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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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サス

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焼畑の呼称と地名  「日本の各地には、それぞれの名で呼ばれる山の耕作地があって、それらすべてを総称して名付けた呼称が「焼畑」である。従って全国には、焼畑または焼畑耕作地を表したさまざまな呼称とそれにもとづいてつけられた地名が多く残っている。

青森や秋田・岩手の地方ではアラキ、東日本ではノバ、アラク、カノ、カノウ、サス、ソウリ、ナギハタ、ムツジ・・・  西日本ではキリハタ、ニシメ・・ 九州に多く見られるのはコバ、アラマキ、カンノ、キーノ・・などじつに様々である。同様に、焼畑に関する地名も各地に見ることが出来る。

以下はその一部で、青森、秋田、岩手など北東北のアラキ(荒起)、東北、関東のアラク(荒久、新久)、各地に分布しているカノ(刈野、鹿野、狩野、加野、神野、蚊野、軽野)をはじめ九州に多いコバ(木場、古庭、小場)、アラマキ(荒巻、荒牧、荒蒔)などである。手近にある郵便番号簿をざっとめくってみただけでも、各地に実在する焼畑に関係する地名があって興味深いものがある。(下記以外にも見つけることが出来たがここでは割愛した。)
 
「岩手(下閉伊郡)鼠入」、「富山(平村)夏焼」、「岐阜(下呂町)火打 夏焼」、「三重(菰野町)切畑 (宮川村)小切畑」、「京都(網野町)切畑」、「大阪(豊能町)切畑」、「和歌山(本宮町)切畑」、「佐賀(富士町)古場」、「長崎(長崎市)(平戸市)(福江市)木場町」、「熊本(菊池市)(玉東町)木庭」、「鹿児島(栗野町)木場」などと広く分布している。
 
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農業の伝播
 
 
 
 3.焼畑の作物
 「焼畑の主な作物」
代表的な焼畑の作物
    ソバ・アワ・ヒエ   豆類:大豆・小豆    トウキビ
   里芋・カライモ      コンニャク
   大根・カブ         ミツマタ(和紙の原料)
 http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/yakibata.html
 
 
 
 
「木場」と焼畑地名
「ソリ・ゾリ・ソレ・ノバ・サス」なども焼畑特有の地名である。いくつかの地名を挙げよう。佐賀県伊万里市平沢良(ひらぞうら)、熊本県天草市火打木場、山口市夏焼、愛知県豊田市御内蔵連、長野県上松町焼笹、富山県平村夏焼、三重県宮川村切畑、岐阜県高山市火山、下呂市焼石・火打・夏焼、東白川村捨薙山・無反(それ)山、白川町柿反、揖斐川町大草履(ぞうり)、八百津町赤薙、中津川市夏焼・権四薙(ごんしなぎ)、恵那市焼山  愛媛県愛南町猿鳴(サルナキ) 宇和島市津島町鼠鳴 岡山県奈義町に聳える那岐山1240mは焼畑地名かもしれない。長野県南木曽町柿其(かきぞれ)峠の「ぞれ」は、急な上り坂が続く峠の崩れやすい地形をあらわしている。」
http://baba72885.exblog.jp/9814270/
 

「福井 (1983:239) によれば、「ある土地の現存植生を伐採・焼却等の方法を用いることによって整地し、作物栽培を短期間おこなった後、放棄し、自然の遷移によってその土地を回復させる休閑期間をへて再度利用する、循環的な農耕である」と定義される[2]。
焼畑にはいくつかの機能があると指摘されている。火を使うことについては

1.熱帯の土壌はやせて酸性のラトソルが主体のため、作物の栽培に適していない。そこで熱帯雨林に火を付けて開拓することで、灰が中和剤や肥料となり、土壌が改良される。

2.焼土することで、土壌の窒素組成が変化し、土壌が改良される[3]。

3.熱による種子や腋芽の休眠覚醒

4.雑草、害虫、病原体の防除
 
また十分な休耕期間は遷移途中に繁茂する多年生草本がなくなるので、この除去の手間がはぶけるなど省力な農業であるという。
 
基本的に灌漑を利用しない天水農業である。また、広域の山林における人間活動が、野生動物の里地への侵入を低下させる可能性も指摘されている。
ここで、キャッサバ、ヤムイモ、タロイモなど根菜類、あるいは、モロコシなどを栽培して主食とする。
 
かつては日本でも山間地を中心に行われ、秩父地方では「サス」、奥羽地方では「カノ」、飛騨地方では「ナギ」など種々の地方名で呼ばれてきた[1]。しかし、近年急速に衰退し、宮崎県椎葉村、山形県鶴岡市などに限られている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E7%95%91%E8%BE%B2%E6%A5%AD
 
 
焼畑と環境破壊
「焼畑農業には、賛否が渦巻いている。
古来の焼畑というものは、環境に害を与えるよりも、むしろ環境を改善するのに一役買っていた。
 
森を焼くことで、病害虫などを殺菌でき、燃えた灰は肥料分となり、土壌を改良してくれる。
 
生態系という観点から見ても、焼畑で一度リセットすることにより、生物の多様性が増すという利点がある。
 
 
 
焼畑が問題となるのは、そのペースである。
古来の焼畑は、充分な休閑期がもうけられていた。作物を3~5年栽培したら、10~20年は休ませる。
 
ところが、工業ペースに踊らされた農業では、それほど悠長に構えていてはオマンマが食えなくなる。
 
産業革命に引っ張られるように、焼畑もペースアップしてゆく(農業には革命が起こっていないにも関わらず)。」
http://eikojuku.seesaa.net/article/211589662.html
 
 
 


 
 
 
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サス、サシは古代~近世においてなんらの環境問題にも影響はなかった。
しかし、近代以後、世界のどの地域でも、効率を高めるためさまざまの環境問題を引き起こすとされてしまった。
 
 
焼畑農業がなぜ、伊豆諸島などに始められたかは、よくわかっていない。そもそも漁業を中心としてはずの島人が、なぜ畑作にも関心を示したか?それはもちろん島嶼の中で「真水が湧かない」ことに起因する。本来なら漁師たちは稲作水田の民であるはずが、真水がないために天水畑作に頼るしかなかった。
 
 
島人がすべて、海に頼って生きてきたわけではなかった。
 
 
伊豆諸島でも、魚介だけでは生きてはいけなかったのだ。
 
 
焼畑は縄文時代から始まっている。
 
 
それをいったい誰が持ち込んだかは、実はまったく不明である。
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
デジブック作品集http://www.digibook.net/?entrycode=openAuthorDigiBookList&companyuuid=a09029c91b6135a0ab4fbd77295016a8&pageno=1
 

人類だけが火を使う その1 アジア人だけが蒸し料理するか?だったらそりゃなぜだい?

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調理の歴史は「焼く」から始まった
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これこそ牛の丸焼き
アメリカ人はすげえ
 
 
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人類とほかの生物を区別するものは何か?
この質問にはさまざまの学説が出されてきた。

言語を使える
道具を使える

いろいろいわれるが、言葉らしきものを使ってコミュニケーションする動物は鯨やイルカも、そのほかの哺乳動物もないとは言えない。そもそも春に結婚相手を求めて鳴き始めた生き物は、カエルから鳥類、昆虫、哺乳類まで山ほどあり、言語とはそこから始まると考えて間違いではなかろう。ならばほとんどの高等生物は言語を持っていると考えて間違いではなかろう。
 
では道具はどうかといえば、えさの捕獲にカラスや野鳥の一部が小枝を使うことがあるし、類人猿はチンパンジーが道具を使う知恵を持っている。
ではなにが区別になるか。

食べるという一次的欲求の視点で言うならば、それは火を使うという答えにたどり着けることになる。あらゆる生物で、人類だけが火を使って調理する。また毛皮を捨てたために暖房として使う。火を使えるほかの動物などは皆無である。むしろ獣は火をやけどの痛みを与える対象として恐れる。人類にとっては危険な動物から身を守るにも火は絶大な効果をもたらした。
 
 
 
人類存続(=サヴァイバル)の基本は

1 火をできるだけたくさん使う方法を知っていること
2 水を確保でき、またそれを牛耳ることができること
3 あらゆる食べられる生物の生態、性格に詳しいこと、それらから身を守るノウハウをたくさん持っていること。
4 危険にあえて近寄らない自制心や知恵、経験
 
につきると言ってよいだろう。
 
 
 

 
 
 
では調理に視点から「焼く」を考えてみる。
 

(i)焼く
 「「焼く」は、人類が火を発見したときに始まる最も古い原始的な料理法です。たかだか1万年ほどの歴史しかない「煮る」、「蒸す」や、油を使いこなすようになってから可能になった「炒める」、「揚げる」という料理法に比べて、桁外れに歴史が古いのです。人類が火を日常的に使用し始めたのが12万5千年ほど前と言われています(50万年前の氷河時代にはすでに火で暖を取っている Kawa)から、「焼く」はまさに料理法の王道なのです。「焼く」は、直火焼き・炭火焼き・鉄板焼き・炙り焼きなど、その「焼く」方法は多岐に渡りますが、基本的には炎などの熱源の放射熱や、空気を媒体としての熱の対流を利用して食材を加熱する方法です。」http://sekatsu-kagaku.sub.jp/cooking-science.htm
 
 
「猿人が他の猿と大きく違うのは、直立二足歩行です。つまり二本足で立って歩いていたということです。ゴリラやチンパンジーはどちらかというと二本足で歩くこともできるという感じですが、猿人は楽々と歩いていたようなのです。これはとても重大な事です。なぜなら二本足(後ろ足)で立つと、空いた前足(手)に何かを持つことができるからです。すなわち道具の使用が可能になったのです。

もうひとつ、二本足で立つことのメリットは脳が大きくなることができたということです。四本足で歩く場合は、首は水平方向から頭を支えることになります。すると、あまり頭が重いと前にのめってしまい、歩きにくくなります。ところが二本足の場合は頭の重さは垂直方向に首にかかります。より重い頭を支えられるようになるのです。とはいえ、アウストラロピテクスの脳は400~500ccくらいでした。チンパンジーよりちょっとだけ大きいくらいです。現在の私達の1400~1500ccからすると比べ物になりません。

猿人の次の段階に来るのが原人です。
原人はホモ・エレクトスとも言い、アウストラロピテクスが身長140~150cmくらいだったのに対して、160~180cmくらいあったそうです。大体180万年前くらいからアウストラロピテクスから進化したようです。脳
みその大きさは900~1100ccくらいで、猿人の2倍以上になっています。
はじめてのホモ・エレクトスの化石は、ジャワ島で発見されました。これがジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス)です。アフリカを越えてアジアにまで広がったのは、原人が最初です。

60万年くらい前から、地球は氷河期に入りました。氷河は北から南に広がり、多くの生物の適応を刺激しました。 原人は、毛皮を身につけ、天幕を張ったシェルターに住んだり、洞穴に暮らしたりしたようです。

50万年くらい前には、原人による火の使用の痕跡が中国の北京で見つかっています。これが北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)です。聞いた事のある人もいるでしょう。 火を使えるようになると、暖を取れるばかりでなく、夜には明かりとなり、猛獣を遠ざけたり、食べ物を加熱調理したりすることもできます。」
http://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
 
 
 

さて、なぜ人類だけが火を使いこなせたか?

1 氷河期までに進化して獣としての毛皮を捨てたことから、発達した脳を使って工夫せねば生存できなくなり、最初は暖をとるために使用したらしい。
2 両手が自在に動かせたから。これは二足歩行によって脳の重さがそれを支える肩甲骨から開放されたため他の生物とは隔絶した発達した脳を持てたからである。
 
あらゆる生物には、開放空間を埋め尽くそうとする本能があり、人類だけは脳を増やしたのだと筆者は考えている。
 
3 火を使い調理する理由は、1うまくなる、2柔らかなる、3殺菌効果があるだろうが、最初は偶然から始まったのだろう。暖房の火に肉をいれてみたか、落雷や山火事で焼け死んだ肉に出会ったか、いろいろ考えられる。
 
 
 
では火を使う調理法は
1 焼く
2 煮る
3 炒める
4 蒸す
5 揚げる
6 包んで焼く・塩などでおおって蒸し焼く

などなどがある。

引用文にもあったように、この中で「焼く」がダントツで古い調理法である。単純明快、食材を火で焼くだけ。

あとの調理法は工夫された道具(土器・なべ・鉄板・フライパン・せいろなど)を必要とするためずっと開始が遅くなる。

面白いのは「蒸す」調理法が東アジア・東南アジアにしかないということだろう。
 
 
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蒸すはなぜアジアオンリーか?

蒸す調理は東南アジアなどもち米食から始まったと考えられている(石毛など多くの学者)。

もち米もうるち米も蒸す主食で、製粉しないでそのまま食べる調理法であるが、ではなぜ米は製粉食を選ばれなかったのか?それはそのほうがうまいからであろう。
東アジア・東南アジアでは米粉も使い、ビーフンなどの麺もあるが、それは小麦が先行していてそれを真似たもので、苦労する割りにさしてうまくなるわけでもない。日本では餅や団子程度に使われる。

 
 
「蒸し調理は、21 世紀の現在でこそ世界各地で行われている調理法である。しかし、東アジア以外の地域、例えばヨーロッパにおいては、中国式の青銅製蒸し器が紀元後 11 〜 12 世紀頃になってようやくもたらされ2) はしたものの、実際のところ今日でもそれほど盛んな調理法ではないらしい。マグレブ地方のクスクス3) や、グァテマラのタマリット・タマル4) のように、湯を沸かした水蒸気で穀物を蒸す調理法は各大陸の中緯度地域に点々として見られるので、蒸し調理がそれぞれ独自に発生した可能性はあるが、この調理法が新石器時代の古くに遡り、そして現在これほどまでに普及した地域は、おそらく東アジア地域のみであろう。そして同地域において、穀物を原料とした酒、酢、醤油、味噌などの発酵食品が発達したのも、蒸すという調理工程の存在なしには語れないのである。」
 

「1.東アジアにおける蒸し調理の発生と発達
遺跡から出土した甑に関する研究は古くから行われているが、東アジアにおいて甑が確認され始めるのは、黄河中流域の裴李崗文化(紀元前 6 千年紀)の土製甑で、河南省舞陽県賈湖遺跡に出土例がある(図2)。
 
一連の先行研究で、中国における甑や、甑と煮沸具が組み合わさった土器や青銅器の器種である甗(ゲン)の、地域ごとに独自性ある変遷がすでに整理されている5) ので、ここでは重複を避ける。また時代は下るが、漢代になると、壁画や画像石・画像塼といった絵画資料が多く残され、そこから蒸し調理の具体的な様子を知ることができる。
 
例えば後漢代の河南省密県打虎亭漢墓6) では、一号墓東耳室北壁に架け口を 4 つ持つ細長い竈の上に釜や甑、蒸籠などをのせて調理する場面が描かれている(図3)。
遺跡出土資料には有機物が残りにくいが、これにより後
漢代にはすでに、現在とほとんど変わらない蒸し調理が
 
 
 
東南アジアのインディカ米の調理法は実は蒸すのではなく、煮るに近い。
うるち米を釜で蒸す調理法はアジア全体でわ少数派である。つまり日本人の米の調理法である「炊く」とはジャポニカ米だったからこその調理法のようである。そのやりかたはつまりそもそもはもち米の調理法の延長なのである。言い換えればさをもち米のうまさをうるち米で追及していくことからジャポニカ米が発見されたという仮説が出てくることになろうか?
 
