時代しか考えられない。仏教もその頃、やってくる。そして飛鳥寺が百済工人によって建てられた。すべてはその時代。
 
つまり正式な仏教伝来も漢字伝来も、飛鳥時代の称徳女帝前後。
百済の威徳王(昌王)は倭国へ舎利を送り、また飛鳥寺の建設にあたっては百済から瓦. 博士や鑢盤博士などの技術者を招聘した
日本書紀と元興寺縁起」
「百済の威徳王が寺工や鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者を派遣してきたのは崇峻元年、すなわち588年」
 
要するに正式伝来はこの588年前後である。
(もちろんそれ以前に、九州や瀬戸内や東海にはすでに漢字も仏教も先に来ている。また民間なら大和にも当然、届いていたはずである。あくまでも正式に大和が、の話。大和が=日本がではないことは言うまでもない。大和も飛鳥も単なる日本列島の一勢力にすぎなかい。それが日本の主権を持ったのは天武からである。)
 
 
 
つまり聖徳太子の時代というのは間違いであり『日本書紀』うそ。
称徳女帝以前に大和が中国と正式に交流したことなどまったくなかった。交流があったのは大和朝廷ではなくて河内王朝である。大和朝廷はすべての正式文化流入を百済に頼った文化圏なのである。なぜなら隋唐との国交が蘇我馬子の国書によって達成されなかったからだ。
 
煬帝の使者・裴清以後、隋も唐も日本の飛鳥王朝とはまったくつきあわなかった。その大和のありようを完全に「かつての倭国とは違う。えらそうにしている。蓬莱の仁徳高い倭人国家とは違う国家」と見たのである。
 
まさにこの外交ミスこそが蘇我氏を滅ぼす事になる。『日本書紀』が書いているようなことではなかった。
しかも「聖徳太子」の「しょうとく」とは称徳女帝の「しょうとく」をパクってつけた創作名でもあった。
 
聖徳太子なる人物は存在せず、それはあめのたりしほこである馬子のことで、その子供であるわかみたふりとは当然、蝦夷のことである。蘇我氏は女帝推古を表玄関には立たせなかった。いやたたせようもなにも、大王はその時代「巫女王」であり、政治王ではなかったのだ。推古が巫女王である証拠は、即位してからずっと用明天皇の殯ばかりしている記事で明白。そもそも推古女帝がいなくても蘇我馬子が充分に機能する王である。
 
このように飛鳥~奈良時代の天皇・大王はいてもいなくても日本の政治にはなんの影響もなかった。
王ではない存在は、外交上なんらの意味も持っていない。
現代はもちろん天皇にはステータスがあって海外もそれを知っている。
ところが当時の海外諸国は日本の天皇のことなど誰も知らなかったわけである。
 
隋書の女帝記事不在はそういう理由であろう。
 
 
 
 
 
なおかせには枷という文字で
 
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という意味もある。
呪にもそういう「かせ」があるのである。
 
 
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特集役行者

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役小角(えんのおづぬ・おづの)
役の優婆塞、役行者。
 
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。
 
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◆鴨氏=三輪氏
「山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F
 
 
「鴨とは道教で言うところの霊魂を持ち帰る青き鳥である。」
「白鳥は黄泉へ 魂を運ぶ鳥。黒カラスは太陽を運び、青鴨は祖霊をもって帰る鳥」
「蛇巫の山の上に人がいて、杯をもって東に向って立つ。西王母が几にもたれて勝と杖をのせている。その南に三羽の青い鳥がいて、西王母のために食物をはこぶ。昆侖の虚の北にあり。(海内北経)」
 
 
◆葛城賀茂から三輪氏
鴨氏の祖となった賀茂建角身命は別名が出雲のアジスキタカヒコネ、高鴨高龗(たかおかみ)神。
その三輪氏は泉州の陶邑から三輪に入って大三輪氏となり大物主=物部氏の祖霊及び縄文の祟る自然神を鎮魂する=押さえる。
これはすなわち毒を持って毒を制したこと。同族を持って主人筋を押さえ込ませたという構図。
 
 
◆金剛・葛城山系は元「高尾張」
「たかおわり」とは「たかおはり」で、鷹+尾を張る
これは鉱山を示し、そこを開発した氏族の名前であるから尾張氏の根城が葛城地方を大元にした地名。
ということは尾張氏=葛城氏、鴨氏という構造。
その葛城高尾張邑の朝妻に入れられた渡来が秦氏である。
 
 
◆京都で賀茂氏は秦氏と婚姻関係
で、上下賀茂神社が成立する。
◆そこから修験道の祖である役小角が出てくる。
 
◆修験道の大元は道教
道教は鬼道とも言われ、五斗米道(ごとべいどう)も北朝から「鬼道」と言われた。
その道教の方士のことを『日本書紀』は「奇巫(きふ)」「法師」としており、これを「豊国とよくに」から来たと二度も記した。
 
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英彦山
天忍穂耳尊を主祭神とし、伊佐奈伎尊伊佐奈美尊を配祀する。
開基は北魏の善正上人(藤原桓雄は伝承上の人物)
 
