Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live

秦氏はいつごろ嵯峨野に入ったか?

$
0
0
 
京都市内には縄文遺跡はもちろん、弥生。古墳時代の遺跡や大古墳もちゃんと存在する。で、京都市内の遺跡一覧を検索してみて、すぐに分布図くらい出てくるだろうと思っていた。ところがヒットしたのは筆者が添付した縄文遺跡分布図だけだった・・・。
 
PDFでもヒットしない?
 
京都の人は自分たちの先祖にまったく興味がないらしい。
 
なぜかと考えたら、縄文時代はともかくも、弥生~古墳時代は渡来人しかいなかったからなのだろう。平安時代には高すぎるほどの誇りを見せる京都人だが、渡来人にはまったく興味がないようだ。まさに古代史不毛地帯京都を証明してくれた。苦笑いしか出てこない。
 
ないなら作るしかないが、別によそものの筆者が作ってやるいわれもない。作っても教えてやるいわれもなし。ここは京都流のいけずでほったらかそう。
 
 
さて、葛野、つまり嵯峨野の弥生時代は、京都人が思うような未開の原野だったわけではなく、
和泉式部町遺跡  蚕の社周辺。。 『和泉式部塚古墳 現在木島神社の境内末社の椿丘大明神はかつてこの              塚 上に祀られ・・・とある。
村ノ内町遺跡    広隆寺のすぐそば。調査地周辺の南東側には古墳時代後期の常盤東ノ町古墳群、南西側            には古墳時代から飛鳥時代の集落跡である常盤中之町遺跡、北西側には常盤稲荷塚古              墳・常盤柏ノ木古墳群が。調査地の南西方向には秦氏の氏寺である広隆寺がある。
松室遺跡      松尾大社に近い 松室遺跡では、約60m幅の川のような大溝が発掘されている
など、ちゃんと遺跡がある。
 
京都の遺跡一覧
まあ、こういう総花的な一覧なら見つかった。
しかしどこで何が出ているかについては、いちいち当たるしかない。京都の人誰か資料を。
 
 
しかし、ここへ秦氏が入ったのはだいたい深草遺跡終末期から100年以上遅れる6世紀後半である。
ということは秦氏以前の弥生遺跡の主とは誰だっただろう?京都市北部で秦氏より早く居住していた可能性で言えば、筆頭は出雲氏の祖先ではなかったか?北東部の出雲町の存在からの空想に過ぎないが。
松尾ならまず壱岐氏の祖先がいただろう。土師氏も桂川沿線~乙訓にいたはずだ。
 
こうして考えると大和の葛城に一旦入れられ、大和氏族に世話になりながら秦氏は木津川を遡上して巨椋池に北上し、深草に落ち着くので、そこから葛野へも北上したことになるだろう。そのときほぼ同時に葛城から鴨氏たちも京都下賀茂へ入ったのではなかろうか?あるいは先に入っていたか?
 
葛野で明確に秦氏の痕跡と言える遺跡はまず、広隆寺・松尾神社・木嶋坐天照御魂神社しかない気がする。ほかに古墳がいくつかあるが、明確に秦氏の、と言える証拠があるとは言いにくい。
 
宇治市の小倉には、ちゃんと韓国式オンドル遺構や土器などの渡来人の痕跡がある。葛野には出ているだろうか?もっと具体的な生活遺跡が欲しいのだが、なにしろ京都はごちゃごちゃと家が多く、どうしようもない状態である。
 
 
どっちにしても、京都市の人々がもうちょっと自分たちの祖先である渡来人に興味を持ってくれたらと思う。
渡来人だと差別する前に、まず京都の、日本の文化を形作ってきたのは彼らの工人・技術者なのだから。
陶芸も、機織も、詩歌も、漆器も、芸能も、およそ京都発祥と言われるありとあらゆる文化の基層を作ってくれたのは彼らである。
 
せいぜい平安時代程度しか遡れないような新興地じゃあしょうがないか。は。
思いっきり嫌味いいたくなるね。
 
 
 
ネット上の古代史不毛地帯?
研究者が少ないようだ。もっとも村おこしも必要ない観光立国だからね。
地方から来た学生からこずかい巻き上げるような世界じゃしょうがねえな。
 
 
イメージ 1
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

日本の道教の始まり

$
0
0
 
イメージ 1
 
道教
◆概略
「道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は辶(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それは1つの道に成ろうとしている。
神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。

老荘すなわち道家の思想と道教とには直接的な関係はないとするのが、日本及び中国の専門家の従来の見解であった。しかし、当時新興勢力であった仏教に対抗して道教が創唱宗教の形態を取る過程で、老子を教祖に祭り上げ、大蔵経に倣った道蔵を編んで道家の書物や思想を取り入れたことは事実で、そのため西欧では、19世紀後半に両方を指す語としてタオイズム(Tao-ism)の語が造られ、アンリ・マスペロを筆頭とするフランス学派の学者たちを中心に両者の間に因果関係を認める傾向がある。それを承けて、日本の専門家の間でも同様な見解を示す向きも近年は多くなってきている。」

「道(タオ)は、自然とか無為と同義とされ、また陰陽の思想で説明される。道は真理であり、無極(むごく)と呼ばれ、また太極とか太素と呼ばれる。これらの思想は、太極図で示される。朱子学として大成される宋学の形成に重要な役割を担ったのは、この太極図である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
 
 

◆歴史
  「道教の歴史は、中国の歴史と密接な関係を持っています。それは当然のことです。なぜなら、道教とは中国の人々の思想・信仰のすべてを包容した非常に多面的な宗教だからです。
 
 殷~西周:中国文明のあけぼのといえる殷王朝から、初の封建社会を築いた周王朝前期まで。自然神、祖先神への信仰が見られる。
 
 春秋戦国時代:周の支配力が衰え、諸侯が覇権を争う時代。諸子百家における道教的な思想を探る。
 秦:始皇帝による中国全土の支配が完成した頃の道教の状況を見る。
 漢:中国に安定期をもたらし、儒学も盛んになった時代。この頃、道教ばかりでなく仏教も現れつつあった。
 五胡十六国:中国に異民族が侵入してきた混乱期。道教にも新たな動きが見られる。
 隋:日本でも有名な煬帝の時代。道教はあまり振るわなかった。
 唐:日本でも最も有名な時代であろう。道教はこの頃、唐王朝に保護されていた。
 宋:混乱期を経て再び安定した中国。全真教など道教における革新派を見る。
 明~清:最後の王朝を経て時代は近代へと近付いていく。道教はその勢力を失っていった。
http://homepage2.nifty.com/zhuang-zhou/doukyouF/rekisiF/rekisi.html
 
 

◆日本の道教
日本の筑紫などへはすでに1世紀頃から道教的な神仙思想が中国南部から流入している。しかしそれを「道教」という教義の設けられた4世紀以降の中国思想と同一だったとは言いがたい。また三角縁神獣鏡にたまさかよく描かれる東王父(とうおうふ)や西王母(せいおうぼ)や神獣、葡萄などの絵柄や、永遠の模様である葡萄唐草、忍冬唐草などなどのモチーフも、近畿地方で取り込まれても、観念的に道教の真義を充分に理解していたとは言いがたい。奈良時代までの大和における神仙思想は筑紫とは違って朝鮮からもたらされた加工された道教であり、むしろ古い時代の筑紫に入った神仙思想は南朝直送の古い時代のものだったと言える。つまりともに正しい意味の中国道教を理解していたかどうかは、はなはだ疑問である。
 
平安時代前後に陰陽道が花開くが、その前に731年、役小角の弟子である韓国連広足(からくにのむらじ・ひろたり)が天平道教の呪を執り行うという記事が『令集解(りょうのしゅうげ)』に『古記』として引用されている。これが日本での「道呪」の記録上の最初であるが、それ以前に、先に書いたように用明天皇に医療をほどこした豊国法師、その前には豊国奇巫(きふ)が来たとある。もちろんこれらは豊前・宇佐の祭祀に関わった巫師であろう。
 
その宇佐の巫師であっただろうのちの辛島勝氏(からしま・かつうじ)が「からしま」と名乗ったように、彼らは朝鮮半島から来た道教の秦氏から出た巫師ではないかと推測でき、カラクニから来たという名乗りで韓国連と同根であると考えてよい。先の古伝では確かに広足の名前は「辛国連」と表記されていて、辛島の「から」と同じである。また広足の職掌が「典薬頭」だったことを忘れてはならない。巫師とは同時に医術士・薬剤師でもあるのだ。
勝とはなにか?玉勝やうずまさの「まさ」で考えれば、それが「すぐれたもの」を差すことは間違いがない。
また辛島氏と同族の常世連(とこよのむらじ)もまた元は秦氏から出る赤染氏という銅鏡製作者=治金鍛冶である。染色の始まりも鉱物、薬剤師の始まりも鉱物である。
 
こうした朝鮮系道教を最も最大に受け入れたのは天武天皇なのである。つまりあらゆる日本史の革命的改革の始まりは天武天皇にあるとするのが正しい。それ以前の『日本書紀』の記述は、天武の業績を前倒しにちりばめてあるだけである。
 
このように日本の道教的巫師の始まりをまずは英彦山信仰・八幡信仰・香春岳信仰そして宇佐信仰・宗像信仰からと見るのがよいだろう。となれば日本の道教の源流はやはり筑紫でも朝鮮流だったことは明白である。となると問題は唐古・鍵遺跡の2世紀前後には、すでに長寿の妙薬であった太一禹余糧(たいいつうよりょう)を入れた褐鉄鉱の容器が出ていることである。
 
イメージ 7
 
近畿でそんなに早くから道教的な不老長寿の鉄分が利用されていた理由は、考えられるのは京都にいた秦氏などからの入手としか考えられまい?それも深草遺跡よりももっと古い渡来人遺跡の人々であるから宇治市街地遺跡の弥生時代後期、あるいは近江、あるいは大和吉野あたりに住まう先住渡来人がもたらした。秦氏の場合、深草秦氏は水銀・砒素という不老長寿の仙薬でおおもうけしたのだから、知っていたのである。
 
ヒ素が不老長寿の妙薬だとされていた証拠は鎌足?(阿武山古墳被葬者)の髪の毛から出た砒素成分である。水銀・鉄・ヒ素などが妙薬になるのはそれがミネラルであるからだ。ミネラル・ミネラルとネコも杓子も現代人はありがたがって言うが、ミネラルとは英語で鉱物のことである。必要ミネラルとして鉄・亜鉛などが大事なことは栄養学をかじったものなら知っているだろう。しかしもちろん必要最小限の摂取が身体にいいのだ。大量にとればなんだって毒になる。しかも水銀やヒ素は猛毒である。薬どころか命をうばう毒薬でしかない。
そんなものを摂取してまで長生き、不老不死になりたい、それが人間である。おろかである。

道教も、宗教というものはそういう足許をみすかしてようやく商売たりうるものだった。
無学の時代とは、まことにもうけぐちが多い時代である。
今のように教育が行き届くと、なかなかそんな詐欺まがいの方便もきかなくなるはず・・・・あれ、やっぱりなにかと騙される人がいますか。主観で生きるからだろうかねえ?世の中には不思議なことがまだまだあると言うけれど、もしかするとそういう人種が不思議を勝手に作り出しているのじゃあないか?面白いねえ、人間は。
 
 
日本では神獣鏡以前の縄文・弥生の原始信仰にはすでに中国的な神仙思想・不老長寿への願望が表現されている。いわゆる甕棺の水銀やベンガラ塗布などは、まさしく死体の腐食を防ぐと同時に、霊魂を食う魔物を防ぎ、天上界へ登った祖霊・魂魄の肉体への復帰が望まれていたのだと理解できる。
 
さらに古墳時代の3世紀後半の近畿でも、神獣鏡の西王母がかぶる玉勝(たまかつ・ふたまたの触角、あるいはツノのある冠)を描かれることがあった。ところが、このような西王母の姿は1世紀あたりの兵庫県桜ヶ丘銅鐸に簡略化されてすでに描かれている。
 
イメージ 3
 
 
西王母の姿は中国では、ななめに女性すわりして、スカートのドレープがななめに波打って描かれ、手には桛(かせ)を持ち、頭には玉勝というティアラをかぶっているのが定型になっていた。
 
イメージ 2
 
 
◆目的は仙人
さて、道教が受け継いだ、それまでの神仙思想とはおおまかにどのような教義を持っていたのだろう?
まず長寿は仙人になるための長い修行には不可欠だとされた。(こういう部分が逆に即物性・現実主義の中華思想の元じゃないか?老荘の教義とはかけ離れていく)

つまり道教とはまずもって仙人になることを目的とした、不老長寿思想だったと言ってもよいだろう。
それが仏教のような教義が必要になり、老子のような伝説の仙人になるための先生像が作り出され、ついで荘氏のようなそれを受け継ぐ弟子が出てきた。これは宗教発展のための定型的手法である。儒教も同じであるし、キリスト教も同じ。あらゆる宗教・宗派が。元祖がいて、弟子がそれを発展させることになっている。ひどいのになると真宗のように現世的な世俗的な弟子・蓮如がいなかったらすたれてしまった宗派さえある。宗教といえども発展のためには金も力も必要で、中興の祖というのがそういう汚れ役を演じるのである。そういう演出は芸能によく似ている。いやそっくりである。なぜなら中興の祖というのはだいたい渡来人の子孫で金持ちだったのだから。
 
 
 
イメージ 4
西王母の髪飾り1 玉勝とY字型聖杖と糸巻きカセ  http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54278766.html
西王母の髪飾り2 聖なる形・ゴンドラの形 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54279185.html
 
 
 

なんと言っても世の中は教義よりも金である。
これだけは絶対に間違いがないのである。
 
 
イメージ 6
Wiki陰陽より
 
 
だから金克・金気(西)こそが重要で、すべてに金がうわまわり、あげくのはてが亡者のようになって土(黄)に変えることになるわけだ。それがあんただ、おれだ、おまえだよ。
人の一生なんて所詮は亡者の繰言だね。
 
 
 
 
イメージ 5
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

 

修験道入門その1まずはグラビア

$
0
0
 
 
イメージ 7
 
 
 
修験道
修験道(しゅげんどう)は、「山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験道の実践者を修験者または山伏という。
森羅万象に命や神霊が宿るとする、古神道の一つである神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)という山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。
 
日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある[1]。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏(やまぶし)と呼ぶ。
 
奈良時代に成立したとされ、役小角(役行者)を開祖と仰ぐが、あくまでも役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93
 
 
なぜ山々を経巡ることが悟りにつながるかはやってみなければわからない。
やってないから筆者にはわからない。
ただ世界に苦痛による、忍耐による神への帰依をする宗教はいくつもある。
いわゆるイニシエーションの一種である。
五体投地しながら聖地メッカを目指すユダヤ教の巡礼、イスラムの断食、釈迦の荒行、中世キリスト教の鞭打ち苦行者(Flagellanten)などなど。
 
修験道がなにゆえに日本の密教と合体したかはよくわからない。
そもそもは朝鮮半島の花郎集団などが、自分の肉体と精神力を鍛えたり、集団の統率のために課していた習慣が、渡来下層民(賎民?)によって持ち込まれ、原型は民間に存続した原始信仰の苦行だっただろう。するとそれの目指すところは神仙思想に基づく、一種の自然崇拝の亜流であろうし、むしろ日本では神道に近く、道教に類別されるべき信仰行為であろう。密教が仏教の本筋よりもむしろ道教に近かったために、修験も密教に付随?
 