 

蒸すことを人類が発見するために、どのような条件がほかにあっただろう?

「「蒸す」は、水を加熱して発生した水蒸気の対流を利用して食材を加熱する料理法です。水蒸気自体は加熱をすれば100℃以上になりますが、蒸し料理は水蒸気の熱が食材に奪われていく過程で加熱をする調理法なので、食材の温度は100℃以上にならずにゆっくりと加熱をすることができます。そのため、蒸し料理の仕上がりはふっくら、しっとりとするのです。同じ水の対流を利用することは「煮る」と似ていますが、その違いは「蒸す」が気体の対流を利用することです。したがって、「煮る」ことによって生じるうま味や栄養の流失が極めて少ないのです。さらに、液体の中では水の物理的な動きによって食材は煮崩れしてしまうことがありますが、「蒸す」ではその型崩れは起きることがなく、綺麗な状態で仕上げることができます。」
http://sekatsu-kagaku.sub.jp/cooking-science.htm
 
 
どうやら正解はないようだ。
穀物をやわらくふっくらとさせるためだけだったのだろうか?
ではどうやってその調理法を発見できたのか?
答えはない。

考えられるのは、誰かが煮ている最中に蓋をしてみた?あるいは何らかの偶然で蓋がされた。

蓋をすれば食材は早く火が通る。水も沸騰が早まる。ここにたどりつくまでにかなりの時間がかかっただろう。しかし中華や和食の蒸す料理には、単に蓋をして蒸し煮すだけでなく、「甑=こしき」やがて「蒸篭=せいろ」を用いて水蒸気だけで蒸す調理法がある。これはどうやって発見したのだろう?
 
 
 
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「明の李時珍が編纂した『本草綱目』には薬材として蒸籠が掲載されている[2]。使い古したものから竹を取り外し、箒、草履及び蛇の抜け殻と共に焼いて灰を取り、白癜風(白なまず)の塗り薬とするとの記載がある。」(Wiki蒸篭)

そんな遅い時代の発明ではあるまい。薬に使うなどは食べるよりもずっと遅い「応用」であろう。蒸し煮から蒸篭への発展は、考えたら料理革命だったはずである。蒸篭がなければ饅頭も生まれ得ない。
 
 

「料理の発展を促した最大の原因は、都市の誕生にあります。杜氏の人口が増えるにつれ、生活の必要から、料理屋、居酒屋、茶楼などが町並みに現れ、都市人口がふくれると同時に、都市もますます繁栄し、それにともなって、中国の料理も発展の一途をたどって行きます。
 
ところで、北京の周口店で発掘された北京猿人は、火を使っていたことが、その遺跡から実証されていますから、北京猿人が肉を焼いて食べていたことは疑いの余地はありません。
 
今から一万8000年ほど前の古代人類、山頂洞人はその後期、すでに新石器時代に入っており、石の包丁を使い、肉を細かく切り、土器もつくれるようになり、ただ火であぶるだけでなく、煮て食べるようになり、それまでは、食用できなかったスッポンも、その頃から料理されるようになります。スッポンを焼いて食べるのは一寸無理でしょうが、石の包丁でさばいて、土器を使ってとろ火でゆっくり煮れば、美味しい料理ができます。それを一万年程前の人がしっていたのです。
これより更にあとになりますが、それでも今から6000年ほど前の原始社会の遺跡、西安の東郊外で発掘された半坡村遺跡から色々な形の陶器が出土していますが、その中に、底にたくさん穴のあいているかめがありますが、これは現在のせいろに当たるもので、6000年前の原始社会に生活していた人々が、物を蒸して食べ、この頃にはむすという調理法が相当普及していたことを物語るものといえましょう。」
http://www.togenkyo.net/modules/food/33.html
 
 

最初は陶器製だったようだ。それがアジアに多い竹を使うようになる。言い換えれば蒸篭とはザルを箱にした道具である。ということは竹が生えていたからアジアで蒸し料理が始まったわけではないことになる。陶器は土器が発展しただけの道具であるから、やはり最初は偶然、土器で煮ていて蒸すは発見されたことだろう。
ではなぜ西欧や中東その他地域には蒸す調理法はないのか?

小麦・大麦は蒸す必要はなく、粉にしたほうがあらゆる点で使い勝手がよかった。その証拠に南米原住民など固い穀物を主食とする地域の一部に、少数だが蒸し料理がある。
 
 

 
 

火と蒸すと人類について疑問点はさまざま湧いてきた。
土器は最古の調理器具であると言われる。
 
 
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縄文土器で煮物
 
 

しかし厳密に言えば焼くことが始まったときに「串」のような木の枝とそこらの岩で作った簡易かまどが最初の調理器具だったろうとは思うが。

しかしではなぜ網やロースト用のネットは遅かったか?これは火力に耐える金属発見を待ったためだ。小麦粉文化の諸外国でも土器は存在した。煮込む料理は西欧にだってたくさんある。しかし、それが蒸すには発展しなかった。なぜだ?それは揚げる文化の発見、オリーブの林の中に彼らが住んだためであろうし、麦の粉食文化だったこと、なによりも肉食生活はあまり主食を必要としなかったためでもあろうか?

ああ今年も「蒸し暑い」夏が近づいた。
「蒸す」でうっちゃる一日であった。
最後に究極の蒸し料理
別府鉄輪温泉「地獄蒸し」でしめくくろう。
 
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「中国人の祖先は、火を使うことを知ってから、数千年、生物を焼いて食べていましたが、新石器時代に入って、土器、更には、陶器をつくり、調理法から、更に煮る、蒸すことを覚え、更に進めば、油を使って炒めたり、揚げたりする調理技術に達するわけですが、これは更に、後のことになります。」
 
その割りに中国には天麩羅はない。
 
揚げる料理はそもそもが硬くて食べられない「廃棄物」まで食べようと言う人びとの考え付いた調理法で、日本の奴隷やアメリカの黒人奴隷の間では被差別の料理法である。被差別と狩猟民、牧畜・畑作民・遊牧民の料理と言える。
 
 
なんでも炒める中国人。なんでも揚げるアメリカ人。なんでもそのまま食べる日本人。料理には人類史がにじみ出る。
 
 
まあ、生で、握って食うのは日本人しかいなかったわけだが。
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド! http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
 
 
 
 
 

漢鏡時代別分布の読みかた・九州王朝はどこへ消えたか?

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京都大学人文科学研究所・岡村秀典
漢鏡の時期別区分
1.漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
2.漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
3.漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
4.漢鏡4期(前一世後葉から一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代)
5.漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
6.漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
7.漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
8.三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡
 
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出典:岡村秀典著『三角縁神獣鏡の時代』。1999年発行。発行所 ㈱吉川弘文舘

※この人の区分が正しいかどうか、あるいはこの区分によって畿内論者が導き出そうとしたがる「三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代の鏡」論が正しいかどうか、などの各論はここでは言及するつもりはない。問題のある区分法であることは百も承知で(ほかにいい時代区分と分布地図がないから仕方なく)使わせてもらう。
 
考古学の発掘統計にとって大事なことは、図面や分布図が示している、おおまかだが、ひと目で見えてくる客観的なその時代性だけある。九州説がいいとかヤマト説がいいというのは、筆者にはどうでもよいことで、これによってなんの結論も見出せるとは思っていない。単なる漢鏡の時代区分の一説であると捉えればよい。ただの便利な図でしかない。ただしこの人の時代区分にはいくらか人的恣意的偏見がないとは言えないかも知れないので、分析に注意を要する。ヤマト説、畿内説仮説にはどうしてもそういう部分が刷り込まれ、隠されているくらいの危機感は持って臨んだほうがよいかもしれない。
 
 

これで見る限り、漢鏡4~6期(前一世後葉から一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代~二世紀前期・後漢中期)の間は、圧倒的に北部九州地域に漢鏡が集中する。ほかの地域は5期に増え始めるが6期にはまた激減している。(北部九州内でも多少の東西への増減が見えることもお忘れなく)。

7期からがいよいよ卑弥呼の時代である。
2世紀後半から3世紀はじめ、後漢後期。

7期はさらに三段階に区分される。
第一段階 2世紀後半~
第二段階 ~3世紀初頭
第三段階 3世紀中~後半
 
卑弥呼と同時代になるのは第二段階~第三段階である。

見る限りでは確かにこの段階から北部九州では遺跡から漢鏡は消えてゆくが、一方だからといって畿内が、確かに北部九州に比べて突然増え始めるのだが、かつての北部九州ほどの数量の漢鏡があるともいい難いのがわかる。それはおそらくメインとなる漢鏡そのもの畿内での嗜好が、北部九州とは違っていたことと、渡来する漢鏡そのものが少なくなってきたこととが関係するだろう。2世紀中盤までの九州人の嗜好は方格規矩鏡や連弧文鏡あるいは内向花文鏡であったのに、あきらかに畿内では斜縁神獣鏡~画文帯神獣鏡などのいわゆる「神獣鏡」へと一変したのである。神獣鏡の特徴は絵柄の具体性であり、その内容は明確に鬼道=神仙思想の題材を用いてある。これは大変な矛盾した嗜好なのだということにまず気づかねばならない。
 

この時代、神仙思想と言えば中国では長江流域の呉を中心とする人びと(倭種・倭族のちの少数民族やベトナム北部越人)の宗教観であり、同時に神仙思想は呉の孫権が東北部の公孫氏燕国との共闘、挟撃作戦のために神仙思想の鏡を下賜していたはずの時代である。つまり神獣鏡そのものが漢鏡と言うよりも、呉鏡だと言っていい絵柄なのである。それを公孫氏を通じて畿内乃至は卑弥呼がもらっていたというのは特に奇妙ではない。しかし呉のライバルである魏が、公孫氏を打ち破って滅ぼしてから、そこへ朝貢したものが欲しがった、魏にいって呉の思想を描く鏡を欲しがる、それ自体が疑問視されてこないのは奇妙なことである。それは魏にとって気持ちのいいものだっただろうか?同じ神仙思想ならばなぜ彼らは九州のような、正式の古い鏡を欲しなかったのか?
 

畿内も北部九州も後漢を再興するのは呉か魏か公孫氏かという日和見をしていた時代があったはずである。遠隔地である畿内は、しかし公孫氏を通じてしか中国情勢がわかりにくい位置にあり、どうやら最終勝利者となった魏が、漢を復活して、後漢鏡や神仙思想をも共有する国家だと勘違いしたのではなかろうか?

しかし、魏の曹操は神秘的な呪術を信じない人であった。

当然、漢鏡に興味はなく、神仙思想にも興味はなかったはずである。

一方、二世紀まで北部九州が欲した鏡である方格規矩鏡や連弧文鏡(内向花文鏡)は前漢から後漢にかけてあった神仙思想を示す幾何学的絵柄を配置した正式な漢の鏡である。その歴史は中国では、後漢の中頃から三国時代を経て六朝時代に及ぶ時期に製作された神獣鏡よりも古いものなのである。つまりこの時点で、畿内側の神仙思想は古くからあった正式な鏡ではないことになる。知らなかったと言ってもいいかも知れない。なぜ畿内の人びとは神獣鏡にこだわったのだろうか?それは畿内の歴史が浅かったからであり、中国の知識に乏しかったせいであろう。だから畿内は倭の新参国家だという考古学の分析と合致することになる。

簡単に言えば北部九州は歴史が古かったために、前漢鏡を正統とした人びとの国家であり、同時に公孫氏はそれらを重視しなかった、呉も正統な鏡は公孫氏にも畿内倭人には与えなかったということが見えてくるだろう。しかし2世紀中盤までの北部九州にだけは正式な鏡を与えていたことになるわけである。

では邪馬台国の九州からの移動が畿内に起こったのではないかという意見(東遷説)は鏡からは成り立たないのだろうか?

土器編年から見れば、北部九州の土器は畿内ではほとんど皆無である。鏡の相違、土器様式の相違は東遷説を生み出せない様相を見せていることは否定できない。

つまり九州の王族は畿内へは行っていないのである。

ところが畿内や日本海、瀬戸内海諸国からは九州へ行っていた痕跡がある。九州から諸国の人びとは海外へ出て行っていたということであり、つまりどうしても北部九州の玄界灘に面した地域は、少なくとも畿内共栄圏の港になっているのである。
 

 
近年の魏鏡論者の意見によれば(福永 1994a、岸本 1993、1995)、三角縁神獣鏡にも様式に変遷があるといわれだしてきた。三角縁は国産鏡である。その手本になっているのは後漢以後の斜縁(=半三角縁)、平ぶち神獣鏡であり、特に画文帯神獣鏡であろうと考えられる。三角縁を考案したのは、魏が送り込んだ呉の工人たちであろう。倭人好みの巨大化に耐えうる強度を持たせるための工夫である。三角縁神獣鏡の絵柄の相違は、3世紀後半以後~4世紀のポスト九州王朝を畿内が手にしたことを証明する遺物だと言える。

それにしても納得できにくいのは北部九州のその後の正統漢鏡の皆無になってしまうことである。あれだけの力を持っていた北部九州王国は、なぜ3後半~4世紀に消えてしまったのか?それだけ呉に一辺倒だったために、呉が敗北して大ショックだったというのはわかる。それが衰退してヤマトの傘下になった契機だったということだろう。

それとも畿内ではないどこかへ四散していったのか?あるいは全員がヤマトに屈し、帰順し、追従したのか?その答えは4世紀に一気に増え始める前方後円墳が示していることだろうと思える。

倭人伝が倭国を南海上にあると書いた理由は、すでに書いたことだが、魏の挟撃思想から出たものである。魏を受け継いだ西晋は『三国志』の時代の話として、魏にとって倭が、呉の目の前の海にあってけん制しているぞという虚構が都合がいいと判断したのだろう。実のところ魏の祖先たちのほうでも、倭が南北どちらを選ぶか長い間情勢をながめてきたのだろうと思う。曹操の故郷は山東半島のすぐ北側だった。南にはもう呉がある。曹操は呉と倭の1同種 2長いつきあいの歴史を知っており、常に身近に見てきたのである。それだけに倭の水人を仲間にすれば呉にとって脅威になることも熟知していたと考えてよかろう。卑弥呼の使者が来たときは魏王と曹家たちは「やっと朝貢に来たか」「待ちわびた」「これで海の盟主にもなれた」、である。

まことに残念なことだけれど、今のところ、九州王家は4世紀までに衰亡し、畿内に従ったとしか言いにくい様子である。その後、では復活はなかったといえば、これまた残念なことだが、6世紀継体大王時代になってもそれはなく、磐井の敗北まで、独自性を持ち続けてはいたが、政治よりも経済の港としての博多の平安末期までの静かな繁栄しか聞こえてはこないのである。
 
 
今のところそう考えるのが整合であるように、九州人ではあるが、考えないわけにはいかないようである。反論無用。今のところであるあくまでも。
 
B型ゆえにまた明日には気持ちが変わっているかも知れない。
 
 
 

いまひとつ疑問がある。
それは倭五王時代の大古墳時代になって、漢鏡はやはり畿内には少し出るが、なぜか河内にはほとんど出ないことである。伝世されたということなら、河内政権は河内には存在しなかったということになるのだろうか?あるいはすでに神仙思想に興味がなくなったということになるのだろうか?それとも倭五王たちは本当に異民族だったのだろうか?^^;

筆者は倭五王の巨大古墳埋葬は、どうも納得がいかない。ヤマトとは別の王家であることを隠匿するためにヤマトが前方後円墳に仕立て上げたのではなかろうか?
 