 
◆豊国法師と英彦山修験道と息長と秦氏
この豊国とは豊前國のことで、英彦山周辺の周防灘側を指す。いわゆる英彦山(ひこさん)・犬ケ岳・求菩提山(くぼてさん)を中心とする英彦山修験道のメッカである。その範囲は東は国東半島、西は企救郡へ延びる。
求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田(さわだ)の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。麓の豊前市のシンボル的な山である。英彦山から耶馬溪を通って大分県院内町鹿鳴山(かならきやま)~国東夷耶馬までは、英彦山火山帯の凝灰岩の段丘・台地が延々とつづき、鉱物や銅鉱床のメッカである。ここで修験道と鉱山師の合体が起きるが、その信仰のメッカが豊前国田川郡の香春岳(かわらだけ)である。英彦山で祀られるアメノオシホミミ命は香春岳ではアメノオシ骨命となっておりその母神は辛国息長大姫大目命。
 
◆息長大姫大目命と天忍骨命と豊姫命
辛国=抽選半島から来た、おきなが=息長=たたら・ふいご、大姫=その長女、大目=鉱山の大地母、命=神で、たたら製鉄をする鉱山師の大地母女神。
韓国連広足(ひろたり)は役行者の弟子ゆえに、彼が創り出した新羅系の神々であろう。→新羅神。
彼らは不老長生をむねとする「道仕法」を行ったという。別途後述。
 
上田正昭は仏教や漢字同様、道教も半島経由で入ったと指摘している。(筆者はそれだけとは思わない。林系中国人もあったか?いわゆる葛井・藤井系統の修験。また空海・最澄がもたらした真言・天台密教との修験の結びつき)
 
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往古の香春岳
 
 
 
オシ骨とは香春神社縁起にある「龍骨」=化石から出る石灰や銅のこと。
 
豊姫命とは「とよ」=豊前の、姫=娘で、大地母神の娘。豊前そのもの。壹與。
 
これらがすべて辛島氏や赤染氏=常世連氏、敦賀氏といった秦氏系アメノヒボコ・ツヌガアラシト=秦氏系賀茂一族の鉱山開発・窯業と八幡信仰を生み出していく。
 
修験道がここから始まったと考えられるのは、英彦山開基の大元が秦氏の泰澄(たいちょう)らだからである。
そしてこの賀茂と秦の合体の流れを大和地方へそっくりそのまま持っていって拡大したのが葛城賀茂と三輪氏と秦氏の合体である。
役行者はこうした背景から生まれてくると思われる。
 
 
こうした渡来の海外貿易資本を背景にした新たな連合体が、大和に大きな影響を持つようになるわけだが、根本にあるのはやはり太秦(大量)に財を持っていた秦氏であり、あとの氏族は要するに秦氏の財や情報を取り合って勢力争いしたと言っても過言ではない。
 
密教と修験、道教の深いかかわりは別途考察。
 
 
参考 『渡来の古代史』
 
 
 
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妄想・蘇我本家はいなかった・大化の改新はなかった

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●蘇我氏は葛城氏一族ではなかった
●秦氏と葛城氏と鴨氏と息長氏によって欽明が擁立
●欽明は継体と血縁ではない
●磐井の征伐は欽明の事跡
●継体大王はいなかった
●蘇我氏は上宮王家。それを滅ぼしたのは中臣鎌足
●大化の改新の政治体系は孝徳の難波宮での仕事
●天智はそれを否定して二朝並立して近江朝
●孝徳も鎌足が誅殺
●天武子孫も誅殺して天智・息長血統を不比等が傀儡とする
●守屋殺害は蘇我倉のしわざ
●蘇我倉を殺すのは天智ではなく鎌足
●中臣氏は物部神道復活のために蘇我氏すべてを消滅させる
●これらの証拠作りのためにさまざまの蘇我氏建造物を作り、焼却することで『日本書紀』脚本のアリバイを固めた。
●倭五王は武内宿禰子孫。そのために河内王朝の大王を捏造し、大古墳を土師氏に作らせた。
●しかし実際の倭五王は宿禰の子孫五氏の交代制によっており、実際に河内に王朝などなかった。
●出雲系つまり邪馬台国系国家が大和にあったが、それが神武・狗奴国系に滅ぼされたとすることで、藤原家・息長家こそがそれをすべて乗っ取った事実をすべて蘇我氏に代表させて蘇我氏がそれを滅ぼしたから、蘇我氏は滅ぼされて当然と捏造した。
●結果的に、中臣氏は天智息長系を天皇家として確定させ、自らは歴代すべての氏族を滅ぼしたことになる。
こうして最後のお山の大将には不比等が君臨した。
●ところが反駁勢力は残り、獅子身中の虫だった異母系橘氏と対立する。
 
 
妄想は小説より奇なり。
こっちのほうが歴史は俄然面白い。
 
これが鎌足・物部大姫による極悪非道の大王血統乗っ取り劇の真実。
 
 
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漢氏・漢文と和文をつないだ渡来人書記/日本は16000年間渡来を受け入れ続けた慈悲の国家

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漢氏はのちに畿内の東西に別れ、西文(かわちのあや)氏と東漢(やまとのあや)氏になった。
漢で「あや」と読ませるのは、「あや」=「ふみ」という日本語の元になる。
漢は、秦氏が「秦」を秦の始皇帝子孫のステータス文字にしたのと対応していて、後漢の子孫であるというステータス表記である。
 