歴史的には神仏混交が背景にある。
山=神=神社仏閣の後戸・・・そのうらどをのぞくための修行か?
 
 
 
 
イメージ 1
これは大峯山 峰入りである。
 
 
 
 
 
さらに裏の歴史的には、聖武天皇の大仏建立のための鉱山探索に、修験道の姿は内密におこなうには都合がよい隠れ蓑になっただろう。
 
山野を徘徊し、斜面を歩き、疾走するとは、あたかも夏王禹の姿である。
 
 
 
イメージ 2
 
 
これは国東六郷満山峰入り前のアジャリ姿である。
 
阿闍梨(あじゃり、あざり)
サンスクリット:ācārya アーチャーリャ、阿舎梨・阿闍梨耶とも 音写)とは、サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記する が、その意味は本来、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠
 
 
.
 
 
なぜ山に入るのか?
山=神それも女神=大地母の胎内への回帰と彷徨。
つまり母性への回帰=死
山=墓場=峰入り=即身成仏であろうか。
 
ということは弥生原始信仰の中にある、大地母信仰であり、生命の再生願望であり、永遠を求める渦巻きの体験であるということになる。極めて道教的で、それ以上に無為自然の極地。
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
梵字
イメージ 4
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やはり密教は本来の仏陀のインド仏教とはかなり離れている。
 
 
 
イメージ 6
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 

黄牛(あめうし)と新羅神・アメノヒボコ、多遅麻毛理と非時香菓と秦氏

$
0
0
 
 
イメージ 4
 
ここでは遠回りな解説はしない。
ずばり、黄色い牛とは生贄である。殺牛殺神を思い出していただきたい。
黄色とは新羅道教でも、中国道教でも=土。
大地である。
あの生贄は雨乞い儀式での生贄であるから「あめうし」なのである。
(大分県竹田市に黄牛の滝がある。滝に生贄の牛の頭をささげていた)
 
 
イメージ 1
 
 
 
イメージ 2
 
 
日光感応説話は『古事記』では新羅王子アメノヒボコ、『日本書紀』では新羅のツヌガアラシトを主人公として、ほぼ同じことを言っている。
 
アメノヒボコが黄色い牛を連れてくる賎民と出会い、「おまえはその牛を食うつもりだろう」と言いがかりをつけて、自分が牛を食ってしまう。ヒボコ自身が神だということである。神だからささげものを食うのである。
賎女がそれに感応して赤い玉を産む。その赤い玉が日光に感応して子供になるが、女はヒボコのひどい扱いに怒って、生まれ故郷である日本へ行ってしまう。
ヒボコはそれを追いかけて日本に来るが大和に居住を許されず日本海側の但馬に落ち着く。
 
 
殺牛供犠という儀式が往古にはあった。
牛を神への生贄にし、首を落として神前にささげ、首以外は谷底の清い川へ捨てていた。
それを放置すると腐って疫病のもとになるから、いわゆる神男たちはこれを拾い上げ食っていた。
神に奉仕した彼らはもちろん被差別民である。
その不浄をアメノヒボコは指摘し、とがめるのである。
 
しかし考えてみれば、腐ってゆく動物肉を川に置いておけば、そこから疫病がまたたくまに広まる。
だからとがめておいて、自分が食ってしまう。
これは簒奪と差別である。
 
なぜ生贄の牛が黄色い牛なのか?
黄色は大地の色である。
大地母=自然神の怒り=災害がおきないために生贄を捧げる。
だから生贄牛は天の存在、聖なる供物であり、大地の生み出す豊穣=ハーベストの最大公約数である。
 
 
ツヌガアラシトの場合は赤い玉でなく、白い石である。
本来、これは赤が正しい。
赤は陰陽五行では「火」、白は「金」である。
火は木を燃やしだから木に勝ち、木は水により育つから水に勝ち、水は火を消すから火に勝ち、火は金を溶かすから金に勝ち、金は木よりも丈夫で硬いので木に勝つ。そして大地はそのすべてを含んで持っているから最上級の強者である。
 
牛を焼いて食うのは火、赤である。
すべてのハーベストを生み出すカグツチは火の神であった。
 
火は土を焼き、豊穣をもたらす。
ゆえに魂は火である生命力の色がふさわしい。
 
 
 
『日本書紀』がアメノヒボコ説話をなぜわざわざツヌガアラシトに変えるか?
敦賀というところを開発したというこの人物に福井の九頭竜川の母を持った継体大王のイメージ、天皇になるべきゆえんをいいたいがためであろう。アメノヒボコは主として日本海側で祀る地域が多い。
播磨国風土記では出雲の大国主=やちほこの神=出雲醜男命と領地争いをしている。なぜ出雲の神が播磨で?播磨には出雲からきたと思われる「伊和大神」があり、これは縄文からの石神であろう。大国主はこの「いわ」の神と出雲神との合体、混交したもので、それは出雲に根づいていた縄文世界を想像させる。
 
いさかいの結果はヒボコ側が但馬を選んで終結する。住み分けである。
 
これまでの考古学では若狭や但馬豊岡・出石地域には前方後円墳や四隅突出型墳墓ではなく、方墳、前方後方分が多く、相容れないように思われてきた。同じ渡来でも複数が日本海の既得権益をめぐって対立し、勢力分布があったということになる。
 
そして出雲の東の境界である荒神谷に大量の銅器が埋められている。アメノヒボコには出雲との争いで、鉾を奪い取った逸話がある。島根と但馬の中間の青谷神寺地遺跡には争いの痕跡が出てくる。
 
だから荒神谷の埋められた銅器とは、国境の住み分けた結界の意味があるのかも知れない。
 
 
 
 
 
アメノヒボコの子孫が但馬の地名を名にする多遅麻毛理(たじま・もり)である。
天皇のために常世の国へおもむき、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰る。
この果実は橘であるとされ、「たちばな」の名前そのものが「たじまばな」から出るのだといわれる。
「但馬の花」で、たちばな」それは黄色いミカンだったといわれ、ここでもまた黄色である。
 
黄色が道教において五行の最終目的地である土=黄に集約されているのだろう。
 
ミカンの発祥地は中国温州(うんしゅう)であるが、それが最初にやってきたのは江戸時代の長崎県である。
だから非時香菓がミカンだったかどうかは不明であろう。
このたちばなは柑橘系果実であることは間違いない。
なぜなら秦河勝のエピソードに、北関東の大生部多(おおうべの・おお)が常世の虫を神としようとしたときに、それは橘によりつく蝶の幼虫であったとあるからだ。
 
秦氏にとって真実の常世虫とは蚕であった。
秦氏の養蚕と機織の基礎である蚕こそが秦氏にとっては神だった。
それをにせもののアゲハの幼虫を神だなどとされてはたまらない。
だから河勝はを殴打してみせしめにした。
 
 
これらの話はすべてが神仙思想から道教への過渡期の説話になっている。
 
 
ヒボコの妻である阿加流比売神(あかる)姫の行った先に必ず秦氏に関係した痕跡がある。
例えば瀬戸内海吉備で近畿の比売許曽と筑紫・豊後のひめこそ社をつなぐ神社のある場所も、岡山県波多(現 秦)村福谷である。ここに姫社が存在する。岡山にひめこそがあるということと、岡山が播磨のとなりであり、中国山地を越えて出雲・伯耆とつながっていることは非常に示唆にとんだ意味があるはずである。
 
 
イメージ 3
 
 
なお、ミカンの産地である和歌山や熊本や大分や静岡には、それぞれ田島守のいわれのある原木がある。
 
 
 
ひめこそ社分布
大分県姫島村 
大阪市東成区鶴橋
佐賀県鳥栖市姫方町姫方  姫古曽(ひめこそ)神社
岡山県秦村福谷        姫社
福岡県小郡市大崎       媛社神社(おおさき地名は「おおさけ」=キツネである)
 
すべて秦氏に関与する場所だと言える。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
 
 
 

修験道入門2 石造物、石塔

$
0
0
 
 
イメージ 5
大分県国東の熊野磨崖仏
 
 
イメージ 9
 
 
 
 
修験道の最終目的が峯入り=母体回帰=死滅であることを象徴しているのが石塔であろう。
塔とは英語でタワー、そのおおもとはサンスクリットの舎利塔ーストーパである。
 
ストーパは日本では卒塔婆である。つまり墓に立てるソッテ、死滅の印である。
 
 
 
石造物を塔にしたて、磨崖仏が多いのは、九州独特の加工しやすい阿蘇凝灰岩が豊富だったからだ。
 
 
イメージ 1
 
 
 
イメージ 2
 
 
修験道が道教的で、しかも神道であり、縄文からの石神(しゃくじん)的であるのは、それがそもそも原始信仰であるからだ。
 
 
しゃくじんはしゅくじんで、宿、祝、夙のものである理由もそこから推測できるだろう。
 
 
つまりそれはどうしても被差別から出る信仰なのだ。
 
 
 
 
イメージ 3
 
 
 
 
イメージ 4
 
 
空に聳える塔は、つまりはもとが男根である。
生命力の源。
死と生がうらはらであることを石塔は如実にいわんとし、さらにそれは道祖神同様道標でもあった。
 
 
 
なぜ修験が石造物にこだわるのか?
 
イメージ 6
国東 天念寺無明橋
 
 
 
 
それは石が無機物であるからだ。
無機物が生命を持っている・・・・?
死んでいる石に生命がある。
生と死が同じだと言っているのである。
 
 
 
手の表と裏。
どちらも手にほかならない。
どこに違いがあるだろう?
どこからが表で、どこからが裏だろう。
境目は常に不鮮明である。
 
 
 
生きることは死なのだ。
終ったところからはじめる旅こそが修験の峯入りである。
終ったところから始める旅に、もう終焉はない。
それは永遠の始まりなのだ。
営々と繰り返されてゆくいのちの連環の、リーインカーネーションのはじまりこそが「行入」である。
 
 
 
いのちはつながれるべきもの。
ひとつひとつの生は今終っても、その糸をつなぐ子孫、それを助ける祖霊がある。
 
 
これが縄文~弥生~古墳へと続いてきた日本人、東アジア人共通の死生観なのではないだろうか?
 
 
 
 
イメージ 7
大極図
 
 
 
ふたつの勾玉=たましいがからみあう
それは永遠である。
みたまとみたまが触れ合う。
それはまぐわいである。
子孫は祖霊の組合せ=男女の出会いから生まれ、それを子孫がつむいでゆく。
はらからが続く。
 
それを永遠というのではないか?
 
 
 
 
 
再生はありえない、よみがえりはありえない、その諦観こそが、実はつむがれてゆく子孫のキズナを永遠の不老不死としていったのだ。あきらめたところから永遠への解釈は更新された。人は強い。ぼくもそうありたい。君もそうあるべきではないか?
 
 
矛盾・・・心は移ろう。
天子は豹変する。
朝三暮四。それもある。
 
しかしそれを認めることこそが永遠へのはじまり。
 
 
                      人とは悲しく切なくあわれなものとかは知れ
                            ゆえこそ痛みに耐えられる
 
 
玉の緒よ絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
 
 
絶えられねば点で終るしかない
 
 
 
イメージ 8
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

古賀市船原古墳群出土金銅製歩揺付飾金具の豪華さと宗像氏と高句麗騎馬遊牧民

$
0
0
 
               かけつけクリック→
イメージ 10
 
 

「福岡県古賀市教育委員会などは24日、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の同市の船原(ふなばる)古墳遺物埋納坑で出土した馬具「金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)」が国内に類例のない形状であることが分かったと発表した。」
西日本新聞2013年11月25日(最終更新 2013年11月25日 00時09分)
 
イメージ 1
出土状況
つぶれていた
 
 
 
イメージ 2
3Dスキャナーによる復元
 
 
●船原(ふなばる)古墳群(福岡県古賀市)
 
イメージ 8
 
 
古賀市の遺跡http://www.city.koga.fukuoka.jp/guide/history/003.php
古賀市立歴史資料館
電話:092-944-6214 Eメール:bunkazai@city.koga.fukuoka.jp.
 
