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『契丹古伝』・古代史原論 田中勝也/著 『契丹古伝』と太陽女神

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『契丹古伝』浜名寛祐=著  
「日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられた。もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるという。これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に『契丹古伝』(日韓正宗遡源)を発表した。本書はその復刻である。


『契丹古伝』は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていた。そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難であったが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定される。


 浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。


 古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。


『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。また『契丹古伝』は、本州と九州がかつては陸続きであったが人工的に開削されて海峡となったことや、ゴビ砂漠にはニレワタとよばれる幻の湖があったことなど、超古代の地形の変遷についても特異な伝承を伝える。


 さらに満洲にオロチ族とよばれる呪術をよくする異民族がいたことを伝えるが、これは『上津文』に登場するオルシ族ではないかと思われる。また鳥人・熊襲族が沖縄・南韓へ侵入したという記述や、匈奴・扶余・高句麗などの騎馬民族国家の成立、倭国と古韓国との交流、馬韓にあった邪馬台国の伝説など、環日本海文明の存在を伝えるきわめて貴重な伝承の宝庫として、今後の再評価が大いに待たれる異色の超古代文献である。


 なお、スサノオが大陸を経綸した霊的消息については「霊界物語」にも伝えられ、王仁三郎の入蒙問題とも関連して注目されるところである。」
 
 
 
 


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契丹人
 
 



古代史原論 田中勝也/著 『契丹古伝』と太陽女神
「数十年後、濱名が原本の写真撮影を試み再び黄寺を訪ねた時は、すでに原本はなかったという。現在もその行方は不明で、濱名写本も広部写本も行方が分からないらしい。『契丹古伝』自体は、10世紀初頭に成立した契丹国の耶律羽之が、941年に撰録したものとされる。契丹族は内蒙古シラムレン河畔にいたモンゴル系遊牧民であるが、916年、太祖耶律阿保機が皇帝となり、周辺の諸族を併呑し、渤海国を滅ぼし、北方大帝国を形成し、国号を「遼」と称した。

契丹は渤海国を支配し、耶律阿保機の長子耶律倍が王位につき、東丹国とした。『契丹古伝』撰録の経緯は、太祖が東閣に登り、太陽を拝すると、朱色の鶏が飛来し城郭の上を飛んだ。太祖はその行方を探索させたが、みつからなかった。ふたたび朱鶏が顕れ、その行方を追うと近くの山で霊石を得た。太祖はこれを喜び、「わが先祖は神祖奇契丹燕より出たもので、いわゆる炎帝である。五原の地を回復せずんばご先祖さまにあわせる顔がない」と言って、神廟を建てて自らこの霊石を奉斎した。

耶律羽之は『秘府録』『費弥国氏洲鑑』『神統誌』『辰殷大記』『耶摩駘記』『洲鮮記』などの諸書を参考にしている。これらの古伝の多くは旧渤海国系のものと推定され、契丹古伝中の固有名詞の音借表記は契丹音なのか渤海音なのか音価の同定が著しく困難であるが、日本古語による解読を許容すると推定される部分がかなりあり、濱名もそこに注目した。

太古に日孫(神祖)が鶏に乗って長白山に降臨し、中国五原に広がり分拠した。堯・舜・殷すべて東大神族系であったが、「海漠象変」といわれる天変地変のために西族が侵入、やがて周が起こり、殷は滅ぶ。武伯・智準の二大勢力は股の一族を奉じて国を保つが、戦国時代になり秦や燕に圧迫を受け、朝鮮半島に退却するが、その後、満州の地に「辰殷」として再興する。しかしこれも秦に圧迫された燕人・衛満に滅ぼされ、「辰韓」の地に奔る。いわゆる「辰王朝」である。

高句麗が滅んだのち、ツングース系の靺鞨の王祚栄が高句麗の遺民とともに朝鮮半島北部から満州・沿海州におよぶ渤海国を建てる。渤海国は振、震とも称したが、これを「辰」を継承したもの理解するならば、渤海を滅ぼした契丹は、渤海の伝承を骨格に契丹古伝を編纂し、中国史も一目置く「辰」につながる王権を主張したと言われる。

契丹の祖神・奇契丹燕は、「耆麟馭叡」という神格の別称とされ、耆麟馭叡阿解は、神祖の子であるが生まれつき頭上に刃角を有する異相であり、長白山を治めるよう命じられ、山神となり禁呪二十四法を制した。つまりは、「曹麟駆叡」は東大神族の至上の聖地を守る神であり、その末蕎である契丹族もまたその聖地によって東大神族を再興すべき民族であるという主張がある。

長白山は韓民族の祖とされる檀君降臨の聖地である。異相の神耆麟馭叡は牛頭天王を連想させ、この伝承はスサノオ・檀君説を背景に読めば、非常に興味深い。スサノオを名乗る出口王仁三郎の入蒙はこの書刊行の五年前、大正10年。『契丹古伝』中の固有名詞は倭語で解釈できるところが多いらしい。

この書は「新装増補版」で血統幻想に支えられた天皇氏の源流を辿る。正直言ってもうひとつわからない部分が多い。しかし、この著者の基本姿勢には全く反対する気がない。というのは、ほとんど偏見や予断がないと思うからである。最後の捕逸に著者の真摯な姿勢を見ることができる。なかなか評することが難しいので以下目次を掲げる。」

+++++++++++++
古代史原論[『契丹古伝』と太陽女神]*目次
 はじめに  1
    *
第一部 太陽女神と鶏祖の国
   一章 太陽女神の誕生  10
   二章 『契丹古伝』と辰の時代  43
   三章 辰の天孫伝説  79
   四章 新羅の鶏祖伝説  85
   五章 古俗の守護者・契丹  100
   六章 辰系女尊国家  107
   七章 辰とは何か  115
   八章 チベット系六祖伝説  120
   九章 偏頭の奇習  130
   十章 インドの日祖伝説  137
  十一章 モソの鶏祖伝説  145
  十二章 王号・辰??翅報  154
  十三章 辰の民族構成  161
第二部 天皇氏の源流
  十四章 失われた太陽神???カカシ  170
  十五章 失われた太陽神???火の御子  200
  十六章 失われた太陽神???サルタヒコ  216   
十七章 アマテラスの原像??A辰の日神  236
  十八章 アマテラスの原像??B 日置  254
  十九章 伊勢神の成立  282
  二十章 倭の母系伝承  294
 二十一章 天皇氏とチベット  316
    *
 おわりに  344
    *
 参考文献一覧  347
    *
 補 遺  358



推理小説で表現するなら本格ではなく、変格ものである。


本格的な歴史推理の本道からやや離れたファンタジーであるが、中には少数民族の貴重な伝承などがあり、カルトではあるが部分的にヒントが転がっているのはほかのカルト史書と同じである。原文というSTAP細胞がないので、学者が扱えない、夢物語と思いつつ、寝転がって頭を切り替えるにはよい書物だろう。


ミャオは自らをミャオとは言わず、モィという、などは世界の少数民族にありがちなことである。アイヌも自分をアイヌとは言わないわけだ。

巫女王や太陽信仰が海洋民族のオリジナルであったことはつとに知られるようになったが、民俗学者や文化人類学者はかつてそれを照葉樹林鯛文化などと言って、江南から西日本の共通文化であるとしてきた。

つまり日本人のルーツがそこにあるというわけである。

日本人のルーツというのは、しかし江南だけではないことは、遺伝子額や考古学が証明している。ただ、日本文化の基層にある縄文文化は、確かに最適サーマル時代に何度も日本にやってきており、それが江南ダイレクトと半島経由と、そしてインドシナ~南太平洋の島嶼経由の三つのルートで、何度も入っていることは否めない。


日本語の起源についても、日本がオースロネシア島国の北辺のひとつであり、また大陸の二石アジアからやってくるシルクロードの東辺であることからも、両者のミックス・クロスオーバーがこの列島で起きていることは明白である。


カスピ海・地中海から東へ向かえば、行き着くところが日本列島である。

そもそも日本人の起源をひとつだと考えることは間違っている。そういう最果ての行き着くところであった限り、末端の列島で、それらが融合することは自然の摂理なのである。

海の道、シルクロード、海のシルクロードのラインを地図上に描けば、線分は日本という島国に集まるのであるから、そこで文化の集積が起こるのは当たり前である。

縄文は一万数千年もの時間があり環境もいろいろと変化してきたし、弥生もまた一種類の渡来では終わらない。

契丹やらウイグルやらスキタイやらモンゴルやらの移動する人々もいくらかやってくるのは当然なのである。そして列島の南北からそれらが出会う場所は、交差する場所、至便な場所、中心に位置する場所である。これも必然である。


東や北からやってきた北方文化が、西や南からやってきた南方文化と出会い、ぶつかり、淘汰されてヤマトの文化も花開くと考えるのが地理学的なふつうの見方ではないか?

しかるにヤマトの歴史学はいつまでたってもヤマトを中心にして考えられてきた。そこの日本の歴史認識の世界とのずれが生じたことは間違いない。ヤマト中心史学が世界から見れば右であることは当たり前である。そしてそれを筑紫に置き換えたところで、ヤマト民族至上主義には大差がないわけである。


何度ごめんねと言っても許さない国があるのなら、はやいとこ行って、千回ごめんねと云えばよかろうものを、ぐずぐずと、いつまでたっても侵略はなかったなどと繰言を言うのもいいかげんにせい、なのではないか?相手にも言っておくが沖縄がほしけりゃ戦うしかないのかとも云える。話し合って買えばいいじゃないか。そもそも当人たちが日本ではないと考えているような島ならだがね。


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契丹というのは「キタイ」と読み、そのままスキタイ民族国家だということであろう。
今の中国北方にはウイグルや契丹や西夏などのいわゆる「草原の国家」があり、みな何万年も前からステップロードを馬やラクダで右往左往してきた。騎馬遊牧民であり、今の漢民族や新羅系朝鮮人にも血脈は受け継がれているのである。日本のような海洋民族・倭族を中心とする中では差別される北方縄文人・蝦夷の先祖なのであろう。先祖なのに差別される民族は世界中にあるが、なにより差別の根源にどかんと存在するのは、彼らがその地域で敗北したか、異形の・異民族で・邪宗のやからであったからである。つまりヤマト以西にはそうした差別する伝統があったということになろう。それが今の学問にまだ影響していることになろう。


まことに三つ子の魂百までである。百どころか十万年の差別である。



差別されれば当然、過大な自意識を被差別者は作り出すこととなる。古伝というものはそうした自意識過剰な表現で書かれるのでうそも八百存在するが、きらり真実もゼロではないはずである。そういうふところの深さは、実は官僚主義権威主義学界がもっとも嫌うところでもあるのだ。ってことはお忘れなく。


変格は変格なりの楽しみ方がある。そのためにはまずは本格を極めておく必要があるでしょ?