「文」を氏族名にするように、彼らの主体部は書記官僚である。
飛鳥王朝は直接中国とは交流しなかった王朝で、半島経由ですべての中国属文化を受け入れた。つまり決して属国にはならなかった。いや飛鳥時代は「なれなかった」と言っていい。なれなかったから半島から加工されてはいたけれど間接的に中国文化を受け取るしかなかったのだ。
 
漢氏は官僚として最初に上代仮名遣いを生み出す。
漢文を大和言葉にあてるさいに、自国の発音、発声をそのまま和文に入れ込んだのである。それは日本語になれていない時期にはいたしかがないことだろう。しかしながらやがてその「多すぎた音韻」(88文字も作った)は、日本語そのものの発音には必要ないことになる。彼らの子孫たちは三代もすればすぐに日本語発音に慣れたからだ。
それで音韻は現代日本語の55音に近くなる。その中で万葉仮名というものは生まれ、やがて淘汰されたのだ。
 
ということは結局、縄文からの基層日本語は、朝鮮語の中間発音には適さない膠着語だったことをかえって証明することになるわけである。
 
膠着語としての日本語は、まずもって100パーセント、その大元が海洋系のオーストロネシア言語であることを証明する。朝鮮語が日本語の基層に影響を与えたことなど一度もなかったのである。
 
渡来人たちも、また彼ら以前の長江文明人たちも、決して日本語=縄文語の基層を変えてしまおうとはしていない。変えられないのである。縄文語に、すべての渡来人たちは自分たちを合わせることでこの島国で生き残る。
なぜならば、列島の外側に、もう彼らの帰るべき、行くべき場所がなかったからにほかならない。
 
覚悟してやってきて、覚悟を決めて日本に馴染むしかなかった。
 
 
それは近代になってこの島国へやってきた渡来人・漂着人もみな同じである。
 
 
 
このことは今、東アジア人が日本に歴史認識を新たにせよといいつのる、その矛盾した願望を、こっぱみじんにうちくだくのである。あなたがたは来たいと思って来たはずなのである。もう帰る場所もない人々。君たちを延々とわが国は受け入れてきた。少々の差別もあっただろうが、それ以上に、あなたがたが帰るべき場所はなく、国家は充分に君たちに答えてきた。それが正しい歴史認識である。君たちは困り果ててやってきた。
 
 
なぜなら日本列島が君たちにとって最後のよりつくべき堤防だったからだ。
この国がそういう逃亡人たちの楽園、蓬莱と呼ばれた理由はそれなのだ。
そう呼んだ国とは、とりもなおさず、中国という、あなたがたが属することを選んだその国家なのだ。
われわれは自らをそう自称したことなど一度もない。
すべてはあなたがたの勝手な願望や理想郷でしかない。
そのようなことはわれわれの知ったことではないではないか?!
愛しておきながら、嫌いとは、馬鹿の妄言である。
 
 
 
勘違いしてもらってはこまる。
日本は世界に冠たる融通無碍の、受け入れる国家でありつづけた。
1万6000年間!!
ここより東にはもうハワイしかない。そこも膠着語言語圏である。
海洋民族は最終勝者なのである。
 
 
 
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こんな略字を使う君たちの平民・工人たちもちゃんと受け入れたのである。
これを「徳」と言う。
 
日本人は逃亡外国人の同化を許容する世界一の慈悲の国の人である。
 
 
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小笠原新島大噴火とリング・オブ・ファイアーの連動の恐怖

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今回の噴火よりもちょっと前のアメリカのニュースだが・・・すでに今回の小笠原の噴火を予測するような記事が
 
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アメリカCNNスチューデント・ニュース 2012年4月13日
「太平洋をぐるりと『リング・オブ・ファイア(環太平洋地震火山活動活発地帯)』が取り囲んでいます。実際には環というよりはアルファベットのSに近い馬蹄形をしています。
リング・オブ・ファイアは地震活動が活発な巨大なエリアです。

事実、世界で発生する地震の90%がこのエリアの内側で発生しています。
4月11日にインドネシアを襲ったその地震もこのエリアで発生しました。
その後マグニチュード8.2の余震も発生しています。現在までに大きな被害の報告はありません。
 
しかし、リング・オブ・ファイア上の地震はこれだけではありません。
翌日早朝にはメキシコ沿岸でも大きな地震が発生しました。
しかしインドネシアの地震ほどは大きくなく、本震はマグニチュード6.9、余震はマグニチュード6.2でした。」
http://kobajun.chips.jp/?p=2230
 
