日本での横穴式石室
「日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。
- 4世紀後半には、北九州の福岡市に老司(ろうじ)古墳と鍬崎(すきざき)古墳で造られている。それぞれの墳丘長は約90メートルと62メートルの前方後円墳である。老司は後円部に3基、前方部に1基を、杉崎は後円部に埋葬施設が確認されている。
- 5世紀の初頭から前半には、福岡市西区に丸隈山(まるくまやま)古墳や佐賀県唐津市浜玉町に横田下古墳[1]などが築造され、より整形された割石積みの横穴式石室を持つようになっている。
- 5世紀中葉から後半には、九州の北部から中部にまでひろがり、福岡県八女郡広川町石人山古墳や熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳などのように地域的な特徴をもった横穴式石室が盛行する。また、北部九州の各地では石棺式石室などが考え出され、福岡県行橋市では竹並横穴群が知られている。さらに宮崎県南部から鹿児島県東部に地下式横穴が墳丘の下につくられている。例えば宮崎県東諸県郡国富町の塚原地下式横穴A号など。
- 九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴系が一般的であるが、画一的なものでなく様々な埋葬法が各地で行われていた。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。例えば、岡山市千足古墳、大阪府堺市塔塚古墳(方墳)、藤井寺市藤の森古墳、奈良県葛城市平岡西方古墳群所在古墳、和歌山県橋本市陵山古墳、同県和歌山市岩橋千塚の大谷22号墳、同花山6号墳、奈良県椿井富山古墳(円墳か)、福井県三方上中郡若狭町向山1号墳、三重県志摩市おじょか古墳、愛知県西尾市穴観音古墳などに極限られている。
- 6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。
- 646年(大化2)薄葬令が公布された。この令によって、古墳の築造が細かく規制された。石室をつくることが許されたのは貴族階級であり、一般庶民には石室をつくることは許されず、地に埋めることが規定されている[要出典]。
横穴式石室の隆盛は九州で4世紀後半から、畿内では5世紀からと時代的には、西高東低で始まる。だが、筆者はこのタイムラグを、いわゆる「西から東へ」の弥生時代までの常識の中で捉えていいとは思っていない。
どういうことかと言うと、弥生時代の2世紀前後に、ヤマトではすでに筑紫とは別のルートで、朝鮮半島との交流を開始しており、独自に横穴式を採りいれたと見ているからだ。半島を隣国とした筑紫が、これを東の国々より先に取り入れたのは、当然のことで、しかしそれが東へと広がる時間帯は、ほかの最新遺物と比べると、50年そこらでは早すぎる。だからヤマトの中国東北部への朝貢が単独で行われた結果、途上にある半島と、独自に交流が生まれていたと見るのである。
一方、四世紀の筑紫の古墳を見るとヤマトの竪穴式石室を持った墳墓がすでに登場している。
ここからは少しうがった意見になるが・・・
出雲に四隅突出墓が出現し、東西に広がろうとしていた弥生時代に、この墳墓形式は南下もして広島・岡山の山間部にも降りてきている。これは四隅突出墳というものが日本海に於いて「高句麗~百済へと南下していく方形壇上墓勢力に対して、瀬戸内海側諸国が、やがてそれを阻止しようと対抗したことを想定できる。アメノヒボコとオオクニヌシの争いなどは、こうしたことを言っているのではないか?
3世紀ヤマトはこの吉備勢力の早期先住によって成立したことは間違いあるまい。では、それは吉備が出雲・日本海からの侵入に、東へ移住した結果なのであろう。
大陸の民族ピストンの歴史が、列島日本海側へ押し寄せた結果、南の瀬戸内海では頭部への押し出しが起きた。その結果、纏向に吉備的な弧帯文などが移動したのである。
筑紫と機微はこれによって、遠隔地となってしまい、交流が薄くなる。
こうして中国地方や四国北部は出雲文化を濃厚に受けた地域になり始める。ところが、吉備中心部や播磨海岸部は出雲の四隅突出墓を許容していない。つまりこの対戦は結果的に吉備が勝ったのであろう。筑紫を除いて、このときまでに列島で最強だったのは吉備である。稲作も鉄器も製鉄も、吉備だけが筑紫に頼らぬ独自の高句麗型様式を手にしており、柩も陶柩を用いるものが現れている。
唐古・鍵を吉備の先住者の遺跡ではないかと想定すると、話はわかりやすい。
吉備と葛城の同族がヤマトで起きている。
このように邪馬台国の原型は最初吉備にあって、それがヤマト支部であったものが、次第に大陸との日本海ダイレクトの交流を深めることで、筑紫を出し抜く力を持ち、中国とも公孫氏を通じて筑紫とは別につながっていったと見る。
すると畿内にとっていかに琵琶湖から福井、そして日本海~出雲~半島のルートが大事だったかに気づくのである。それは筑紫に頼らない、独自の「国家に発展できるための」内密の道だったはずだ。だからこそ継体大王はのちに大王になれたのである。
九州は確かに王朝だった。しかし、2世紀後半から吉備・葛城連合はそれを出し抜いて国家として中国に認めさせる力を蓄えたのだろう。
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