 
●馬具装着図
イメージ 7
胸部か尻部かにとりつけた? 
 
 


 
 
●歩揺とは?
歩揺は花びら形の金属で、傘の骨のように枝分かれした金具からつり下げる。今回は、六角形の金属板の中央に高さ約5センチの大型の歩揺付き金具を配置し、周囲に高さ約3センチの歩揺付き金具6点を立てるデザイン。いずれも銅の表面に金を施した豪華なものだった。
 
金銅製歩揺付飾金具はくらの後ろ側に取り付けられ、馬が歩くと、花びら形の飾り(歩揺)が光を反射しながら揺れる装飾品。市教委によると、再現したのは六角形(対角間の長さ約11センチ)の金属板の中央と、周囲6カ所に歩揺付飾金具を1セットで配置したデザイン。中央は高さ約5センチで歩揺は8個、周囲は同約3センチで各4個の歩揺を計24個つり下げている。出土した部品の多さから、複数が埋納されていたとみている。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293

中国・鮮卑族の冠。木の枝を模し、歩くと枝葉が揺れることから歩揺冠(ほようかん)と呼ぶ。
五胡十六国・南北朝時代、鮮卑族が王権を形成し、それが引き継がれて中国貴族の冠となった。
http://curren.sakura.ne.jp/curren/curren/on_game/DOL/100104_2DOL.html

 歩揺付飾金具は、国内では沖ノ島(同県宗像市)や藤ノ木古墳などで単体は出土しているが、複数の金具がセットになったものはなかった。田中良之・九州大大学院教授(考古学)によると、これと似た構造は朝鮮半島の新羅で見つかっており、「船原古墳の埋葬者は新羅と独自のルートを持っていた豪族の可能性がある」と分析する。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293
北朝鮮の発掘情報がないので、高句麗とのもっと深い交流資料がわかっていない。発掘次第では新羅より高句麗の可能性がある(Kawakatu)
 
 
【冠】より
… 漢文化の浸透する以前の匈奴,鮮卑などは頭部を覆ったり周囲を飾る金製の冠を用い,王権の象徴とした。4世紀以降の鮮卑,高句麗,百済,加羅,新羅では,以前の匈奴や鮮卑の制をうけつぎ,歩揺とよばれる金片をちりばめた金製の冠を用い,そのほかに羽根をつけたり樺を付した冠があった。とくに古新羅の墳墓からは,多くの金製の優品が発見されている。…
http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A9%E6%8F%BA
 
 



●参考遺物
 
イメージ 3

【和:きんかんしょく(ほようかん)】
【中:Jin guan shi】
晋・南北朝|金銀・玉器>金冠飾(歩揺冠) 
西晋時代
1957年遼寧省北票県房身村晋墓出土
金製品
幅17.5cm 高さ14.5cm 重さ37.4g
遼寧省博物館蔵
南北朝時代に、北方遊牧民の鮮卑慕容部の人々が歩揺冠とよばれる冠を好んでいた。慕容という部族名も彼らがこの冠を好んで着用することから、まず「歩揺Jとよばれ、後に発音が訛って「慕容Jとなったという。以後、歩揺冠は北方民族に採り入れられ、貴族の冠となった。この金冠飾は、歩揺冠の立ち飾りである。これは葉と枝の茂る金の樹木のような形をして長方形の金板の上に立つ。金板の真中に凸稜があり、両側に透彫による雲文が配置され、周囲に突刺文がいっぱいめぐっている。金の樹木は七つの枝に分かれ、枝ごとに桃形の葉を吊す環が嵌められている。冠をかぶった人間が歩きだすと、樹木の枝は歩調と風に従って揺れはじめる。故に「歩揺Jと呼ばれていたのである。出所:『中国の金銀ガラス展』
http://abc0120.net/words/abc2007073105.html
http://abc0120.net/book/abc0011.html
 

船原古墳(5)
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?
http://lunabura.exblog.jp/20913640/
 
イメージ 4
 
 
イメージ 5
 
 
 

●参考人物
莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)は、魏代の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。慕容部の始祖。子は慕容木延。慕容廆の曽祖父にあたる。
魏の初め、莫護跋は諸部を率いて遼西に入居する。
景初2年(238年)、司馬懿の公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時に燕,代の地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E8%AD%B7%E8%B7%8B
 
 


 
 
 
●筆者感想
古墳に付属する遺物埋納孔を持っていること自体が大豪族だったことを偲ばせる。
歩揺は北方系騎馬遊牧民の特徴的装飾である。
船原古墳は古賀市という立地、七世紀の古墳、沖ノ島に多く出る歩揺冠などから七世紀胸方君徳善を出す宗像一族の墓と推測する。

宗像氏は、胸や肩にいれずみがあり、これを魔よけとした海中に没して漁労採集した海の氏族の子孫であろう。
つまり倭人伝が言うところの「倭人」とはまさに彼らである。

宗像君徳善は七世紀天皇家に妃をさしだし、突然のように日本史に登場。
その大古墳宮地嶽古墳(歴代二位の長さの石室を持つ)からは窓に使うほどの大きさの西洋ガラス板など、特殊で絢爛豪華で、正倉院をしのぐような海洋交易の品々が。
沖ノ島遺跡からは国宝級遺物が大量に見つかっている。また宮地嶽古墳からは高句麗様式の王冠が出ており、宗像氏が近畿よりもかなり古くから北方アジア諸国とつきあっていたことは明白である。
 
福岡県宮地嶽神社古墳伝世品
高句麗様式の王冠はここからしか出ていない。近畿地方の王冠は百済様式で新しい。
イメージ 6
 
 
 
 
●福岡県古賀市谷山北船原古墳群アクセス
 
 
 
 
 
 
 
読後はクリック!!
イメージ 9
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

特集・小林惠子徹底分析 

$
0
0
 
なんでもかんでも朝鮮渡来と考えてしまう、この異形の東洋史研究家をシリーズでぶったぎる。
 
 
イメージ 10
 
 


 
まずはこのサイトの冷静な分析を読んでおいていただこう。
 
HirooMikes
2012年12月19日水曜日
本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.
著者 小林惠子(こばやし・やすこ) 1936年生まれ。岡山大法文学部文学科東洋史専攻卒。独自の史観に基づき、日本古代史に新たな光を当て続ける
 
 
著作概略
『本当は恐ろしい万葉集』第I部
『万葉集』は単に著名な歌人の秀歌を集めたものではない。正史である『古事記』『日本書紀』に、記すわけにはいかなかった暗黒の史実を反映させた、政治的な歌集でもあるのだ。歴代天皇を初め、為政者たちが歌で暗示する「血塗られた古代史の真実」とは――――
『万葉集』 ⇒ 4500以上の歌を網羅、奈良時代末期に編纂された日本最古の歌集。聖武天皇の近臣・大伴家持が編者に関わり、表記は万葉仮名なぜ「序文」がないのか、編者名も著作年代も確定しないのはなぜか当時日本列島は文物の流入だけでなく、民族の流入も盛んで、後世とは比較にならないほど政治的にもアジア全体と密接な関連があった。文化としての文字も例外ではなく、朝鮮半島および日本列島は中国の漢字をそのまま借用『万葉集』の胎動期は、日本の漢字定着と軌を一にする ⇒ 東アジア文化圏の文字表現の一様式として『万葉集』が位置付けられ、完全に日本化した和歌『古今集』『新古今集』などとは歌の表現方法、内在する意味、意図などに根本的違いがある万葉仮名とは、漢字に日本語の発音を当て嵌めたもの(日本語の発音に漢字を当て嵌めたもの?)。「あしひきの」を「安思比奇能」と書き、解読が難しい ⇒ 『万葉集』が成立するとひらがなの発明によりとって代わられる本書は、『万葉集』編纂者が密かに語ろうとしている政治裏面史を解明しようとするもの
 
額田王は「帰国子女」だった「大和三山」の歌は、この頃の蘇我蝦夷(えみし、入鹿の父)父子一族を廻る中大兄皇子と大海人皇子の内在した確執を歌ったもので、額田王との三角関係を歌ったものではない ⇒ 古代日本語ではなく、朝鮮の古語「吏読(いど)」で読むと明確になる額田王は大海人皇子(後の天武天皇)との間に十市(といち)皇女を生んだのち天智妃になったとされるが、元々天智の血縁だった 663年の対唐国戦の「白村江の戦い」以後、中大兄皇子と大海人皇子の間の亀裂が決定的となり、中大兄皇子の妹の額田王が重荷となった大海人皇子は、額田王を家臣に与えている額田王は、中大兄皇子の父親である百済武王(舒明天皇)が新羅渡来の女に産ませたと考えるのが自然、その後新羅で育ったからこそ、「吏読」と万葉仮名の2通りの歌を詠めた万葉仮名を吏読する技術を発案したのは、舒明・額田王父娘だった ⇒ それが可能なのは来日2世まで。中大兄皇子や柿本人麻呂は1世、2世で読めるのは山上憶良と大津皇子、弓削皇子(天武天皇の子)

歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた『万葉集』を古代朝鮮語で読み解く試みはされたが、同時代の朝鮮の歌が少ないため、現在の学問的常識では読めないというのが通説 ⇒ 古代の両国語に通じた上で当時の政治的動きを正しく把握していればある程度の解読は可能ではないか古代朝鮮の文書によれば、歴代天皇は朝鮮渡来とされる万葉集の最初の鍵を握る人物は武王こと舒明天皇
「天皇暗殺」と額田王武烈王妃だった額田王は、唐国の後援によって、新羅が百済を攻めるという危機を、裏読みして中大兄皇子に知らせた白村江の戦の前夜にも、額田王が裏読みで知らせた ⇒ “熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな” 前年滅ぼされた百済再興のため勇んで出陣する歌だが、裏の意味はいやいやながら従う人の歌になっているため、舒明天皇の皇后である斉明天皇の作(額田王が代作)とされるのと符合半島への出兵に消極的だった斉明天皇が毒殺された可能性があり、側近として天皇と行動を共にしていて、積極派の大海人皇子に想いを寄せる額田王が関わっていた可能性が高い間人(はしひと)皇女の即位 ⇒ 中大兄皇子の同母の妹、孝徳天皇の妃
額田王の「最後の歌」が意味すること複雑な手口で政治がらみの真相を語りかけ、また隠蔽して後世の者を悩ませる。いずれが正しいかどうかは、結局歌の作者や編纂した人でないと分からない

まとめ額田王は、百済武王(後の舒明天皇)と新羅女性との間に生まれ、少女時代、新羅と百済の和平のため、新羅武烈王と政略結婚させられ新羅に行った武王没後、異母兄の中大兄皇子と共に倭国に帰国中大兄皇子は高句麗の大海人皇子と共闘して蘇我一族を滅ぼすため、額田王を大海人皇子と政略結婚させ、両者の間に近江朝の大友皇子の妃となる十市皇女が生まれた立場上からも額田王は、中大兄皇子と大海人皇子の対立緩和に努めたが、大海人皇子が中大兄皇子の即位を妨害することを止めることは出来なかった中大兄皇子が即位して天智天皇となるや、倭国は内乱状態になり、天智天皇は間もなく行方不明に ⇒ 671年大友皇子即位するも、672年には大海人皇子が挙兵、大友皇子を殺して即位し、天武天皇となる額田王は天武朝になると沈黙。1人娘の十市皇女も謎の死を遂げるたぐいまれな文才に恵まれた額田王は、少女時代から政争の具とされ、悲劇の生涯を送る
 

第II部 消された天皇
「持統天皇」は高市皇子である天智天皇の死の謎
天武天皇への呪い有名な歌は、歌の良し悪しよりも政治的に重要な意味を秘めている歌が多い持統天皇(天智天皇の子・高市皇子)の歌 “春過ぎて…” ⇒ 「天」の付く香具山の歌の場合は、歌った人物が倭国の主、つまり天皇になったという即位宣言の意味を込めており、天武朝が過ぎて大津皇子が即位したが、結局天智朝の私が天下人になったとの意。その裏には忠臣・柿本人麻呂の支援があった人麻呂の歌 ”東の野にがぎろひの…” ⇒ 東は天武朝が滅びて、西の天智朝になった
まとめ高市皇子は、中大兄皇子が済州島に追放された不遇な少年時代に済州島土着の女性との間に生まれた中大兄皇子が天智天皇として即位した際、唐国の意向もあって年下の大友皇子が立体子したため、不満だった高市皇子は大海人皇子側に立って暗躍、十市皇女も加担壬申の乱で大友皇子が殺されると、外国勢をバックにした大海人皇子が倭国を簒奪して天武天皇となるが、唐国勢によって殺され、天武天皇の子だが母が天智天皇の娘だった大津皇子が即位大津皇子は、反対派の高市皇子や、草壁皇子、鸕野皇女(一般には持統天皇として知られる)等によって粛清。皇太子の草壁皇子の順番だったが、空位のまま死去。漸く高市皇子が即位して持統朝となる柿本人麻呂は、百済の貴族として生まれ、「白村江の戦」の後に倭国に亡命、天武天皇に歌人として認められるが、高市皇子の即位に賭け、持統朝10年に多くの歌を詠む持統朝の後、天武天皇の長子である文武天皇が即位すると、人麻呂は遠ざけられ、天智天皇の娘である元明天皇が即位すると、流罪先の石見で処刑
 