この情報から一年半がたって、そのリング・オブ・ファイアのど真ん中の小笠原で噴火があった。
 



2011年の3・11の直後に、当ブログではリング・オブ・ファイアを記事にしている。
●「キラウエア火山活動と地震の連動 リング・オブ・ファイア 」
2011年3月5日  ハワイ・キラウエア山活動開始
2011年3月8日  ハワイ・キラウエア山噴火開始
★2011年3月9日(水) 11時57分 11時45分 三陸沖   M7.2
2011年3月9日(水) 12時3分 11時57分 三陸沖 M6.3
2011年3月9日(水) 12時11分 12時2分 三陸沖 M5.2
2011年3月9日(水) 12時17分 12時8分 三陸沖 M5.9
2011年3月9日(水) 12時24分 12時19分 三陸沖 M5.3
2011年3月9日(水) 13時13分 13時6分 三陸沖 M5.5
2011年3月9日(水) 13時37分 13時32分 三陸沖 M5.1
2011年3月9日(水) 13時42分 13時37分 三陸沖 M6.1
それまでほとんどがM2~3で単発的だった三陸沖が、、にわかに大きな運動へ変化している。
同時にはるかに離れた南九州で小さな地震が。  
2011年3月9日(水) 13時14分 13時3分 熊本県熊本地方 M2.6
2011年3月9日(水) 13時8分 13時1分 熊本県熊本地方 M3.1
2011年3月9日(水) 13時5分 12時59分 熊本県熊本地方 M2.8
2011年3月10日(木) キラウエア大噴火
2011年3月10日(木) 20時34分 20時30分 三陸沖 M4.5
2011年3月10日(木) 20時25分 20時21分 三陸沖 M5.1
2011年3月10日(木) 18時7分 18時2分 三陸沖 M5.2
2011年3月10日(木) 18時3分 17時59分 三陸沖 M4.7
2011年3月10日(木) 17時14分 17時8分 三陸沖 M5.7
2011年3月10日(木) 10時25分 10時20分 三陸沖 M4.7
2011年3月10日(木) 9時3分 8時58分 三陸沖 M4.8
2011年3月10日(木) 8時42分 8時37分 三陸沖 M5.1
2011年3月10日(木) 6時29分 6時24分 三陸沖 M6.6
2011年3月10日(木) 6時27分 6時22分 --- ---
2011年3月10日(木) 6時6分 6時1分 三陸沖 M4.8
2011年3月10日(木) 3時51分 3時45分 三陸沖 M6.1
2011年3月10日(木) 3時21分 3時16分 三陸沖 M6.2
2011年3月10日(木) 2時5分 1時59分 三陸沖 M4.7
2011年3月11日(金) 7時49分 7時44分 三陸沖 M4.8
2011年3月11日(金) 6時54分 6時50分 三陸沖 M4.5
2011年3月11日(金) 6時46分 6時41分 茨城県南部 M3.4
2011年3月11日(金) 3時17分 3時14分 宮城県北部 M3.5
2011年3月11日(金) 2時0分 1時55分 三陸沖 M5.3
2011年3月11日(金)●●東北関東大地震●2011年3月11日 14時46分ごろ三陸沖    M9
 
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「日本には四つのプレートがせめぎあっている。地震は毎日のように起きる。
日本列島はRing of Fireと呼ばれる環火山帯の上にあり、そこはプレートの切れ目にあたっている。ハワイ諸島と日本列島は同じ切れ目の上にあり、当然連動する。つまり今回の連鎖はすべて環太平洋の「炎のリング」の上で玉突きのように起きて来ていることになる。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53541735.html
 
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噴火の前兆? 東日本の5火山地域で不穏な動き
週刊朝日 2013年10月4日号
「注目すべき研究がある。今年7月に結果が発表された、京都大学防災研究所によるものだ。この研究では、人工衛星「だいち」に搭載したレーダーが送ってきた画像と、衛星航法システム(GPS)のデータを使って、震災の前後で火山とその周辺がどのように変化したのかが調べられた。

 その結果、東北地方の「背骨」にあたる五つの火山地域で、5~15センチ程度、地表が局所的に沈んでいることがわかったというのだ。火山地域とは、秋田駒ヶ岳(秋田県・岩手県)、栗駒山(宮城県・秋田県・岩手県)、蔵王山(宮城県・山形県)、吾妻山(山形県・福島県)、那須岳(福島県・栃木県)である」
http://dot.asahi.com/wa/2013092400049.html
 
 
 
 

 
 
専門家は今回の新島噴火は、北関東地方から1000キロも離れており、今週多発している茨城などのM5クラスの地震とは無関係であるとテレビで言っていたが、さてそれはどうか?
 
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キラウエア噴火から東北大震災までの短いサイクルを見れば、リング・オブ・ファイアの連環上での地下激動の一環のひとつと見るのがいいのではないのか?
 
領海が増えるなどと獲らぬタヌキの皮算用を政治家は公言したが、この火山が島になるためには今後、濃厚な溶岩流による火山山頂部の地固めが起きないと、あっというまに海のもくずとなってしまう。この火山は海底部に4000メートル級の土台を持っていて、見えている火口部は山頂であるという。見たところまだマグマそのものの噴出がなく、火山弾が噴出しているだけのようだ。それが降り積もってもただの土くれで、それを粘着力のある溶岩流がつながなければ島にはならない。
 
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それよりもこの激動するリングの中心部、小笠原諸島の北のはじっこに富士山があり、そこからフォッサマグナが始まることこそが、日本列島にとっての最大の恐怖なのである。
官房長官、珍しく破顔一笑していたが、領土が増えるどころか、逆に、列島の半分が消えてしまうかもしれないのですぞ。東半分が。
 
 
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海上保安庁海域火山データベースhttp://www1.kaiho.mlit.go.jp/GIJUTSUKOKUSAI/kaiikiDB/list-2.htm
 
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空海の密教は仏教の曲解

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密教を学ぶのに、また日本の仏教史を学ぶのにとてもよい文章を見つけたので、転載しておこう。
 
