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風の世界史

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太古から、風は世界の人類を動かしてきた。
参考 宮崎正勝『風が変えた世界史 モンスーン・偏西風・砂漠』2011
 
広く歴史を知ろうとする者は、その視野を狭い国土の中に埋没するよりも、まず歴史の基盤となった地球環境の歴史を知っておく必要がある。
ではどのような環境変化に的をしぼればよいか?
風と水と砂漠である。
 
 
 
■1なぜ砂漠は生まれたのか?
水は循環する。
海水は蒸発し雨となり、赤道直下に潤いをもたらす。
雨の冷却は風を起こす。これが偏西風などの風である。
しかしその風は、赤道の南北の離れた土地へ吸い込まれると、急激に水分を奪い去る。かくして乾燥した砂漠は生まれ、上昇した気温は空へ一気にのぼり、また風を引き起こす。海をまた蒸散させる。雨が降る・・・
この繰り返しが循環である。
 
 
 
 
「大気循環は、赤道付近の低緯度帯での湿った上昇気流と異土30度付近の中緯度高圧帯(亜熱帯高圧帯)での乾いた下降気流の対流を軸にしている」
 
 
 
 
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■2 風が人類の行動範囲を広めた
風・・・順風満帆。
つまり風は船を動かす。大航海を後押しした。
 
プレ1 先土器時代
 新石器時代から人々は気温上昇で溶け始めた海へと出てゆく。=海洋民族による地球一周がおこり、各地に文化を残す。Kawakatu
 
①農業革命 約一万年前  氷河期が終わり中緯度高圧帯での乾燥した下降気流により裁くが拡大。周辺草原では乾燥化によって狩猟・採集社会の維持が困難になり、畑作農業による乾燥に強い穀物栽培=小麦などが始まった。
 
②都市革命 文明の誕生
ヒプシサーマル期(気温最適期=温暖化)の終了によって乾燥地帯が南下。畑が不足し人口集中地である大河流域河口部で灌漑農業が開始(四大文明)、大規模インフラによって維持される大きな畑の開拓が進む。その管理センターとしての都市が作られ、文明が生まれた。
 
③省略、諸地域が風で動かされた。
 
④乾燥が騎馬民族を動かす
=ユーラシアの一体化=人種の混血、文明・文化のまじりあい
渡来の来訪。イテキによる中国侵略も乾燥がもたらす。
フン・モンゴルの欧州侵入など。
 
そして大航海時代へ。
 
 
 
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■一方で海には「無風地帯」
「陸地で砂漠ベルトを生み出した地球規模の大気循環は、中緯度高圧帯の海域に巨大な無風地帯を生み出した。おおよそ北緯・南緯30度付近の海域である。
 この海域では赤道から移動してきた空気が上空で滞留して下層の気圧を高め、東西に連なる高気圧帯が定常的に出現する。」
 
代表的な海域
 
小笠原高気圧
ハワイ高気圧
アゾレス高気圧
バーミューダー高気圧
 
つまりほとんど歴史が動かなかった「レゲエな」地域である。Kawakatu
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 
 

風の世界史2/PM2.5の飛来予測

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最近、ニュースでよく耳にするPM2.5ですが、わかりやすく言うと、
大気中に浮遊する直径2.5μm(マイクロメートル)以下の微粒子状の物質
 
物質の種類は関係なく、2.5μm以下の大きさの物質全てPM2.5と言います。
 
※マイクロメートルとは、1ミリの1/1000の大きさ=0.001mmです。
 

PM2.5の大きさ

直径2.5μmといっても、具体的にどれくらいの大きさかは、
想像がつかないと思うので、具体例をあげます。
髪の毛(70μmくらい)と比べると、1/30程度の大きさ スギ花粉(30μmくらい)と比べると、約1/10以下の大きさ
 
これを見るとわかると思いますが、PM2.5は目に見えない
非常に小さな超微粒子なんです。
 
PM2.5_photo450
出典:東京都ホームページ
(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/air/air_pollution/PM2.5/)

 

PM2.5が発生する原因

中国で発生しているPM2.5の主な原因は、火力発電や工場などで、
中国国内の安価な石炭を環境設備をせずに燃やしていることです。
 
また、中国の家庭で冬場の暖房に使用している質の悪い練炭や、
質の悪いガソリンを使用した自動車が急激に増えたことも、
原因の一つになります。
 
そして、タバコの煙にもPM2.5が含まれていることが、最近分かりました。
 
つまり、タバコの煙が漂った部屋の中で生活を
しているような状態のような感じですね。
 
ちょっと怖いですね (-_-#)
 

PM2.5の成分

PM2.5には下記のようないろいろな物質が含まれています。
 
炭素、硝酸塩、アンモニウム塩、硫酸塩、ケイ素、
ナトリウム、アルミニウム
など。
 
以上のような、たくさんの成分が混ざったものでできています。
 
体に悪影響を及ぼすことは、間違いないようですね。
 

PM2.5が人体に及ぼす影響と症状とは?

PM2.5は粒子の大きさが、非常に小さな超微粒子なため、
肺の奥深くにまで入り込みやすいです。
 
PM2.5が肺の奥深くに入ってしまうと、ぜんそくや気管支炎などの
呼吸器疾患や、循環器系疾患などのリスクが増えます。
 
また、ぜんそくの方がいつもより症状が悪くなったり、
アトピー性皮膚炎の方のかゆみが増したりなど、
症状が悪化傾向にあるという報告があるようです。
 
特に、呼吸器系や循環器系に疾患をもつ方や、お子様、老人などは
影響を受けやすいと思われるので注意して下さいね。
 
 
PM2.5を一定量を吸い込んだ場合の人体に及ぼす
具体的な症状としては、以下のようなものがあります。
◆短期暴露によってすぐにあらわれる症状
喉の痛み 結膜炎症状(充血、かゆみ) 鼻炎症状(鼻水、くしゃみ) 咳 においを原因とする気分の悪化 循環器疾患(狭心症など)、呼吸器疾患(喘息や肺気腫、慢性気管支炎など)が持病の人の症状の悪化等
 
→上記の症状については、一般的に大気の良化とともに消える症状です。
 
◆長期慢性暴露によって徐々にあらわれる症状
循環器疾患(狭心症など)、呼吸器疾患(喘息や肺気腫、慢性気管支炎など)の発症や悪化 肺がん発症リスクの増加等
出典:ヘイズ中に含まれるPM2.5の対策について – シンガポール日本人会
www.jas.org.sg/health_haze_4jul2013(PM2-5)_j.pdf

 

PM2.5はどれくらいの濃度で影響があるの?

環境省による日本の環境基準によると、PM2.5の濃度の1日の平均値
35μg/m3以下であれば、健康には影響はないとされています。
 
しかし、1日の平均値が70μg/m3を超えてくると、人体に健康影響
出現する可能性が高いので注意が必要です。
 
tab3-1 dai
出典:微小粒子状物質(PM2.5)に関する情報http://www.env.go.jp/air/osen/pm/info.html
 

自分の居住地の、PM2.5の濃度を調べるには?

環境省大気汚染物質広域監視システムの「そらまめ君」で
PM2.5の濃度を調べることができますよ!
 
 
 


 
 
風は世界を動かしてきたが、今、東アジアは中国が大量に流出させていると考えられるPM2・5に脅かされている。
 
偏西風に乗って西から東へやってくるこの大気汚染の濃度は、その日、そのとき、により日々刻々と変化しながら押し寄せてくる。
 
しかし、その季節の風向予測や雨や雪の降り方から、日本列島での濃度の濃さはかなり予測ができる。
 
まず地形では、日本列島を縦貫する高い山脈はひとつの障壁にはなっている。強風の日に雪が山岳の西側に日本海の湿気とともに吹き付けても、意外と雪が積もっているのは東側に集中するように、風は山の西側には吹き付けても、強すぎて、そのまま上昇し、むしろ東側に雪を降らせることが多い。黄砂やPM2.5も同じことである。
 
列島でも直接中国の黄河に対面している九州を例に取れば、大気汚染や黄砂を含む風は、まず福岡県などの日本海側へふきつけ、ダイレクトにそれを降らせたあと、筑紫平野を通って九州山地、英彦山、久住山などにつきあたり、一旦上昇気流に乗り山の東側へ。徐々に下降して、山麓を超えた大分県東部の中央部を越えた海岸部大分市・佐賀関方面に落下する。
 
もちろんこれは基本的な風の動きなので、その日その日で変化する。
 
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上図のように最も濃度が濃い場所は、必ずしも日本海側だけではなく、意外にも関西でも多い。風は物理的に衝突の跡上昇し、気流に乗って遠くへ円弧を描いて降り積もることがある。
 
例えば中国で原発事故が起きたとしても、季節風によって違いはあるが、基本的に風に乗って西から東へ大気がやってくる。もしその季節が春先だった場合、それはいっそう確実になる。もちろんチェルノブイリの事故がまた冬に起きた場合、冬の北風に乗ってこれも列島へ。
 
列島は東アジアの堤防の位置にある。海流もそうだが、あらゆるものが押し寄せる。
 
 
これがもっとこまかく、あなたの居住地そばの原発や工場などを考える場合はもっと細かな風の動きが影響するだろう。東側にある原発が事故って、その風が西側へこないとも限らない。予測は非常に難しい。その日、そのときによって風は変化する。
 
基本的に、風は高温なところから低音な場所へ、高いところから低いところへ吹く。だがその方角は地球の大動脈である偏西風の影響下にある。
 
 
福島原発の事故のとき、政府、気象関係者は、そのときの放射線のゆく方向を予測できなかった。今の科学はその程度だと想っていなくてはならない。地震そのものもそうだが、地球の鳴動を前もって知っておくなどは、まず不可能なのだと想っていたほうがよかろう。それが人類の今のところの実力なのだ。
 
 
今日のPM2.5予測http://pm25.jp/
 
 
 

 
 
さて、前の章で書いたとおり、風がもたらす乾燥は、地球の南北緯度30度周辺に砂漠を形成する。中国では実は湿潤だと想われている長江流域がそのピンポイントにある。ところが江南は高温多湿でほぼ日本と同じ気候であり、稲作に向いている。黄河文明が乾燥で滅びると、江南にはまた宋のような大国ができあがり、再び南朝の時代がきたのである。その理由は、大気の乾燥を東シナ海の湿気が調和瀬手、ほどよい湿気をもたらしてくれたからである。さらに長江河口部に堆積した土砂は肥沃で、南船北馬という言葉を生み出すほど、中国の南北に明暗をもたらした。北朝の漢も魏もかんたんに乾燥にしてやられた。中原の南北は、乾燥に強い粟・ひえ・麦栽培・畑作中心、江南は湿潤を好む稲作・水田中心である。ところが今の中国が全域でコメを愛するのは、乾燥時代に南下した中心地が江南にあったためなのである。点心・麺は小麦で造るから黄河以北の北京料理なのである。
 
日本列島でも砂漠ができないのは太平洋と日本海と東シナ海に囲まれた島だからである。夏の高温多湿はうとましいけれど、実は冬場には列島を護る防衛網になってくれるのが海である。
 
黄砂は黄河の肥沃な黄色い土砂を堆積させた北京周辺の砂漠から吹いてやってくる。この砂は日本の国土を肥沃にしてくれた。それに乗って、今は迷惑なスモッグもやってくる。
 
先日、筆者の住む東九州では、県都大分市よりも東岸部の佐賀関半島のほうがPM2.5濃度が倍以上高かった。東北では太平洋側といえども大雪も降る。もちろん遠いからと言って大気汚染が少ない日ばかりではない。
 
 

 
 
風は人類を動かしてきた。
主観的な民俗宗教である陰陽五行でも、風は木気で水に勝つとされてきた。
風を知ることは水を制することであり、それができることが王の最大の条件。つまり治水王が中国の祖人であることと合致する。
 
 
 
地球規模で見つめれば、あいかわらず人々はその日暮しである。大地や風や海の変動にまったくついていけてはいない。つまりあいもかわrずわれわれは無知なままである。だから失敗は繰り返される。科学や気象学は未熟なヨチヨチ歩き。なにに心はおごり、知らぬことなどないと大自然をなめている。自然が神だった時代からまったく進化していない。ただわずかに貨幣経済を神のようにあがめ、本物の神である自然の摂理をあなどれば、当然、そのしうちをうけ続けるのである。つまり反省がない生き物が人類。立ち向かう相手を間違えている。ところがそれに立ち向かおうとしても、自然はつねに摂理で動き、摂理を知ろうとしないわれわれを簡単に裏切る。なめているからである。
 
 
薄いアスファルトでカバーされた都会の「えせ大地」を完璧な防衛壁だと勘違いし、卵の中のヒナのように、完全に護られているとおごり高ぶっている。ところがフビライもジンギスカンも卑弥呼も、王と言われた権威的歴史上の人物でも風や水にはついに勝てなかった。
 
 
環境を語るならまず風を語れ。
 
足元の大地の鳴動すら予測できないわれわれに、永遠に地球を理解できる日はこないだろう。
 
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30度線の南側に樹木を植えて砂漠が防げると思い込む、えせ環境大好き人間がいる。そこでの地球の乾燥化の歴史は歴史時代以前の数十万年前からの宿命なのであるにも関わらず、あがらおうとする。所詮、侏儒(しゅじゅ)の生業ではあるまいか?だが永遠の夢に立ち向かうその志やよし。だが、そこは今後、まだ永遠に乾燥すると地球が決めた場所。努力はむくわれない場所なのだ。相手は数万年などひとっとびする時間軸を持った神なのである。なにに人の寿命はわずか100年。爪の垢ほどもない時間帯である。護るべきは今、守られているかに見える自国の森。
 
くれぐれも、日本の森は東アジアの堤防なのだ。
防波堤なのだ。障風林、防波森。
 
 
 
日本がなくなれば半島もなくなる。双方の小国が消えれば、中国もロシアも、直接アメリカと対面することとなる。クッションなき東アジアは、そのとき欧米の衰えてゆく文明とのあいだに征服戦争を引き起こすだろう。そのとき、大自然の神は最後の審判を人類に下すだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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呉鏡を枕元に置く倭人たち/椿井・黒塚・石塚山の王は呉を重視した

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三角縁神獣鏡が大量に出た古墳と言えば、
まず奈良県の黒塚の33枚、京都南部の椿井大塚山の32枚、兵庫県の枚、福岡県の石塚古墳などがあげられる。
 
その神獣鏡は呉の絵柄を持った鏡ではあるが、こと三角縁という目で見ると、どれもが全部、棺の外側にまとめて置かれたということをご存知だろうか?
 
ではそれぞれの棺内部に一枚だけおかれていたのが、まずは全部呉の鏡であったことは?
 
 
黒塚古墳ではそれがあきらかな状態で出土した。
椿井大塚山は国鉄奈良線の架設工事で出たために、当時の状況がよくわからなかった。しかし再調査によって、古墳内部にある石室がちゃんと壊れずに見ることができた結果、やはり死者の頭部付近には呉鏡があったのである。
こうして過去の神獣鏡他出古墳が次々に再調査され、その結果、紛失されたところでも、すべてが三角縁神獣鏡は棺外、おそらく内部にはたった一枚だけ呉鏡が置かれたであろうと「ヤマト学者の発掘で発表された」。
 
どういうことだろうか?
 