第III部 『万葉集』成立の謎を解く
以下略本文に当たられたし
http://hiroomikes20120501.blogspot.jp/2012/12/20121217.html
  
正反対の著書 
安本美典 『朝鮮語で「万葉集」は解読できない』 JICC出版局、1990年2月。ISBN 4-88063-784-X。
井沢元彦 逆転の日本史など
 


 
日本語の起源がどうしても古朝鮮語にあったと言いたいのは、この人と李寧煕(い・ねいひ)。
かつてこの二人が同一人物ではないかと筆者はぶったぎったほど、相似形の朝鮮愛好者。
ところがその後の分析から、日本語の基層は膠着言語であること(安本)。
それがオーストロネシア言語であること(Kawakatu)。
さらに古朝鮮時代の和歌集などが残っておらず証明不可能なこと(井沢)。
さらにはさらには、上代特殊仮名遣いつまり万葉仮名が漢氏ら書記官による一過的な朝鮮語発音の流入であり、やがて本来の縄文発音である膠着語の五十音に戻ったこと(Kawakatu)などが次々と登場し、小林・李説は失笑を伴う噴飯説とされていく。
いわゆる小説家に近い、左翼的主観的史観に後押しされる朝鮮一元論主義者。
視野が狭く、偏っていて、独善的なのでしろうと歴史ファンが多い。
歴史ファンタジー作家。
読後は右より作家のものを読み、脳みそをシャッフルしておかねばならないから要注意。
何より、日本の尊厳に重きを置く人々は読まないほうがいいかもしれない。
中庸の美徳を知る一般的日本人は、根っころがってお茶請けにするには充分面白い。
 
 
イメージ 9
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

Kawakatu今、異界におります

$
0
0
 
詳細は帰ってから記事にしますが、おそらく地元九州の紅葉ファンや山岳ファンでもなかなか知らないだろうそんな山奥におります。
 
 
 
こんな程度の急階段はまだまだ秘境ではありません。
 
 
 
 
不思議な食べ物を食べ・・・・
 
 
 
ほとけに祈願し
 
 
 
もっともっと不思議な奥地へ向かいました。
 
 
 
楽しみは明日帰還してからね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰れるのかなあ・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
なつかしい牛乳パンを買い込み・・・
 
 
 
 
 
こんな素蕎麦でりきをつけて・・・・
 
 
 
 
 
 
この世のものではない異界にいるんです。
 
 
 
 
そこは
”かならしやま”
とだけ申し上げておきます。
 
 
 
 
と言ってもおそらくはどなたもご存じないでしょうが。
 
 
 
 
 
ではまた。
 
 
 
 
 
 
 
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板
http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクション http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 

かわかつおすすめの大分異界と聖地とスピリチュアル・スポット巡り 秋の北部編

$
0
0
 
 
 
イメージ 13
 
 
 
イメージ 12
 
 
 
 
 
 
 
昨日までKawakatuがいた異界は、九州大分県の宇佐市院内町と中津市の境目にある修験の山、九州百名山にも名を連ねる凝灰岩地層の山岳である「鹿嵐山 かならせやま」だったのである。
 
国東半島の熊野と国宝富貴寺 を見た後、ぐるぐると異界を経巡って、気づいたら宇佐まで足が伸びていた。
 
イメージ 2
 
思えばこの無明のかけはしを渡ったときから、昨日の異界遍歴は始まっていたとも言える。
西の熊野、熊野磨崖仏。
鬼が作ったという石段を登りつつ、心は国東六郷満山に四ヶ所かかるという「無明橋」に飛んでいた。
 
 
 
イメージ 5
 
 
イメージ 6
 
 
イメージ 3
 
 
イメージ 4
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
 
イメージ 8
 
 
 
イメージ 9
修験者女性がやっている胎蔵寺横の茶店
昨日は英彦山峯入りの日だった。
 
 
熊野磨崖仏は頂上の熊野神社と熊野磨崖仏と、ふもとの胎蔵寺によって構成された天台密教の聖地である。
はるかに高い熊野神社から、さらに修験の山道が延び、越えていくことができる。
 
賽の河原のように小石が積まれた暗所が国東の寺院にはかならずある。
人々の願いが積まれていくのだろう。
 
半島そのものがすべて、闇の後戸なのである。
うらどとは、つまり手の裏側、ハレに対するケの世界である。
人の心で言うならばダークサイド、魔の場所。
 
イメージ 10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富貴寺 山門
 
 
イメージ 11
国宝富貴寺 金堂 数年前の画像、今年はイチョウはまったくダメだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿嵐山の周辺地図
イメージ 1
 
ここで画像容量制限がきてしまったので、その2へ続く
 
 
 
イメージ 14
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 

おすすめ異界その2 ただ紅葉を見るんじゃない、赤の後ろの闇を見にいく

$
0
0
 
イメージ 13
 
 
 
 
紅葉狩りを紅葉見物だと思ったら大きな間違いである。
ただ赤い葉黄色い葉を見にいくのじゃあない。
その背後に潜んでいる、賎なる部民や修験者たちの見ている後ろ戸、うら戸の闇を見にいくのである。
 
 
 
イメージ 1
中山仙峡にかかる無明橋
 
中山仙峡は並石ダムの背後に聳える奇岩群である。
 
 
 
イメージ 2
 
 
 
 
イメージ 3
こちらはテレビでもすっかりおなじみになってしまった天念寺無明橋。
 
 
渡りにくさでは中山仙峡が群を抜く。
 
なにゆえに山のてっぺんに架け橋があるのか?いったい誰が重い石を担いで山の上まで運んだのか?
 
そしてなにより、なぜそのような苦行をしたのか?
 
なにが彼らを突き動かすのか?
 
なぜ現代人はそれを忘れてしまったのか?
 
 
さまざまな疑問が浮かばねばそれはどこかネジがはずれている人だ。
 
 
 
どうせはずれるなら、思いっきりはずれてしまった山下清のような人種のほうが、かえって常人よりも闇を見ることができる。中途半端なばかものには何も見えない。
 
美しいから?高いところ見たいから?
ではない。
紅葉の季節しか紅葉は見られない。にも関わらず、そんな危険を冒して橋をかけた。
 
 
イメージ 4
 
筑紫の島に四面あり。
ひとつは白日別、ひとつは豊日別、ひとつは・・・
その四面の神のうち三面までが、こんな誰一人やってこない山奥の、本道からはずれた山村のはじっこに置かれていた。天国のように金色のイチョウにつつまれて、ひそやかに。
 
 
 
 
 
イメージ 5
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
鹿嵐山からの遠望。
 
なぜ誰も知ることがないようなこんな場所にまで修験者は地蔵を祭ったのか?
 
 
 
 
 
イメージ 7
 
 
 
この鹿嵐山には金山があった。
麻生一族と藤一族、船木一族が入って開発した銅山である。
船木氏はその後熊本へ、麻生氏は筑豊へ、そして藤一族だけが居残った。
これはもうだいぶんまえにもご紹介している。
 
これらの氏族名はつまり甲斐氏とともに全国共通の鉱山氏族名である。
船木は海人族で舟の釘と材木を探して山に入り込む氏族だ。
藤は葛=先住民系・蝦夷系である。藤原と同じ。
麻生は「あそ」=山の土ぐもである。先祖代々穴を掘る。出雲の大穴持の眷属で縄文系であろう。
甲斐は谷間を歩く氏族。
 
鉱山氏族にはこのほかに中世の神野・河野・高野などみな「こうの」と名乗るものもいる。高い山をゆくからだろう。海賊や山賊にも多い。穴井・安濃・穴生なども同じく。
その多くが渡来系鉱山師との婚姻を繰り返した。
 
 
「あな」とは間歩穴、井戸、のだたらをさす。久保田なども窪地=野だたらである。
 
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
 
 
 
鹿嵐山でついにみぞれになった。
 
 
 
 
一気に山を下り、久住をつっきり阿蘇山へ。
 
 
 
夕日が阿蘇を染めた。
 
 
 
イメージ 10
ここが九州鉱山師たちのふるさとである。
阿蘇氏が古代に入った場所。
阿蘇杵島岳の杵島・木嶋もまた鬼島、鬼の氏族=鉱山師である。
それが北関東では鹿嶋となまる。
大生部や茨田や伊福部も鉱山師・鍛冶屋である。
 
 
金刺(かなさし)、穴師も鉱山氏名であり、阿蘇氏、多氏、秦氏とは血縁関係を結んでいった氏族だ。
 
 
 
異界の旅は終らない。
果てしなく続く。
わが人生が終るまで。
 
 
 
イメージ 11
 
北西に金気がある限り。
 
犬、猿、雉を道ずれにして・・・。
異界がある限り。
痛みと疲労は生きているしるしだ。
枯野に死ねれば幸せだ。
千手観音、薬師観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音、虚空蔵菩薩、不空羂索観音・・・そして大地母神の導きで弥勒菩薩に出遭うまで、人類の探索は永遠に終らない。これこそが永遠と再生と不老不死の意思。
 
私のたびは終わりのない旅。
一銭にもならない涅槃の旅。
 
 
イメージ 12
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

[転載]縄文人はるかな旅 2 バヌアツの縄文土器は本当に間違いか?

$
0
0


●バヌアツの縄文土器?
「つまり日本で作られた縄文式土器が何らかの理由でバヌアツに運び込まれたというのだ!
アメリカ・スミソニアン研究所のベティメガーズ博士によると、約5000年前縄文人が南米大陸に移動した可能性が高いという。」
http://enacap.seesaa.net/article/31167096.html

「ニューヘブリディーズ諸島(ニューヘブリディーズしょとう、New Hebrides)は南太平洋にあるバヌアツの主要部を構成する諸島。バヌアツの独立前の呼称でもある。この名は、スコットランド西方のヘブリディーズ諸島に由来する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA%E8%AB%B8%E5%B3%B6

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_2?20131130201859


●縄文土器はラピタ土器?
「縄文時代で最も発展した遺跡と云われた三内丸山遺跡が4千年前頃に理由は不明だったが、長い期間を掛けて消滅していた。それには様々な説が在ったが、縄文人達が彼等の都市を捨てて何処かへ去った時期に符号する様に、南太平洋の人類の歴史が3600年前頃に何処からともなく南太平洋の島々に現れた大集団の活動から始まっていた。その彼等は優れた航海技術や自分達の居場所を特定する為の天体観測等の高度な知識を持っており、更に土器と云う古代文明の利器を持参してこの地に来ていたが、この土器をラピタ土器と呼び、その民族をラピタ人と呼んでいた。しかもラピタ式土器は東北地方の亀ヶ岡式土器に似た土器だったが、その亀ヶ岡式土器は1万年以上も継続した縄文土器文化の殆ど完成したスタイルであり、洗練された装飾や漆顔料等で着色する技術、そしてデザインは元より棒状の粘土を巻き上げて作ったり、強度を増す為に生地に砂礫を混入した製造方法等の細部に至るまで、ラピタ式土器と作り方に相似性を示していた。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=178556
http://enacap.seesaa.net/article/31167096.html

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_0?20131130201859

ラピタ土器と縄文土器が同系統?
ならば縄文人はラピタ人なのだろうか?
ラピタ人とはラピタ人(英: Lapita)は、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族で、それは3600年ほど前の話。ちょうど三内丸山が消滅してから数百年に太平洋に突如登場した。
ラピタ土器の破片。ソロモン諸島のネヌンボ遺跡 (Nenumbo site) でオークランド大学のロジャー・グリーン (Roger C. Green) らによって1970年代に発掘されたもの。破片幅は約8cmで、紀元前1000年ごろのものと見られている[4]。 ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。ソロモン諸島なら環礁で日本の小笠原諸島とつながる島々である。


ところがところが・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆ガセネタだったバヌアツの縄文土器の検証
●バヌアツの縄文土器・円筒下層式土器は資料混在のミステイク
「1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館(Musée de l'Homme)の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた(氏は縄文土器に興味を持っていた…そんな氏に円筒下層式がプレゼントされたのは、いかにも縄文的な縄文土器だったからではなかろうか)。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。1972年になって、同館に所属していたジョゼ・ガランジェ氏が、バヌアツでの現地調査を元に博士論文を書いた。そこでバヌアツ・エファテ島(Efate)メレ平野のヤムイモ畑表採資料が報告された中に、縄文土器片が含まれていた。状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。ガランジェ氏の論文を送られた篠遠氏が、図版の中に縄文土器に酷似しているものがある事に気づき、その実物をハワイに送ってもらい、ちょうどハワイを訪れた芹沢長介氏らの鑑定で円筒下層式と確認された。さらに胎土分析や熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、まさに縄文人によって日本列島で作られた真正の縄文土器そのものである事が裏付けられた。」
メレ村で表採されたという縄文土器.
7は円筒下層d式。なお、在地系を含めた表採全点数は40点だったという。
(『南海文明クルーズ-南太平洋は古代史の謎を秘める-』より)
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_1?20131130201859
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/vanuatu.htm


http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_3?20131130201859

●マスコミの無責任体質(バヌアツの縄文土器をめぐって)
「1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。・・・状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。・・・」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=94872


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ただし別の視点からはこういう分析も出ている。
「縄文中期に鬼界カルデラ(九州最南端佐多岬から南西40キロ付近)が大爆発を起こし、西日本一帯を壊滅状態に追込んだ。