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地名磯城・磐余・唐古・鍵

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しき【磯城】  

奈良盆地中東部一帯を指す地名。師木,志貴などにもつくる。《日本書紀》神武即位前紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができる。崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや),垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや),景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや),欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが《日本書紀》にみえ,この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占め,古代の政治・文化の中心であった。


「「磯も城もないのに、なぜ磯城郡なのだろう」と不思議に思い、帰ってから広辞苑を引くと《しき【磯城・城】 石で築いたしろ。石のとりで》とあった。「城」だけで「しき」と読むとは、これも新発見だった。その後、磯城郡川西町に「式下(しきげ)中学校」という学校があることを知った。磯城と式、これも何か関係ありそうだ…。

そのまま20年以上が経過したが、先日買い求めた『奈良の地名由来辞典』(東京堂出版)にちゃんと載っていた。

《磯城 しき (磯城郡)古代の郡名。県名・邑名。十市(とおいち)・城上(しきじょう)・城下(しきげ)郡から成る。城上・城下は、磯城上・磯城下の二字化したもの。一に式上・式下とも書く》《「崇神紀」には「磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)」とみえる》《シキは石城で石を堅く固めた所の意。磐余(いわれ 岩村―石寸)と同意の語か》。」


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奈良県の「し・き」は「風の来る場所」が真の意味だったと考えている。鉱山の間歩(まぶ=坑道)を業界では「敷 しき」と言う。「遠い敷」と書いて「おにゅう」と読ませるのは福井県の地名であるが、「おにゅう」とは水銀もしくはミネラル水の湧くことからの美称で、暗に水銀鉱山、あるいはベンガラ鉱床、ないしはミネラル成分の多いかつての湖沼地がひあがった土地をさす。
鉱山から出た鉱石は鍛冶屋によって加工されるので、当然風(たたら風=北西偏西風)が必要である。磯城の土地は東の三輪山山塊から西にむかってゆるやかに下っており、中央部はかつては古奈良湖があった湿地帯である。従って北西風を受け入れやすく、風は生駒や金剛の山地を越えると奈良湖へ駆け下りて、今度は下から三輪山に向けて吹き上げることとなる。これはたたら製鉄には最適の地形。

もうひとつの説は、纏向古墳群の存在で、こちらは石を積み上げて敷き込む葺石(ふきいし)で固めた城という意味になる。纏向古墳群は奈良だけでなく、全国的にも最古級の古墳群で、日本でも最初に作られ始めた場所。「礒」には「いそ」「いし」の意味があり、もともと石のごろごろするところはみな「礒」である。この場合は磐余(いわれ)地名同様の意味になり、ともにヤマトの中核となった都市=城という意味になる。「城」は漢語でももともと城郭に囲まれた都市という意味である。


「磐余」は5世紀前半の第17代履中天皇が灌漑用の溜め池を作らせた。それが磐余池である。『日本書紀』には、履中天皇2年11月条に「磐余池を作る」とある。しかし、その池の名は当初は磐余市磯池いわれいちしのいけと呼ばれていたようだ。

ここにも「礒」の文字が使われていて、池を作るのに石を用いたことを匂わせてある。「市」とはものを集積して商う、ないしは分配したという土地になる。今の市場の市であるが、それが転じてそういう人やものが集まる場所を市(まち)とするようになる。

弥生時代後期になると奈良湿地もかなり干上がって宮や市が造れる様になったのであろう、崇神天皇以降の宮はみなこの磯城に造られ始めていると記録は言っている。ただその北部に隣接した唐古・鍵については記録には登場してこないのは不思議である。前1~1世紀半ばまでここは中心部だったはずなのだが。どうも唐古・鍵については言い伝えがなかったようなのである。しかしここも実は大字は石見で、石が関係したようである。湿地を埋め立てるのに、どちらも石を放り込んでいたのではなかろうか。


ところで、水田を造るとき水をどうするかは大変な問題である。湿地なら簡単だろうと思うだろうが、石見周辺には古代・韓人に造営させたため池が山ほどあり唐古池も鍵池も皿池も人口のため池である。灌漑施設は纏向を代表する遺構でもあるが、水を自在に手繰ろうとするならば、傾斜の下にある奈良湖から水をくみ上げていたのでは重労働になる。普通なら丘陵側にある湧水から導水の樋や水路で導いてくるほうが楽なはず。三輪山からの湧き水がなかったらここは都も水田も考えられない場所だったと思う。

往古からウオーターフロントには必ずと言っていいほど先住民が先に住んでいるものである。これを懐柔したときから彼らは「葛」の民・・・つまり従属した奴婢=被差別民となるのである。
水辺、池辺、川辺、海岸、水際、湖沼地は世界中でそういう場所である。動物界でさえ、肉食獣のえさになるのは水辺に集まる草食獣。つまりそういう弱者が磯城や磐余や唐古・鍵の土台を作らされたということは容易に想像できる。え????あなたは想像できなかった?そりゃあまあ・・・かわいそうに。よほどいいところにお生まれになられたんでしょうねえ。被差別なんかないと思っているお人よしなんだろうなあ・・・。


聖なる場所、聖なる建造物を作るのは王族だが、基礎を作るのはつねに、今も、ブルーカラーの工人である。それは渡来・先住の民なのだ。法隆寺だろうと伊勢神宮だろうと大阪城・二条城だろうと、造るのはいつも差別された技術者たちである。

だからそれら建造物ができあがると、彼らは用済みとなり追い立てられる。そして周辺に、都をとりまくように住み着くのである。それがまた決まって水辺や聖域間近の空き地である。

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庵戸宮(廬戸宮)いおとのみやあと


そして彼らの中から優婆夷・優婆塞、ひじり、カルト宗教がにじみ出るように出てきては消えるのである。その生命力の大元になるのが「恨」の根性である。


古墳巡り、神社巡りをする人なら、ほんの一・二年も歩き回ればすぐ気づくはず。古墳のある地域が全国的にどこかしら似ている。町並み、雰囲気、複雑な迷路。血の匂い・・・。あやしげな宗教結社。まとわりつくごとくにひしひしと身に迫る、それらの影・・・。それが「うしろど」というものである。必ずしも彼らは遠隔地に押し込められたわけではなかった。同化し、聖職に身を隠したりして、かろうじて都市中心部に居残ったのである。



伏見稲荷大社などはそれが如実に残されている。


ひとり旅には十分気をつけなさい。とくに女性の歴史ファンが増えている。ひとりでは入ってはならぬ場所はまだまだあるぞよ。



神隠しは今もなお、特定地域に残っているかも知れません。



むやみに結界を越えてしまうと、磯城ならぬ死期を近づけるやも知れませぬ。



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捕鯨禁止 海洋資源枯渇 TPP 牛肉を買わせるため 牧畜の森林破壊 起こる

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動物愛好家 捕鯨禁止 海洋資源枯渇 魚食国家全部をTPP参加させるため 牛肉を買わせるため 牛を増やすため牧場 牧畜の森林破壊 起こる CO2倍増する 地球は砂漠化する 牛肉食蔓延する 海洋資源滅びる 鯨しかなくなる 鯨食べつくす
食料なくなる 人類滅亡カタストロフィに拍車 百倍早まる 狂牛病 とりぶたいんふるえんざ 人に感染するようになる・・・・・・・・・・経験医師いない・・・・・ 





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そ・し・て






誰もいなくなる



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今夜あなた池上観る




・・・・・・・・・・・・・・・・あなたきっとぽちする
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畑作牧畜民族のなせる食習慣/開高健かく語りき

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「2月1日にソフトウェア大手のMicrosoftは、中国のツキノワグマ、その胆汁のために飼育されている数千の窮状を明らかにしインタラクティブなウェブサイトを解放することによって動物虐待との闘いに新たな貢献をするために、動物の権利団体と提携しました。

クマは小さなケージで飼育され、恒久的にの肝臓に挿入された金属製のカテーテルを埋め込まれ非人道的な条件に耐えることを余儀なくされているため、胆汁論争は、動物各種団体の怒りを集めている。」
 
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フォアグラ方式
 
開高「フォアグラ方式は、中国、北京にもありますね。ペイチン・カオヤー。北京周辺の人民公社にいったら、可愛い少女が、アヒルの口をあけて、フスマか燕麦かのダンゴをポンと放り込むんですよ。長い首がブクッとふくれると、きれいな手で、グーイ、グーイとしごく。ハイ、おつぎで、ポン、グーイ、グーイ・・・」
 
團「初めはそうするんですが、だんだん人間が凶暴になっていって、餌を食わせる時間をせばめて、いやがるアヒルをとっつかまえて、棒でガンガラと燕麦を押し込む。どんどんアヒルの肝臓が肥大する。フランスなんかもっとすごい。いまや機械を使う。
開高「ふーん、どうします?」
團「真鍮のパイプにとうもろこしをかたゆでにしていれておく。そのパイプをガチョウの口に挿入し、足でペダルを踏むと、ブァーと何百グラムのとうもろこしがガチョウの胃袋に一瞬のうちに直接叩き込まれる。ガチョウとしては、のけぞってしまう。その繰り返しで・・・」
 
 
 
これが牧畜民・畑作民がやっていることである。
 
 
さて、動物愛好家諸君。いったいどっちが残酷なのか?
君たちはアジアの伝統的風習は批判・告発するが、なぜ自国、同族民族のすることには目を向けようとしないのか?
 
 
動物愛好は白人の偏った思想の代表のように、私には見えるんだがね?
 
 
 
ようするに君たちは、動物虐待を道具にしながら、結果的に異民族差別をしようとしてはいないだろうか?
食の愛好家、生態系保護者から見れば、動物愛好家・牧畜酪農家は悪魔である。そして地球の生態系をぶっこわす張本人である。
 
 
 
自分が正義などとおこがましい。君たちは地球を滅ぼす極悪犯罪者に手を貸している、未来破壊者の手先だと思われているよ。
 
 
まるで異教徒だ。
邪宗の徒ではあるまいか?
 
 
 
 
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古志の文化・漆・翡翠・アスファルト・石油/融通無碍な縄文日本文化

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■漆は産地によって特徴がある
「日本では岩手県や茨城県,新潟県,栃木県などが主な産地です。このうち,岩手県が全生産量の約70%を占めています。

平成8年度の林野庁の統計によると岩手県(1850.0kg),茨城県(830.0kg),新潟県(281.0kg),栃木県(86.0kg)などで計3189.6kgとなっています。
   
中国の産地は,中央の山間地域に位置しする湖北省,湖南省,四川省,陜西省,貴州省などが主で,品質つまり,粘稠度,色,透明度,乾燥時間,硬さ,水分量など,その特長を生かして輸入されています。
日本と同様のウルシノキから採取されますが,地理的な違いや採取,集荷方法の違い,また輸送に時間がかかるなどの理由から,輸入される漆は日本産と比較して品質は落ちるといわれています。
   
ベトナム産漆はハノイの北のフートー省地区を中心に採取されています。
採取された漆は大きな桶に入れられ分離させてから,ラッコール成分の多い塗料に適した部分のみ輸入されます。輸入された漆は透明度は良いが乾燥が遅く,ゴム質が多いため乾燥皮膜は弱く,つやがあがりません。そのためろいろ仕上げには適しません。低温ではシャーベット状に固まってしまうといいます。
   
タイ,ビルマ産漆は艶は非常によく,濃褐色をしていまが,完全に乾燥するまで時間がかかります。しかし完全に乾燥すればろいろ仕上げもできます。ほとんど焼付け用として使われています。  
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/urushi/urushite/urushite.html
当ブログ既出記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52427690.html
 
 
 
【福井】鳥浜貝塚から出土の漆の枝が約1万2600年前のものと判明 中国伝来が定説の漆文化、日本がルーツの可能性[2011/10/13]
 
 
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「福井県の鳥浜貝塚(三方町)の発掘がはじまる以前は、日本の漆文化は中国から来たというのが常識化していました。ところが鳥浜貝塚から、縄文時代前期の漆を塗った木器がたくさん出たのです。これは中国の漆よりはるかに古いものです。現在、日本で漆器(しっき)作りの盛んなところのひとつは石川県の輪島市(輪島塗)ですが、興味深いことに輪島塗もやはり、木器に漆を塗るのが特徴なのです。
 
 かつて私が編纂した『技術と民俗(上) 海と山の生活技術誌』(日本民俗文化大系13)、小学館、1986)で、「漆搔き」の項目をその分野に詳しい柳原眞さんに執筆を担当してもらったのですが、そのときに非常にびっくりしたことがあります。この項目では、主として岩手県二戸郡浄法寺(にのへぐんじょうほうじ)町の技術を扱ってもらったのですが、漆液を採集する技術者である漆搔きは「江戸時代以来、越前の人々であった」のです。山に入って漆を採る職人は、毎年、シーズンになると、福井県から東北の山に採取に行くというのです。漆の器を作る職人は各地にいますが、例えば岩手県の漆の樹液を採りに行くのは、地元岩手県の職人ではなく、福井の職人だったということです。
 ・・・・・・・・・・鳥浜貝塚からはたくさんのエゴマの粒も出たのですが、エゴマというのは奈良時代や平安時代の文書の記述も、また現代の漆工芸でも、漆器をつくるときの必需品なのです。漆は現在でもエゴマの粒からとる油と混ぜてつくります。これなどは日本海側で考えついた広い意味での木の文化の応用だと思います。」(森浩一『語っておきたい古代史』「古代日本海文化」「巨木文化」)
 
