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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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なぜ九州で特殊器台が出ないか? 吉備説・纏向説最大の欠点

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ここまで、邪馬台国吉備説・ヤマト狗奴国説の整合性を解説してきた。確かに、こう考えてみると、これまでの多くの非整合だったものがつながっていくように感じられた。
 
しかし、吉備説のあるサイトには、邪馬台国の謎を説こうという会合では、雰囲気としてまだまだ吉備説には、ファンが「夢物語」「非現実的」だと考えているようだという実感が述べられている。それは当然である。これまで邪馬台国がどこかに関してはヤマト説と筑紫説がその大多数を占めてきた長い歴史がある。そこへいきなり岡山という近畿ではない、瀬戸内地方の、一般的地方色の知識でもあまり全国的に知られていない・・・せいぜい桃太郎・マスカットの産地・・・岡山が登場したのだから、認知度が低いのは当たり前なのである。しかし、ここまで考古学から考察し、さらに弥生時代東西の社会イデオロギー行動学から考察してみると、一気にすべての謎がつながってゆくのを諸氏も「なるほどそうかも」と感じられたのではなかろうか?少なくとも筆者は、吉備を邪馬台国にし、ヤマトを逆転の発想で狗奴国とするこの説は、これまでのどの説よりも説得力を持っていると感じたので、紹介してきた。もちろん、この着想はこれまでまったく、ほかの吉備説を読まないで独自に「これしかないのでは?」とたどり着いた筆者独自の到達点である。
 
 
さて、するとどうしても納得できないある一点に気がついた。
 
なぜ、北部九州、筑紫には吉備邪馬台国連合体の祭祀の証である吉備型特殊器台・特殊壷が出てこないのだろう?
 
 
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『魏志』倭人伝には伊都国に一大率を置くと書いてあるではないか。
 
「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。 」
 
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。」
 
 
これを見る限り、一大率という監視機関は伊都国にあったと考えられ、少なくとも伊都国のあった範囲からは、弧帯文は無理としても、特殊器台・特殊壷の破片くらい出てきてもおかしくないはず。ところがない。
 
 
それでは特殊器台が持つ弧文という、これまた吉備発祥の絵柄だけでも出てこないか?今のところこれもまったく出土例がなし。
 
 
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楯築の弧帯文石の弧文
 
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纏向石塚古墳の弧文とゴホウラガイ断面の合致
実は弧文の大本は九州の縄文人が宝としたゴホウラガイからだと橋口説は言う
 
 
 
 
 
 
弧帯文から弧文、直弧文への変遷図
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吉備様式遺物の出土地一覧をもう一度確認してみよう。
 
 
●弥生時代
岡山県倉敷市矢部   楯築遺跡2後半~3前半 弧帯文石二組・立坂型特殊器台
島根県出雲市     西谷3号墳丘墓(2世紀末~3初頭) 立坂型特殊器台
奈良県磯城郡田原本町 唐古・鍵遺跡(2~3前)      立坂型特殊器台
大阪府八尾市     瓜生堂(東郷・小阪合・萱振・中田など)遺跡 向木見型特殊器台片
岡山県総社市     宮山遺跡弥生墳丘墓群(3前) 立坂型・宮山型特殊器台 
岡山県岡山市     矢藤治山弥生墳丘墓(3中・前方後円墳か?) 宮山型特殊器台
岡山県総社市     立坂弥生墳丘墓(同上3中)      立坂型特殊器台 
奈良県桜井市     纏向墳丘墓群(石塚・矢塚3中) 宮山型・都月型特殊器台など 
 

●古墳時代
愛媛県今治市大西町  妙見山1号墳 3後~4初  伊予型特殊器台
香川県高松市西春日町 鶴尾神社4号墳(3後~4?)
岡山県岡山市     都月(坂)1号墳(3中)前方後円墳纏向古墳群同時代 都月型円筒埴輪
奈良市桜井町巻向    箸墓古墳(3中)  後円部墳頂付近から宮山型特殊器台・特殊壷。特殊器台型埴輪。特殊器台脚部が「ハ」の字形で吉備では見られない様式。
天理市中山町     中山大塚古墳(3後)      宮山型特殊器台
島根県        仲仙寺 9 号墓
兵庫県        養久山 5 号墓・権現山51号墳 3中 
兵庫県赤穂市     有年原田中墳丘墓(うねはらたなか)千種川域 弥生終末期
 1号墓:円形周溝墓 陸橋部あり、前方部の祖形か。
 2号墓:円形周溝墓
 特殊器台、特殊壺 文様は吉備とは異なり独自性あり
 

大阪府茨木市    紫金山古墳(4前半)     貝輪3ヶに直弧文
岡山県岡山市高松町 千足古墳(5前半?)     石室線刻及び埴輪直弧文
   同       造山古墳(5前半)     石棺(阿蘇凝灰岩灰色石製)線刻
橿原市葛本町     弁天塚古墳  10以上の宮山型特殊器台破片脚部ハの字型
天理市中山町     西殿塚古墳   宮山型特殊器台脚部ハの字型
奈良県御所市室   室宮山古墳(室大墓・4後~5前)楯(靫)形埴輪直弧文・特殊器台
 
 
 