一方、三内丸山では気候の寒冷化が起きて、食生活で中心であった栗が取れなくなった。縄文人は火山爆発の被害と寒冷化から逃れるため、住んでいた土地を離れたと思われる。


ATLウイルス(免疫細胞のT細胞に寄生し、異常増殖させ免疫機能を破壊。成人T細胞白血病といわれ、発病率0.05%)のキャリア数は、世界でも500万人と少ないが、日本人のキャリアは約100万人とその比率はかなり多い。

1994年、文部省ガン特別調査研究斑により、新たな ATLウイルスを持つ民族が発見された。

エクアドルに程近いアンデスのインディオ達である。ATLウイルスは主に母乳を介して子供に感染し、次世代に伝わる。

ウイルスの遺伝子配列がよく似ているということは、共通の祖先から枝分かれした年代が比較的新しいと考えられる。」
http://enacap.seesaa.net/article/31167096.html


果たして縄文人はラピタ人=海洋民族で本当に同じ種族だったのだろうか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まず思うことは船旅に重たい土器を持っていくかどうかは採集した貝類を持ち帰ったり、水を持っていく必要性からは十二分にありえることである。しかし、それを現地に置いてゆくというのは、やや無理があることになる。
難破して海に沈んでいた、というのならそちらの方が随分信憑性が高くなるだろう。また現地で作ったなら現地の土であるべきところが、これは青森の土で作られており、それを現地の島に残していったとすれば、では採集した真珠貝やタカラガイはどうやって運んだのかということになる。さらに日本からプレゼントされていた円筒式土器片がパリの博物館で、日本とバヌアツの分析場所が隣同士にあったとしても、それが、考古学者によって混同されてしまうというのもどこかしらありえない気がする。
ただし、逆の発想で、バヌアツからアウトリガー船でやって来た「鬼」という記録が中世の『古今著文集』にあることは忘れてはならない。この鬼の風貌は確かに南洋の茶褐色の体をしていたとある。漂着したのは小笠原から近い伊豆諸島だったから、彼らはサイパンあたりから来たことになる。縄文人が行かなくても、彼らと伊豆諸島などの太平洋環礁で出会う可能性は捨てがたい。


魏志は弥生の倭人が真珠を献上してきたとちゃんと書いてある。
バヌアツは確かに真珠貝の分布圏内にある。タカラガイに関しては、以前の分析で、あきらかに中国が通貨として求めており、外交の道具として沖縄人や隼人たちが琉球の海で採集し、その船が経由地であった対馬沖海底から発見されているのだから、間違いなく縄文人は貝の道を作っていたわけである。
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_4?20131130201859

そのタカラガイと真珠貝の分布域はほぼ同じである。ならば魏志が書いた倭人が謙譲した真珠も、琉球あたりのものであろう。

縄文時代からの貝の道があって、倭人はこれを外交の決め手のひとつに選んだわけだろう。北部九州の玄界灘沿岸域に最初にやってきた弥生人は、先住縄文倭人の知識を利用した、つまり融和して混血したことと合致するのである。

さらに、魏志が書いた、倭人から聞き出したとおぼしき南海の黒歯国や朱儒国の方位と位置関係、距離感などは、ちょうどバヌアツやエクアドルを示唆している。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_5?20131130201859
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。



●エクアドルの縄文土器もガセネタか?
南米エクアドルのバルディビアでも日本の縄文式土器そっくりのものが数多く発見されている。
阿高式土器(熊本)や田戸式土器(神奈川)に似ているが、土器の成分はエクアドルのものだった。
アメリカ・スミソニアン研究所のベティメガーズ博士によると、約5000年前縄文人が南米大陸に移動した可能性が高いという。どうやらこちらにはそういう異論はでていないようだが、日本の考古学はまったく相手にしていない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、総合的に考えてみて、あなたは縄文人は、ラピタ人のように南海を往復し、巨石文化を伝えていった海洋民族だと思われるだろうか?

縄文人と南海の人々にはオーストロネシア言語(マレー語文化圏)という共通性がある。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55071632_6?20131130201859


メラネシアの諸島には日本と同じ羽衣伝説が伝えられている。
また宝来聡のかつてのDNA調査で、南米チリ沖の島の人々が遺伝子的にそっくりで、外見もまったく日本人であるという報告もあるのだが・・・?

夢はまだまだ朽ちてはいないと言えないか?


では次はぐっと北上してベーリング海峡で出た縄文土器の真偽をまさぐってみよう。


押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]黒歯國はここだ!南米チリのチロエ島・マプチェ族のDNAはアイヌ琉球縄文人系

$
0
0
イメージ 1
 
 
 「今から7,000年以上も昔、縄文人が海流に乗って南米大陸まで航海してエクアドル人になった、あるいは現地人と混血した、と考える事は決して奇想や妄想ではない。 
  2001年、ミシガン大学のローリング・ブレイズ教授を中心とする米国・支那・蒙古の共同チームは、世界中の1,000個以上の頭蓋骨を21ヶ所の特徴で照合調査した。   
その結果、9,000年前の古い地層から出土する先住民(最初にアメリカ大陸を踏んだ人々)の人骨は、日本のアイヌ・縄文人・ポリネシア人に最も近い構造をしている、と発表した。   
世界の民族から27,000人の血液データを採取して遺伝子(DNA)による民族間の近親性を調べた研究がある。   
その結果、ペルーの先住民にもっとも近いのはアイヌ人だった。
チリ西岸のチロエ島の島民のDNAは「日本人に極めて近い」と判定されている。   
日本人と南米先住民は、21,000年~14,000年前に共通の祖先から分岐した、という遺伝子研究の成果もある。   
倭人が南米の分国と盛んに往来していた頃、現地には確かに裸で暮らす部族や歯を黒く染める部族がいた・・・。
バルディビア遺跡から出土する土偶は、裸体で歯が黒く、前頭部に入れ墨をしている。   
100年ほど前まで南米西岸にパサードス裸族がいたし、現在も南米の深い密林の中に全裸で暮らす先住民がいる。   
ウイトの木の実を用いて歯を黒く染めるカヤパス族もいる。   
江戸時代まで日本の女性は成人になるか、嫁入りすると歯を黒く染める「おはぐろ」という風習があった。   
南米の黒歯の風習は日本の「おはぐろ」とは異なって、歯を健康に保つために染めているのだが、二つの文化は太古にはなんらかの関係があったのではないか・・・。
エクアドルのジャングルで昔ながらの生活を守り続けるコロラド族は、縄の結び方で記録する桔縄(けつじょう)文字である「キープ」というものをを有する。   
ペルーのインカ帝国は16世紀まで桔縄文字を使用していた。   
倭人について書かれた5世紀の『隋書』倭国伝にも、「男女多く膚(はだ)に黥(げい)し、面に点し、身に文し、水に没して魚を捕う。文字なし、ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」とある。    
倭人には入れ墨の風習とともに桔縄文字があった。   
大陸から文字が入ってきた後も、庶民は伝統的に縄を結ぶ伝達方法を捨てなかったのだろう。   
縄文人の同種とされる沖縄の琉球人も、近年まで「藁算(バラサン)」と呼ばれる桔縄数字を日常的に使い、島と島の近海交易で筆記に代わって広く用いていた。」
※ 参考文献
『「邪馬台国」は無かった』  『倭人も太平洋を渡った』  『古代の霧の中から』
『海を越えた縄文人』  『魏志倭人伝の航海術と邪馬台国』  『幻想の古代文明』  『海の日本史』
http://plaza.rakuten.co.jp/realityofusa/diary/201103050000/
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
イメージ 4
 
 
●チリ西岸の小島チロエの原住民とは?
・概要と地理
「チロエ島(スペイン語:Isla de Chiloé)は、チリのパタゴニア地方、ロス・ラゴス州にある大きな島。面積は8,394km²で、チリの島ではフエゴ島に次いで広く、南米でも5番目に広い島。チロエ島とその周辺の小島で構成されるチロエ諸島の主島である。Isla Grande de Chiloéともいう。
島の人口は155,000人(2002年)。主要産業は、農業、林業、サケ養殖、観光である。2000年にチロエの教会群が世界遺産に登録され、観光客が増えている。
・原住民
チロエ島には先住民として遊牧民のチョノス人がいた。後からやってきたマプチェ族の人々が東海岸で漁業や農業を行った。
・歴史
1817年12月、チリの独立で追われたスペイン軍の最後の拠点となる。
1826年1月、スペイン軍の残党が降伏し、チロエ島はチリ領に併合された。
1834年から1835年にかけてチャールズ・ダーウィンが島に滞在し、南部チリの印象を彼の日記に残した。
1960年、チリ地震で壊滅的な被害を受ける。
1982年、カストロが再びチロエ県の首都になる。
2000年、チロエの教会群が世界遺産に登録される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AD%E3%82%A8%E5%B3%B6
 
●チョノス人とベリチェ族
「この辺り(チロエ周辺)には、もともとはチョノスという部族とベリチェと言う部族が住んでいたらしい。チョノスは海に出て魚をとって生計を立て、ベリチェ(これは本土のマプチェ族の親戚らしい)は農業と海岸での貝や海草の採取で生活を立てていたという。そうか、日本では海ひこ、山ひこの話だな。分かる。昨日バスで会った、ここからまだ船で六時間の小島に住んでいるおばさんはチョノスの人だったわけか。」
http://www.geocities.jp/peter_fujio/viaje/viaje02.html
チョノス人は遊牧民なのだからこれは間違いであろう。漁師はマプチェ族である。けれどもしこの伝聞記事が正しいのなら、先住民チョノスは遊牧民でありながら漁師でもあったということになるが、それはエスキモーに似ている。しかしこのサイトの伝聞はWiki記事と矛盾する。
ベリチェという部族はここ以外ではヒットせず、ベリチェ語が一件ヒット。「チョノスとベリチェ」は「チョノスとマプチェ」ということだろう。(Kawa)ベリチェはマプチェの類縁種族であるようだが、詳細不明。
いずれにせよ「先住の山の民」と「後から来た海の民」がチロエには同時存在した。
最も好んだのは鮭(太平洋サーモン=日本と同じタイヘイヨウサケ種つまりシロザケ・ベニザケ・カラフトマス)である。
サケの分類参考http://bailebeag.cocolog-nifty.com/scotland/2006/10/post_9712.html
チェノス人は現在はどうなったのか不明である。生き残りはいないのか?

●マプチェ族(Mapuche、マプーチェ族とも表記される)は、まれびと精霊信仰の女性シャーマン社会
・概要
「チリ中南部からアルゼンチン南部に住むアメリカ州の先住民族。民族名は、彼らが話すマプチェ語で「大地」(Mapu)に生きる「人々」(Che)を意味する。マプチェ族は、南アメリカ南部を支配し、インカ帝国やスペインの侵略に対し長く抵抗を続けた民族として知られている。彼らは生計を農業に依存し、ロンコ(lonco)と呼ばれる首長のもとで血縁関係を単位とした社会を構成していた。戦争のときには「トキ」(toqui「斧を持つ者」の意)というリーダーを選出し、その下に連合してより大きな集団を形成することもあった。
・民族
マプチェ族は共通の社会構成、宗教、経済構造、言語的遺産を引き継いだ数多いグループからなる広い地域に住む民族である。その影響はアコンカグア川とアルゼンチンのラ・パンパ州(en)に挟まれた地区全域に及んだ。チリ中部の山峡地域に住み、スペイン人からはインカ帝国の一部とみなされたピクンチェ族(es)や、ウイジチェ族(es)、クンコ族も同じ一派と考えられている[3]。マプチェ族は、ウイジチェ族・ラフケンチェ族およびペウンチェ族と同様にイタタ川とトルテン川の間にある谷に住んでいた。これは、「マプチェ族」をラ・アラウカニア州に居留した部族に限定した狭義でも、ピクンチェ・ウイジチェなど諸族を含みアラウカーノ語族とした広義でも当てはまる。フェルディナンド・マゼランによってパタゴン族(en)と呼ばれた北部のAonikenk族は、マプチェ族と交流を持ち言語や文化への影響を受けたラ・パンパ地域のテウェルチェ族に属する少数部族とされている。このようなマプチェ族の言語や文化が南アメリカ西部の諸族へ影響を及ぼす過程はスペインの進出後も継続し、この一連の伝播をアラウカナイゼーションと呼ぶ。
・言語
マプチェ人の言語は、アラウコ語族の代表的言語であるマプチェ語(マプチェ・ドゥングン=「マプチェ人の舌」の意味)を用いている。これは、北アメリカ先住民族言語にも見られる複雑な動詞語幹を特徴とする。一方で文字を持たず、神話などはもっぱら口頭で伝承されて来た[9]。大別すると二つの系統があり、ウイジチェ語系とマプチェ語系に分けられる。言語学的には直接関連していないが、いくつかの語彙にケチュア語からの影響が識別されている。
・信仰
マプチェ族の信仰はマチと呼ばれる祈祷師が執り行う儀式を中心とした自然崇拝に分類される。彼らの信仰では、伝承『Trentren Vilu y Caicai Vilu』が重要な位置を占める。さらにNgenやPillanなどをはじめとする自然崇拝に基づいた霊的存在が信奉されている。Machiマチはシャーマニズム的な特徴を持ち、通常は女性が担いつつ、年長の者が後進を指導する。マチは多様な薬草などや科学的な知識を広く持ち、病気治療(マチトゥン)や悪霊払い、または雨乞い(ギジャトゥン)や豊作についての儀式や社会的な交流などを執り行う。
・音楽
マプチェ族では、音楽は儀式の一環として演奏される。木製の笛ピフィルカ(Pifilca)、角のホルン・トゥルトゥルカ(Trutruka)、片面太鼓クルトゥルン(Kultrun)、口琴トロンペ(Trompe)など固有の楽器を用い、列になって演奏しながら祭壇を廻る。この他にも、語り調の歌も伝わっている。現代にマプチェ音楽を伝えるミュージシャンとしては、アルゼンチンのベアトリス・ピチ・マレンなどが活躍している」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%81%E3%82%A7%E6%97%8F
●お歯黒の発祥地か?
先史時代の入れ墨の道具は南米でも見つかっている。オナ族やマプチェ族は海人系で文身風習があったらしい。
お歯黒風習は魏志の黒歯国を思わせる。
●ジャガイモやナスの発祥地のひとつ?
「環境保護論者はチリ政府に対して、南部チロエ島での遺伝子導入技術を禁止すること、チロエ島をボリビアやペルーと並ぶジャガイモ(Solanum tuberosum:ナス科 ナス属)発祥の地として承認することを要請している」
http://janjan.voicejapan.org/world/0610/0610253430/1.php
●フエゴ島と古い交流
オナ族との間で交流が続いていた
●魚食民族
生で食すかどうかは不明。刺身で魚を食う風習は日本とトンガ・フィジーだけである。しかし魚食であることは間違いがない。
●音楽を奏でながら歩き周回するというのはナスカ人や日本のチンドン屋に似ている。
●見た目はすっかりインディオ
 
