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横穴式石室の東西

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日本での横穴式石室

「日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。
 
  • 4世紀後半には、北九州の福岡市に老司(ろうじ)古墳と鍬崎(すきざき)古墳で造られている。それぞれの墳丘長は約90メートルと62メートルの前方後円墳である。老司は後円部に3基、前方部に1基を、杉崎は後円部に埋葬施設が確認されている。
  • 5世紀の初頭から前半には、福岡市西区丸隈山(まるくまやま)古墳佐賀県唐津市浜玉町に横田下古墳[1]などが築造され、より整形された割石積みの横穴式石室を持つようになっている。
 
 
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  • 5世紀中葉から後半には、九州の北部から中部にまでひろがり、福岡県八女郡広川町石人山古墳や熊本県玉名郡菊水町江田船山古墳などのように地域的な特徴をもった横穴式石室が盛行する。また、北部九州の各地では石棺式石室などが考え出され、福岡県行橋市では竹並横穴群が知られている。さらに宮崎県南部から鹿児島県東部に地下式横穴が墳丘の下につくられている。例えば宮崎県東諸県郡国富町の塚原地下式横穴A号など。
  • 九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴系が一般的であるが、画一的なものでなく様々な埋葬法が各地で行われていた。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。例えば、岡山市千足古墳、大阪府堺市塔塚古墳(方墳)、藤井寺市藤の森古墳奈良県葛城市平岡西方古墳群所在古墳、和歌山県橋本市陵山古墳、同県和歌山市岩橋千塚の大谷22号墳、同花山6号墳、奈良県椿井富山古墳(円墳か)、福井県三方上中郡若狭町向山1号墳、三重県志摩市おじょか古墳、愛知県西尾市穴観音古墳などに極限られている。
  • 6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。
  • 646年(大化2)薄葬令が公布された。この令によって、古墳の築造が細かく規制された。石室をつくることが許されたのは貴族階級であり、一般庶民には石室をつくることは許されず、地に埋めることが規定されている[要出典]。
 
 
 
 
 
 


 
 
 
横穴式石室の隆盛は九州で4世紀後半から、畿内では5世紀からと時代的には、西高東低で始まる。だが、筆者はこのタイムラグを、いわゆる「西から東へ」の弥生時代までの常識の中で捉えていいとは思っていない。
 
どういうことかと言うと、弥生時代の2世紀前後に、ヤマトではすでに筑紫とは別のルートで、朝鮮半島との交流を開始しており、独自に横穴式を採りいれたと見ているからだ。半島を隣国とした筑紫が、これを東の国々より先に取り入れたのは、当然のことで、しかしそれが東へと広がる時間帯は、ほかの最新遺物と比べると、50年そこらでは早すぎる。だからヤマトの中国東北部への朝貢が単独で行われた結果、途上にある半島と、独自に交流が生まれていたと見るのである。
 
 
一方、四世紀の筑紫の古墳を見るとヤマトの竪穴式石室を持った墳墓がすでに登場している。
 
ここからは少しうがった意見になるが・・・
 
 
出雲に四隅突出墓が出現し、東西に広がろうとしていた弥生時代に、この墳墓形式は南下もして広島・岡山の山間部にも降りてきている。これは四隅突出墳というものが日本海に於いて「高句麗~百済へと南下していく方形壇上墓勢力に対して、瀬戸内海側諸国が、やがてそれを阻止しようと対抗したことを想定できる。アメノヒボコとオオクニヌシの争いなどは、こうしたことを言っているのではないか?
 
3世紀ヤマトはこの吉備勢力の早期先住によって成立したことは間違いあるまい。では、それは吉備が出雲・日本海からの侵入に、東へ移住した結果なのであろう。
大陸の民族ピストンの歴史が、列島日本海側へ押し寄せた結果、南の瀬戸内海では頭部への押し出しが起きた。その結果、纏向に吉備的な弧帯文などが移動したのである。
 
 
筑紫と機微はこれによって、遠隔地となってしまい、交流が薄くなる。
こうして中国地方や四国北部は出雲文化を濃厚に受けた地域になり始める。ところが、吉備中心部や播磨海岸部は出雲の四隅突出墓を許容していない。つまりこの対戦は結果的に吉備が勝ったのであろう。筑紫を除いて、このときまでに列島で最強だったのは吉備である。稲作も鉄器も製鉄も、吉備だけが筑紫に頼らぬ独自の高句麗型様式を手にしており、柩も陶柩を用いるものが現れている。
 
 
唐古・鍵を吉備の先住者の遺跡ではないかと想定すると、話はわかりやすい。
 
吉備と葛城の同族がヤマトで起きている。
 
 
このように邪馬台国の原型は最初吉備にあって、それがヤマト支部であったものが、次第に大陸との日本海ダイレクトの交流を深めることで、筑紫を出し抜く力を持ち、中国とも公孫氏を通じて筑紫とは別につながっていったと見る。
 
 
すると畿内にとっていかに琵琶湖から福井、そして日本海~出雲~半島のルートが大事だったかに気づくのである。それは筑紫に頼らない、独自の「国家に発展できるための」内密の道だったはずだ。だからこそ継体大王はのちに大王になれたのである。
 
 
 
 
九州は確かに王朝だった。しかし、2世紀後半から吉備・葛城連合はそれを出し抜いて国家として中国に認めさせる力を蓄えたのだろう。
 
 
 
 
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高地性集落は地域内「属国」選別内乱遺跡 大阪観音寺山遺跡

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高地性集落概要
「高地性集落(こうちせいしゅうらく)は、日本の弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある、標高100メートルを超える高地の山頂部や斜面に形成された集落である。」

「高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。古墳時代前期には、西日本の広島・鳥取に、北陸の富山・石川・新潟に分布する。しかし、北部九州にはみられない集落である。集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
 
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。しかし、高地性遺跡からも同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており単なる監視所・のろし台といったものではなく、かなりの期間、住居を構えた場所だったことも判明してきている。

集落の分布状況から、弥生中期~後期にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。つまり、畿内を中心とした地域で進められていた統合・連合への動きであった。豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。さらに、弥生中期~後期という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方や、神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9C%B0%E6%80%A7%E9%9B%86%E8%90%BD
 
 
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倭国大乱と高地性集落
後漢書や魏志が記録している「倭国大いに乱れる」は、しかし高地性集落発生期間より前の弥生中期の2世紀中ごろ(桓・霊の時代 後漢 の 光和年間 (西暦178年~184年)の10年間)で、後期初頭から始まる高地性集落増加とはずれている。
 
また高地性集落そのものは3世紀後半にまで存続し、弥生時代を超えてはみだしてしまうものもある。よって、同志社大学の若林邦彦らのグループ(森浩一の観音寺山遺跡発掘結果を受けて研究を続けるいわば森浩一の教え子たち)
は、少なくとも倭国の大乱は二度以上の複数回生じており、それは東アジアにおける大陸の対立関係を日本列島に移した小競り合いであり、クニを二分した規模の「大乱」というよりも、もっと小さな地域での「どちらにつくか?」の相克が、各地でいっせいに起こった結果であろうとする。
 

光和年間には中国で「黄巾の乱」が起こっており、その後卑弥呼女王共立直前には三国鼎立で、魏呉戦争が起こった。卑弥呼死後にまた大乱があり臺與が擁立される。その後の詳細は記録がないので不明であるが、臺與のあともまた乱はあちこちで起きたと考えてもあながち間違いではあるまい。
 
つまり小集団のある地域内で、属すべき大国選別戦争が起こった、それが全国規模で起きた時代が弥生中期から後期であると見てよい。そうした弥生後半の各地の相克の中から纏向に前方後円墳が登場し、それが列島の東西に拡販していったわけであるから、ここからが古墳時代--つまり統一国家時代=古代(日本史年代観の)の始まりということができる。『日本書記』では崇神から応神への移行期間がここに当たるかと思われる。
 
 
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瀬戸内海に多出した時代は中期後半~後期初頭で紀元前100~紀元後100年あたりであるために、ここがほぼ後漢書の大乱にあたるともされ、研究者によっては瀬戸内海海人族つまり海賊たちの内乱による瀬戸内監視のための物見台やのろし台ではという意見がこれまで言われてきた。しかしそれだけなら、古墳時代のかかりに及ぶ、瀬戸内以外の遠隔地(新潟や石川にまで)それが移動していった理由がわからなくなるであろう。
 
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邪馬台国の時代に、筑紫に邪馬台国があり、南の狗奴国と対立していたのならば、高地性集落は現在の熊本県菊池市にある鞠智城(くくちじょう 7世紀)のような物見台や山城がもっとたくさん弥生時代に作られていなければおかしい。しかし九州中心部にそれはいっさいない。むしろそれは次第に東へ移動してゆき、古墳時代初頭には日本海能登以北に広がったのである。
 
 

最初、「太平洋ベルト地帯」と今言われる瀬戸内海と玄界灘沿線から大阪湾にかけて築かれていた高地性集落が、東へ移動していったのは、大陸の脅威が中国よりも、日本海沿岸国家に移動したか、半島からの侵入者が急増したためではないかと見える。

最初の方向性は完全に九州玄海灘から瀬戸内を抜けてやってくる脅威を意識した地域での地域内相克が原因かと見るが、それだけだったのだろうか?

筆者は「熊襲が攻めてきた」という瀬戸内の民間伝承が気になっている。
以前書いたことに、北部九州はひとつではなく、那珂川を挟んで東西で人種が違い、墳墓も違うということがある。そして奴国や伊都国は共立時代には共存共栄したが、実は常は対立している地域で、奴国は狗奴国なのではないか?ひいては九州の北部沿岸以外は狗奴国に乗っ取られていた?という見方である。玄界灘にも高地性集落は早期に登場しており、それは熊襲を意識したものだったのかも知れない。狗奴国がもしや5世紀の倭王であるとするならば、それも考えられぬことでもあるまい。
 

若林らの見方にも一理あって、大阪南部の観音寺山遺跡では、投石につかったらしき丸い石がごろごろ出ている。
 
また佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。佐原氏のほかの考え方は別として、高地性集落に関する詳細分析だけはかなり信憑性が高い。
 
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それで森浩一も発掘にたずさわった生前(1969年頃。それまで古墳時代専門家だった森が弥生時代発掘へ手を染め、広く通史で日本を仰視するきっかけとなった遺跡である)から、高地性集落を地域的内乱の一角と考え始めていた。
 
 
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そうすると、邪馬台国もまたそのような小国のひとつであり、「南にある狗奴国」が西日本全体の視野で見る必要がないのでは?という考え方も出てくるのかも知れない。各地の小国がそれぞれ、大陸のどちらにつくかで反対意見が存在し、ときあればよく対立した。そのつど高地性集落も転々と場所を変えた・・・と考えてみるのもよいだろう。
 
 
ふろく 弥生時代年代観の変遷
 
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画像資料は若林邦彦『「倭国乱」と高地性集落論』観音寺山遺跡  新泉社 2013より
 
 
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日本に青銅器時代がないわけ・金属製武器の使い方・緑色は祖霊の色

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弥生時代は世界史であてはめれば青銅器が入ってきた時代。しかし日本史に青銅器時代という呼称はない。
 
その理由はまず日本の先史時代編年を土器に定めたからなのだが、ほかにも理由はある。日本の弥生時代の銅器のすべては実用性がない祭祀専用の道具だったからだ。
 
あのばかでかい銅剣も銅矛も、まったく戦いに使用されてはおらず、実際に使用していたものは石でできた武器だったことがわかっている。戦場からわずかに出る銅器は鏃だけで、あとは全部石製品である。
 
 
もろく、重たい武器でなぜ戦ったか?
先史時代が縄文もそうだが「使い捨て時代」だったからだろう。
食器や土器も、多くは使い捨て、祭器さえも使い捨てでまとまって出る。
銅器や鉄器は溶かせば再生できる。しかし石器は壊れたら接着剤でもなければ元には戻らない。実用道具はだいたい石器、土器、木製品である。それだけ金属は貴重だったのだ。だから伝世が多くなり、墓に埋納するためにわざわざ大きくしたり、小さくしたりしてある。
 
かつては石器が祭器にされていた。その証拠は素材に緑泥片岩をわざわざ使うものが多いことでわかる。ほかの実用的道具と色で区別していたのである。
 
 
 
 
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青銅器が入ってくると、その緑泥片岩の色をしていた。だから祭器にはふさわしかった。つまり緑色が祖霊の色だと思っていたからである。それは縄文時代の東北人もそうだった。つまり弥生倭人の美観や観念も、実は縄文からの伝統的なものを踏襲したということになる。あるいはそれが東洋人の共通性か?そしてその渋い緑色こそが、のちの時代になっても「わび・さび」の色彩として存続したのである。現代日本人も感じるその渋い色へのあこがれは、葬式饅頭の緑色として如実に祖霊再生願望として残存していると言える。
 
 
緑色の石で作られた武器
 
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翡翠の勾玉などその代表である。
 
 
 
 
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これが祖霊の色と形であることは、ちゃんと胎児の形であり、新生児を日本で「みどりご」と呼ぶことから容易に思いつけることである。それは生命力の色と形。太古から続く照葉樹の照り返す葉とおなじ意味を持っている。つまり神社にささげる椿やユズリハである。
 
 
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ユズリハの名は、に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することから。その様子を、親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ、正月の飾りや庭木に使われる。
 
 
 
 
 
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熊山遺跡は本当に仏塔?

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熊山遺跡(くまやまいせき)は岡山県赤磐市の熊山山上にある仏教遺跡。国の史跡
最有力説では室町時代までに寺院があり、奈良時代当たりの仏塔であろうとされているが・・・。
 
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おなじ岡山県に大谷1号墳があるが?
 
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さて、こっちは古墳時代終末期の7世紀のもので、高句麗様式の五段式石積み墳であることがわかっている。岡山県真庭市上中津井。
 
 
高句麗式積み石塚は高句麗南下にともなって百済にも波及した。
 
それが日本海を経て直接吉備地方に到来。
 
大谷1号墳のある真庭市は、熊山遺跡のある吉備赤磐郡に至る日本海島根・鳥取から南下する美作(みまさか)街道の街道沿いに位置する。
 
 
はて、なにゆえに国指定にまで昇格しながら仏塔にされちゃったのかしらん?
 
「基壇の中央には竪穴石室[1]があり、その中に高さ162センチメートルの陶製の五段重ねの筒型容器[2]が納められていた。容器内には三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたと伝えられているが、1937年(昭和12年)に盗掘にあい、現在は行方不明である。なお、筒型容器は奈良県天理市天理大学に収蔵されている。
この基壇の目的については、戒壇説、墳墓説、経塚説などがあった。しかし近年の研究により、遺物や龕の存在などから仏塔であったことが判明している。 1956年(昭和31年)9月27日に、国の史跡に指定された。
また、熊山の標高350メートル以上には大小32基にも及ぶ類似の基壇の遺構が確認されている。」
 
 
ふ~~ん、そうかなあ。
 
 
 
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[転載]三種の神器2 八咫鏡

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八咫鏡(やたのかがみ)については、それが国内のどこから来たかの結論はすでに決着しているとしなければならない。

■伊勢神宮にあるとされている八咫鏡は伊勢の『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』(『御鎮座伝記』)では、「八咫鏡は八頭花崎八葉形也」と書かれている。これは神獣鏡とか画像鏡などではないことがうかがい知れる。

■寸法は卜部兼方の研究書『釈日本紀』で、ヤタは64寸と考えられており、これは円周の長さになる。直径に直せば二尺一寸三分(65センチほど)。これは非常に大きい。ところが『皇太神宮儀式帳』(804)や『延喜式』(10世紀)では一尺六寸三分(49センチほど)と記載があり、数値が合致しない。これは唐尺と後漢尺の相違である(あとで解説)。

■果たしてこのような大きな銅鏡が作れるのか?という疑問から、往古はもしや北朝に多かった鉄鏡だったのではないかという疑念が出て、今でも取りざたされる。

■『日本書紀』に鍛人(かぬち=渡来系鍛冶屋)イシゴリドメがアマテラスに命じられて天の金山の鉄で鏡を作った話が出てくる。

■ところが1965年、北部九州の伊都国中心部にある周溝墓(二世紀中ごろと推定されている)から直径46・5センチもある内行花紋鏡(ないこうかもんきょう)が四面(最近五面説あり。コメントを確認されたし)も出土した。あの原田大六の手による。いわゆるかの有名な平原(ひらばる)古墓出土超大型内行花紋鏡である。
(原田大六『平原弥生古墳--大日孁貴の墓』)
一般の前漢鏡はだいたい中型で16センチ、三角縁神獣鏡で20数センチであるから、その倍以上、重量では約8キロ近くもあり、10~16倍の特大鏡である。このような巨大な鏡はここでしか出てこない。しかもその直径が前述の『儀式帳』や『延喜式』の数値に非常に近似していた。

■つまり八咫鏡サイズである。ゆえに八咫鏡は北部九州の伊都国経由で大和に入ったと、これは誰もが認めるしかない。

■延喜式などの長さは唐尺計算であり、平原の46・5センチは後漢尺では二尺二分であるから卜部計算の二尺一寸三分にほぼ合致する。

■「八頭花崎八葉」という絵柄にもジャストフィットする。
内行花紋鏡は一般に八花で、四つの葉を持つが、平原のものは八花八葉である。葉は鈕(ちゅう)=紐を通すもち手の周囲にあるガクの部分で「八葉座」と呼ぶ。銅鼓の太陽のように放射状の花弁は太陽を表すとも考えられており、花弁に似ることから内行花紋と銘銘された。しかし、アマテラスが太陽神を祭る巫女神であることから、この絵柄は太陽鏡としたほうがいいのかも知れない。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1607456/14/51600414/img_2?20101124012400