・・・・・・

漆部(ぬりべ)は木地師とともに動くので、本場は近江の永源寺だとばかり思っていたが、ども縄文時代から今に至るまで、日本海古志が中心地だったようだ。
 

漆加工品の出土地分布図
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付録・アスファルトで目を塗りつぶした土偶(秋田県大館市下遺跡出土 縄文後期・左端)
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『日本書記』「越の国が燃える水(石油)と燃える土(アスファルト)を献上」天智天皇紀
石油が出る県・・・新潟県・山形県・秋田県昭和町
アスファルト・・・秋田県槻木(つきのき)遺跡
アスファルトは艶出し剤、接着剤としても利用例があり奈良県橿原遺跡でも出土。
 
 
 
 
 
 
 
「日本海文化のもうひとつの特徴・・・縄文時代の遺跡から鰹節くらいの大きな硬玉ヒスイの玉が出るのです。・・・大正から昭和のはじめにかけての学者は、ビルマから持ってきたのだろうと書いています。・・・しかし縄文時代にビルマから硬玉ヒスイを持ってくるなんて、当時でも考えにくく、おかしいと思っていました。しかも縄文時代のが大きくて、弥生時代、古墳時代となるにつれて、だんだん小さくなっていくのもおかしなことです。
 ところが昭和十三年(1938)に東北大学・・・新潟県糸魚川市にそそぐ姫川の支流の小滝川で、原石を見つけたのです。・・・・昭和三十年代には糸魚川市の長者ヶ原遺跡(縄文中期)の発掘で、硬玉ヒスイも出る。原石もでる。半分磨いたのも出た。もう間違いないというのでビルマ説は消えたのです。
 その後の発掘で糸魚川市だけでなく、寺地遺跡のある青海町の青海川上流でも原石が採れる・・・。現在はどちらも天然記念物(ヒスイの密採取は重い罪になる)・・・。」(同書)

以上()内補足Kawakatu
 
 
古代に限れば、世界のヒスイの産地といえば日本の糸魚川とメキシコマヤ文化が二大ヒスイ文化圏である。ヒスイの産地は光の反射などで解明できる。
 
 


 
 
 
以上、日本海古志のオリジナル文化は縄文時代からありどれも世界最古である。
越前の技術は渡来技術だけではなく、先住縄文の技術ベースがあってこそ受け入れられ、同化したと見ていい。先住倭人と渡来倭人・韓人は、古代以来和合して助け合ってきた。それが日本人と言う融通無碍で寛大寛容な国民性であり、アジア唯一。世界でも稀有な、他者を排他しない文化圏が日本である。すべてを許し、忘れ前に向かう人々。これは誇りにしていい日本人最大の特徴。
 
 
 
そして、縄文文化こそが日本文化のオリジナルであり、日本人とはすなわち縄文人の血脈を持つものだと規定できる。これはDNAの問題だけではない。
 
 
 
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かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 
 

”古墳にコーフン”DVDが発売さる!!

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古代史友の福岡の蕨手さんからの情報です。
 
 
 
あの「古墳にコーフン協会」の会長にして、偉大なる古墳シンガー「まりこふん」さんのアルバムが。ついに出ました。
 
イメージ 4クリックすると
サイトに飛びます
 
 

題して「古墳deコーフン」です。全八曲の力作ぞろいです。思わず吹き出してしまう本格的な古墳ラブソング、ブルースを 満喫したかったら お気に入りリンクに示した「古墳でコーフン協会」を訪問してみてください。
私の推しは オブサンベイベーです。 チブサンベイベーも創って欲しい!!
しかし、「まりこふん」さんて 協会長以外の顔は 一体どんな方なのでしょう??????」
 
 
収録曲リスト
1.古墳deコーフン!

 2.箸墓古墳の歌~卑弥呼★ShiningStar~
3.遥かなる石舞台
4.キトラ永遠に…
5.オブサンベイベー
6.さきたまの悲劇partI
7.麗しの仁徳陵
8.ハニワのブルース
(作詞・作曲・編曲:まりこふん)
<参加アーティスト>
ウルフルケイスケ(ウルフルズ)by the courtesy of WARNER MUSIC JAPAN INC.【Gt】
イーケン【Gt】
ハヤカワテツヤ【Gt】
田ノ岡三郎【Acco】
MAI (THE REDEMPTION)【Tp】
minol(TAKESI)【Drs】
BILLY TRASH(ED WOODS)【Cho】
伊藤 壮(古墳にコーフン協会 理事長)【Cho】...
 
 
 
まりこふん1stアルバム「古墳deコーフン!」2014年4月9日発売!
まりこふん feat.保渡田古墳群「はにわのブルース」
 
 
どっちかっていうとふつう 保渡田古墳フューチャリングまりこふん ちゃうかと思いますけどな。
ダイナミックな歌唱力なので、古墳のほうがフューチャーされたってことかと思いますわ。Kawa
 
 
 

 
 
 
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 まりこふんさんのブログ

 

なにわのブルースかと思いましたら、はにわでした。
”保渡田のジャニス”か亀淵由香か、ですな。ウルフルズのウルフルケイスケさんが参加していますよ。

「箸墓古墳の歌」もおすすめです。
歌詞は絶対笑える。しかし歌は本格的ゴスペルシンガーだ。
うまい。
 
 
 
ぼくは直接知らなかったけれど蕨手さんおすすめということもあり、勝手に便乗PRさせていただきました。
 
 
画像はまりこふんさんサイトから。それぞれ紹介サイトにリンクしてあります。
アマゾンからも試聴ができるそうです。
 
 
Kawakatu
 
 
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臨シ遺跡人の遺伝子系統樹

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前に書いた中国山東省臨シ遺跡の白人遺伝子を持った数十体の遺伝子の系統樹があったので貼り付けておく。

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臨シ人は現代、2000年前、2500年前の三つの交代が起きているが、最古のものはトルコ人から直接つながる突厥やウイグルやスキタイ民族に共通し、その中にコーカソイド形質が混入していた。





三角縁神獣鏡チョコレートは花野谷古墳出土天王日月鏡。傘松文入り

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 2月14日のバレンタインデーを前に、「三角縁神獣鏡チョコ」を“鋳造”するワークショップが11日、福井市立郷土歴史博物館で開かれた。図書館のTwitterに掲載されたチョコ画像は本物のようにリアルで、注目を集めている。
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まりこふんさんも食べた!!http://kofun.jp/diary/1496.html
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おお!正鵠無比の同笵鏡ではないか!

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笠松文もちゃんと入っている。天王日月獣文帯四神四獣鏡か!
モデルは明らかに椿井大塚山同笵鏡の福井県花野谷古墳出土の漢鏡ではなかろうか。http://www.geocities.jp/k_saito_site/aseku1.html

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椿井大塚山古墳天王日月獣文帯四神四獣鏡





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うううむ・・・美しき三角縁の官能的尖り方。

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来年のバレンタインには絶対、これが欲しいところである!!




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鬼道とは何か

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魏志は卑弥呼の政治を鬼道(きどう)を用いてと書く。
民俗学から鬼道とは何かを解釈できるだろうか?
 
 
 
鬼=霊魂
『宇治拾遺物語』日蔵上人が吉野山で鬼に逢った話 巻11の10
上人は吉野山で修行中青鬼に出会う。その鬼は弱りきっており泣いていた。「どうした?」と問うと、鬼は「自分は四・五百年も前に生きていたが、恨みを残して死んだために鬼の身となった。恨みの敵(かたき)は四代に渡ってことごとくとり殺してやったので、もう殺す相手もないが、敵が生まれ変わってきてからもまた取り殺してやろうと思うのだが、どこに生まれ変わってくるか皆目見当もつかない。これでは取り殺せない。」そのために無量億劫の苦痛を受け続けているといつつ、山奥へ消えた。
 
 
仏教説話である。仏教の立場から鬼を描いているが、鬼とはつまり恨みを残した霊魂であることになっている。鬼ではなく安楽死できた死霊は霊魂となり、安息の世界で祖霊と交叉し、再び新たな命となって蘇り、生まれ変わり死にかわりして、人間としての円環をつないでゆける。萩原秀三郎はそう解釈している(『鬼の復権』)。これは仏教思想ではない。それ以前の神仙思想である。
 
 
もっと言うならば鬼とは神仏と同じく祖霊になるべき魂魄であると言い換えられ、それが再生してきて新しい命となる、という思想は、つまり遡れば古代から続いてきた神仙思想そのものだということである。
 
神仙思想というのは中国長江文明の思想を大元とする江南・長江以南のよみがえり思想である。これが鬼道であると言える。その思想はのちに長江文明から出て行かざるを得なくなった少数民族ミャオなどの伏羲と女媧(ふっぎとじょか)の伝説として残ったように、男女兄妹の祖人が民族を生み出すという、陰陽道の基層の二進法の根源となった。
 
 
 
 二人の兄妹が幼いころ、雷神を助け、雷神がお礼にくれたお守りを二人で土に埋めた。やがてそれは大木となり、大きなヒョウタンが実った。

 あるとき世界に大洪水が発生し、地上の人類は滅亡したが、二人はヒョウタンのなかに逃れて危機をまぬがれた。そこで兄はヒョウタンを意味する「伏羲」と名乗った。

 二人が成人すると、伏羲は妹の女媧に結婚を申し込んだ。妹は断りかねて、
 「私を追いかけて捕まえることができたら結婚しましょう」
とこたえた。

 二人は大木のまわりを走り回ったが、妹に追いつけなかった。そこで伏羲は立ち止まり、逆に回って妹を捕まえた。

 こうして二人は結婚し、妹は出産した。だが、妹が産み落としたのは肉塊だった。不思議に思い、それを切り刻んで紙に包み、天界に行こうとすると、風が吹き、紙は破れて微塵切りの肉が飛び散り、それらが人間になった。こうして二人は人類の始祖となった。

「古代史の神話――日中韓・三国神話」ホームページより
 
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神仙思想のアイテムには、伏羲と女媧から発展した東王夫と西王母の組み合わせをメインにして、神獣・天文図などを用いることは神獣鏡を一目すれば明らかで、弥生時代から古墳時代にかけて、それがわが国で政治的道具に使われたことは間違いない。
 
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当時の中国で、神仙思想を王族が用いたのは、江南の王朝と、東北部にできあがる新国家であり、真ん中の中原だけが論理的・科学的な思想を持っていた。黄河文明の題材には神仙思想の題材はほとんど姿を見せていない。青銅器文明の題材はすでに道教という科学に進化しており、絵柄もまったく変わっている。
 
 
公孫氏朝鮮が真ん中の魏を遠交近攻ではさみこむのに、江南の神仙思想を駆使したため、魏は公孫氏の神仙思想も鬼道と表現している。五斗米道などの時代でもやはり鬼道としてあり、意味合いはキリスト教が使う「邪宗」のように思われているが、それもあろうが、鬼=霊魂再生の呪術ゆえに鬼の道とされたのである。
 
卑弥呼が呪具である鏡や剣を授受していたのも、最初は公孫氏からであり、つまり卑弥呼たちの鬼道の本貫は江南の呉越にあったことは間違いあるまい。
 
 
中原国家である魏に、卑弥呼は呉の神仙思想の鏡を欲しいと願ったわけで、魏王は目をひそめたことに違いない。やれやれ、こいつらもかと、内心がっかりしたことだろう。
 
 
それでも魏王はしぶしぶ神獣を用いてある漢~呉の鏡を「好物」として用意したことになる。
 
 
 
日本人が現代になってもまだ「ヨミガエリ」はあると信じているのは、要するに、このとき卑弥呼が望んだ神仙思想が、「民間に於いてのみ、平民においてのみ」「そのわけは邪馬台国が敗北したからこそ」受け継がれた迷信だからなのである。
 
 
あなたは未だに、1700年も前の迷信を本気にしている前世紀の遺物だということなのだろう。
 
霊魂は生まれ変わるのではない。
引き継がれてゆくのである。
それは連鎖、進化であって科学である。獲得形質を引き継いでゆくことと、霊魂の再生はまったく話が違う、しかしともに神秘であるが、前者はそべての生物に共通する生命のノウハウであるが、後者はただの主観的イメージでしかない。
 
 
 
 
しかしいずれにせよ、国家の大元は女性が子を産み、増やすところから始まる。これ以外に女性にとって重要で、国家に役立つ仕事はほかにない。これを破棄することは、日本人であることを捨てたということにほかならない。かつては非国民、魔女なのだった。今の女性はまことに幸福であるが、その罰として必要なくなった女性性器や乳房は子宮ガンや乳がんが爆発的に増えるという神の怒りにおののくことになった。
 