イメージ 2
 
イメージ 3

http://www.unicef.or.jp/children/children_now/chile/sek_chile03.html
http://www.pref.fukushima.jp/kokusai/wwt/chile/yamadera_mapuche.html
どうやら海人族らしくオナ族よりも行動範囲が広いためにすっかり混血しているようだ。スペイン系や新モンゴロイドとの混血が済んでしまっているので、見た目では日本人に似ていない人が多いようだ。しかし中には原種を残す顔つきもある。浅黒いのはどうもインディオのようだが?
●国立遺伝子研究所の宝来が分析したチロエ島民とは、果たしてマプチェ族のことでいいのだろうか?
 
イメージ 1
 

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]では侏儒国とはどこだったか?

$
0
0


さて、ここまでの分析で、魏志の荒唐無稽とされている侏儒国・裸国・黒歯国のうち、裸国はマゼラン海峡の全裸で暮らしていたオナ族に該当し、黒歯国はその北部にあるチリ東岸のチロエ島のマプチェ族がお歯黒を塗ることからこれに該当するのではないかと仮定しておきたい。距離的にも倭人伝の船旅で「一年かかる」に合致するほどの距離だ。

すると残るのはもっと日本に近い場所の南海にあったらしき侏儒国とはどこなのだろう?

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55078588_0?20131130210000


黒歯国も裸国も、どうも文字面どおりの姿かたちであった。ということは侏儒国もそうである確立は高い。魏志の不弥国よりあとの記述は、どう見ても魏の使者が直接行かずに倭人からの伝聞である。ということは侏儒国以降のようなはるか南海のはてにある国々とは、倭人たちが見てきて、あるいは向こうからやってきて、交流があってこその国名であろう。研究者たちはだから、一切この三国について触れたがらず、在野の好事家もまた中国人の錯綜したイメージから書かれたから無視状態である。

しかし黒歯国・裸国は現実に南米に存在したとするならば、侏儒国も実際にサイパン界隈に存在したのである。
それは具体的にどういう国なのか?
そのためにはまず「侏儒」とは中国人にとってどういう人間を言い表しているのかを決めておく必要がある。


●しゅ‐じゅ 【×侏儒/朱儒】
1 背丈 が並み外れて低い人。こびと。
2 見識 のない人をあざけっていう語。
デジタル大辞泉
昭和9年版大辞林には古い用法で「うだち」とある。うだちとはうだつ=つっかえ棒で、「うだつがあがらない」で「下らない」だから、やはり2の意味になる。一寸法師ともある。小さくて、頭の弱いものとなる。

「又、高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛がいた。その風貌は、身の丈が低く手足が長くて侏儒(しゅじゅ)に似ていた」『日本書紀』巻第三神武天皇(即位前紀己未年二月)

芥川龍之介の作品に『侏儒の言葉』がある。
芥川は日本の古典や中国文献にも詳しい有名作家である。
この侏儒とは芥川は1・2両方の意味で使っている。「愚かな小人」である。
愚かな小人と来ると『日本書紀』ではちいさこべのすがる ちひさこべ― 【少子部蜾】小子部栖軽をまず思い出すが、神武紀では土蜘蛛も侏儒のようだったと書いている。

おそらくそういう小さくて一見気が狂ったような風習の人々がいるサイパン周辺の島であろう。
気が狂っているように見えるというのは、解釈次第でいろいろ考え付く。
まず、シャーマニズムでのトリップした状態。
本当にバカ。
常識では及ばない奇妙な風習がある。などなど・・・。

しかも小人である。それも常識はずれの小ささ。
倭人にも小さな人の意味はあるが、それよりももっとチビだとなると、
アフリカのピグミーのような、あるいはインドネシアフローレス島で発見されたホモフローレンシスのような身長1メートルくらいの人類となろうか。ちょうどミクロネシアあたりにはアジアのピグミーとも言われる種族が点在している。
思い出すのは以前切り取った次の文章である。

「アジアにおいて小さな体をもつ狩猟採集民であるフィリピンのアグタ族 ( Agta) とバタク族 (Batak) 、マレー半島のセマン人 (Semang) 、アンダマン諸島の 先住民などは現在アフリカのピグミーとは独立の存在とされている。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55063001.html
元記事http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B0%E3%83%9F%E3%83%BC

これはインドネシア・スマトラのバタック族について書き添えたWikiのピグミーに関する関連事項である。
今、切り取っておいてよかったと思っている。またバタック族をはじめとするスマトラの矮小民族の住む島々は、ちょうど日本から見て、魏志が裸国に関して言う「邪馬台国から南」にだいたい合致している。スマトラには限定せずに広くインドネシアからボルネオあたりまでおけばこのあたりは日本の真南である。

ではどうやって行くか?
方法は三つほどある。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55078588_1?20131130210000



伊豆諸島から環礁ぞいに南下して小笠原諸島・マリアナ諸島はつながった円弧である。実際、小笠原にはトンガ人系の東京都民が実際に住んでおり、過去、環礁円弧をさかのぼってやってきたことが確実視されている。これでパプアニューギニアまでアウトリガーボートでたどり着ける。伊豆諸島は奈良県の東にあって距離的にも近畿説には有利な位置になる。

もうひとつは九州説には有利な、鹿児島から奄美、琉球列島の円弧をくだり、台湾・フィリピンからインドネシアへ行ける。
もうひとつはやや難しいが、魏志の邪馬台国を九州と仮定して、その東、高知県か大分県から南下して鹿児島までおり、あとは琉球を降りる方法。

どれが一番現実的で魏志にみあう場所かとなると・・・実は畿内の位置に行いて当時の中国人見識者のイメージは、倭は九州が最北端にあって、その他の國はみなその南につらなる円弧であるというものだったと考えられるから、本州とか四国、北海道についてはまったく無頓着で、邪馬台国が九州の真東にある本州の国であるなどとは露ほども感がなかったようなのである。史書の記述でも、12世紀になってもまだ、そういう書き方をしているのだ。
つまり中国人にとって倭、日本とは当時は九州から南にあって、九州以外はみな南海の島々だと思われていたのである。だから本州に邪馬台国があったとしても、そこには彼らの感覚では国も島もない空白地帯。海である。

わずかに邪馬台国の東にまた国あり倭種であると書かれ、そこから南下すれば侏儒国はあるのである。
この感覚で言えば、邪馬台国の東の国とはハワイになってしまう。そうでなければ倭種の国は土佐や紀州や豊後の海人族地域しかなくなる。それらより北側にも東側にもそれ以上国土はないのである中国人には。だからヤマトではありえなくなってしまう。

ヤマトだったとするなら東は東海か伊豆で、伊豆から南へは小笠原を南下するしかなくなる。和歌山なら南に倭種の国はあるはずだし、ここからは黒潮があって横断はきわめて難しい。いくら漕いでも北上するばかりになりかねない、伊豆なら島伝いに南下できた。

琉球を使ったなら九州説が有利である。すると今度は真南にはならず南勢方面のスマトラが現実的。

決めがたい。
考古学的には琉球諸島の「貝の道」が既成の海上路としては耳目に知られてきた歴史がある。ところが魏志はなぜか奄美や琉球が台湾とつらなっていて海南島までいけることを語りたがらないのである。知らないはずはないのに書いていない。なぜなら中国南朝の通貨は一時沖縄産タカラガイを使っていたからだ。この原因は琉球の貝を運ぶルートが琉球列島を北上して玄界灘から壱岐対馬、渤海ルートだったからかも知れない。そして運んだのは竜旧人でなく隼人が仲買人だったからか?このあたりは当時の政治的策謀が関わっているはずである。

裸国・黒歯国は侏儒国の東南ゆえに、オセアニア・インドシナのほとんどの地域がこれに相当してしまう。小さな船旅ゆえに日本から南といってもおおまかで、波次第ということもあるだろうから、着いた島が特定しがたい。

筆者はまずはフローレンス島かスマトラ島だと考えたい。だから九州からが有利と見ている。
三世紀の東国は関東・東海東部には縄文人も少なかったこともある。
ただその少数の人々が千葉県や神奈川県あたりで洞穴に葬られており、船葬風習を持っていることや、伊豆諸島の黒曜石が本州各地にちらばった歴史も捨てがたい。

なおオナ族はアジア大陸をアリューシャン列島伝いにアラスカに入り、寒冷地対応を残したまま南下して北米西海岸伝いにマゼラン海峡に至ったようである。陸路なら浅黒いインディオの外見になっていたはずである。

北米に入るコースは凍ったベーリング海峡の時代の道もある。しかしどうもそうではなかったと思えるのは、ここに最初にアメリカに入った民族=クローヴィス人の痕跡がなく、つまり暖かくなってからやはり船で渡ったらしい意見が多いからだ。

次回クローヴィス人と北周りコースにようやく言及できそうだ。
ほぼ縄文人の登場と同時に、極東アジアでは入れ替わるように登場し(15000年前くらい)、アメリカ大陸に消えた民族はどこへ行ったのか?

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1608775/img_1608775_55078588_2?20131130210000




押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]セルクナム(オナ)族 日本人にDNA類似の南米最南端民族

$
0
0
イメージ 1
日本人そっくりな南米最南端フエゴ島のオナ族
イメージ 4
セルクナム族(-ぞく、Selk'namとはティエラ・デル・フエゴ諸島を含むチリ及びアルゼンチン南部のパタゴニア地域に嘗て居住していた民族オナ族Ona)とも南米最後の先住民族の1つとされ、19世紀末にチリ・アルゼンチン両国政府がティエラ・デル・フエゴの探索と領有を進めた結果、絶滅に追い込まれた。
元々南米大陸を先住の地としていたが、マゼラン海峡カヌーにより縦横断し[1]ティエラ・デル・フエゴ北部に住み着いた[2]と考えられている。」
Wikiセルクナム族より
 
 
イメージ 10
 
 
イメージ 11
 
 
 
●オナ族(ヤマナ族)
「「El fin del un mundo(世界の果て)」と題された写真展は世界の果てと言われたウシュアイアの周辺に住んでいた原住民セルクナム(別名オナ族)を紹介するものだった。宣教などの目的でヨーロッパから人が入ったことで今までになかった病原菌が入り絶滅してしまったという歴史があるそうだ。寒い地域にもかかわらず肌をあらわにして体にペインティングしているのは祭りの時の様子だそうだ。その顔は私達日本人にも近いモンゴロイドで昔の日本人の写真といわれても納得できそうな人もいた。
イメージ 7
 
 
イメージ 8

 展示会のポスターのモデルになっている女性はスペイン人とセルクナムの間にできた子供で、こういう人々が生き残ってセルクナムの風習について語っているビデオがあった。といってもビデオの撮影自体が70年代くらいのものなので既に亡くなられいるかもしれない。ひょんな事からとても貴重な映像を見ることができた。」
http://worldmover.ciao.jp/sketch/11_Argentine/sk_01101_09032201.php

●南米最南端に行こう!!
フエゴ島のオナ族(ヤマナ族)
「これは19世紀に撮られた写真だそうだ。
彼らパタゴニアで生活をしていた先住民族で日常はほぼ裸での生活をしている。
▼これが日常
イメージ 6
 
イメージ 1
 
しかし、祭りの時などの大切な行事などがあるとき正装するのだ。
▼こんな風に張りきって正装する・・・
イメージ 5
 
こんな彼らなのだが、入植者が持ち込んだヨーロッパからのウイルスなどの
感染症により全滅してしまったそうだ。」
http://goodspeed2007.blog102.fc2.com/blog-entry-589.html
 
 
イメージ 2
 
 
 
イメージ 9
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
あきらかな南島系「来訪神」の姿。
これは常世からの神=蘇民将来である。
 
 
南米最南端、マゼランがぐるっと周回したビーグル海峡のすぐそば。
どうやってここまでアジア民族が、しかもインディオにも北米インディアンにもならず、まるで台湾の原住民や日本人や中国少数民族の風貌のまま・・・?!
宝来聡のDNA分析で日本人に限りなく似た遺伝子構成を持っていたとされた南米チリのチロエ島とも交流があったオナ族。
 