 
 
 
 
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80万アクセス感謝記事/日本人の食卓

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縄文時代
の食卓
 
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平安時代
 
 
 
貴族の食卓
 
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高級官僚の食卓
 
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一般的官僚の食卓
 
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庶民の食卓
 
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江戸時代
武家の食卓
 
 
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裕福な庄屋の食卓
 
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庶民の食卓
 
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現代
天皇家の食卓
 
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旅館の食卓
 
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平均的庶民の食卓
 
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飽食の食卓
 
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さて
あなたは
どの時代の食卓についてみたいと思われましたか?
 
 
 
 
 
 
最後に
Kawakatuの食卓(月初)
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日本人の食卓はどう見えましたか?
 
 
思ったよりも贅沢ではないと思いましたか?
 
 
それとも贅沢の極みだと感じましたか?
 
 
あなたの食卓はいかがですか?
 
 
贅沢ではなくとも、彩りに満ちていますか?
 
 
 
 
 
 
 
魚を食べていますか?
 
 
 
 
 
それとも肉ばかりですか?
 
 
 
 
 
ぼくが一番豊かに見えたのは縄文人の食卓でありました。
 
 
 
 
 
 
今日までたくさんのアクセスありがとう!
 
 
 
 
 
 
感謝申し上げます。
 
 
 
 
100万アクセスまでがんばります。
 
 
 
 
そのあとまだ生きていられたら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
 
 
どうしよう?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 究極の日本人の食卓
懐石一汁二菜
 
 
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 これでいいのだ
 
 
 
 
 
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夏の闇・君がスランプに陥ったときには

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不本意ながら
突然、
 
 
 
 
 
何も書けなくなってしまった。
 
 
 
 
原田芳雄 & 松田優作 / 横浜ホンキー・トンク・ブルース 
http://www.youtube.com/watch?v=zUI6-pLLRi8

 
 
 
 
 
 
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まるで雨の日の釣り師のように。ただ
ロッキングチェアに揺られる老人のごとく・・・あたら時間を
うっちゃっている日々。
 
 
 
 
いかんともしがたし、
いかんせん
これではいかん・・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
されど
 
 
 
 
 
 
なすすべもなく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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一本の杭のように
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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たそがれを前にしてただ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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心の花火を待つしかなく
 
夏の夕闇だけが好事家を許すときを待つすべなので
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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夏の闇の来訪をただ待つばかり。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ま、そんなところや。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すまないな、諸君。
許されたし。
 
 
 
 
 
歴史家はただ
うなだれて酒に溺れる始末。
 
 
 
 
 
 
 
 
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転載・船原古墳出土馬具記事

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しばらくぶりです。
充分に休養させていただきました。
 
 
 
磐井の乱後も続いた九州北東部と新羅の関係とヤマト政権誕生について、考古学から新たな視点がNHKEテレで番組化されている。http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/05/0507.html
若手考古学者・松木武彦や韓国考古学者らの意見を参考にしながら、Kawakatu独自の視点、これまでの九州王朝衰亡に関する新たなヒントを得たので、本日はこれも記事(複数記事になるだろう)にしていきたい。
 
ひとまず前回このブログで示してあった船原古墳過去記事(2013/11/27(水) )を転載しておく。
 
 
 


 
 
古賀市船原古墳群出土金銅製歩揺付飾金具の豪華さと宗像氏と高句麗騎馬遊牧民(この時は高句麗と書いたが、次回記事からは新羅・百済中心に考える)

「福岡県古賀市教育委員会などは24日、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の同市の船原(ふなばる)古墳遺物埋納坑で出土した馬具「金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)」が国内に類例のない形状であることが分かったと発表した。」
西日本新聞2013年11月25日(最終更新 2013年11月25日 00時09分)
 
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出土状況
つぶれていた
 
 
 
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3Dスキャナーによる復元
 
 
●船原(ふなばる)古墳群(福岡県古賀市)
 
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古賀市の遺跡http://www.city.koga.fukuoka.jp/guide/history/003.php
古賀市立歴史資料館
電話:092-944-6214 Eメール:bunkazai@city.koga.fukuoka.jp.
 
 
●馬具装着図
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胸部か尻部かにとりつけた? 
 
 


 
 
●歩揺とは?
歩揺は花びら形の金属で、傘の骨のように枝分かれした金具からつり下げる。今回は、六角形の金属板の中央に高さ約5センチの大型の歩揺付き金具を配置し、周囲に高さ約3センチの歩揺付き金具6点を立てるデザイン。いずれも銅の表面に金を施した豪華なものだった。
 
金銅製歩揺付飾金具はくらの後ろ側に取り付けられ、馬が歩くと、花びら形の飾り(歩揺)が光を反射しながら揺れる装飾品。市教委によると、再現したのは六角形(対角間の長さ約11センチ)の金属板の中央と、周囲6カ所に歩揺付飾金具を1セットで配置したデザイン。中央は高さ約5センチで歩揺は8個、周囲は同約3センチで各4個の歩揺を計24個つり下げている。出土した部品の多さから、複数が埋納されていたとみている。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293

中国・鮮卑族の冠。木の枝を模し、歩くと枝葉が揺れることから歩揺冠(ほようかん)と呼ぶ。
五胡十六国・南北朝時代、鮮卑族が王権を形成し、それが引き継がれて中国貴族の冠となった。
http://curren.sakura.ne.jp/curren/curren/on_game/DOL/100104_2DOL.html

 歩揺付飾金具は、国内では沖ノ島(同県宗像市)や藤ノ木古墳などで単体は出土しているが、複数の金具がセットになったものはなかった。田中良之・九州大大学院教授(考古学)によると、これと似た構造は朝鮮半島の新羅で見つかっており、「船原古墳の埋葬者は新羅と独自のルートを持っていた豪族の可能性がある」と分析する。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/showbiz_news/article/54293
北朝鮮の発掘情報がないので、高句麗とのもっと深い交流資料がわかっていない。発掘次第では新羅より高句麗の可能性がある(Kawakatu)
 
 
【冠】より
… 漢文化の浸透する以前の匈奴,鮮卑などは頭部を覆ったり周囲を飾る金製の冠を用い,王権の象徴とした。4世紀以降の鮮卑,高句麗,百済,加羅,新羅では,以前の匈奴や鮮卑の制をうけつぎ,歩揺とよばれる金片をちりばめた金製の冠を用い,そのほかに羽根をつけたり樺を付した冠があった。とくに古新羅の墳墓からは,多くの金製の優品が発見されている。…
http://kotobank.jp/word/%E6%AD%A9%E6%8F%BA
 
 



●参考遺物
 
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【和:きんかんしょく(ほようかん)】
【中:Jin guan shi】
晋・南北朝|金銀・玉器>金冠飾(歩揺冠) 
西晋時代
1957年遼寧省北票県房身村晋墓出土
金製品
幅17.5cm 高さ14.5cm 重さ37.4g
遼寧省博物館蔵
南北朝時代に、北方遊牧民の鮮卑慕容部の人々が歩揺冠とよばれる冠を好んでいた。慕容という部族名も彼らがこの冠を好んで着用することから、まず「歩揺Jとよばれ、後に発音が訛って「慕容Jとなったという。以後、歩揺冠は北方民族に採り入れられ、貴族の冠となった。この金冠飾は、歩揺冠の立ち飾りである。これは葉と枝の茂る金の樹木のような形をして長方形の金板の上に立つ。金板の真中に凸稜があり、両側に透彫による雲文が配置され、周囲に突刺文がいっぱいめぐっている。金の樹木は七つの枝に分かれ、枝ごとに桃形の葉を吊す環が嵌められている。冠をかぶった人間が歩きだすと、樹木の枝は歩調と風に従って揺れはじめる。故に「歩揺Jと呼ばれていたのである。出所:『中国の金銀ガラス展』
http://abc0120.net/words/abc2007073105.html
http://abc0120.net/book/abc0011.html
 

船原古墳(5)
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?
http://lunabura.exblog.jp/20913640/
 
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●参考人物
莫護跋(呉音:まくごば/もごばち、漢音:ばくこばつ/ぼこはつ、拼音:Mòhùbá 生没年不詳)は、魏代の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。慕容部の始祖。子は慕容木延。慕容廆の曽祖父にあたる。
魏の初め、莫護跋は諸部を率いて遼西に入居する。
景初2年(238年)、司馬懿の公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国する。
時に燕,代の地方では歩揺冠(歩くと揺れる冠)をかぶる者が多く、莫護跋はこれを見て気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶったので、諸部は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後音が訛って、慕容となった。
彼の死後は、息子の慕容木延が後を継いだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%AB%E8%AD%B7%E8%B7%8B
 
 


 
 
 
●筆者感想
古墳に付属する遺物埋納孔を持っていること自体が大豪族だったことを偲ばせる。
歩揺は北方系騎馬遊牧民の特徴的装飾である。
船原古墳は古賀市という立地、七世紀の古墳、沖ノ島に多く出る歩揺冠などから七世紀胸方君徳善を出す宗像一族の墓と推測する。

宗像氏は、胸や肩にいれずみがあり、これを魔よけとした海中に没して漁労採集した海の氏族の子孫であろう。
つまり倭人伝が言うところの「倭人」とはまさに彼らである。

宗像君徳善は七世紀天皇家に妃をさしだし、突然のように日本史に登場。
その大古墳宮地嶽古墳(歴代二位の長さの石室を持つ)からは窓に使うほどの大きさの西洋ガラス板など、特殊で絢爛豪華で、正倉院をしのぐような海洋交易の品々が。
沖ノ島遺跡からは国宝級遺物が大量に見つかっている。また宮地嶽古墳からは高句麗様式の王冠が出ており、宗像氏が近畿よりもかなり古くから北方アジア諸国とつきあっていたことは明白である。
 
福岡県宮地嶽神社古墳伝世品
高句麗様式の王冠はここからしか出ていない。近畿地方の王冠は百済様式で新しい。
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●福岡県古賀市谷山北船原古墳群アクセス
 
 
 
 
 
 
 
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新羅と筑紫・百済とヤマト/船原古墳群及び糟谷屯倉とベノルリ古墳そして藤ノ木古墳と物部氏

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出土馬具に鳳凰の透かし彫り 古賀・船原古墳2013年11月01日

 「福岡県古賀市で出土した古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)の金銅製馬具に、精巧な鳳凰(ほうおう)の透かし彫りが施されていることが、九州歴史資料館(福岡県小郡市)のエックス線CTスキャナーによる調査でわかった。奈良県の(藤ノ木Kawa)古墳の副葬品と酷似しており、ヤマト政権との密接な関係がうかがわれる。
 
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あきらかに新羅様式デザイン
 
 
 
(藤ノ木古墳は蘇我氏によって殺されるアナホベ兄弟の墓、あるいは崇峻もここに改葬して放り込まれた=反逆王族の墓つまり百済シンパ蘇我氏VS新羅シンパということかKawa)
 
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 このため、馬具の飾り金具「心葉形杏葉(しんようけいぎょうよう)」(縦約10センチ、横約11センチ)をCTスキャナーで調査したところ、ハート形の枠の内側に、薄板を重ねて透かし彫りが施され、唐草の文様の中に翼をふりあげた2羽の鳳凰が、左右対称に位置しているのが浮かび上がった。
 
 
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            (あきらかに新羅様式Kawa)
 
 

 大きさや形、文様は、奈良県桜井市の珠城山(たまきやま)3号墳に副葬されていた杏葉と酷似していた。一帯の大和盆地東南部はヤマト王権の中枢部と目されている。
 
 
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-双鳳文杏葉(奈良県桜井市珠城山3号墳出土)
 

 九州国立博物館の河野一隆・文化交流展室長(考古学)は、「これほど似た例は珍しく、朝鮮半島の同一工房で製作されたものではないか。馬具の主は、ヤマトの朝鮮半島出兵にかかわった人物だろう」と話している。

 このほかに馬具からは新たに、全国3例目となる馬のかぶと「馬冑(ばちゅう)」(長さ約50センチ、幅約18センチ)や、鞍の後ろに取り付ける旗立てとみられる蛇行鉄器3点が確認された。」
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140418-OYS1T50067.html
 
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 船原古墳遺物埋納坑内部写真
 
 
 
 
■新羅と筑紫の関係を示すベノルリ古墳
古代日本と朝鮮半島 明らかになる交流史
2014年5月7日(水)
「古代史を塗り替える発見は、韓国南西部の小さな島の沿岸部でありました。
ベノルリ古墳
 
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今から3年前、現地ではこれまでほとんど出土した例のない甲冑(かっちゅう)、よろいやカブトが見つかったのです。
 2年ががりの保存処理が終わり、ようやく撮影の許可が下りました。
 
カブトが作られたのは、5世紀ころとみられます。
そのころの日本、倭国で使われていたカブトとよく似ています。
 倭系甲冑(わけいかっちゅう)と呼ばれます。
 
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右側の日本の古墳から出土したものと比べると、朝鮮半島から出土したカブトは、形もそこに用いられている技術もよく似ています。
 
倭系甲冑の出土は、かつての百済の領域、韓国南西部の沿岸に集中しています。
この発見は韓国の研究者に、驚きを持って迎えられました。
 
トンシン(東新)大 文化財研究所 イ・ジョンホ教授
 「これはびっくりする。
 (甲冑は)倭系だとは思っている。
こちら(韓国南西部)では、このような甲冑は作られてはいない。」
韓国の考古学者、パク・チョンスさんは、倭系甲冑が日韓の交流史に新しい光をあてるものと注目しています。

パクさんは、こうした甲冑は朝鮮半島から近い北部九州の倭人がもたらしたものだと考えています。
 精巧な甲冑は、当時ヤマト王権が、地方の豪族に与えたものでした。

この古墳からは、倭系甲冑とともに百済に関連する意外な品も出土しました。
 
 
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 百済王権の中で高い地位を示す金銅製(こんどうせい)の冠(かんむり)。
 
 

パクさんは、これが百済が北部九州の軍人を受け入れていた証拠と考えています。
 
 
 
 

九州でも発見! 豪華“新羅系”馬具
 
一方海峡を挟んだ九州でも、去年(2013年)大きな発見がありました。
その舞台は、福岡県古賀市でした。
ここで去年、朝鮮半島製とみられる金銅製の装飾馬具が大量に発掘されたのです。

出土した装飾馬具は、6世紀末(すえ)から7世紀初頭にかけて、聖徳太子が生きた時代のもの。

これだけまとまって出土するのは、極めてまれです。
 福岡大学教授の桃祐輔(ももさき・ゆうすけ)さんは、精緻な加工の様子から、当時、朝鮮半島南東部にあった国、新羅の技術で作られたものだと考えています。
 