それらの神獣鏡が多く棺の外に置かれた墓は、その地域=国の王であろうと考えらたのである。すると黒塚はヤマトの王であり、椿井大塚山は南山背王、石塚山は伊都国王、播磨の古墳は播磨から吉備の王だろうとなった。それがすべて一番大切な鏡を呉のものだと考えながら死んだのである。
 
そのほかの奈良県の大古墳を調べると、やはり魏鏡は数は多いが、メインは呉のものがほとんどだった。つまり邪馬台国は魏につくか呉に着くかきめかねており、どちらかと言えば呉に勝ってほしかったのではないかという、3世紀当時の国際感情があきらかになったのである。
 
これは大変重大である。
 
当時の地球環境から見ても、中国北部は常に外敵=騎馬民族の侵略の恐怖がある地域だったのである。そして文化の点においても日本は江南のほうが気候も、食生活も、宗教観も近似しており、なにより、倭人の先祖は長江から来たことを知っていたのである。
 
魏は公孫氏をまず滅ぼし、呉と立ち向かう。レッドクリフでは魏が一敗地にまみれた。倭国は呉を挟み込める位置にあり、魏は卑弥呼の朝貢を待ちかねていたのである。しかし最終的に魏が勝利すると、その挟撃関係はもう必要なくなった。4世紀までに、倭と中国は国家としてはまったくつきあいがなくなるのである。この間隙に、突然、半島から応神が河内に入り込んできた。こうして三輪王家は王から転落し、王家へ妻を差し出す側ー母方へ向かうこととなった。
 
 
 参考 西川寿勝
 
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呉様式画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡である

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まずは押しちょくれ↓
 
■画文帯神獣鏡は卑弥呼の鏡
画文帯神獣鏡 - 日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われるが、日本では5世紀後半の古墳から出土することがある。日本からは約60面出土している。畿内地域を中心に出土することや2世紀の末頃北部九州の銅矛、畿内や東海地域の銅鐸が姿を消し、画文帯神獣鏡が現れるのが特徴である。兵庫県姫路市四郷町の宮山古墳[1]大和天神山古墳四面、三重県鳥羽市の伊勢湾に浮かぶ神島(かみしま)の八代神社収蔵の5世紀のものなどが出土しており、その同笵鏡は三重・愛知県下では、三重県多気郡明和町大字上村神崎山一号墳三面、愛知県岡崎市丸山町亀山二号墳一面、また、ほう製鏡(中国鏡を模して日本で製作された鏡)思われるものは名古屋市双子山古墳一面、奈良県橿原市新沢109号墳、河内郡川車塚(かわちこおりがわくるまづか)、江田船山古墳から出土している。三重県志摩市大王町波切の塚原古墳からも出土、その同笵鏡は稲荷山古墳の礫槨から出土。大阪府和泉市和泉黄金塚古墳から出土の鏡は、の景初三年(239)の銘をもつ。
WIKI神獣鏡より「画文帯神獣鏡」
 
 
 
 
 
およそ『三国志』魏志東夷伝倭人条(略して「魏志倭人伝」)にばかり注目してきた日本の考古学好事家は、以下の有名大王墓と呼ばれる古墳から出ている稀少な鏡にもっと留意していただかねばなるまい。
それらの王墓の多くから出ているのは三角縁神獣鏡であることは言うまでもないが、山ほど出てきたこの鏡にはそれほどの価値などないことは、大和説の若手からもすでに何度も指摘されている。権威である森浩一氏を筆頭に、である。
 
●●三角縁神獣鏡出土数の大量な古墳から出ている稀少呉鏡
 
■黒塚古墳・和泉黄金塚古墳
古墳時代前期前葉
三角縁33面 小型画文帯”同向式”神獣鏡1面(鏡面の外区が画文帯、内区が神獣鏡)
三角縁神獣鏡(同向式)と同じ工人の手によるか?
特にこの鏡は「朝鮮半島、楽浪郡一帯でのみ出土する様式である」(西川寿勝2010)
 
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この画文帯神獣鏡と同系のものに大阪府和泉黄金塚(こがねづか)古墳出土の「景初三年陳是作」鏡がある。従って画文帯同向式神獣鏡と三角縁同向式神獣鏡は同じ陳是作の可能性が高く、その製作は半島、楽浪郡の工人によって現地で作られたのであろう。(西川)
 
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ところがこれらの小型画文帯神獣鏡の図柄は、ほかの大量出土した三角縁とは違って神人や怪獣の表現が一線を画しており、同じものは長江流域の「典型種鏡」を模範としている。

従って一面だけ入れられたこの画文帯鏡は呉鏡あるいは南朝系鏡であることは否定しようがない。

大和説学者たちが言うように三角縁神獣鏡が魏鏡であるとするならば、その中にたった一面の呉鏡が混じっており、しかもそれが被葬者の棺内の最重要な場所である頭部真上や胸元に置かれていたということをどう説明するのであろうか?
 
 
 
■椿井大塚山古墳
32面の三角縁神獣鏡と1面の画文帯対置式神獣鏡を副葬
小林行雄の畿内分配説で超有名な山城の大古墳。
 
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長江流域の普遍的な画文帯神獣鏡である。
これと酷似するものに後漢末の建安二十一年銘鏡や同じく二十四年銘鏡が中国浙江省・湖北省で見つかっている。従ってこの画文帯神獣鏡も南朝系鏡である。
このたった一面の鏡はほかと区別して別の箱の中から出たとも言われており、多数の三角縁とは格別な扱いをされていた可能性が高い。小林はそのことを言っていない。それは当時、椿井大塚山が国鉄の架設工事で分断されたからで、石室の状況からは一枚だけの柩内鏡であったことは明白だった。その後の調査でも、この鏡には黒塚同様に下部に泥がこびりついていたがmほかの三角縁鏡にそれはなかった。つまり呉鏡である画像鏡だけが死者の柩内に立てられていた証拠である。
 
 
 
■兵庫県西求女塚(にしもとめづか)古墳
12面の鏡出土。三角縁7、画像鏡、画文帯環状乳神獣鏡(がぞんたい・かんじょうにゅう)、半肉彫獣帯鏡(はんにくぼり・じゅうたい・きょう)各1面。
各鏡の配置は地震による倒壊で不明。ただし一面のみが損壊を免れた棺のそばで小片で見つかる。これが椿井大塚山古墳と同じく「柩内鏡」と思われ、想定では線彫式(せんぼりしき)獣帯鏡とされた。後漢鏡と考えられる。
 
 
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■岡山県備前車塚古墳
三角縁11面、連孤文鏡(古式内行花文)、画文帯同向式神獣鏡各1面
盗掘事件により警察が回収し現物が見られない。早期埋め戻し、あるいは開放されたし。
 
 
 
■福岡県石塚山古墳
11面以上の同笵三角縁神獣鏡(発掘が江戸時代と古く、現在7面だけが残る)
※近年再発掘され、やはり柩内と思われる場所から線彫式獣帯鏡の小片が出土。
西求女塚と同系の呉鏡である。
 
 
青文字で表示した鏡はすべて長江流域・呉鏡様式の鏡である。
すべてが柩内部に一枚だけ、頭部に置かれたと想定してよい。
つまり被葬者氏族にとっての最も重要な鏡は呉鏡である。
 
 
 
 
・・・・・・・・・
 
その他
■福岡県一貴山(いっきさん)銚子塚古墳(※伊都国王墓に比定)
竪穴式石室に終末期三角縁神獣鏡8面。石室へりにはりつけ。
石室中央には金メッキ宝飾された方格規矩鏡と大型連孤文鏡。(金メッキ鏡出土は全国に三ヶ所だけ。大型鏡も豪華な副葬品)。三角縁と方格規矩鏡の組み合わせは大阪府摂津の紫金山古墳(直孤文入りゴホウラ貝輪とゴホウラを模した貝クシロ出土。九州系人物?)と同じである。
 
 
■佐賀県久里双水(くりそうずい)古墳(※末羅国王墓に比定)
一面の竜虎鏡
竜虎鏡には黄河系と長江系があるが、ここの鏡は平縁、肉厚、半肉彫りで神獣鏡と同じ呉鏡である。
 
 
参考
ホケノ山古墳でも画文帯同向式神獣鏡が一枚だけ。
 
 
 
こうして卑弥呼の鏡は特定できた。
画文帯同向式ないしは対置式神獣鏡が正式に魏か下賜した鏡である。
その鏡は帯方郡で呉の捕虜工人に作らせたものであり、その後、倭人好みの巨大化したレプリカとして三角縁神獣鏡が登場するが、それらは柩の外側にじっぱひとかれげに並べられるための、格下鏡だった。
 
 
画文帯神獣鏡は全国で約60数枚。
これに同じ呉様式の線彫式獣帯鏡などをアソートすれば100枚ほどになる。
 
 
そしてそれをもらっている氏族は、椿井ヤマシロ王、黒塚ヤマト王、石塚山伊都国王、西求塚播磨王、備前車塚吉備王などである。これに上野国、相模国などの王も加えてよいだろう。これが女王国。
 
また狗奴国氏族が女王国と同じ場所で混じっていたのがヤマト・ツクシである。狗奴国というのは国家ではなく、地域内で邪馬台国派=公孫~魏=晋親派、狗奴国派=呉親派といういわゆる政権内部の左右思想を言うのであろう。
 
しかしもともとは卑弥呼の前の強力な王の下では全部が呉に傾いている氏族が卑弥呼直前に分裂したのである。
 
 
現代と非常に類似した世界の緊張関係がすでに3世紀東アジアにあったということ。ひるがえって、では今、われわれはアメリカ・欧州か、中国・ロシアかの選択を迫られている。その優柔不断さに於いて、日本人は古代も今もなんら変わらない。あいかわらずの日和見せねばならぬ小国家。それが昨日の韓国と日本のおぼつかぬ握手に垣間見えていたとKawakatuははっきりと感じた。
 
 
 
 
 
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お墓の考古学こぼれ話その1

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『墓の考古学』土生田純之 吉川弘文舘 2013 から
 
 
1墓のなかった人々は・・・
平安時代~中世になっても、これは世界的にだが、墓の中に葬られない人がほとんどだった。筆者が知っているところでは花の都パリなども、街中に死骸・糞尿・動物遺骸がちらかっていたというが、清潔世界一の日本の都大路でさえも溝や池やには犬猫人間の死体が放置されていた。臭いがひどいので穴を掘り、ゴミ捨て場なのだが、人間もそこへ捨てられる。これを遺棄と呼ぶのか、それとも弥生時代以前からあった風習の風葬なのかの判断が実は難しい。
 
縄文・弥生の風葬にはあとから追葬の手が加えられたわけであるが、そのやりかたは、そこいらの丘の上に死体を座らせて鳥や風のままにまかせたあと、すっかり骨になった遺骸をばらして骨臓器に骨をばらして再葬するものであった。縄文色の強い関東から東北の太平洋側に集中する。それも内陸部のほうが海岸部より多いので、わざわざ台地まで運んで行ったらしい。
 
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弥生再葬墓の分布
 
都市部でも放っておいた死体の骨をかきあつめ、何人分も落ち葉掃除するようにまとめてしまい、円形にしておいて土をかぶせたり、金のある人は骨をばらして骨臓器・・・。ひどいのはごみ穴にいきなり放り込まれる人。平民のほとんどがそんな具合である。
 
中世のいくさなどで死んだ武士なども、大半は片付けもなく、ほうりっぱなし。川も海岸も平原も。で、平和になって追悼するときはそのまま土を盛って、神社、あるいはその参道になったりした。一番有名なのが鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮の一の鳥居下(200体以上の遺骨)や鎌倉滑川海岸の材木座(1000体以上の骨が出た。河野眞知郎)である。由比ガ浜海岸の海蝕崖や穴からも数ヶ所、刀傷のある遺骨。これらはあきらかな戦争遺棄死体である。
 
墓を造れなかった人と、墓を造らなかった人があるという。
 
 
柿本朝臣人麻呂、香具山の屍を見て悲しみ詠みし歌一首
 
  草枕 旅の宿りに誰が夫か 国忘れたる 家持たまくに  人麻呂
 
 
  海行かば みづく屍(かばね)
         山行かば 草むす屍
               大皇(おおきみ)の へにこそ死なめ  家持
 
 
奈良時代も平安時代も鎌倉時代も、共通の死者への追悼観念が現れた歌である。
 
 
風葬であったかも知れないが、平安の道端でそれをやられたらかなわない。
 
 
 
 
歩けばそこらへんみな屍だらけ。なぜ貴族が香を焚くか、武士が香木に大金を使ったかわかろうというもの。
 
 
 
 
2墓を造らなかった人
これは淳和天皇が有名。火葬して散骨させた。京都市の西の山(小塩山)山頂。にもかかわらずこの天皇にもちゃんと宮内庁指定墓がある。もちろん記録どおり小塩山山頂がそうである。これを薄葬思想の特例とする。
 
チンギス・ハーンにも墓がない。武田信玄や諸葛孔明がそうしたように、いくさの最中だったので死を隠匿させた。そもそも騎馬民族は墓を持たない。常に騎馬で移動するからであるが、夭折した子供だけはポールを立てて、仮設野営地などに転々と埋葬し、目印にしたようである。日本の道祖神や縄文の感情列石(もとい、環状列石。石に感情はないな)の起源と言えるか。
 
 モンゴル帝国を建設した英雄、チンギスハンの霊をまつる霊廟(れいびょう)をモンゴル西部で発見したと、国学院大、新潟大とモンゴル科学アカデミー考古学研究所の合同調査団(団長、加藤晋平元国学院大教授)が4日、発表した。チンギスハンの墓の所在は不明で、世界史上の謎といわれる。しかし、墓と霊廟の位置関係を示す史料が残されており、今回の霊廟発見は墓の所在地に直結する重要な手がかりとして注目を集めそうだ。」http://www.smhric.org/jap_43.htm
 
あくまで霊廟であって遺体は安置されていない。
 
 
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モンゴル七代目王の霊廟近くに置かれた守護神石人。
 
 
 
 
 
3基本は土葬
民間では当然、火葬風習は遅くなり、明治を待たねばならなかった。ほとんどが土葬である。あるいは風穴などへの屈葬。または既存の古代の横穴墓に押し込んだ例もある。土葬するときは大きな桶に入れた。土葬なら土に還る。これがもっとも理想的だと筆者などは思う。散骨もよい。あなたなら?高額な墓は必要ですか?往古、民間人には墓石はなく、土盛りしてただ卒塔婆を立てるだけだった。そうすればやがて風化して邪魔にならないうえに、土は肥えて畑にできるからだ。所詮、三代ほどが祭れば、あとの子孫はもう知らないとなるのである。いかに立派な墓を造っても結局、個人の墓など、その程度の時間枠でしかおまいりしてくれなくなる。家族墓ならほぼ永久だが。むしろ死んだ後では自分の葬式も墓も、どうなろうと見ることができないのだ。葬式代のお金を残してなんになる?
 