■考古遺物と神話を結びつける手法は、度が過ぎてはいけないだろうが、どう見ても、ほかにない(もう少し小さいのはある)のであるから、この鏡が八咫鏡であると考えられるわけである。
それが北部九州の二世紀からしか出ていない。
そもそも近畿地方、大和地方では、まず
1 1~3世紀初頭にシセキ墓や甕棺墓などの古墓がなく、古墳にも鏡の副葬がない。
2 つまり三世紀後半に突如として前方後円墳が現れ、副葬品風習がなく、副葬はかなり遅くなり、三角縁神獣鏡が中心。
3 そもそも当初、大和には鏡を好む風習がなかった。
というのが、近畿の学者にも行き渡っているはずである。
しかも本家、中国から三角縁神獣鏡が出てこない。
にも関わらず神獣鏡を重視してしまったのは、ひとえに小林行雄学閥の影響が大きかったためである。
従って、今、近畿の学者でも(纏向を発掘し、そこが邪馬台国だと主張する考古学者でさえ)、三角縁神獣鏡による主張は消え去った。
これまで500面以上も出てしまった鏡から説を展開するのは、まだそんなことを?と言われるようになった。

■そもそも中国南朝も北朝も、また朝鮮半島も、これほど巨大な鏡は存在せず、しかも鏡の副葬も日本の三角縁神獣鏡のように、墓に山ほど入れる風習すらない。せいぜい2・3枚入れてあるのが普通なのだ。

■つまり伊勢神宮に八咫鏡=八頭花崎八葉鏡があるとすれば、それは北部九州で作られ、一枚だけが大和にもたらされ、伊勢に移された(森浩一)ことになるだろう。

■実は巨大な八咫鏡サイズの太陽を祭祀に使うのは中国少数民族トンの「道切り神事」にある(諏訪春雄)。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1607456/14/51600414/img_3?20101124012400

■そもそも伊勢には東大寺大仏鍍金に使われた水銀鉱脈があり、水銀は、銅鏡を磨き上げる溶剤になるのであるから、伊勢神宮に鏡を送るという崇神の記事はなかなかに意味がある。崇神・垂仁が皇室内の「同床共殿」されてきた八咫鏡という記事には信憑性は乏しかろう。伊勢にもともと祭られていた伊勢大神という水銀関与の地元神には、「祟る」=水銀禍の危険性があった。ゆえに皇室のある大和から「追い出して」、水銀の産地のほうがいいだろうと理屈をつけて移動させたのだと見て取れる。そもそも伊勢はそのような古い時代から皇室の尊崇があったわけではない。記紀の記事でも、伊勢に何度も出向くのは持統天皇だけである。
また伊勢を遠くから拝んだのはヤマトタケル、景行天皇の記事のあとは、壬申の乱の天武まで皆無である。伊勢を神宮として、皇室の神であるアマテラスに代表される巫女神を祭るのは持統の事跡である。

伊勢神宮は貴種たちの太陽信仰の背景に長江周辺の南方系民族の風習があったことのひとつの証明でしかなく、長江から来た弥生人が奴国、伊都国から大和へ移動したあかしでもある。それはほとんどが縄文系の民衆にはあまり縁のない話であった。天津神とか国津神とか言うけれど、結局は弥生系倭人の祭る神は、縄文系先住民・・・言い換えればほとんどの現代の日本人には無縁で、そもそもが倭人の信仰も、縄文系土俗信仰をベースにして創作された、倭族たちのためのアマテラスなのだろう。

というわけで日本には今、伊都国が持っていた四枚の八咫鏡が存在する。
なお平原遺跡は今後三世紀中盤以降まであったとなる可能性がある。伊都国が仲哀天皇に帰順したと『日本書紀』が書くその時期は、西暦4世紀に換算できるのである。



PS この記事へのコメントから抜粋して追補
「ところで平原遺跡出土の超大型内行花文鏡は昔は4面と言われていましたが、断面が合わないので現在では5枚だったことが判明しています。国宝指定記念企画展で知りました。46.5僂離汽ぅ困楼掬歸です。大きさでこれに匹敵する唯一のものに山口の柳井茶臼山古墳出土の鼉龍文鏡(だりゅうもんきょう)44.5僂知られていますが、文様の特徴は文献の記述に合いませんね。対して大和で一番大きな内行花文鏡は柳本大塚古墳の39.7僉⊆,鵬蔀啝蓋妬の37.6僂畔晋興佚擇砲呂箸討盖擇咾泙擦鵑掘∧幻イ茲蠑さくなります」


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]八咫鏡追補・菅谷文則 「伊都国歴史博物館企画展要覧」全文1

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※この記事は数日後にファンのみ公開にします。

滋賀大学・菅谷文則が「伊都国歴史博物館企画展要覧」に掲載した平原古墓内行花紋鏡と八咫鏡に関する分析の全文を掲載する。貴重品にして、希少な資料であると考える。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1605343/51/51614851/img_0?20120715230734
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1605343/51/51614851/img_1?20120715230734
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■1320年 度会家行 著の『類聚神祗本源』が、すでに現存していない「端器記」より引用された記述として、八咫鏡のデザインに触れた
「一面八咫鏡。八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也。」という記述があることを菅谷教授は指摘している。

■「一面八咫鏡。八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也。」という記述に触れた著書やサイトは、筆者の知るところではこれを除いてほかにないようである。(2010年1月現在)

■また、平原の巨大内行花紋鏡のような類例は前漢の前半まではあったが、その後途絶え、日本の飛鳥時代にあたる時代には鋳直すやりかたで一時的に復活し、斉の頃に南越王墓から70センチにもなるものが出土しているきりであるという記述も重要であろう。(その2記事に本文添付予定)
南越とは古ベトナムである。その頃は、南越国は今の中国南部に割り込んでいたが、やがて北の中国に押されて南下してゆく。巨大な鏡のルーツとして、こうした中国南部での派生が前漢のころまでは南朝の勢力範囲では存在したのだろう。それが紀元前1世紀前後に日本の伊都国に鋳造技術がもたらされた。ということは、伊都国を中心とする「長江からやってきた」「巨大な祭祀器物」を好む倭人種の集合体が北部九州にいたことになる。その鋳造技術はそこから山口や奈良へと伝わっていったが、平原ほどの大きな鏡にはついに至らなかった
ことになる。

■「方円」については、鈕を中心とした八葉座の中にさらに正方形と○が描かれていることになるので、それは方格規矩鏡などが持つ方円を想像させる。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1605343/51/51614851/img_4?20120715230734
鎏金方格規矩四神鏡画像の出展先→http://www.sankokan.jp/selection/a/china/achn007.html

■「五位」については想像するしかないが、筆者は
1 五つの鈕(一般的には大きな鏡には八つの補助鈕がつくことがある)あるいは乳がある、
2 五位が古くはゴイサギを指すことがあるので白サギの絵柄があった
3 「八葉」は花紋の誤記で、内行花紋の中に葉が五葉座であり、そこに乳が五つある

 などを連想する。外周は内行花紋鏡で内周は方格規矩四神鏡を組み合わせているような按配である。

■平原の倭人たちはおそらく長江から出て、渡海したか、半島を経由したか定かではないが、巨大鏡を好む南越や南朝の影響を受けた人々だったか、あるいは九州に来てからあちらへ行って見てきたか?しかし国内で鋳造したのならばそれは「工人が来ていた」ことになる。見て真似できるような代物ではない。その鋳造技術は高度で、容易にはまねできないだろう。ひるがえって大和に出たやや小さめの巨大鏡の鋳造は、では誰が可能だったかと考えねばなるまい。


その2では平原鏡の鋳造法に言及したい。
つづく

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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

原田大六と平原王墓の女王二人

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全文引用(つまりいい記事)
 
「福岡県前原市有田に平原(ヒラバル)遺跡がある。昭和四十年に発見され、この時の調査主任が考古学者の故原田大六氏で、三種の神器の※八咫鏡(ヤアタノカガミ)と平原遺跡出土の鏡の大きさがよく似ていることから平原遺跡の被葬者が天照大神であると推量した著作『実在した神話』を出版され、「天皇家の故郷は糸島であると確信した」という。この原田夫六氏の言う「天皇家の故郷」の意味と、その範囲を糸島の何処まで絞りこんでおられたかは今となっては不明だが、先学として頭が下がる。

 私は何度となく前原市の伊都国歴史資料館を訪れ入口近くの氏の銅像と対面しているが、正直に言うと私は氏が大嫌いで代表的な著書はすべて読んでみたが二度と読み返す気力さえ失せてしまう程である。何故か。中学卒業後しばらくして戦地に赴き中国大陸で憲兵だったせいか、氏の態度・論調は傲慢そのものであり自宅には「面会謝絶」の札を下げ、訪ねて来た古田武彦氏を門前払いした有名な話もある。
 不思議なことに梅原末治氏、末永雅雄氏、原田大六氏、日本考古学の先駆者や先学は大学に行っていない。考古学とは無縁の「土器探し」に夢中になり、それが高じて大学の研究室に「発掘専門」として雇われたものである。断わっておくが「大学に行っていないこと」を問題にしているのではない。彼等も出発はいわば門前の小僧のごとく「ずぶの素人」から始まっているのにも拘わらず自分たちを生まれながらのすばらしい考古学者だと思い込んだことにあり、二○○○年に発覚した
 
「ゴッドハンド事件」が示すように考古学は人間を夢中にするものである。
 原田氏の著書『卑弥呼の墓』(昭和五十二年 六興出版)の文章から。
 
 「いずれもアマチュアだから考古学的論証を経ていない。論証しているつもりの屁理屈は、いくら御託を並べても、それが科学的でない以上、考古学界では通らない。…あるいは大学の考古学研究室の学生になって研究されよ」
 
 「みよ、その虚構書の張本人たる小説家を。武智鉄二・松本清張・宮崎康平・富岡多恵子・豊田有恒・望月義・高木彬光と並べれば限りなく、小説家が邪馬台国ブームにもぐりこんできて割拠し今ではリーダー格におさまってうそぶいている。…」
 
 「学問は正しいのが当然であって、偽りや間違いは許されないのである」
 「戦後、これこそ日本古代史の真実であるが如く、左翼的思想家によって喧伝された…」
 
 「彼等小説家は嘘でよいのであり、だましで結構なのであり、ぎまんで万歳なのである。…」
 
 
 実をいうと私は末永雅雄氏の教え子の故網干善教氏の講義を関西大学で受けて考古学や日本古代史に興味を持ったのだが、故網干善教氏は古墳の扱いで文部省を厳しく批判された(文部省は高松塚古墳の保全を数億かけて行ったが、すばらしい壁画にカビをはやす結果となり、今では真っ黒に変色している。網干氏は古墳の本当の保全は元のままに埋め戻すべきだと主張されていた。結局、文部省の考古学に対する姿勢に反発され中央アジアの発掘に向かわれている)ように現場一筋の考古学者で、いつも真っ黒に日焼けした、人懐っこい人物であった。それに引き換え、もう少し書き様が有りそうなものだが、学問は正しいのが当然」とは何と言う傲慢さだろうか。「学問は正しいかどうか常に探求するためのものである」
 

 基礎的な学が備わっていないせいか罵倒に近い批判であり、「左翼的思想家」とは、いかにも元憲兵の口から出そうな言葉である。

 批判された人達にすれば「お国の為の学説に固執する胡散臭い学者」に飽き飽きしているからこそ自由な立場で自説を展開しているのであって、「金儲け」のためだけではない。たぶん氏の経済的不遇が背景にあるのだろうが、気に入らなければ黙って置けばよい。
いずれにしても氏の論調は現在の考古学界の驕りと逃げ口上そのもので「考古学的論証を経ていない」という決まり文句こそ氏の「受け売り」である。「ケンカ大六」と呼ばれた氏の肩書きは「日本考古学協会会員」だが『日本国家の起源』という著書もある。それより考古学からは史実は語れないし、出土物に「製造年」でもあれば別だが、年代は(絶対に)特定できない。
では原田氏が卑弥呼の墓についてどのような条件(卑弥呼の墓の三原則)を挙げているか。
①前方後円墳であること。
②画期的巨大墓であること。
③殉死者樹立の事実があること。
そもそも氏は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、墓は箸墓であり、学者である自分が言うから間違いはないとしている。特に①・②は最初から自説の「箸墓」を前提としているのは明らかで、言い訳として「記紀の記述こそ考古学の基本となるべきもので、素人が必ず持ち出す『魏志東夷伝』の文章は、あいまい、不確実・漢字の羅列で根拠にならない」と書いている。

 『魏志東夷伝』
 卑彌呼以死 大作冢 徑百歩 徇葬者奴婢百人
 
 要するに明治政府が巨大な前方後円墳を優先的に天皇ないし皇族の墳墓に比定したように、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だとして①と②を持ち出し、素人好みだという『魏志』の「直径百余歩の塚(円墳)」を完全に無視しているように見えるが、③だけは「奴婢百余人を殉葬した」という『魏志』の記述を臆面もなく採用するという明らかな矛盾を抱えている。仮に箸墓が卑弥呼の墓だとしても箸墓は前方後円墳であり、耕作や天変地異で削られ形が変わる事はあっても、卑弥呼の冢だと気が付いて円墳をわざわざ前方後円墳に造り直すという労力を誰が何時したというのだろうか。

 復員後に原田氏は経済的に生活が苦しいなか、九大の故中山平次郎博士(医師で考古学者)のところに転がり込んで考古学を学んでいる。恐らく元島原鉄道社長で経済的には恵まれていた故宮崎康平氏が著書『まぼろしの邪馬台国』で九大考古学の不甲斐なさを指摘したことが関係しているのかも知れない。邪馬台国ブームが巻き起こった当時、学界は『まぼろしの邪馬台国』は単なる文学小説だとして黙殺し相手にしなかった。
http://blog.goo.ne.jp/kawakami23takeru/e/d2d3615043af6a7c43bff8dd997a0365
 
 


 
さて、「東遷説」の復活である。
いかんせん。
森浩一先達が生前唱えた説だったが、ヤマト説考古学はこれを一切「なし」としたはずである。
 
 
そもそも考古学に「ヤマト説」などあってはならないものである。いやさ、学問であれば、どんな手法であっても、
たとえ文献史学であっても、
最初からヤマトだ筑紫だ、などという前提・想定ではじめられる考証など、そもそも科学ではない。フェアプレイの推理で行くのなら、あらゆる証拠品が提示された上での地域特定である。ところが考古学は、おのれを科学、科学と言いながら、特にヤマトも筑紫も学派は、恣意的に論じてきた。
 
 
 
これを越境しない古代学と読んだところでなんの在野からの文句もなかろう。
 
 
 
しかし「東遷説」だけは越境する説である。
 
 
邪馬台国は切迫する大陸事情によって瀬戸内を東へ向かい、吉備から河内、そしてヤマトへ移住した・・・。その証拠がヤマトで始まった前方後円墳の中に、筑紫だけの埋品だったはずの鏡が出始めたではないかと。
 
 
その鏡の中でも、伊都国の内向花文鏡つまり連弧文鏡の大きさは、他の追随を許さず、しかも伊勢神宮の八咫鏡そのもののデザインと大きさではないか・・・。
 
 
 
 
はて、このロジックに、どこかにおかしいところはないのか。をまず検証せねばフェアプレイとは、九州人のKawakatuとしては、安易にいえまい。
 
 
 
 
8世紀に成立する伊勢信仰のご神体である八咫鏡が、なぜ平原の鏡と一致したか?
ヤマト説学派と九州説学派は本当に越境する共栄する古代史学を作り出せるのか?
地域的固定観念や派閥を超えた、今後の協力体制に期待感が高まる。
 
 
 
 
思えば森本六璽、モース、それ以前の考古学から影響を受けた日本考古学の歴史の中で、果たして越境するを本旨とできた学者が一人でもいただろうか?
 
 
 
森浩一以来、同志社大学はその後続を生み出してきた。
 
 
 
平原の方形周溝墓には卑弥呼以前の巫女女王が眠っている。
その横にあとから卑弥呼が埋葬された・・・?
 
