引用文「ピーターパン症候群」
「昔、当世でこんな言葉が流行ったのをご存知だろうか?
「ピーターパンシンドローム」
なかなか大人になれない・・・・いつまでも子供のままでいたい・・・・そんな男子を指して言っていたような言葉だったが、明日は成人式・・・・年々成人としての人口が減りつつあるこの日本! 逆に昔ピーターパンと言われた人口が増えていくんだね!!ピーターパンシンドロームに対して、女性にも夢見る少女が抜け切らない事を表したシンデレラシンドロームなる言葉もありました。
い つか王子様が・・・・
みたいな幸せな夢をみている少女の気持ちを持つ女性に当てた言葉・・・・
いくつかの
専門用語には認定されていないが、通俗的に理解度が高い「症状」が上げられている。
1 ピーターパン・シンドローム(症候群)
ピーターパン症候群(ピーターパンしょうこうぐん)またはピーターパンシンドロームとは、1983年にアメリカの通俗心理学本作家ダン・カイリーが著した『ピーターパン症候群』(原題:Peter Pan Syndrome)で提唱されたパーソナリティ障害である。「誰でも持っている問題の一種」であり、心理学・精神医学の正式な用語ではない。従ってアメリカ精神医学会出版の「精神疾患診断統計マニュアル」には記載されていない。
大人という年齢に達しているにもかかわらず精神的に大人にならない男性を指す言葉。 カイリーは著書の中で、ピーターパン症候群は「成長する事を拒む男性」として定義されている。また同作家は、これに関連して『ウェンディ・ジレンマ』(原題:Wendy Dilemma)も1984年に出版している。(Wiki)
2 シンデレラ・シンドローム(コンプレックス・症候群)
シンデレラコンプレックスとは、男性に高い理想を追い求め続ける、女性の潜在意識にある「依存的願望」を指摘したシンドロームの名称。童話『シンデレラ』のように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けている、としてこう名付けられた。
米国の女流作家コレット・ダウリング(Colette Dowling)が1981年に提唱した概念。ダウリングは著書において、「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態を「シンデレラ・コンプレックス」と表現している。幼い頃から女性の幸せは男性によって決まると考え、シンデレラのように理想を追い求めるも、主婦をやっているうちに自主性を見失い、結果的に夫に依存し自由と自立を捨ててしまうとされる。
女性の自立を拒む要因の一つとして、「白馬を駆る素敵な王子様がどこからか現れて、迷える女の子である自分を救ってくれる」という幻想に取り付かれていることが原因である。
加え、シンデレラ・ストーリーへの本能的ともいえる憧憬は、裕福な家庭に生まれた女性が『シンデレラになるための条件[1]を生まれつき持てなかった』といって両親を恨むという、そうした事例が有り触れたこととして語られるほどに、洋の東西を問わない普遍的な現象として認知されてきた。(Wiki)
大別すればいわゆる「大人になれない(なりたくない)症候群」だと言えるだろう。
責任と信頼を要求される大人社会と自分を、一線を画して自己擁護していたい、自分を正当化したいという現象である。大人(責任)と子供(無責任)の中間にいる昨今の高校生~大学生~大学院生~初期社会人などに多い。
一方で、中高年の大人を経験してきた中で、大きく挫折を味わった人々の中に、似たような願望が昨今では生まれており、中高年「ニート」などを生み出してもいる(Kawakatuもその部類だろうか?)。この場合、従順に社会になじんできた中で、理不尽な挫折があり、まるで卓袱台を引っくり返す星一徹のごとくにわがままを言う、言いたい中高年となり、きわめて危険。^^;
例えば小保方晴子はどれにあてはまるだろうか?