 
 
 
 
4 エジプトのミイラ
ミイラを造るのは、もちろん死者が復活すると信じられていた古代だけである。魂が復活しても戻る容器=肉体が腐っていたのでは困るだろう・・・。そういうのがはじまり。同じような発想をしていたはずの東洋には、しかしエジプトのような肉体保存の痕跡がない。そのように願って金科玉条に包み込んだ王墓ならある。しかしほとんどは水銀やベンガラの防腐効果に頼っている。そしてそれらが効果なしとわかったあとは、もうなすがままにして、観念的に魂は天空にのぼって、太陽の使者カラスなどが持って帰り、生きている妊婦に憑依して新生児になって再生が成就・・・となっていった。基本的に現代でも仏教徒に限らず多くの日本人がたましいは帰ってくるとなんとなく感じているのは、このときからの言い伝えであろう。
 
 
 
 
5 日本になかった墓誌を置く風習
日本の古墳には墓誌も墓碑もない。だから誰の墓かがわからない。なぜか?
それは大王以下氏族が墓に墓守を置いたからである。小屋を立て被差別者などに墓を守らせた。これで充分だったのだが、戦乱などで彼らはやがていなくなった。
 
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              太安万侶の墓誌実物
 
 
 
 
6縄文時代、死者は家屋内に埋葬
守り神となったからである。特に夭折幼児の遺骸は、家の入り口の敷石の真下に埋葬された。入り口から魔物が入らないため。これを守護神とした。なぜ夭折した幼児には呪力が?
それは早死にという異常死が、祖霊がその子に憑依することを望んだからで、特別な子供だったからである。
家内に死者を埋葬するのはやがて人柱のような災害除けへと発展した可能性がある。
 
 
7 道祖神は墓なのか?なぜ夫婦円満なデザインか?
道祖神の大元は陰陽五行。神仙思想。道教である。これは仏教ではなく混交した修験道の哲学。だから大元は中国の西王母・東王夫の並立デザインにあったと思われている。それが民間で夫婦に変化するが、空海が後に書いたように、夫婦=セックスと子沢山こそが国家の中枢という思想も関係するのではないか。
 
 
 
 
8骨を抜き取る再葬風習
考古学で言う「再葬」は民俗学・民族学で言う「複葬」である。文字通り、一旦骨にして(一次埋葬)、また集めて埋葬する(二次埋葬)ことである。
 
これが顕著なのは神奈川県~福島県の内陸部から群馬県柩山遺跡・栃木県出流原(いずるはら)遺跡、茨城県女方(おざかた)遺跡、千葉県天神前遺跡などが有名。しかし、横穴墓などで一旦土で閉めきったのを掘り返し、中にひょうたんに入った酒などを置く追葬痕跡がたまに見られる。これは九州などで多い家族葬・追葬であろう。横穴はやや高い崖などにあるので、家族は掘り返したあと、穴=玄室の奥にある死者の頭部まで体を差し入れ、そのとき穴の上部、下部に手をつく。その痕跡がちゃんと残っており、下部=屍床についた手が死者のろっこつを押し割っていた。しかも不思議なことに、そのろっこつが一本だけ抜き取られていたのである。
 
こうした骨の一部を抜いて持ち帰る風習は、やがてエスカレートし、ろっこつばかりかほかの部位まで抜いてなくなっていく。おそらく持ち帰って妻が家内に守護として置いたか、あるいは敷地内に埋めたのかと思われる。現代的に考えれば、故人を忘れられずにやった?のかも知れない。
 
 
ひょうたん内部になにも入っていなかった可能性もある。なぜならひょうたんがおそらく再生のひさご型であるから、朝鮮に多かった卵生説話にあるひさごにはいって再生する、うつぼ船のもがりなどがからんできそうである。
 
ときとして九州などでは献花再葬もあった。花を死者の胸に置く。これはエジプトでもツタンカーメン王墓に置かれた花が有名。
 
 
 
 
 
古来、墓が残された人などほんの一握り。
敗者などは墓を打ち壊されもした。
 
 
要するに死んだら、あとは野となれ山となれが最高の現代的な死生観であろう。
 
金は残すな。子供を甘やかす。
すべて使って死になさいってことだ。
 
 
さしずめ、最後の酒盛りで、それが花の季節で、よく晴れた庭先でなら最高。
ぼくの遺骨は、仁徳天皇陵のてっぺんにでも、桜の園の根元にでもまいておくれ、夜中に。
枯れ木に花を咲かせましょうぞ。
真冬に桜を咲かせましょうぞ。
 
 
最後に
西行はなぜ桜に死を観たのか?
それは桜の木の下に終(つい)の安住を見たからだろう。
妻を捨て、子を捨てた佐藤さんの、それが最後の破戒僧としての望みだった。
ぜいたくってもんですよ。
 
 
 
 
 
 
 
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新三国時代・台湾大乱・代替エネルギーを手中にすれば勝利

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三国志時代の到来である。
現代。
 
魏志の倭国大乱のいい類似サンプルになるのが台湾政府の親中政策への民間の反発ではないだろうか。
 
魏・呉・蜀に当たるのが欧米・中・露。
今、中露が急速に近寄り始めている。かつての東側二大勢力。
一方、西側、欧米日韓は経済的に衰えを見せ始めてきた。
眠れる東側がにわかに勢力を溜め込んで復活。
 
決め手は新エネルギーとレアメタル。
これを手中にした方が勝つ。
 
邪馬台国に相当するのが今はベトナムなどのインドシナ諸国・インド・ブラジルだろう。どっちにつくか日和見の最中。
 
欧米とは言っても欧州は今が一番のどん底で、米国よりも深刻、それどころではない状況。では中国とロシアはもっとくっつくか?これもまた両国自我が強く未知数。
 
さて日本は?韓国は?
いったいどっちに?
 
 
 
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新しいエネルギー(代替(だいたい)エネルギー)を開発したほうが勝利する。
天然ガスではない。化石燃料ではないもの。枯渇しない、永久に生み出せるもの。
それはなんだ?ナフサ?原子力?
もちろん太陽光も風も、ささやかな抵抗力しか持たない。過渡期のあだ花であろう。
 
中国はレアメタルを牛耳った。まず先手を取ったことになる。
ロシアは天然ガス。
アメリカはシェールガス。
日本は海洋メタル・藻・海洋天然ガス・・・
それぞれが思惑と欲望を秘めて開発中。
 
こうしてみると金印に相当する価値を持つエネルギーは原発しかないのか?ということにどうしても行き着いてしまう。いいところが多すぎ、また悪いところも手ひどく危険すぎる、困った完璧エネルギー。性格の悪いドラえもん。
 
 
宇宙開発は?
 
どっちにせよ海洋も宇宙も金と時間がかかりすぎる。
 
 
 
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マジックのトランプのように、手の中から湯水のように出てきて、環境にもやさしくて、永遠に枯渇しないもの・・・んなものあるはずないだろう。
 
 
所詮、人生なんか剣の上を走る危険な綱渡り。
虎穴にいらずんば虎児を得ずではないか。
 
 
それとも中国の属国への道を選ぶのか?
 
 
さあ、どっちがいい?
 
 
よ~~~~~~~~~~く考えてみよう。
 
 
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桜の花を散るままにしますか?
 
 
 
 
 
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捕鯨と海人

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「日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していた。仏教伝来以降は、獣肉全般が敬遠されるようになっていったが、日本人の間で全く食べられなくなったという時期は見られない。獣肉食に関する嫌悪感も時代と共に変わっていったが、おおむね、狩猟で得た獣肉は良いが家畜を殺した獣肉は駄目、そして足が多いほど駄目(哺乳類>鳥>魚)と考えられることが多かった(タコ・イカは例外)。獣肉消費量が魚肉を上回るのは第二次世界大戦後の高度成長期より後のことである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8D%A3%E8%82%89%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 
 
 

「日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている。
 
江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%8D%95%E9%AF%A8#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
 
 
 
 
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「莵田の高城に鴫罠(しぎわな)張る わが待つや 鴫は障(さ)わらず いすくわし 鯨(区じ羅)障(さ)やる」(紀)
 

「この高城に鴫罠(しぎわな)を張ったというのである。
まさか鳥を捕る罠で、鯨が捕れることは無い。鴫も、罠も、鯨も、比喩である。
 高城で対峙した敵の中心人物は、奈良盆地中央部を本拠とする磯城(しき)彦である。

シギはシキで、敵対する磯城彦のことである。また鯨は山鯨(猪)のことで兄猾(エウカシ)のことである。『日本書紀』は「区じ羅」、『古事記』は「久治良」とする。
 
 意訳すれば『宇陀の高城に鴫罠(磯城彦を討つ罠または陣)を張って待つた。鴫(磯城彦)でなく鯨(兄猾・エウカシ)が、かかった』という意味でる。
 「馬鹿なエウカシよ」とあざけり笑った歌である。
なお「いすくわし」の意味は不明であるが、私は「こざかしい」というくらいの意味に解釈する。
 
さらに歌は
 
「こなみ(前妻)が な(魚)こ(乞)わば たちそばの 実のなけくを こきしひゑね うはなり(後妻)が な(魚)こ(乞)はさば いちさかき 実のおほけくを こきだひゑね」(紀)
 
と続く。

 古い妻がさかなを欲しいと言ったら、たちそばの実のような、身のないところをやる。新しい妻がさかなを欲しいと言ったら、いちさかき(椎)の実のような 身の多いところをやる。」
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/1-5udanotakagi.htm
 
 
 


 
 
 
最近、筆者は「大儀を取るのか、小儀にこだわるのか」がわからずにいる。
 
夏目漱石はレグナチオンの境地をこう綴っている。
 
智に働けば角が立つ情に棹させば流される  『草枕』
 
 
果たして食うべきか食わざるべきか?
 
食わずともよいのではなかろうか?
 
 
 
大魚は大食漢であろう。
それを誰も捕らなくなればどうなるかをわからぬ世界の人々に、その重要さを気づかせるためには、時間がかかる。同じ時間を使うなら、むしろ大魚を食わずにおいて行き着く結果を出すための時間が必要。ならば、食べずにおくしかない。
 
 
その果てに、しまったやよかったも明白になるだろう。
 
 
 
ただ、大魚を捕ることをなりわいとしてきたものどもには、消えてもらうこととなってしまう。
 
 
 
現代に欧米文化に追随してきたわが国家はどのような大儀を出すか、である。
 
 
 
 
 
どうもこのごろは対立は行き着くところ、白黒をつけたがり、いよいよ平和が遠のくと見えてしかたがなくなった。個人的にはめんどくさい、というのが正直なところだ。
 
 
 
久米歌の「くじら」について、おかくじら=猪のことかと思ってきた。だが、上の解釈のほうが深い気がする。
 
 
 
 
 
この問題はこれからの日本人の、世界でのあり方までを考えさせる問題である。
 
 
 
 
しかも、日本だけでなく、地球規模の海洋資源環境の問題でもある。
 
 
 
 
難問を、人類がどう乗り越えて、どういう結果を招いたかは、何万年の視野が必要。
 
 
 
 
神ならぬ筆者などにわかろうはずもない。もちろんあなたが天才であっても。それはくじらに限らない。ただ、目先の金の動くところで反対している愛護団体のふりあげた剣をうっちゃることはでき、振り上げた剣が次にどこへ向かうかも確かめられる。くじらをとらなくなれば愛護団体も大儀を失うこととなるだろう。
 
 
 
 
 
どうなろうと、そのときぼくは生きてはいない。
 
 
 
 
 
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風にまつわる知っておいて損ではない情報・勝敗は風で決まった

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これは日本の原発の分布図
 
 
これは毎日の風向きを気象庁が発表しているサイト
 
 
例えば筆者の住む九州・瀬戸内地区の今日の風向はこう。
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原発をここに置いてみよう。
 
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もちろん風は日々刻々と向きを変える。強さも変わる。季節によっても変わる。
だから気象庁風向情報を「お気に入り」などに入れておこう。
 
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こういうサイトもある。
 
あ、もうやっている・・・えらい!
 
 
さて、次。
この分布図が正確かどうかはそれぞれ確認が必要。
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ないことになっている地区にも実は存在するし、あるとされている場所がすでにそうではなくなっている場合もある。人は移動し、政治は整備するもの。
 
だから絶対に確認する必要がある。
 
 
さて、原発が置かれた海岸部が、どんな地域だから置かれたか、原発が含んでいる、政治的な、福祉的な、住民救済的一面は考えておいて損ではない。つまり設置を許容せざるを得ない経済事情にも、ちゃんと歴史がある。それを一方的に非難したり、暴露したりするのはそれこそが差別になる。多かれ少なかれ、日本の大多数の地域では戦後貧しく、なんらかの救済や、開拓移民やの国家的福祉事業とのかねあいがある。何も原発だけがそうなのではないし、なにも福島だけがそうなのでもない。またそれがあなたの住んでいる最寄にもないとは言えず、友人の中にもそういう困難な事情をかかえる人がいるかもしれない。さらに彼らにも家族があり、生きていく権利がある。
 
 
 
こういう資料は絶対に主観的物言いに使うべきでなく、ただ客観的に見つめるべきものである。
 
 
 
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この地図は日本の大地震が起こりうる地域を示唆している。
ここに原発や処理場を頭の中で置いてみる必要もあるだろう。
そうすると、なぜプレートの断層に面している可能性が高い太平洋側や瀬戸内に原発を置いたのだろうか?その事情は何だったのかが気にならないはずはない。
 
 
 
なぜ下北半島には処理場と原発が集中するのだろうか?
なぜ若狭湾に原発が日本一たくさんできたんだろうか?
なぜ福島の海岸や伊方や玄海や川内や柏崎や浜岡や東海村などにあるのだろうか?
などなど、不思議だなあと思わない人は、ちょっとあまりにも能天気だとなる気がする。
 
 
 
 
 
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例えばこの下北の過去、いったい何があって、どんな因果関係で国はここを選ぶのか・・・。それが歴史である。
 
例えば思いつくのは去年の大河ドラマの会津藩が、敗北廃藩後、どこに移動せられたかなどは割合すぐに思いつくはずである。
 
 
 
あるいは全国で百姓一揆を起こした地域などもヒントになるかもしれない。
 
 
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もっと大昔の反乱の記録がある地域などもそうである。
 
 
朝敵とされ、追いこめられ、そこから容易には出られない、それも歴史である。
 
没落した平家の落人伝説とか安徳天皇墓所伝説とかあるところや、貴種流離譚の多い地域・・・九州なら宮崎や南熊本の山奥とか、信州の松本平の奥地とか・・・鶴姫伝説とか、なんらかの落人・貴種伝承。
 
つまりそれは「敗者の歴史学」になる。
 
 
 
淀川の忍熊王のいた枚方市とか八幡市とか、出雲とか、筑紫君磐井の乱とか、ゆえあって記録は、派生地をそこに置いている。物部氏の残党とか、蘇我氏残党とか、そういう有名な事件の残党はどこそこに入れられたとか・・・。
 
 
意外と、そういう相当古い話が、いまだに、その入れられた地域の開放を許容していない場合が山ほどあったりする。渡来工人・下層民・意外だが医者の多い土地というものがけっこうある。京都市なら松原にたくさんの不法医者が集まったのはなぜか、などなど。
 
近江の湖東や湖西になぜとか?
 