さあ、どう整理すればいいのか。頭の中がくらくらしてくる。
 
 
イメージ 3
 
「その他20以上の採集狩猟民についても概して非攻撃的な文化を持つ。例外的に攻撃的な文化を持つのはフェゴ島のオナ族とアンダマン島民。オナ族の攻撃性はバンド(部族)に権力を持った指導者がいることと、バンド間のいとこ婚の禁止が原因らしい。アンダマン島民が攻撃的だったのはバンドに強い指導者がいた期間のみ。」
 
チョン小語族に分類される。
 
チョン小語族(-しょうごぞく、Chon languages)はフエゴ島パタゴニアで話される言語群。2言語が知られていたがそのうちの1つセルクナム語(Selk'nam)は2003年に絶滅した。もうひとつの言語はテウェルチェ語(Tehuelche)である。セルクナム族マルティン・グシンデアンヌ・シャップマンら人類学者により20世紀に広く研究されたものの保護はされなかった。
 
病原菌により絶滅している。
 
 
 
イメージ 4
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
 画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
 民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
 あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

胎蔵寺龍神菩薩立像から宇宙無為自然まで

$
0
0
 
イメージ 1
 
(以下、住職によるご紹介です。)
「菩薩様の肩に龍神様が乗っています。このような姿の仏像はとてもめずらしく、日本で一体ここでしか見られないものです。
菩薩様が手に持っているのは桃です。仙人思想といいまして、桃は長寿また幸せを呼ぶ、魔を払うということで、この龍神菩薩様は桃を持っています。
お顔は聖徳太子をモデルにしたといわれていまして、まるで神様の様な雰囲気のお顔に彫られている不思議な仏像でございます。
龍神様には頭が三つあります。なぜ三つ頭があるのかはよくわかりません。諸説ありまして、"三つの智恵"、"天・地・人"、"過去・現在・未来"を表している、といわれています。
約550年前に彫られた仏像です。ですが、あまりの美しさにご覧になった方は"つい最近創られものではないか"と驚かれています。ですが、本当におよそ550年前に創られたものです。」
http://taizouji.info/index.php?FrontPage
胎蔵寺名称は真言密教の胎蔵界に由来するゆえに、本来、本尊は虚空蔵菩薩であるべきだろう。
 
国東六郷満山熊野にある胎蔵寺は仏教寺院の常である西を向く。
その庭に十二支像が置かれ、四至を示しているのは、道教がないまぜになった密教を表している。しかしここの十二支は本来北にあるべき子・牛までもがなぜか西を向いており、矛盾している。
面白い。
 
イメージ 2
 
西には戌亥酉がいなくてはならぬのだが?
アンジュに聞くと、「ほとけさまのおられる西を向くのは当然です。」
意味不明だった。
 
 

胎蔵界(たいぞうかい)
「『大日経(だいにちきょう)』に説かれる仏の世界で、それを図示したのが胎蔵界曼荼羅(まんだら)(詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅Mahkaru garbha-sabhava-maala)である。毘盧遮那(びるしゃな)仏(大日如来(にょらい))の一切(いっさい)の衆生(しゅじょう)に対する慈悲(大悲)によって、その悟りの内奥(胎蔵)から生起した(生)諸仏・諸尊の世界で、毘盧遮那仏が、その無数劫(こう)の過去世に蓄積した経験を現世に生きる衆生に対応した形に変化させ(神変)、その上に付加して(加持(かじ))、衆生に仏の真実の世界の内実(荘厳(しょうごん))としての意味づけを与えた、その総体(マンダラ)である。 」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%83%8E%E8%94%B5%E7%95%8C/
 
 

虚空蔵菩薩(こくうぞう・ぼさつ)
 
イメージ 4
 

「虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャ・ガルバ (आकाशगर्भ [Âkâśagarbha])またはガガナ・ガンジャ(गगनगञ्ज [gaganagañja])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。
「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9
 
 

そもそも天台密教の聖地である六郷満山には天台寺院が多い。ここに胎蔵寺があるのも奇妙ではあるが、過去、四国から真言密教を報じる人々が入り込んで混生してきたことはよく知られる。
天台と真言の違いは、天台の始まりがそもそも最澄が国家信仰として学んでこいと天皇に言われて持ち帰った国教だったのに対し、空海は私度僧で、自らの意思で中国密教の集中地帯である南部に行って直接伝授され、主に民間の中で育ったものという違いである。
 
本来、中国密教からして、原初のインド仏教よりもヒンズー教的な始まり方をしている。そこに道教まで混じり込み、基層には中国南部の神仙思想・大地母信仰がどっしりと鎮座していると言える。つまりもともとの仏陀の教えである哲学が変化したものである。
 
「仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるインドの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。
仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。」
偶像を崇拝している今の中国や日本の仏教は、すなわち仏陀から見れば原始信仰の一種になる。

観念であるべきものに形を求めるのが、イスラム教などの偶像崇拝しない宗教から見ると、すでに原始的であるということになる。仏像や神像というものは、要するに太古の巨石信仰=自然界への畏怖を形にしたもの、と同じだということである。
 
密教の持っている神秘性は、その信仰をより見やすく、信じ込ませやすくするためのノウハウでしかないので、太古の巫女王の手法である火や火花、麻薬を使ったトリップの手法の一種である。念と呪を即席に味あわせてやり、信仰心を後押しする行為。
 
仏教の最高の神は大日だけでよい。
しかし人間はそれぞれの生き方、生き様、職業があり多様である。神々や諸仏はそれらにあわせて形成された諸派仏・神でしかない。

たったひとつの真理を究めるならば、むしろそれらは哲学の邪魔になるだろう。
まあ、人類は人それぞれ。
いろんなバラエティが必要な生き物なのであろう。
それらすべてを許容するのが仏陀の教えでもある。
宗教者とは往々にして理論と理屈で民衆をコントロールするものたらんとしてしまう。仏陀はそんなことは一言も教えていない。

所詮彼らも星=衆生のひとつでしかない。もちろんキリストも仏陀もマホメッドも、その星星のひとつでしかない。ただそれが輝く星だったということである。およそ信仰もまた、人類が進化して滅ぶ間の悩み事、生みの苦しみのひとつでしかない。過渡期の概念。まだまだ淘汰されてもっとシンプルにならねば真実、全人類を救う観念ではない。つまりそれが精神世界の統一である。
龍神だろうが虚空蔵だろうが、唯一絶対神の用いる歯車のひとつなのだ。

仏陀が死んで一億56万年あとに、替わって登場する神が弥勒だとされている。
一億何十万年などという時間枠は、要するに無であり、ありえないはるかなかなたで、それは地球誕生からこれまでの時間すら越えてしまい、科学で言うならば地球そのものの寿命まで越えてしまう。そうなると仏陀の思考は人類にとどまらずいきとしいけるものすべてから、全宇宙の寿命にまで及んでいったことになる。それはつまり不易ということであり、それこそが真理なのである。つまり一言で言うと無為自然である。
 
 
 
 
イメージ 3
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 

[転載]師走の意味

$
0
0
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1585296/img_1585296_51372004_0?20131201110750

師走と書いて「しわす」
一般に先生が走る月などと言われてきたが、筆者の説は違う。
12月に多い追儺行事では、師が走り回るからである。
この師とは「法呪師」(ほずし)である。
薬師寺では追儺のために法呪師が走り回る。

語源由来辞典http://gogen-allguide.com/si/shiwasu.html
がいろいろと師走の由来を書連ねているが、師とは法呪師でまず間違いないと思う。

まあ、その走ること走ること。

ま、調べてみ。確信しますよ。

面白いと思ったらクリックよろしく!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
↓       ↓          ↓
にほんブログ村 歴史ブログへ(文字をクリック)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・古代史へ(文字をクリック)

ご注意:すべての記事に「ヤフーブログ専用の見えないIP読み込みタグ」がついています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Kawakatu他のサイトへのリンク

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]師走の意味

$
0
0
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/0a/2d/kawakatu_1205/folder/1585296/img_1585296_51372004_0?20131202093036

駆けつけランクリ!
http://blog.with2.net/in.php?686171:1650



師走と書いて「しわす」
一般に先生が走る月などと言われてきたが、筆者の説は違う。
12月に多い追儺行事では、師が走り回るからである。
この師とは「法呪師」(ほずし)である。
薬師寺では追儺のために法呪師が走り回る。

語源由来辞典http://gogen-allguide.com/si/shiwasu.html
がいろいろと師走の由来を書連ねているが、師とは法呪師でまず間違いないと思う。

まあ、その走ること走ること。

ま、調べてみ。確信しますよ。

面白いと思ったらクリックよろしく!↓

If you feel this article if interesting, please make a ranking click. I ask!
↓       ↓          ↓
http://blog.with2.net/in.php?686171:1650


かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]京言葉、基本は中国語アクセント

$
0
0

●天平二年(七三〇)三月辛亥【廿七】
又諸蕃・異域。風俗不同。若無訳語。難以通事。仍仰粟田朝臣馬養・播磨直乙安・陽胡史真身・秦忌寸朝元・文元貞等五人、各取弟子二人、令習漢語者。詔並許之。(『続日本紀』)

●意味
諸外国は風俗が違い、通訳がいないと事がはかどらない。そう仰って天皇は粟田朝臣馬養(うまかい)、播磨直(はりまのあたい)乙安、陽胡史真身(やこのゑびと・まみ)、文元貞、秦忌寸朝元(はたのいみき・あさもと)等五人に、それぞれ弟子を二人ずつとって漢語を教えなさいと詔勅された。


森浩一・・・「この漢語とはなんですか?」
森博達・・・「中国語です。当時の日本での中国語教育に二通りあります。一つは古典を読む「音博士」で・貴族の子弟に長安の標準的な中国語の発音を教える。もう一つが日常的な通訳に必要とされる漢語です。」

※つまり実用中国語会話ができないと、いくら発音ができても相手に通じんぞ、ということで五人の達人が弟子を二人ずつとって特訓せよ、というわけである。だからこの五人は中国語がぺらぺらだったことになる。ここ重要です。

森浩一・・・「八世紀に漢詩集『懐風藻』が編まれたころ、詩の朗読は日本語ですか、それとも中国語ですか?」
森博達・・・「両方あったと思います・・・・」・・・・・・・・・・
森浩一・・・「京都との関係で言えば、宇治にいた菟道稚郎子(うじの・わきいらつこ)が、百済の阿直伎(あちき)と王仁(わに)に経典を習っています。
森博達・・・「おそらく呉音で教わったのでしょう。百済は南朝と交渉がありましたから。現代でも京都で「いちにぃさんしぃ」と節回しをつけて教えますね。これは呉音のアクセントが基本です。呉音の次に入ってきたのが漢音で、京都でなにかの「会」に出る時に、カイの「イ」にアクセントを置く、あれは漢音です。余談ですが京都弁はアクセントが豊富で、中国語の四声が全部そろっています。逆にアクセントが少ないのが仙台や福島、宇都宮です。」

以上『京都学ことはじめ』「古代の日本のことば」より


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●京都のアクセントは中国語の音に近い
京都では室町時代真義真言宗の下野出身の僧がアクセント辞典を作っていた。『補忘記(ぼうもうき)』である。関東人には京言葉の多彩なアクセントがうまく表現できず、辞書を作って覚え、それで民衆に啓蒙したのである。それほど京都弁は難しいのだ。

ちなみに森博達も言っているが、「京都」の「きょうと」という読みは漢呉発音が混交している。「きょう」は漢音、「と」は呉音である。
いつから混じるようになったかはなかなか難しいが、日本語のような島国言葉の場合、音の混交は激しいようだ。言葉の単語そのものもどんどん取り込むし、音も地域によって混合が激しい。ときには大和言葉と英語、大和言葉と朝鮮語の組み合わせなど自由自在である。


●京都ことばのアクセントは、中国語が基本
それも当初は呉音で発音したときのアクセントであろう。
大阪弁や奈良弁、兵庫弁などの畿内語とここが大きく違うところである。

宮城が奈良から京都に移ったとき、大和言葉を話す貴族はみな京都にやってきたはずだ。すると平安京の貴族のアクセントは平城京の大和言葉のアクセントになっていくはずなのに、実はそうではなかったようだ。京都にあった独自の呉音アクセントがなぜかその後も大和の貴族たちに広がった。奈良時代までの音は八十八音もあって複雑だった。これは大和政権が白村江以来取り込んでいった百済系渡来人の通訳や書記が、自国の音を使って表記したために「あいうえお」が一気に増えたものを、平安京では先住京都人の発音・アクセントになることで、一気に今度は音が減ったのであるという。平安時代の京都の音は六十八音に減っている。

つまり京都人の発音は中国語で、大和の発音は奈良時代には朝鮮語に近かったということになる。
その京都の発音体系を作ったのは、当然、山背でもっとも人口が多かった秦氏にほかなるまいと言われる。
しかし秦氏は新羅系朝鮮からの渡来人なのではなかったか?ならばその京都の音やアクセントは新羅のものに近いのではないのか?
ここからも秦氏が必ずしもすべて新羅・朝鮮系ばかりでないのではないか、という疑問が浮き彫りになる。

秦氏に限らず、氏族には必ずしも血族でない部下がたくさんいた。秦氏ほどの雄族になると、その部や人や首の人種は山ほどいたことだろう。中には秦氏がやってきてから同族になったり、配下になった先住者も多かった。すると京都の言葉は自然に淘汰されていくことになる。
それは海人族が船の上、海の上でやはり明確な母音のついた発音を必要としたのと同じで、誰でも聞き取れる明確な言葉になる必要があっただろう。これを言語学で「ピジン化現象」「クレオール化」などと言う。
統治時代の英語圏のピジンイングリッシュがやはりそういう原住民の発音と為政者の発音の混成された言語である。
やはり日本語そのものもピジンクレオール言語だったのである。京都弁はさらに単純化されて、島人の発音にちかくなったうえに、呉音のアクセントが重層的に混じったものになった。ということは秦氏らの中心言語のアクセントがやはり中国発音に影響されていたことになろう。

それは秦氏が殖産氏族だということに由来するのではないか?
海外貿易に必要な言語が中国語だったのではないか?