 
 
 
ふるさと伊都国に。
 
 
 
ヤマトから。
 
 
 
故郷での埋葬。
 
 
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麻の種子の纏向での大量出土・・・
しかしそれが巫女の巫術に本当に使われたのかどうかは不明である。麻は衣服の素材となる。麻薬効果に使われたなら、種子粉末がなければなるまい。
 
 
 
 
 
考古学だけでは真実は確定できない。
 
 
九州の土器はどうなった。
 
 
筆者にはまだまだ検証が必要である。
 
 
 
 
 
 
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はじめて学ぶ民族考古学

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考古学では、一般的にではあるが、巨大古墳の被葬者とは、その時代に財力も知名度も持ちえた大王・豪族の墓であると自動的に考えてしまう傾向にある。
 
あるいは被葬者の腕に、山ほどの腕輪がはめられていた場合、これでは農業には従事できない、つまりその地域で特別な存在・・・腕輪を必要とする巫者ではないかと、これも自動的に考えてしまうようになっている。
 
 
しかし、民族学の見方では、例えば英国のジプシーたちは全員が、その墓地で最大の巨石を使った墓に入れられるし、ガーナのある地域では、村人全員が、裕福なもの、村長とおなじ格好をさせられて埋葬される。
 
アメリカのネブラスカ州の先住民の墓性をきめ細やかに調査した考古学者・オシェイは、先住民たちのどのような地位の人がどのような墓に埋葬されたかを解明したあげくに、結論としてこう言っている。
 
「首長・庶民の社会階層の相違は埋葬の差異として、確かに現れやすいが、同一階層内での社会的地位の違いは、埋葬の差異として考古学的に認識困難である」
 
 
 
 
 
福岡県の金隈遺跡で夭折幼児がゴホウラガイの腕輪を山ほどつけて甕棺から出たとき、当時の考古学は、先に書いたように、これは庶民ではなく、力仕事などしない為政者、巫王の子供であろうと決めてかかろうとした。しかし民俗学的に考えると、この子は、死してはじめて、腕輪で身を飾られただけだったのかも知れないのである。縄文時代から、夭折幼児は特別な埋葬をされてきた。特別さには物資と観念の二種類があるのだ。
 
 
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墓の巨大さは、副葬品に比例しない例が多々ある。
 
副葬品の華麗さや、装飾の壮大さが、必ずしも、その人そのものの当時の身分をあらわさない例もある。崇峻大王も、穴穂部皇子も、例えば藤ノ木古墳のように、兄弟二人いれこになった状態で石棺から出てきたりする。これは記録上から、政敵とされたからだとなるわけである。だがそれとて、確かにそうだったなどと考古学に決定する権利はないのである。
 
 
 
 
佐賀県三津永田遺跡や山口県土居ヶ浜遺跡からは、あきらかに前後の時代人とは、体格の違う遺骨が200体以上も見つかった。
 
縄文時代の人よりも背が高く、しかも古墳時代の人よりも背が高かった。前後世代と彼らが明確に違うことがわかって、はじめて、彼らは大陸からの渡来人だと判別できることになった。
 
 
また伊都国があっただろう福岡県志摩町の新町遺跡の支石墓から出た遺骨は、縄文人の体格をしていた。支石墓=渡来人ではないのである。それは縄文と弥生の、こんp地域での融合と血縁すら想定させる。
 
 
また、マヤの遺跡から出る遺骨のうち、ピラミッド(太陽の神殿)などから出た人骨と、そうでない場所の人骨とでは、身長の差が7センチもあった。それで貴族層は栄養価の高い食事をし続けたからこの落差が生じたとされた。これもしかし推測でしかない。
 
 
 
考古学は推測しかない科学であり、こうした推定論理に基本的に実験は不可能な学問である。現在進行形の事実でもなく、まして人類の異伝など何世代もかかってしまう。そもそも歴史学のすべては推測である。しかしより完全な推測、ほぼ確定と誰もが認めざるを得ない結論のために、データを収集しつづけねばならない。
 
 
 
遺伝子学では、ちょっと前まで、日本人はバイカル湖に至ったステップロード経由の新モンゴロイド形質をほとんど受けた人であり、南方系形質はわずかしか残らなかったと結論されたかのような騒ぎであった。しかし、そのとき筆者はまだサンプルが足りないとここに書き、現在は、古モンゴロイドの系譜にまで視線が及び、九州縄文人はこれであり、それが渡来との融合で、淘汰された遺伝子となった、ことがほぼわかってきた。サンプルが増えたからである。
 
そしてこれこそが不思議なことだが、人口も遺伝子も大多数を占めたはずの渡来系日本人たちは、その文化も言葉も住まいも衣食住も、なぜか縄文からのそのままのものを愛用、受け継いできたのである。
 
 
今、言われていることは、必ず修正されてゆく。「こうだったのだ」など、歴史学にも考古学にもない。
 
 
考古学や遺伝子学、つまり科学には、多大なサンプルが多大な影響を持つのである。論考はつねに過渡期であるということなのだ。
 
だから民族学を馬鹿にしているあいだは、本当の歴史は見えるはずがない。
もちろんほかの山ほどある戦術もちゃんと勉強しなくてはならない。あなたが全部学ばなくとも、あなたの次の世代はそれをついで、つないでゆく。ぼくたちは、まだ何も知らないただのひとつの点なのだ。
 
 
 
参考 『はじめて学ぶ考古学』
 
 
 
 
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考古学と人類学と民族学が、ときに小説を書くケース/チャイルドから田中良之まで

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◆形質人類学・骨相学と考古学の出会い
人びとの集まり(Peaple)をゴードン・チャイルド(1892~1957)は考古学的にパターン化できると信じた。

考古学的に同種の文化の分布は、すなわちそこが、その文化の担い手たちが作り上げた居住地だということであり、その人びとは「人種」でもなく、政治的に結びついた「国民」でもまだない、その両極の中間にあるあいまいなPeapleであるというほかはないとチャイルドは論じた。例えば古代ギリシアはアテナイ(アテネ)やスパルタというような都市国家の集合体であるから、古代ギリシア文化の担い手はギリシア人というPeapleであるということができる。

その前提として、そこの文化とは「共存諸形式の常時的組み合わせ」と定義づけた。

これを日本の考古学に当てはめるならば、銅鐸は弥生時代の土器としか共に出土せず、古墳からは出土しない。「三角縁」神獣鏡は古墳からしか発見されず、弥生墳丘墓からは出てこない(弥生墓で出るのは「斜縁」「平縁」などの正式漢鏡である)。

つまり特定の遺物は、常時、どの遺物・遺跡の人びとが使ったかというパターンがあるということに気づく。これをチャイルドは「文化」と規定した。

さらにこのパターンとは、編年よりも分布によって分類できるともした。同じ弥生式土器は北海道や沖縄には存在しない。ゆえに弥生式土器の時代が弥生時代であり、縄文時代と古墳時代を編年的に分けているが、同時に、日本列島の本土に限った分布単位でもあるということである。文化はある時代のブームということもさることながら、どの地域に共通するものかのほうが、Peapuleの本体を推測するに至便であると。

しかし、この論にも「絶対」とはいえない盲点は存在する。英国人考古学者・イアン=ホダ-は、東アフリカのケニアのバリンゴ地方に住む3つの部族を研究し、どのような武器、道具を使っているかを、民族学的に調査した。その結果、3つの部族の違いは、武器や道具では区別できないという結論に達した。

どんなことにも例外はある。バリンゴの3つの部族間では、道具や武器を共有、あるいは戦いのあとで拾った相手の武器なども、そのまま共有、使用するのであろう。考えてみれば、そんなことは日本の戦国時代でもあることだろう。道具や武器が貴重品であり、数が少ないのならば、当然、敵のものであろうと利用するほうが経済的にも効率がいい。まして、戦って感じ取った、相手の強さに比例して、こちらでは道具や武器に憧れを持っておかしくない。それがきっかけでいくさもへるほどに2つの部族が仲良く共生を始める場合もある。

前の記事も合わせて、これが民族学による「考古学の補完」である。

考古学は人類学でも補完されねばならない。
それが人骨の分析である。

日本では、近年、特に顎骨の分析から、無文字時代での血縁関係を探ることが可能となっている。土肥直美・田中良之・船越公威は1986年に、人間の第一小臼歯と第二小臼歯の距離(歯冠計測値※)が血縁関係にある人同士では、近い数値になることに着目。ひとつの集団墓に埋葬された人びとや、同一古墳に埋葬された複数の人びとの血縁関係を明らかにすることに成功した。
 
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それまで、考古学では、埋葬の向き(頭位)や棺の様式、あるいは古墳の様式、などなどから必死にまさぐろうとしてきたが、人類学的なこの手法や、のちに遺伝子学のような犯罪捜査にも使われる鑑識手法が、客観的で反論しがたい結論を導くようになった。

福岡県の甕棺墓は、ほぼ直線状に二列に並んで配置される※。かつて春成秀爾(はるなり・ひでじ 考古学)はこの二列は出自の違いで分けられたと考えた。ひとつの列がひとつの出自氏族であり、もうひとつの列は別氏族としたのである。この列の顎骨を調べると、もし春成の説が正しければ、近似値が一列で出なければならない。しかしそうではなかった。近似値をもつ骨は、二列どちらにも混じっていたのである。ただし、ではこの二列にはどんな差異があったかはまだ、明確化されてはいない。同族間に、二種のなんらかの差異があった。区別されたとしてもいいかどうかすら、実は不明である。単純に家族を考えれば「父方・母方」か?とかさまざま考えられるだろう。あるいはもっとここが存続していたら、二列は三列に増えたかもしれず、そうならば、一列の長さに決まりがあったとか、単なる繁栄して人数が増えていっただけだからかも知れないのである。
 
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※甕棺列埋葬[静止画/400×600ピクセル/156KB]
甕棺墓は数十基から数百基の単位で見つかることが多い。甕棺墓群は列状のものと固まりのものがある。列状の甕棺墓は600m程度の長さに作られる場合があり、この列埋葬の間は通路(写真中央)として使われていたようである。(写真提供:佐賀県教育委員会)
関連資料: 英語説明文と日本語訳
 
 
 

このように、考古学でも、ほかの科学の補完があっても、古代はいまだに多大な謎の山に埋もれている。偶然の発見があとに続き、そこに答えがあるかも知れないのである。

田中良之は1995年に、古墳の調査から、複数人骨が出土する古墳人骨の血縁関係を調査して、ある定型パターンがあると論じた※。

基本モデルⅠ   弥生時代~5世紀末では、男女の兄弟・姉妹・男女兄弟はひとつの墓に葬る。(兄弟葬)
基本モデルⅡ   5世紀後半~6世紀後半には、成人男性とその子供がひとつの墓に(親子合葬)
基本モデルⅢ   6世紀中葉~後半以降は、これらのパターンに成人女性が加えられる(家族葬)
 
※この田中の調査は岡山県以西に限っていたが、のちに清家章は同様の結果を、近畿地方の古墳からも得ている。
 

例外がまったくなしとは言えまいが、つまりこれはその時代を実に雄弁に語る資料となる。

まず、弥生時代~5世紀末の墓制度は基本的に兄弟葬で、同じだったことがわかる。これは西日本の弥生時代人と古墳時代人の間に、重大な葬儀観念、祭祀観念に差がない、もっと言えばほぼ同じ文化の持ち主だったとさえ言えることを示している。
 
ところが、その後、この「追葬」風習は、次第に子供へ移り、そして妻も、となった。
 
民「俗」学的に、それは「祖霊」観念の変化を示すある変化を、補完する資料となる可能性がある。最初は中国南部の神仙思想にもある死者の霊魂の再生信仰から、次第に子どもの霊魂が天に昇り、祖霊と合体して戻ってくる、といった、いわゆる再生観念の変化でとらえる方法。

いまひとつは、古代王制の変化にも関与するだろう、最初は兄弟順に長となるのが、やがて王の子供、嫡子継嗣への世襲へと変わっていくことにもなにか関わる可能性もある結果である。

男女合葬は、しかし妻と言うよりも、彦ヒメ制の関係であることも考えられ、兄と妹、あるいは姉と弟王・・・とも考えられる。
 
これも民族学では、洪水神話※にみられる兄妹近親婚始祖伝承も考え付く。
 
 
 
 
考古学だけでは無味乾燥な事実の積み重ねも、ずいぶん主観性や物語性の肉付けがされていくのである。

あたかも、話に尾ひれがついていく間に、「かっぱのミイラ」に爪や牙が生えてしまうような、そういう小説化が実は昔の科学には多い、筆者はそう言いたかったのである。それが例えば、黒田官兵衛が荒木村重の牢に入れられている間に、竹中半兵衛が黒田の子供をかくまったとか、まるで『三国志』の諸葛孔明(こうめい)と司馬仲達(ちゅうたつ)のお話のような挿入や、あるいは半兵衛が軍師として「軍配」を持っていたというような創作が入ってゆく・・・つまり軍記・物語特有の「芝居がかる」表現で涙を誘う部分に、非常によく似ているとも言えよう。
 
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孔明の「羽扇」は軍配の原型
 

科学でもよくこういう「ないもの」が「あります!」になってしまうことは起こりえる。
 
 
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人が何を言おうと、どう利用されようと、あるなら何十年かかっても証明して見せるのが科学者の使命だろう。そういうリベンジに人々は多大な夢を持って待っている。
 
 
 
なぜなら、発掘するものにも主観があり、そうでなかったにしても、見る側、聞く側、報道する側には、そうした主観的・恣意的決定論調が大好きな、「脳内物語創作欲」ばかり発達したものが、実は多々存在するからではないかと、筆者は見ている。個人的「たま出版」的人物は、けっこうしろうとに指示されたりするので困り者であるし、小林大明神先学のように、「俺がルールブックだ」的学者だってかつてはちゃんと存在した。こういうのはみな「捏造」の仲間であり、やはり考古学が邪馬台国をかってに日本地図を逆さまにしてしまうようなこおとを言い出しては絶対ならないのである。なぜって、考古学は科学なんでしょう?
 
 
 
 
 
 
 
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縄文から弥生へ/人口と土器から見た「東から西へ」

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縄文時代の人口は明確に「東高西低」である。
ところが縄文時代中期から後期にかけて、気温の寒冷化とともに、関東・東海・中部地方で特に顕著に、人口が激減し、逆に西日本では微増する。そして弥生時代に入ると、人口分布は完全に逆転して「西高東低」となると推定されている。これは遺跡や土器の増減からの類推で、ほぼ定説化している。
 
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弥生時代はじめの人口増加率では、特に爆発的だったのは東海・中部地方と近畿地方である。これはなぜなのかについては諸説あるが、筆者は縄文中~後期までに、縄文人の南下があり、その大局的な南限として近畿地方があったことを感じている。縄文生活に見合う植物の生息域の南限も、やはり近畿を中心としていたからだろう。クリなどの大型ナッツ類を含む落葉広葉樹林の、寒冷化による西日本への南下が起きている。
 
 
だが、松木武彦はそれだけではなく、西日本内部でも確かに人が増える環境だったこともあるが、北日本の縄文人が弥生時代になっても増えず、関東から東海をメインにして増えていること、近畿以西も増えることなどから、東から西への縄文人の移住も当然あったからだと見ている。
 
 
考古学的には、西日本で点々と増え始める配石墓(はいせきぼ)や柄鏡型住居はもともと東日本の縄文文化が持っていたオリジナルな遺物であることも、これを支持する。土偶も甲信越縄文的な凝ったものになり、石棒すら西日本に登場する。
 
従って、近畿地方や東海地方では、西から弥生時代のちょっと前から入ってきた渡来弥生人との接近遭遇が起こったと推定される。
 
日本の中心部へ、ふたつの人類が互いに移住してきて、最も多く出会った場所が東海・中部・近畿だということである。
 
 
土器にもそれは現れているようだ。
 
 
弥生式土器の最も特徴あるフォルムは、土器の開いた口の上からすぐにすぼまって、胴体ではまたふっくらと広がる、断面がS字型の形状である。
 
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底辺はほぼ一致する円周で、形状はさまざまあれど、ほぼS字形状は全国的に一致するのが弥生式土器である。
 
 
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これは九州でも、玄界灘も、有明海も、内陸部もそうで、形状がかなり違うように見えて、実はこの形式的類似は変わっていない。
 
 
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大分県緒方町大石遺跡出土「黒色磨研土器」もS字状のフォルムの法則が守られている。これは、朝鮮半島の人々がやってきたことを推測させる。
 
 
 
一方、甲信越、東北の縄文土器は、下から上へ行くほど広がるのが特徴で、こうした女性の体型のように一旦くびれてまた広がるたおやかなラインを持っていなかった。
 
 
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ところが東北の縄文土器が、弥生式土器に次第に似てくる時代がある。
 
 
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後期からこの傾向は始まるが、亀ヶ岡遺跡ですら、土器に弥生の壷型の影響が出始めた。これがいわゆる東から西への文化移動が、西から東へと変わってゆくきっかけになる。
 
 
 
近畿・東海・中部で、九州・吉備・四国からやってくるシンプルな土器が出会った。それが縄文後期から弥生初期へ至る移行期に起こったのである。
 
 
つまり文献が言うところの大和における縄文的土着先住民たちと神武の出会いや反駁と共存のような事件が起きたとすれば、ちょうどこの時間帯だったのだろう。それは紀元前1000~300年前後ということになろうか?
 
 
陸稲稲作の痕跡としてのプラントオパールは4500年前の岡山県で土器が出土しているのが最古である。縄文の稲作と畑作はこの直後頃にはもう始まっているのだろう。つまり岡山にはすでに縄文人が来ているということになりそうだ。
 
 
近畿に弥生人が増えて、人口が東海を抜くのはもうすぐである。
二つの文化が出会い、融合すれば、その地域では人口が爆発し、文化的にも他地域より発達可能である。こういうところにも、日本人の生活習慣に深く縄文的なものが入り、残存したこと、あるいは言語の他東アジア世界にはない膠着語が強く残存した原因として捉えられるし、ひいては日本人というものの、東アジアでの特殊性を雄弁に物語っていると感じるのである。
 
 
 
最大の特徴は、新モンゴロイドと古モンゴロイドの、非常に深い混ざり合いが日本列島で起き、それが他地域の追随を許さぬほど、仲良く、深く、長く続いたことだったと言えるだろう。
 
 
参考文献 松木武彦『日本の歴史 (一) 列島創世記』小学館
 
 
 
 
 
 
 
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考古学を中心にした松木武彦の古代史年表

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先史時代を一貫して考古学をメインにした年表で、日本の太古~古代を俯瞰しておこう。松木武彦作考古学年表に、加筆編集して掲載する。
 
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その時代の重大なキーワードにはピンク線を引いた。
その時代時代を象徴する言葉をそれぞれ独自に書き加えた。
平原遺跡など、ヤマト系学派があまり扱いたくない遺跡もあえて書き加えた。
ヤマト、纏向がヤマトのオリジナル、あるいは吉備の影響だけで成立したのではなく、北部九州で始まる鏡埋納様式を、ヤマトの人々が見てきて、取り入れていることの証拠品であり、さらに卑弥呼がなぜ北部九州2世紀前後の象徴的遺物であるはずの銅鏡を欲したかに深く関わる遺跡だからである。以上Kawakatu編集
 
 
1 太古~縄文
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2縄文~弥生
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3弥生~古墳
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4古墳全盛期~終末期(飛鳥時代)
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5付録 花粉から見た日本古代の環境変動グラフ
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参考資料 松木武彦『列島創世記』
 
 
 
■どうながめるか
まずよく耳にしている考古学の有名遺跡が、いったいどの時代のもので、どういう順番で登場してくるかを見ていただきたい。
 
そしてそこに、点としての遺跡と時代をつなぐ線としての政治事情や気候変動の影響をも見出していただきたい。
 
 
なぜその時代に人々は南下したのか?
なぜ東へ向かったのか?
なぜある時期から流れが変わるのか?
そのとき、世界では何が起きていたのか?
つまり連動する東アジア史の一部としての日本古代史である。
 