戦国時代に家畜、犬などの飼育にあたった部民がいたところなどは、意外に、誰も知らないような奥地・隔絶地域にあって、今も閉ざされているなどもよいヒントだろう。
 
原発は海岸部に置かれる。するとそこに隔絶し、海を向くが、山側を向かない人々がいて、古墳があって・・・。そういうのが大事な古代史のヒントになる。
 
 
もっと古くは、邪馬台国にまで遡っても、奈良市内には、神社が移転された、氏族が移動した、そういう今はもうわからなくなっている土地もある。しかし古墳などは残り、そこにいた氏族が誰で、それが負けた側の中心人物だったことは、推定可能になる。例えば和邇氏や物部氏や葛城市・蘇我氏や秦氏や海人族など。
 
 
 
もちろん妄想しすぎてもいけないけれど、そのような因果応報が、意外に何千年立ってもまだあったりする。特に西日本。
 
 
 
翻って地震が多い、原発が多い、そのほか基地があるなどなど・・・なにゆえにそこにそんな理不尽なものが置かれ、住民はそれによってよい生活ができていったか・・・哀楽の心を持った上で検証して、愕然とすることが多々あるはずである。
 
 
 
 
そしてこういうことは、頭の中の引き出しに綺麗に整理整頓し、いつもは厳重にしまっておくという、自分なりの自主規制もできなければならない。ジャーナリストなら別だが、歴史研究には、過去の敗北を悲しみ、哀れむこころ、もしかしてそれは自分にも起きた可能性があるのだということをちゃんと感じられないければやってはいけない。そう、パンドラの箱がいくつかあるのだ。
 
 
真実の究明は、どこかで必ず人を傷つける。怨恨を生み出す。
 
 
だからあなたのサイトに、大声では書かないのがいい。ささやくうまい方法を発見する必要がある。それとなくそっとという表現方法である。
 
 
敗者は、時の運で敗北者になった。
勝っていれば歴史の中心にいたはずの人々である。
敗者の王についてしまった下層の人々もそうである。
 
 
 
寝返るような器用な人でなかったということであり、つまり裏切らない人だったということなのだ。この理不尽を思い、泣きながら分析できないものは、歴史は研究してはならないと、あらためて筆者も肝に銘じたい。
暴露と分析はまったく違うのだ。
 
 

 
 
おまけ
邪馬台国は敗北して狗奴国と同盟することとなったが、大倭直・国造家の祭る大国魂神=大和神社祭神は、敗北後、やしろを移転させられる。
オオクニヌシも大物主も、動かされた。いった場所・・・例えば出雲が問題なのではなく、いた場所が大事である。
 
筑紫~豊~四国~吉備~播磨~摂津~山背~ヤマト・・・
 
邪馬台国の「台」は臺與の「と」か、臺與の「い」かがよく取りざたされるが、もし邪馬台国が纏向遺跡なのであれば、あの遺跡は敗者の宮城だった遺跡となる。もし筑紫なのであれば豊~吉備への移動の痕跡が必要になる。豊は「とよ」であり、伊予は「いよ」であることがからまってくる。
 
 
ヤマト説は纏向以外にもうひとつ遺跡を発掘せねばなるまい。纏向の少しあとの遺跡である。そこが邪馬台国である。九州説は有明海に敗者の遺跡をもうひとつ見つけねばならない。あればそこである。
 
 
しかしどっちにせよそれは敗者の夢のあとであろう。
臺與の代になって、魏は敗者と成り晋が興る。しかし晋の鏡は日本にたった一枚しか出ていない。つまり付き合いがなくなったということである。
 
 
晋は魏の宰相だった司馬氏が建てた国。それが三国志を書いた。晋には倭への義理がない。なのに呉と倭のつながりをあえて書かなかった。倭が呉の真東に位置するように書いた。それがなぜかを解明しなければ、魏志の半呪文は絶対解けない。つまり当時の中国の政治的位置やイデオロギーが深く関わる。倭人伝は地理誌ではあっても、西欧的な地理学の書ではなく、歴史書である。方位や位置にはあきらかな意図的造作がある。
 
晋のあと、中国の中心地は再び南へ動く。それは風ー地球環境の乾燥化によって、黄河北側に砂漠が広がり始め、北方民族がたびたび北朝を脅かし、国家が乱れだしたからである。呉のあった長考河口部は、宋によってまた活気付く。そういう間をぬって日本に河内王朝が登場する。ヤマトの磯城の人々が、河内によってやられたのだ。ちょうど神武の久米軍隊が磯城津彦を網で捕らえたごとくに。
 
 
もとはといえば地球環境が動いたことから歴史の変化は始まったのである。
 
 
勝敗は時の運である。
 
 
そして失敗は、成功の母でもあることも忘れずに。
死ぬまでなにが起こるかわからない・それが人生。
 
原発もまた、そういう長い人の歴史をひきずっているあぶない玩具なのである。
 
 
なんにだって歴史があるってこと。
 
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竹の歴史学・その不確定な北方伝播

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春の味覚タケノコをKawakatuが調理http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/12716722.html
 
 
 
竹は南方植物である。
「タケ(竹)とは広義には、イネ目イネ科タケ亜科のうち、木本(木)のように茎が木質化する種の総称である。
しかし、通常の木本と異なり二次肥大成長はせず、これは草本(草)の特徴である。このため、タケが草本か木本かは意見が分かれる(『木#定義を巡って』も参照)。ただし、タケの近縁種は全て草本で木本は存在しないので、近縁種に限った話題では、近縁の完全な草本と対比してタケは木本とされることが多い。
 
日本ではタケは青森から九州だが、ほとんどは帰化と見られる。ササは北海道や高山地帯にも自生する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9
 
 
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ではどうやって東北までタケが入ったのだろうか?
めったの花が咲かない南方植物なのだから、当然、人が運んだのであろう。
 

 「竹の海を越えた移植に関して最大の謎は、モウソウチクをほぼ唯一の例外として、なぜか繁殖させてみると一定の地域でしか生育しない竹が多いことがあり、主に地下茎で繁殖するためか、環境に対応した変異種が出にくい傾向があるようですし、根が繋がっているだけに病気などで一網打尽になりやすいようです。
 
(地下茎による繁茂はきわめて狭い領域内で終わる)
 
  逆に言えば、そういった特性があるのに、どうやって日本へ渡来して根付いたのか?という事がそもそもの謎になるのですが、それこそ”泥付き”というか土に埋めた状態で持ち込んで原産地の土壌の細菌ごと定植したためなのか?筍状態で運送中に育ったことが幸いしたのか?古代人達は何らかの竹栽培の(今となっては失われた)ノウハウを持っていたのか?ま、竹という身近な植物の事でさえ、全てが分かっているわけではないということですが(笑)。
 
  もっとも、竹はイネ科の植物といいながらも木質多年生の茎をもつものの総称というアバウトな捉え方も出来る(イネ目イネ科タケ亜科とする考え方もある)ことから、定義の仕方によって分類に幅が生じてしまい、約30属、600から1200種くらいが該当するという、かなりアバウトな括りになっています。
 
  分類ということでは、バンブーと竹を英語と日本語の違いくらいに考えている人が珍しく無いのですが、熱帯に多いバンブーは外観こそ竹に似ているものの、竹が地下茎で横に繁殖するのに対して、バンブーは株立ちという点が一番分かりやすい違いですが、分類すると別物になります」
http://plaza.rakuten.co.jp/itimuanbekkan/diary/201112210000/

 
すでに縄文時代、三内丸山遺跡からタケで編んだカゴが出ている。
 
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その後、縄文土器の網目にもタケは使われた。
 
つまりタケが北上した時代は縄文時代。当時の東北・関東は温暖である。
このブログの竹取物語カテゴリーでも書いたが、タケは人が運び込んだ。どこからか?
 
 
タケには大きく分けて笹タケと呉タケがある。
この「くれ」が問題である。
呉とは長江流域の呉越を指すのが一般的だが、記録では広く中国・朝鮮をさすことが多い。しかしタケの主産地は江南、長江流域で、やはり日本へは呉からきたから呉タケと呼ばれる多くのタケ類が帰化し、繁茂したのだろう。
 
国内でそれを運んだのは、三内丸山で竹かごが出たことからも、おそらくカゴ編みと言えば隼人と書かれた南九州民だったというのが濃厚である。
 
なぜならばタケには中が空洞と言う、ほかの植物にはない特性があり、その利用価値が非常に高かったからだろう。パイプ状なので、輪切りにすれば食器になり、箸になり、縦に割れば水を送る樋になる。タケノコは食用になり、葉っぱにも茎にも滅菌効果がある。炭にもなり、繊維は整腸作用もある。捨てるところがないために、それでなくとも広がるのが遅いこの地下茎植物は、どんどん輸入されなければならなかった。
 
 
隼人がそれを可能にした最大の理由が、貝の道である。南海産の貝がらを縄文人もい、弥生人も非常に好んだ。タケと貝が稲作も運ばせたと言ってよい。
 
 
 
 
 
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・竹は、温暖で、湿潤な環境に育つ植物で、世界的には、赤道を中心に北緯・南緯ともに35度までにもっとも多く自生分布し、
・日本がその北限である。
・竹の原産地は東南アジアで、タイ国や中国が代表的な産地である。
・東南アジアを中心に、世界に約40属600種、日本ではおよそ12属150種を産する。
・また、アジアの竹林面積は世界の面積の8割程度を占めるのではないかとも言われている。
・日本の森林総面積に占める竹林の割合はおよそ0.38%である。=つまり入ってきたのが遅く、自生地よりも寒冷だから?
・日本において竹林の造成が本格的になったのは室町時代と言われ、まだ孟宗竹(モウソウチク)が渡来していない時代であり、その種類は真竹やハチクであった。
・孟宗竹は天文元年(1736)年、第21代薩摩藩主島津吉貴が、琉球(りゅうきゅう)から苗を磯別邸(現在の磯庭園)に移植させたのが始まりといわれているが、その後、北海道と東北地方の一部を除き日本全国に広がったものと推測される。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54799738.html
 
 
 
(2)山窩と箕
 「文明社会と一線を画し、一畝不耕、一所不住の生活を貫く謎の集団サンカ(山窩)は夏は川魚漁、冬は箕づくりで生計を立てていた。
 サンカは犯罪者集団扱いされていて、警察によるサンカ狩りは、1890年ごろから全国で行われていたという。大正13年3月25日、別府警察署は大分県速見郡別府町(現別府市)的ヶ浜の松林にあった被差別民の住居を焼き払った。その中にサンカもおり、警察は治安上の問題からサンカ小屋を焼き払っただけであると主張し決着した。」

(3)タイシと箕
 「井上鋭夫の『山の民・川の民』によると、新潟県のある地方では、近世から明治期にかけて「ワタリ」とか「タイシ」と呼ばれていた人たちがいたという。ワタリというのは、舟を操り物資の輸送に従った非定住民のことで、箕作り、海岸の村々で塩を焼くのに使う塩木を流したり、材木を上流から下流に流す筏流しを生業としていた。彼らは農地を持たず、河川や海のほとりなどに住み着いた川の民であった。井上は彼等の起源が中世にまでさかのぼるという。」
 
(4)被差別部落と竹細工・箕
 「日本一の竹の産地であり、竹細工の発祥の地である隼人の故郷・薩摩半島は、箕作りの盛んな地域でもあった。そして、この薩摩半島の箕作りは、昔から被差別部落の専業とされ、九州各地を歩いて箕を行商した人々も、この地方の被差別部落から出た。バラ(丸箕)などの竹細工にしたがうムラはまた別で、平家の落人伝説を残す山深い里で普通の農民とは違うと見られていた。箕とそれ以外の竹の道具とのあいだには、その生産のにない手において、あきらかな断絶があった。薩摩半島の箕作りの起源については、その先祖がサンカから箕づくりを教わり以後それを生業にするようになったという伝承がある。
 
 中世後期以降、治水のため国内のあちこちに竹林が造成された。土地を持たず河原に住んでいた貧民が治水工事に動員された。そして、しだいに彼らと竹薮との結びつきは深くなっていった。竹は木材より入手しやすく加工するにも資本がいらず、技術的には高度であるが、道具さえあれば製造は可能である。土地を持たず職業を制限された人たちにとって竹細工は欠かすべからざる生業であった。
 広島県では世間は「竹細工」=「部落」と見ていたという。竹細工は被差別部落の生業のひとつでなのであろうか。
 大阪府富田林市は、竹すだれが盛んであったし、三重県上野市では和傘の傘骨づくりをしていたという。兵庫県加西市も竹細工の生産にたずさわる人が多く、加西郡富田村畑村において古くから箕の生産がおこなわれていた。しかし、江戸、明治、大正時代には、箕の生産は部落外の産業であったという。兵庫県清和会が1933年に行った被差別部落の実態調査『経済調査表』によれば、「竹細工業」は、有馬郡、明石郡、城崎郡に多いものの、他の地域ではほとんどなく。加西郡では全くない。第二次大戦中に海軍の飛行場を建設するため土砂を運ぶ皿籠の需要が生じ、それをきっかけとして加西市の部落における竹細工が始まったという。
 兵庫県三田市鈴鹿。かつて「鈴鹿の竹製品は全国一」と言われるほどの腕を持つ竹細工師がたくさんいた。三田市が開催した竹細工教室がきっかけとなり、今では市民による自主的な竹細工サークルがある。
 竹筬は織機の部品の一つで、多数の竹片を櫛の歯のようにつらね、それを長方形の枠で固定したものである。この竹筬を生産していたものは東日本ではほとんど「えた」身分の人たちであった。柳田国男は「巫女考」のなかで、江戸時代に筬売りが差別されていたことを述べている。」
引用元 「箕と竹の歴史」URLリンク不可能
 
 
 
竹は隼人が編むものとして『日本書紀』も書いている。
籠の意味合いはもう何度も書いたつもりである。
それは「こもる」「目を持つ」魔よけであり、それを編む行為こそが呪であった。
水が入らぬように硬く編んだ籠船というものが、今もちゃんとインドシナには存在する。
目にはコケなどを塗りこめている。
中にはそうした「あじろ」の浮島で、農業をしている湖地方さえある。これもミズゴケを乗せて浮島にしてある。
竹の活用方法は無限大である。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54799738.html
 
 
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「汁 からしあへ かうの物 さしみ つけ物 やく むしても色々 かわともにやきてつかひ候也」
 これは、江戸時代初期にあたる寛永20年(1643年)に刊行された、我が国初の料理専門書『料理物語』目録の「第七 青物之部」に掲載されている、「竹子(たけのこ)」の調理法です。
 醤油がまだ一般的に流通していない時代であったため、現在の筍料理の主流である「煮物」の表記はありませんが、辛子和え、刺身、香の物、漬物、蒸し物など、今ではあまり見かけない料理が並びます。
 注目すべきは、この本が書かれた当時は、長い戦乱の世が終わり、庶民がやっと食べることを楽しめるようになった頃だということです。
 その時代にこれだけの調理法が並ぶということは、筍という食材が、人々にどれだけ愛されていたかが分かります。
 他と比べても、筍の調理法の数を超える青物(野菜)は見当たりません。
 
竹子刺身
【材料】生筍…1本 ※掘って1時間以内ならそのまま、それ以上なら茹でてアク抜きしたものを使う/醤油 …適量/山葵…適量
【作り方】①筍の皮を剥いて穂先を切り落とし、縦に薄切りにする。②器に盛り、山葵と醤油を添える。
 また筍は、日本の古典文学史上、最初に登場する野菜でもあります。
 和銅5年(712年)、太安万侶《おおのやすまろ》から元明天皇に献上された、日本最古の歴史書である『古事記』に、このような物語がつづられています。
 日本国を造った男神・イザナギノミコトは、亡き妻である女神・イザナミノミコトのことがあきらめきれず、意を決して黄泉の国を訪れます。
 そこで生前そのままの美しい妻に会い、一緒に現世に帰ろうと懇願します。
 妻は、自分は黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、本当は帰れないのだけれど、黄泉の神に相談してくるから、戻ってくるまで決して部屋の中には入らないようにと言い置いて奥に入ってゆきます。
 けれど、待てど暮らせど妻は戻らず、しびれを切らしたイザナギが中に入ると、そこには妻の腐乱した死体が転がっていました。
 イザナギは、ショックのあまり現世に逃げ帰ろうとします。」
 
 
 
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何にだって歴史がある。
食べ物にも、栽培植物にも、衣服にも、道具にも、
ましてあなたやわたしにも歴史がある。
 
 
あなたが歴史好事家だったとして、図書館に歴史資料を探しに行くとして、ではあなたは歴史コーナーしか見てないか?それではいけなくはないか?
 
筆者は鉄や銅を知るために鉱業・鉱物コーナーをまさぐり、人類史を調べるのに医学書、遺伝子、情報学のコーナー、民俗学のコーナーを経巡る。
稲作の歴史のために植物学、自然科学のコーナーも回る。
 
 
図書館へ行くと、多くの年長の郷土史家たちは、郷土史コーナーに入り浸って、そこから終日出ることなく、分厚い原文に頭を抱え込んでいる。文献がわからなければなぜ言語学から、日本語の歴史から、遡ろうとしないのだろう?
 
 
急がば回れ、そういう周辺の門外にこそ謎解きのヒントは満ち満ちているというのに。
 
 
 
 
もちろん料理コーナーにだって、実に多くのヒントが転がっている。それらすべてがぼくにとってとても知りたい、卑弥呼の生活なのである。
 
 
 
 
たとえ図書館の狭い空間でも、足が棒になるほどあるかなきゃだめじゃないの?
 
 
机に座って本を読むだけが歴史学じゃない。
気になった言葉、わからないことがらについて、今度は分科している各コーナーをフルに活用してこそ、卑弥呼の住む家が見えてくると思うよ。座ってる場合じゃない。本はトイレやバスや寝床で充分に読める。むしろそのほうが頭にはいる。結果的に本は付箋だらけとなり、また図書館へ行かねばならなくなる。永久運動である。
 
 
君の本に付箋は山ほどついていますか?だったらあなたはもう辞書が作れるはず。
 
 
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リリパッド症候群・小保方問題の捏造と責任回避と無監視の恐怖

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引用文「ピーターパン症候群」
「昔、当世でこんな言葉が流行ったのをご存知だろうか?