奈良県御所市極楽寺  極楽寺ヒビキ遺跡(5前)     家型埴輪柱直弧文
奈良県広陵町     新山古墳大塚陵墓参考地(5前) 直弧文鏡3枚
大阪府柏原市玉手   安福寺境内横穴群(5末~6初?) 割竹型石棺線刻直弧文
福岡県八女郡広川町  石人山古墳(5前)       家型石棺蓋陽刻直弧文
※滋賀県守山市?   月優部遺跡(?)       鹿角製装具直弧文
福井市足羽上町    足羽山山頂古墳(5後)継体天皇像下古墳 船形石棺直弧文
熊本県天草郡大矢野町 長砂連古墳(5中)       横穴式石室直弧文 
熊本県不知火町    国越古墳(5中)        家型石棺直弧文
    同       鴨籠古墳(5後)        家型石棺直弧文
福岡県久留米市    浦山古墳(5後)        石棺内部直弧文
熊本県上益城郡嘉島町 井寺古墳(5末)        横穴式石室直弧文
大分県竹田市長湯   長湯横穴墓群(6前)      鹿角刀剣装具鞘直弧文
 
 
 
行をあけた部分は特殊器台が衰退して、代わって直弧文が九州でも出現しはじめる古墳時代5世紀以後の、切り替わり時期を示しておいた。
 
だが直弧文は、ベースは弧文であるが、そこに直線の対角線のように×がされる絵柄で、吉備・葛城氏族が畿内で衰退、ないしは滅亡していった時間枠の中の4~5世紀後半の古墳が持っており、弥生時代の絵柄ではない。特に卑弥呼の時代にはまだ存在しない、弧文の中では特殊なデザインである。その×の意味は今後、さらに分析されねばなるまいが、そお多くが畿内や吉備の中心地というよりも、やや離れた地域に与えられ、次第に遠隔地へと向かう。中心地では直弧文が消えてゆくのである。だから邪馬台国時代の絵柄とは、なんらかの異なる意味合いが持たされたマークと考えられる。
 
 
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九州で直弧文が登場した理由は、有明海を中心とした葦北国造氏族が吉備出身だったからにほかならず、つまり多くが九州独特の装飾は持たず、代わりに直弧文を持つと分類できることから、中央ができはじめて、そこから吉備系の官吏が送り込まれたことを意味すると思われる。それならば地方が中央に集約されても独自の墓制を存続したと定義した近藤学説に合致し、長く使われても不思議ではない。
 
 
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前方後円墳は確かに全国に採用されたが、その内部は地方によって勝手気ままな構造で存続したことは間違いがない。それは5世紀までの中央の監視体制がゆるいことを示すのである。スタイルを強制できなかったということになる。
 
 
 
 
さて、特殊器台や弧文が、北部九州の弥生後期から古墳前期についに登場しないということは、いったい、どういうことになるだろう?
 
では魏志の言う、女王国の監視体制や連立体制は、本当に筑紫に及んでいたのかという疑問を生むわけである。
 
筑紫の伊都国は、つまり迎賓港として、「共有」されていたのか、となってしまう。狗奴国もここから使者を送っていたのか・・・と。
 
ということは筑紫の各国の中で、魏志の書いた31ヶ国の全部が本当に女王に従う国々だったかすら疑わしくならないか?それはただ魏志がそう書いただけの希望的観測だったのか。
 
「 始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。
 

 又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。
 

 又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
 

 東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。」
 
そう言われれば、確かにどの国も官名がばらばらである。統一連帯国家なら、官はみなおなじ名前になるはずである。
 
その程度の統一もできないほどの連合だったということだ。どっちに転ぶかわからない明日は敵かもしれない集団である。これはひとつの国家とは言えない。烏合の衆が寄り集まっているだけである。全部が全部、もしかすると明日は狗奴国だ。
 
つまり魏志は、そうしたヒエラルキーが当たり前の大陸国家観念で書いてあるということなのだ。筑紫はその全体が女王に従っていたわけではない、むしろ従ったというより、遅れた瀬戸内集団も快く受け入れてやっていた、その地域とは筑紫の中でも伊都国、奴国といった玄界灘沿岸地だけだったのではなかろうか?しかも、その中でさえ、思いは二分されていたとも思える。
 
 
三国志そのものは魏のあとの西晋の時代に書かれたが、実はその時代、呉はまだ絶滅していない。呉が滅びたのは五胡十六国時代の東晋によってである。だからヤマトも筑紫もまだまだ呉から影響を受けていたわけであり、神獣鏡のような神仙思想の鏡がいつまでも重要視なり得たわけだろう。要するに邪馬台国も狗奴国もない、日本全体がそもそも呉国シンパだったのである。親呉派がしぶしぶ勝ったほうについた、そういう時代なのである。その理由は簡単だ。倭人がそこから来たからである。長江は倭人の故郷だからだ。
 
 
筑紫の主流派イデオロギーでは、ヤマトがひとつになったとしても、従ってはいなかったと見てよいだろう。そういう独自路線はやはり先進地ヒエラルキー社会だったからこそなのであり、ヤマトはいつまでも筑紫に一目置かねばならず、それが爆発してしまうのが6世紀の磐井戦争だったということになろう。だから磐井の戦いはむしろヤマトの罠にはまった筑紫、だまし討ちしたヤマトでとらえるべきだろう。それほど博多湾は重要な港。半島大陸への最短の位置にあり、つまりまるで出雲の国譲りの焼き直しが磐井の敗北だった。
 
 
 
中央集権とか、ヤマト王権などと言っても結局7世紀あたりまで、まだヤマト王権は弱小のいなか政権である。統一国家などとヤマト学者は言いたがるが、それが認められたのは聖徳太子よりもずっとあと。大和朝廷などは所詮、狭い盆地の中の夢想の首都である。よくもまあ千年も存続したものだ。それは井の中のかわずのまま世界から謎の国だったからにほかならない。なんと幕末まで世界に打って出られなかった、小島の小国なのである。朝廷でも国家でもなかった。
 
 
 
 
皇紀4000年?
たったの四千年?
 
 
なのである。
 
 
 
ばっかじゃないの?
 