 
「仏教の変遷をざっと追ってみると、次のようになる。
  BC5C : 釈尊の時代
   |
 <小乗仏教> (阿含経典群)
   |
  紀 元
   |
 <初期大乗仏教>(大般若経・般若心経・法華経・華厳経)
   |
  龍樹(Nagarjuna)による「空」・「中観」の確立
   |   |
  AD5C
   |
 <中期大乗仏教>(涅槃経)
   |
  無著(asaNga)・ 世親(vasubandhu)らによる「唯識」の確立
  「仏性」・「如来蔵思想」
   |
  AD7C
   |
 <後期大乗仏教>(理趣経)
   |
  空海による「密教」の確立
   |
  AD10C
   |
最澄と空海は、仏教を学ぶためにともに遣唐使として唐へ渡った。
9世紀初頭、804年のことであった。
しかし、この二人の立場は随分と違うものだったという。
最澄はこの時すでに比叡山に学ぶ高僧であった。
最澄は、天皇の命を受けて当時日本で最も盛んであった「法華経」を取りに、
国費留学生という盤石の立場で唐へと向かったのだった。
これに対し、空海は専ら自らの興味と向学心から、
私渡僧として留学を決意した人物だった。
つまり自費留学である。
当時、私費で唐へ渡るなどというには、どれほどの財力が必要だっただろう。
恵まれた環境であったことは間違いないだろうけれど、
それでも国費留学の最澄と比べれば、乞食坊主同然の姿で唐へ旅立ったといわれる。
空海が求めたのは、当時最新の仏教とされた「密教」だった。
空海は最澄に対して激しいコンプレックスを感じていたようだ。
渡唐以前からの学問的興味はもとより、
最澄への対抗意識は空海の向学心を更に燃え上がらせたのだろう。

唐に渡った後、最澄は天台山に登って華厳経を学ぶことになるが、
しかし、そこは当代切っての識者であった。
唐に着いた瞬間に、華厳経が時代遅れであることに気づいたという。
天皇の勅命であるから、華厳経は持って帰らねばならぬ。
しかし、時代は密教へ移りつつある。
最澄は華厳経を学びながら、天台に伝わっていた密教の一部にも触れていった。
こうして比叡山に持ち込まれた密教思想が、「台密」と呼ばれる天台密教であった。
しかしこの台密は、本当につまみぐいの産物で、その内容は見るに値しないという。
比叡山にあって、気をつけなければいけない思想のひとつと言えるだろう。

一方の空海はどうであったか。
空海は最初から密教を求めて渡唐したのだ。
目の前でまさに華開きつつある密教のただ中に出会うことを得た空海の悦びは、
どれほどのものだっただろう。
空海は当時大人気であった「不空」の下へ参じようと考えていたのだが、
その不空が亡くなってしまう。
後を継いだのが「惠果」であったが、空海は惠果の下へすぐには行かなかった。
空海は不空の一番弟子と呼ばれた人物に就いて、徹底的に書を学ぶ。
密教に欠かせない梵字を徹底的に修行したという。
ここから書の大家としての空海が生まれたのだ。
空海は書を学びながら密教の奥義を追求し続けた。
惠果は不空に負けず劣らずの大人気であったが、体が弱かった。
そこを空海は計算していたのかも知れない。
空海が惠果の下に参じたのは、本当に惠果にとっては最期の一瞬であったという。
空海は渾身の力を込めて学んだ密教の真髄を、
ついに惠果と語り合うことを得る。
その対面は、惠果の心を鷲掴みにしたのだろう。
惠果にして、自分はこの空海と出会うために生まれてきたと言わしめたのだ。
こいつは密教の全てを持っている、と。
どうだ、こうして空海はついに惠果と密教の奥義を共に分つ立場に登り詰めた。
惠果は、唐にひとり「義明」を、そして日本にひとり、空海を、
それぞれ密教を継ぐ者として正式に指名するのだ。
しかし義明はその後、若くして命を落としてしまう。
結果として中国の密教は没し、すべては空海の手中に納まっていった。

空海の説く「三教指帰(さんごうしいき)」は、
未だに誰も理解できていないとされる。
空海の考えた密教世界は、極めて精緻な宇宙論とされているが、
人智を超えた巨大さ故に、正しく理解されることなく現代に至っているという。

最澄は華厳経を改めて日本に持ち帰り、そのクオリティを高めていった。
比叡山の清新な空気は、修行という厳しさの中から生まれてくるものだろう。
道元が開いた永平寺は、最も修行の厳しい禅寺とされる。
永平寺の凛とした空気感も、比叡山のそれと同質のものだ。
道元は、修行は美しくなければならない、とした。
だから永平寺の修行僧は、あらゆる所作がとにかく美しい。
そこには、接待のすべての基本が凝縮されているという。
前にも述べたけれど、その美しさ故の清冽感は一度体験してみるべきだという。

一方、空海の開いた高野山には、どうしたことか清新さが全く感じられない。
そこに修行がないからだという。
密教は「即身成仏」を説く。
しかし、この身このまま仏という言葉は曲解されてしまった。
空海の説いた密教は、難しすぎたのだ。
空海は決して修行が不要だとは論じていないはずだ。
ところが、そこが正しく伝わらなかった故に、修行が疑わしくなってきてしまった。
密教はそうした危険性を、その根本に孕んでいたのかもしれない。
インドで発祥した仏教は、密教にまで発展した後、
結局ヒンドゥー教に吸収されて消えてしまった。
日本にはヒンドゥー教が入ってこなかったから、
奇跡的に密教が残れたともいえそうだ。