「ピーターパンシンドローム」

なかなか大人になれない・・・・いつまでも子供のままでいたい・・・・そんな男子を指して言っていたような言葉だったが、明日は成人式・・・・年々成人としての人口が減りつつあるこの日本!  逆に昔ピーターパンと言われた人口が増えていくんだね!!ピーターパンシンドロームに対して、女性にも夢見る少女が抜け切らない事を表したシンデレラシンドロームなる言葉もありました。
  い つか王子様が・・・・
みたいな幸せな夢をみている少女の気持ちを持つ女性に当てた言葉・・・・
 
当時は、ピーターパンの話に出てくるキャラに合わせて、大人になれない男子を見守るウエンディとかティンカーベルとか・・・・いろんな症候群がありました。」
http://ameblo.jp/3091nh/entry-11748754705.html
 
 


 
 

いくつかの
専門用語には認定されていないが、通俗的に理解度が高い「症状」が上げられている。
 
 
1 ピーターパン・シンドローム(症候群)
ピーターパン症候群(ピーターパンしょうこうぐん)またはピーターパンシンドロームとは、1983年にアメリカの通俗心理学本作家ダン・カイリーが著した『ピーターパン症候群』(原題:Peter Pan Syndrome)で提唱されたパーソナリティ障害である。「誰でも持っている問題の一種」であり、心理学・精神医学の正式な用語ではない。従ってアメリカ精神医学会出版の「精神疾患診断統計マニュアル」には記載されていない。
大人という年齢に達しているにもかかわらず精神的に大人にならない男性を指す言葉。 カイリーは著書の中で、ピーターパン症候群は「成長する事を拒む男性」として定義されている。また同作家は、これに関連して『ウェンディ・ジレンマ』(原題:Wendy Dilemma)も1984年に出版している。(Wiki)
 
 
2 シンデレラ・シンドローム(コンプレックス・症候群)
シンデレラコンプレックスとは、男性に高い理想を追い求め続ける、女性の潜在意識にある「依存的願望」を指摘したシンドロームの名称。童話『シンデレラ』のように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けている、としてこう名付けられた。

米国の女流作家コレット・ダウリング(Colette Dowling)が1981年に提唱した概念。ダウリングは著書において、「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態を「シンデレラ・コンプレックス」と表現している。幼い頃から女性の幸せは男性によって決まると考え、シンデレラのように理想を追い求めるも、主婦をやっているうちに自主性を見失い、結果的に夫に依存し自由と自立を捨ててしまうとされる。
女性の自立を拒む要因の一つとして、「白馬を駆る素敵な王子様がどこからか現れて、迷える女の子である自分を救ってくれる」という幻想に取り付かれていることが原因である。
 
加え、シンデレラ・ストーリーへの本能的ともいえる憧憬は、裕福な家庭に生まれた女性が『シンデレラになるための条件[1]を生まれつき持てなかった』といって両親を恨むという、そうした事例が有り触れたこととして語られるほどに、洋の東西を問わない普遍的な現象として認知されてきた。(Wiki)
 


 
 
大別すればいわゆる「大人になれない(なりたくない)症候群」だと言えるだろう。
責任と信頼を要求される大人社会と自分を、一線を画して自己擁護していたい、自分を正当化したいという現象である。大人(責任)と子供(無責任)の中間にいる昨今の高校生~大学生~大学院生~初期社会人などに多い。
 
一方で、中高年の大人を経験してきた中で、大きく挫折を味わった人々の中に、似たような願望が昨今では生まれており、中高年「ニート」などを生み出してもいる(Kawakatuもその部類だろうか?)。この場合、従順に社会になじんできた中で、理不尽な挫折があり、まるで卓袱台を引っくり返す星一徹のごとくにわがままを言う、言いたい中高年となり、きわめて危険。^^;

例えば小保方晴子はどれにあてはまるだろうか?
彼女は研究者としてあってはならない、冷静で客観的であるべき研究を、子供のように鋭いひらめきと、正反対に子供用に無邪気な、悪意のない?夢見るような、世間から認知されたいという願望を、現代の大人と子供の中間的年齢である30代で発露させた。突如、彼女の中に世間にいいかげんに認めてほしい願望が出現したのである。これは上のどの願望にもない、どちらかといえば中高年の挫折・失敗を止揚させようとする代償行為に近い。で、これをとりあえず「リリパッド・シンドローム」とでも呼んでおきたい。

リリパッドとは童話に出てくる「こびと」である。
大きくならない妖精・妖怪。

伝奇的漫画家・諸星大二郎の作品『子供の王国』で「リリパッド計画」として登場する。精神的子供を維持させようとするものである。大人になりたくない、そういう社会人が体を子供にし、会社で遊んでばかりいる。それが増えて、むしろ子供であるほうが認められる社会へと変貌する恐怖を描いている。
 
 
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生きている世界が自由で、開放的な先進国に多い症候群である。
責任回避。孤立。ニート。おたく。
などはみなこれに含まれる。

いずれにせよ世間一般の常識的大人像から切り離されたい、自分は特別、いつかは花開く・・・などなどは、成功例では晩年に大成する作家・歌手・芸術家などにも多い。

抑圧と開放があまりに極端に訪れるために、抑制がうまくいかなくなり、ジキルとハイドのように、双方が出入りする現象が多い。分裂症の軽度なものかと思う。

最近の筆者が経験した事例で、あるスーパーの女性従業員の例がある。
この人は20年近くそのスーパーで働くパートタイマーであるが、常は抑圧的社会生活に準じておとなしい。かなり美人だがほとんど目立たない。顧客と視線を合わせることができない。嫌いなお客が来るとできれば逃げ出したい。そういう人柄の田舎のシャイな女性である。

ある日、筆者がたまたま店内で近くにいた彼女に、いくつかある入り口のひとつがあいていない、鍵がかかっているので、あけてほしいと頼んだことがある。すると彼女は、一瞬たじろいだような、逃げたいような、助けを求めるようなしぐさを見せつつこう言った。

「入り口は●●係りがあけているはずなんだけど・・・」

こういう物言いを客にするというのは、いわゆる社会的な大人の責任をほかの従業員と共有する立場の人が言う言葉でないのがおわかりだろうか?入り口が開いていない責任は自分にはない、ということを言わずもがななのに、まず最初に言っておきたい性格だということである。しかし顧客にとって、外部の人間にとって、そんなことは実は内部の事情であり、なんの意味も持っていない。顧客は開いていない入り口をあけてほしい、つまり行動だけを望んでいる。こういうことを言うと、相手はまず激怒することとなる。
 
また、ある食品会社に、取り寄せたい商品について問い合わせたとき、電話の向こうの相手は、いろいろ説明、こっちはそれを父親の代から愛用していて、どうしてもほしいのだと伝える。すると何を思ったのか感謝の言葉のあと、相手は延々と自慢話を始めてしまった。電話はこっちからかけているのである。しかも遠隔地。やれ今度NHKでテレビ放映があって、なんとかいう作家が取材に来て、これこれこういう料理に当社製品が使われ・・・・。「そんなことどうでもいいわ」がちゃん。
当然、この会社から取り寄せるのはやめて、他社を選んだ。

電話が遠隔地からで、しかも顧客側が電話してきた・・・そういうことへの配慮が皆無の大人。
そんなやつがいる会社にろくな商品が作れるはずはない。案の定、次に電話した会社は、製品の値段もぐっと安く、懇切丁寧に送金と商品の交換手順を案内して終わった。つまらぬ自慢話は皆無だったし、愛用の事情にも実に理解が深く、ではなんとかいたしましょうという態度で応対した。
顧客はそれを望んでいるのである。

これらもリリパッド症候群の一種ではないかと思う。
 
最近は論文のコピペは常識だそうで、若い人はそれを間違いだと強く大人に教わらないまま育ってしまう。受験そのものすら丸暗記なのだから、当然、そうなるべき状況だったのである。それは何も今に始まったわけではなく、数十年前から、もっと言えば戦後すでにそういう傾向は始まっていたと言って良い。戦前・戦中の軍部の理不尽な制圧的思想弾圧があって、戦後の開放がおきたために、わがままもまた自由に横行できるようになった。学校では教育ママからモンスター・ペアレントへの変貌が起きた。教育ママにはまだ、子供のしつけや学習向上という学校への要望があり社会的であったが、モンスターペアレントの場合は、単なる自分がしたくない、押し付けたいだけが要因で、ただのわがままであり、社会性の放棄が存在する。つまりリリパッド・シンドロームである。

漫画ではリリパッドの首謀者たちを大人の男がつきとめ、殺そうとしたところを見られ、逆に第三者の「子供を傷つけるのは犯罪者」という古い価値観をまだ持っている通行人によって狙撃されてしまう。映画でもこういう理不尽な死はよく使われる。結局、リリパッドになることにさまざまなリスクが起きて、問題となり、社会現象としてのリリパッドブームは静かに終わり、撃たれた男の危機感は成就する。

小保方さんはそういう現代病の最たる事例として「夢からいかにめざめてくれるか」という大人たちの期待の目で見られているという、きわめて特殊で面白い現象だと捉えている。
 
福島原発の津波被害後の東京電力幹部の中にも、似た様な責任の回避、たらいまわし的な発言が多々あった。分科科学の最もあやういところがそこにはある。それは官僚体制のたらいまわし、医者のたらいまわし、と同根であるし、やがてそこから責任を負わせる個人というスケープ・ゴートを捏造する温床なのである。最初から特攻隊役のチンピラが飼われているやくざ社会のほうが賢いとさえ言える。
 
 
世の中には、AかBか、一事が万事の考え方(これも古くからある病気)でこの事件を見る人もいることだろう。やっぱりうそつきだったんだ、最初から怪しいと思ったとか・・・。同性のものにはやっかみの心情もあるだろう。しかし人生の挫折を知っている大人はそうは考えない。長いスパンで考える。数十年後、再び彼女が復活する大発見はないとは言えないからである。ないだろうとは思えるが・・・。
 
あまりにも欲望が深い。あまりにもストレートで子供じみたことを、アカデミズムがやってしまうと、傍観者はどうしてよいか判断がつかなくなりがちである。だからこういうことはある程度時間が過ぎるのを見ておくほかはない。最大の問題は「シンデレラを夢見る少女」の欲望を、監視できなかったアカデミズム内部構造にこそある。これだけはまず改善しておかねばなるまい。
 
そもそもアカデミズムというものは、学界というものは、閉鎖された、狭小自由空間であって、それを監視するものがいなければ、すぐに大戦争に直結する発明や、オウムのような殺人兵器製造の温床となる。ばかと天才は紙一重なのである。
 
責任は全日本人にある。国力低下してうそばかりになってしまえば、中国と同じである。まして日本への国際非難の元にもなる。
 
国家はひとつの運命共同体である。国民がだめになれば当然国家もだめになる。小保方晴子はそういうアカデミズムが内包させている危険性の顕著な一例でしかない。常に責任は個人に背負わせるものでなく、共同体が分散して責務を肩代わりしてやるものでなければならない。そうでないと、個人はある日、突然自殺してしまう可能性がある。
 
右だ左だ、●だ×だとはっきり言える権利は、司法以外に存在しない。戦後の「朝鮮人が火をつけた」的風聞を流す大元になるような行為はつつしみたい。そういうサイトにも近寄るまい。知人にそういう行為があればすみやかに縁を断ち切ったほうがよいだろう。インターネットとは知らぬ同士が和気藹々やれなくなったら終わりである。去るものは追わず、来るものは厳選しよう。そして心の中には、常にその人が変わる可能性も否定しまい。子供はやがて大人になり、常識を知るようになる。ならない人ならやがて因果の応報がある。必ず、言ったことは自分に帰ってくるものだからである。すくなくとも祖母や祖父からそう言われたことを信じてこれた時代はよい時代だった。今は情報が多すぎる。人々は自分自身の判断すらわからなくなっている。戦争はこういう時代に多発してきた。
 
 
それこそが恐怖。
 
 
この章にコメント無用。
 
 
次回から「風の世界史」その2 イスラム・インド・インドシナ
 
そのあと、吉備下道臣・星川王の反乱を扱う予定。
 
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公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1

風とアラビア

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アラビア海は世界史で最初に開拓されたモンスーンの海。
夏の地中海は砂漠の影響下で無風の海となり、これがアラブ諸国を商人の港にしてゆくこととなった。
 
 
 
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古代地中海世界では、アラビアの海はエリュトラー海の延長線上であり、文化と貿易の出発港と認識された。
エリュトラーとは「紅い」という意味(ギリシア語)で紅海を言う。
紅海~ペルシア湾~アラビア海~ベンガル湾~南シナ海はアラブ人商人の船によって最古の交易ルートが形成された。
 
紅海の海流はモンスーンと連動している。だから帆船時代はここから始まる。冬はアラビア海、ベンガル湾を左回りする海流が強く、夏は右回りになった。
 
紀元一世紀、エジプト人が書いた「エリュトラー海案内記」という本が残っている。ローマ帝国では香辛料、綿、絹を欲していたので、すでに南インドのサータヴァーハナ王朝との交易が始まっていた。
 
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インド亜大陸は東シナ海に大きく張りだしており、比較的初心者でも航海がしやすかった。地中海から南インドシナへの航海日数は約一年、往復二年である。それでなくとも寿命の短かった時代に、商人たちはそのほとんどを航海に費やした。それほど価値のある航海だったということだ。大金が手に入った。
 
こうして1世紀頃から、すでに欧州・エジプト・インドシナ・インド・中国は地中海によって東西に交流が存在した。これが南シナ海経由で中国、そして半島や日本にも西の産物を届けるようになる。帰るときは絹やヒスイや貴重な貝殻で満載になって地中海へ戻る。
 
 
インドのロータルという都市はインダス文明の中心地だったが、ここから出た印章にはインダス文字がたくさん刻印されていた。紀元前2000年に、すでにインダス川とペルシア湾が交流していたことが書かれてあった。アケメネス王朝のダイレオス一世も、インダスとエジプトを結ぶ航路に艦隊を派遣し、二年半にわたる海域調査を行った。
 
ロータル遺跡
 
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地中海の定期的モンスーンの存在は、アレクサンダーの遠征ではじめて世に知られるようになった。ヘレニズム時代である。これを契機に、沿岸地域ではアレキサンドリアなどに地中海商人が登場する。これをエジプトでは「ヒッパロスの風(貿易風)」と呼んで、自前の操舵手が発見したことにしている。そうなのかも知れない。しかし実際にはインド・ペルシアを航海する商人からの情報である。
 
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インド東岸のマドラスからローマのコインが出ている。紀元前1世紀~紀元二世紀のもので、その交流は卑弥呼よりもはるか以前からあったわけだ。
 
 
船乗りシンドバッドは世界中に知られたアラビアン・ナイトの主役である。シンドとはインド北西部の地名で、バッドとは旅人である。魔法のじゅうたんとは帆船のことであり、決して夢物語だったのではない。紀元前、アラビアこそは世界の最先進地だったのである。
 
三方を海に囲まれ、モンスーンの風に恵まれたアラビアでは、緯度の測定を間違えない限り、北極星利して容易に世界中に出て行けた。
 
中国ではイスラーム商人の国を「大食」と表記したが、これはタージ、タージクのことで、アラブ部族のタッイ人を指していた(『旧唐書』8世紀)。
 
彼らの船をダウと言う。
 
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カマルという観測板を使い、板の真ん中には結び目が指の幅につけられたひもがあって、紐の長さをイスパー(1.5度 指の幅)、ザーム(その八分の一)と単位していた。船の上で縄を結ぶ計測方法は、言葉の表現方法にもなっていく。
 
 
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カマル復元物
 
 
 