当時、百済と結んでいた倭国は、新羅と敵対していました。
そうした中で新羅は倭国との対立を避けるため、外交に影響力を持つ北部九州の豪族に馬具を贈った可能性があるといいます。
 
 福岡大学 桃祐輔教授
 「当時はむしろ九州が、朝鮮半島との関係をデザインして、ヤマト政権はやっぱりそれを当てにしながらじゃないと、国際関係を維持できなかったと思う。」」
http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/05/0507.html
 
 
 
■在野研究者の重要な意見
 
「まず、発掘された品々は次々と解析されており、その豪華さならびに意匠の複雑さは他に類を見ない程際立ったものとなっています。上の写真は出土した馬具の中で九州歴史資料館が復元した馬の背につける歩揺付き金具と呼ばれる物です。また、金銅装心葉形杏葉は、馬の尻や胸に回したベルトから吊り下げる飾りですが、CTスキャンの結果そこには鳳凰が描かれていました。
 
 
奈良にある藤の木古墳は、6世紀後半に作られた全長50メートルの円墳です。ここからも同様に金銅製の多くの馬具が出土しましたが、その鞍金具に彫り込まれていた鳳凰は、船原古墳でみつかった杏葉の鳳凰と同じ人のデザインであると考えられる程非常によく似ています。藤の木古墳で見つかった鞍の形は、中国北部の遊牧騎馬民族の物だと言われています。また、藤の木古墳の被葬者は、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宣化天皇の皇子の宅部皇子ではないかと推測されています。
 
 
 問題は、6世紀の末から7世紀にかけて、この船原古墳に埋葬された人物が、どうして天皇家の皇子と同じ程度か、それ以上の副葬品を持つことができたのかということです。船原古墳は、船原古墳群とされており、現存する3号墳以外に2基の古墳があったとされています。単独の古墳でないことから、それ程古くはなくともこの地域を収めていた有力な豪族の墓であったと言うことができます。
 そもそも、古賀市とはどのような役割を持つまちであったのでしょうか。著書「魏志倭人伝を探る」の中で、この古賀市から宗像市一帯を『不弥国』として紹介させていただきました。そこで紹介させていただいているのは、古河市青柳町の弥生遺跡である馬渡・束ヶ浦遺跡です。今回の対象古墳のある谷山は、そこから数百mの地点になります。

 そして、不弥国は多岐の港であるとともに、これより西の勢力から北九州にできた伊都国連合を守る防波堤の役割をした地であったと紹介させていただきました。加えて、この地は朝鮮半島の伽羅(金官伽耶、狗邪韓国)からの武力をもった一族の侵略により勢力を奪われ、海上交通の支配権を奪われ、伊都国連合は大和から切り離されて衰退したことを説明させていただきました。また、その一族が宗像一族としてこの地に根付いたこともです。

 壱岐の島の都の、原の辻遺跡が忽然と消え、その後に中心地を移し非常に多くの古墳が作られたのも、同じ部族による侵略であったとも説明させていただいています。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を証明する資料が、壱岐と宗像には残っていると説明させていただきました。

 この地は古来より、航路や港を支配してきただけに、朝鮮半島と密接な関係にあり重要な外交の地でもあったのです。
 
 時は、6世紀末。朝鮮半島が大きく揺れ動いた時期でもあります。日本書紀には「任那日本府」が新羅によって滅ぼされたとの記述がありあす。任那日本府の存在は議論のあるところですが、そこで起こっていたのは新羅の伸張と、倭(ヤマト政権)の影響力の追い出しでした。私は、少なくとも新羅により朝鮮半島との外交権が奪われたのだと考えています。

 推古天皇の時代となり、蘇我氏、聖徳太子との三頭政治が始まります。推古天皇8年(600)任那救援を掲げて、朝鮮半島に出兵します。征討大将軍は境部摩理勢(さかいべのまりせ)でした。蘇我一派のヤマト政権の重鎮です。6つの城を陥落させ、難波吉士神(なにわのきしみわ)が新羅におくられます。この後、任那と新羅は倭に朝貢をはじめたと記されています。しかし、現実は厳しく、倭が退いた後、新羅は再び任那に侵攻します。

 推古10年(602)、再び新羅討伐が計画されます。今度の征討大将軍は来目皇子です。蘇我一派から聖徳太子の弟に変わりました。2万5千という大軍を率いて筑紫国に至り、島郡に入ります。島郡は糸島半島。旧伊都国の北にあたります。日本書紀によれば、来目皇子が病気になってしまい、延期となります。2万5千の大軍はどうなったのでしょうか。推古11年(603)来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されます。妻の舎人皇女が死んだからと当麻皇子は大和に戻り、結局新羅討伐は行われなくなります。
 
 NHKの番組では、この新羅と倭との外交を取り持ったのがこの船原古墳の被葬者であったのではないかとしています。同様の内容は、福岡大の桃崎教授も言われており「被葬者は糟屋(かすやの)屯倉(みやけ)にも関与していた有力者だろう。一触即発だった日本と新羅の間で奔走した対外交渉の窓口役だったため、新羅関連の馬具もあったのではないか」とコメントされています。船原古墳の西に、大型建物跡が確認された鹿部田渕(ししぶたぶち)遺跡があり、528年の磐井の乱により、筑紫君葛子(磐井の子供)が献上した糟屋屯倉があったのではないかと言われていることを念頭において話ておられます。

以下、このサイト管理者の個人的意見
 私の考えは、少し異なります。528年の磐井の乱がそうであったように、やはり新羅の影響は、遠いヤマト以上に北九州地域に及んでいたのだと思います。日本を唐と対等の国にしようと考えていたのは聖徳太子でなく蘇我氏だと考えますが、蘇我氏は蕃国とし扱っている新羅が倭の領土を侵すなどということを許せなかったのでしょうが、聖徳太子一派は親新羅派であったのではないかと思うのです。病気だとか、妻が死んだという理由で新羅討伐を辞めたというのは、元々新羅など討つつもりはなかったのではないかと考えるからです。

 大和政権のものとなった糟屋屯倉のすぐ外側の地を治めていた人、それは、筑紫君葛子に使えていた重鎮であったはずだと考えるのです。新羅に通じていた人、という以上に新羅の駐日大使的な役割を担っていた人物ではないかと考えるのです。だからこそ、新羅の代表者として、倭の皇子に負けないだけの副葬品があった。そして、新羅のあった慶州にあるのと同じ20メートル程度の円墳に埋められたと考えるのが良いのではないでしょうか。」
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-20/blog-2/files/05c27bb0c1c4a62b36d07052d591a192-14.html
 
 
 
 


 
 
■磐井戦争以後の筑紫が見えてくる
それでも続いた九州王朝の残照は、天皇をも左右する?日本の古代史は筑紫対ヤマト、新羅対百済の交代の連続?天武・持統以後まで続く筑紫の影響。清盛これを押さえ込むしかし・・・?
 
 

Kawakatuはこれらの分析を評価しながらもこう思う。
継体・磐井戦争の直後、葛子が献上した糟谷屯倉を支配できたのは、筑紫国造家ではもはやなかった可能性もある。『日本書記』の磐井の乱記述では、継体大王は乱を治めたら物部麁鹿火(もののべのあらかい)に筑紫を治めよとしており、ヤマトと筑紫そして新羅との仲介者になれた実力者はこの麁鹿火の子孫ではないかと見ている。物部氏は中央ではすでに不遇な位置に置かれ、飛鳥時代には石上氏と名も変えており、大伴氏や紀氏などと同様に中央で脆弱となっていた。しかし筑紫(竺紫)物部氏は磐井に変わって北部九州から南部までふくめた九州の王となっていておかしくない。藤ノ木の被葬者がアナホベや崇峻であるならそれを支持したのはヤマト物部氏である。船原3号墳被葬者はつまり物部系の誰かではないか?!
 
また、磐井は東国から派遣されてきた上毛野(かみつけの・群馬車郡国司)氏を押しとどめる際に「同じ釜の飯を食った間柄ではないか」と述べている。東国と九州には3世紀にまで遡れる古いヤマト挟撃関係があったのではないかと見ている。そんなかつての盟友が新羅けん制の軍隊を率いて筑紫にやってきたわけである。当時のヤマトは百済一辺倒の時代。しかし新興国家新羅はかや・高句麗に続いて百済をも領有しようとしていた。百済挟撃の盟友として筑紫を選んだわけである。だから極上の馬具をプレゼントしたのだろう。その関係はこれ以後も長く続いたはずである。おそらく平安時代になっても筑紫と朝鮮には内密の関係が存続する。船原3号の馬具は、大慌てで坑に埋納されたような状態で出ている。磐井戦争直後に新羅からの贈り物(しかもあきらかな新羅様式の、これまで類例を見ない上等の馬具一式)を糟谷屯倉にすでに多く移住していたヤマトの人びと(例えば畿内紀氏系と思われる片袖式石室※(別記事にする)を持つ中園古墳被葬者のような)に見られたら中央にまたぞろ「すわ反乱?」と思われてしまうわけで、大慌てで馬具を隠したのであろう。のちに掘り出すつもりだっかどうかは知らないが。

こうした九州北部の特に玄界灘、糟谷、宗像周辺の新羅寄りだった「もうひとつの王権」ともいうべきものの残存は、その後も畿内中心へ移行しようとする飛鳥・ヤマト政権の脅威であり続けたことだろうし、もっとつきつめてゆくと、天智・天武の対立にまでつながっていった可能性が大いにある。天武外戚となりえた宗像君の圧倒的財力を見ても、九州がヤマト・奈良の王家を凌駕する存在感をあいかわらず持ち続け、結果的に持統のアマテラス信仰にまで影響力を持ちえたと言うことになりおうな按配である。
 
少なくとも平清盛の時代になって、ようやく博多はその独自性を剥奪され、今の神戸(福原)に国際貿易港が作られ始めたのである。しかし、清盛死後、平家は滅亡し、源氏によって「東国に中枢部」が置かれた。これが横浜・下田の近世国際的発展への基点となったわけである。その東国こそは、実は3世紀からヤマト中央政権をけん制するために九州が強いえにしを結んできた新羅系武力を内在させるもうひとつの王国なのである。東国は8世紀まで古代豪族王権=のちの武家のパラダイスとなる。歴史はこのように何百年のつながりでできている。
 
 
なんとわかりやすい、しかも古代を一貫して把握するに明快な方程式の完成だろう。
 
 
 
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装飾古墳画像コレクション http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
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片袖式石室

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この項目は片袖式石室の全国分布図作成のための書きかけ文書である。
これについて詳しい形は情報提供を待つ。また分布図がすでにあるならばご連絡を。
 
 
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◆片袖長方形玄室(横穴式石室の古い様式のひとつ。片袖式石室とも。右袖型と左袖型がある)
横穴式石室の時代はヤマト・畿内では古墳時代後半に開始されたが、
「その石室構造は、大和ではほとんどが単室(基本的にひとりの被葬者にひとつの石室)で、
  片袖⇒両袖⇒無袖⇒横口式石槨 
  窮隆式⇒垂直化⇒切石造り 
と変遷し、規模、石材は7世紀前半をピークに巨大化し、あとは小型化して
埋葬は木棺⇒石棺⇒陶棺・夾紵棺と変遷したそうです。 後期古墳に限れば9割が横穴式。」
(福岡県在住古墳研究家蕨手氏解説)
 
※追補
石棺様式は最初組み合わせ式⇒刳貫き(くりぬき)式
また羨道壁には大和では主として巨石の組み合わせが、九州などでは朝鮮様式の割石礫の積み石式が多い傾向にある。Kawa
 
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横穴式埋葬施設とは、「埋葬施設の一方の側面が横口によって外部と通じているものの総称です。その出入口・開口部は普通、塊石や板石などで閉じられていますが、埋葬施設を土中に埋めてしまう竪穴系と違い、開けることが容易にできますので追葬が可能となり、そして現在でも内部の見学が自由にできるわけです。石棺が安置されている主室の部分は玄室と呼ばれ、これと外部を結ぶ通路を羨道、そして玄室と羨道との接続部は袖部と呼ばれています。また玄室と羨道の境は玄門と呼ばれ、羨道の入り口は羨門と呼ばれています。袖部の構造は大きく分けて3種類の形式があります。羨道部から見て玄室の袖部が左右に広がっているものが「両袖型」、右か左どちらか一方へ広がっているものが「片袖型」、羨道と玄室の幅が同じで連続しているものが「無袖型」と呼ばれています。」http://www2.tok2.com/home/sekisitu/sekisetumei.htm

追補
折衷型、奥壁が丸くカーブした無袖式など過渡期石室も多々ある。Kawa
 
 
 
 
九州では・・・
「紫 ー 筑後のこの地域の横穴式石室は、平面形が様々で、 石室内の施腱にも多様性が認められるが、 ほぼすべてが両袖式の石室であること、羨道が埋葬空間と して発達しないこと、 などの共通した特徴がみられることが明らかになった」http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=fHupVt5i548J&p=%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86&u=nwudir.lib.nara-wu.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F10935%2F1684%2F1%2FAN10140874_v23_pp49-53.pdf#search='%E7%89%87%E8%A2%96%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86'
 
 
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画像は『春日井シンポジウム第11回 地域学から歴史を読む』服部哲也「家型石棺のひろがり」から転載
 
 
 

Kawakatuが採集した全国の片袖式石室を持つ古墳統計(諸資料・ネット上情報をひとつひとつあたったものでまだ未完成である)
 
なお、右袖、左袖とは石室入り口から見た袖部の広がっている方向。

●奈良県
天理市 石上大塚古墳(右袖)
天理市 東乗鞍古墳(左袖)
高取町 市尾墓山古墳(左袖)
平群町 柿塚古墳をはじめとする平群谷古墳群の多く
葛城市 大和二塚古墳(前方部石室のみ右袖)
    平林古墳(同上)
 
●大阪府
茨木市 南塚古墳(左袖)
柏原市 平尾山7号墳(左袖)

●京都府
向日市 物集女車塚古墳(左袖)
京都市 天塚古墳(右袖)
長岡京市 井ノ内稲荷塚古墳(左袖)
 
●和歌山県
和歌山市 岩橋千塚古墳群の古いもの(右袖主体)
 
●兵庫県
神戸市 北神第3地点古墳(右袖)
多可町 東山1号墳(左袖)
揖保郡たつの市 龍子向山1号墳(右袖)

●岡山県
赤坂町 鳥取高塚古墳(左袖)

●香川県
高松市 横岡山古墳(左袖)
 
●愛媛県
松山市道後 祝谷6号墳? (右袖)

●高知県
香南市野市町 大谷古墳(右袖)

●福岡県
糟屋郡篠栗町乙犬 中園古墳(左袖・九州唯一か?)
 