 
前者は主観、後者は科学ではあるが、双方は因果応報に結ばれた必然と結果を生み出すのである。これもまた言霊思想だと言ってよいだろう。
 
 
科学にも祟りがある。忘れないで欲しい。
 
 
 
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隠れ蓑・笠は本来「見せるためのアイテム」

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隠れ蓑というのがよく民話などに出てくる。
正確には笠もつくので「隠れ蓑笠」である。
 
 
本来は鬼、霊魂、神が着る着衣を、たまたまそれを拾った人間の主人公が、まとうと、見えなくなる。
 
 
 
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斉明天皇、筑紫朝倉宮崩御の際、このような鬼が出現した。
 
 
 
 
しかし隠れ蓑笠とは、あくまでも神霊のための着衣で、神霊の側から言うならば、おのれの姿を人間に対して顕現するために用いる道具なのである。
 
つまり「隠れ蓑」とは人間の側からその道具を呼んだ言葉であり、神霊側から言うならばそれは「見せ蓑笠」なのである。
 
 
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日本各地でこのような装束を用いる祭りがある。
つまり彼らは蓑笠を着ることで、自分が神・鬼であることを示しているのである。
 
 
なまはげもそうだが、こういう祭りを「儺 な」と呼ぶのは中国少数民族のあいだの「マンガオ」(ミャオ)とか「マオグス」(トウチャ)といった毛むくじゃらの来訪神に始まっている。
 
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これもまた長江文明人と日本人の共通性を示す民俗学的証拠品である。
稲作とともにやってきた。
 
 
 
 
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チブサン古墳の人物と七つの円文解説

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試聴バーはIEブラウザでは表示されません。音声も出ません。
クロームだけで表示されます。ボリューム調節してください。 
 
 
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もがり船上で死者の魂魄に宿る祖霊の再生を祈る巫覡
 
 
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気候考古学のためのフローチャート/ビジュアル資料の怖さ

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ちなみにフローチャートとは「作業手順書」である。
 
この図表の出展・・・昨今、ネット上の図面や文献をコピペして転用したり、まさかと思ったが正式な卒業論文に使うやからが出ているそうなので、直接の転載元は一応内緒とさせていただく。京大理系学者の日本の書物である。
 
 
 
この作業表が示すとおり、歴史を気象から分析する場合、またそれ以外の分析をする場合でも、このような広範囲なジャンルからのアプローチがなされるのが、近年の文系史学でも通り相場になっている。
 
なににせよ、なにかひとつの歴史事象であろうとも、できるだけ多くのヒントや実証を持ち寄るのは当然のことと思う。ブログのような日記形式で、自分の考えの進展状況を書き記す簡易なものならいざ知らず、ちゃんとした論考や著作にするなら、ひとつ切り取ってきたヒントだけにこだわって論をすすめようとか、卒業できさえすれば的な、短絡な手法はとらないに越したことはないと思う。
 
安易なコピペや、我田引水は、その資料の間違いをそのまま受け売りすることになりかねない。あたかもどこかの不正調査員のごとき本末転倒のないようにしたいものである。
 
もちろんあなたの所属する研究機関が、そうしないと出世できないようなところであるなら、それにあなたが準じたところで知ったことではないが、結果的に迷惑は一般人に及ぶ。
 
 
 
例えば古い資料だった場合。
こういう大昔の地図資料などは気をつけたほうがいい。
 
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まずなにより示してある年代単位がばらばらである。C=世紀表記と600年なのどの年数表記の二種類になっている。これはダメ。しかもBCのCと世紀のCが区別しにくく、600年前とBC6Cがどっちがふるいのかなど一目で捉えにくい。これでは勘違いを招く。出雲よりヤマトが古く見えてしまうように造ってあるというほかはない。こういう資料で民間はすぐだまされる。それを意図してある。
 
日本海側の考古資料が皆無に近い時代に、京大のある権威が作成したものであろう。今となっては、弥生時代の2世紀くらいまでに限定すべき、文化の西から東への流れである。考古学では水田稲作は筑紫の菜畑と遠賀川西側流域の板付あたりから東へ伝播する二方向の移動があったことがわかり始めている。おおまかに西から東へ文化移動があったことをいうだけならこれでもいいかもしれないが、誤解を招く資料だと言える。図表はできるだけ最新であり、できるだけ可能性の多い表現を用いたものを選びたい。これは悪い引用をしてある例で、上記資料と同じ著作から転載した。
 
ちなみに著者もこの地図製作者と同じ大学の学者である。文系と理系の違いがあるのに、理系学者でさえ文系権威の影響下にあることの証明になろうか。そういう人的傾向もつかんでおかないとこっちも使って恥を書くことになる。
 
自然科学といえども、ビジュアルや動画でわかりやすく資料を示す場合、つまりそこにはテレビと同じような影響力が出てくる。わかりやすさと、一見でわかる利便性の裏側には、実は一過性と同じ見過ごすという危険性が生じるのが常である。
 
まして専門家でないものは、ぱっと見て、「ああ稲作は全部菜畑から始まったんだ。全部朝鮮半島から来たんだ。山陰はやはり遅れていたんだ」と思い込みかねないわけだ。
 
 
 
 
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これはいい資料であろう。
ひとめで、日本の気候のどの時代が温暖で、どの時代が寒冷だったかをおおまかにだが捉えることができる。もちろんこの資料だけですべては決定できない。一言で温暖、寒冷と言っても、どこも同じ気温だったわけではなく、その時代の中での比較の表現に過ぎない。氷河期の温暖期と、現代の温暖期では気温はまったく大差がある。それらはもっと細かい資料を用意せねばならない。科学の専門資料ではよくあることだろうが、年代が下から上へ新しくなるのは、一般人にはやや面食らいものがあろう。右から左が、左から右など、理系資料は文系と違い、著書が横書きであることなどの相違もあって、往々にして逆転する。これは慣れればすむこと。
 
 
 おおまかな把握つまり俯瞰と、それを細部に調べる顕微鏡的視点の両方がないとうそを言うことになりかねない。ということはある程度の学識や、教養が欠落している人は、安易にブログであろうと記事を紹介しては危険だとなる。筆者も気をつけたい。(過去の記事は過去の考えとする許容力も必要)
 
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いい資料なのだが、ややわかりずらい。
中央の±0を示す線分はどの時代を基準にしているのだろう?わからない。
 
 
これまで出会った資料の中には、気温が高温なほうが下になり、低いほうが上になっていたものもある。最初、なんのことか意味がわからなかった。
 
 
 
 
 
ビジュアル資料は怖い面もあるということである。
 
 
科学者は論考を発表するのに、自分の資料や図説を用いるのが当然だが、見るものをけむにまくことはたやすい。壇上での論説は、一過的で、一瞬で画面が切り替えることができてしまう。手品と同じことになりかねない。そのためにレジュメを手渡すが、あなたなら細かいその資料を見直すだろうか?
 
もっと簡単に言えば、ややこしい家電やPCの取り説とか、入会するときの会員規約とかあまり読まないのではないだろうか?
 
食品の裏側にあるレシピや素材をながめて、わからないとき、わざわざそれを調べているだろうか?
 
サプリメントなどがよくそうなのだが、●●●と横文字の成分が書かれていて、あなたはその内容まで調べていますか?
 
 
 
図表にはそういうテレビの興業にありがちな危険な通り魔が潜むのである。
 
 
 
ちょっと一冊読んだだけですべてと思う読者はごまんといる。
 
 
 
科学とて不完全である。なんでも信じることなかれ。
権威だって間違える。
昔の資料は必ず最新学説で再確認する。
同じ大学の先達の資料を学者が使いたがるのは、いちいち確認や許諾がいらず、大学の過去の権威の宣伝にもなるからだろう。しかし、Kさんはどうも間違っていたことが多いとか、そういう学説の大変換はいつも起こる。過去の権威の資料は、まず使えないと思うべきである。
 
 
グラフの切り貼りが取りざたされている。
場合によって、自分自身の資料を見やすく修正するのはよくあるだろう。
それと捏造はどこがどう違うかも考えずに、一事が万事で科学者は信用できない、という意見がネット上や、最近はNHKでの投稿(最近のNHKは基準の視線がだいぶくるってきている。まるでてきやの興業化している気がする。そういうのは民放にまかせるべきだ。)にすら登場。全国版で”2チャンネル”的な一方的でゆがんだ、安易で単細胞的な意見が垂れ流されている。あれは放送規約上でおかしくはないか。
 
 
 
NHKが安易な放送をし、民放がむしろ規制している。奇妙である。
 
主演者のレベルも、アナの誤読や不可思議なイントネーションの多様もNさんのほうが目立っていて、すでにNさんは信用できなくなっている。N局はかつてドキュメンタリー番組で捏造疑惑があったにも関わらず、その番組を過去の栄誉あるものとしてまた取り上げていたりする。N局がゆるめば国民に多大な影響を与える。国家の方向を右へ持っていこうとしてはなるまい。
 
 
 
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那珂と伊都・地名由来

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 引用文(こう書いておかないと「」を見落とすあわてモノがいるので)
 
 「福岡県の博多は昔「那(な)国」とか「那ノ津」と呼ばれていた。現在も「那ノ津大橋」や「那の津通」等にその名残が見える。また、博多区には「那珂(なか)」という地名もあり、その名をとって福岡市の都心を貫き、博多湾にそそぐ川の名を「那珂川」という。「那国」は、後漢の光武帝から授かった例の金印に書かれた「漢委奴国王」に見える「奴(な)国」のことである。」

 「長島温泉で有名な三重県桑名市長島(ながしま)町は、町全体が木曽三川(木曽・長良・揖斐)の形成した三角州にあり、周囲をぐるりと堤防に囲まれた完全な「輪中集落」である「川中島」の呈をなしている。本来なら「中島(なかしま)」となるべき地形名であるが、この輪中は南北に細長いので「長島」と濁音になってしまった。「中」が「長」や「永」に変わってしまった地名も各地に多く見られるので、注意を要する。」

 「長野市「長野」は・・・背後に丘陵地を控え、南向きで日当たりもよく、このあたりでは一番良い場所に寺を建立したと思われるので、やはり地名の由来は「中野」ではないかと思う。長野市の北方、北信の中心地には正真正銘の「中野市」があるが、長野市と発音が似ており、よく間違えられて困る、と中野市民はなんとなく憂鬱を抱えている。」
 
 「石川県金沢市の都心部には「中橋」「中村」「長田」があるが、この「長田」も「中田」であろう。岐阜県恵那市の中心部には「永田」「長島」「中野」という地名が一箇所にかたまっている。いつのころからか「中田(なかた)」が「永田(ながた)」になり、「中島」が「長島(ながしま)」になり、さらに「長島」を「おさしま」と呼ぶようになった。日本の常民の発音の妙と情念の豊かさを感じる。 」      http://baba72885.exblog.jp/7169179/ 
 
 


 
 
 

「なか」地名の点在についてはここでも以前、それが海人族地名であることを分析した。
 

転載・全国那珂・那賀・名賀・中・仲郡の分布図と海人族居住地


 
 
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「那賀」「那珂」などの「なか」は多くにごって「なが」と同じである。
分析すると「な・か」に分けられる。

「な」の基層語は縄文倭語の「灘 な」である。つまり海岸線や湾曲(わんど)、河川沿い、海・水をさす言葉。「なーみ」「なーには」「なーだ」。
 
「か」は助詞の「が」でいにしえの「の」ある。「灘が土地=海のある場所」が「ながと」である。
 
筆者近隣地名では宇佐市のそばに「長洲」がある。「なーかーす」で、「長洲」はたいがいが漁師町。長い州は海岸線の海浜が長いという意味なのに、砂浜はさほどでなく、むしろ灘のそばの州=テリトリーなのであり、文化とか言葉に昔から違いがあった。はっきり言えば部落である。海岸線の部落はほとんどが古代海人族の頃からの流れである海人が住まう。気比も三方も美浜も伊方も玄海も福島中通も全部そうである。「木屋」とか「中洲」とか「なかすね」もそう。「灘が州根」である。
 
 
灘はそもそも「儺」を行う場所でもある。語源は同じであろう。「難」はあやうい場所である。
 

「なのつ」は福岡市の湾をさす。「灘の津」→「那の津」と表記が変化した。

「那」と言う文字には「耳」という意味があり、湾の形状が耳のようであることを示すが、同時に耳は「王」に準じる身分の役職をも指し、「王の海」という意味も持つ。中国が「奴国」と、卑字「奴」を用いた国がここにあった。那珂川。
 
 
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一方、那珂川を挟んで西側を「伊都 いと」という。
「い・と」一文字で糸であるが「怡土」、かつて伊都国があった土地である。

「い」「と」

「糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
 
 
「い」を「倭」の中国音「うぇい」から転じて「倭国」であるとする人もいるが、倭人が自らを「倭」と名乗ったはずはない。自分で「小さな人」「おろかな人」などと言う民族は世界中探しても皆無である。馬鹿馬鹿しい。それならば同じく中国人から見て「異土」だったなども言えることになってしまう。他者が地名に干渉するのは西欧の大航海時代以後の産物で、魏志の地名は地元の地名音に中国人が漢字を当てたと考えるべきである。

この場合、普通は「奴国」のように卑字を使うわけであるが「伊都国」には卑字は使われていない。「と」は「つ」「ど」で都のある港、土地である。では「い」とは?
 