 
人類は地球の環境変化で動いてきた。
それは「いくさ」「侵入」「暴行」「放火」「殺人」の時代であり、それらを歴史では実は「文明の萌芽の時代」と呼ぶのである。
文明とはつまり平和によって始まるものではなく、血によって始まり、その結果として平和がやってくる、それがようやく文化となり結実するのである。要するにそれが人類史なのである。
 
 
 
 
 
 
今宵のあなたの酒の友として存分に楽しめると思いますよ
 
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見直される銅剣・銅鐸二大文化圏説

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古い認識での青銅器二大文化圏のとらまえ方
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これがわれわれが学校で教わって来た古い認識の銅剣・銅戈と銅鐸文化圏の図式
製作が井上光貞作というから、もう今から50年も前のものである。
 
 
 
最新の図式
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2009年以降、それまでの発掘結果から見直された図式である。
 
これで見ると、弥生時代2世紀の日本列島には、必ずしも「二大文化圏」で完全に塗り分けられる文化圏があったのではなく、ほかにも日本海、瀬戸内、東海にも別の文化圏が並立していたことが見えるのである。
 
さらに青銅器工房というものが、実はその中心地が北部九州から有明海に多数あって、青銅器に関する限りこちらで作られた製品を近畿が買い付けていた、あるいは分配されていたことが見えてくる。
 
しかも近畿の祭器であるはずの銅鐸そのものの鋳型が、佐賀県鳥栖市や吉野ヶ里、あるいは福岡県北部の工房で出るわけである。(つい先日も鳥栖市藤木遺跡で青銅製飾りボタンの鋳型が出ているhttp://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20140607-OYS1T50028.html)
 
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鳥栖市の鋳型出土品各種https://www.city.tosu.lg.jp/1409.htm
 
 
 
 
これはどういうことだろうか?
2世紀までの青銅器祭祀は、北部九州では剣や戈や矛で行われたが、鋳型の最新技術はここで始まり、他の地域は福岡や佐賀の工房へ銅鐸製作を依頼し、作ってもらった製品で祭祀をした、という事実以外の何ものでもない。
 
 
これが客観的事実なのだ。
 
 
 
 
すると、3世紀になって銅鐸祭祀が終了する近畿地方では何が起きたのか?が問題になる。
 
 
銅鐸祭祀をしていた近畿のプレ王権が、一気に九州平原のような1~2世紀の銅鏡祭祀に突然変化した、ということになる。
 
ということは「南にある」と魏志が認識しようとした近畿では、銅鏡祭祀集団による銅鐸祭祀集団の「乗っ取り」があったという推測が成り立つことになる。
 
そして登場するのが3世紀後半の卑弥呼女王の鏡祭祀なのである。
 
 
 
 
となると近畿は、つまり纏向遺跡は勝者となった狗奴国なのか、ということにもなりかねまい?そうなれば古墳は狗奴国=近畿の風習となって、実にスムーズに納得できてしまうし、その後の4世紀政権も狗奴国となり、5世紀の倭五王政権がそれを乗っ取り、それがまた飛鳥政権に乗っ取られるという、彦姫交代性とも見合ってくることになる。つまりつきつめて言えば、日本の王権の交代劇がここから始まっているとも言えようか。
 
 
 出雲が良港として、両文化圏の共有地となった証拠が、あの大量銅剣・銅鐸の共存にあると見ると、なおさら面白くなる。日本海を二大文化圏が共有するための争いも起こり、その間にいつのまにか吉備がヤマトの縄文勢力とともに近畿を牛耳ったと。
 
 魏志の邪馬台国「南」記述はあきらかに呉を挟み込む位置に倭の中心地をおきたかった結果であろう。それが実際は吉備だったならば、その南にあるのは近畿であるから狗奴国・・・と、そういう、恣意的で押し付けがましい畿内説を逆手に取った考え方だってありえることになる。
 
 
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大「大阪市時代」の人口推移でわかるヤマトは狗奴国、邪馬台国は?確定

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今回は思い切り自由に、邪馬台国を決め付けてみよう。
 
 
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大阪市の人口が東京都よりも多かった時代をあなたは知っていますか?からはじめてみようと思う。するとそれが2~3世紀のヤマトにそっくりだと気づくはず。
 
 
 
 
◆大大阪市時代とは
「明治時代に隣府でかつての首都であった京都市を人口で上回っていたが、1925年(大正14年)4月1日の第二次市域拡張によって、大阪市は西成郡・東成郡の残余44町村全てを編入して、面積181平方キロメートル、人口211万人となり、東京市を上回る日本一の大都市となった。当時の世界でも6番目に人口の多い都市であった。
 
東南西北の4区からスタートした区の数も、同日をもって13区へ増加し、天下の台所と称された近世以来の豊かな経済地盤を活かして、商業・紡績・鉄鋼などあらゆる産業が栄え、文化・芸術・産業の中心として近代建築が華開く街をモボ・モガが闊歩する、華やかで活気にあふれた黄金時代だったと伝わっている。大大阪時代は、関東大震災で被災した住民・企業の大阪移住でピークを迎えた。象徴的な出来事としては、大坂城天守の再建や御堂筋および大阪市営地下鉄御堂筋線の建設などがある。
 
転機の訪れのひとつに1932年(昭和7年)10月1日が挙げられる。この日、大阪市は分区によって区の数で東京市に並ぶ15区へ増加したが、同日、東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加し、いわゆる大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生する。
 
また、繁栄の裏で同時進行にあった第一次世界大戦後の恐慌や昭和恐慌では、繊維や金属産業が大打撃を受け衰退した。さらに、戦争への時代へと向かう中、統制経済等の政策により、東京に対し大阪の相対的地位は次第に低下して行った。それでも大阪は、当時は東京に次ぐ日本第2の都市であり、戦後復興と高度経済成長期にも西日本の中心都市としての繁栄はなお続く。
 
しかし、大阪の衰退は日本万国博覧会開催の前後より徐々に始まり、それが決定的となったのは、高度経済成長の終焉後、安定成長期以降のことである。1978年(昭和53)年には大阪市の人口が東京都市圏(横浜都市圏)の神奈川県横浜市に追い抜かれ、本格的な東京一極集中時代が幕を開ける。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%99%82%E4%BB%A3
 
 


 
 
 
◆東京より人口が多かった大阪は、古代ヤマトに比定可能?
 
 
 
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千里ニュータウン遠景
 
 
 大阪市の人口をかつての東京15区(それまでの東京市域)と横浜市が上回るのは、筆者の過去読んだ大阪府史においても昭和53年(1978年)頃だったと記憶している。若い頃、大阪市内で働き始めたときに、自分が働く地域の歴史くらいは知っておこうと、調べた記憶が蘇る。明治時代に京都を追い抜いたあと、大正時代までは東京には追いついていないが、昭和の初期から20数年間は東京を逆転し、大阪市がトップになっている。これは記事にあるような編入による増加と、繊維・金属加工業などの爆発的反映による外部からの急激な労働力の進入が起きたためである。特に関東大震災による東京本社の大阪移転が多かったようだ。
 
横浜市に追い抜かれた1978年と言えばもう大阪万博(1970年・昭和45年)から8年も経っており、高度成長期の終末期。古代史をやる通史の観念では、つい最近の話である。それまで大阪市の人口は首都東京市域の旧15区だけに限れば、まだ上回っていたはず(現在の東京都全域が大阪15区を上回るのは昭和7年の大東京36区増加のとき)なわけで、初めて知った若い人には「目から鱗」ではないかと思う。筆者も調べた当時は「ほんまかいな?!」だったのを覚えている。当時の地方で学んだ知識では、大阪市は埋め立てと地下鉄工事による地盤沈下が頻繁していて、大発展の最中だったことぐらいは知っていたが・・・。
 
 
 
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筆者が大学卒業後はじめて結婚生活を開始した樟葉ローズタウン遠景
典型的な高度成長期の電鉄資本のニュータウン。
 
 
ちょうどその大発展中の大阪を含めた近畿圏(京都市)に筆者は九州から出てきている。そして奇しくもニュータウンの申し子のような樟葉ローズタウンを控える枚方市で暮らし始めていた。驚くような大団地、マンション群が淀川の東側の斜面を埋め尽くしていることに仰天した覚えがある。それに先立つ万博の年に筆者は中学生で豊中、千里のニュータウンも見ている。兄の結婚式が千里セルシーであったからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
◆歴史は必ず繰り返す
さて個人的思い出はさておいて、ではこの記事の、「大阪市」を古代ヤマト乃至は畿内地域と置き換え、「東京都」を古代北部、西北部九州有明沿岸地域と置き換えてみて欲しい。意外や意外、この人口の変遷状況が、実は古代日本の3世紀前後に不思議にぴったりあてはまりはしないだろうか?
 
「歴史は繰り返す」ともよく言う。
かつて歴史学は、「歴史は繰り返さない」「常に一定方向へ発展してゆく」をモットーとした考え方で展開されていた。しかし、実際にはちゃんと歴史は同じような流れを何度も繰り返してきたのである。縄文の古い円の思想である環状列石・環状集落などの形状も環濠集落や円墳そのものであり、土偶も、小さく扁平にはなるが縄文のものが出る。
 

先の記事に縄文時代~弥生時代へと変遷する地域別推定人口の一覧表を添付した。
 
 
 
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そこでは、縄文中期~弥生時代にかけて、東海・中部と近畿地方において、特に北日本縄文人が南下し、縄文的遺跡や遺物が増え始めたことを分析した。この中で、土器の東北や近畿における縄文と弥生の合体が起き始めることも書いた。
 
 
 
 
◆東海系パレス式土器は弥生と縄文合体の最高峰
特にその東西文化の最も顕著に現れた土器が、尾張地方・三河地方に多い「パレス式土器」であろうと見る。
 
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東海系パレススタイル(式)土器
その華麗さからギリシアクレタ島の壷をイメージさせて命名された
典型的弥生土器にほかにはない鮮烈な朱は縄文的なデザインの「凝り」を示す
 

この土器は縄をこすりつけた意匠ではなく、真っ赤な朱色の「生命色」あふれる色彩の線分が、弥生土器の形状にいく層も塗りこめられ、それまでの遠賀川式を中心とする、朝鮮的なシンプルで愛想のない、機能美オンリーの土器とは一線を画した仕上がりを見せ、しかもそれが近畿や瀬戸内、関東にまで時代を追って出現してゆく。この円形に朱色の色彩感覚を筆者は、縄文人的、あるいはもっと古い先土器時代から続いた太古の「凝り」の残照であると見るのである。

また畿内での東海系土器の出土地が纏向にも第一位の割合で出ることも、それが縄文人によるもので、纏向の中心人物が吉備的な墳墓と祭祀を持つ反面で、東海の工人的な人びとの多さこそが、寒冷化で南下してきた尾張地方の縄文系の、温暖化しても東海・中部・近畿への残存率が高かったことを思わせると考えている。尾張には九州や近畿とはまた別の、日本海から北陸、中央アルプスの「風の道」を抜けてきた高句麗・新羅などの渡来系も多かっただろう。現在の名古屋の食文化の特殊性、祭りの特殊性、醤油より味噌優先嗜好、常滑に始まる土器製作の歴史などを見ると、縄文や渡来の影響が、東海・中部で独自に起きたはずであろう。
 
 

 
◆2世紀まで北部九州は「東京都」、しかし弥生人はいずこかへ?
2世紀前半まで、北部九州は「東京都」のような最先端の地であり、畿内は遅れていたのは銅鐸の鋳型が九州で出、その鋳型の製品(銅鐸)が近畿で出ることでも明白である。墳墓の埋葬でも九州のような最新の銅剣や、銅鏡、鉄剣などは、近畿では古墳横穴式石室同様、100年以上遅れて入った。稲作も、遠賀川から先に東北の青森へ向かうし、遠賀川式を模倣する縄文土器も東北のほうが100年も早く東北に登場している。この遅れていたはずの近畿に、突如前方後円墳が登場したのが3世紀中ごろである。同時に2世紀九州の鏡祭祀や、吉備の円筒埴輪、特殊器台、弧文、そして東海・丹後系・瀬戸内系土器までもが登場するのである。同じく北部九州の南海産貝殻の模倣品は4世紀まで入っていない。
 
 
 
◆中国でわかる今も昔も「急速発展国の先進国模倣」=ヤマトの九州模倣
遅れた地域が、急激に発展しようとするとき、現代の中国を見てもわかるように、まず先進地を訪問し、学び、持ち帰り、模倣し、試行錯誤を繰り返す。かつては日本も、アメリカや欧州の模倣から始まった時代があった。明治~戦後まで、その期間は優に東京オリンピックや大阪万博開催まで100年かかったのである。古代の先進文化を畿内が取り込んで追いつこうとした期間も、やはり奇遇にも100年以上かかった。
 
この数百年の間に、大陸では中国の王朝が何度か入れ替わっている。一昨日の年表を見れば、黄巾の乱で後漢が滅び、三国群雄割拠し、魏が呉に勝って、またすぐに西晋に変わり、乱世となって五胡十六国時代の争乱から東晋が残存していた呉を完全に滅ぼし・・・やがて宋へと大転換してゆく。この節目節目に彼らの海外逃避行が何度も東アジア各地に起きなかったはずはない。
 
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◆魏志の「南にある狗奴国」とは魏の南にある呉の属国
魏志倭人伝に、西晋時代の作者はこう書いた。
「邪馬台国の女王は、南にある狗奴国王と和せず」
長い間われわれは狗奴国とはどこにある国だったのかで悩み続け、邪馬台国も不明のままでやってきた。しかしこの「南にある」という文言を、魏の南と考えたとき、作者の意図が見えてくる。中国では、魏の南にあったのは呉にほかならない。「狗奴国」という文字表記にも「狗」すなわち長江以南の倭種である江南白水郎(あま)の風俗がそのまま表されていることに気づく。つまりそれまでは呉に朝貢し、上下関係を持ち、呉王の子孫を名乗った人々の国が狗奴国ということだろう。
魏志は明らかに残存する呉を牽制する意味で、ヤマトを呉の正面にあたる邪馬台国の南に意図的に置いたのである。しかし日本の南九州や紀伊半島南部に、そのような王国は痕跡がない。

それはヤマトである。
 
特に南九州からの呉の太伯子孫を自称する隼人海人族の早期移住の南山背、巨椋池周辺での影響は大きいだろう。
またなぜ邪馬台国の女王が南朝的な鏡である神獣鏡を欲したかも、ヤマトが九州の模倣をして、朝貢=南朝神秘主義=鬼道のよりしろとしていることを証明する。
 
 
 
 
◆3世紀卑弥呼まで、ヤマトは縄文ヘテラルキー社会
ヤマトの「共立」体制は、古代の集団で言い表せば「ヘテラルキー=多頭並立的階級社会」な階級のない、職業並立体制ととらえられるが、それはまさに縄文の円の思想とそっくりな、ひとりの王によるひとつのピラミッドという独裁的身分階級=王権や統治、全国規模の「征服された」統一文明がない、組織ごとに並立して作業を手分けするファジーな集団で、渡来人のほうが多かった北部九州のような大陸的王権(筑紫君のような族長を頂点とする)の「ヒエラルキーな集団=寡頭王権的階級社会=1ピラミッド式」ではなかったことが推定できる(松木武彦2007)。
 
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松木武彦『列島創世記』より
このヘテラルキー社会とは、キャロール・クラムレイ(米国人類学)らによると、ちょうど世界史の「ケルト」集団に当たり、ヒエラルキー社会が祭祀遺物として見上げる建造物=ピラミッドやジックラトや教会などを持つのに比べ、平面的で円形の建造物=ストーン・ヘンジや環状列石を祭祀場に持ち、それはちょうど日本で、甕棺墓や各地の弥生墳墓もそうで、それが階級社会の墳丘墓から巨大古墳へ見上げる型(仰揚型)になるにつれてヒエラルキー型つまり「王権」へと移動していくとする。
 
ところが、日本の古墳は、開始当初から5世紀初頭までこそ確かに高さも大きさも巨大だが、その形状はあくまで縄文の「柄鏡(えかがみ)型住居」の形状を平面的に大きくしただけで、朝鮮の王墓のように、底辺がコンパクトでも上へ高くなる「ゴチック型」ではなく、円の思想に角の思想が加えられただけ。柄鏡型住居は夭折幼児の方形入り口への埋葬から見て、縄文の祖霊祭祀場と見てよい。この祖霊祭祀もまたヤマトの古墳でも行われた「繰り返す歴史」の一部である。
 
 
 
前方後円墳の形状は、あくまでも畿内に多かった縄文系豪族たちの嗜好である「柄鏡住居」をそのまま墓にしただけだとも言える。
 
 
 
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当ブログ 時空を越えて奇妙な一致・柄鏡型住居(縄文時代)より
 
 

 
◆ヤマト、纏向は吉備王=卑弥呼と東海・近畿縄文人と渡来人が同居?
つまりヒエラルキー階級社会の王が2世紀には西からやってきたにも関わらず、畿内では縄文的なヘテラルキーな「共立」を選択せざるを得なかった・・・=圧倒的に畿内には縄文の族長がすでに各地に分かれて住んでいた。しかもそれが(縄文後期からあった「貝の道」などで)すでに呉と接近していた?・・・という結論を導き出せるのである。これが邪馬台国縄文中心説であり、そこに出雲を手にした小さな王権国家・吉備がやってきても、(記紀にあわせてわかりやすく言えば)先住土蜘蛛(つちぐも)の最大管理勢力である葛城などの集団を押さえ込めなかったということになろうか。
 
なぜなら、葛城系一族もまた、南九州から貝の道で日本海出雲を経て畿内に先住した、南海の貝の縄文族だったからではなかろうか?このように、畿内の縄文系種族は南北双方面からの先住とおりあいをつける吉備鴨系種族の弱小王権と把握できる。吉備が瀬戸内航路を開拓したことが、稲作・鉄器のヤマト進出を推し進め、その大元は瀬戸内を通じてつながる北部九州の遠賀川東部、豊前地方に前身があったと推定する。九州と吉備のつながりは、のちの古墳時代後半からの装飾古墳や横穴式に石床、屍床を持つ古墳、造山古墳の阿蘇ピンク石、また文献では景行天皇やヤマトタケルの熊襲征伐で、吉備の豪族が船頭になったり、神功皇后伝説でも吉備の国造が肥後の火の国造になるとか、あるいはまた火葦北国造(球磨川八代~宇土の国司)が吉備王の系譜で弟がかつて呉と深くつきあった百済の官僚になったり、さらに江田船山古墳の鉄剣に、南朝の王のシンボルである魚の絵が刻まれていたりすることで、明々白々であると考えたい。
 