星の数ほどの無名のシンドバッドがいた。唐にまで到達した。これを海のシルクロードと呼ぶようになった。
 
四月~九月の夏のモンスーンで東へ向かい、十月~三月の冬のモンスーンで帰港した。
 
『シナ・インド物語』(作者不詳・851年)には、ペルシア湾のシーラーフ港から広州湾までの船旅の日数は寄港地での停泊を除き、順風で120日以上とある。
ペルシア湾からインド西岸までが約一ヶ月、ベンガル湾までが一ヶ月、マラッカ海峡以東へは二ヶ月となっている。ただしマラッカ海峡は風向きが難しく長期間の風待ち日数がかかるため、全工程片道一年とされていた。そうしてみると帆船での大航海の日数の基準になる。邪馬台国の道程日数の目安にもなろうか。「水行10日」はアラブ商人の中国までの日数の10分の一以下の近距離航行であることがわかる。「陸行一月」にしても当時ではたいした距離ではないと判断できそうだ。
 
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ワクワクの国
これは倭国である。
奥州金山開発の平安時代ころから名前がバグダッドでも出てくる。
黄金の国だと書かれているので、マルコ・ポーロなどよりも早くから、アラブ諸国は日本を知っていたわけである。
『シナ・インド物語』では新羅がシーラーとして登場。シナ皇帝とクモツを交換しないと雨が降らないと書かれている。当時から朝鮮は中国の属国だったことが明白である。
 
一方倭国は、アッバス帝国の中心官僚だったイブン・フルダーズベが「シーンの東にワクワクがある。ここには豊富な黄金があってその住民は犬の鎖やサルの首輪を黄金で作り、金の糸で織った衣服を着ている、持ってきたあまりの衣服を売るほど豊かだ」と書かれている。シーンはシナであろう。
 
 
イスラーム商人と倭国のつきあいは九世紀の大宰府鴻臚館跡から出たペルシア陶器やガラス壷、ガラス杯などからうかがい知れるが、もっと古く、八世紀の宗像君徳善の墓(宮地嶽神社古墳石室)からは、ガラスの一枚板やペルシア瑠璃玉が出ており、飛鳥時代後期~奈良時代初期七世紀にすでに交易があったと見てよい。その時期は蘇我氏全盛時代、崇峻天皇紀に百済から来た博士として名前が日本書紀にもある。斉明天皇が元興寺建設に使った工人である。
 
 
トカラ列島のトカラを、ペルシア語であるという説もあり、トカラがペルシアの極東貿易の中継港だったという説もある。かなり信憑性が高くなっていると見ている。
 
 
 
 
少なくとも黄金で名前が知られた倭国は、記録上、9世紀までに世界で知られ始めていたことは間違いない。ということはもっと前から、中国を経て知られていた倭国もあったと考えてもいいのではないか?
 
 
 
行ったきり帰ってこなかった太古の海洋民族とは違い、イスラーム・ペルシア人は帰ってきた貿易者だった。
 
 
参考文献 宮崎正勝『風が変えた世界史』
 
 
 
 
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デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 
 
 
 
 
 
 
 

敗者の古代史/吉備下道臣と星川皇子の乱

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吉備氏の乱(きびしのらん)
は、雄略天皇7年(ユリウス暦463年)に吉備上道臣田狭(吉備田狭)が新羅と結託して朝廷に起こした反乱である。

吉備田狭が朝廷で妻の稚媛を自慢している事を聞いた雄略天皇が、吉備田狭が任那に出兵している間に稚媛を奪ったためだと日本書紀に記載されている。
朝廷は吉備田狭の子、弟君を討伐に向かわせるも吉備田狭に寝返った。しかし、弟君はその事を知った妻樟媛に殺された。反乱は失敗したが、吉備田狭は生き残った。
 
 
 
 
星川皇子の乱
その後、稚媛は雄略天皇の子星川稚宮皇子を産み、雄略天皇の死後に皇子を皇位につけようとした、星川皇子の乱を起こした。吉備上道臣らはこれに水軍40艘を率いて来援したが、皇子の敗死により引き返した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
 


 

吉備がなぜ中央に対して反乱したと書かれねばならなかったかは、筆者には、ほかの「乱」とされたいくさ同様に、中央から見た、記紀から見た歴史観だと思える。
記紀は崇神天皇のときに四道(しどう)将軍を派遣した地域のひとつが吉備であり、その将軍を吉備津彦などとしているが、それが真実だったかは定かでない。
 
考古学的に3~4世紀の岡山県では備前(湯迫)車塚古墳から出た三角縁神獣鏡(陳氏作神獣車馬鏡・二神六獣鏡)11面は、その同笵鏡が各地から出てくる。
豊前国石塚山古墳
上野国三本木古墳
相模国
山背国椿井大塚山古墳
近江国
甲斐国甲斐銚子塚古墳
遠江国
筑前国藤崎遺跡
 
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いわゆる三角縁神獣鏡は、この際明確に言っておかねばならないが、卑弥呼がもらった呉鏡(主として画文帯神獣鏡)のあとに、帯方郡で呉工人によって増産された鏡であり、臺與以後になってからの下賜鏡である。その種類は千差万別で、一口で三角縁神獣鏡が出たから邪馬台国だというのは、あきらかな間違い。

その複雑な絵柄の中から、厳密な区分を要するが、備前車塚の11面の三角縁鏡の中で、まず各地に同笵鏡関係が見られるのは「神獣あるいは神人車馬鏡(しゃばきょう)である。
 
ほかに三角縁笠松文神獣鏡・ラクダや象を刻んだ三角縁二神六獣鏡(黒塚古墳にもある)なども含まれ、この複雑な同笵関係から、吉備を中心に畿内纏向で開始しただろうある特定の「崇神天皇時代の氏族同盟関係」が判別できるのである。(椿井大塚の海人系木部などとの同族関係がある)
(吉備勢力は筑紫(伊都国)・豊・北四国~静岡・群馬までを兄弟関係とした)
 
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           車塚古墳のラクダの絵がある神獣鏡
 
 
もう一度言わなければならないが、その氏族関係は邪馬台国同盟の関係だと、今すぐには言うことができない関係である。
 
纏向遺跡からは、これまで一切「邪馬台国の都であったことを証明する遺物などは出ていない」のだから。出ているのは記紀が書いている崇神に関する遺物・遺跡ばかりである。したがって、今、この段階で纏向を卑弥呼の都するところだとは誰にも言えない状況である。それは言い換えるならば纏向が邪馬臺国を滅ぼして建てた狗奴国の都で、つまり3~4世紀の大和は狗奴国の都だったとしたところで、誰も異論を言うこともできない、想像の世界でしかないことにもなりかねないのである。筆者は後者を有力と見るが。
 
 
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吉備車塚古墳の笠松文のある神獣鏡(宇佐赤塚や椿井との同笵鏡)
 
 

吉備下道臣(しもつみち)の反乱と星川皇子の反乱
岡山の豪族は、下道、上道、笠、三野などであるが、総括して吉備の氏族は大王家に対して記録上は七回、妃を出している中央でも有力豪族である。その実力は雄略まで葛城氏と並ぶものを持っている。
 
 
1 景行天皇へ吉備臣祖・若建吉備津日子の女、針間伊那毘能大郎女とその妹伊那毘若郎女(吉備が播磨まで勢力圏を持っていた)
2 倭建へ吉備臣建日子の妹、大吉備建比売
3 日本武尊へ吉備武彦の女、吉備穴戸部媛
4 応神天皇へ吉備臣祖・御友別(みともわけ)の妹、兄媛
5 仁徳天皇へ吉備海部直の女、黒比売
6 雄略天皇へ吉備上道臣の女、稚媛
7 舒明天皇へ吉備国蚊屋采女
(「直木孝次郎古代を語る 古代の動乱」より)
 
 
 
応神大王が畿内へやってくるまでに、畿内にはすでに吉備・葛城の共同体があったと持てよいだろう。これを吉備・葛城政権としておく。すると応神が九州からやってくる過程で、一旦吉備に留まり(これは神武も同じ)、吉備をまず手中にしただろうことは想像に難くなく、要するに記紀は大和で雄略時代に彼らが滅ぼされると書くけれど、すでに応神の時代に、吉備はのちの河内王家に対して妃・・・言い換えれば人質を出さねばならない立場にあったこととなる。そして四道将軍・吉備津彦とは中央政権が吉備に送り込んだ支配者ということなのである。
吉備下道臣や星川皇子の反乱というのは、応神のような大和にあった吉備・葛城政権を奪い取った政権への、当然の旧王家の政権奪取のリベンジ闘争であると考えられる。
それを証明するかのように、記紀が嫁いだとする吉備の女たちからは、ひとりも大王、天皇になれた子供がいないのである。
3世紀後半の纏向で、吉備勢力はあきらかに巫王であった。証拠は吉備由来の円筒埴輪や弧文である。邪馬台国の「卑弥呼の時代」に、祭祀の中心にいたのは吉備から来た勢力である。

さて鴨別(かもわけ)という氏族が熊襲征伐に登場する。
子孫はのちに熊本の葦北地方の国造になる。
景行天皇や神功皇后の記事にそう書かれている。
吉備氏の系譜では、大吉備津彦が上道臣の祖、若日子建吉備津彦が下道臣、笠臣の祖(『古事記』孝霊)
孝霊天皇の皇子・稚建彦命が吉備臣の祖(『日本書記』孝霊)
御友別の長男稲速別が下道臣の祖、次男の仲彦が上道臣、香屋(蚊屋)臣の祖、三男弟彦が三野臣の祖、そして御友別の弟の鴨別が笠臣の祖となり、御友別の兄の浦凝別が苑臣の祖となる。また御友別の妹兄媛に織部の姓を賜う(『日本書記』応神)

実にややこしいが、これらはつまり吉備に王家らしきひとつの系統はできあがっていないような気配である。伝承がわい雑化しており、統一性がない。これはいわゆる邪馬台国での「共立」体制を示していると筆者は見る。
 
 
さて駆け足であるが、巨大古墳である造山・作山古墳であるが、これを吉備津彦らの古墳と見るかであるが、筆者はこれらの古墳が河内の巨大古墳の系統にあることから見て、応神・仁徳が河内にいった大王ではなく、河内王朝の始祖としての吉備にいて、彼らの古墳ではないかと見る手もあると考えている。
 
 
反乱伝承は常に、勝った側、天皇の側から書かれる運命にある。吉備が巨大な勢力を持ったがために、天皇の怒りを買ってゆえなくも滅びるというのは、蘇我氏の乙巳の変とまったく同じである。
三世紀まで、吉備の政権は大和で崇神の三輪王家を形成した主力であると見たい。考古学的にもそうである。吉備は畿内の王だった。それをよそからきた政権は最初は取り込み、最後は裏切る。つまり王権を奪い取ったというのが正しかろう。それが雄略の時期だったというのなら、それ以前の河内王は吉備や葛城と「邪馬台国のように」共立している仲間だったのだ。とうことは雄略の5世紀末から、ようやく大和朝廷ができあがる布石を雄略が作った・・・もっというならば、河内政権も二転三転した可能性が出てくるのではないか?
 
 
 
吉備は豊(宇佐)と同祖である。
 
 
参考文献 直木孝次郎『古代の動乱』
     森浩一 『敗者の古代史』
 
 
 
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藤ノ木古墳被葬者は崇峻天皇(改葬墓)・蜂子皇子の流離

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敗者の考古学・崇峻の墓は?
 
『日本書記』崇峻記には、蘇我馬子によって暗殺されたのちに「倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬るとしか書かれていない。『古事記』は崇峻が暗殺されたことすら書いていない。記録に該当するのは、
 
赤坂天王山古墳 桜井市倉橋字 赤坂 崇峻天皇「倉梯岡の陵」に該当
である。1辺約 50m、高さ9mの大型方墳。崇峻が死の前からあらかじめ造っておいた墓である。家型石棺正面に方形孔が開けられており、盗掘ではないことから、崇峻死後に内部の遺骸と遺品を持ち出していずこかへ改葬したことを示す。
 
 
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ではどこへ?
 
 
 
藤ノ木古墳 奈良県斑鳩町法隆寺西2-1 崇峻天皇改葬墓に該当?
斑鳩町にあり法隆寺西院伽藍(西里)そばにある。
現在、法隆寺は伽藍中央部を西院と呼んでいるが、これは本来中院で、西院は西円堂のすぐ南にあったと考えられる。藤ノ木古墳はそこから西南へ少し離れたところにある。法隆寺は永年、この古墳を護ってきており、やはり飛鳥寺以来のえにしのある泊瀬部皇子の墓だと見てよかろう。
 
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石棺は側部を真っ赤に塗られており、豪華な副葬品が出たことでよく知られる。
家型石棺の形式と方墳の形式から蘇我氏系天皇陵でよいと考えられる。(馬子石舞台も推古・竹田の山田高塚古墳も方形)
 
 
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おそらく馬子死後?聖徳太子が?崇峻を祭り直したのではないかと考えられる。
 
 
 
崇峻が東漢直駒(やまとのあやのあたい・こま)暗殺されたことを『古事記』は書いていない。ということは馬子が本当に自分の甥である崇峻を殺させたのかどうか定かでないことになる。入鹿暗殺の観念でそう書かれただけかも知れない。
 
崇峻天皇(長谷部若雀天皇・はつせべのわかささぎのすめらみこと)は、舒明天皇と蘇我小姉君(馬子と兄妹)の子供で代十二子。穴穂部皇子と兄弟。息子に蜂子皇子(はちこの・みこ(波知乃子王) 羽黒山の伝承では出羽三山開祖・能除大師と同一と娘の錦代皇女(にしきてのひめみこ))がある。
二人は父の暗殺後、日本海周りで出羽へ逃げたことになっているが定かでない。
 
 
崇峻の葬儀はもがりの儀式すら記録になく、ばたばたと天王山に入れられたらしいが、藤ノ木の副葬品を見る限り、そのあとで丁重に祭られ直したようである。
崇峻時代には飛鳥寺(法興寺)が建設されており、崇峻は馬子同様、海外に目を開いたよい天皇だったはずである。思われているようなまぬけな反逆者などではない。
しかも蘇我の血統であり馬子がそれを殺害したのも疑わしいし、猪をもらって「嫌いな奴=馬子」も殺したいなどと考えたとも思えない。
 
 
 
 
実際に手を下したのは渡来系の東漢氏とされたが、この氏族からはのちに征討将軍・坂上苅田麻呂や田村麻呂という武将・武家を輩出している。しかしながらなぜ馬子が崇峻を殺したかは怨恨記事だけであって、明確でない。なぜ崇峻が馬子をうらむのかが見えない。
 
考えられるのは竹田皇子(推古息子)のいくさでの流れ矢での死が、実はどさくさにまぎれた馬子の暗殺?で、それをうらんだのか?しかし竹田もまた馬子には親族で、殺す理由もなく、むしろやったのなら中臣や物部のほうがふさわしかろう。
 
 
厩戸皇子の聖人化や蘇我入鹿悪人化にともなうなんらかの理由で、あとからつけられた改ざんかも知れない。馬子の石舞台墓があとから土をはがされたのは発掘で明白なので、そのときにつじつまあわせのために馬子も暗躍したことにしたのではないか?もちろん山背大兄の遭難もあとづけであろう。実際には蘇我氏血脈を消したかったのは孝徳や天智や鎌足の側である。
 
 
息子の蜂子皇子についても・・・
 
「崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。
羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。」
Wiki蜂子皇子
 
 
とあって、そのわりに伝えられている肖像がや木像の表情は、あきらかに悪意に満ちて悪人顔である。
 
 
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そもそも大伴氏の娘を母としており、父方が蘇我氏と天皇家である。
このあたりにもどうも敗者に対する『日本書記』の態度があらわに出ていると見える。
 
出羽へ流れてゆくという話は修験道独特の貴種流離解釈であろうが、それを訂正することもなく記紀が取り入れたというところも、どうも蘇我氏らは悪人謀反人の決めつけモードがありありであろう。
 
 
 
 
次回、高松塚と物部氏。
 
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ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・