 
縄文16000年の歴史が続く国が日本。歴史が違う。まだヘテラルキーのままだ。だから集団的自衛権ごときで怯えてしまうんだよ。
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ケルトと縄文

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最後に、たまには視野を広げて海洋民族の歴史を眺めておこう。
 
 
縄文とケルト海洋民の死生観は実にそっくりで、円の思想で形成されている。
かたや縄文は環状列石や環状集落を持ち多神教崇拝、さらに弥生の古墳も縄文的な柄鏡型で渦巻きを生命の再生模様とした。
 
かたやケルトはストーンヘンジやニューグレンジなどの円形墓地を持ち、古墳にそっくりの羨道・石室を持ち、多神教で、これまた渦巻きを再生の絵柄とした。
 
そっくりじゃないか・・・そいう人は多いが、東西に分かたれたその中間地域に類似の文化がなく、まったく隔絶した場所に登場する。世界の端と端である。
 
 
 
いったい、偶然の一致なのか?
 
 
「他の鉄器時代のヨーロッパの民族と同じく、初期のケルト人は多神教の神話・宗教構造を持っていた。ケルト神話は古代ローマと密接な接触を持ったケルト民族、たとえばガリア人ケルトイベリア人などの間では、ローマ帝国による征服とキリスト教への改宗のため生き残ることができず、かれらの神話はほぼローマやキリスト教側の同時代史料を通じてのみ今に伝えられている。他方で政治的、言語的アイデンティティを維持することができた民族(ゲール人ピクト人大ブリテン島アイルランドブリトン人)は祖先の神話の名残りを今に残すことができたが、文字に書き記されたのは中世に入ってからであった。」
Wikiケルト神話より
 
 
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なにからなにまで、スケールが違うだけでそっくりなのである。
 
 
 
 
そしてヘテラルキー社会ということでも一致する。
 
 
上のケルトデザインの中に、日本の弧文・弧帯文にもそっくりなものすらある。
 
 
 
つまりおなじ死生観を持っている。
 
 
それが偶然なのか、あるいはつながっていたのかは、これからも最高の刺激をぼくに与え続けることだろう。
 
 
必ず、人がつないだ痕跡があるはずだ。中東・インドから南米までの道のり、海の道にそれはいつか必ず発見され、つながらぬミッシング・リングはやがて美しい円弧を地球儀に描くことだろう。それまでぼくは探求をやめられない。
 
 
もちろんその輪は、物質・遺跡からではなく、人間の心理の不思議な一致から解明されたとしてもぼくは一向にかまわない。謎は解くためにあり、これほどわくわくする刺激は、ほかにはないのだから。
 
 
 
 
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[転載]ケルズの書 ケルトの死生観と縄文死生観

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ユーラシアの美術交流 ケルトから視る

鶴岡真弓・立命館大学文学部教授
図1 『ケルズの書』
頭文字Tの怪獣
 九世紀のアイルランドの『ケルズの書』を書いた修道士がつくったTという文字に合体している動物は、その人たちが動物というのはこうであると「観念した」形象でありましょう。九世紀の立派なキリスト教の時代になっても、こういうものを描き続けている。キリスト教では龍みたいなものやヘビみたいなものはご法度ですから、普通だったら描けない。だけどこれをやはり描いてしまう。『ケルズの書』は立派な修道士の記念として、典礼用の写本として、ケルズの修道院に九世紀のときにあったわけです。
 
 Tというのは、キリストが逮捕されるときの非常に重要な頭文字ですが、それを描かなければならないと考えているその人の頭の中には、こういう動物をイメージする文化的な観念が強烈にあった。
 さて、ケルト美術は、金工、石、羊皮紙の三つのマテリアル(素材)の中でパラレルに展開しました。キリスト教時代、五世紀から九世紀の最盛期、渦巻など、キリスト教が入ってくる以前のケルト的な文様美術が表現されました。その一番の輝きとして、さっきから出ている『ケルズの書』というのが、八〇〇年ごろにケルズの修道院で完成しました。
 
 『ケルズの書』はダブリン大学のトリニティ・カレッジ、『ガリバー旅行記』を書いたジョナサン・スイフトやオスカー・ワイルドが卒業した大学のトリニティカレッジにあります。三四〇葉、六八〇ページぐらい現存していますが、その中にさきほどのケルト文様と言われるものがたくさん描かれています。
 
 その文様のディテールを今ごらんいただきます。動物と文字が組み合わされたり、鳥の文様などたくさんの動物系文様が表されました。動物の足であるとか、あるいはくねらせた体躯であるとか、くちばしだとか、アーモンド型の目であるとか――関節のところを強調した渦巻、非常にデモーニッシュな湾曲の体躯、写実を超えた鋭い湾曲のくちばし、ドロップ型の目――そういうものがキリスト教の図像の影に隠れて、異教時代のケルティックなものがディテールにでてきます。そういうものは全部歴史的に異教時代のケルト美術にありました。
 
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 動物だけではなくて、人間が組紐化しているという、非常に奇妙な、キッチュな、ちょっと笑ってしまうような、そういうものもあります。

 キリスト教の信者たちにとっては非常に重要なキリスト像のページのアーチのところにも、キリスト教が禁じた怪獣、ヘビ様やドラゴン様の動物が描かれています。描かれたのは八〇〇年で、キリスト教が入ってきて四〇〇年もたったときです。

 これは一体何なのか。動物文様や動物イメージに対する非常に強い何かがあるはずだということなんです。
 ではもう一度ケルト文様の構造を確認してみましょう。図をごらんください。ケルトの文様に対する意識、つまりケルトは文様を描くことによって世界像を描いている、語っているということがわかると思います。
 
図3 ケルティック・スパイラル 
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図2 ケルティック・インターレース
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http://www.wako.ac.jp/souken/touzai02/tz0204.html
 