これは難解である。
かつては古代言語学からの提示で、「い」「ヰ」「ゐ」の違いが言われてきたが、これは上代(万葉集時代)に限った朝鮮書記官が作り出した特殊音韻で、先史時代には該当してはならない。

「い」「ゐ」の区別は古代にはあいまいであったとするのが正しい。これは「やまと」の「と」でも同じである。
 
また西日本の地名にアイヌ語語源説を持ち込むのも意味がわからない。
 
「い」は神、王、井戸である。伊都国の範囲を考古学では三雲・井原鑓溝遺跡周辺としている。井原は「い・わら」。井は水の湧く場所。つまり聖地である。6世紀筑紫国造家も代々糸島半島の西側にあった。筑紫国造磐井の名称はヤマト側があとから名づけたものと考えるのがよいだろうが、もともと水を手繰る祭祀一族だったからの銘銘だっただろう、というのは森浩一も書いている。磐井の「イ」も湧水・岩清水を指している。筑後の高良山にも「岩井」の水が湧いている。湧水は祭祀の場であることは間違いなし。
 
伊都国は半島の東側になる。纏向と同じように、生活街というよりも王都、官庁街といったほうがよかろう。大宰府にも似る。
 
 
 
 
 
第一次邪馬台国があったとすれば伊都国のすぐそばであろう。奴国だった可能性が高い。

1~2世紀には那珂地域で一番の国家は奴国。伊都国は奴国より遅い成立であろう。最初は奴国の祭祀場であり津であろうか?
 
 
「な」が海乃至は河川、水場であるなら、内陸の長野もまた「灘が野」起源だと想定できる。海人族が入った場所なのだろう。
                                                                                                                              
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倭人の言葉はアイヌとか上代特殊仮名遣いの音韻とかで考えるのは場違いで、むしろ倭人のふるさとである長江以南の少数民族の呉越語や、オーストロネシア基層言語から考察されるべきだろう。
 
 
この私説は、今後も変遷の余地大いにあり。
 
 
 
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博多地名由来

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「博多の語源は、
・「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」
・大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」が変化した
・射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓は太宰府の榎社にある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」
などの説があります。
最も有力とされているのは、「泊潟」のようです。」
 
 
あるいは言う、博多は墓田=古来支石墓・甕棺墓・古墳などが多い土地である。
 

あるいは言う、「端・潟(方)」であるとも。「は、潟」。「は」とは「端」で、「ふち」「きわ」つまり海岸を言う。→「みず-ぎわ」水の際(きわ)。
 
 
地名に定説はない。好きなものを選ばれたし。

 
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外耳道骨腫ができる仕組み

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静岡県天王ヶ谷51号横穴墳の女性人骨の外耳道骨腫
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/cat_111752.html
 
 
■外耳道骨腫(がいじどうこつしゅ)ができる仕組み
引用文「骨腫などというとおどろおどろしい響きがするであろうが、じつは病気の類ではない。良性の骨性変化、骨の膨(ふく)らみである。もちろん耳の穴が塞(ふさ)がるほどに発達すると、その奥の耳に耳垢(みみあか)などがたまり、中耳炎などを起こしやすくなつではあろう。・・・・
 
 それができる原因はわかっている。「冷水刺激仮説」なる成因論が有力である。どういうことかというと・・・なにもつけずに潜水に励むとか、長時間、波しぶきをかぶるなどして、外耳道に常習的に水が入るような生活を続けていると、水から上がったとき、そこが気化熱により冷却される。そして薄い皮膚(ひふ)を通して外耳道の周りの鼓室板(こしつばん)という骨の骨膜が絶えず刺激を受ける。その結果、感受性の強い鼓室板が反応して肥厚(ひこう。ぶあつくなること)、生体防御反応のように骨増殖がうながされ、外耳道骨腫が形成される」
片山一道『骨考古学と身体史観  古人骨から探る日本列島の人びとの歴史』敬文社 2013
 
 
 
 
いわゆる「サーファーズ・イアー」である。
 
 
 
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一番多いのは今話題の海女さんたち。素潜りする漁師にはだいたいこれがある。
縄文人骨全体の割合では、これまでの骨考古学による統計で、男性20%、女性12%にこれがあった。差し引き17%もの縄文人に骨腫があったことになり、これは異常に多い。現代人では数パーセントあるかないかである。同じくらいの数値を出すのは、ポリネシアのマオリや、ペルー沿岸部の海辺の人だけ。縄文人も山間部より海岸部のほうが圧倒的に多い。これは海岸部縄文人が多くが素潜り漁に励んだ証拠であり、実はその女性などはちゃんと立派な墓に入れられた巫女王であったケースが多い。それは弥生時代や古墳の主でもよくあることである。(片山)
 
どうやら縄文人には海辺と山間部に分かれて住まう種族が、各地にあったようで、それがそのまま弥生人や、その後の日本人にも起こっていて、両者間での物々交換の場・・・つまり後の市が、その中間の里山に出来上がる理由であろう。
 
 
 
 
海の民は世界中の海岸部にいるけれど、その始まりは、やはり人類分岐の場所となった西アジアにあったと筆者は見ている。片山はインドネシアやニューギニア東部の島々としているが、もっと遡れば文化・文明・人類の東西分岐点である西アジア、イランやバングラデシュに行き着くはずである。中近東地域は考古学的発掘が、政情などで進みにくいので、証拠はないが。いずれそういう結論が出てくるはずである。またその時代は今から1万年ほど前だったと考えられ、縄文人の海外交易の遺跡や遺物などから考えても、少なくとも一万年前には人類は「舟」のような道具を手に入れていたと考えてよい。
 
 
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それどころか、10万年以上前、ホモサピエンス以前の人類が、氷河期でもつながっていなかったはずのアラビア半島とアフリカ北東岸の紅海の「嘆きの門」をどうやって渡ったかはいまだに明快にわかっていないのである。氷河期で海は狭まっていただろうが、原人からやっと旧人になったくらいの人類が、どうしてそこを選べたかは謎のままだ。かつてサルは泳がないというのが常識だった時代が長く続いたが、今ではサルは温泉にも浸かれば、川にも入ることがわかっている。ならば頭のいい人類が海を木切れなどを使って越えたとしても不思議はあるまい。原人の外耳道骨腫なんか発見されたら、それこそ世界は驚天動地することだろうなあ。
 
 
 

次回、骨コラーゲンによってその人の食生活まるわかり

なお、人類が嘆きの門を越えたという説が今主流になっている。かつてはシナイ半島経由説が主流だった。つまり新人人類の分岐点は西アジアであり、そこから東西へというのが白人中心主義の西欧人類学でさえ主流なのだ。中近東がアジア人と白人の混血だから美男美女が多いなんていう発想は、まったく正反対だったということ。中近東人が先祖で、白人も黄色人種もそこから分岐進化したとされている。
 
もっともこの単一説もまた、今のところ西欧科学が認めているだけのことで、先のことは誰もわからないがね。これからどう変わるかは大変楽しみ。しかし、だからといってとんでもないことをしゃあしゃあといい始める説はどうかと思いますがね。なんでもありじゃないからね、科学や学問は。アジアからのアジア人種単独発生説は難しい。なぜなら中国やインドには人類猿人の前の祖先である類人猿がいないんですわ。骨もないでしょ?無理でしょ。
じゃあ、アジア人は猿じゃなく宇宙人から派生した?冗談じゃない、そりゃ漢民族(北京原人)だけでしょ。
 
 
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骨コラーゲンでわかる、あなたが何を食べていたか

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引用文
「われわれは,安定同位体を用いて食生態を調べる方法を開発した。空中にある炭素と窒素には,必ず通常のものより少し重いもの(安定同位体)が混じっている。生物が体内に炭素や窒素を取り込む時,その生物によって安定同位体を取り込む割合が異なっている。したがって,人間の体(われわれは毛髪を用いている)を分析すると,食物として取った植物,動物,魚,穀類の割合がわかるのである。この方法を古代人に応用しようと考えた。古代人自身に教えてもらうとはこのことである。

 掘り出した古人骨に残っているタンパク質の一種,コラーゲンを取り出して,その炭素や窒素の同位体組成を分析したのである。古代に適用するためには,当時の食物の同位組成を知る必要がある。遺跡から出土する獣骨,魚骨,植物破片の分析と,現存の野生動植物の分析結果を照合して,先史時代の食物資源の同位体分布を復元し,これと人骨の分析結果を照合したのである。

 掘り出した古人骨に残っているタンパク質の一種,コラーゲンを取り出して,その炭素や窒素の同位体組成を分析したのである。古代に適用するためには,当時の食物の同位組成を知る必要がある。遺跡から出土する獣骨,魚骨,植物破片の分析と,現存の野生動植物の分析結果を照合して,先史時代の食物資源の同位体分布を復元し,これと人骨の分析結果を照合したのである。
 
 
 
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 私は,これまで世界の先史人骨を280点あまり分析してきたが,日本列島の先史人(縄文人や弥生人)には際だった特徴がある。まず,縄文時代,同じ遺跡に埋葬された人々は,2,3の例外を除き,皆ほとんど同じ食生活をしていたことがわかった。ところが,同時代でも地域が異なると,食物資源の利用のしかたがまったく違っていたらしいのだ。すなわち,北海道は海産物主体,本州・九州の海岸地方では植物・動物・魚介類の混合利用,本州の山間部では植物主体と,地域や生態系の違いにより,まったく異なった食生活を送っていたことがわかる。

 現代日本人の食生活は多様化したといわれるが,同位体組成でみると,日本人全体でみられる個人差は,縄文人の一つの集団内の個人差とほとんど変わらない。日本列島全体でみると,縄文時代の食生態の地域差は,今と比較にならないほど大きかったのである。この食生態の多様度は,それぞれの地域生態系への縄文人の適応の結果とみることができる。

 ところが弥生時代以降は,この多様さが減ってくる。同位体分析の結果をみると,海産物に強く依存していた北海道を除き,本州以南ではおしなべて植物依存型の食生活の傾向があらわれてくるのである。寒冷化・乾燥化にともなう自然生態系の変化が本州以南で大きく,豊かな資源が消えていったのではないかと想像している。野生資源の種や量の減少は,食生態の変化をうながし,それが栽培,とくに稲作の普及を助ける結果になったのではないだろうか。弥生時代から古墳時代にかけての人骨の同位体分析例が増えれば,この仮説を検証できると思っている。」
縄文人は何を食べていたか — 新しい科学が明らかにする日常
安定同位体で古代人の食生態変化を読む:南川雅男
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/021/ss_4.html
 
 
 
 
 
「古人骨からコラーゲンを取り出し、炭素と窒素の安定同位体を定量、それぞれの同位体比率を測定すると、どんな時代の人骨あろうとも、その人が蛋白源としていた食物の内容はまるわかりになる。」

「生身の骨では破損と造成が繰り返されて新陳代謝してゆく。その結果、10年ほどで完全に新しい骨に置き換わる、骨のコラーゲンにはその10年間分の平均的摂取食物内容が記録されたことになる。」
 