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菖蒲池古墳
 「菖蒲池古墳は明日香村に数多く存在する古墳の中でも謎の多い古墳の一つである。菖蒲池古墳は藤原京の朱雀大路の南延長線上の小高い丘に築かれておりその丘は蘇我蝦夷、入鹿の邸宅が存在した甘樫の丘へと続いている。横穴式石室を持った古墳で、国の史跡にも指定されている。石室の天井石が露出するほど墳丘の変形が進んでいるためその形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳(その後方墳と断定)だと考えられている。石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明であるが以前に調査が行われ、その結果両袖式の横穴式石室であることがわかっている。玄室の大きさは、長さ6m、幅2.4m、高さ2.5mあり、二基の家形石棺が石室の中心軸にあわせて縦一列に安置されている。
 
 
 
 
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  家形石棺は極めて個性的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられ、本体部分にも柱状の装飾が施され、さらに石棺の内側に黒漆が塗られているなどこの当時の石棺としては他に例を見ない最高級の作りの石棺とされ、被葬者は相当な実力者だったことが伺われる。」
 http://www.ookuninushiden.com/newpage111.html
 
 「立派な家形の石棺が二つ納められていながら、被葬者や規模、形が不明だった奈良県橿原市の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀半ばごろ)が、上下2段に築かれた一辺約30メートルの方墳であることが分かり、同市教育委員会が25日、発表した。
 
 古墳が造られて間もない7世紀末ごろには墳丘の一部が壊され、別の用途のために整地されていたことも判明。市教委は「立派な古墳なのに、被葬者について人々の記憶が新しいうちに壊されている。強い力を持ちながら、後に不遇になった2人の墓の可能性がある」としている。
 
 古墳は大化の改新のきっかけになった乙巳の変(645年)で滅びた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる甘樫丘の南端にあり、周辺は蘇我氏ゆかりの墓が多く築かれた場所との説がある。
 10月からの調査で、下段の墳丘すそ部にあった石の列が南西の角を構成するように直角に並べられていたのが見つかり、方墳であることが判明。ほぼ正方形だったとみられる。」
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112501000540.html
 
 
第一候補 蘇我倉山田石川麻呂 生年不詳 - 大化5年3月25日(649年5月15日)
第二候補 蘇我稲目 (そが の いなめ、武烈天皇8年(506年)頃 - 欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))
第三候補 蘇我蝦夷・入鹿の合葬墓
 
方墳であることはまず蘇我氏で合致する。
そして不遇で、藤原京の主や天智よりも「『日本書記』が格下にしておきたい」大臣クラス。

したがって上記二人のうちのどちらかだが・・・。
 
しかしこの終末期古墳は7世紀中盤の年代が考古学から出されている。家型石棺の様式も稲目の古墳時代のもの(長持型)ではなく、石川麻呂の飛鳥時代初期のもの。つまり稲目の時代の古墳ではない。したがって石川麻呂がもっともふさわしい。入鹿を売って孝徳の宰相となったが、結局天智によって滅ぼされた。
 
 


 
 
 
高松塚古墳
第一候補 石上(物部)麻呂 舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月 22日))近江朝重臣。壬申の乱後天武に寝返る。このとき物部から石上に改名した。
第二候補 弓削皇子
第三候補 滅亡後逃げてきた高句麗系渡来王族
 
 
「ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。

麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。

それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。」
 
 
「『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる」
 
 
「石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司(最高責任者)に任ぜられている。

平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。
 
高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。

 
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する」
以上http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3324.html
 
 
高松塚の壁画絵柄は天文図、八人の官女、北斗七星そして陰陽思想の四神像である。つまり天文トンコウ図ということになる。
 
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またこの墓は考古学上の文武陵であろう中尾山古墳の陪塚の位置(南200M)にある。

文武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。

しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
 
 


 

中尾山古墳 
八角形であきらかに飛鳥の終末期天皇陵である。文武天皇の考古学上の正しい墓だろう。文武は火葬されているので、ここの小型の横口式石槨はそれにふさわしい。
 
 


 

では今の文武天皇陵檜隈安古丘上陵被葬者は誰?
高松塚を麻呂の墓とすればその南側に天皇陵を置くはずはなくなる。『延喜式』(927)には「檜 隈阿古岡上陵 藤原宮御宇 文武天皇 在高市郡 兆域東西三町 南北三町 陵戸五烟」と ある。 江戸期の『阿不幾野山陵記』の記述によって、明治14年(1881)に現在の陵が治定されたが、その根拠は不明。 明治の初めころまでこの陵が天武・持統陵とされていた記録もあり、また、江戸時代中期の享保19年(1734)に刊行された『大和志』では、現在の中尾山古墳が文武天皇陵に比定されている。いずれにせよ藤原京の南側にある古墳は、『日本書記』歴史観では天武関連あるいは天智に反する皇族関係者だと考えてよいように思う。考古学的には栗原塚穴古墳と呼ばれ、山形墳という奇妙な形状。この時代の天皇陵(八角)ではありえまい(ただし江戸期に大幅整備改変された可能性。当時、考古学知識なく天皇陵の形状を山形としてしまったか?)。保留。
 
 
 
 


 
 

さてこうしてみてくると、なぜ天智天皇陵が藤原京の真北に置かれたかが見えてくるはず。まずは鎌足の山科陶原大宅があって、天皇陵の背後の山々が中臣氏の鉱山だったことがあり(これはすでに書いた)、それよりも『日本書記』藤原不比等の歴史観が天智を北極星、最高峰の天子=祖であるという考え方で置かれたことは間違いない。
 
すると藤原京の南側にあきらかに天武関係者や蘇我氏かと思われる墓があるのはなぜかとなる。これは藤原京があえてそこへ置かれたと見るほうが正しい。天武を南に置くことで、持統=天智の娘が天武よりも正統な天子(天子南面す)だとする不比等の考え方である。持統が藤原京を宮城とした最大の理由がこれであり、つまり藤原京は不比等の宮城であるすら言える事になる。藤原の地はもと葛原で、水の湧く湿地である、宮城にはふさわしくなかったはず。そこにあえて宮を置くことは、あきらかに天武格下のイデオロギーである。では持統はなぜ南側の天武陵に合されたのか?これが問題になる。歴史をロマンチックに見たい人には、持統がそれほど夫、天武を愛していたからとしたいところであろう。しかし・・・。持統はむしろあれほど天皇にしたかった息子草壁皇子と一緒に眠りたくはなかったか、という見方もかなりのロマンティックである。

持統の火葬灰は、盗掘者によって銀製骨臓器が道端に放り出されている。これは逆に考えれば、それをやったのは最初からそれが持統の遺灰ではないと盗掘者が知ってのろうぜきだった可能性もないか?
 
 
 

やや妄想が過ぎたようである。今日はここまでにしておきたい。
 
 
 
 
 
 
 
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2070年人類滅亡へのカタストロフィが始まる・人類学者の警告

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安田喜憲『稲作漁労文明 普及版 長江文明から弥生文化へ』より
 
二十一世紀は畑作牧畜民の世紀
「二十一世紀も畑作牧畜民の時代となるだろう。IT革命も、情報のネットワークの構築も、市場原理主義も、畑作牧畜民の得意な分野である。その予兆はすでに始まっている。それはここ二〇年間の世界の牧畜頭数の増加を見れば一目瞭然である。それとは裏腹に、漁業資源は底をつき始めている。二十一世紀、畑作牧畜民が世界を支配する時代に、森の民や稲作漁労民はどのように生き残ればよいのか。」
 
 
この本は世界四大文明の開始が地球の6300年前のヒプシ・サーマル(温度最適)期の乾燥化によって大河流域で始まったことと、それがすべて畑作牧畜民によって開始され、そして滅亡していった歴史を、逐一、データとともに示してある。
 
その歴史は一言で言って、資源を食いつぶしてゆく人類史である。
 
そして今、化石燃料や食料資源を私たち現代人も、まったく反省なく食いつぶしている。
 
 
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「とりわけ二十一世紀の地球温暖化は、畑作牧畜民が化石燃料に手をつけたことが原因となって引き起こされた」
 
 
つまり石油などの資源はアダムとイヴの禁断の木の実だったのだと安田は言う。
 
 
「その禁断の木の実に人類は手をつけ、今、地球温暖化によって人類は楽園としての地球から追い出されようとしているのである。」
 
 
禁断の木の実の神話を作り出したのは、まさに今滅びを推し進めているレバント地域から出てきた遊牧民たちの子孫・・・アメリカ人(世界で一番資源保護に反対している国家)と、そして黄河流域で畑作・肉食をしてきた中国人(漢民族・世界二番目のCO2放出国・注・安田は稲作中心の江南民族とは言っていない)である。
 
ここには東西イデオロギーは関係がない。ともに資源を世界で最も食いつぶし、ともに最もCO2削減に興味のない二カ国である。
 
 
「地球温暖化の対策にもっとも非協力的なのが、アングロサクソンが作ったアメリカであり、漢民族の中国である。アングロサクソンと漢民族はともに畑作牧畜民の代表である。
 
 この二つの畑作牧畜民を代表する人々によって、人類は今や破滅の淵へと一歩一歩引きずり込まれているのである。そのカタストロフィのやって来る時代は、2050年~2070年頃であろうと私は予測している。(安田『巨大災害の時代を生き抜く』2005)
 
一万年前に農耕と牧畜をセットにした畑作牧畜民のライフスタイルを西アジアの人々が確立したことが、人類文明を飛躍的に発達させる起爆剤であった。しかしそれから一万年後に、人類はこの畑作牧畜民の文明によって、破滅の淵へと追い込められているのである。私たちはどうすればこの地球と人類の危機を克服できるのか。それこそが本書の最重要課題なのである。」
「第七章 家畜の民の拡散と世界支配」P210
 
 
 
 
特に日本人や朝鮮半島人にとって逼迫するのが中国である。それも黄河以北のステップを住まいとし、日本人やチベット人やベトナム人という水田稲作民を追い出していった畑作牧畜民である。彼らは、寒冷期に南下してきた蛮族=スキタイや匈奴や蒙古民族の侵入によって、長江中流域に南下し、そこにあった稲作漁労民を追いやってボートピープルにしていった。つまり彼らの遺伝子こそがわれわれ日本の南方縄文人・弥生人に伝わったものである。
 
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日本人の祖先の大きな流れは北方から入ったコーカソイドや新モンゴロイドの混血児と、南方に入った長江漁労民に大別でき、やがてふたつが交じり合って日本人ができあがる。このことは最新の篠田謙一の意見でも取り込まれている。
 
長江からダイレクトで九州や南西諸島や日本海にやってきた人々の痕跡は昨今次々に発見されている(別途記述)。
 
水田は自然を破壊せず、壊しても共生する形をとり、水と森は残す文化である。しかし畑作は焼畑のよって大地を再生不能にし、牧畜は森林を破壊してしまう。その結果が四大文明があった場所の砂漠化と、現代北京や北米の砂漠化であり、まったく同じ結果をまねいていることが明白である。懲りもせず、おろかにも、4000年以上前の人類と同じことが繰り返されている。
 
 
安田の想定では2050~2070年には化石燃料は完全に枯渇し、電気を起こすための燃料がなくなってしまい、人類は枯渇する、あるいは枯渇が絶頂期になっているというのである。
 
それが人類の滅亡へとならぬために、われわれはどうすればよいのか?問題は大国の二カ国が、最近ではロシアも、まったく是に対する対策を無視してることで、これではいくら小国家がまとまってがんばっても、相手にならない。
 
 
 
安田はこれを救うためには、全人類が稲作漁労民に変身するしかないと言っている。
 
 
あなたはどう考えるか?
この問題を解決できている国家は日本である。
だから日本は今、孤立していこうとしているのだ。
 
この問題で世界を仕分けするならば、アメリカ・中国・ロシアは一蓮托生のおおばか国家で、ところがその三カ国が全部、世界一の消費国家となってしまったのである。つまり経済・資源・工業・利便性・肉食を優先する20世紀以来の旧態依然政治では、地球が滅ぶということである。遅れている連中が世界を破壊している。憎まれっ子世にはばかり、そして滅ぼす。
 
 
日本も半分以上、その毒に感染している。
おまけに海を、最も貴重な母なる海を、汚染してしまった。
 
 
あなたはどちらを選ぶか?砂漠か森林か
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砂漠化へ向かえば楽園追放。
 
 
 
 
このブログですでに書いた安田論考関連記事一覧
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土井ヶ浜人の白人形質 山東省臨し遺跡の白人 スキタイの道と長江文明人の船旅と日本人の道

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「2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前、2000年前の臨?遺跡から出土した人骨、及び現代の臨?住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。それによると、約2500年前の春秋戦国時代の臨?住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨?(りんし)住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨?住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。これによって、古代の「中国」の住民を構成した人間集団が現代の中国人集団とは異なる集団を含んだ多様な構成を示したのではないかという仮説が浮上してきている。」


ここにある臨し遺跡とは山東省にある。


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「「弥生人」を中国史に位置づける

最後の部分を引用。
> 一九九四年一月二六日ニュース報道。山口県豊北町の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアムの松下孝幸館長(形質人類学)らが、山東省文物考古研究所を訪問。同省の遺跡から出土した前漢時代の古人骨約七十体について、顔の長さ、幅などを計測し、北部九州や山口県で発掘された渡来系弥生人骨と比較したところ、八割以上で顔の長さ、ほお骨の厚さなど主要な値が一致。骨から推定した平均身長も渡来系弥生人(男性一六三センチ、女性一五〇センチ)とほぼ一致した。

 一九九六年一〇月一九日、日本人類学会・日本民族学会連合大会発表。東大理学部の植田信太郎助教授(人類学)らは、約二千年前の中国・山東省臨錙(りんし)の遺跡から出土した人骨と、同時期の詫田西分遺跡から出土した人骨のDNAを分析し、遺伝子の配列が特定の部分で同じ人がいることを確認した。

 一九九九年三月一九日ニュース報道。江南人骨日中共同調査団(山口敏・東京国立科学博物館名誉研究員が団長)は、江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、歯を調査。特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較。結果、春秋戦国時代人と前漢時代人は弥生人と酷似。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致した。」

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臨しの白人系つまりコーカソイド遺伝子に近似する遺伝子の持ち主は、筆者はおそらく北方から回ってやってきたスキタイが持っていた遺伝子ではないかと想像している。この遺伝子が日本の日本海側にやってくる。それが秋田県民などがしきりに言い募ってきた「白人の子孫」の発祥のルーツだとつきとめた。

山東省の2500年前のりんしの人の遺伝子が、人骨から得られたミトコンドリアDNA分析の結果その65%までが白人だったという結果が出たわけだ。そして、しかも地球乾燥化によって北方民族の侵略を受けた黄河文明の畑作牧畜文明人たちが長江中流域の稲作文化地帯へ南下したために、河口部へと追い出されていった長江文明人と同じように、彼らりんしの白人形質を持つ人々もまた「黄河人によって差別されて」しかたなく東シナ海から対馬を抜けて日本海山口県の土居が浜に移住したのである。

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長江の越文化人たちは東西南北へ四散しただろう。
そのうち南下したのが今の少数民族たちである。ミャオや苗やイ族である。
さらに山東省南部にあった越人は、インドシナのベトナム北部に入り南越を建国したが、中国の圧力で南越の国名を禁じられ今の越南(ベトナム)に国名を変えて定着した。

同じ基層遺伝子は日本の縄文人も受け継いでいる。
これが日本海の越前・越後の「えつ」のルーツではないかと安田喜憲は妄想している。
あながち否定しがたい。
「えつ」はしかし日本では「こし」から来ており、「こし」訓読を音読しただけかも知れないが。


こうして日本海側のコーカソイド形質の謎は解けたことになろうか。

それにしてもその道のりは、なんとスキタイの発祥地である西アジア、カスピ海・黒海・アラル海まで遡るのだ。人類は西アジアのシリア周辺で最初の枝分かれをする。そして騎馬遊牧民となった人々は欧州の東側を抜けるときに白人やトルキスタンとの混血をしながら(ヘラクレスもそうだ)、エベレストを右に眺めながらバイカル湖まで到達。ここで北方系アジア人の元ができあがる。彼らは寒冷化で南下して、一部が北海道経由で東北縄文人となる。一方中国から南下したものたちは「船の技術を手に入れ」東シナ海を長江河口部から船出して日本にたどり着くのである。