彼女は研究者としてあってはならない、冷静で客観的であるべき研究を、子供のように鋭いひらめきと、正反対に子供用に無邪気な、悪意のない?夢見るような、世間から認知されたいという願望を、現代の大人と子供の中間的年齢である30代で発露させた。突如、彼女の中に世間にいいかげんに認めてほしい願望が出現したのである。これは上のどの願望にもない、どちらかといえば中高年の挫折・失敗を止揚させようとする代償行為に近い。で、これをとりあえず「リリパッド・シンドローム」とでも呼んでおきたい。
リリパッドとは童話に出てくる「こびと」である。
大きくならない妖精・妖怪。
伝奇的漫画家・諸星大二郎の作品『子供の王国』で「リリパッド計画」として登場する。精神的子供を維持させようとするものである。大人になりたくない、そういう社会人が体を子供にし、会社で遊んでばかりいる。それが増えて、むしろ子供であるほうが認められる社会へと変貌する恐怖を描いている。
生きている世界が自由で、開放的な先進国に多い症候群である。
責任回避。孤立。ニート。おたく。
などはみなこれに含まれる。
いずれにせよ世間一般の常識的大人像から切り離されたい、自分は特別、いつかは花開く・・・などなどは、成功例では晩年に大成する作家・歌手・芸術家などにも多い。
抑圧と開放があまりに極端に訪れるために、抑制がうまくいかなくなり、ジキルとハイドのように、双方が出入りする現象が多い。分裂症の軽度なものかと思う。
最近の筆者が経験した事例で、あるスーパーの女性従業員の例がある。
この人は20年近くそのスーパーで働くパートタイマーであるが、常は抑圧的社会生活に準じておとなしい。かなり美人だがほとんど目立たない。顧客と視線を合わせることができない。嫌いなお客が来るとできれば逃げ出したい。そういう人柄の田舎のシャイな女性である。
ある日、筆者がたまたま店内で近くにいた彼女に、いくつかある入り口のひとつがあいていない、鍵がかかっているので、あけてほしいと頼んだことがある。すると彼女は、一瞬たじろいだような、逃げたいような、助けを求めるようなしぐさを見せつつこう言った。
「入り口は●●係りがあけているはずなんだけど・・・」
こういう物言いを客にするというのは、いわゆる社会的な大人の責任をほかの従業員と共有する立場の人が言う言葉でないのがおわかりだろうか?入り口が開いていない責任は自分にはない、ということを言わずもがななのに、まず最初に言っておきたい性格だということである。しかし顧客にとって、外部の人間にとって、そんなことは実は内部の事情であり、なんの意味も持っていない。顧客は開いていない入り口をあけてほしい、つまり行動だけを望んでいる。こういうことを言うと、相手はまず激怒することとなる。
また、ある食品会社に、取り寄せたい商品について問い合わせたとき、電話の向こうの相手は、いろいろ説明、こっちはそれを父親の代から愛用していて、どうしてもほしいのだと伝える。すると何を思ったのか感謝の言葉のあと、相手は延々と自慢話を始めてしまった。電話はこっちからかけているのである。しかも遠隔地。やれ今度NHKでテレビ放映があって、なんとかいう作家が取材に来て、これこれこういう料理に当社製品が使われ・・・・。「そんなことどうでもいいわ」がちゃん。
当然、この会社から取り寄せるのはやめて、他社を選んだ。
電話が遠隔地からで、しかも顧客側が電話してきた・・・そういうことへの配慮が皆無の大人。
そんなやつがいる会社にろくな商品が作れるはずはない。案の定、次に電話した会社は、製品の値段もぐっと安く、懇切丁寧に送金と商品の交換手順を案内して終わった。つまらぬ自慢話は皆無だったし、愛用の事情にも実に理解が深く、ではなんとかいたしましょうという態度で応対した。
顧客はそれを望んでいるのである。
これらもリリパッド症候群の一種ではないかと思う。