 
 
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最近の筆者は「中国の魏志が倭人と呼んだ弥生時代日本人は、実は縄文時代から列島に存在した南方系縄文人=海人族であった」をいかに証明するかに集中している。
そのために重要なヒントになるのが古墳時代に直弧文へと変遷した弧文・弧帯文という絵柄・文様なのである。
その岡山の盾築墳丘墓や纏向遺跡から出た文様は、日本のオリジナルデザインであると、これまで考えてきた。
しかし立命館大学の鶴岡真弓女史は、ひとり敢然としてそれをケルトの伝統文様との共通性で語るのだ。
 
以前、ホラガイを模造した縄文後期の貝殻土器を紹介した。あ胴体には隆帯文という帯のような、組みひものような隆起がからみあう意匠が彫ってある。
 
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友人の蕨手氏はこれを一目見たとき「直弧文ではないのか?」と直感し、筆者にそう連絡してきた。
 
今はあれは直弧文というよりも弧帯文であると考えている。
直弧文は弧文・弧帯文を分断する×マークが大きく描かれるからだ。
 
この縄文後期のツボもよく似た文様が刻まれていた。
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われわれがよく知っている野生的な縄文土器からは一躍洗練された作品で、現代でも一級の骨董品だといっても気付かないほどの変身である。
 
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纒向出土弧文円板
 
弧文も弧帯文も直弧文も共通するのはみなそれが死と生の渦を巻くような、文学的に言うならば、めくるめく、からみあい、切れ目なき永遠の生を表現しているといことだ。
 
それがケルト人が9世紀に福音書書写した『ケルズの書』に描かれている。欧州に長く留学してきた鶴岡女史はそう見たのである。慧眼である。このブログで筆者も同じことを感じ書いてきたつもりだ。
 
さて、もう一度ケルズの書の絵柄を見てもらおう。
 
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 全体像はスキタイやインドヒンドゥの「ウロボロスの蛇」に似て、鳥の様であり、龍の様であり、ドラゴンのようでもある。鱗部分には連環の象徴であるくさりが描かれ、首がぐるりとなって顔がある。
 
まずこの絵柄がキリストのT字十字架=アンクをモチーフにして描かれたのならば、当然キリストの復活がメインテーマになったはずで、中心にはちゃんと生と死=再生を象徴する赤と青の帯文の曲線が描かれている。
 
赤と青は生と死であり、動脈と静脈であり、医学の象徴である。
欧州からやってきた床屋の回転サインである赤と青がめくるめく看板も、床屋=医者だった時代の治癒と再生の象徴である。
 
そして目がいくつかあるが、その形状は魂の形状で、誕生を表す。
Tのぐるりと曲がった放物線は渦巻いて、胴体は生命の連環を示す鎖でつながっている、まるでDNAのようである。象の鼻のように長いのはこれが男根を表すからだ。その先っぽから目のある魂が生まれ出ている。まるでかえる文縄文土器を横から平面にしたのと同じ構図である。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
もし弧文や直弧文の源流が東北の縄文時代後期にすでにあったとするならばだが、それを東北へ持ち込んだのがまず南海の倭人・・・つまり貝の道を開拓中の南九州海人族であることは間違いない。貝の道はやがてコメの道にもなった。縄文インディカ米は青森まで一気に北上したのである。これらはみな舟だからこそ早く移動できた。海洋民族が東北の縄文世界にまでものを運んだのである。
 
それが鶴岡真弓が言うように、ケルトから来た海洋民族という源流をもっていたとしたら、地球的移動になってしまう。ここは今のところは世界的死生観の一致として置いておくしか仕方がない。
 
しかし十分にありえる話であるし、ずいぶん、古代史が楽しく、スケールのでっかいものになることは間違いない。
 
 
縄文人こそが日本人の源流である。それは今の日本人の遺伝子の割合で南方系が少ないとか、縄文的要素が渡来系に飲み込まれてとかいう問題ではない。生物的形質などではなく、縄文的観念すべてが継続されたという驚異的オーパーツであることなのだ。
 
その後の倭人もまた海人族であることは間違いがない。するとそれが作った国家もまた倭人の国家であり。海人系南方縄文人が王だったことになる。もちろんそういう国家が内陸部にあるはずがなくなってしまう。やまたいなんとかいう国もそうなのだ。
 
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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

沈んだ島

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沈んだ島
 ずっとむかし、今は島ひとつない別府湾[べっぷわん]には、多くの島々がうかんでいたという。
 
  瓜生[うりゅう]島は、それらの島の中でもっとも大きな島であった。東は今の萩原[はぎわら]の沖[おき]から西は白木[しらき]の沖まで、今の長さにして東西でおよそ四キロメートル、南北二キロメートルあまりの大きさだった。もちろん人も住んでいた。島には一つの町と十二の村があり、およそ千戸[こ]の家があったといわれる。大友[おおとも]氏の時代には、日本国内だけでなく、遠く外国からもいろいろな物をもった人たちが、船でこの瓜生[うりゅう]島に乗りつけてきたそうだ。島の中心は、大分[おおいた]がわにある沖の浜[はま]町で、島をとりしきる島長[しまおさ]の幸松勝忠[ゆきまつかつただ]の館[やかた]を中心にひろがり、島にしてはにぎわいをみせていた。島にはお寺やお宮も多かった。威徳[いとく]寺、阿含[あらん]寺、住吉[すみよし]神社、管[すが]神社、蛭子[えびす]社[やしろ]などである。
 