「その骨の炭素の安定同位体はC12(12C)がほとんどだが、炭素13も微量に含んでいる。窒素では14と15が含まれる。微量な同位体の多いほうの同位体に対する比率が炭素同位体比δ13Cと窒素同位体比δ15Nである」
 
「自然界においては、食物連鎖が上がるにつれて炭素・窒素ともに同位体比の数値が高くなる。一方、海の生態系である肉食魚類や海獣類の窒素同位体比が非常に高いという特徴がある」
以上 片山一道『骨考古学と身体史観』2013 「日本人の原像を探る(一)」
 


 
 
このように、どの食物連鎖の階級にあるかによってその生物の炭素と窒素の同位体比が異なることとなる。この原理を用いて人骨でも、安定同位体比測定値から、彼が生前にたんぱく質源として常食した生物群の相対量を推定できるのである。簡単に言えばあなたがいつもなにを蛋白源にしているかなどは、骨からまるわかりなのよ。
こうして北海道の縄文人はサケ、マス、アザラシ、オットセイ、セイウチ、トドなどがメイン、本州は植物食メインだが地域によって魚介、獣肉と狭い中で違いが出た。東海地方は地域によってばらばらまちまちの結果。つまり漁労採集者と植物・草食獣狩猟民とが混在。分業したとも考えられるが、もしや別種の民が混ざっていたかも知れぬ。この傾向は西日本の瀬戸内でもっと顕著。
 
 
δ=デルタ=変異の量・変数 ここでは濃度
13C・14C=炭素同位体
 
 
 

次回 私説「抜歯・研歯風習はもしや鉗子状咬合と関係?」
 
 
 
 
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あずさゆみひきとよくにのかがみやま

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予定を変えて以下の記事を転載します。




●梓弓引豊国の 鏡山 見ず 久しならば 恋しけむかも  かがみのおおきみ



「 梓弓引豊国(あづさゆみひきとよくに) の 鏡山見(かがみやまみ) ず 久(ひさ){ママ}ならば 恋(こひ) しけむかも」の〈梓弓引豊国〉は「梓弓を引き 響(とよ) もす」の意であり、トヨは、本来、雷の音のように響きわたる音を表わす擬音語で、トヨミ(響・動)と同根。転じて、あたりに音が満ちあふれるように感じられる豊作の感動をいう語になった注1。

  注1. 平成2年2月 大野晋ほか編『古語辞典』(補訂版)岩波書店 」




◆「あづさゆみひき」
豊国に掛かる枕詞
あづさ弓の音が鳴り響くという豊国
あづさゆみとは梓の木で作った弓。

鏡山は福岡県田川郡香春町の香春岳東側にあるこんもりとした山。伝河内王墓がある。

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鏡王は額田王(ぬかだのおおきみ)の母。



◆「とよ」大音声で鳴り響くさま。
「とよみ」響み・動み 鳴り響くの連用形。騒ぐこと。→平安以降どよむ、どよめくへ変化。

 我が宿に 月押し照れりほととぎす 心あらば今夜来鳴き響もせ  万葉集巻八・1480

  わがやどに つきおしてれり こころあらばこぞなきとよもせ


響もす弓・・・九州の古代氏族には弓をステータスにしたものが多い。まず倭五王時代の西国管理者であった靫負(ゆげい)大伴氏の「ゆげい」とは弓を負うという意味で大王の警護氏族であることをステータスにしている。その配下にあったと思われるのが浮羽郡(うきは・ぐん 古くは生葉郡)の的臣(いくはのおみ)、日田郡の弓連(ゆきのむらじ)、日下部、隼人などである。
その「ゆみ音とよもす」国として豊前地方の「とよ」に掛けて詠まれるのが「あづさゆみひき」である。

(生葉とは豊前などに見られる横穴墓の木の葉の線刻文を持つ部下であるか?)

つまり肥後国人吉地方~筑紫国朝倉郡~豊後国日田郡~豊前国田川郡から企救郡、上・下毛郡にかけて、九州を斜めに縦断するラインに配置されていたと思われる靫負軍団の関の存在があって、その古い時代のつわものどもの雄姿と「とよくに」の「とよ」を鏡王はよく知っていたことになる。また畿内の人々もその意味を知っていたことになる。

これを筆者は弓と菊花の豊ラインと呼びたい。

菊花とはもちろん南九州氏族だった隼人や草部のいた旧熊襲の所領・・・人吉地方から八代、宇土にかけて見られる石棺の菊花文である。


誇り高き大伴氏の手下となって九州の最前線を諸外国の侵略から護った軍団。そのステータスシンボルが菊花と弓であったのだろう。




鏡王女はなぜ「筑紫の豊前の田川郡の香春の」的臣や大伴氏ゆかりの靫負の歌を歌ったのだろうか?




舒明の兄弟に茅渟王がある。二人とも息長広姫の子であるから坂本の息長氏をめのとにしたのである。

額田王の姉になるというのが鏡王長女の鏡王女である。今、彼女たちが姉妹だったとう説は下火である。

筆者は同一人物だったと考える。なぜなら記紀で●●王女を「●●の・おうじょ」と捉える前例が少ない。むしろ●●王の女(むすめ)と考察すべきで、万葉集などが伝える鏡女王や鏡姫王などの表記は疑わしく、鏡王のむすめとよむべき。(参考・荒木敏夫2013)。
 
鏡王女には藤原鎌足に言い寄られたというエピソードがあり、額田王には天武と天智との三角関係がある。どちらかが事実で、どちらかは一方を誤魔化すための捏造であろう。和歌の達人として筆者は鏡王女実在、額田王創作を考える。そして彼女の真実の思い人は鎌足だったと見る。天智・天武の確執を言うがために額田王は鏡王女から創作された。
 
鏡王女の墓所は、忍坂山の南西麓の小盆地のまん中、ちょうど相撲の土俵のようで、こじんまりとひそまりかえり、わずかに松籟をひびかせている趣きである。
 
鏡王とは何者か?
近江湖東南部に鏡山がある。豊前田川郡香春町にも鏡山がある。後者は河内王墓がある。
前者近江息長氏のメッカ、後者は秦氏が祭った息長帯姫大目命を祭る香春岳の目の前である。
いずれも息長氏地名であろう。山科にもある。
「しな」は風でたたら・ふいごである。「しなが」は「おきなが」である。
 
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何を嘆かむ
                                 ...鏡王女・ 万葉集
 
風によって火をおこし、それによって銅を精錬した鏡造り氏族。それを鏡王女は知っている。
それが息長氏なくしてはできなかったことも。

鏡王が銅鏡を作る氏族だったとするならば、鏡山はいずれも銅山・銅鏡にちなむ地名であろう。つまり息長氏と秦氏による銅山経営から鏡王という不明な人物像は出てくると言えよう。
 
このように、息長氏に関わるエピソードの多くは謎に満ちているが、継体大王以前のもののほとんどは何らかの理由で息長氏の色合いを薄められ、違う氏族のような扱いになっている。そこにはあるキーポイントがあるだろう。
 
 
それは鏡王女が鎌足の妻で、その子供が藤原不比等であるという事実である。『日本書紀』系譜の捏造はここまで遡って初めて見えてくる。
 
糠手姫のエピソードや名前も筑紫から出てくる采女の子・鏡王女と豊前息長氏の婚姻からの創作なのかも知れない。大海人皇子の妻で あった額田女王は、託宣により筑紫の行宮で中大兄皇子と婚姻の式をあげたと『日本書紀』は言う。なにゆえに筑紫か。真実は額田王=鏡王女は太宰大卒河内王の妻だったのかも知れない。」



河内王は天武天皇の皇孫と系譜は言っているが、同時に百済王の血脈とも造る。
謎の人物である。その河内王の筑紫でのえにしに、なぜ鏡王女が関わるのだろうか?このなぞをいずれは解くのは筆者ではなくこのサイトであろうか。




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Kawakatuがおすすめする数少ないよいサイトである。




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食の民俗古代学 序章

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ゴールデン・ウイーク特集ということで
明日から「食の民俗古代学」と銘打った特集を組んでいる。
ついでにそろそろ到達するだろう80万アクセス達成記念特集記事としておきますか。



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鰹節、魚醤、海産物など、今も多くの「縄文伝統食」が日本には継承されている。
主として伊豆諸島をメインに伝承されてきた伝統食を、おいしい画像たっぷりで扱う予定。



今日は、春の宵が素晴らしいので予告だけだけれど、ひとつ宿題を出しておこうか。




1 日本人が圧倒的な摂取量でもっとも多く食べている魚はなんだろう?

2 主に関東地方で「さす」という言葉で表現される農法とは?

3 世界で魚醤と言うとどれぐらいご存知だろうか?そしてそれらがどこどこで造られてきたか。その各地に共通する文化とは?


食いしん坊のKawakatuならではの楽しい記事になればと思っている。
乞うご期待。




 ヒント 目に青葉 山ほととぎす・・・・?



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うまいもんを記事にするときのタグはこれ

日本人が気づかずに最大摂取している魚・その民族考古学と世界共通性

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今回の記事はうまいものだけに力が入っていますよ。

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●日本人が気がつかずに最大摂取している大好物の魚とは?

日本人が年間一番食べる魚は!
1位 サケ
2位 マグロ
3位 サンマ
4位 ブリ
5位 アジ
6位 サバ
となっているが、これは焼き魚や刺身など、魚としてそのまま食べるものの順位。

では漁獲量で見ると・・・

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(漁獲量の順位は毎年変わります)
やはりサバやイワシが多いようだ。イワシは大半が飼料や肥料になるので食べている量が多いとは言いにくい。昔は食べる量ナンバーワンだったが、今は値段もあがっていて秋刀魚にまけている年もある(捕鯨禁止も大きな要因か)。


ところがこれが総摂取量となると日本人でダントツ一位になるのがこれなのだ。


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静岡県の市場に水揚げされたカツオ


実はカツオなのである。え、ぼくはそんなにカツオ食ってない?
血合いが多くて生臭いし?
あまり食べない?
高知県民じゃないから?

何言ってるんです。
違う。食べているんじゃなく、「摂取」している魚はと聞いたじゃないの。
毎日毎日三度三度。





なぜ?

カツオは日本人独自の味覚である「うまみ」の素となる出汁の元だからだ。
毎日飲む味噌汁の出汁、うどん・そばの出汁に鰹節や昆布は必ず使われる。
最近はラーメン出汁にも使うし、鰹節のお結びは人気商品。お弁当に使うふりかけにもだいたいカツオは入っている。だから知らないうちに日本人は毎日カツオを摂取しているわけである。好きとか嫌いを言う前に、最初からぼくたちの生活に浸み込んでいる隠れた最愛の食材なのだ。知らずに摂取している。毎日どこかで。だからカツオこそが日本人最高の消費量になるわけだ。魚としてと言うよりエキスとして毎日だから、その消費量は見えないところで№ワンなのである。

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「木枯れ節」最高級品。カビをつけて熟成させる。これが削り節・花カツオになるのだ。

●肉食民族は魚が本当にうまいとは思っていない
今でこそ和食は世界中で認知されたが、一昔前にアメリカ人に魚は好きか?と聞くと
「大好きさ、月に一度は必ず魚を食べるんだ」と答えた、
というジョークがある

それほどアメリカ人は肉漬け生活者なのだ。別のアメリカ人はこう言ったという。

「日本の料理は何を食べても魚のにおいがするんだ。それが西洋料理でも中華料理でも魚のにおいがするのさ。だから日本のレストランやホテルでは食べられないくてもう死ぬかと思ったよ。命からがら逃げ帰ったさ」

結局、肉食民族は和食やうまみをまだ理解できておらず、ダイエット食品として無理に食べているというのが真実らしい。オバマの寿司好きも、要するにしゃりの甘さとか、健康食としての「好き」程度であるようだ。本とうは久兵衛の寿司が食べたくてホテルに取り寄せたというが、刺身のうまさがわかったかどうか?ハワイ生まれとはいいながらねえ。