最近は論文のコピペは常識だそうで、若い人はそれを間違いだと強く大人に教わらないまま育ってしまう。受験そのものすら丸暗記なのだから、当然、そうなるべき状況だったのである。それは何も今に始まったわけではなく、数十年前から、もっと言えば戦後すでにそういう傾向は始まっていたと言って良い。戦前・戦中の軍部の理不尽な制圧的思想弾圧があって、戦後の開放がおきたために、わがままもまた自由に横行できるようになった。学校では教育ママからモンスター・ペアレントへの変貌が起きた。教育ママにはまだ、子供のしつけや学習向上という学校への要望があり社会的であったが、モンスターペアレントの場合は、単なる自分がしたくない、押し付けたいだけが要因で、ただのわがままであり、社会性の放棄が存在する。つまりリリパッド・シンドロームである。
漫画ではリリパッドの首謀者たちを大人の男がつきとめ、殺そうとしたところを見られ、逆に第三者の「子供を傷つけるのは犯罪者」という古い価値観をまだ持っている通行人によって狙撃されてしまう。映画でもこういう理不尽な死はよく使われる。結局、リリパッドになることにさまざまなリスクが起きて、問題となり、社会現象としてのリリパッドブームは静かに終わり、撃たれた男の危機感は成就する。
小保方さんはそういう現代病の最たる事例として「夢からいかにめざめてくれるか」という大人たちの期待の目で見られているという、きわめて特殊で面白い現象だと捉えている。
福島原発の津波被害後の東京電力幹部の中にも、似た様な責任の回避、たらいまわし的な発言が多々あった。分科科学の最もあやういところがそこにはある。それは官僚体制のたらいまわし、医者のたらいまわし、と同根であるし、やがてそこから責任を負わせる個人というスケープ・ゴートを捏造する温床なのである。最初から特攻隊役のチンピラが飼われているやくざ社会のほうが賢いとさえ言える。
世の中には、AかBか、一事が万事の考え方(これも古くからある病気)でこの事件を見る人もいることだろう。やっぱりうそつきだったんだ、最初から怪しいと思ったとか・・・。同性のものにはやっかみの心情もあるだろう。しかし人生の挫折を知っている大人はそうは考えない。長いスパンで考える。数十年後、再び彼女が復活する大発見はないとは言えないからである。ないだろうとは思えるが・・・。
あまりにも欲望が深い。あまりにもストレートで子供じみたことを、アカデミズムがやってしまうと、傍観者はどうしてよいか判断がつかなくなりがちである。だからこういうことはある程度時間が過ぎるのを見ておくほかはない。最大の問題は「シンデレラを夢見る少女」の欲望を、監視できなかったアカデミズム内部構造にこそある。これだけはまず改善しておかねばなるまい。
そもそもアカデミズムというものは、学界というものは、閉鎖された、狭小自由空間であって、それを監視するものがいなければ、すぐに大戦争に直結する発明や、オウムのような殺人兵器製造の温床となる。ばかと天才は紙一重なのである。
責任は全日本人にある。国力低下してうそばかりになってしまえば、中国と同じである。まして日本への国際非難の元にもなる。
国家はひとつの運命共同体である。国民がだめになれば当然国家もだめになる。小保方晴子はそういうアカデミズムが内包させている危険性の顕著な一例でしかない。常に責任は個人に背負わせるものでなく、共同体が分散して責務を肩代わりしてやるものでなければならない。そうでないと、個人はある日、突然自殺してしまう可能性がある。
右だ左だ、●だ×だとはっきり言える権利は、司法以外に存在しない。戦後の「朝鮮人が火をつけた」的風聞を流す大元になるような行為はつつしみたい。そういうサイトにも近寄るまい。知人にそういう行為があればすみやかに縁を断ち切ったほうがよいだろう。インターネットとは知らぬ同士が和気藹々やれなくなったら終わりである。去るものは追わず、来るものは厳選しよう。そして心の中には、常にその人が変わる可能性も否定しまい。子供はやがて大人になり、常識を知るようになる。ならない人ならやがて因果の応報がある。必ず、言ったことは自分に帰ってくるものだからである。すくなくとも祖母や祖父からそう言われたことを信じてこれた時代はよい時代だった。今は情報が多すぎる。人々は自分自身の判断すらわからなくなっている。戦争はこういう時代に多発してきた。
それこそが恐怖。
この章にコメント無用。
次回から「風の世界史」その2 イスラム・インド・インドシナ
そのあと、吉備下道臣・星川王の反乱を扱う予定。