  そんなにぎわいをみせていた島が、どうしてなくなったのだろうか。
 瓜生[うりゅう]島には、ずっとむかしから言い伝[つた]えられていることがあった。
 「こん(この)島に住むもんは、言うことをよう聞いち、なかようせんといかん。なかたがいをするもんがあったら、島じゅうん神さまやら仏さまんばちがあたってしまう。そんばちというんは、こん島が海ん中に沈[しず]んでしまうんじゃ。そんときは、えびすさまんお社[やしろ]ん、あん木ぼりんえびすさまん顔がまっかになるちゅうことじゃ。えびすさまん顔がまっかになったときは、こん島が沈んでしまうときぞ。」
 
  この言い伝[つた]えは、島の人たちによって、親から子へ、子から孫[まご]へと言い伝えられていった。そして島の人たちは、この言い伝えを信[しん]じて守ってきた。
 
 おとな同士[どうし]のはげしいあらそいごとも、
 「そげな(そんな)ことをすると、えびすさまん顔があこう(赤く)なるぞ。こん島が沈んでしもうてもいいんか。」
というひと言でおさまっていた。
 島はのどかな日がつづいていた。ところが、そんな島の言い伝えを、
 「なあに、今ごろそげな(そのような)ばかなことがあるもんか。そげなことは迷信[めいしん]にきまっちょる。」
と、信じない人もいた。そのひとりに、加藤良斉[かとうりょうさい]という男がいた。良斉は、島に住む医者であった。
 「なんぼ神さま、仏さまちゅうても、こん島を沈めてしまうなんちゅうことがでくる(できる)はずがねえ。こりゃあ迷信にきまっちょる。ほんとうかうそか、わしがためしてみちゃるわい。」
 良斉は、島の人たちにこう話してまわった。島の人たちはあわてて、
 「良斉さま、なんちゅうことを言いなさるか。お医者さまともあろうあなたさまが、そげなことを言うて、とんでもねえことでございますぞ。」
と止めた。
 
  しかし、ある晩[ばん]、良斉は、こっそりとえびすさまのお社にしのびこんでいった。
 「ふん、これが迷信の主[ぬし]か。こん顔があこうなると、こん島が沈[しず]むというんじゃな。ようし、これからためしてみちゃる。沈ませきるなら沈ませてみるがいい。」
 
 良斉は、木ぼりのえびすさまの顔を、べにがらでまっかにぬりつぶしていった。そしてにやにやと笑いながら、何くわぬ顔をして家に帰っていった。
 次の朝、島は大さわぎになった。

 「たいへんじゃ、たいへんじゃあ。えびすさまん顔がまっかになっちょるぞうっ。」
 「おおごとじゃあ、島が沈んでしまうぞうっ。」
 「島が沈むぞうっ。」
 島じゅう、どこにいっても島が沈む話ばかりであった。気の早い人は荷物[にもつ]をまとめ、あわてて島から出ていった。
 ところが、一日たっても島には何もおこらなかった。二日目がくれた。島は少しも沈みはしなかった。
 
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 そして次の日、次の日、また次の日・・・。
 十日たっても、島には何のかわりもなかった。
 島からぬけ出していった人たちは、また島に帰ってきた。
 「ほうら、いわんこっちゃねえ。やっぱあ(やっぱり)迷信じゃあ。なんでえびすさまん顔があこうなったら、島が沈まなならんのか。あれあれ、あわてもんのじょうがもどってきよる。」
と、良斉[りょうさい]はとくいであった。けれども、島の人たちはやはり気がかりでならなかった。

 「たいへんなことをしてくれたもんじゃ。おおごとがおこらにゃいいがのう。こんまんま(このまま)すんでくるりゃあいいけんど・・・。」
と、会う人ごとにことばをかわしあった。
 慶長[けいちょう]元年(一五九六年)の六月ごろ、島がゆれた。島の人たちはふるえあがった。

 「やっぱあほんとうじゃ。こん地鳴[じな]りは、神さまやら仏[ほとけ]さまんいかりん(いかりの)前ぶりじゃあ。」
 「島が沈むちゅうのはほんとうじゃ。良斉は、とんでんねえ(とんでもない)ことをしちくれた。」
 ふたたび島をぬけ出して、今の南大分[みなみおおいた]の方までにげ出す人が多くなった。
 
 七月に入っても地鳴りはつづいた。一日に三度、四度とゆれるようになった。けれども、一日じゅうゆれつづけるわけでもないし、住みなれた土地はなかなかはなれられないもので、島にはまだ多くの人たちが残っていた。
 良斉は、地鳴りのたびにびくびくしながらも、ゆれがおさまると、
 「ふん、何をびくびくしちよる。言い伝えは言い伝えじゃ。迷信にきまっちょる。」
と、ひとり強がっていた。
 
  十二日の昼すぎ、島は大ゆれにゆれた。石がきがこわれた。家がたおれた。大きなマツの木が根っこからたおれた。日ごろしずかな海が大あれにあれだした。はるか大分[おおいた]の町もゆれていた。そればかりではなかった。別府[べっぷ]の町の後ろに雄々[ゆうゆう]とそびえていた木綿[ゆふ]山(由布[ゆふ]岳)、御宝[おたから]山(鶴見[つるみ]岳)もあれていた。大空にさかんに火をふき上げていた。高崎[たかざき]山も同じだ。大きな山くずれをおこし、美しいすがたは消えていた。
 島はゆれつづけた。たてに、横にゆれつづけた。
 島の人たちは、あわてにあわてた。荷物[にもつ]をまとめることもできないで、あっちに走り、こっちに走ってにげまわった。島はどこも同じであった。でも今はもう船[ふね]も出せない。
 ところが夕方近く、あの大ゆれがうそのようにしずまった。島の人たちは、べったりと腰[こし]を落とし、もう口をきく元気さえなかった。
 その時である。白い馬が島じゅうを走りまわった。その白い馬には、ひとりの老人[ろうじん]がまたがっていた。
 「島が沈[しず]むぞう。瓜生[うりゅう]島は沈んでしまうぞう。はようにげろう。はよう陸[りく]ににげろう。」
 老人は、白い馬の背[せ]から大きな声でさけんでまわった。
 