その他の関西弁と比較したと京言葉のアクセントは、単語のトップに来る。以前書いたが「あたま」は「あ」にアクセントが入る。「会」の場合か「い」と「い」に来る。だから非常に抑揚に富んだ上品でのんびりした「雅」な発音になる。
大阪弁や奈良弁ではそうならないのは、アクセントの場所が違うのである。
それが森博達は中国語の四声を平安時代の京都人がちゃんとしゃべれたからだとしているのである。

朝鮮半島渡来人が書記官になる前の大和の音はやはり少なかった。それが渡来の登用で一気に88音に増えた。その言葉で表現されたのが万葉集の和歌の多くである。だから万葉集から日本語を分析して、朝鮮語がもとになったのが日本語だという判断は時代をちゃんととらえていない、偏った見方であると言える。日本語の音には増えたり減ったり蛾あった。
古墳時代までは中国人が書記官である。それは中国が司馬曹達を通訳として送ってきた記録があってまず間違いない。そのころの日本語は音が非常に少なく「あいうえお」という五十音くらいだっただろう。そこに中国発音が少し加味された。それがいわゆる本来の「大和言葉」ではあるまいか?
それ以前は、縄文語がメインのアクセントの平板な、関東や東北、瀬戸内の言葉だったはずだ。そこに九州から海人族が北上していき、朝鮮語や中国がとりこまれていく。そしてそれらがクレオール化した基礎日本語が存在しただろう。

しかし日本列島は地形が複雑で、言葉の発音やアクセントの統一にいたらない。方言が山ほど残された。結局、日本語を統一していったのは戦後教育と、最大の功労者はテレビだった。しかしそれは反面、地方言葉の破壊を招き、地方の個性を殺していったことも否めない。民俗学的には、地名の改定同様に、過去の痕跡を失われる結果となった。



押せば順位がひとつあがります
  ↓   ↓
With2ブログランキングへ
↑  ↑  ↑
blogramランキング参加中!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

役行者2  金峰山と葛城山にかけた自在の橋

$
0
0
 

 
おしらせ
XPサポート終了に伴い、バージョンアップしたところ、これまでのフォントや画面サイズとはまったく変わっており、それにあわせる意味で、このブログも新しいデザインに変更しております。XPをお使いの方には見にくいかも知れませんが、ご了承ください。Kawakatu輩
 

 
 
からの続編。
 
 
イメージ 9
 
役行者について書かれている記録は
『続日本紀』『日本霊異記』『類聚国史』『扶桑略記』『水鏡』『一代要記』『帝王編年記』『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』
『三宝絵詞』『今昔物語集』『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』など非常に多く、日本の伝承された人物としては群を抜いて語り継がれている。
 
その伝説の概略はそれぞれ
1 葛木山で修行し、「呪術を以って称せられ」(続日本紀)
2 「諸鬼神を唱ひ(いざない)催して曰はく「大倭国の金の峯と葛木の峯とに椅(はし)を度(わた)して通はせ」といふ」
  つまり吉野の金峰山(きんぷせん)と関わり(霊異記上巻第28話)
 
この二つの記録を基にしたと考えられる古い修験の諸遺跡が全国にちらばっている。
言えることは、この伝承が平安~中世をさかのぼらないことである。
また、「はし」という文字を「椅」としていることからは、椅子(こしかけ)=階(きざはし)であったことがわかる。
これまた全国に椅子の木=ゆすのきを名前にする聖地・神社があることは、詳しいものなら気がつくはずである。あれは空へのびる階であるゆすの木などを神木とするからである。
 
小さな梯子段の踏み台や脚立がうちにあるが、腰掛にもなる。
椅子、梯子、橋、階は同じものなのである。
 
イメージ 3
イメージ 4
 
高知県檮原町
大分県柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)
 
イスノキ(蚊母樹、柞、Distylium racemosum)は、暖地に自生するマンサク科の常緑高木。別名、ユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。
 
イメージ 2
 
とくにひょんの実は大きくなり、成熟すると表面が硬く、内部が空洞になるので、出入り口の穴に唇を当てて吹くととして使える。これが別名ヒョンノキ(ひょうと鳴る木)の由来とも言われる。また、この虫こぶがタンニンを含むので染料の材料として使われる。乾燥させると非常に堅く丈夫になるので、家具・木刀示現流系統の剣術で使用されているのは有名)・杖などの材料に、(柞灰(いすばい))は陶磁器の融剤とする。乾燥に強く丈夫なので街路樹として栽培されることもある。
 
外見は栴檀(ビャクダン)にも似て、実も似ているが、常緑である。
 
 
椅子になるからイスノキである。
ところが古代の巫女の着る袈裟状の上着は「いすひ 意須比」という。
 
 
イメージ 1
 
つまり「イス」という語そのものに、どうも神聖な意味があるようなのである。
椅の文字は木偏に「奇」である。音は「き」で、意味は奇しきである。
京都の天の橋立は、もとは椅立と書いた。
それはイザナギ・イザナミが降りてきたはしご、きざはしである。
高床式倉庫の階段もきざはしで、ぎざぎざになっている柱をななめにかけてある。
そして擬音語の「ぎざぎざ」も、きざきざのが本来の音である。とげとげしい男のことも「気障 キザ」という。
 
 
古代、椅子に腰掛けている人は特別な人である。
発掘で古墳などから背もたれ部がV字型(ハート型)の王のイスの埴輪がよく出ている。
役行者もまたその像はイスか腰掛に座っている。
 
 
              イメージ 5イメージ 7 
 
イメージ 6
 
 
 
吉野山の金峰山から、奈良盆地を飛び越えた金剛・葛城山系に橋をかけて、自在に行き来した役行者は、いわゆる仏教よりも道教に近い「呪者」「ほずし 法呪師」である。
 
この法呪師が駆け回って魔を払うのが12月、つまり「しわす」とはそういう意味なのだ。なぜ12月かといえば、正月までの精進・こもりの月だからである。厄をはらうのが習慣だった。それが大晦日の意味である。おおつごもり。大いに籠もるのでそう言った。「おおみそか」ではただの年末の30日目という意味にしかならない。おおつごもりが正しい。
 
 
 
とにもかくにも、橋を山地と山地の間にかけるというのは、あたかも国東六郷満山修験の山々にかかる無明橋(むみょうのはし)である。
 
これらはみな、鬼道、すなわち神仙思想、道教の秘術である。
ということは密教とは道教と神仙思想がまじった仏教なのだ。これを本地垂迹、神仏混交という。そして仏陀もまたヒンズー教などの、道教が取り込んでいった古いインドの既成宗教の基盤の上に哲学した。だから仏陀の仏教は偶像崇拝をまったく言っていないが、中国密教は仏教が入ってから、ヒンズーの神々や観念も一緒に取り込んだ。それを正そうとして天竺へ向かったのが三蔵法師・玄奘である。筆者は玄奘はキリスト教のキリストにあたるほどの人物と見ている。原始信仰がないまぜになりそうになっているのを本来のものに戻そうとした。
 
しかし日本が受け取った中国仏教はその原始信仰まで含んだ密教であり、それ以前の古代仏教は、ほとんど原始のままのものだったと言える。おまけに中国と国交がなかったためにその仏教も百済経由であり、さらに朝鮮的に加工されていた。空海はそれを変えようとして、本物を南朝に取りにいった。しかしそれもまた原始信仰の入った密教だった。かくして、仏陀の教えのままの仏教はチベットまでで止まってしまう。
 
 

 
 
では役行者の伝説はいったい誰が作り出したであろうか?
それは彼の出自から、だいたい想像はつく。
次回。
 
参考文献 上田正昭 『渡来の古代史』
 
 
 
イメージ 8
 
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html

 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/

画像が送れる掲示板
http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/

Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html

公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc

装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
 
 
 

役行者3 尾張氏と葛城氏と賀茂氏の葛城での関わり=真の邪馬台国所在地

$
0
0
 
 
イメージ 1
 
 
役行者の「役」をなぜ「えん」と読ませるのかというと、『霊異記』にこうある。
上巻第二八話
「役の優婆塞(うばそく)は賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣といふ者なり、大和国葛木の上郡茅原村(かづらきのかみのこおり、ちはらむら)の人なり、生まれながら知博学の一なり(=博学博識天下一品)」
 
とあることからも、奈良市西南部の現・葛城上郡掖上村茅原に賀茂氏が入っていたことがわかり、役とはもともとは「え」と読んでおり、「えん」は音調を整える近畿方言であることがわかるのである。役行者は賀茂(鴨)氏の中から出てきた伝説の人物となるらしい(後述)。
 
「役」とはでは何か?
一般に言われているような説は筆者はもちろんとらない。
役職、首領とかいう意味よりも音の「え」に意味がないか?
これまでの分析から「衣の君」という人物が尾張氏の系譜に見える。この「え」とは「胞衣 エナ」つまり胎盤とへその緒のことだった。そしてそれが大阪鶴橋の大小椅命(おおこばしのみこと)という人を祭った廟の下に埋められているという神社伝承もある。
 
大小椅命とは吾多君の祖で阿多隼人の人、神武天皇の妻の兄で、東征ではともに大和に入った人で、鶴橋の日本最小の小橋をかけた人である。同じ場所にアメノヒボコの妻である阿加流比売神(あかる姫のかみ)を祭る阿加流比売神社がある。
「ホノススミ尊、吾田君小椅等の本祖なり」
つまり阿多君小椅を祖神とした神格であろう。
 
イメージ 3
ヒメコソ社・赤留比売命神社 (三十歩神社)
 
 
イメージ 4
大小橋命胞衣塚
 
 
 
また「依の君」という名前は九世紀の鹿児島大隅半島の隼人の乱の首謀者として記録があり、これも「えのきみ」である。
 
『続日本紀』養老三年七月記事には、「従六位上 賀茂役首 石穂(かものえんのおびと いわほ)」がある。そして彼と正六位の千羽三千石(ちわのみちいわ)等160人に賀茂役君の姓を賜ったと書かれている。
 
「役」を往古「えだち」と読み、一族の首長のことだったという上田正昭らの定説もある。
 
「役公」は「役君」で、「君」は地方の豪族である。
すると大和の葛城がそもそもは「高尾張邑」と呼ばれていた『日本書紀』の記録がある。つまり葛城にはもともと尾張氏が住まっており、その尾張氏には衣君という首領があったが、それが鹿児島大隅半島の大隅隼人とも関係して可能性が見えてきたのである。その尾張氏から葛城氏が出たのか?それとも葛城にあとから入った渡来?氏族が地名を名乗ったかして、尾張氏と同族化したのであろうか。
 
さらに葛城族の出自を出雲から伽耶に求めることも可能なら、出雲で同族だった賀茂氏もまた、同じ経路でやってきた祭祀氏族だったことが見える気がする。
 
鴨は祖霊を降ろしてくる鳥だと言われる。ようするに「御霊降り みたまふり」である。京都の鴨脚(いちょう)家にはかの『新撰姓氏録』が所蔵されているが、残簡記録には「賀茂朝臣本系」として「是、役君」とある。これは神役の長という意味がある。鴨脚家は今でも天皇家の水を守護している。水=祭祀=神である。
 
それで鴨を名にしたのが賀茂氏であるが、実は出雲では高鴨神としてのアジスキタカヒコネと葛城氏の八重事代主とは兄弟で、事代主を鎮魂するのが賀茂氏の役目だったと思える。
 
イメージ 2
 
高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社
 
さらに役行者には葛城一語主=一言主を呪力で押さえ、使役したという伝承もある。一言主は葛城山の山ノ神であり、地主神でろう。それを賀茂氏出身の役行者が押さえ込んだということになる。
 
葛城氏を賀茂氏が押さえ込めたとはとうてい思えない。葛城氏は大王家に妻を出してきた雄族であり、賀茂氏は祭祀氏族でしかない。ここになんらかの政治的婚姻関係があって葛城+賀茂=高鴨という構図があるが、それは後世の、賀茂氏の仮冒あるいは、希望的主張であろう。
 
というよりも役行者が伝説になった本当の理由も、葛城の朝妻から出て行くことになった賀茂氏・葛城氏らを「抵抗勢力」とみなしたあとの政権があったればこそであろう。続日本紀の記録には役行者が「鬼神を使い、一言主まで使い様々の呪術を使った」とはあるが、それだけでは彼を配流するほどの理由にならない。つまりさほどの害悪もないのに、後の時代の霊異記では「人心を惑わしたから」とちゃんと理由付けされた。これはあきらかに冤罪による不当な、出雲勢力=邪馬台国への弾圧ではないか?
 
イメージ 5
葛城一言主神社
 
役行者から尾張氏と隼人の関係、高尾張における葛城氏と賀茂氏の関係は見えてくる。それつまりは、邪馬台国主要氏族を狗奴国=神武九州勢力=長江文明人の子孫が押さえ込んだという大和の真実の見え方でもある気がする。
 
葛城は数年前にさまよった。懐かしい記憶である。
あそこに邪馬台国はあったのだろう。
 
 
 
 
イメージ 1
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html.
 Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板
http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
Viewing all 1881 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>