最澄が学んだ華厳経は、日本の仏教の基軸概念として育っていった。
一方で空海の持ち込んだ密教は、日本の仏教の中では異質な存在だろう。
その真髄が理解されていないという意味においては、
未開の華といえるのかもしれない。
幸いなことに、日本には密教が残っている。
後の世代に密教の秘密が明らかにされる可能性が残されている。
空海の捉えた叡智に、人類は1,000年以上の時を経て未だ追いついていない。
密教の秘密が解き明かされる時、人類はそこにどんな叡智を発見するのだろう。」
 
 


 
 
 
宗教全般、仏教、密教をほとんどの人は理解しきれない。
ならばその宗教はダメ宗教なのである。
なぜなら、より多くの人を救済したいと本当に思うのなら、その信仰の教義はシンプルでなければならない。
 
 
ところが実際はどうだろう。
ほとんどすべての宗教が、こむづかしく、民衆の知識には無頓着である。
宗教世界は一部の頭のいい、実に複雑怪奇な言い回しの、実に遠まわしで婉曲的な教義で、うやうやしく、そしてえらそうにものを言う。
 
果たしてそんなものが真の宗教なのだろうか?
 
空海は最初から、間違った仏教を持ち帰る。
密教は仏教よりも道教・原始信仰に近く、マニ教やヒンズー教の影響下に(中国では)置かれていた宗教である。
 
日本の宗教家は修験も、原始信仰も、神道でさえも、仏教の下に置く。
けれど古代から、仏教が届いたその日から、もう民間では仏教は曲解と誤解と混交の渦の中に放り込まれ、まったく一度たりとも、仏陀の実は単純明快な哲学を表現しきれずにきた。
 
民間では、それらはみな、無学ゆえの駄洒落に犯され、所詮はおろかものの理解であるとされた。
 
 
さて、では宗教とはそんなに難しいものなのだろうか。
 
違う。
 
実に真の宗教の根源は単純明快である。
 
 
 
ではどうして宗教の教義はあのように難解なのか?
それは仏陀の意思を伝えようとするものが「馬鹿」だったからである。
 
難しいのが大好きな脳みそがマゾな奴らか、そうでなければ、貴族社会のおさだまりの権威主義に乗じた、詐欺師まがいの難解言語を使い倒して、金をせびろうとしたためである。
 
 
かんたんであるはずのものに、難解、困難を好むのはどの時代、どの世界においても最下等の俗物=権威主義者である。むしろ古代からの祖霊信仰こそが人類のあり方を真に説いている。
 
日本の仏教は、教え諭すべきもの自体が、実はあまりにも単純なその教義にとまどい、粉飾されてきた。
 
 
 
 
 
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[転載]虚空蔵菩薩・国造・木屎

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http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1462756/img_1462756_51086427_0?20091010162713

◎虚空蔵菩薩の民間に於ける解釈について
「下地に木粉を漆で練り混ぜた「木屎(こくそ)」を埋めることから語呂の関係からか漆職人(塗師とし)の祖神となっている」
「虚空蔵菩薩信仰の寺社をもつ村や信者には鰻を「お使い」として禁忌食物とされている。
http://homepage1.nifty.com/fumio-y/honoo0078.htm

「今日(11月13日)は「うるしの日」
昔からこの日は漆関係者の祭日となっていたが、日本漆工芸協会が1985(昭和60)年に制定したものだそうだ。
平安時代のこの日に、文徳天皇(もんとくてんのう。827-858)の第一皇子・惟喬(これたか)親王が、京都・嵐山の法輪寺に参詣した時に漆の製法を菩薩から伝授されて製法を完成し、日本国中に広めたとされる伝説からとか。(以下参考の「虚空蔵 法輪寺」参照)。漆工職人のあいだではこの菩醍をまつる虚空蔵講が営まれている。漆器の下地の木屎(コクソ)に由来を求めているが、この「コクソ」は虚空蔵が訛ったものだといわれており、」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/7c9c582da697bf5caa7e88e0db5adda8

・・・・・つまり、仏像や社寺を造るときに出る木屎の音と虚空蔵の音が似ているために、いつのまにか真言の星信仰の虚空蔵菩薩は民間では木造菩薩像の精(スピリット)として信仰されるようになったということであろう。
鰻を「お使い」とする・・・というのは「ウナギ」=「阿蘇のウナリ」、つまり阿蘇神社における古い生贄神事のことであるが、これを神の使いと解釈し、神饌を神に捧げて、結果自らも神のミケ=御毛=御饌=神への食事になってしまう「うなり」というニエの女性の姿が「神使い」であるとして入り込んだ、と考えられそうである。

ちなみに「麗しい」「潤む」「うろうると泣く」などの表現と漆には深いかかわりがありそうだ。「うるし」には美しく素晴らしいという意味があって、漆の光、テリが美しいことに起因した可能性が高いのだと言う。例えば潤島(漆島)氏という中世氏族や、潤島川(かつては漆間)という地名などは漆工芸の職人を大元にしているのかも知れない。