 
 
◆吉備・葛城並立政権を倭五王が王権へ?
その吉備・葛城並立共立政権が滅ぼされるのは5世紀後半、雄略大王の時代だと記紀は書く。しかし時代がそのあたりかどうか、あるいはもっと前にかは定かではなく、「滅んだ」と言うよりも並立して、相互に王を出していたところへ、5世紀初頭に九州に騎馬風習や最新鉄器を「朝鮮半島から」持ち込んできた勢力のような集団がやってきて、畿内ヘテラルキー共存体を一気にヒエラルキーな巨大古墳の時代へ、一時的にだが巻き込んだ倭五王が台頭してきた、と見る。
 
しかしそれもまた、次第に元の縄文的な大王共立王権的なものに、政治的、あるいは継体大王の子供の暗殺?かなにかで替えられてしまったのが飛鳥王権、つまりヤマト天皇祭祀王制のあいまいな始まりだったのだろう。要するにヤマト王権などというのは戦後西欧史観の作り出した幻想であり、実際には天皇はお寺の仏像のようにお飾り、象徴で、宰相が共立されて、中には権力欲の強いもの・・・蘇我氏や藤原氏のような一時的強権が出入りするような世界が、日本だったとしていいのではなかろうか。
 
 
 
◆日本人のあいまいなアイデンティティは縄文文化そのもの
現代の日本人の政治的・対外的なアイデンティティのあいまいさは、縄文後期~弥生時代のヘテラルキー社会=縄文的円の思想が存続した証拠だと言ってもかまうまい。
 
 
 
こういう視点で見て、はじめて邪馬台国=吉備、出雲。狗奴国=ヤマトが確実化して見えてきたと思う。吉備がヤマトに進出してきて縄文的な葛城や物部や尾張は日本海系・東北系縄文氏族との軋轢がおきたのが倭国大乱だとしておこう。息長や宗像は壱岐対馬九州系縄文海人族。大乱は各地でそれぞれ起きた。しかしそれらはみな、いわば倭種同族間での一時的相克で、仲が悪いとされた狗奴国も、乱が終われば同居してしまうのである。本当の敵対関係ではない。そう魏志が書きたかっただけであろう。
 
 
 
筋がよく通った話にできあがったと思う。
 
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TPP反対でもわかる日本のヘテラルキー構造は平等社会ではない/縄文の環状集落も弥生環濠集落も構造はおなじ

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「(縄文時代の)環状集落の平面プランに当時の社会(縄文社会)を読み取る作業は、さまざまな研究者によって、もう何十年も続けられている。マルクス主義の歴史学が華やかだった1970年代までは、真ん中の広場をたくさんの住居が囲んでいるところから、縄文時代の基本的な集団は大きな共同体で、それを構成する個人や小家族は互いに平等な関係にあった、とみる人が多かった。しかし、発掘のデータも増え、さらに検討が進められた結果、興味深いことが二つほどわかってきた」
(松木武彦2007)

1 住居は円形の広場のまわりに均等に切れ目なく配置されるのではなく、すきまをはさんでいくつかのグループになったり偏ったりする。規模にもよるけれど、環を二分~四分する大き目のまとまりがあり、それがさらにいくつかのまとまりに分かれている。

2 墓の配置、副葬品の有無・種類などに個人間の差異がある。
 
1については意外な見解が出され始めている。
普通、こうした集団の小さなまとまりは、同じ出自の集団・・・一族の集まりと捉えられる。ところが実際はそうではなく、複数の出自集団の同居とする見方が出ている。ひとつの一族ではなく、少なくとも二つ以上の一族が同居している。その理由は、近親結婚を避けるためだというのである。

さらに、円の中の複数の小集団に、最も大きな一族の血縁者が点在するのだ。この一族はなんらかのエキスパート、例えば祭祀者とか土器の専門家とか狩猟の熟練者のような、選ばれた人々で、その子孫が、円の中の多くの小集落にばらまかれるように入り、統率していたらしいのである。つまり先日書いた畿内弥生時代のヘテラルキー社会組織が縄文の環状集落には存在したことがわかるのである。

先日「あいまいでファジーな」と、ヘテラルキーを総括しておいたが、ただそれだけの漠然とした集まりではなく、ちゃんとヘテラルキーにはそれなりの連隊の小リーダーがいて、それらの連隊の並立する個別集団がまとまったのが環状集落という一個大隊であったらしい。

2では、環状集落が二重、三重の竪穴住居と掘っ立て建造物で何層にも円を形成し、中央に墓所を置き、外周へゆくほど土地が高くなっている・・・浅いすり鉢状であることがわかった(佐々木勝)。岩手県の紫波(しわ)町、西田遺跡では、広場の真ん中に十数基の墓が二列に並び、円の外側に置かれるその他大勢の墓とは、あきらかに区別されている。そして真ん中の墓群の死者の頭は、高いほうに置かれるため、円になって外側を見上げる格好になり、人びとの居住地がこれと対面していることになる。つまり真ん中の墓の人びとは、この環状集落の特別な人たちだと考えられる。しかし彼らの墓のすべてが全員豪華な副葬品を持つわけではなく、複数に区切られたまとまりに偏って出てくる。
 
 
 
 
 
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間違いないことは、縄文社会と言えども平等ではなかったということである。
 

松木武彦は「平等とは作られた概念」だと言う。もちろん、自由も平和も作り出された形骸概念である。そこには理想主義しかなく、子どもが夢見る机上の空論である。現実にはこの地球上にそのようなものは存在していないし、今後も出現しないだろう。人類は、真の自由・平等・平和を捜し求めるよう宿命づけられたあわれなクリーチャーだと言ってよい。
 
 

筆者は、すべてが平等な社会では、今度は自由がなくなると考えている。
例えば共産主義がまさにそうである。
全員が同じ地位にあって、作業を分け合い、同じ方向を向いた報酬として、平等な分配がなされる・・・一見、理想的社会に見える。しかし、そこには努力や能力による順位がなく、結果的に個人の生物としての本能である労働意欲、向上心が消えて行き、結局とどのつまりはその国家自体が萎えてゆくことになりかねない。

今話題のTPP参加問題で、なぜ日本はまとまって賛成しないか、の背景に、実は農協という奇妙な農民統率団体の強力な反対があることも、実はヘテラルキーであるべき協同組合を、ヒエラルキー序列で統率し、ピラミッド型の階級世界へ農業を牽引した農協幹部たちの、既得権益の思惑がTPP参加をけん制してきた。面白いことに、アメリカなどの先進国ではまったく逆に、農協のような組織はヘテラルキーで、共産主義に近い共同体なのが普通である。
 
なぜならば、その始まりからして日本とは違うからだ。日本では戦後の改革で、財閥と、小作人と庄屋のピラミッド体制が解体、自由になった。農協はその庄屋たちが中心になって開始されたため、庄屋・小作のピラミッド体制を復活させたかったのである。一方、社会のイデオロギーが最初から自由主義で始まったアメリカや欧州では、まったく正反対に、農業だけは平等分配と自由な開発を許容した。だから個人の努力しだいでいくらでも発展ができた。儲かっているから薄利多売に耐えられる。ところがピラミッド型で農民に莫大な資金を出させ、しかも新品種苗や農薬を押し付けるように無理強いしてきた日本では、農家がいつまで経ってもセレブにはなれないままだった。だから関税自由化で海外から安い農作物が入ってきたら「ひとたまりもない」と口々にいい、実際そうなるだろう。それは全部、農協の搾取と共同体としての甘やかしの賜物なのである。農家は明治になっても結局は江戸時代の「生かさぬように、殺さぬように」の小作人のままが長く続いたわけである。

縄文のヘテラルキー社会は、われわれが思っているより複雑だったようである。しかもうまくいっていた。それは外部からの侵入者がない、複雑な地形の中で、孤立する形でやっていけたからだ。しかし、弥生時代になると、南下していた縄文集落の人びとは、武器を持つ渡来人を受け入れねばならなくなる。そして受け入れたのである。弥生時代の近畿や瀬戸内の縄文的遺跡には、円の集落の思想と、弥生の最新技術が同居するようになる。
 
 
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弥生環濠集落も縄文の思想で作られたのが近畿
 
 
 
 
 

北部九州では世界のヒエラルキー思想がいちはやく実現し、須久岡本や三雲南のように、墓に序列がはきりと現れるようになる。奴国王や伊都国王が登場したのである。ところが縄文の影響が強い近畿では、いつまでも円の思想が残存し、卑弥呼の時代になっても、各地の小集落内部で「魏か呉か」のこぜりあいがあり、なかなかまとまれないまま。仕方なく呪力を持つ巫女王を立ててメンタルに統合するしかなかった。しかし、大陸でことあるごとに、またまた結束は壊れるを繰り返した。あっちだ、こっちだで、いつまでたっても世界的な古代国家世界はやってこないのである。これをまとめられるのは、結局、実力主義者の登場しかない。それが倭五王だったのである。
 
 
 
いわつる弥生時代の環濠集落とか、卑弥呼の居館にしても、巫女女王は中心であってもただの預言者であるだけで、政治的には縄文の環状集落のままだったのだろう。それが近畿の伝統的あいまい政治の始まりだったのだから、それを引き継いでいる東京の明治政府もまた「寄り合い所帯」で、縄文のイデオロギーから始まったのである。日本は敗戦によってようやく古代から抜け出し、一気に加速して大車輪で欧米に近づいた。これでは中身はまだ古代で当然である。中国や韓国もそうである。人のことをどうこう言える立場にみんなない。それが東アジアなのだ。
 
 
 
 
日本が古い多神教や天皇にとりこになっている間は、本当の「精神の近代化」は達成していないと言える。だから、いつまで経っても「おまえが結婚しろ」「子供をおまえが作ればいいじゃないか」なんていう下劣で低俗な前近代的野次が飛び交うままなのだ。センスがないにもほどがある。土建屋のおやじ並みのノーセンスである。だから白蓮はかけおちするのだ。なんのこっちゃ?
 
 
 
どっちにせよ、日本人は明治政府を選択し、それに従って動いた結果、大敗北をした。明治政府を作り上げた勤皇の志士たちにあこがれたりするにわか歴史ファンの気持がさっぱりわからない。ただへたくそな物まねをしてみせただけの古代国家である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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邪馬台国吉備説をじわりと埋めていく その1 考古学と文献

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岡山県の重要な弥生遺跡
 
 
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◆楯築遺跡 Tatethuki-Iseki たてつき・いせき
 
 
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岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。楯築墳丘墓ともいう。双方中円墳である。古くは片岡山古墳と呼ばれていた。国の史跡。
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AF%E7%AF%89%E9%81%BA%E8%B7%A1
 
 

◆津島遺跡Thushima-Iseki つしま・いせき
岡山県岡山市北区いずみ町の岡山県総合グラウンドおよびその周辺にひろがる、弥生時代を中心とした集落遺跡。全国で初めて、弥生時代前期の集落と水田が隣接して発見されたことで学史上著名。集落を設けた微高地の周辺、湿地の間の3~5アールのごく狭い範囲に水田がつくられていた。イネの花粉、各種の水田雑草の種子や葉の存在から、水田土壌自身が残っていることも証明された。この水田と湿地との境には杭列、微高地との境には矢板の列によって区画してあったが、方形の区画は認められなかった。近年の調査では、上記の水田とは別に、畦畔で区画された弥生前期の水田も広範囲にわたって検出された。このことから、弥生前期の段階では2種類の水田が並存した可能性も考えられている。また、弥生時代後期の河川跡からは建物の部材などを含む木製品多数も見つかっている。
 
 
 
◆津寺遺跡(つでらいせき) 岡山市北区津寺(つでら
時期 弥生時代後期  
楯築の2世紀王都の次の世代の3世紀の拠点
縄文と弥生の交叉点
 加茂小学校の校舎建設に伴って、1987年10月から1988年8月にかけて調査を実施しました。津寺(加茂小)遺跡は弥生時代後期以降から中世までの住居跡が密集した集落遺跡です。
  上図の土偶は、顔面に入墨のような線刻を施していることから黥面(げいめん)土偶と呼ばれています。多量の土器に混じって、弥生時代後期の溝から出土しました。線刻は、目元から目尻にっかけて明確に表現されています。耳はありませんが、目、鼻、口ははっきり表現されています。黥面は土偶のほかに、土器、銅鐸、石棺など、色々なものに表されています。
  全国的に見て、それほど多く出土する遺物ではないものの、岡山県南部では比較的多く見つかっており、岡山市鹿田遺跡、倉敷市上東遺跡、総社市一倉遺跡などで、黥面を描いた土器が出土しています。
 
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  よみがえる大王都】(153)鉄が支えた吉備王国                [2004年05月08日 大阪夕刊]   より
 児島湾に注ぐ足守(あしもり)川に面した津寺遺跡は、弥生時代後半から古墳時代初めにかけての大集落遺跡。
「纒向の時代」(西暦190-340年)と重なり、多くの竪穴建物や掘立柱建物の跡が見つかっている。
  発掘調査にあたったのは古代吉備文化財センター(岡山市)など。調査報告書によれば、遺跡中心部(中屋調査区)で見つかった竪穴住居跡からは鉄滓(てつさい)が出土した。
  また、すぐ近くの住居跡からも計24点の鉄片が見つかっている。調査区内では他に銅鏃・鉄鏃が計31点、鉄剣1点、鎌4点、やりがんな3点など計59点の鉄を中心にした製品も見つかっている。
  炉跡などは確認されていないものの、これらのことから、津寺遺跡内で鉄器の生産が行われていたと思われます。
新潟県糸魚川産ヒスイ製の 大珠(たいしゅ)が出土。古志との交流。
 
「男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢す。」「魏志倭人伝」
 
 
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◆足守川加茂B遺跡 あしもりがわ・かもB(弥生時代後期)
岡山市足守川矢部
鹿・イノシシの卜骨痕跡のある肩甲骨8点出土。
 
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◆加茂政所遺跡 かも・まどころ(弥生時代後期前葉)
円環型銅釧(どうくしろ)二個・分銅型土製品(ふんどうがた、分銅として使用したのではなく祭祀用の土偶、形代かたしろ)
 
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加茂政所遺跡出土分銅型土製品
 

その他
岡山市足守川近辺の弥生遺跡
立田遺跡
高松原古才遺跡
矢部南向遺跡
百聞川遺跡群
総社市
宮山遺跡(特殊器台・墳墓群)、一倉遺跡(小型家型土製品)、刑部遺跡
横寺遺跡(家型土製品)、鏡野町九番丁場遺跡 竪穴住居(弥生時代後期)
、総社市窪木薬師遺跡出土 絵画土器(弥生時代中期)、勝央町小中遺跡 弥生時代中・後期の集落など
 
 
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家型土製品
 
 
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文身のある人面土器
 
 
赤磐郡
門前池遺跡(岡山県赤磐郡山陽町)中期末(製鉄遺跡)
参考地熊山遺跡(高句麗式積み石木棺墓の後世の仏塔への応用か?経筒が石室にあったために7世紀の仏塔とされているが、大谷1号墳の類例が吉備にはある)
 
 


 
 
 

古墳時代には横穴式石室が早くから登場し、九州の装飾古墳、石床、屍床が登場。横穴式石室は「切石積み石」という畿内方式も7世紀初頭に登場する、そんな東西南北の縄文・弥生文化の集積地であり、さらに日本海や若狭湾との交流で、九州とは別の朝鮮文化も伝来した土地柄である。一言で言えば文化の混在地。

吉備は「北部九州遺物の東の果て、纏向土器群の西の果て」とよく言われる。東西の文化が弥生時代にいくつも入り混じった場所である。また日本海からは東北縄文の土製品や入墨をほどこされた土人形(倭人?縄文人?)や分銅型土製品のような土偶的な遺物も出てくる。
 
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県内ではほかに銅矛(出所不明)、多数の分銅型土製品が出土している。

このように、吉備は博多湾のヒエラルキー社会と、近畿のヘテラルキー社会の交差する「瀬戸内の中心地」であると考えられ、瀬戸内交通の要所が児島湾であった。
 
ここから赤磐郡の吉井川では美作・鳥取から出石・丹後・若狭へ、高梁川では米子・松江・出雲へ、それぞれ日本海とつながれる位置にあり、中国山地はゆるやかで、児島湾は製塩の良港として、早くから屯倉が置かれる大事な産業地域であったと言える。しかも日本唯一とも言える鉄鉱石の産地で最古級の製鉄工房、古代米としての縄文後期の陸稲畑作栽培も一番早く始まっている。水田稲作は長崎・佐賀の菜畑に次ぐ早期開始が起きている。
 
 
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点線の円弧・・・楯築の弧帯文の変化であろう
弧文・弧帯文も縄文死生観から生まれ出ると考えてかまうまい。
 
 
 
 

 
 

遠賀川から日本海で東北へ向かった稲作伝播の波は、青森や秋田で九州倭人の鯨面文身を持つ仮面や頭部土製品や巻貝のオブジェ東北に残したが、それらが遅れて戻るようにして古志、出雲に下りてくる。
 
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分銅型土製品に描かれる模様の変化
半円形の重弧文は吉備地域に多く、やがて東へ向かい纏向で弧文となるか?