  島の人たちは思わず立ち上がり、われ先にと船にとび乗った。大分の町をめざすものもあった。日出[ひじ]の町をめざすものもあった。その間にも、またはげしいゆれがきた。そして海がわれるような音で鳴りはじめた。潮[しお]がぐんぐん引いていった。この後には何がおこるのか。津波[つなみ]しかない。船に乗れなかった人たちは、干[ひ]上がった海を萩原[はぎわら]をめざして走った。
 やがて、老人の言ったとおり、前よりもはげしい地鳴[じな]りが島じゅうをおそった。大津波[おおつなみ]が別府湾[べっぷわん]の中をあばれまわった。
 夜が明けたとき、別府湾には島がなかった。瓜生[うりゅう]島だけではない。大久光[おおひさみつ]島も小久光[こひさみつ]島も、どんな小さな島かげもみあたらなかった。ただ朝の光をうけたどす黒い波が、どこまでもどこまでも続いていた。
 こうして、瓜生島はしずんでいった。けれども、大分市勢家には瓜生島にあった威徳[いとく]寺が建てられ、そこには仏像[ぶつぞう]や宝物[たからもの]がまつられている。また、二代目[にだいめ]にはなるが、瓜生島にあったマツもしげっている。

 (編著者 大分県小学校教育研究会国語部会) 
(出版権者 株式会社日本標準)

さて、この典型的仏教説話じゃが、あんたァ、大人としてどう思うな?

 
 
 
 
 


 
 
瓜生島とじぞうさま
 
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さあ、あんたはどう思った?
 
 
 
わしゃあ、言い伝えとは正反対のことを思うたことなんじゃ。当時の人々は何を悪としていましたか?これらの説話は今でも通用しますか?
 
 
 
 
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円の思想のミッシングリングを読み解く

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人類が一神教崇拝から教義宗教にたどり着く前、この世界は精霊信仰という原始信仰・多神教に満ち溢れていた。北欧も、東アジアも、アメリカ原住民もみな、アフリカやボルネオやインドシナやインドの古代霊魂を崇拝していた。
 
日本の新石器時代も例外ではない。
 
アムール・サハリンのナーナイ族(中国少数民族の名はホジェン族)には、長江のミャオ族と同じ「射日神話・太陽信仰」が永続しているが、民族学の荻原真子の研究では、北東アジアのこの地域に共通しているとされ、それらは長江文明の拡散した5000年前の影響だと考えられている。長江文明人が気候寒冷化によって南下した黄河文明畑作民族によって四散し、東西南北へ広がったとき、チベットやベトナム方面だけへではなく、朝鮮半島などから船出して、日本海から日本列島を北上したもの、あるいは陸路北上して、アムール川河口部からサハリンや北方四島方面、北海道、東北へと南下したもの、ベーリング海峡を渡ったものがいたとすれば、そのアジアの南北でよく似た精霊信仰や太陽信仰、さらには戌亥の隅を鬼門とする日本の神道のルーツをそこに求めるのは、アジア民族として整合的であろう。
 
 
それを考古学的に語るならば、まさに「 玦状耳飾(けつじょうみみかざり)」が最適な遺物であることはこれまでに何度かここに書いてきた。
 
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縄文時代早期終末から前期(BC8000年頃~BC4500年頃)にかけて出現するこのイヤリングは一本の金属・ヒスイ・動物骨やツノなどの管を円形に曲げただけの耳輪であるが、装着するには耳たぶに大きな穴をうがつ必要があり、かなり「痛いアクセサリー」だったわけだが、それでもアジアの相当広い範囲の海岸部で出土することから、古代人たちは男女問わず、巫者たちがこれを好み、そこに魔よけ、呪性を見出していたことは間違いなく、それが耳穴の痛みを凌駕して余りある重要な品だったことも間違いがない。

装身具は、縄文時代においても弥生・古墳時代に於いても、世界共通で呪者シャーマンたちの必需品であり、その共通性は円環形であることだ。甕棺から大量の腕輪をつけて出る遺体の、その腕輪にも耳飾同様の「円の魔よけの力」や憑依の道具としての意味合いがあった。
 
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現代になっても女性たちが欲するそうした装身具の始まりは、シャーマンの憑依から始まり、つまり女性は今でも輪が持つ呪力のとりこのままなのだと言っても過言ではない。それこそは古代ヘテラルキー社会の象徴であり、ヒエラルキー社会では権威・裕福の象徴なのもある。だからと言って現代女性が古代人のようにいまだ魔物を信じ、憑依したりを好むとか、原始的だとか言うのではなく、現代ヒエラルキー階級社会に於いては、かつての呪具が、美や権威や裕福さの象徴と変化したのであり、決して古代のままの必要性から引き続いてきた嗜好品ではないのである。
そしてこの貴金属装身具の新たな希求こそは、経済を動かし、世界のすべての価値観を決めてしまうとも言えるわけである。
 
円の思想の残照が、いまだに世界中に残存することが、世界の東西の果てに隔絶された縄文世界とケルト世界の類似をつなぐ真の理由である。そもそも全世界の人類はそうした共通する嗜好性を持っていて、それが中世には教義宗教によって分断された結果、地球上に飛び地のように残った、と考えるほうが、合理的である。「なぜ?同じものが、同じ文化が?それはありえないはずの神秘的オーパーツ」だと考えると、それらは単なるミステリーとして永遠の謎になることだろう。想像の翼を広げているだけならそれはそれでいくつもの夢や童話や推理小説を生み出すだろうが、答えはいつまで経っても抽象的な空想で終わってしまう。