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●大分県
宇佐市川部・高森 鶴見古墳(右袖)
 
●愛知県
名古屋市守山区 小幡茶臼山古墳(右袖)
同じく     東谷4号墳(右袖)

●滋賀県
高島市マキノ 斉頼塚古墳(左袖)
 
●福井県
若狭町 向山1号墳 (右袖)
    十善の森古墳(右袖)
    市場古墳(?)
※福井県では片袖式を北部九州式横穴石室と分類しているようだが、石室は九州式でも、片袖式は大和スタイルゆえ、日本海に多い折衷型のひとつとしたほうがいいのでは?Kawa
 
●長野県
松本市 柏木古墳(片袖左右不明)
●静岡県
●山梨県
●東京都
三鷹市  天文台古墳
 
など全国の5~6世紀の古墳に採用されており、これらはヤマトから派遣された人物の墓と考えられるため、古墳時代後半の雄略時代には、全国に畿内政権の官僚たちが派遣していると考えてよいようである。ただ、日本海側や太平洋側、紀伊半島~東国などの地域には九州様式との折衷石室も点在し、筑紫勢力がヤマト内部の天皇クラスにまでその新羅シンパとしての政治力を及ぼしていたことも否定できない。また現状でもその数が多いため、いまだに分布図や分布一覧が作られていないのだろうと想像する。
 
 
こうした考古資料の分布図作成は、今後、東アジア全体の類似遺物や形式を網羅されていかねばならない貴重な資料となる。しかしネット上に、そうした統計的な視野から見た分類一覧は、まだまだ少なく、専門家の資料も必ずしも最新とは言えないものが資料として著作に使用されてしまっているのが残念である。ある程度、統計の数値を充足したものの分布図・一覧表の専門家たち内部での作成を在野好事家は心待ちにしていることだろう。
 
しろうと研究者である自分にとっても、充分なサンプルを網羅することは、これまでどの資料を作るに当たっても多大な時間を要する作業であるが、できるだけ新たな視点のにじみ出るわかりやすい資料を作って行きたいと考えている。もちろん在野である限り、その信憑性は疑われてしまう運命にあることは重々承知のうえである。むしろこれをヒントにして、読者諸氏が再検討され、挑戦してくれることを願う。研究とは本人が死んだのちまで、役にたつものにしたいものである。
 
今回の片袖式石室について、ネット上や紙面には、やはり地方の範囲の狭小な視野の資料が点在するばかりで、それを巨視的、俯瞰の視野で集めて論じた資料や考察は皆無であったことが、このブログを始めて以来すでに8年経つが、まことに残念なことだと感じたものである。
 
歴史、特に国境なき古代で、一国、一地域で考えるべきものではなく、越境するを本意とされたし。郷土資料では終わらぬ目を持たれたい。そのためには脳細胞の若い専門家の必要性を痛感するしろうとKawakatuであった。
 
 
最後に考古学者・松木武彦の言葉を借りて申すなら、
 
「考古学は科学である。科学である限りは、客観的で越境した、できるだけ普遍性ある資料を民間に明らかにする義務がある」
 
以上Kawakatu
 
 
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コケシは「子消し」? あまがつ・ひいな・かたしろ・埴輪を科学する

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先に常識的解釈をいくつか引用しておく。
 
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◆こけし
「こけしの名称は、各地によってすこしずつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形(母子人形説もある)からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがあった。また一般に人形という呼び名も広く行われた。
 
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、1939年(昭和14年)8月に鳴子温泉で開催された全国こけし大会で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられる。
 
幕末期の記録「高橋長蔵文書」(1862年)によると「木地人形こふけし(こうけし)」と記されており、江戸末期から「こけし」に相当する呼称があったことがわかる。こけしの語源としては諸説あるが、木で作った芥子人形というのが有力で、特に仙台堤土人形の「赤けし」を木製にしたものという意といわれる。「赤けし」同様、子貰い、子授けの縁起物として「こけし」が扱われた地方もある。またこけしの頭に描かれている模様「水引手」は京都の「御所人形」において、特にお祝い人形の為に創案された描彩様式であり、土人形「赤けし」にもこの水引手は描かれた。こけしは子供の健康な成長を願うお祝い人形でもあった。
 
その一方、こけしの語源を「子消し」や「子化身」など堕胎や口減らしに由来するものとの説も存在しており、これは1960年代に詩人・松永伍一が初めて唱えたものとされている。しかし、松永以前の文献にはこの説を裏付けるような記述が見られない上、松永自身も工芸や民俗学などの専門知識を持っていなかった、自説の由来について説得力の有る説明が出来なかったなどとされ、その信憑性については出典を含めて疑問が持たれている。 なお、こけしの語源やこけしに至る信仰玩具の変遷について、加藤理が平安時代の子どもを守る信仰人形や東北地方の他の信仰玩具との関係から、「「あまがつ」とその歴史的変遷の考察-宮城県の郷土玩具との関係を中心に-」(日本風俗史学会紀要『風俗』第30巻3号)で詳しく分析・考察している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%91%E3%81%97#.E5.90.8D.E7.A7.B0
 
 
 
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◆天児(あまがつ)・這子(ほうこ) - こうげつ人形
   ※遠山記念館蔵(ホームページ参照)
 
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・這子(ほうこ)は、上巳の祓に贈られた人形で、幼児の枕辺におかれ、祓の後に神聖なものとして翌年にも用いられようになり、幼子が3歳になるまで身に添えて持たせるなどの風習も生まれました。
 
・幼児の愛玩用のぬいぐるみとしても愛用されていたと思われます。
・ぬいぐるみの原型とも言われるように。白絹に綿を詰めてつくりました。幼児がハイハイをするようなデザインから這子(ほうこ)の名称がついたのでしょうか?
・這子(ほうこ)のデザインは現在に伝えられています。
 飛騨高山の「猿ぼぼ」は、赤い布で胴を作り、これに綿をつめ、丸い頭をつけたもので目鼻は描かれていません。幼児の災厄を祓う身代わりの役をつとめる這子(ほうこ)が次第に変化して玩具となりました。
 
 
・猿ぼぼ
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 ・端午の節句の「武者絵のぼり」にも使用されています。のぼり旗の下部の跳ね上がり防止のための錘(おもり)として、手と足をしばって紐をつけて使用しています。
 
 
■立雛■ 
・天児(あまがつ)が男子、這子(ほうこ)を女子に見立てて、一対のものとされたものが、立雛の原型とも言われています。
・現在の雛人形のなかでも、デフォルメされた簡素な立雛は素晴らしいものです。初期は紙で作られていることなどから、形代(かたしろ)や天児(あまがつ)からの変形であることは想像に難くないのですが、簡素なデザインは秀逸なものと言えます。
・小袖などのデザインから推察すると、室町以降に誕生したのでしょう。平面的な造りなので、自立出来ず、雛壇や雛屏風に立てかけて飾ります。
・この立雛のデザインは、木目込(きめこみ)人形の立雛へと継承されてゆきます。
 
■ひひな■
・上記の祓(はらえ)用の天児(あまがつ)・這子(ほうこ)とは別に、「ひひな遊び」のお人形というものがありました。
 平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女達が「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。
 「枕草子」にも描かれています。
・「ひひな」は、上巳の祓や3月3日とは関係なく幼女の遊び道具として存在していました。
この「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。
・上巳の祓の人形と幼女の遊び道具の人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。
 捨てていた人形(ひとがた)も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。
・雛遊びが雛祭りと変化してゆくのは、江戸幕府が令の規定の3月3日の節日を「五節句」の一つに定めたことが最大の誘因でしょう。時代が進んで、上巳の祓いの人形(ひとがた)が保存されるようになり、3月3日に娘の幸福を願って人形を飾る風習がゆきわたってゆきます。
・宝暦年間(1751~1764)以降、京都から江戸への文化の移動に伴い、文化・文政年間(1804~1830)頃には京都とともに江戸にも雛人形を飾る風習が広まってゆきました。
 雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。」
http://www.kougetsu.co.jp/hinamatsuri/amagatu.html
 
 
 
◆あまがつ 天児
「形代(かたしろ)として幼児のそばに置き、災厄を移し負わせる人形。後世は、幼児のはう姿をかたどった這子(ほうこ)をもいう。
「ちごうつくしみし給ふ御心にて―など御手づから作り」〈源・若菜上〉」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/6183/m0u/
 
 
 


 

◆こけし
「こうけし」
こけしは東北の一地方温泉で販売され始めたのが最初。
作成は地元轆轤(ろくろ)木地師たちである。

名称はいつしか同類のでく人形の総称のようになっていったが、あくまで一地方での呼び名である。人形である限りは「かたしろ」であることにかわりはない。「かたしろ」とはそもそもは神社・巫覡の間で神の「よりしろ」として始まっている。これは陰陽道でも使われた。白い紙をひとがたに切ったものである。これがやがて「ひいな」「しょうろうびな」へ発展した。
 
つまり人形とは、多かれ少なかれ、何者かの祖霊が降臨するためのよりしろであったことになろう。そこから身代わり、人身御供、人柱、贄、夭折してしまったわが子、あるいは水子、怨念の対象を象徴したわら人形などが派生していったことは想像に難くはない。が、こけしも、そういう分身・間引きの産物だったどうかは、定かではなく、あくまで土産物として始まったとされる。

もちろんこうした事を荒立てぬ言辞は、常識的で面白みのない保守的学者たちの常道で、必ずしもそれに従う必要はないだろう。彼らは学閥や権威主義に汲々とした小人であるから、あたりさわりのない説しか採用しない生物なのである。民俗学では、そうした権威的押し付けがましい常識は打ち破る科学であるので、むしろ正反対の「子消し」説なども否定しない。

東北の寒村など里山の山側に住まった木地師たちは、下界を眺める雲畑の人びとで、常の世界とは隔絶して暮らしており、職人である限りはさまざまの芸術性を高めるための憑依信仰を持つものであろう。それが里山のうつせの暮らしぶりを眺め、かつ自らの生き様から、生まれてすぐに死んでしまった子供に身を託した人形を作ったとしてもなんらの疑念は持ち得ない。そういう貧しい歴史が間違いなく江戸時代・明治時代まであったのがわが国である。

ただし、「子消し」ではその意味を表すには矛盾もある。子は消したのではなく、この場合やむない病気や栄養失調で死んでしまったのであるはずだ。ところが「子を消す」というのであれば、間引いた、口減らししたと考えるのは別に奇妙な着想ではない。

事実、全国に「間引き絵馬」「身代わり地蔵」なるものは確かに存在した。
かつては一家に何人もの子が生まれる。すると食えなくなる。だから間引く。あるいは長じた娘などは人身売買されたわけである。それが常識なのだった。
 
 
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「この子の七つのお祝いに 間引き絵馬 民族学伝承ひろいあげ辞典」
 
 
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身代わり地蔵

少なくとも、そうした人びとも、また子を亡くしただけの人も、身代わりの人形を作った通してもなんの非常識でもないだろう。まして彼らだけが内々にそう思いこけしを持ったのなら、当然、それを受け入れてしかるべし。往古の人びとは「言霊思想」で山ほどの内緒ごとを背負って生きていたようなものである。
 
 
「子化身」説
「けし」を「化身」としたところでなんの不思議があろうか?
こけしとは「子の化身」でよかろうかと思う。言語学者なんぞは、こういうことにすら気がつかぬ朴念仁ばかりの集団である。これも学者のもの知らずのひとつに過ぎまい。簡単ではないか。

ところでこけし人形を、例えば温泉地に多い道祖神・・・肥後ずいきなどの陽物ととらえる手もある。あれもまた人のかたしろである。子沢山を願う母親がさすると子が授かるという思想。これが原始信仰の残存で、形状も確かにこけしに似る。これもなんらかの関係でからんでのこけし誕生ではあるまいか?
 
 
 

と、やや面白すぎる解釈をしてみたが、さて、人形は古くは古墳時代では墓を守護する石人や埴輪から始まるが、これはみな被葬者の肉体が腐るのはそれを食う魔物のせいであると考えられ板時代の産物である。また縄文時代の東北あるいはそのルーツである北アジアの草原地帯では、夭折幼児のなきがらは丁重に家や騎馬ルートの魔よけとして、あるいは祖霊のよりしろとして土中に埋納していた風習が考古学的に解明されている。

客観的に見てもこれが人骨や胞衣・胎盤の埋納の開始であり、それがやがてひとがたへと変わったのである。埴輪もそもそも『日本書記』には、殉死の身代わり人形である。

ならばこけしがそうであったとして何が悪いだろう?

ただし、考え方は人それぞれでよいのが日本である。
必ずしも科学がそれを暴いたとしても、民間はそれに準じる必要もない。それが自由というものである。ケースバイケースで使い分ければよいのである。土産物に上記のごときやや陰惨な一面をあえて持たせて解釈するのは大人のすることではない。これが古墳や神社のかたしろとしての人形ならば、そう考えればよいことである。ことさら可愛らしいオブジェにそのような都市伝説まがいの悪趣味を「いまさら」押し付けるのも場違いなことは確かである。思っていてもそんなことはあえて公然と表明するたぐいのものではないことぐらいは、テレビを観るものも知っておくぐらいのマナーを持つべきだろう。そういう着想は小説やまんがの世界にこそ生きて面白い。

なんでも言ってみればいいってもんじゃないのよ、大人の世界はってこと。言霊。
 
昔ら言うではないか「言わぬがほとけ」
 
 
 
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酒の地理史

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今夜は酒と宮中料理を扱おう。
 
まずは世界の古代からある伝統酒における素材による分布図
 
 
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図はいずれも石毛直道『食の文化を語る』ドメス出版 2009より
 
 
 
 
酒は糖類が酵母スターターによってアルコール醗酵することでできあがる食品である。
 
大別して糖分を素材とする酒と澱粉を素材とする酒の二種類にわけられる。
日本やアジア澱粉である穀物にカビつまり麹菌などをスターターとすることで酒を造ってきた。これはほぼアジアだけの特色である(とうもろこしなどを使う地域がほかの地域にはあるが)。
 
遊牧民が作る乳酒は、どれもアルコール度数が低く、酒とはいいにくいものが多い。
 
世界で最も多いのは果汁や樹液や豆類の発芽エネルギーである糖分から作る糖類酒である。
 
この分布はつまり醸造酒の分布であり、蒸留酒はそれに火入れするものゆえに、その同じ地域が産地となる。
 
 
昨今、海外では日本のウイスキーが大変喜ばれている。香り、センス、いずれも日本のハイセンスな食文化の究極の姿だからだろう。日本は世界で愛されている。
 
 
 
実は穀物を使うアジア地域には、もうひとつ共通して作られてきた食品がある。
納豆である。大豆を醗酵させるのもアジアの特徴であり、とくに東アジアは大豆・麦・米を発酵食品の主流に置いている。だから魚醤のような海産物を使った調味料が残存する日本は南アジアの島文化の継承者でもあって、ここが華北とは違うところである。
 
 
ベトナム、朝鮮半島南部、華南は、ほぼ同じ民族性と食文化を共有しており「倭族」だと言える。
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
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民族考古学のミドルレンジ・セオリー/断定には早すぎる。ギムレットにも早すぎる

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今宵はかなり難しい内容なので、「かわかつワールド」に習ってここでもBGMをおつけしよう。難しい論理ではなく、文章と画像を酒の肴としていただきたい。
 
 
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McCoy Tyner Trio - Monk's Dream
 
 
 