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もちろん古い形質のままの長江人(彫りの深い古モンゴロイドたち)もまた、船で日本海を北上して中にはそのまま陸風されアイヌとなったものもいたことだろう。



日本人はるかな道・・・
それは決してひとつではなかった。



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白人遺伝子の来た道

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「2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。
 
約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。
 
 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。
また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。」
http://www.amezor.to/shiso/080907143515.html
 
 
 
 
 
「【北京29日傍示文昭】29日付の中国各紙によると、陝西省西安郊外にある秦(紀元前221―同206年)の始皇帝陵の副葬墓から出土した約2200年前の人骨が、ペルシャ系とみられる20代の男性のものであることが分かった。古代中国と古代ギリシャ・ローマとの間に開かれた陸上交通路「シルクロード」ができる前に、中央アジア以西の民族が中国中部まで入っていた事実が明らかになったのは初めて。専門家は「従来の学説より約1世紀早く、東西交流史を塗り替える発見」と指摘している。
 
■2200年前のDNAを鑑定
 28日、中国・西北大の考古学者らが明らかにした。発表によると、副葬坑は2003年、等身大の兵士像などで有名な「兵馬俑(へいばよう)博物館」から約500メートル離れた場所で見つかった。陵墓建設に従事した労働者を埋葬した墓とみられ、約50人の遺骨を発掘。一部をDNA鑑定した結果、一体はペルシャ人かクルド人と同じ遺伝子を持つ男性であることが分かった。
 
 これまで、古代中国と中央アジア以西の民族の接触は、秦の後の漢代以降に始まったとみられていた。研究者は「西方から強制的に連れてこられて陵墓建設に従事させられていた可能性もある」と指摘している。
 
 陝西省考古研究所の段清波研究員は「シルクロードができる前に、すでに東西交流が行われていた可能性もあり、東西文化の交流史に大きな意義がある発見だ」と話している。
=2006/06/30付 西日本新聞朝刊= 」
 
 
 
 

「はるか昔にコーカソイドが北京の東まで来ていたという。河北・遼寧・内蒙古あたりに紀元前6000年頃の興隆窪文化、前4500年頃の趙宝文化、前3000年頃の紅山文化と呼ばれる龍と玉の文化があった。そこで碧眼の象嵌をした女性(女神)像が出ている。コーカソイドとモンゴロイドとの混血人により「龍」の文化がうまれたのである(安田氏の本を以前紹介した)。
 
 中原の文化の代表である前4000年頃の仰韶文化も、西域の影響を受けた彩陶に特徴のある文化であった。元々、旧石器時代に黄土高原には人が住んだ形跡があった。しかし旧石器時代の末期には2000年間の空白期がある。この間の紀元前6000年頃は、黄河中流域の磁山・裴李崗文化と呼ばれる粟の栽培に特徴のある文化があった。再び黄土高原に住めるようになり西域からの影響を受けて麦作農業となったものが仰韶文化である。先に書いたように前6000年には東北地方までコーカソイドは来ていたのであるから、より西域に近い黄土高原にも当然入っていたのである。埋葬も頭を西を向けている。」
 
 
 
「1985年、紅山文化に属する遼寧省西部の凌源・建平の県境にある牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡で、紅焼土に埋まった堆積層から、珍しい「女神廟」と積石墓群が発見された。今から5575±110年前の数価を持ち、問題の女神廟は遺跡の最も高い場所にあり、数多の泥質彩塑女神像や動物塑像のほか、この地独特の彩陶の祭器や建築材なども見つかっている。

それらの中でも特に注目されるのは、廟の円形主室の西側で発見された一体の彩塑女神の尊像である。総体的に見ると、方円形の平たい顔で、頬骨が突起し、目は斜めに吊り上り、目のくぼみは浅く、鼻すじは低くて短く、鼻先と鼻翼はは円頭状で低平であり、鼻孔はやや上に反っている。

以上の容貌から明らかなように、モンゴロイド系人種に属するものと判断されている。ところが女神像の目は驚くことに青い玉がはめ込まれているのである。そのことをどう理解したらよいのであろうか。」
『古代中国と倭族』鳥越憲三郎
 
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「中国当局は、遺伝子検査の結果を受け入れて、中国のタリム盆地で1980年代に発見された、4000年前の貴婦人のミイラと3000年前のミイラをコーカソイド(白人)と認めた。この地域やってきた人類はこの白人が最初で、東アジア人より1000年も前のことであった。
 
中国当局は当初この結果を認めるのを躊躇していた。その理由は政治的なもので、新疆ウイグル自治区の最初の人類は白人ということになると、イスラム分離派に理論的根拠を与えるというものだ。
 
ミイラと関わってきた西欧の科学者Victor Mairは、「現代のDNAと古代のDNAのテストの結果、ウイグル、カザフスタン人、キルギス人などの中央アジアの人々は、東アジア人とコーカソイドの混血である」という。
 
中国から出た最初のコーカソイドのミイラは、Yingpan Manという2000年前のもので、東京江戸博物館に展示されたという。」
http://icke.seesaa.net/article/3245364.html
 
 
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東トルキスタン中央部、天山山脈と崑崙山脈に囲まれた大盆地・タリムのタクラマカン砂漠地下から、大量の遺骸が出土したのは2002年のことである。
さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。

ローランではすでにコーカソイドの家族のミイラが出土していた。
ここは人種の交差点。それはすでに古代から存在した。

 
 
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古墳探訪・大分市松岡 小牧山古墳群

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久しぶりの古墳探訪である。
地元大分市東部の小牧山古墳群。

住所 大分市大字松岡字池の上 京が丘南二丁目

京が丘南団地の東側の丘陵上に7基の大小古墳がある。
6号墳が手鏡形、7号墳がばち形の前方後円墳で、ほかは円墳などで、時代を経た、ある一族の墓と見られる。

眼下に大野川が迫り、おそらく海からの津(港)があったはずである。地名にも津とあった。

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サッカーJ2の大分トリニータのホームグラウンドであるビッグアイドーム(大銀ドーム)のすぐそばである。



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4世紀後半から順次造られた九州でも最古級古墳群である。
6号墳からは銅矛、7号墳からは内花文鏡などと、円筒埴輪に似たものが出ている

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豊前から豊後の佐賀関にかけては、同一の、天武期までに海部となる一族の古墳が、海岸線に点在するが、ここも同族であろう。

亀塚古墳・築山古墳などと同じ、竪穴式組石石棺が墳頂にあり、その石は佐賀関産緑泥片岩である。


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この緑色の石を使う氏族は、瀬戸内北四国・吉備~紀州北部紀ノ川沿線まで、中央構造線に沿って点在する。このライン上だけで産する石である。つまり海人族であることはあきらか。残念ながらここの石材は長い年月の間に四散し、ふもとの白髭泉水や近くの神社仏閣に分散して保管されている。写真は白髭のもの。

それも豊前から、別府湾~北海部までは吉備と同族であると考えられ、吉備王国系の氏族がすでにここ豊に、4世紀までに来ていたのだと思える。



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豊国の海部は尾張よりも遅れるというのが定説で、5世紀後半以降とされるが、その前身はすでに4世紀後半にあったと見ている。その証拠が北海部群にひろがる4世紀の竪穴式と組み合わせ型石棺なのである。


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なかなかきれいに整備された「森つき保安林」であった。





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息長は「シナ」と読む

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■オシサカとシナガとオキナガ・長い風 
「忍坂には天智天皇・天武天皇ら父の息長足広額天皇(舒明天皇)の墳墓とされる古墳がある。 すなわち息長氏の大和での拠点のひとつであった。 西側に神武天皇伝説の鳥見霊畤の候補の一つである鳥見山があり、その東が安倍であり、神功皇后の磐余宮の伝承もある地である。 忍坂は安倍地域の後背地としての墳墓の地域であったと言えるのかも知れない。隠り国にふさわしい長谷の地に見える。

この地から真西に河内まで出ると太子町であり、科長神社が鎮座している。 王陵の谷の磯長谷の奥である。科長神社は二上山上の風神を祀っていた神社を土祖神社に遷座して覆い被さったものである。 土祖神社の祭神は息長宿祢・葛城高額媛で、息長足姫(神功皇后)の両親とされる。やはり息長氏の拠点と言える。 
科長と書くから「シナガ」と読むが、元々風の神は古事記では志那都比古神で、
「シナ」である。
 息長は「オキナガ」と読まれるが、「オキナ」かも知れない。」

ちなみに日本語の老人をさす古い言葉の「おきな」とは長生きした人で、その意味は「息が長い」である。息とは寿命が長い場合や、あるいは現代では長期間存続したという意味にも「息が長い」と使うわけで、息=生きるは同根であろう。
ならば息長は長生きであり「おきな」の意味にもなる。

さらにはフイゴの風も息とか息吹と呼んだ。「ふい」は風、息で、「ご」は道具などの語尾につく「子」であろうか。すると地名呼子を思い出す。風が呼ぶ土地で今の佐賀県唐津湾である。ここは往古は東アジアからの最初の港だったと「魏志」は書く。「からつ」も海外からの港という意味の地名であろう。奈良の唐古なども外国人が多かったという地名であろうか。おそらくは唐津経由した中国江南からのボートビープル由来であるか?



「しなが」科長は「し・な」に区分けでき「し」は風、「な」は長いの上代古語である。
「息長」の「息」は「いき」「おき」「し」と同意で、風が長く吹く、あるいは息が長いという意味なので上代では「しな」である。

科長の地名は息長の土地だったという意味になろう。
ということは息長も「しな」「しなが」と読んでもさしつかえあるまい。


神武東征神話の根幹に息長=天智・天武・持統の祖の事績、あるいは伝承が多分に影響したであろうことは否めない。それは海人族だった「しなが」の人々の西から東への移住の歴史でもある。

「しな」は、遡ればおそらく江南からやってくる長江文明の人々をさす言葉、やも知れぬ。(まだ確定はできまいが・・・)

中国を「チャイナ」と呼んだのは欧州人であるが、そのもとは定説では南朝の開闢の元である秦「しん・チン」であるいうのが定説であろうが、ではChin{Qxin}の語尾になぜ[a]をつけてしまうのか?

WIKIの解説ではこうなっている。
「紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。一方ギリシアでは紀元前後から中国をシナ(Θηνα)とよぶが、これは秦に由来する。ポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶが、発音は日本とは少し異なり、シーナである。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。」

「インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。

そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。」



ここには一切「しな=長い風」に当たるような地名解釈はない。地名そのものの梵語における意味はなにか?チーナはシンタン国=震旦、のちに秦国で、スターナは~の国、土地という意味である。ここでもやはり肝心の「チン」にはなんの意味もない。



■「チン」にはどのような意味があったのだろうか?


「呼吸」
日本語の息をさす用語「呼吸」は中国語では「吸呼」と文字が逆転するが、発音は「フー・シー(チー)」である。シーはチーとの中間くらいの音になる。

「息」は「チュー・シー」で「気息」と書くが、やはり息は「シー」と発音する。
「長い」は「チャン」ないしは「ジャン」。



■なぜ「秦国」になったのか?
「秦人の発祥は甘粛省で秦亭と呼ばれる場所と伝えられ、現在の天水市清水県秦亭郷にあたる。秦朝の「秦」はここに通じ、始皇帝は統一して、郡、県、郷、亭を置いた 。」
秦亭村は非子の馬牧があったところである。


古代インドの呼吸観では「仏教を生み出したイ ン ドの風土における呼吸観ならびに実践の伝. 統が如何なるもの ... 物カゞ展開するのであるが, その息が風となる」とある。




考えうることは東洋においては、風=息=呼吸であり、中国語の語幹にはみな「チン」「シン」が使われ、かつて秦の地を震担と呼んだのも、もともとは「風の強い土地」だったからのようである。従って息長の意味も「風の強く吹く」その心は中国南朝・・・それ以前の長江文明海人由来であったとしたいところである。


息長氏の由来はこういう伝承があっての氏族名ではあるまいか?
「おきなが」「おきな」「しな」「きなが」と読めるが、大元はどうも「しな」だった可能性がある。長江中流域→河口部→有明海あるいは五島列島→玄界灘→出雲→古志→近江から拡散した海人族(江南系倭族)であろう。



次回、中国少数民族の太陽信仰について、田中勝也の本を久しぶりに取り上げてみたい。科学性はやや乏しいが、面白い着想の民俗学的論考もたまにはよかろう。



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ミャオの太陽伝説・その1

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「かつて太陽と月がひとりの戦士に弓矢で射られた。日月は恐れをなして姿をくらまし、世界は闇に閉ざされた。人々は日月を連れ戻そうと相談。

「誰の声がこの世界に響き渡り、太陽を呼び戻せるだろう?誰の声が大きくて、月を呼び返せることだろう?」

するとある者がこう言った。

「雄鶏(おんどり)の声がよく響き渡るので太陽は戻ることだろう。さすれば月も一緒に戻ってくるだろう」

そこで人々は雄鶏を鳴かせてみた。四、五回雄鶏が鳴くと、太陽は三十尺の高さまで現れた。さらに何十回も鳴かせると、太陽と月は空の端から高く上がった。太陽は「あれはわたしのいとこの雄鶏である」と言った。そして雄鶏にむかって、

「私はおまえに感謝する。何か御礼をしたいが何も持ってはいない。ここに私の銀の櫛があるからこれをあげよう」

と言った。

雄鶏はその櫛を受け取って巣に戻ったが、それをさす髪の毛がなかったので櫛の歯を上に向けて頭のてっぺんに飾った。こうして雄鶏は夜明けを毎日告げられる鳥になった」



銀の装飾品は今もミャオの女性の衣服をかざる重要な魔よけ、豊かさの象徴である。

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銀には魔よけ、避邪の力があるとされている。

日月を射る神話は中国少数民族共通のもので「射日神話」という。

雄鶏は太陽の使い(いとこ)である。

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なぜならば雄鶏の鶏冠(とさか)が太陽のコロナの形状をしているからである。
その形は銀櫛の形でもある。







「ナ・ボ・ノ・コという女がいた。手に針を持ち、糸を通して、空を縫い合わせようとしていた。縫っている間、空は動いた。彼女は天帝ンツイの天宮から縫いながらやってきた。九日のあいだ、彼女は九つの空の道を開いた。そして妹の太陽を外に出した。妹の太陽は穴を通り抜けて外に出てきた。妹の太陽はルアン・ボの部屋を明るく照らした。妹の太陽はまた穴を通り抜けて、今度はルアン・ジェの部屋を明るくした」




太陽は女で、ミャオの女の妹である。

ナ・ボ・ノ・コという女は巫女であり機織女である。




巫女が太陽の姉であり、それを空から出し入れできるとは、伊勢の巫女神アマテラスが太陽を司り、それを斎王である巫女がその食事を司るという形式によく似ている。そして太陽を戦士が落すというのも、男神である大物主やスサノヲが、太陽神アマテラスやその巫女や機織女に災厄をなすことに似る。




落されたのは太陽だけであるはずなのに、村人たちの話ではなぜか月もろともに消えたことになっている。太陽と月、つまり日月(ひつき)はセットだということになる。そして月神とはほかならぬ、太陽を射落とした男の戦士なのであり、つまりは月=スサノヲ・大物主だということになろうか。


儒教成立前後の時代、中国では男が陽、女は陰とされてきたが、ミャオたちの間では巫女=支配者=王であり=陽であると思われる。

ミャオなどの少数民族は、かつては長江の王である。しかるに魏志などの史書が、倭人を述べるに夏華(かか)と同じか?などとしきりに書く。またエイ州に風俗が同じかとも書く。つまり倭人は彼ら長江の風俗に似ていたのである。




遺伝子的にも、実は彼らの血脈はわれわれ日本の中にいまだに隠されている。







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