ミッシングリングという謎の円環とは、つまり理論宗教であるキリスト教や仏教が切断してしまった中で、奇跡的に部分的古代社会に残された。それが飛び地のように遺跡・遺物・民俗的な祭りなどに居残ったのである。
 
 
 
 
 
そして中世から近世にかけて、科学や客観が民間世界や宗教世界の迷信勧善懲悪主義によって悪魔とされたきた細大の理由もまた、ここにあるのである。超常現象にせよ魔女にせよ、そこには必ず整合な理由がある。キリストが迫害された理由と、それはまったく同じである。
 
 
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南ヨーロッパとインドの一部、華北、イスラム以外のほとんどが古代社会を存続させる。世界宗教が精霊信仰をつぶし、転向させていく現代社会と気がつくはず。つまり飛び地での文化風習類似はむしろ当たり前のことなのだ。われわれはキリスト教迫害主義に始まった西欧科学にだまされている。
 
 
 
 
 
 
多神教、原始信仰社会が、新しい信仰によって迫害され、差別されのと同様、少数民族のすべては「陸封」されて残った。日本人もそういうヤマメ種族なのである。
その原因のひとつに鎖国がある。
 
 
 
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三角縁神獣鏡の編年と卑弥呼の鏡問題・笠松文は黄幢か?

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岸本直文による三角縁神獣鏡編年の一案
 
 
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北條芳隆・一瀬和夫・福永伸哉編『古墳時代の考古学4 副葬品の型式と編年』2011より 1金属製品の型式学的研究 岸本直史「②三角縁神獣鏡と前期古墳」より編集
 
 
 
 
 
岸本によれば三角縁神獣鏡のデザインは、これまで言われてきたような画像鏡的要素も多々あるものの、画文帯神獣鏡諸形式を改変したものが主流であると言う。岸本や福永の編年はあくまでも一案ではあるが、これまで大阪府の安満宮山古墳の五面の鏡のうち、青龍鏡から類推して、「三角縁神獣鏡を魏鏡(中国製)とし、卑弥呼の遣使時に、一括して、同時に製作され、下賜されたとする説にとって「有力証拠の一つ」であると言う(岸本直文「卑弥呼の鏡の可能性強まる」『京都新聞』8月8日付)。しかし、それが最終判断として正解かは、筆者は否定も肯定もしない。そもそも考古学がそういう断定をするべき学問だとは考えていない。
 
 
 
いずれにせよ三角縁神獣鏡にはさまざまな絵柄やデザインがあることは、すでにここにも書いたことであり、ではそれを時代を追って編年した資料を筆者が常々探していたことは事実である。たまたまそのひとつに当たったので、利用させていただこう。
 
 
 
三角縁神獣鏡の意匠のうち、邪馬台国の位置問題にとって最も重要なのは、卑弥呼が生きて、そして墓に入れられるまでの3世紀に該当する絵柄がある銅鏡であることは言うまでもない。つまりその絵柄で最古期に当たる3世紀中ごろ、できれば卑弥呼の死直後のものこそが「卑弥呼の鏡」ではないかと類推するのはあながち間違いではないだろう。
 
 
するとその時期の絵柄とは、上の図にもあるが、最古期・古段階にまたがって採用されている「傘(笠)松文」ということになるだろう。以前、笠松文とは吉備の象徴ではないかとか、卑弥呼が魏から檄としてもらった黄幢(こうどう)というものの形ではないかと書いたことがある。
 
 
 
 
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▲朝鮮・安岳3号墳主壁画
奥野正男『考古学から見た邪馬台国の東遷』
(毎日新聞社1982年)より引用
 
黄幢の形状は三段式のキヌガサ状のものが朝鮮の壁画にも描かれており、日本の装飾古墳や船形埴輪などのキヌガサの原型のひとつになるかとも見える。
 
「笠松」という命名は、このさい、あまりふさわしくなくなったようにも思え、どうもやはりこれは黄幢であろう。
 
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岸本の別の作図にある笠松文の立体画像でも、その形状はどうみても旗物のようになっている。
 
 
 
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さて、その今は笠松模様とされている絵柄のある最も古い様式の鏡が出た場所の一覧である。これは筆者が拾い上げたもので、完全かどうかはわからない。
 
 
「笠松文」のある三角縁神獣鏡出土地一覧
●福岡県
香住ケ丘古墳(福岡市東区) 4後半・円墳   獣帯二神二獣鏡 
御陵(韓人池)古墳(大野城市)4後半~5前 三角縁四神四獣鏡 
原口古墳 (筑紫市武蔵)4前半?・円墳  三角縁三神三3獣鏡2(椿井・赤塚と同氾 )
●京都府
椿井大塚山古墳 3後半・纏向型 獣帯二神二獣鏡
●奈良県
黒塚古墳 8号鏡(直径22.3cm)三角縁神人竜虎鏡
鏡作坐天照御魂神社(田原本町)所蔵 唐草文帯三神二獣鏡
●大阪府
国分神社(大阪府)蔵 徐州・洛陽鏡
●山口県
宮ノ州古墳 4後半 半円方形帯同向式神獣鏡
●静岡県
 上平川大塚古墳 4後半 獣帯同向式神獣鏡
●愛知県
 東之宮古墳  3後半~4前半   唐草文帯三神二獣鏡 
●静岡県
新豊院山2号墳   4後半?・纏向型 銘帯四神四獣鏡 
●岡山県
伝・鶴山丸山古墳 4後半・円墳  唐草文帯二神二獣鏡
●大分県
赤塚古墳   4後半・柄鏡型 唐草文帯二神二獣鏡
●福井県
花野谷古墳  4前半 天王・日 月獣文帯四神四獣鏡
 