虚空蔵菩薩は、
「もともとインドの神である梵名アーカーシャ・ガルバ (आकाशगर्भ [aakaazagarbha])またはガガナ・ガンジャ(गगनगञ्ज [gaganagaJja])の密教における本地垂迹名。
三昧耶形は宝剣、如意宝珠。種子(種字)はタラーク (traaH)。
真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」(oM vajraratna, oM traaH svaahaa)
記憶力増進を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」で用いられる「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」(namaH aakaazagarbhaaya, oM arika mari muri svaahaa) などが知られる。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5

日蓮宗では、
「明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり」とされている。
 『生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給ハりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思シ食シけん。明星の如クなる大宝珠を給ヒて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。』とある。
「虚空蔵菩薩は梵名(阿迦蘗婆)といい、アーカーシャは天空・虚空。ガルバは胞胎蔵を意味し、「虚空孕」と訳される。広大無辺の功徳を包蔵していることが虚空のようであることから虚空蔵菩薩といわれる。その具有する五智を表わした五大虚空蔵菩薩があり、(1)法界(解脱)虚空蔵、(2)金剛(福徳)虚空蔵、(3)宝光(能満)虚空蔵、(4)蓮華(施願)虚空蔵、(5)業用(無垢)虚空蔵があり、清澄寺は能満虚空蔵菩薩と伝わる。
 また虚空蔵菩薩の化身は「明星天子」といわれ、脇侍は「雨宝童子」といわれる。虚空蔵菩薩は、日・月・星・雨・雷等の自然現象に関係する。宗祖の星信仰(虚空蔵信仰)が自然現象の天変地異に注目し、のち『立正安国論』に取り上げられる「日月失度 時節返逆」の先駆的思想となっている。」

天台宗では、
 「明星天子の本地は虚空蔵菩薩と説かれ、天台宗においては『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説き、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社神は三光天子の垂迹と説き、天台教義の中で三光天子は山王信仰と結びついている。千光山金剛宝院清澄寺は、宝亀2年(771)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和3年(836)中興したと伝わる。日蓮聖人は、清澄寺修行期に「虚空蔵求聞持法」を会得し、智恵を表す摩尼(如意)宝珠を感得し、一切経の勝劣を知った。「求聞持法」とは「聞持」を求める法であり、「聞持」とは、「憶持不忘」、つまり一旦聞いたことは永久に忘れないこと、記憶力の獲得である。その虚空蔵菩薩への報恩のために立教開宗の地を清澄山に決したとされる。」
http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu1.html

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このように仏教教義は非常に難解である。
そこで教育がない時代には、民間は極力わかりやすくして解釈しようとする。
その平明教授の役目を負ったのは主として修験者だったと考えられるが、山間において最も修験者と出会う可能性が高いのは狩猟民、樵、杣・番匠、山師、鉱山師、縄文系山の民、船大工、船釘鍛冶師などである。そのため、民間信仰が山を降りて里人にも広がることとなる。彼等はみな、時節には山を降りて、里山と山を行き来する租庸調の外の人々である。これを秦氏職人などは「中間(ちゅうげん)」と呼んだ。これに民間神道の巫覡、巫女、シャーマン、呪術師、あるいは芸能の民、クグツ、海女、海士などの同じ埒外者が関わり、いよいよ民間信仰は混交してゆくこととなる。

このようにして中世後半までに、おおよその日本の民間信仰の基盤はできあがった。
その用語や意味のほとんどがダジャレである。

学問の世界では、民俗学以外は権威を重んじ、そのようなダジャレ民間信仰や職能は最近まで無視されてきたので、研究者には鼻先でせせら笑われてきた存在である。ゆえに昨今では在野研究家にとっても一般にとっても耳目に新しい事柄として受け入れられ始めている。

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およそ修験、山岳密教から派生するこのような民間信仰の対象には薬師如来、千手観音、虚空蔵菩薩、大日如来、如意輪観音、毘沙門天などなど枚挙にいとまがない。もともと日本に持ち込まれたときから、そこにはインドの神が神仏混交していたうえに、日本人の多神教趣味がどんどん国家神や太陽信仰、星信仰、はては大元にある縄文からの陰陽物による原始信仰までが、自由自在に取り込まれ、今ではもう取り返しのつかない「邪教」の方が人口に膾炙してしまっている場合が多い。
民衆には国家も教義も哲学も勝てないということである。

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だじゃれの中には古代の地方首長(君)たちが勝手に名乗っていたと思われる「国造(こくぞう)」まで存在する。国造は本来「くにのみやつこ」と呼ばれ、国家が地方豪族に地域社会の代表者として指名してきた。わかりやすく言えば国造や屯倉などは国家の直営店である。ところが屯倉や国造の目の届かない地域に、かなりの歴史ある豪族が覇を唱えている場合、国家は彼等に首長代理人つまりフランチャイズ店長をしぶしぶ是認してきたと考えられる。それが「こくぞう」である場合が例えば筑紫君など。