なに?やかましいって?
じゃあ、音を消せばいいんじゃないか。
なんでもかんでも文句を言うなよ。権利ばかり主張して義務は一向に遂行しないガキどもよ。おとといきやがれ。
 


 
 
 
民族考古学のミドルレンジ・セオリー
ルイス・ビンフォード Lewis Roberts Binford 
ミドルレンジ・セオリーとは
「一般理論(ゼネラル・セオリー)に対する中位の理論レベル。文化の進化や環境適応のような文化システム自体の動きを法則としてとらえようとするレベルの理論に対し、考古資料の解釈に関わるレベルの理論体系。」(安斎正人1998)

あくまで断定的・恣意的結論を用意しないために「中間領域」ともいう。
 
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考古学資料の記録を分析することによって得られるさまざまのパターンが、何を意味するかを解釈していく方法論である。

「狩猟採集諸民族の各種道具をめぐる技術には複雑な構造が存在する。 従って種々の異なる道具各種を、 単に 「トゥールキッ ト」 の一一成要素として、 均質なものと理解する見方は不十分なものとされた? 同一集団が有する 「道具箱」 の中身といった一元的な点では、道具がどのように生活の中で、 製作され、 使用され、 補修され、 補充され、 管理され、 転用され、 代用され、 入れ替えられ、 廃棄されるかをめぐる、 複雑なシステムを理解するのは困難であるとして提示された概念である。
 
ヌナミウト ・ エスキモーの保有する技術の構造を分析したビンフオードは、 いくつかの目立った特徴を認めた。 「管理的技術を見る」 としゝう副題の論文(Binf。rd ー979)で指摘したのは、 従来一般的な道具のとらえ方、 すなわち常に保持されている 「T。。ーkit」 は、人間集団の有する 「範型」 という、 頭のなかにある観念が実体化したものという、 固定的なとらえ方では、 現実の狩猟民の技術構造を理解するのは難しいとの点であった。 ヌナミウトの技術の特徴には、 以下の諸点があげられる。 道具の中で、 維持 ・管理の方式がシステム化している 「管理的」 部分と、 当座の状況に規制される要素が大きい 「便宜的」 部分とが、 分して存在していること、 道具には季節的な変動が著しいこと、 常に用いるモノ と予備のモノのように常用 ・ 常備という面においてバラエティがあること、 道具の所属という面では、 特定の個人装備 ・ 場所に付属する 「備品」 的性格をもつもの ・ 間に合わせ的なものという、 3つの区別ができることなどである。 これらが複雑に有機的な諸関係すなわち、 組織的な構造を有しているという実態が察された。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=tHmTcMAGRxgJ&p=%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89&u=ir.library.tohoku.ac.jp%2Fre%2Fbitstream%2F10097%2F41202%2F1%2Fkaken-07610400.pdf#search='%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89'
 
 

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なんのこっちゃであろう。
 
「過去について記述されたどんなテキストでも、それは全て、現在において、記述されたということを逃れることはできない。そうした過去の記述のあり方はアナロジー(類推)であるという指摘を免れることはできない。アナロジーはあるコンテクストから導かれた情報で、他のコンテクストにおける事実を説明する方法である。考古学の場合は「現在から得られた情報」で「過去の出来事」を説明するアナロジーであるといえる。
 
 考古学においては、どんな理論も、アナロジーを用いて、過去と現在を結び付けている。常に、過去の物は現在の物と似ていると考える。これはアナロジーである。どんなに日常的な解釈の行為でもアナロジーによって支えられている。考古学者が「これは貯蔵用の甕である」と考えたとしよう。甕の大きさや頑丈なつくり、文様がないことなど、日常的に使われている現在の貯蔵用の甕と同じだと見えるのがごく自然だからである。そして、この考え方は別のアナロジーで補強される。例えば、どうようの甕が、宮殿の料理を準備する部屋、台所と名付けられる。これもアナロジーである、で発見される。科学的な分析から、甕の中に、食料が残されていたことが明らかになった。これも現代からのアナロジーであるが、こうして、貯蔵の甕だと考えられる。
 
   まだ、多くの関係、異なる二つの状況を類するで結び付けることはできる。かつてはこうした考え方が多かったことはあきらかである。しかし、こうした考え方は過去の歴史を記述する究極の方法ではない。そして、類推について多くの批判が必要である。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970041.html
 

「1970年代、ルイス・ビンフォードは類推の問題について精力的に研究を進めた。しかし、結果的に類推についての検討は経験主義あるいは実証主義についての大きな問題となってしまったが、こうした問題は二次的なものであるとしている。そして、科学的な考古学であるためには、類推の問題を正しいものするか、解決しなければならないと主張する。
 
   石器や骨器、土器片などの考古学資料は、現在では、さまざまな活動が凍りついた記録となってしまっている。考古学は考古資料やその位置、地表のあり方を注意深く、即興的に記録化しなければならない。しかし、考古学の目的はそこにあるのではない。考古学の主題は過去である。考古学はこうした現在の物質的様相から過去を知ることである。特に、過去の文化のシステムが機能するそのあり方や文化の発達のあり方が変容する動的な仕組みである。
 
   さらに、考古学は科学であるので、最後の章で検討するような説明の為の一般論を発見しなければならない。考古学は過去の文化が変化する動的な仕組みについて法則を見出す学問領域である。

   考古学は、常に考古学的資料のより良い解釈を可能にする、「活動が凍りついた記録」と「活動」を結び付ける可能性について議論しなければならない。ビンフォードは「活動が凍りついた記録」と「活動」との間にある空白、ミドルレンジについての仮説をつくるべきだとする。例えば、ある遺跡では、副葬品の豊富な墓は少なく、副葬品の乏しい墓が数多く発見されたとしよう。これは「動きが凍りついた記録」である。この遺跡のあり方から富や社会の不平等の特質(活動)を明らかにしなければならない。それを副葬品の数あるいは価値と埋葬された人の社会的地位を結び付けるミドルレンジを仮説することによって行う。あるいは、南東アメリカの集合住宅を発掘し、時間とともに、面積が大きくなり、部屋の数も増加することが明らかになったとしよう。私たちはこうした事実から人口が増加したと考える。この場合にも、面積の増加、部屋数の増加と人口の増加は相関関係にあるというミドルレンジの仮説を用いている。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970042.html
 
 
 
 
 
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うん?まだわかりにくい?

じゃあ・・・。
 
いかに考古学が科学であるかを証明するための論理的類推。
 
考古資料がどう使用されたかは、現代人考古学者や歴史家の考える現代の常識によって類推されてしまう運命にある。これがゼネラル・セオリーによる解釈だとしよう。1970年までの考古学では、そのような「こうに違いない」的な、現代の人間の道具の使い方から、その類推から、それを証明する法則(セオリー)を導き出してきた。対してミドルレンジ・セオリーではそれはあくまで仮説であるとして、そこから導かれる人間行動の法則を見出す。
 
 

「こうした提案はビンフォードによって、ミドルレンジ(中間領域)と呼ばれる。それは、活動が凍りついた記録を復元することであり、個別的な考古学的な研究から普遍的法則を明らかにするものだからである。しかし、多くの考古学の実践において、問題提起は理論化されなかったり、暗黙の了解であったり、陳腐、些細なものであったとビンフォードはいう。すなわち、より大きな集落はより多くの人々が生活していたという類の提案だったというのである。」

「現在、多くのミドルレンジの問題提起が陳腐あるいは取るに足らないもの成ってしまっている。しかしながら、研究者はその研究領域における仮説を公的に、そして、明確に仮説をつくるべきである。しかし、それがいわゆる常識と呼ばれるものであってはならないだろう。プロセス考古学以前の考古学において、多くの解釈学的問題が生じるのは、理論的だとされたものが、いわゆる常識的なものであり、ミドルレンジの仮説と呼ぶに値しないものだった。例として、中世ヨーロッパの村が計画的につくられていたという仮説をあげることができよう。村々が規則正しく整然とデザインされたものとされ、それを封建領主の支配の証拠と考えられていた。すなわち、規則正しく整然としていることがある種の意図のもとに計画されたものであり、それが封建領主の支配を意味するという暗黙の仮説から成り立っていたのである。同様のことが、建物の大きさや装飾が社会的地位を示しているという仮説、大きさやその様相から、それが道路としてデザインされたものだとすることも多々あった。
 
  仮に、このような仮説が暗黙の了解であり、検証されず、当たり前のことであったとしたら、我々は検証することのできない過去についての物語を語っているにすぎない。それは客観的で、正確であると判断することができないばかりか、それらの議論(研究)が良いもの(値する?)なのか、そうでないものなのかを明らかにしえない。暗黙の了解が認められないという議論は見かけ上尤もらしいだけであり、乱暴で、奇妙なことであるか、何かに取りつかれているのではないかと批判する考古学者もいる。こうした批判は考古学は実践であり、理論は必要ないと考える研究者に多いのだが。(P53)動的な活動を反映したものでありながら、その動的な社会や文化の動きが欠落した現在性の資料から過去の動的な社会や文化の機構を結ぶつけるために、明確にミドルレンジについての仮説を発展させることに意識的であるべきだとビンフォードはいう。(ただし、ビンフォードのいうミドルレンジはロバート・メルトンのような社会学者が定義するミドルレンジとは異なるものであることに注意しておく必要がある。社会学者のいうミドルレンジは経験的法則とグランドセオリーとの間にあるものである《中位の理論》。)

  行為のパターンやそのメカニズムと考古学的の対象との間の関係を見ることができ、明らかにし、注目に値するものとすることができるのは現在においてだけだということに注意しなければならない。新石器時代の農耕民が剥片を周囲に飛ばしながら石鏃をつくっている姿を実際に見ることはできないし、旧石器時代の狩猟民が獲物の皮を剥ぎ、それを解体し、骨を周辺に蹴飛ばし、それを犬が食べ、その残りが埋没し、考古学的資料になることを現実に見ることはできない。我々が同じだと考える行為やプロセスを見ることができるのは、現在の人々が行っている石器製作であり、狩猟と獲物の解体であり、最終活動であり、風を利用して穀粒をゴミから選別する行為なのである。

  ビンフォードはこうした研究が、今ここおいて、実際に行われている民族学的な事象を考古学者が観察し、記録することから、ビンフォードはこれをAcyualistic(現実主義)と呼んでいる。かれは次のようなたとえ話をしてこれを説明する。森の中で特別な形の足跡を発見したとしよう。おそらく、それをどんな動物であるとは解らなくとも、大きな体重のある動物だと考えるであろう。そして、しばらく後に、クマの足跡を確認したとする。この観察から、先に見た足跡が、かつて、クマのような動物の足跡であると確信をもっていうことができる。」
http://blog.livedoor.jp/a879198035/archives/51970043.html
 
 
 
なるほど?うそつけ。
 
 

つまりその時代の常識から安易に類推するのではなく、ほかの考古資料と比較検討ののちに、答えを出せ、それがフェアプレイだろう、とビンフォードは言った、それだけのことである。
 
実はこうしたフェアプレイというのは犯罪心理学の中では、すでにサー・アーサー・コナン・ドイルがあの名作推理小説「シャーロック・ホームズ」の中ですでにホームズに実践させている類推方法なのである。

「こうこうこうだからこうだ」だけではなく「彼女はそれをこうつかっている、ゆえに女性とはこれをこう使うのが一般的である」を付加し、さらに「それが女性の普遍的行動か」を比較検討し、パーセンテージが高ければ、はじめてその類推は成立するということになる。そのためには同類の資料をできるだけ多く、できるだけほかの地域でも採集し、その使用例まで発掘し、はじめてそれらが同じ使用目的を持っているものを断定するってことである。客観の中にもさらに客観的に、つまり科学的に決めなさいということだとおもう。

ふりかえって纏向遺跡は卑弥呼の都だったと確かに言えるか?まだ不十分だろう?だったら同類の遺跡をもうひとつ見つけてから言いなさいということになろうか。

ひるがえってぼくたちのように、少ない他者の決めつけ論理を信じ込み、「こうだ!!」などとネット上に書いてしまうやからは、非科学の極みだっていうことになるだろう。わかった?
 
はい。
 
 
ただしビンフォードのこの慎重論も、今では批判の対象になっており、もっともっともっと!証拠を出せと学者の中では言われている。
 
 
ぼくなどは、今夜ひとつの記事を書いて類推をご開陳し、恥の上塗りをしてしまってもちゃんと夕餉には酒を飲んでご満悦。それなんかまさに「ギムレットには早すぎるぜ」と言われているんだろう。日本全国で。
 
 
 
だってぼくは学者ではない、へっぽこ探偵のひとりでしかないんだからね。
 
 
言い忘れたが、この解釈でいいかも、君は君なりに、シャーロックになって検証することをお忘れなく。人の言うことは信用するな、である。
 
 
 
なにしろぼくはすでにギムレットに半分溺れてこれを書いているんだからね。
 
 
参考文献 民族考古学研究会編『民族考古学序説』 同成社 1998
 
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ようするに
大人はすぐには決め付けない
ってことだよ小林先生
 
 
 
なんていい記事なんだ!
なんて美しい花々だ
なんていい選曲だ
なんだっていいんだ、押せってんだ!
このタグをさ
 
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考古学の限界

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ゼネラル・セオリーにせよ、ミドルレンジ・セオリーにせよ、考古遺物の解釈にはどうしても限界が伴う。なぜならある石斧、あるハンドアックス、ある土器を分析し、それがどう使われたの研究を、実際にそれを使ったわけでもない学者が想像しなければならないからだ。
 
すべては想像でしかなく、見てきたわけでもない。
 
つまり狩猟も調理も祭祀も、やったこともない科学者が、ただこねくり回して「こうだったのだろう」とするしか仕方がないのである。未経験者がすべてを決めている。こんなばかな学問はない。
 
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 本当にそれでいいの、使い方。刃先はちゃんと研いだの?切り口はどうやって直線にするの?
 
 
 
 
それは遺跡でもそうであり、銅鐸でも古墳でもそうなのだ。ゆえにすべての学説は仮説でしかない。
 
 
狩猟中に相棒のイヌにとれたてのえさをやる。イヌは喜んで肉を食い、骨をちらかす。そして骨をのどにつめてその場で死んだ。放置される。それを発掘した考古学者は「イヌも食った」と考えた。そんなことで考古学はできあがる。歴史学もまったく同じである。どう食ったか、焼いたのか、煮たのか、生だったかなどは無言である。
 
 
まして『日本書記』などは、8世紀の政治家が何百年も前の話を想像して書いてある。それを何百年もあとの文献史学者がまた想像して解釈する。
 
 
いくら科学だと息巻いたところで。所詮歴史は科学足りえない。
科学だといいたいのなら、まずタイムマシンを作ってから言え、である。
 
 
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 わかりやすくしてあるけれど、本当にこうだったの?見てきたの?
 責任とれますか?違っていたときは。
 
 
 
 
嘘などいくらでも創り出せる。
誰も発掘の現場を見ていない。
せめて発掘を衆人環視のオープンスタンスにしたらどうだろう?
 