●うまみと日本人と世界
ことほど左様に日本人の味覚=うまみ成分を決めているのがカツオなのである。
だからたとえあなたがカツオのたたきが嫌いであっても、あるいは刺身が好きでなくとも、カツオの摂取量は日本一なのである。こういう資料はなかなかネット上に出てこない。誰も、当たり前すぎて出汁の素の主材料がカツオであることを忘れてしまっているのである。カツオのうまみ成分である(実際のうまみ成分はイノシン酸とおよそ20種類に及ぶアミノ酸の相乗効果によって形成される)イノシン酸は、ほかにもほとんどのスナック菓子や酒の魚、缶詰、糠どこなどの加工食品の味付けにも使われており、日本人が「うまい」と感じているうまみ成分のほとんどはカツオベース、昆布ベースが基本である。


●カツオの生物学的特性
「(Matsumoto et al. 1984、St?quert and Marsac 1986、Adam 1999等による。)カツオは3大洋すべての熱帯~温帯水域、概ね表面水温15℃以上の水域に広く分布する。インド洋では40°S以北に分布するが、紅海・ペルシャ湾には見られない(図3)。インド洋のカツオ資源は他2大洋とは別系群と考えられている。


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      図3. インド洋におけるカツオ分布、繁殖域、および漁場
 

インド洋のカツオの成長研究は確実な年齢形質が確認されておらず、標識魚の放流・再捕データを使っても生活史の限定的な期間における成長を推定するに留まっている。体長組成解析からは満1歳で30 cm台、満2歳で50 cm台、満3歳で60 cm台に達する成長パターンが示されている。体長体重関係は、尾叉長50 cmで概ね2.5 kgとされる。寿命に関して言及されてはいないが6歳以上には達するであろう。

成熟は尾叉長39~43 cmで開始し、産卵は表面水温24℃以上の水域で広く行われ、仔魚は30~36° Sから11~15° Nまで出現する。産卵期は海域によりピークが見られるが、周年と考えられる。

餌は魚類・いか類・甲殻類で、カツオ成魚の捕食者はさめ・かじき類が挙げられている。また、未成魚以下の成長段階における捕食者は、他大洋と同様、カツオ自身を含めた高度回遊性魚類のまぐろ類・かじき類、その他大型の魚食性魚類や海獣、海鳥であろう。」

●考古学的カツオ食の歴史
・古代カツオ用擬餌針は朝鮮半島、九州、房総などで出土
カツオは大昔から食料となっていたようで、縄文時代の貝塚(食後の貝殻などを捨てた場所)からも、動物の骨や角で出来た釣り針等と一緒に、カツオの骨が多く出土する。

縄文時代後期(今から約3,000年~4,000年前)の千葉県館山市鉈切洞穴遺跡からは,鹿の角で作られた釣り針が出土。釣り針の大きさや形態にバリエーションがあり,目的とする魚種・釣り方が既に多様であった。漁師も釣り師もいにしえから切磋琢磨していたらしい。

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千葉県白浜町沢辺遺跡では、古墳時代後期の鹿角製のカツオの曳き釣り用の擬餌針とカツオの骨とウロコが出土している。


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複合式擬餌針。朝鮮半島や熊本県、長崎県でも出る。縄文後期





『延喜式』によれば、飛鳥後半~奈良時代の律令時代の税調としてカツオ節の記録がある(橋口尚武)。

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カツオの一本釣り船


●租庸調としてのカツオ節・カツオ汁・本場は相模・伊豆・駿河
税としてカツオ節を収めるよう指示された国は
日向・豊後・土佐・阿波(徳島県)・紀伊・志摩・駿河・伊豆・相模・安房(千葉県南部)の10国である(現代漁獲量の多い薩摩鹿児島県や陸前宮城県気仙沼がない。薩摩は日向だった時期が長いので含まれているか?あるいは埒外だろう。宮城・東北はまだ埒外で律令支配下にない)。

これ以外にも「中男作物」として木簡に記録があった国には遠江があって全11カ国から献納されている。この木簡とは今で言えば荷札であるが、カツオ節の記録がある荷札を「カツオ木簡」と考古学では特別視している。その出土総数は平成10年までで216点を越える。そのうち国名がはっきり書かれたものが145点で、そのうちの86点が伊豆国・相模国であった。さらに伊豆国に比べると相模国は約二倍の納税数で、ダントツ日本一であったことがわかる。(瀬川裕一郎1997)



木簡の多くはただ「堅魚」とされるが、当時、生ものが都に届くはずはなく、カツオ節、それもカビつけ前の単純乾燥品の「荒節」「麁堅魚」「荒堅魚」「あらかつお」である。現在でも高知県土佐清水の中浜や鹿児島県などではカビをつけない半生節が作られている。これが最高にうまい。筆者おすすめの大好物である。

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写真はKawakatu愛好品の鹿児島産金ラベル「本節」

取り寄せ方法や情報はこちらへ



●漁期
カツオの漁期は伊豆諸島では4~5月で、これを関東の江戸時代人は「初ガツオ」と呼んで本場の旬ものとありがたがった。伊豆諸島では昭和30年代まで、各家庭で荒カツオが作られていた。

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頭を切り取り、水洗いし、三枚におろし、背身と腹身を水を張ったなべに笹を敷いて並べ、茹で上がったら中骨をはずして燻す。2~3時間で半生燻製になり、これが半生節で、大変な美味である。

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●イル・ニトリ・イカリ
カツオを煮出した汁も貴重な調味料として献納記事がある。これも伊豆諸島である。養老三年、719年に地子制(じし・せい=日本の古代・中世から近世にかけて、領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代=小作料に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた。元々、地子は生産物地代の)が開始されたが、地代として伊豆国に「堅魚煎(伊豆諸島ではこれをイルと略す)一斗」を出すよう指示が出ている。イルとはいわゆる出汁でそれを採るための鰹が堅魚煎、汁が堅魚煎汁である。醤油が発明される以前の朝廷の高級調味料だった。火が入るので魚醤とも違う。


静岡沼津市の藤井原遺跡から、鰹を煎るための堝形土器(るつぼがた・どき)がいくつか出ている。伊豆半島、伊豆諸島の鰹をここに集めて加工していた遺跡であるとされる(橋口)。その口のサイズはちょうどカツオがすっぽりとはいるように作ってある(口径45~53センチ。カツオのサイズは上記したように、年齢によるがだいたい30~60センチ。カツオ節に向くのは50センチ前後の中型である)。


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(橋口尚武『食の民俗考古学』2006より)


ルは『延喜式』にはイカリとある(民部寮・寛政11年「蔀関月」。)

今はニトリと呼ぶ。「煮取り」汁という名前である。かつてこれをさらに煮詰めて塩を加えて「ヨロ」という貴族たちの高級調味料になっていたという。いわゆる今で言うならば「濃縮天つゆ」の最高級品のようなものである。出汁のエキスである。


●調理法
八丈島では鰹に大根、芋などを合わせて炊き込み、鰹の身をたたいてつみれ団子にして麦の炒り粉をかけて食したとある(『伊豆海島風土記』)。また亀(ウミガメ)を捕獲してこれを一緒にして炊いたともある。亀を食した風習は各地にあるが、福岡県では今もその旨煮を「がめ煮」と呼んでいる。いわゆる東京で言う筑前煮(炊き)のことである。

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福岡のがめ煮 往古はアオウミガメやアカウミガメ、今は鶏を代用している。



カツオ漁はえさとなるトーゴーという小魚取りから始まる。つり方は生餌一本釣りである。昨今は疑似餌のトローリング漁が主流。4~8月、戻り鰹が来る11月が最盛期。


●壱岐から紀伊を経て房総へ広がったカツオ漁は「倭人の食習慣」
このようにカツオは縄文時代後期を最古として、太平洋岸各地に遺跡、遺物を出土させる日本人最古級の食品である。ところが壱岐・対馬周辺でもカツオの骨を使った複合釣り針が出ており、これが太平洋側の伊豆・房総周辺の釣り針と同じである。複合釣り針そのものは朝鮮半島海岸部でも出土する。すなわりカツオ漁は倭人の習慣であったと考えられるのである。

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また古墳時代~律令時代には静岡県沼津市の藤井原遺跡などから多数の堝形土器が出てくる。


●カツオ漁と太陽信仰
このカツオ漁のルート、実は捕鯨の伝播コースとまったく一致する。いさな取りの海人族は壱岐島の勝浦を大元とするのだ。しかも彼らはサル田彦や月読信仰でも一致し、最大の信仰にはアマテラス=太陽信仰がある。

もちろんもともと海流が壱岐対馬の手前で分岐することも関係するが。

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●モルジブ・フィッシュと魚醤分布はリンクする?
伊豆諸島などと同じく荒カツオ節を作る国はモルジブ(モルジブ・フィッシュという)が知られている。総漁獲量の実に70パーがカツオである。使い方もカレーなどの出汁として使う。

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モルディブ・フィッシュ
 スリランカ料理に使われる、ハガツオの加工品。インド南西のインド洋上、アラビア海と、ラッカディブ海にはさまれたモルジブ諸島、モルジブ共和国の特産品。 
http://majin.myhome.cx/pot-au-feu/dataroom/foods/fishes/Maldive_fish/Maldive_fish.html


●インド洋が世界のカツオ漁の本場
インド洋でのカツオ漁獲量は、1950年から1982年(西インド洋でのまき網漁業が本格化する以前)までは最大6万トン程度であった。1983年から漁獲量は急増し10万トンを超え、1992年には30万トンを、1994年には40万トンを、さらに2000年には50万トンを超えた。その後もほぼ50万トンを超える漁獲が続き、IOTC科学委員会の報告書に掲載されたデータによれば2002年には56.3万トンの過去最大漁獲量を記録した。最近5年間(2000~2004年)の平均漁獲量は、52.9万トンである。最近年の漁業国としては、モルディブとインドネシアが10万トンを超え、次いでスペイン、イランが6万トン台、さらにフランス、スリランカ、セイシェルが3万トン台を漁獲している(図1、付表1)。

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●高度回遊性魚類を食べる民族の共通性
要するにカツオを食べる民族は、一言で言って海人族なのである。ちなみにモルジブは魚食量も世界一の国である。こうして見ていくとカツオを食べる民族は、なんらかの共通性があるといえるだろう。それは海の民であり海洋民族でもあるが、とインド洋と太平洋を中心とする魚醤文化圏とリンクしていることが予測される。次回、その魚醤(ひしお)を扱う。また、カツオ漁をする人びとは世界中で、カジキ漁も行うことが多い。これは黒潮に乗ってやってくる高度回遊性魚類という点で一致し、本マグロ、メジマグロ、ヒラマサ、サワラなどもこれに含まれる。相模の釣り師にはよく理解出来るはずである。

ということは海流が流れる外海での舟漁を恐れない古代からの人びとだったということになるのである。甕棺の発祥地をインド・インドシナ・モルジブなどに求めるとき、この共通性は非常なヒントとなるはずである。




発酵食品の世界史

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ここでは遊牧民の発酵食品であるチーズは扱わない。主として穀物と魚介類を使う食品・・・魚醤、なれ寿司、塩辛、くさや汁などを扱う。
 
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◆世界の魚醤
タイ・・・ナンプラー
ベトナム・・・ヌックマム (ニョクマム)
フィリピン・・・パティス (patis)
カンボジア・・・トゥック・トレイ
​ラオス・・・ナンパー
ミャンマー・・・ンガンピャーイェー
インドネシア・・・ケチャップ・イカン
バングラデシュ・・・ナピ
マレーシア・・・ブードゥー
中国広東省・マカオ・・・魚露(ユーロウ)
福建省福州・・・魚奇露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)
厦門・・・ケチャップ(鮭汁)
秋田・・・しょっつる(塩汁)
能登・・・いしる(魚汁)
香川・・・いかなご醤油
伊豆諸島・・・くさや液
イタリアの一部地域・・・コラトゥーラ・ディ・アリーチ、アンチョビ
古代ローマ・・・ガルム・リクァメン(フランス・イタリア・スペイン・ポルトガルなどから献納記事あり。カツオ食と同じくすべて地中海沿岸である)
北欧にはシュールストレミングという聞きしに勝る缶詰があるが、イル汁はどうしているのだろう?何かにつけて食べたりしないのか?情報を。
 
 
 
◆臨シ人骨の人びととひしお
前に中国の山東半島の臨シ遺跡の民族は歴史上三度入れ替わっているという遺伝子DNAによる人骨分析を紹介した。その山東半島にはユーロウなどの魚醤が存在し、塩辛もある。このことから見えてくるのは、山東半島には最初2500年前には西アジア騎馬遊牧民が入っていたが、それが2000年前に江南の倭族に飲み込まれ、これが倭族である証拠として山東半島に魚醤や塩辛の伝統を残したと思われ、最後に排他的畑作牧畜民である漢民族が侵入して、それらすべての異民族を追い出したのであろうと考えられる。すると、考えようによっては日本の倭風習もスキタイの持っていた白人・トルキスタン遺伝子も、同時に2000年前に日本に避難してきた可能性がなかったか?とも思える。例えば以前も書いたが山口県土井ヶ浜の人骨にはトルキスタン的要素が見え、日本海側東北地方では白人形質の遺伝があるという伝承がよく言われていることと関与しはしないか?
 