そして出雲日本海には四隅突出型墳丘墓という独特の弥生墳丘墓が生まれた。しかし四隅突出型墳丘墓はなぜか出雲と古志の間に挟まれる丹後・若狭湾では飛び地のように発見されない。
 
 

出雲(というよりも松江・米子の東出雲が四隅突出型墳丘墓の中心地)の大王墓である西谷墳丘墓は日本海社会の西の端である西出雲に置かれているが、そこから東へ広がり、出石~若狭湾を飛び越えて福井、富山・新潟へと伝播している。これは記紀・オオクニヌシと越のヌナカワヒメ婚姻にぴったりと合致する。丹後と吉備のつながりは地名「加佐郡(かさぐん)」として宮津・舞鶴に存在する。「かさ」は吉備笠臣(かさのおみ)に由来した。今の岡山県西部の浅口・笠岡あたり(のちに広島県東部とともに備後国)にいたのは鴨別(かもわけ)という地方豪族である。この氏族は岡山市の造山古墳の王であろう吉備王家の別れで、岡山市にも加茂の地名を残している。この鴨別から笠臣は出る。
 
この四隅突出型墳丘墓のある地域を分断するように、日本海からアメノヒボコと都怒賀阿羅斯等はやってきて、オオクニヌシと土地をめぐって争ったと『播磨国風土記』が書いたのである。
 
 
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そして吉備地方には、対面する瀬戸内式土器、讃岐の土器、播磨の土器、近畿の土器以外に若狭の土器も混在するのである。これは吉備が纏向と非常によく似た「全国から人がやってきた都市」であったことを思わせる。

「津寺遺跡からは東海地方の台付甕、北陸の甕・器台、畿内の壺・甕・高杯、讃岐の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・高杯・鼓形器台・台付椀などが確認される。また、津寺遺跡から約1km南にある足守川加茂A・B遺跡からは東海地方の台付甕、畿内の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・鼓形器台、西部瀬戸内の壺・甕、讃岐の壺・甕、九州の壺・甕・高杯などが確認されている。この他にも高塚遺 跡、立田遺跡、政所遺跡、上東遺跡など、挙げればきりがない。」
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu13.html
 
 
若狭と吉備は製塩でつながっていた
若狭の土器製塩の開始は、やはり古代史の流れの中でとらえられ、そのことについて石部正志氏は「若狭地方の首長が畿内もしくは吉備地方の首長と直接的な交渉(同盟・連合関係)をもった段階でおそらく若干の製塩技術保持者とともに製塩技術を若狭に導入」したと考えられる。
 
つまり出雲・越の日本海同盟の真ん中にアメノヒボコ・ツヌガアラシトという外来者が切り込んだのと同じに、吉備が若狭に入り込み分断したのである。これは吉備=朝鮮半島東部との交流によって出雲の港を簒奪したために、四隅突出型墳丘墓は消えていくと捉えられることにもなるだろうか?そうなるとここで吉備=物部・中臣?との見方も出てくることになる。出雲の国譲りさせたのは物部氏と中臣氏である。
そういうサイトhttp://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test230.htm
 
 
 
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ついでだが、去年、唐古・鍵遺跡で一点の九州須久式土器が出て話題になった。纏向遺跡では南九州の土器しか出ていないのに石野博信あたりは「九州の」と書く。当時の南九州は「外国」だったのにである。それより古い唐古・鍵からも北部九州の土器が出たと大和学派が言いたいのである。そうすると九州がすでにヤマトの邪馬台国に従っていたことにできるからだ。まさにヤマト中心主義の最たるもの。
 
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笠臣誕生のエピソードは神功皇后紀にこうある。
「この部分で、日本書紀では、神功皇后が熊襲国の土蜘蛛退治のために、筑前国の松峡宮 (福岡県朝倉郡筑前町栗田)に、遷った時のエピソードとして書かれています。しかしながら、新撰姓氏録の方では、下記のように書かれています。
 
笠が吹き落されることは、姓氏録、右京皇別、
 笠朝臣条の鴨別命の話に、吉備の出来事として書かれています。
 
 「応神天皇が吉備国に巡幸され、加佐米山(かさめやま)に登った時、
 飄風が御笠を吹き放ちて、天皇、之を怪しとおぼしき。
 鴨別命がもうさく「神祇、天皇に奉(つかへまつ)らむと欲す。
かれ、其の状(かたち)ならむ」という。
 天皇、其の真偽を知らまく欲して、其の山を猟令(かりし)めけるに、
 得たまふ所、甚だ多し。天皇大く悦びたまひ、名を賀佐(かさ)と賜ふ』 」
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_242.html
 
 
また鴨別と御友別(みともわけ)のこととしては

「<日本書紀 神功皇后 摂政前紀 仲哀天皇九年条>
然して後に、吉備臣の祖、鴨別を遣して、熊襲国を撃たしむ。

 未だ浹辰を経ずして自づからに服ひぬ。
 
且荷持田村(荷持 此をば能登利と云ふ。)に、羽白熊鷲といふ者有り。
 其の為人、強く健し。亦身に翼有りて、能く飛びて高く翔る。
 是を以て、皇命に従はず。毎に人民を略盜む。
 
戊子(十七日)に、皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峡宮に遷りたまふ。

 時に飄風忽に起こりて、御笠堕風されぬ。故、時人、其の処を号けて御笠と曰ふ。
 
辛卯(二十日)に層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。
 左右に謂りて曰はく、「熊鷲を取り得つ。我が心則ち安し。」

 故、其の処を号けて安と曰ふ。
丙申(二十五日)に、転りまして山門県に至りて、則ち土蜘蛛田油津媛を誅ふ。
 時に田油津媛が兄、夏羽、軍を興して迎へ来く。
 然るに其の妹の誅されたることを聞きて逃げぬ。」
 
<日本書紀 応神天皇22年条>
また、波区芸県を以て、御友別が弟、鴨別に封さす。是、笠臣の始祖なり。」
同上サイトから

とあり、『肥後国風土記』逸文として「続日本紀」が引用して、
「爾陪の魚
 肥後の国の風土記にいう。玉名の郡。長渚(ながす)の浜。(郡役所の西にある。)昔、大足彦の天皇(景行天皇)が球磨噌唹を討ってお還りになったとき、御船をこの浜に泊めた。云々。また御船の左右に泳いでいる魚が多かった。船頭の吉備の国の朝勝見(あさかつみ)が釣針で釣ると沢山獲物があったので献った。天皇は勅して、「献った魚は、いったい何という魚か」と仰せられた。朝勝見は、「その名は知りませんが、どうやら鱒魚(麻須)に似ているようです」と申しあげた。天皇はご覧になって、「俗に物が多いこと見てすなわち爾陪佐爾(ひへさに)という。いま献るところの魚も大変多い。爾陪の魚というがよい」と仰せられた。今爾陪の魚というのはこの由来による。(『釈日本紀』十六)
『風土記』平凡社」
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-2bbf.html
 
とある。景行天皇がクマソ征伐で熊本県玉名に立ち寄ったとき、その船のかじ取りの名が吉備の朝勝見だったとある。その後景行は彼の舵取りで葦北に向かっている。この人物・朝勝見は火の葦北(あしきた)国造の祖・鴨分と出身地が同じ吉備の浅口である。浅口郡には鴨方町がある(現在浅口市)。鴨別の名前から鴨方と呼ばれてきた。

要するに景行天皇の嫁に吉備臣祖若建吉備津日子の女、針間之伊那毘能大郎女が
嫁ぐことでヤマトタケルが生まれ、熊襲征伐にいくわけだが、その熊襲がいたらしき熊本県に、朝口由来の益城郡朝来那山(ちょうらいなさん・朝来山とも)があり、播磨には朝来市があり、天空の城竹田城を置く朝来山がある。熊本県芦北肥後国葦北, 吉備都津彦の兒三井根子命とあって、つまりこれらは吉備由来氏族である。

 
 
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弥生時代後半になって、吉備には縄文的な土偶や人面土器が登場した。その最初は楯築の弧帯文石にある顔面である。その石全体を弧帯文がとりまいている。その弧帯文が描かれた特殊器台が纏向で出た。だから楯築墳丘棒の双方円墳が纏向形前方後円墳の最初の試作品だと畿内学者は言う。しかしその形状はそもそも東北の柄鏡型住居にすでにあった。するとそれを吉備の1~2世紀に持ち込んだのは日本海を南下してきた出雲・古志にいた縄文人であろう。鯨面文身の人面土偶などは彼らだろうか?
 
しかし吉備には北部九州、南九州からの海人族らも来ていた。安曇の倭人も鯨面文身をしている。そして先に東北に稲作とともに彼らが向かったのは、日本海で東北へであった。それはすでに縄文後期には始まっていた。
 
その縄文人の彼らが文身を真似したのだろうか?そして南下して出雲から吉備に入ったのが鴨一族だったのだろうか?ならばそれが卑弥呼の先祖だったのだろうか?まだわからない。その2にご期待。いずれにせよ、吉備のヘテラルキー社会が移動したのが纏向だろう。そこにいたのは狗奴国の人だったのである。
 
 
 
 
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邪馬台国吉備説をじわりと埋める その2 弧帯文・直弧文・特殊器台・阿蘇凝灰岩そして鏡

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●◆吉備系弧帯文・直弧文を持つ遺跡・遺物一覧(年代順)
(弧帯文と直弧文にはあきらかな帯状弧文という類似が見られるが、纏向弧文二点については帯状よりも唐草状と判断してここでは除外した)
 
●縄文時代後期(約3000年前)
新潟県村上市山北町    上山遺跡出土      巻貝形土製品
宮城県伊具郡丸森町    ?遺跡出土       巻貝形?
岩手県宮古市近内     中村遺跡出土      巻貝形土器
 
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(※考古学でこれらを直弧文ないしは弧帯文と呼ぶかどうかは未だ未決。しかしあきらかに同じ模様である。このルーツが南海の貝を東北に持ち込んだ九州縄文人か、あるいは東北人のオリジナルかも不明。いずれにせよ弧帯文の源流に南北縄文文化の死生観が関わることだけわかっていただければよい。 Kawakatu)
 
 
 
●弥生時代
岡山県倉敷市矢部   楯築遺跡2後半~3前半 弧帯文石二組・立坂型特殊器台
島根県出雲市     西谷3号墳丘墓(2世紀末~3初頭) 立坂型特殊器台
奈良県磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(2~3前)      立坂型特殊器台
大阪府八尾市     瓜生堂遺跡(東郷・小阪合・萱振・中田など)遺跡 向木見型特殊器台片
岡山県総社市     宮山遺跡弥生墳丘墓群(3前) 立坂型・宮山型特殊器台 
岡山県岡山市     矢藤治山弥生墳丘墓(3中・前方後円墳か?) 宮山型特殊器台
岡山県総社市     立坂弥生墳丘墓(同上3中)      立坂型特殊器台 
奈良県桜井市     纏向墳丘墓群(石塚・矢塚3中) 宮山型・都月型特殊器台など 
 
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福井市足羽山山頂古墳の直弧文のある靫埴輪
 
 
 
●古墳時代
愛媛県今治市大西町    妙見山1号墳 3後~4初  伊予型特殊器台
香川県高松市西春日町   鶴尾神社4号墳(3後~4?)
岡山県岡山市     都月(坂)1号墳(3中)前方後円墳纏向古墳群同時代 都月型円筒埴輪
奈良市桜井町巻向    箸墓古墳(3中)  後円部墳頂付近から宮山型特殊器台・特殊壷。特殊器台型埴輪。特殊器台脚部が「ハ」の字形で吉備では見られない様式。
天理市中山町     中山大塚古墳(3後)      宮山型特殊器台
島根県        仲仙寺 9 号墓
兵庫県        養久山 5 号墓・権現山51号墳 3中 
兵庫県赤穂市     有年原田中墳丘墓(うねはらたなか)千種川域 弥生終末期
 1号墓:円形周溝墓 陸橋部あり、前方部の祖形か。
 2号墓:円形周溝墓
 特殊器台、特殊壺 文様は吉備とは異なり独自性あり
大阪府茨木市     紫金山古墳(4前半)     貝輪3ヶに直弧文
岡山県岡山市高松町  千足古墳(5前半?)     石室線刻及び埴輪直弧文
  同       造山古墳(5前半)     石棺(阿蘇凝灰岩灰色石製)線刻
橿原市葛本町     弁天塚古墳  10以上の宮山型特殊器台破片脚部ハの字型
天理市中山町      西殿塚古墳   宮山型特殊器台脚部ハの字型
奈良県御所市室    室宮山古墳(室大墓・4後~5前)楯(靫)形埴輪直弧文・特殊器台
奈良県御所市極楽寺  極楽寺ヒビキ遺跡(5前)     家型埴輪柱直弧文
奈良県広陵町     新山古墳大塚陵墓参考地(5前) 直弧文鏡3枚
大阪府柏原市玉手   安福寺境内横穴群(5末~6初?) 割竹型石棺線刻直弧文
福岡県八女郡広川町  石人山古墳(5前)       家型石棺蓋陽刻直弧文
※滋賀県守山市?   月優部遺跡(?)       鹿角製装具直弧文
福井市足羽上町    足羽山山頂古墳(5後)(継体天皇像下古墳)船形石棺 
熊本県天草郡大矢野町 長砂連古墳(5中)       横穴式石室直弧文 
熊本県不知火町    国越古墳(5中)        家型石棺直弧文
   同       鴨籠古墳(5後)        家型石棺直弧文
福岡県久留米市    浦山古墳(5後)        石棺内部直弧文
熊本県上益城郡嘉島町 井寺古墳(5末)        横穴式石室直弧文
大分県竹田市長湯   長湯横穴墓群(6前)      鹿角刀剣装具鞘直弧文
※滋賀県月優部遺跡について場所・世紀・現物画像など詳細をご存知の方は情報請う
 
ほかにあればご連絡ください。分布図作成しますので。
 
 
 
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上下ともに御所市極楽寺ヒビキ遺跡の直弧文
 
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              特殊器台の弧帯文
       
 
 
◆特殊器台の発祥と歴史
 
 立坂(たちざか)型 (特殊器台前期2~3世紀前)
     ↓  ↓
 向木見(むこうぎみ)型 (特殊器台後期)
     ↓  ↓ 
    宮山型(終末型)
       ↓
    都月型円筒埴輪 
       ↓
   特殊器台型円筒埴輪 5世紀
 
 
 
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◆特殊器台前身の器台・つぼ型土器の出土地
大分県大分市 浜遺跡
山口県熊毛町 天王遺跡
山口県玖阿町 畑岡遺跡
愛媛県松山市上 土壇原(どたんばら)遺跡
愛媛県松山市小坂 釜の口遺跡
兵庫県赤穂市原 田中弥生墳丘墓
大阪府高槻市古曾部 芝谷遺跡
 
 

 
 
このように弧帯文は縄文後期から古墳時代最盛期に渡って各地に使われた「卑弥呼の時代の模様」である。
 
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また吉備型の土器は畿内で庄内式から布留式土器へと変遷したと考えられる。
 
 
特殊器台・特殊壺の出現は弥生時代中期以降で、後期に特に発達・普及するが、古墳時代前期5世紀に入ると衰退し円筒埴輪へ移行してついには埴輪に完全に変わった。この現象から特殊器台・特殊壺が、最古の前方後円墳はどれか、最古の前方後円墳はどこにあるか、を追求する有力な手がかりの一つになる。

同様に、吉備の造山・作山のような巨大古墳もその後は衰退し、吉備には100メートルを越える古墳も登場しなくなる。そして5世紀末になると、遺跡的に吉備ははっきりと衰亡してしまうのである。

一方、同じように近畿でも、ヤマト箸墓から西へ墓地は移動してゆき、馬見古墳群からついには大阪湾羽曳野丘陵へと巨大古墳が移り、5世紀末には吉備同様、近畿の古墳は100メートルクラスに縮小、中心地も淀川沿線攝津地域の今城塚へと様変わりした。
 
 

従って、吉備の繁栄は2~5末までであり、近畿の繁栄は3中の卑弥呼から~倭王の5末となって、まったく双方がリンクしていたと見ることができる。
 
また北部九州(有明海沿岸だけだが)で吉備氏族が地元を牛耳るのもやはり直弧文の時代終末期の5世紀末であり、一致することになる。つまりこの5末こそが吉備王族が倭王武によって滅ぼされたと記録が書く時代になる。と同時に畿内に出現した阿蘇凝灰岩石棺の氏族も4世紀には菊池川の火中君(在地豪族)から、5世紀の吉備系葦北国造の宇土の灰色石~ピンク石へと変遷し、それが吉備の繁栄した時代に合致。吉備が衰亡すると石は、物部氏が石を探して侵入していった讃岐~播磨竜山石へと変わるのである。物部氏が吉備と播磨の間にある揖保川へ切り込んで住まうことこそが、吉備を衰退させた直接の要因であろう。

倭王は、しかし考古学上の大古墳衰亡と合致して、倭王武前からその力をがっくりと落したと見られ、だからこそ宋へ朝貢せねば存続があやうかったと見ることが可能である。ちょうど今の北朝鮮が日本に歩み寄ってきたようなものだろう。国内でその統率が落ちてきたのは、吉備・葛城の「縄文王家」を滅ぼしたことで、資金源が枯渇したからだろう。武が上表文のような誇張した内容を宋王へ書き送ったのも、身の丈を越えた主張であり、それほど政局は逼塞していたからだと考えうる。
 
まさに雄略の墓(島泉丸山古墳高鷲丸山古墳」とも。宮内庁の比定間違いか?)は小さく、大和と河内のはざまでどっちつかずの場所にあり、変わって登場する清寧~顕宗~飯豊青天皇~武烈までのエピソードも政権交代を言い募ったあげくに摂津に継体大王が登場したのである。継体の担ぎ上げはかつての吉備・葛城勢力の巻き返し戦略か?物部氏と大伴氏の担ぎ出しに尾張が嫁を出す構造は、三輪王朝のあとの景行・ヤマトタケルの吉備王権エピソードと似たものを感じさせる。(もちろん物部氏が出雲・吉備・葛城連合を乗っ取った倭王そのものだった可能性もある。それは飛鳥時代分析に譲ろう)。
 