 
 
 
なにしろ縄文石器を先土器石器と叫んでも、考古学者は見極められなかった人びとなのである。人間なんてそういうあいまいな生き物である。だからこそ、いよいよ審美眼とミドルレンジ以上のファジーレンジ、ビッグレンジの越境考古学の目が必要になる。そして自説を疑う柔軟さだ。朝三暮四は政治には禁物だが、学問には常にそれが礼賛されねばならないだろう。
 
 
 
 
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外国人は日本の歴史に興味があるか?

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これは愚問かも知れない。
そもそも日本の考古学はモースから始まるのだから。
 
 
 
日本人 ぼくは趣味で日本史をやっているんです。
 
アメリカ人 おお!ジョーモンだね?
 
 
まず西欧考古学者はジョーモンと言う。
愛好家の中でもジョーモンは非常に関心が高い。
 
理由は、世界に例を見ないあの華麗な土器であろう。
 
縄文土器は「芸術はバクハツだ!」の岡本太郎をはじめとして、世界の美術家、芸術家の間でも人気が高い。
 
 
しかし・・・
 
日本人 いえ、弥生ですけど。
 
 
と答えるとしばし沈黙が走る。天使のなんとかいう間が悪い時間である。
 
 
日本人は弥生時代、古墳時代にばかり視線を送る。理由は卑弥呼である。
 
 
しかし外国人はほとんど誰も卑弥呼や邪馬台国などに興味がない。
 
 
要するに白人は、自分たちがなしえないことに関しての礼賛と興味に関して、惜しみない拍手と尊敬を持つ人種なのだろう。
 
 
だから歌舞伎や能や寿司は、海外で受け入れられ、新劇や新国劇やくじら料理はあまり受け入れられない。
 
 
豆腐や寿司は肥満大国アメリカにとって、まさに生きている化石のような痩せた日本人の体型になりたいがための「休耕食物」「代用品」でしかなく、ダイエット・サプリである。勘違いしてませんか?寿司屋さん。うまいと心から思っては食っていないヒトが多いのです。
 
 
 
外人が目を輝かす縄文土器は、縄文中期あたりの一時的意匠で、それ以前はさほどはででも特異でもないデザインで、弥生式と大差ない形状に、わずかに縄目やヘラ押痕がある程度。まして先土器時代、旧石器時代の石製品などは、ヨーロッパのものとほとんど同じである。機能美と使いやすさを追求すると、世界の人びとは同じものにたどり着く。
 
 
土器のついでだが、土器とは日本史のいつからいつまで使われただろうか?古墳時代まで?違う、土器は平安時代には「かわらけ」と呼ばれたり、生産地の「深草」などと呼ばれて存続する。そればかりか関東武士たちは室町、鎌倉時代まで、庶民農民にいたってはつい江戸時代でも、まだかわらけ状態である。
 
陶器は常滑以来早くから瀬戸物・有田・清水などが存在したが、平民・武家では長く高嶺の花だった・鎌倉時代のかわらけ、陶器は特に粗末で、裏側に高台(こうだい)すらなくなった。武士は名前のの通り、ぶしつけな生き方で、そういう粋を極めることを食事にまわすには愚鈍だったようだ。とにかく日本史の中で鎌倉時代ほど食器が安物だった時代はない。
 
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ジョーモンが世界で羨望の的であるといことは、欧州にはないからだと書いたが、似た様な縄目土器なら南米などでも出てくる。このはるかなる二点を土器の類似だけで結びつけのは、現時点ではゼネラル・セオリー的なことで無理とは思う。それに大英博物館の昔の補完状態もずさんで、ちゃんと土器を地域別に仕分けしていなかった可能性もある。少なくとも佐原真はそう書いている。(筆者は佐原さんをあまり信用していないが。なにしろ小林大明神の愛弟子である)縄目のパターンに違いがあるという説もある。
 
ただし、縄で模様をつけるというデザインの土器は日本と南米や中継地的な島嶼にしかないので、なんらかの移住はあってもおかしくはないとミドルレンジで考えている。しかし沖縄に縄文土器が出てこないのは、縄文土器の南下を裏付けないし、北海道からベーリング海周りも陸路に中継地がないのもまた事実。
 
 
 
縄文土器の時代・・・つまり世界史で言う新石器時代であるが、これは気候の温暖化で北半球で始まっているのは共通している。欧州ではこの温暖化に乗じて旧石器~中石器~新石器と段階を経た進化が起こった。しかしモンスーン気候の日本列島ではそれが極度の高温多湿を招き、植物食への依存度がいよいよ高まる。だから土器が発達した。どんぐりやトチノミの灰汁抜き、ぐつぐつ煮込む料理が発達、その究極が現代の鍋料理だったとも言えるかもしれない。複雑な地形が狭い集団をあるていど定住した狩猟採集生活へといざない、結果的に欧州の「個」よりも「家族」「小集団」的な発想や生活を生み出す。これも現代日本人に共通したところが見える。つまり日本人の生活・思想・観念の根幹に縄文文化はいまだにどっかりと根を張っている。
 
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ところが戦後、日本の家庭は「家」中心から欧米型「個」中心へと移行する。その最大の原因は欧米へのあこがれであり、西欧料理の魅力だっただろう。三世代以上の一家では、なかなか目新しい欧米食をおじいさん・おばあさんは受け入れにくい。これが核家族になると、父母の好きなものがいくらでも食えるようになり、今度は老人たちが継承してきた縄文からの伝統食が忘れられていった。当然、それまで肉食メインでなかった日本人には肉を効率的に分解する酵素が体内にない。すると糖尿病や高血圧が目立つようになり、肥満児が増える。
 
パン食はさらに最悪な結果をもたらす。繊維不足である。
 
動物ならばライオンは長い蓄積で、動物の内臓からビタミンCを作り出すことができるが、長い間雑食・穀物主食の人間にはそれは無理。肉食を続けていればやがて欧米人のような酵素も作り出せるかも知れないが、いかんせん肉食メイン生活は始まってまだ数十年、二~三世代しか経っていない。
 
堅果類はコメに比べてたんぱく質・炭水化物などは劣るが繊維は多い。それに魚食なので、体にわるかったはずはない。魚の脂肪分解率・熱昇華率は肉を圧倒的に上回る。理想的食卓である。だから今欧米人が和食をダイエットに選んだのは、つまり縄文人・弥生人の生き方を尊敬したという結果になるのである。
 
 
コメの改良が遅れていた時代の東北地方では高血圧が多かった。これはあの塩辛い漬物、保存食をあわ・ひえ・大麦で食べていたご先祖さまからの残存遺伝子だと言えるかもしれない。今はむしろコメは北国のほうが有名で、結果的に弥生文化は東北人の寿命を延ばしたかっこうになる。東北では大豆もとれにくかったため、代用豆の使用が多いが、おこわなどにインゲン類、捧げ豆などを代用したものが今も主流で、これは縄文文化の名残である。
 
 
 
西日本にはドングリはないと思っている東日本人もいるかも知れないが、西日本縄文人は樫・椎の実を採集して食べていた。またそれ以上に温暖地特有の産物もあったわけで、決して西日本は縄文後進地だとは決め付けにくい。ただ人口はあきらかに東北やがて晩期には関東が多く、それはやはり植生の選択しやすいのが東だったということになろう。その代わり、温暖地ならではの稲作の始まりは圧倒的に西九州が早い。
 
 
外国人にとって、弥生人が日本人の遺伝子のメインになったことはあまり興味がないようで、それはつまり渡来したのもアジア人じゃないか、土器がつまらないじゃないか、などの理由かも知れない。その代わりにアイヌには異様に興味を持つ。顔つきがコーカソイドだからだろう。とにかく珍奇なものへの好奇心が外国人は日本人の数倍ある。日本人はA型民族のせいだけでもあるまいが、どちらかと言えばみんなが同じ方向を向いていないと気に食わない国民性である。実に考え方だけはつまらない。筆者の住む地方都市などは、県庁所在地の大都市なのに、やはり保守的で、変化をきらい、よそもの、変わり者を阻害したがる。それが老人の多い古い住宅地ではことさらで、京都から帰ってきたぼくなどの行動はまったく理解できないらしい。不審者ではないが、怪しい奴であるらしい。もっともこちらはそのほうが都合がいい。いらぬ会合や葬式のお布施など無用だからである。
 
 
このように地方には未だに過去の「家」「小集団思想」が形式的だが残存する。まあ、意識の点では東京・大阪とは100年近くの差があるだろう。
 
 
縄文集落の多くはせいぜい150人内外の人口である。共同生活は営みやすい。そのほうが確かにリーダーも楽である。ところが弥生時代では稲作のせいだろうが、定住して高カロリー食だったから爆発的に人口が増えた、だからすぐにムラは狭くなり、食糧不足となり、勢い、となりへの侵略となっていく。弥生時代は戦争痕跡の時代とも言える。特に北部九州、山口、島根、鳥取、新潟などで「外来者」との攻防が起きたらしい。もちろんすべてが倭人同士ではなく、海外からの侵入者とのせめぎあいもここでは起きている。日本海側は先進地だったのである。
 
一方、日本海から南へゆくほど平和で、いなかである。つまりヤマトから戦争遺物が出ないのは、当時、まだヤマトがいなかだったからにほかならない。先住縄文人とのこぜりあいすらおきていないのは、『日本書記』記述とは随分違うことになる。ということは『日本書記』の古い時代の記録はヤマトが舞台ではなく、よそからきた氏族の持ち込んだ伝承だった可能性もあるえわけである。
 
 
 
縄文の人物オブジェを順を追って眺めていくと、土偶に行き着くまでに、最初は土器への絵で始まって、線刻画からレリーフへ向かい、やがてそれだけが独立して人形型になるのだが、そこでも最初は平板から立体の変化がある。ところが古墳時代に目を移すと、また、壁画古墳から線刻、そしてレリーフ、最後に石人や埴輪と、またぞろ同じことを繰り返している。しかも意匠や芸術性でも縄文に及ばない。
 
もちろん西と東の違いはある。人種も違うだろう。それにしても縄文の洗練は弥生以後とは違って、極めて芸術性が高すぎる。火焔土器や女神土器などは、まして北アジアから同類のものが出てこない。なんだろうこの特殊性は?
 
 
筆者は倭人伝が書いた「倭人」のほとんどは九州縄文人だと思っているが、日本海を通して九州の異物は三内のような「大都会」へと流通しているのに、あっちから九州へなにもこないのはおかしいと思える。つまり装飾古墳とかヤマトの直弧文の伝統を東北縄文文化に見てしまうのである。弧文や弧帯文、直弧文のデザインの基礎には確かに橋口達也が言うような南島の貝の渦巻きがあるが、それを組み合わせたのは案外、東北から来ていた縄文人だったのかも知れない。
 
 
もうひとつ。ならばなぜゴホウラやイモガイは選んでも、スイジガイは選ばなかったのか、東北縄文人の好みも興味深い。
 
 
 
 
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墓・古墳・ストーンヘンジ/古墳の変遷 行為型から仰視型から対面型へ

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◆墓の視覚的(モニュメント様式)の変遷
世界的流れ
新石器時代初期6000~4000年前 「行為型」・・・ヘンジ・ストーンサー                           クル
 
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新石器時代中期4000~2000年前 「仰視型」・・・ジッグラト・ピラミッ                           ド
(墓であり祭祀場である期間)
 
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バベルの塔もジッグラト(メソポタミアの高層建築)
 
 
 
金属器時代  古代後半から中世    「対面型」・・・教会・寺院
(ゆるやかに墓機能中心へ移行した時代)

近世以後    「墓」 

 
日本や朝鮮
縄文時代    「行為型」・・・環状列石・環状住居=円(結い)の思想
 
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大湯環状列石は墓地兼祭祀場兼暦である
 
 

弥生時代  九州「仰視型」・・・支石墓・甕棺墓・周溝墓→四隅突出型・楯築                 型・吉野ヶ里型→竪穴式→横穴式

      畿内「仰視型」・・・方・円形周溝墓→纏向式(吉備型)プレ前方後円                墳・前方後方墳
 
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古墳時代  「仰視型」・・・前方後円墳・前方後方墳・横穴墓→円墳→
(墓と祭祀場祖霊降臨ヨリシロ)
 
奈良時代  「対面型」・・・・大谷一号墳・天武・持統陵墓。小型化し平地へ

平安時代  「墓」「墓標」「石塔」
 
 
 

世界も日本もあらましは同様の推移を見せる。
行為型とは全員参加してそのモニュメントに歩み寄るための導線(参道)を併せ持つ。祭祀場中心。おそらくナスカ地上絵も同じ意味合いを持つ遺跡だろう。

仰視型とは小高く作られ、仰ぎ見る構造。個人の墓兼祖霊祭祀場
 
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長野県松本市の森将軍塚古墳は丘陵にあり仰視型墓の代表
 

対面型とはほぼ立っている人の高さにしつらえた墓。個人・家単位の墓機能メイン
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岡山県上房郡北房町大字下呰部258 大谷1号墳は
五段式切り石積で高句麗・百済様式に似る対面式古墳の代表
飛鳥時代7世紀
 
 
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対面型祭祀の意味も持ち合わせて現代でも作られる沖縄の亀甲墓カーミナクー墓
(神の来る墓・神とは祖霊である)
 
 
 
墓とは、現代と同じ墓標を持つコンパクトなもの。個の墓。なきがらをおさめる箱
「骨安置所」
 
 
 
このように墓は最初祭祀場色のほうが強い集団墓地であり、部族全体が参加して年間祭祀を行っていたものが、次第に個人・氏族の祖霊のよりしろから個人墓へとコンパクト化してゆく。

途中、どこの世界でも一度は巨大化、高層への道を歩む。その時代は気候が安定し、収穫も多く、財力が蓄えられた時代に当たる。寒冷化時代はあらましコンパクト、移動しながらの埋葬などが多い。
 
 
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仁徳天皇陵・大仙古墳 大阪府
 
 

そう考えると、日本の奈良時代は確かに寒冷化した時代で墓もコンパクト化したが、それ以外に政治的に仏教が入り、火葬時代になったことも大きく影響。しかし寒冷化の時代は概してシンクスモール、インナーへ向かう思想が主流となるのは間違いない。これが大陸では外敵の侵入が起こり、墓どころではなくなる地域も多かっただろう。
 
縄文時代の気候変動グラフ
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関東甲信越で火焔土器などが爆発した時代は温暖化へ向かう時代の千年間

そしてこれは言っておかねばならないことだが、いずれの時代も平民はまったく違う形式で集団埋葬(十把ひとからげで穴に)あるいは放置葬、洞穴埋葬などがされた。
 
弥生以降~現代
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 飛鳥・奈良時代・戦国時代は寒かった渡来人は増え、いくさがおきたりした
 

古墳の様式の変遷(畿内)
周溝墓→双方中円型楯築墳丘墓・播磨式→百済+縄文=円と、尾張・出雲式四角の合体=前方後円墳→上八角形下方墳→上円下方墳
地域、階層によってかなり違いあり。
 
 
 
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墓室
支石墓→竪穴式(個人葬・再葬、追葬なし)→九州・百済的横穴式や横口式片袖→両袖→
           
          積み石→切り石
 
 
 
 