筑紫君は実は「くにのみやつこ」ではなく単なる「むらじ」である。筑紫三家連が正しい。それが国造を自認し、朝廷はそれを黙認していたと思われるのである。もともと筑紫君一族は筑前地域、博多周辺を本拠とした渡来海人氏族であろう。それが新しい渡来によって筑後川方面へ押し込まれていった。こうした動きは大陸も動きから来るもので、あたかも大陸の動乱ピストン作用が列島に持ち込まれた、いわばミニ版ピストン作用で当然の帰結である。磐井の乱で筑紫磐井が肥と豊を同士にしたのも筑後川河口という後進地帯に住まざるを得なかった事情から、筑後川流域と有明海周辺国家との共闘を模索した結果であろう。

話が拡大してしまった。
虚空蔵の音が敗北した国造一族の怨念として祭られた結果、これも虚空蔵の祭りに混交する場合がある。
最近のコメント投稿で熊本県荒尾市四山にある海綿積神社「こくんぞさん」という祭りがあることをご教授いただいた。「こくんぞ」は虚空蔵さんということだろうと思う。
こくぞは虚空蔵のことでもあるが、同時に星信仰、木地師や山の民、仏師、漆師などの職能民の「木屎」信仰などがないまぜになったと思われる。ここには石人を持つ四山円墳があって、どうやらこの被葬者も国造を名乗ったか、あるいは筑紫国造家の眷属、同盟者だった可能性がある。近くの三の宮のは三の宮前方後円墳があり、こっちは円墳の被葬者の子孫ではないだろうか?


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

8000年前の縄文土器沖縄で

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琉球・沖縄本島南部のサキタリ洞遺跡は、これまでにも12000年前の人骨が出るなど、沖縄の縄文時代にとって画期的新発見をいくつも出土してきた。
その遺跡から今度は縄文早期の土器が出土。本土に類例のない模様で、筆者的には日本よりも中国や半島に類例がないかも気になる発見である。
 
 
社説[8000年前の土器発見]空白期の謎に手掛かり
沖縄タイムス 11月23日(土)13時40分配信
 「南城市玉城前川のサキタリ洞遺跡から県内最古となる約8千年前(縄文時代早期)の土器が発見された。
 この時期にすでに土器文化が存在していたことを示すものだ。「押引文(おしびきもん)土器」と呼ばれ、県内だけでなく、九州でも類例のないタイプである。どのようなルートで入ってきたのか興味は尽きない。
 これまでは7千~6千年前の無文土器・南島爪形文土器が県内最古で、これらより千年さかのぼることになる。

 2009年度から発掘調査を続けている県立博物館・美術館が発表した。
 発掘現場から約20点の破片が見つかり、復元すると、直径約30センチの鉢になるという。表面には棒状の道具で引いて強弱をつけたような文様が確認できる。
 
 放射性炭素年代測定法による分析で、土器と同じ地層から見つかったカタツムリの殻2点を別々の研究機関で分析した結果、約8千年前のものであることで一致した。
 
 サキタリ洞遺跡からは沖縄の考古学史を塗り替えるような新発見が相次いでいる。
 昨年は約1万2千年前の人骨と石器がいっしょに見つかっている。国内最古の同一出土だった。
 約1万8千年前の港川人(旧石器時代)が同遺跡から1キロ余り離れた港川フィッシャー遺跡から発見されている。

 旧石器時代と、それ以降の縄文時代の間には、人骨や考古遺物がまったく発見されない空白期が約1万年続いた。昨年に続く今回の土器発見で、空白期が約4千年に縮まることになる。
 押引文土器の発見は、「琉球=沖縄人」の起源を探るための貴重な手掛かりが増えたことを意味するが、それだけではない。日本の縄文人はどこから来たのかのルーツ探しとも関連してくる。
 
 
 県立博物館・美術館はあす24日、3回にわたってサキタリ洞遺跡の見学会を開催する。発掘現場を実際に見ることができる絶好の機会だ。

 土器を何に使っていたのだろうか。気の遠くなるような時代の祖先の生活に思いをはせる。歴史ロマンがかき立てられるに違いない。見学会の問い合わせはおきなわワールド 文化王国・玉泉洞、電話098(949)7421。」
 
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押引文と模様は、それだけが単独に使われるよりも、他の模様と組み合わせている場合が多い。
長崎県泉福洞や熊本県の阿高式(あだかしき)土器などでもほかの模様の間を埋めるようにして描かれている。
「押引式土器」はだからそれだけではなかなか土器編年には使いにくい模様ではなかろうかと思うが、今回は同じ地層からカタツムリの殻(食べた?)が二個出て、それのC14年代が8000年前だったわけである。
今回の南城の押引文は、独自な使い方をしてある。

苫小牧のような土器全体を覆う、まさに「押引式」の名前どおりの特徴的土器ではなく、土器の縁にかざり模様として使われているので、北海道との関連はちょっとなさそうだ。
もし8000以上も前に、すでに本土とまったく同じ土器が使われている例証が出ればこれは大ニュース、一大事であろう。

部分的な模様だけでは筆者はあまり動揺できない。むしろ日本よりも中国などに類例があるかも知れない。
縄文時代後期には沖縄経由でひょうたんの栽培などが東海にまで北上している。そういう南北の交流が縄文早期にまで遡ったとしても筆者は何も驚かない。むしろ、スイジガイや夜光貝同様、もっと南北海道との交流の痕跡が出てこないかと楽しみにして待っている。縄文時代は土器よりもすでに「舟の時代」だと筆者はとっくに考えている。
 
 
 
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