いずれにせよ阿蘇凝灰岩で見れば、継体今城塚・推古と竹田皇子・聖徳太子=蘇我氏・甲山の三尾氏・息長氏とは、ピンク石を使ってあるのだから吉備氏族に関係することは間違いあるまい。(阿蘇ピンクを再生の色と見るか、直弧文のように再生拒否の石と見るかで推古蘇我氏は熟考すべき)。
 
 
最後に、吉備からはじまる弧帯文の模様に×をする直弧文が登場した5世紀は、間違いなく吉備氏の衰亡期に当たるのである。

こうしたことから、史実である倭王武と、『日本書記』の雄略大王の合致は考古学的にも文献的にも見えたことと思う。そして『日本書記』が最初、雄略紀から書き始められたという森博達の分析ともよく合う。つまりそれ以前の歴史を『日本書記』作者たちはすでに忘れていたのであろう。

さて吉備の青銅器総覧を探している。特に九州型や讃岐型の銅剣、漢鏡・神獣鏡の分布について総花的資料を探している。
ざっと調べたところでは、以下の遺物が出ているようだが。
 
銅剣  1個 岡山市飽浦出土 弥生時代(前期)・前4~前2世紀 東京国立博物館
銅鐸  1個 岡山県兼基出土 弥生時代(中期)・前2~前1世紀 岡山県立博物館
銅鏡 蕨手状渦文鏡 岡山市足守川加茂B遺跡出土
   吉備津彦裏山古墳 岡山・一宮  波文帯三神三獣  20.6
   備前車塚古墳 岡山・湯迫  波文帯六神四獣  25.0
   備前車塚古墳 岡山・湯迫  吾作二神六獣  22.2
   備前車塚古墳   獣文帯龍虎鏡 奈良・富雄丸山古墳と同氾
 
 
また、楯築のあと一キロほど北上した足守川沿線の遺跡群からは、あきらかに吉備勢力の衰退、あるいは東への主力移動が見て取れ、古墳も数十メートル級に縮小するが、このあたりには北部九州の装飾古墳が登場し始め、瀬戸内での吉備・畿内の力も落ちたことがわかる。これが6世紀の継体大王の琵琶湖~福井ルートの必要性となんらかの関係があったことも間違いあるまい。息長氏と安曇海人族の実際の活躍した時代が、ここから始まり記紀の神功以降の息長系譜へとつながるのだろう。つまり伝説の前倒しである。

邪馬台国で考えれば、2~3初頭の楯築70メートルの墳丘墓のあと、吉備には巨大な弥生墳丘墓は見られなくなるので、卑弥呼の時代に見合うような箸墓クラスの墓は発見できない。それがつまり吉備が出雲を滅ぼして以後、大和へ移動したことを裏付ける。とすると卑弥呼の塚が楯築にヒテイできるかどうあかであるし、また箸墓と楯築の間に築造されたヤマトの纏向石塚や矢塚、吉備の矢藤治山弥生墳丘墓あたりをもっと調査する必要があると感じている。
 
 
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倭王武上表文に答えていない中国

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魏志には卑弥呼の朝貢に、儀は答えて鏡等を送ったと書いてあるが、倭王武の上表文を記録した「宋書」には、それに答えて使者を送ったとは書かれていない。
 
 
 
■ 倭王武の上表文(478年)と『日本書紀』との比較

上表文の内容と『日本書紀』を比較すると若干の違いがある。『日本書紀』には倭国が高句麗と戦ったことと、南宋に使者を送ったことは記されているが、南宋から爵号をもらったことは記録されていない。

これは、聖徳太子以降、中国と対等の立場に立った日本が、かつて爵号をもらって中国の臣下になったことを記録に残したくなかったのだと思われる。

■ 百済航路と呉音

倭王武の上表文には、倭人が百済を経由して中国との間を往復したことが記されている。漢字の読み方で呉音と呼ばれるものは、中国南朝の音の百済なまりと考えられるので、百済経由での南朝文化の伝来が、呉音が大量に日本に入ってきたことの理由と考えられる。

■ 502年(天監元年)の昇進

梁の武帝即位の際に、倭王武を征東大将軍に昇進させたと記されているが、『日本書紀』によれば、このときすでに倭王武は亡くなっている。

これについては二つの説がある。
  1. 実際に雄略天皇の使いは来ていないが、即位のセレモニーの記録をにぎやかにするため、あたかも倭王武の使者が参列したかのように記録した。中国人はこのようなことを好む性行がある。
  2. この倭王武は武列天皇のことである。
表1 中国文献の倭王武の関係記事(前回の表の続き)
 
 
 
 
 
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原田大六と平原王墓の女王二人

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全文引用(つまりいい記事)
 
「福岡県前原市有田に平原(ヒラバル)遺跡がある。昭和四十年に発見され、この時の調査主任が考古学者の故原田大六氏で、三種の神器の※八咫鏡(ヤアタノカガミ)と平原遺跡出土の鏡の大きさがよく似ていることから平原遺跡の被葬者が天照大神であると推量した著作『実在した神話』を出版され、「天皇家の故郷は糸島であると確信した」という。この原田夫六氏の言う「天皇家の故郷」の意味と、その範囲を糸島の何処まで絞りこんでおられたかは今となっては不明だが、先学として頭が下がる。

 私は何度となく前原市の伊都国歴史資料館を訪れ入口近くの氏の銅像と対面しているが、正直に言うと私は氏が大嫌いで代表的な著書はすべて読んでみたが二度と読み返す気力さえ失せてしまう程である。何故か。中学卒業後しばらくして戦地に赴き中国大陸で憲兵だったせいか、氏の態度・論調は傲慢そのものであり自宅には「面会謝絶」の札を下げ、訪ねて来た古田武彦氏を門前払いした有名な話もある。
 不思議なことに梅原末治氏、末永雅雄氏、原田大六氏、日本考古学の先駆者や先学は大学に行っていない。考古学とは無縁の「土器探し」に夢中になり、それが高じて大学の研究室に「発掘専門」として雇われたものである。断わっておくが「大学に行っていないこと」を問題にしているのではない。彼等も出発はいわば門前の小僧のごとく「ずぶの素人」から始まっているのにも拘わらず自分たちを生まれながらのすばらしい考古学者だと思い込んだことにあり、二○○○年に発覚した
 
「ゴッドハンド事件」が示すように考古学は人間を夢中にするものである。
 原田氏の著書『卑弥呼の墓』(昭和五十二年 六興出版)の文章から。
 
 「いずれもアマチュアだから考古学的論証を経ていない。論証しているつもりの屁理屈は、いくら御託を並べても、それが科学的でない以上、考古学界では通らない。…あるいは大学の考古学研究室の学生になって研究されよ」
 
 「みよ、その虚構書の張本人たる小説家を。武智鉄二・松本清張・宮崎康平・富岡多恵子・豊田有恒・望月義・高木彬光と並べれば限りなく、小説家が邪馬台国ブームにもぐりこんできて割拠し今ではリーダー格におさまってうそぶいている。…」
 
 「学問は正しいのが当然であって、偽りや間違いは許されないのである」
 「戦後、これこそ日本古代史の真実であるが如く、左翼的思想家によって喧伝された…」
 
 「彼等小説家は嘘でよいのであり、だましで結構なのであり、ぎまんで万歳なのである。…」
 
 
 実をいうと私は末永雅雄氏の教え子の故網干善教氏の講義を関西大学で受けて考古学や日本古代史に興味を持ったのだが、故網干善教氏は古墳の扱いで文部省を厳しく批判された(文部省は高松塚古墳の保全を数億かけて行ったが、すばらしい壁画にカビをはやす結果となり、今では真っ黒に変色している。網干氏は古墳の本当の保全は元のままに埋め戻すべきだと主張されていた。結局、文部省の考古学に対する姿勢に反発され中央アジアの発掘に向かわれている)ように現場一筋の考古学者で、いつも真っ黒に日焼けした、人懐っこい人物であった。それに引き換え、もう少し書き様が有りそうなものだが、学問は正しいのが当然」とは何と言う傲慢さだろうか。「学問は正しいかどうか常に探求するためのものである」
 

 基礎的な学が備わっていないせいか罵倒に近い批判であり、「左翼的思想家」とは、いかにも元憲兵の口から出そうな言葉である。

 批判された人達にすれば「お国の為の学説に固執する胡散臭い学者」に飽き飽きしているからこそ自由な立場で自説を展開しているのであって、「金儲け」のためだけではない。たぶん氏の経済的不遇が背景にあるのだろうが、気に入らなければ黙って置けばよい。
いずれにしても氏の論調は現在の考古学界の驕りと逃げ口上そのもので「考古学的論証を経ていない」という決まり文句こそ氏の「受け売り」である。「ケンカ大六」と呼ばれた氏の肩書きは「日本考古学協会会員」だが『日本国家の起源』という著書もある。それより考古学からは史実は語れないし、出土物に「製造年」でもあれば別だが、年代は(絶対に)特定できない。
では原田氏が卑弥呼の墓についてどのような条件(卑弥呼の墓の三原則)を挙げているか。
①前方後円墳であること。
②画期的巨大墓であること。
③殉死者樹立の事実があること。
そもそも氏は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命、墓は箸墓であり、学者である自分が言うから間違いはないとしている。特に①・②は最初から自説の「箸墓」を前提としているのは明らかで、言い訳として「記紀の記述こそ考古学の基本となるべきもので、素人が必ず持ち出す『魏志東夷伝』の文章は、あいまい、不確実・漢字の羅列で根拠にならない」と書いている。

 『魏志東夷伝』
 卑彌呼以死 大作冢 徑百歩 徇葬者奴婢百人
 
 要するに明治政府が巨大な前方後円墳を優先的に天皇ないし皇族の墳墓に比定したように、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命だとして①と②を持ち出し、素人好みだという『魏志』の「直径百余歩の塚(円墳)」を完全に無視しているように見えるが、③だけは「奴婢百余人を殉葬した」という『魏志』の記述を臆面もなく採用するという明らかな矛盾を抱えている。仮に箸墓が卑弥呼の墓だとしても箸墓は前方後円墳であり、耕作や天変地異で削られ形が変わる事はあっても、卑弥呼の冢だと気が付いて円墳をわざわざ前方後円墳に造り直すという労力を誰が何時したというのだろうか。

 復員後に原田氏は経済的に生活が苦しいなか、九大の故中山平次郎博士(医師で考古学者)のところに転がり込んで考古学を学んでいる。恐らく元島原鉄道社長で経済的には恵まれていた故宮崎康平氏が著書『まぼろしの邪馬台国』で九大考古学の不甲斐なさを指摘したことが関係しているのかも知れない。邪馬台国ブームが巻き起こった当時、学界は『まぼろしの邪馬台国』は単なる文学小説だとして黙殺し相手にしなかった。
http://blog.goo.ne.jp/kawakami23takeru/e/d2d3615043af6a7c43bff8dd997a0365
 
 


 
さて、「東遷説」の復活である。
いかんせん。
森浩一先達が生前唱えた説だったが、ヤマト説考古学はこれを一切「なし」としたはずである。
 
 
そもそも考古学に「ヤマト説」などあってはならないものである。いやさ、学問であれば、どんな手法であっても、
たとえ文献史学であっても、
最初からヤマトだ筑紫だ、などという前提・想定ではじめられる考証など、そもそも科学ではない。フェアプレイの推理で行くのなら、あらゆる証拠品が提示された上での地域特定である。ところが考古学は、おのれを科学、科学と言いながら、特にヤマトも筑紫も学派は、恣意的に論じてきた。
 
 
 
これを越境しない古代学と読んだところでなんの在野からの文句もなかろう。
 
 
 
しかし「東遷説」だけは越境する説である。
 
 
邪馬台国は切迫する大陸事情によって瀬戸内を東へ向かい、吉備から河内、そしてヤマトへ移住した・・・。その証拠がヤマトで始まった前方後円墳の中に、筑紫だけの埋品だったはずの鏡が出始めたではないかと。
 
 
その鏡の中でも、伊都国の内向花文鏡つまり連弧文鏡の大きさは、他の追随を許さず、しかも伊勢神宮の八咫鏡そのもののデザインと大きさではないか・・・。
 
 
 
 
はて、このロジックに、どこかにおかしいところはないのか。をまず検証せねばフェアプレイとは、九州人のKawakatuとしては、安易にいえまい。
 
 
 
 
8世紀に成立する伊勢信仰のご神体である八咫鏡が、なぜ平原の鏡と一致したか?
ヤマト説学派と九州説学派は本当に越境する共栄する古代史学を作り出せるのか?
地域的固定観念や派閥を超えた、今後の協力体制に期待感が高まる。
 
 
 
 
思えば森本六璽、モース、それ以前の考古学から影響を受けた日本考古学の歴史の中で、果たして越境するを本旨とできた学者が一人でもいただろうか?
 
 
 
森浩一以来、同志社大学はその後続を生み出してきた。
 
 
 
平原の方形周溝墓には卑弥呼以前の巫女女王が眠っている。
その横にあとから卑弥呼が埋葬された・・・?
 
 
 
 
ふるさと伊都国に。
 
 
 
ヤマトから。
 
 
 
故郷での埋葬。
 
 
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麻の種子の纏向での大量出土・・・
しかしそれが巫女の巫術に本当に使われたのかどうかは不明である。麻は衣服の素材となる。麻薬効果に使われたなら、種子粉末がなければなるまい。
 
 
 
 
 
考古学だけでは真実は確定できない。
 
 
九州の土器はどうなった。
 
 
筆者にはまだまだ検証が必要である。
 
 
 
 
 
 
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ダウトを知ってますか? 対立と戦争の歴史を分析する 吉備国邪馬台国説付録

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対立の歴史を読む
 
 
●対立解消のノウハウ
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思考プロセス入門(5) 対立解消図の作成方法 より
http://ik-consul.jpn.org/archives/1837
 
 
●対立や戦争はどうして始まるのか?
現状維持を 望む人々と、現状打破を望む人々によって対立がはじまる
 

頑迷で保守的な、けれども反面、意外に論理的ではない、感情的・主観的、また又聞き的な思い込みが、真実や客観性を凌駕することが多い。野鳥が卵から生まれて最初に見た相手を母親と思い込むように、意外に人間も、最初の印象、思い込み、伝聞を一生信じ込んでいることが多い。

 
その「常識」だった事柄が、あるときそうではないかも知れないと感じたとき、ヒトの確信はもろくも崩れてしまうものである。普通の人なら、「そうだったのか」と気づいて考えを改めてことなきを得る。むしろ、真実を教えてくれた相手を尊敬の念で素直に受け入れる。しかし、そうではなく、「そんな馬鹿なことがあるはずない」と考える人は、必ず相手が喧嘩を売ったと考え、報復しようとする。「俺はこう教えられてきた」「そう信じてきたから、これまで平和だった」などを常套句にし、客観的真実から逃避することで、主観的に自己を正当化しようとする。
これは、幼少時から、その人が基礎学力を身につけるのが苦手で、客観性や科学にコンプレックスを持ち、主観性ですべてを理解しようとする性格である場合が多い。いわゆる論理性の欠落である。右脳で考えられず、左脳を駆使するとそうなる。女性化と言ってしまうと差別だと言われるだろうか。今の時代は言葉の選択に苦労する。かといって「泣き喚いてまで」主張するほどの大論考でもない。
 
 
 
●ダウトがザブトンになるような誤解から対立は起こる
あなたは「ダウト」というカードゲームをやったことがあるだろうか?
 
ダウト
 
ゲーム名の「ダウト」とは英語・ドイツ語で「疑わしい」という意味の言葉で、英語でのゲームの別名I Doubt ItのDoubt(ダウト)の単語から来たゲーム名である。それが関西地方ではなぜか、「ザブトン」と曲解され、真ん中に本当に座布団を敷いて(=花札の場の真似か?)行い、名前の由来もその座布団からだと思い込んでいる人がとても多い。これはまったくの勘違いである。
 

そのダウトの曲解を借りて、ちょっと遊びで、対立の構造を図式にしてみよう。もちろん、そういう喧嘩にまでなるほどの対立が、実際に起きているわけではない。これはゲームなので、大半の人は名前などどうでもいいと、和気藹々やっているのが現状だろう。もっとも昨今はこういうトランプ遊びもPCゲームですたれてしまったかも。
 
 
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対立は往々にしてだが、マイノリティ(少数派)の中で起こり、保守性や頑迷さを尊び、変革を嫌う日本人には、ささいないざこざを引き起こす。正解や真実を追究するマイノリティと、まったく逆に奇抜な思いつきや信じ込みを曲げないマイノリティの間に、いさかいが起こる。

そしてそれをそれぞれの野次馬が後押し(サポーター)することでいさかいは、まま、戦争へ向かってしまいかねないことになる。知性と無知の対立、客観と主観の対立、科学と宗教の対立、ガリレオとローマ教会の対立・・・などなど、似たようなことは枚挙にいとまがない。そういうときは人はどうしてきただろう?
 