甕棺郭なし組み合わせ式石棺→郭あり組み合わせ式石棺→周溝墓組み合わせ式→吉備型陶棺→石
床→石屋形→組み合わせ式石棺や舟形木棺→割り竹型→刳り貫き式石棺→木製棺→骨臓器
 
 

設置場所
丘陵上や中腹地形を削って→平地最初から盛り土
族長クラスは横穴墓で対面式
 
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墓誌
日本で墓誌が入れられたのは奈良時代からで、それ以前は「墓守」がいた。小屋に住まい、伝承してきたが、飢饉や戦で四散して誰の墓かがわからなくなった。記録や建造物は残るが、まずもって人が残る例はまれである。ひるがえってあなたのお墓は、何世代前から把握できるでしょうか?やはりせいぜい3~4世代前までが関の山ではなかろうか?やはり記録することは大事なのだ。どんなに調査しても、だいたいの日本人は、自分からそのくらい、記録ある人でも鎌倉時代までがやっとであろう。飛鳥時代まで遡れるのは天皇家と藤原氏あたりしかないだろう。だから日本人には藤姓が増えたのであろう。秦姓も多い。そのほとんどは明治時代以後の名乗りだろう。なぜなら藤原・秦は記録上「敗北していない」両巨頭氏族だからである。一方は貴族、一方は渡来系子孫たちのステータスネームなのだ。

一方、武家の苗字は大半が地名名乗りで、その前は不明で、こちらは源平藤橘をステータスにした。これまたしかし、まことかどうか知れたものではない。そういう武家の系譜のほとんども、実は「系譜買い」したもののつぎはぎばかりである。また「何世孫」などの伝承ほど疑わしいものもない。要するに天皇・藤原家以外は「どこの馬の骨かも定かでない」平民と渡来と蝦夷と被差別者だと言ってよい。まれに正統を受け継いで折られても、系譜を遡れば戦国時代に継嗣した家がほとんどで、オリジナル血脈は途切れていると考えて差し支えない。そもそも現代において、過去どんな先祖だったかなど、学校で教わる数学と同じ。一般的に役にはたたない。
 
なにより、あなたやわたしの子孫が死に絶えようと、人類が死に絶えようと地球は続く。わたしたちは悠久の地球時間の、人類史のほんのひとコマを生かされただけ。そこになんの意味があるはずもない。ただ、血脈を後世へつなぐバトンランナーの一人でしかない。あなたが得た名誉や地位などはいっときの仏壇のお供えにしかならない。子孫にまで永久に受け継がれて欲しいなどと考えるほうがどうかしている。だからあなたのやりたいことをして生きなさい、ただし子孫だけはせめて残しなさい。それだけがほかのあらゆる生物たちと平等に、神=宇宙原理が与えたもうた能力だからだ。そうすれば民族が、人類が、滅びたりするはずがない。子供は人類の宝であるとはそういう意味である。子作りが嫌だ、面倒だ、と思うことは、つまり唯一の地球とのつながりまで絶つことである。そういうものを「この世に不必要なモノ」「アンチ・キリスト」あるいは魔女と言う。(先天的に作れない人は別)

建造物は残ると書いたが、それは個人の住宅は含まれない。それはやがては朽ちていく。住む人も変わる。せっせと建てた自宅などは「仮の住まい」、あなたがた夫婦だけのものだったに過ぎない。子供は出てゆく。家は残って子孫たちのやっかいな残骸になるだけ。遺跡にすらなりはしない。なんと現代人はしがない存在であろう。しかしそれが自由世界というもの。名前など、残さず跡形もなく消えるをよしとしたい。どうせ孫子は成長すれば墓にも来ない。無駄金は使うなかれ、残すなかれ。遊びをせんとや生まれけん。
 
 
 
 
図説資料 『楽しい古墳案内』などより
 
 
 
 
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かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
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公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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Talken about TOKEN /トークン/文字のきっかけ

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トークン
とは言っても現代のトークンを扱うわけではない。
古代文字の前身だとされているトークンである。
 
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文字がなかった先史時代には、袋や丸い容器にこの貝殻のような小さなオブジェを入れて、持ち歩いたという。形状は円錐・円盤・球などさまざまあり、粘土でできている。はじまりは紀元前8000年くらい。新石器時代前半になる。欧州の遺跡から出ている。
 
紀元前3500年くらいになると種類がかなり増えた。ちょうど王が登場し都市が作られ始めた頃。
 
使用法は商業取引・管理など。
その形状のひとつひとつが物品を現していたらしい。日本やアジアにはあまりないようだが、アジアでは紐の結び目で数や文字を作っていたらしいし、どっちが賢いかという問題。また貝をお金としていたのは中国国家だが、小さな貝で文字・物品表象にしていた人もいたかも知れない。
 
持ち歩いて出しているうちに、それが面倒になったのか、粘土板にトークンを押し付けて、その形状で取引物品がわかるようになりはじめたようで、これがつまり最初の文字だったという(フランス考古学・デニーズ・シュマント=ベッセラ 女性)。
 
これまで文字は絵文字から始まり象形文字へとされてきたが、こういう説もあるという話。意思の疎通史とでも言うか、非常に生活に密着した視点で説得力がある。
描くだけなら三歳児から開始される。しかしそれは絵である。絵によって意思疎通できたなら、それは文字と言える。さらにそれは連続した絵柄の断片でありコンパクトである必要がある。
 
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例えば銅鐸に描かれた鹿やトンボやスッポンなどは文字であるという説もある。鹿については横になった三日月状の胴体に、線で頭とツノ、足が描かれた簡易なものだたが、やがて真ん中の三日月形だけで鹿だとなっていったようである(松木武彦)。つまり簡略化、スピード化対応である。それが文字へというのが一般的であった。
 
(鹿が藤原氏のシンボルだったことは、あるいは天皇の影の存在補佐役を表す月と関係あるのかも知れない。これは発見であった。)
 
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しかし日本の絵文字は、途中で中断させられた、漢字が輸入されたからである。そうすると中央ではまずこの絵文字は消えてしまったのは仕方がないが、中央集権がゆるい時代、当然地方にはまだ使う氏族もいたことだろう。それがいわゆる神代文字として記録が残ったかどうかは、まだ証明されていない。考えるに、文字の開始はやはり岩や粘土板やに刻んだ先刻画が古い気がする。なぜなら最古のオブジェであるオーカーには、旧石器時代人以前から、持ち物に差別化を与える格子柄が刻まれているからだ。これはまだ絵であって、記号であるけれども文字とは呼べない。しかし文字と絵はほぼ同時に出発していたのではないか?要するに「おれのお気に入り」という印が格子柄だったり、単に滑り止めだったにしても、そこには意思が表出していると考えうるからだ。
 
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オーカーとは粘土のこと。色で粘土色もオーカーという。
 
 
単一的だった意匠はやがてどこの世界でも連続する幾何学模様、つまりテキスタイルを次に生んでいる。ちょうど服飾のチロリアン・テープのように、同じ絵模様、あるいは複数の絵模様が交互に置かれ、それが横に連続する絵柄である。幾何学化は要するにデザインというものが簡略化から生み出された意匠であることを語る。その絵柄にはなんらかの意味が必ずついている。例えば波の連続は海を渡ったとか、渦巻きの連続は子孫繁栄や存続とか長寿だったとかを表すのではないかと。特に生命や子孫を表すなら連続することに大きな意味がある。それが円盤に刻まれれば神獣鏡外縁の鋸歯文になるだろう。円形は連続・永遠をさらに表す形状であり、完璧を指す縁起のいい形状である。生命力の象徴が丸いこと、球である。そこに描かれた絵柄は終着点がない。永遠の表現こそが円なのである。
 
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チロリアンテープ
 
 
 
するとひるがえって纏向から出た弧文の円盤などは、まさに氏族国家の繁栄を示すオブジェだと言えよう。
 
 
ついでだから現代用語のトークンも簡単に。
「計算機科学における字句解析 (じくかいせき、英: Lexical Analysis) とは、ソースコード を構成する文字の並びを、トークン (token) の並びに変換することをいう。ここでいう「 トークン」とは、意味を持つコードの最小単位のこと。Wiki字句解析より
 
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これもトークンって名前の機械
何に使うかは勝手に調べてね。ここでは関係ない。
 
 
 
そもそもこのトークンという現代用語は、古代トークンに由来しているかと思う。会話・文章の構成原理。プロットを構成するための原理とでもしておこうか。

今日はトークン・アバウト・トークンで締めくくろう。

 
 
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なぜ八咫烏は三本足か?

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こんな簡単な質問はない。
 
答えは「この世のものでないカラス」だからである。
 
 
八咫烏はもともと三本足ではなかったようで、いつからか中国「山海経」を最古とする三本足の太陽の使いのカラスが高句麗へ伝わり「三足烏 さんそくう」となって日本に伝来。
 
 
最古の太陽と烏の組み合わせは紀元前2世紀の馬王臺漢墓の絵。
 
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月にひきがえる、太陽に烏の意匠は、祖霊がからすによって持ち帰られ、子孫を産むという長江文明からの祖霊回帰伝承から。
つまりオリジナルは長江文明の6000年前あたりまで遡るであろう、神仙思想を派生元としている。
 
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高句麗画
 
 
 
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漢代壁画
 
 
 
 
 
 
 
漢代にはさまざまの烏が描かれたが、いつしか三本足になった。
太陽の使者としての特別なカラスであるなら、どこかが尋常でない部分でできていなければならないという発想であろう。三つ目でもいいし、白いカラスでもいいのに、なぜ足を増やしたか?それは男なら誰でも気づくはず。生命力の象徴としてのペニス(男根)である。しかしそのまま描いては品格は落ちてしまう。神仙思想の師たちがそのまま描くはずもなく、なら三本目の足と。それが日本でもスラングでペニスのことを三つ目の足などとなったわけであろう。三本足の解釈はこれよりほかに理由もなく、またこれから問題にすることもないだろう。
 
 
 
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ついに見つかった三本足カラス!!
 
うそうそ
 
 
 
ワールドカップも近いしこれはおまけ記事でした。
 
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全国古墳がよくわかる歴史博物館・資料館一覧

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日本の歴史博物館・歴史資料館一覧
『楽しい古墳案内』より
 
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古墳について知りたいとき、遺跡が知りたいとき、ご利用ください。
 
見聞を広めてください。
 
そしてこの本をどうぞ一度はお読みになってみてください。
 
おすすめしています。
 
 
 
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予定変更して「遠交近攻」「韓国挟撃」策の危険性・ホクセンと拉致問題のあやうさ

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倭五王と巨大古墳と中世について書いている最中に、ホクセンが日本人拉致者たちの再調査を全面的に日本と協力し、代わりに今までの経済制裁を徐々に弱めると政府は発表。
 
 
 
これは、いよいよ日本は戦争への未知へ一歩一歩近づいていくと、Kawakatuには見えた。
 
 
遠交近攻である。韓国挟撃作戦としての一部だろうが、ここはよくよく考えておかないと、日米韓、東南アジア、インドなどの環太平洋中国牽制政策とバッティングしてしまう畏れにみちみちている。
 
 
拉致被害者がようやくむくわれる・・・というひとつの喜びの影に、相手はどんな策謀を隠しているか知れないのだ。日米、日韓、日中、日露の関係が微妙になっているところをついて、結果的にホクセン貿易者による自由な日本国内横行が起きたら、これは喜べる内容かどうか・・・。
 
 
危ういのう。
 
ここが思案のしどころよの~~~
 
確かに、拉致問題自体は解決されねばならない。しかしそれを政治取引のてんびんの上に乗せてしまい、交換条件にしてしまうのはどうなのか?
 
日本国民1億数千万人に対し、拉致被害者の総数は?
 
 
 少数の拉致被害者のために国民全体を危険に?
大儀につかず小儀を取る?
この政府はいったい右なのか左なのか????????
 
制裁解除をなぜ急ぐのか?拉致被害者が全員帰還してからでいいのではないのか?
 
なぜテロ国家に歩み寄るのか?
 
なぜこのような国際問題を自由主義諸国と話し合ってから決定しないのか?
 
いったいアジアに自由主義社会を拡大しようという心は首相にはないのか?
 
安倍首相は天智天皇の白村江敗戦の百済救援のように、ホクセンを助けようとしているのか?
 
などなど
 
 
 
ここはご意見募集じゃ!
 
 
 
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歴史区分

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歴史区分のおおまかな定義

欧州史では

[原始(先史)]
 文字が無く、遺跡や遺物から推測する。新石器時代前半。土器の使用。
 
 [古代]
 文字の使用により文献が残っている。青銅器や鉄器が鋳造される。
 国が出来る。
 
 [中世]
 絶対王制。中央集権国家。
 
 [近世]
 封建主義社会。権力の分散。新勢力、諸公(貴族、大名)の台頭。
 
 [近代]
 産業革命以降。第三の勢力(市民層)の台頭。
 
 [現代]
 第二次世界大戦後の新秩序に基づく社会。
 
 
 

日本史では
[先史]
 旧石器時代(縄文時代)~古墳時代
 
 [古代]
 大和朝廷の成立~奈良時代
 
 [中世]
 平安時代~
 
 
 [近世]
 ~戦国時代~江戸時代
 
 [近代]
 明治維新~第二次世界大戦

 [現代]
 第二次世界大戦後~
 
となっている。
 

日本の歴史では、例えば神武天皇のような征服とされていてても、勝ったというより在地先住氏族を嫁にして、「婿入り型」先住残存、共立王しか登場してこないが、実を言うと倭五王は『宋書』の倭王武の描き方ではあたかも征服王であったかのように自称したとなっている。もちろんそれは神武東征同様、対外的に大陸の世界史に沿った見栄でもあっただろうが、西欧中世(中古)の条件、定義に照らしてみれば、中央集権、征服政治王へのとっかりであり、先土器~縄文~弥生~古墳~飛鳥時代へと、長いスパンの広義の古代の中では異彩を放っていると言える。

朝貢、宗教王、畿内内部に限るなどの定義からはみ出す部分も多々あり、確かに古代だったのは間違いはない。ただ、建造物に関しては、西欧で仰視型王墓・祭祀場から対面型の教会・寺院への以降の一時期に、巨大寺院、教会(ゴチック様式)への道が登場したことで観るなら、倭王の巨大古墳の突然の登場は、それまでの纏向の巨大古墳からは隔絶するほどの巨大さをもって造営されているのは、実に不思議な現象なのである。

古代日本人の巨大化嗜好は、弥生や古墳時代の鏡、銅鐸、古墳などに顕著であるが、それが何をオリジナルとして巨大にしたくなったかは謎で、中国にも朝鮮にもドンソン文化にも、あのような馬鹿げたといえるほどの壮大な底辺を持った鏡も鐸も古墳もないわけで、まったく日本人がどこかでピラミッドでも見てきたか、ストーンヘンジでも観たのかと、思えてくることになる。

ある意味で、大陸的な中世王意識が倭五王にもまったくなかったとは言えないかも知れない。すると次の飛鳥政権はそれを引っくり返し、元の先史の王権に逆戻りしたのではないか、そう思えてしまうほどである。つまり対外的にオープンだったのは蘇我氏の一時期だけであり・・・未完
 
 
 
 
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中国は第三次世界大戦を起こしますか?

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