 
 
 
◆世界の文献上の発酵食品
最古の魚醤の記録は『周礼』の紀元前3世紀
上記各国には同時に「肉醤(ししびしお)」がほぼ同居するが、これは「なれずし」の原型。

また塩辛もほぼ同時に存在する。
古代ローマの魚醤記録は紀元前1世紀。
共通する文化として米食、漁業がある。
東アジアはこれが大豆などの味噌文化から、浸みだした液体を使う醤油(穀醤)の発明によって交代していった。
 
 
 
 
 
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つまり魚醤と穀物の組み合わせによって発酵食品は発達するとみられる。
 
 
◆穀醤卓越地帯と魚醤卓越地帯
 「古代中国での魚醤づくりは塩をした魚に麹を加えて発酵を促すと述べたが、同じ製造法で肉を材料として作った肉醤も食されていた。しかし、漢の時代頃から魚醤,肉醤の代わりに大豆や穀物に熱を加えたものを原料とする醤、つまり穀醤づくりの技術が生まれた。これが味噌、醤油の先祖にあたる。
 
その後,穀醤は東アジア、すなわち中国,朝鮮半島,日本で発達した。日本は中国の食文化が入ることで,かつてあった魚醤文化が消え、味噌,醤油を主な調味料とする文化になった。しかし、東南アジアでは近代まで穀醤の技術が伝わらず、魚醤とスパイスが味付けの主流となった。東南アジアは魚醤を調味料の中心とするいわば“魚醤卓越地帯"、東アジアは穀醤を中心とする“穀醤卓越地帯"といえる。この2つの地帯は塩味とグルタミン酸を共有する“うまみの文化圏"を古くから確立していた。
 
 塩辛は大豆や穀物を発酵させたモロミに、塩辛ペーストは味噌類に、魚醤油は醤油に対応し、ほぼ同じ用途に利用される。原料や製法の違いを超えて、食生活における調味の共通性が東アジアと東南アジアに存在する。その共通性は非牧畜、水田稲作地帯の食事パターンに根ざしているように思われる」
http://ishige.syokubunka.or.jp/archives/fishsauce/chapter10.html
 
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ごらんのように東アジアではなれずしと魚醤はリンクする。魚醤や魚介類・穀物の醗酵食品の派生はインドシナと石井直道は見ているが、なぜかインドシナにはカツオ食が存在しない。カツオはインド洋の暖い海で産卵し北上する暖流を好む魚類だが、インドシナでは、まだ十分に肥大せずに幼魚のまま東シナ海から日本へ向かうようである。だからインドシナではカツオは漁業の対象にならないようだ。インド洋で産卵し、太平洋へ遡上し、北の海のプランクトンで大きく育って戻りガツオとなってまたインド洋に戻るのだろう。こういう高度回遊性は鯨も同じである。北上してベーリング海へ向かう。そこには世界最大のオキアミの生育地があるのだ。
 
 
 
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伊豆諸島のとびうおのくさや
うまいぜ。
 
 
 

伊豆諸島で調味料と言えばウッショとエンバイである。
ウッショは潮、つまり海水、塩。
エンバイは塩配(塩梅)でウッショをベースにして・・・
「魚をたたき塩を入れ、肉醤をつくり貯蔵し、その上澄みの汁をとって、醤油とし、下層に沈殿し、凝集したもの」
『伊豆諸島東京移管百年史(上)』東京都町村会編1981
 
 
どちらかというと味噌のような固形物である。こういう上澄み以外の沈殿物まで使う習慣は、世界では魚醤と同様の製法で作られ、液体を漉した後の物を固めたペースト状の調味料も用いられている、インドネシアのトラシ (trassi) や、マレーシア、ブルネイのブラチャン (belacan) 、フィリピンのバゴオン (bagoon)、カンボジアのプラホック (ប្រហុក、prohok)、ミャンマーのンガピ (ngapi) などがある。トラシやブラチャンはオキアミのペースト。マカオ周辺でもオキアミを用いた蝦醤(ハーチョン)などがある。
 
例えば地中海のカタクチイワシを使ったアンチョビなども使い方は調味料で、熱調理すると溶けてなくなるから味噌、エンバイだといえる。
 
 
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古代からあったのは中国・ベトナム・日本そしてローマだけである。
 
 
 

「◆日本では、近代的な食生活において、塩分濃度が高く風味が独特な魚醤は、醤油やうま味調味料の普及により一般家庭での使用は減っているが、いくつかの地方には魚醤を用いる文化が残っており、郷土料理などに利用されている。主なものでは、秋田でしょっつる(塩汁)、能登でいしる(魚汁)、香川でいかなご醤油が製造され、地元を中心に使用されている。この他1990年代後半ころから伝統的製法とは異なる製法が開発され、商品が製造販売されている(新製法の項目参照)。また、伊豆諸島でくさやを製造する際に用いられるくさや液も魚醤の一種であると考えられる。また90年代以降のタイ料理やベトナム料理の普及に伴い、後述の東南アジアの魚醤が比較的容易に入手可能になっている。
 
 
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◆東南アジアでは、タイのナンプラー (น้ำปลา、nam pla) 、ベトナムのヌックマム (nước mắm ニョクマムとも) が世界的に有名である。他にも、フィリピンのパティス (patis)、カンボジアのトゥック・トレイ (ទឹក​ត្រី、tuk trey)、ラオスのナンパー (nam paa)、ミャンマーのンガンピャーイェー (ngan-pya-ye) 、インドネシアのケチャップ・イカン (kecap ikan) などがある。中国の広東省やマカオの魚露(ユーロウ)も地元で広く使われている。これらの言葉はおおむね「魚の水」という意味である。福建省福州では𩸞露(キエロウ、1文字目は魚編に奇)といい、厦門のケチャップ(鮭汁)の「鮭」と同じく塩辛を意味する語と、「露」を組み合わせている。」

「◆歴史的には、古代ローマにおいてもガルム(ラテン語: garum)と呼ばれる魚醤が使われていた。現在でもアンチョビーペーストやサーディンペーストがある地帯は、かつてはアンチョビやサーディンの魚醤油が使われていた痕跡である。またイタリア南部アマルフィ周辺では、ガルムの流れを引くカタクチイワシの魚醤、コラトゥーラが今も作られている。
ケチャップは、トマトから作られるトマトケチャップが有名になっているが、ケチャップの語源は、福建省や台湾の「鮭汁」 (kechiap) という魚醤をさす言葉であるとする説が有力である(ケチャップを参照)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E9%86%A4
 
 
伊豆諸島のエンバイはシュウデ、ショッカラ、シオカラなどとも呼ばれ、アジ・トビ・サバ・カツオなどの頭・腸・身を叩いて、一斗(18リットル)に対して塩水(ウッショ)を煮詰めてとった塩、三升から三升五分を加え、桶に入れて蓄える。この上澄み液を「イル」という。いわゆる「ひしお」である。
 
伊豆諸島の名物といえば、カメノテやマツカサ貝でとった出汁にこのイルを入れ込んで煮込んだ「オジヤ」だ。

アシタバ・里芋・芋の茎(イモジ)・粟・かぼちゃ・海藻のはじっこなどを具に入れてぐつぐつ煮た雑炊である。
八丈島以外では戦争までは稲作がなく、粟・ヒエ・イモが中心だった。
 
 
 
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なにがなにやら・・・このままでは「うえ~~~」っとなりそうだが、なぜかうまいのね。くせになるのが塩辛・くさや類。
 
 
◆クサヤ
三宅島の大久保浜が有名である。ここの魚醤はクサヤ生産の副産物としてクサヤ汁が使われてきた。

干物にする魚のはらわた、一斗樽八分目に対して塩2㌔で塩辛にする。このときクサヤ菌が混じらないように注意。混じると臭くて喰えなくなる。一ヵ月後、天日に当てて発酵させる。
 
天日に干しながら棒でかきまぜる作業は、ベトナムのニョクマムがまったく同じ行程で作られる。

やはり海からやってきた文化なのだろう。20世紀以前から魚醤を作ってきたのはベトナム・中国・日本だけだと石毛直道は書いている(1986)
 
 
日本の現代の魚醤分布
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◆木簡に書かれた魚醤
奈良・平安時代の木簡では、平城京で「ふなのししびしお」というのが出ている。フナの塩辛であろうという。平安時代の神饌記録『延喜式』には「鮭背腸」(サケの血合いの塩辛)、「腸漬蝮」(アワビのワタに漬け込んだアワビ塩辛)がある。特に腸漬蝮は絶品であり、同じものは種子島に「福多求フクタメ」がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54015207.html
 
 

「淡水魚の場合、雨季と乾季の繰り返しによる季節的な水位の変動が魚の生態に大きな影響を与える。東南アジアの河川には堤防がなく、雨季になると河の水が氾濫して低地に水が流れ込み、水田一面を水が覆う。集落は小高い所にあるが河川から田んぼから水に浸っている状態となる。すると、河川の本流から水田に魚や魚のえさのプランクトンが入ってくる。
 
これらの魚は稲の切り株に卵を産みつけることにより、肉食性の魚から守られて稚魚がかえる。乾季になると水が引くので、水路に網ややなを張ると稚魚が一遍にとれるのである。東南アジア大陸部の各地には、このような水田での魚とりが行われ、その漁獲物が農民の副産物になったり、魚醤の材料に加工される、水田耕作と漁業がセットになった生活の地帯がある。
 
東南アジアで魚醤が起源した場所は、おそらくメコン河流域の、東北タイとラオスあたりではないかと考えられる。その辺りは現在ではラオス系の民族が住んでいるが昔はクメール族の土地であった。また、この地方は内陸の塩が比較的簡単にとれるので、古代のクメール族が東南アジアにおける初めての魚醤をつくったのではないか。現在でもタイ、ラオス国境のメコン河あたりが東南アジアにおける魚醤のセンターで、種類も豊富である。
http://ishige.syokubunka.or.jp/archives/fishsauce/chapter6.html
 
 
◆魚醤のうまみ成分表(石毛)
 
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海産物・穀物発酵食品のうまみ成分はカツオのイノシン酸とは違い主としてグルタミン酸を多く含むが、複合して生成されることでイノシン酸も含まれる。
 
発酵食品文化を大別すると遊牧民・牧畜民の発明した乳製品(チーズや馬乳酒など)と、漁労稲作文化が作り出した魚醤・塩辛文化に分けられ、これはそのまま草原の民族と海・島嶼・半島の民族のすみわけにリンクする。
 
ということは、カツオ食から見ても、魚醤から見ても、日本人はやはりオーストロネシア島嶼民族=倭種を基層とした縄文人ベースの民族であるということになるだろう。言語の膠着語要素から見てもそうなる。ところが遺伝子の中心だけが北方系新モンゴロイドだと語っていることとなり、文化と血脈に大きな矛盾があることに気づくのである。それはなぜかがこの特集記事の、実は最も大きな命題なのである。
 
 
 
 
魚醤・塩辛・くさや・なれずしなどの発酵食品・発酵調味料について詳しく調査している人では、石毛直道、あるいは小泉武夫が著名である。
 
知らない人もいるかも知れないが、うまいラーメンの下味にも、実は魚醤が使われている店がある。同じスープで作っているラーメンなのに、なぜかあそこはうまいと言われる店は、ナンプラーなどの魚醤をどんぶりに潜ませてあるのだ。
 
独特のあの臭みこそがうまさの秘密なのである。プロの裏ワザは、実はスープよりも隠し味に存在する。
 
 
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