■クリミア戦争勃発のきっかけ
「フランスが海峡を通って一隻の戦艦をコンスタンティノープルに派遣したので、カトリックの僧たちが聖地の管理権を得ることになった。
 
ロシアはトルコ国境に軍隊を送り、カトリックの僧は管理権を少しばかり失うこととなった。
 
緊張が増し、各国が圧力をかけ、お互いに相手を疑い始めるようになった。」
p48 「戦争はなぜ起こるか」 A・J・P・テイラー 新評論
 
 

政治的世界では「既得権益」が大きな影響を与えて戦争につながるケースが多い。これは一般的な小市民社会の議会、あるいは町内会・自治会内部でさえそうである。スケールの大小に関わらず人間が集団で生活しはじめると、必ずこの問題が起こる。中国の今の変形中華思想も結局は既得権益としての海の領土への固執の現れで、帝国主義、富国強兵思想である。古すぎるわけだ。
 
 
●対立の要因「既得権益」
また、対立する既得権益は、必ず流言飛語と造られた噂話、告げ口を誘い出し、極端な時代には、相手に呪いをかけて殺害しようという行為まで出現した。いわゆる中国の、敵に似せた人形を刃物で刺してその人物の屋敷の床下に埋めるなどの呪詛であり、日本では人面土器や墨書での呪いがあった。流言飛語では、崇峻天皇がああいった、こう言ったなどが蘇我馬子の耳に入り、馬子が甥である崇峻を惨殺している。しかし記紀がそう書いているからと言って、それが確かに馬子の仕業だったかは、実はわかるはずはない。それはあくまでも蘇我氏を殺した側の言い分である。

また、卑弥呼の時代では、大陸の国家対立が、そのまま、まだひとつにまとまった国家のなかった列島の畿内や九州、全国の地方各村落に影響し、それぞれの地域で地域を二分する対立が起きた。これを解消するには、大陸の魏と呉のどちらかの決着を待つしかないのだが、倭国は魏か呉かの既得権益で大いに迷ったあげく「大乱」となり、「邪馬台国」という「ある地域」では、しかたなく巫女を中間調停者として共立して、「神の意思」としての魏呉戦争の決着を待つことに落ち着いた。対立した二者にはクニを保とうという目的での一致があったためである。これをいち早く達成できた卑弥呼の国が、だから列島では北部九州よりも早く魏への朝貢をなしえたわけであるが、ではなぜ先進地であった北部九州が出遅れたのかについては、先進地だったからという答えしかありえない。階級的ヒエラルキー社会と、領土拡張の武器・水田をほぼ同時に、どこよりも早く手にした北部九州では、対立の決着は武力の決着まで続けられる。二者択一しかなかったのである。その証拠となるのは甕棺の矢じりや青銅器のかけらの残る遺体である。進んでいたがために北部九州は戦いにあけくれ、魏を選択するのが遅れたのである。
 
 
●花田清輝の「対立のままの統一」
その決着がついて魏が政権をとってすぐに卑弥呼は使者を送っている。つまり縄文と渡来が和合することで始まった畿内では、ヘテラルキーな、武力決着を選ばない、西洋史では遅れた共立社会だったために、花田清輝の言葉で言うならば「対立を対立のまま統一する」止揚行動が可能だった。実に皮肉なことである。
 
 
●「和」こそが縄文のヘテラルキー
厩戸皇子がのちに憲法としたとされる「和」とは、まさしく、このことである。
さらに、卑弥呼は、それでも呉を信奉し続ける狗奴国王との長いいくさに負けそうになったとき、自らの命を「以って死す」ことによって責任をとり、今度は邪馬台国対狗奴国の内乱が始まることとなる。そして魏の加勢を借りて邪馬台国が「宗女臺與」を立てることで、狗奴国も納得し、ここから新たな共立社会が開始されたことになる。
 
 
 
●内乱は和思想でおさまる、しかし対外戦争は?
このように見てくると、戦争や対立を起こさないためには、むしろ3世紀近畿のような、あいまいで、保守的頑迷ではなく、融通無碍で、つかみどころのない、原始的、後進的、日和見的だが、殺しあわぬ方向性が一番よい、ということになる。

ただ、3世紀の対立は、あくまでも外からの侵略戦争ではなく、また白村江の戦いのような他国への加勢戦争でもなく、国内の内乱である。他国の侵略者に、倭人のような「共立思想」はなく、いくさは勝ったものがすべてを手にする。侵略戦争や加勢援助するいくさに、畿内倭人的な3世紀の和合ヘテラルキー思想など、まったく通用しないことは忘れてはならない。
 
 
●白村江敗北は集団的自衛権発動の結果?
白村江の戦いは、百済からの救援依頼で行われたので、天智倭国にとっては、まさに集団的自衛戦争である。そこにも当然、ヘテラルキーな和合は存在しえない。そうした考え方の世界だからこそ、倭国は勝てるはずもなかった。集団的自衛行為には、必ず前もって勝敗を見極めておけるだけのずる賢さが必要である。加勢するなら絶対これなら勝つという状況判断が不可欠になる。だから天智は為政者としては失格である。ダメ政治家だったと考えてよい。
 
 
●対立は外野、野次馬が引き起こす
対立は、互いに頑迷な頭脳同士が出会ったときに、まま生じてしまう。そしてそこに油を注ぐ外野が加勢すると、火種は爆発してしまいがちである。サッカーの試合後の喧嘩にしても、必ずやるのは当事者同士ではなく、本来外野であるサポーター同士である。つまりこの野次馬やとりまき、外野ほど、怖いモノはないということである。
 
 
●1~2世紀の見上げる場所への移動とヒエラルキー化への道
高地性集落が1~2世紀に瀬戸内で増え始め、高いところに為政者が住み始める。高地性墓地もできはじめ、高地性の環濠集落さえ現れる。さらに高いところに戦争疑似体験場のような投石遺跡まで出現。臨戦態勢を感じさせる時代になるわけである。それが一箇所ではなく、沿岸地の各地に発生するのは、まだ倭国に中央集権社会が興っておらず、ばらばらのヘテラルキー分散社会だったからで、2、3世紀の大乱も、やはり地域別で対立があったことの証拠になる。中国の史書が倭国大乱と書いたからとて、決して国家を二分した大きな戦争だったわけではない。各地でそれぞれが別々に二分されての小競り合いの戦いである。また、高いところに為政者が上がるのは、高所から眺望することによって客観的差配が可能になることと、身分制度が徐々に北部九州的なヒエラルキー階級社会へと動き始めた、つまり大陸の影響を徐々に列島も受け始めた証拠となろう。

平面的な墓が、次第に石積みや土たんぼの高い山形になっていくのは、そういうことである。
 
 
 
●畿内・吉備の中の北部九州的傾向の謎
しかし、畿内を見ると、それが3世紀卑弥呼の死の直後あたりから突然登場し、しかも最初から巨大なのであるから、ヘテラルキー縄文融和社会=円と平面の墓制だったヤマトは、急激なヒエラルキー化を一気にやり始めたということになるのであり、それはつまりようやく中心人物が決められたことを如実に示すし、さらにその纏向型の前方後円墳や前方後方墳とは、どこかの真似をして始まったはずなのである。しかし、纏向よりも早い時期の高い土盛りした墓は吉備・出雲にしかないわけであり、その発想が吉備・出雲の人からのものであると今は言うしかないのである。また吉備には、纏向型よりも先行して、楯築直後に作られる鯉喰神社遺跡のプレ前方後円墳まで存在するのだから、ゆるがない。

だが二つだが、吉備邪馬台国派生地説に疑問がある。
ひとつは、それまで墳頂に竪穴式で埋葬されていた棺が、なぜ横穴式、横口式へ変化するかである。ヒエラルキー思想が入り始め、それが中央集権へ大和を導いて飛鳥時代となると言うのなら、なにゆえに石室と棺を、墳丘の頂上ではない平地や地下に埋葬しはじめるのか?広大な敷地に見上げる巨大古墳をずっと作っていればいいものを、なぜ?その死生観の変化はなんの影響で?
 
また鏡の副葬も、北部九州の東部で始まったヒエラルキー思想の一環であろうが、ヘテラルキーだった吉備や纏向がなぜ真似したのか?しかも魏の思想ではなく呉の思想の強い画文帯などの神獣鏡を最高峰に選んでいる。吉備には11枚の三角縁を副葬した備前車塚古墳があるが、備前赤磐郡は吉備の中心地ではない。

これらの部分に、北部九州の影響があることが、要するに、吉備も纏向も、やはりこれを真似したのではないかという疑念が滲んでいるのである。
 
 
 
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吉備鯉喰神社弥生墳丘墓・卑弥呼の墓候補地一覧

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考古学の発掘を一切信じないと思う人は、読まなくてけっこうです。
 
物事を「一事が万事」で決め付けるのは幼稚な考え方です。
 
 
 
 

 「この弥生時代末期におけるわが国最大の楯築墳丘墓に葬られた吉備の王墓に相応しい墓壙が、1976 年から岡山大学考古学研究室の故近藤義郎教授によって発掘された。その結果、全く前例のない 30?強の、目の覚めるような美しい水銀朱が棺に敷き詰められていた。
 
 そしてその場所から、ヒスイの勾玉と瑪瑙の管玉や 27 個の碧玉からなる首飾り、長さ 47?の鉄剣、数百の小さなガラスや管玉製首飾りも出土した。円礫推上部からは、王位継承儀式と関わる高さ 1.13 mほどの大型特殊器台の破片が出土した。また北東突出部からは壷形土器も出土した。
 
 古墳時代になると激しい階層分化の中で、富と権力の集積が起こるが、その直前の弥生時代 末期に、これ程の副葬品が出土すること自体異例のことである。そのことから、古墳時代前夜においてその墳墓の主であり、古代吉備国の権力者としての存在は格別なものであったことが十分想像される。
 
 その他、地上の謎の施帯文石だけではなく、それと良く似た小振りの謎に充ち満ちた※施帯文石が墳墓の上の円礫堆下部から出土した。何らかの葬送儀礼を経たのか、後世の人の他の儀式によるものか分からないが、100 個以上の破片に砕かれた形で出土した。この地上と地下の2つの施帯文石は当然深い関係があると思われる。セットと考えられること等からも双方の施帯文石が弥生末期のものであるとの考察は、殆ど揺るがないのである。
 
 ただこの施帯文石の時代限定が可能ではあっても、空間的には全国何処にも類例がないので、施帯文石の性格の解明は難しい。
 
 施帯文石の存在は目下のところ、この2点と楯築遺跡から直線距離で北西 700 mに存在する鯉喰(こいくい)神社境内で表面採取された別個体である握り拳ほどの施帯文石の破片が1個あるのみである。つまりこの上なく不思議は存在し続けているものなのである。
 
 このことから、この施帯文石研究は今もって足踏み状態であるともいえる。日本に国を作ろうとした矢先の弥生人が、何の目的でこの施帯文石を作ろうとしたのかとか、文様が何を意味しているのかは、弥生時代から遙か隔絶した今日の人間が今現在の揃っているデータで考えても核心にはなかなか近づけていない。」
 
 
なお鯉喰神社遺跡が弥生墳丘墓とわかったのは最近のことなので、「鯉喰神社墳丘墓」としてはほとんど検索でヒットしません。あしからず。「鯉喰神社遺跡 墳丘墓」でヒットします。
 
 
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特殊器台・特殊壷分布図(松木武彦2009)
 
 
 

鯉喰神社遺跡の墳丘墓は卑弥呼の時代に合致する?
(たまたま見つけた、筆者と同じ意見の若井正和の著書記事。この本は筆者未読)

 
吉備の鯉喰神社に卑弥呼は眠る
「吉備の邪馬台国と大和の狗奴国」若井正和著 (歴研)
 邪馬台国吉備説を大胆に述べている。著者は掛川市在住で掛川市立総合病院副医務局長・神経内科診療部長『歴史研究』に「邪馬台国吉備説の提唱」ほかを書かれている。
 
 楯築遺跡は弥生式墳丘墓後期のもので、発掘した近藤義郎教授は出土した特殊器台と特殊壺を重要視していた。古代祭祀研究家の薬師寺慎一先生も楯築遺跡で行われたであろう祭祀を重要視して、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」が行ったとみられる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われただろうと推論している。
 
 著者の若井氏は魏志倭人伝における「邪馬台国と卑弥呼」の記述をさまざまに検証しながら、大和説、九州説共に不備な内容が多く、邪馬台国を吉備と比定してこそ、すべてがつじつまが合ってくると、詳しく論述している。
 「やまと」とは何か?単なる地名ではない。若井氏の論によると魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」を当時、大和(奈良盆地を中心とした地)の王国とし、邪馬台国は吉備にあって倭国をまとめた王権、女王国とすることで、古事記、日本書紀の記述と合わせ、すべての論理がつながるという。
 
 結論、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとする。

 「鯉喰神社」は楯築遺跡にほど近く、明治に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀している。神社は楯築遺跡に匹敵する弥生式墳丘墓に建てられている。

 造山古墳応神天皇陵説と合わせ、邪馬台国吉備説は、古代における吉備の位置づけが、単にこれまで言われてきたような大和に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆している。

これらが※秦氏や賀陽族など渡来の集団と、その技術や文化とのかかわりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるようである。

 新羅の王子と言われた天日矛とのかかわりも注目に値する。
 大和王権で祭祀をつかさどる同時に鉄の鋳造技術を持っていた物部一族との関係も見逃せない。
このあたりさらに整理してみることが必要。
それにしてもこの若井正一氏の「邪馬台国吉備説」はかなり説得力のあるもの。古代吉備王国の真相に迫る。」
http://kibinokojima.blogspot.jp/2011/03/blog-post.html

(※文中吉備の「秦氏」とは4世紀秦原廃寺(総社市秦)を氏寺とした渡来氏族。同市秦にある一丁𡉕(いっちょうぐろ)1号墳・4前は秦氏の墓とされるhttp://kibinokojima.blogspot.jp/2011_09_01_archive.html)
 
 
 


 
 
Kawakatu解説
 
 
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吉備中山周辺の遺跡
 
 
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鯉喰神社墳丘墓
 
 
 
この鯉喰神社墳丘墓からは弧帯文石のかけらが出ている(全国に楯築の2個とあわせて3個しかない)。楯築遺跡直後時代の墓である。楯築墳丘墓は弥生時代最大の70Mの大きさで、近畿学説が纏向を古墳時代の始まりとする近畿中心主義的な偏った考え方を無視するならば、実は古墳時代とはすでに2世紀の吉備で始まっていたとしても一向にかまわないわけである。

  楯築墳丘墓(2 世紀末) 立坂型
  鯉喰神社弥生墳丘墓(3世紀初~中ごろ) 向木見型

編年は出土した特殊器台の様式からなされている。
立坂型と向木見型特殊器台は吉備だけで出土し、ほかの地域には見られない原初的器台である。

従って纏向の古墳群より鯉喰のほうが早いか、同時代だと言える。
纏向石塚古墳(弥生墳丘墓とする意見もある)は3世紀初頭とされ、箸墓古墳は3世紀中ごろとされているので、鯉喰は箸墓より古く、石塚と同時代の墓になる。

纏向古墳群の中で石塚~箸墓までは、まだ前方後円墳の試作段階のものだとする意見はいまだに根強い。だから近畿学説が言う「古墳時代」の始まりを、かならずしも纏向からとする必要性はまったくなくなったと言える。箸墓古墳を前方後円墳の第一完成品と決め付けるには、まず箸墓内部調査がなされねば言えるはずがない。しかし宮内庁はそれを拒み続け、先ごろようやく立ち入り調査だけが許可されたばかり。これでは考古学的な一級資料になりえない。

マスコミが言い立て過ぎる結果、まるで古墳時代とは箸墓から始まるかのような近畿学派の「大本営発表」が定着しつつあるようだが、全国的な視野では、まだまだ決定は不完全である。
 
 
 
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吉備国の古墳
西部の足守川流域の赤丸が吉備中山地域である
 
 
 
◆卑弥呼の墓候補地一覧
可能性では、やはり吉備楯築・出雲西谷・鯉喰ときて纏向石塚・箸墓・黒塚という順番が順当である。すると卑弥呼の死んだ248~9年(3世紀中ごろ)にジャストフィットする墳丘墓は、楯築・西谷のすぐあとの世代のプレ古墳で、
 
1 2C末~3C初期 吉備鯉喰神社墳丘墓(倉敷市矢部) 70m 弧帯文石
2 2C末-3C前半  纒向石塚墳丘墓 96m 弧文円板、朱塗鶏形木製品
         吉備伊予部山弥生墳丘墓(総社市下原)
         吉備鋳物師谷(いぶしだに)二号弥生墳丘墓(総社市清音)
3 3C中葉以前   纒向矢塚墳丘墓 96m 
4 3C中葉以前   纒向勝山墳丘墓 110m 木製の刀剣把手、団扇 
5 3C中葉以前  東田(ひがいだ)大塚墳丘墓 (96→)110m 
6 3C中葉以前  ホケノ山古墳 80m  銅鏃60、鉄鏃60、素環頭大刀、刀剣類、画文帯神獣鏡3
7 3C中葉-後半 箸墓古墳 278m 特殊器台形埴輪片、壺形埴輪片、有段口縁の底部穿孔壺形土器
 
と順番付けられると考える。この中のどれかが卑弥呼の墓である可能性が高い。ただし北部九州説からは平原遺跡の女性巫女王墳丘墓に、あとから卑弥呼は「故郷に帰る形で」埋葬されたという意見も最近出ている。しかし平原は方形周溝墓に近い土こう墓であまり大きくはなく、ヒエラルキー的な見上げ型でもない。北部九州の弥生時代は出土品からは間違いなく先進大陸的なヒエラルキー社会だったことは明白なれど、なぜか吉備や纏向のような見上げるような高い墓が見つからない。これもひとつの不思議であるが、高い造形物よりも大きい威信財の方に嗜好が向いていたようである。ヘテラルキー社会だった吉備や畿内がまず高さに固執したのは、要するに外見から大陸や筑紫のヒエラルキー社会に追いつきたい願望の凝縮を見る思いがする。筑紫と吉備・畿内では先進技術の格差は200年ばかりあったからだ。
 

ここで魏志倭人伝にある「大いに塚を作る。径百歩」の記事が問題になるだろう。
当時の中国の距離感や長短の計測観念はアバウトであまり当てにはできない。物事や長さを大げさに言うのが漢文史書、軍記の特性でもある。卑弥呼が「以って死す」あとに墓が造られ始めることは間違いなかろう。日の巫女として、彼女は責任をとった形で自害したとすれば、突然の出来事であるし、当時の倭人にはまだ、中国のように死の前から墓を作る風習がなかった考えれば、卑弥呼の死んだ240年代末期に大きな「見上げる様式=仰揚型」の盛り土墓が造られたのだろう。そしてそのような墓はそれまでなかったものと捉えられる。するとこれに見合う弥生墳丘墓ではやはり楯築がふさわしいのだが、編年が早すぎるとなる。箸墓では30年近く遅くなる。さて、あなたならどうする?である。
 
 
 
 
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
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