1 笠松文のある鏡が出た古墳は、遡っても3世紀後半を遡らない。
2 つまり卑弥呼の死よりもあとに築造された古墳である。
 
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赤塚古墳出土鏡の笠松文
 
 
 
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鏡作神社ご神体の鏡の笠松文
 
 
 
 
もしこの笠松文が黄幢で、それが三角縁神獣鏡の最古の絵柄であるならば、想定できるのは、卑弥呼がもらった黄幢のデザインが、ある意味、ほかの神仙思想の絵柄の神獣たち同様に、鏡に採用されたものを邪馬台国の女王が欲した「好物」だったのかも・・・と考えてみるのもなかなか刺激的である。
 
 
笠松がブームとなって、卑弥呼死後もしばらく愛用されたとも考えうる。もちろんそれが魏からもらった鏡だとはまだ言うわけにはいかない。三角縁神獣鏡そのものの最古の時代が、3世紀後半を遡らないのだからだ。もしそう断定したければ、3世紀半ば築造という箸墓や纏向石塚などの前方後円墳型の墳丘墓から出てこなければなるまい。そういう意味で纏向の黒塚古墳で1989年ころ再確認された8号鏡は重要である。黒塚の石室石槨外側のスポットには、あのU字型のパイプが置かれており、それはもしや組み合わせればちょうど黄幢になるかも知れない遺物だからだ。これもすでにだいぶん前にここに書いた。
 
しかしU字型鉄製品の判別結果がどうなっているのか、筆者はまったく知らない。
 
 
 では本場の中国には笠松文のある銅鏡はあるだろうか?
最近、中国でも三角縁神獣鏡が見つかったという説が多々出てきている。
しかし今の中国の情報はなかなかにわかには信じがたいという人も多い。
 
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大阪の国分神社に徐州・洛陽鏡があるが、あくまでもそれは伝承なので、本当に中国のものかはわからない。ご神体では鉛同位体分析も無理かも知れないが。
 
 
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一番下が笠松文のある中国鏡??
 
 
松木武彦の言うように、近畿の弥生時代が、縄文のヘテラルキー社会で、ケルトの海洋民たちと同じように移動を主とする狩猟民族であったならば、弥生近畿人のダイナミックな行動力が、中国と直接の考証していた結果で、縄文的な邪馬台国世界に早くから持ち込まれていたなんてこともありはしないかと妄想してしまうが。。。(ブリトンのケルトを今模索しているが、茫洋として広すぎ手がかりが見つからないまま。それにケルトは遡っても縄文ほど古くないのだ。せいぜい紀元前3000年を起原とするようである。)

 
 
 
笠松文が吉備の古墳から出たのは4世紀後半の古墳からで、これまで楯築などの弥生時代末期~古墳時代初期の墓から出てこないのは、邪馬台国吉備説にとっては大きな欠落である。吉備の墳丘墓からは弧帯文や特殊器台や東海系出雲系土器は十二分に出ていても、鏡がほとんど見つかっていないのである。
 
 
 
三角縁神獣鏡の笠松文のある形式の鏡が、果たして卑弥呼とまったく同時代の鏡かどうかは、今のところ不明のままで、どうもやはり「どうしても箸墓」を暴かねば解決しそうにない。ひとえに宮内庁の好意を待つしかない。
 
 
いずれにせよ、黒塚古墳の被葬者がいよいよ邪馬台国にとって重要な墓になったことは間違いないだろう。この被葬者の頭部に立ててあった鏡は、まさに三角縁のモデルだと岸本が言う、画文帯神獣鏡なのである。そしてあの椿井大塚山古墳でもこの鏡が頭部にたった一枚置かれていた。あとの神獣鏡は十把ひとからげ状態だったことは黒塚と同じである。
 
 
 
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つまり・・・3世紀後半~4世紀前半の最重要だった鏡は画文帯であり、三角縁は当初、その絵柄をちりばめた中に、笠松も描かれた鏡だということである。
 
 
 
笠松文のある神獣鏡を、魏がわざわざ卑弥呼のために作った、あるいは呉工人に作らせたという説が最近復活している。しかし、それならばその鋳型が華北や朝鮮半島から、いやそれが無理でも国内の近畿で出てくるべきである。楽浪でもいい。このようにこの説にはまだ欠けている証拠がある。箸墓と鋳型である。
 
 
考古学の発掘は探せばすぐ見つかるものではない。夢は夢。長い時間と人の地道な苦労とそして偶然が、奇跡を起こしてきた。できるなら、笠松鏡や金印や封蝋や女性遺体が、箸墓から一緒に出てきたら、話はどんなに簡単だろう。けれど箸墓は目の前にどんとあるのに、掘れない。こんなジレンマがほかにあるだろうか。
 
 
時間だけがそれを解決する。考古学の奮闘を待つしかない。ぼくたちが死ぬまでにそれはなしえないのだろう。残念だが、歴史は悠久の積み重ね。人びとの願いは連環した願いをつなぐ卑弥呼の首飾りのように永遠のいのちをつないである。
 
 
待つしかない。
 
 
 
箸墓が掘れたらいいねえ、自分の手で!!
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考古学常識の嘘・発掘の将来

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以前、松木武彦のヤマト縄文ヘテラルキー社会論の紹介のおりに、これまでの歴史学や考古学は、「歴史は繰り返さない」と思い込まれてきたことをあわせて書いておいた。
 
戦後歴史学は、「変化が歴史」「発展は一方方向へ向かう」「人類史は進化へ向かうだけ」だと考えられてきたという話である。松木と同じことを広瀬和雄も警告している。
 
旧跡時代同様、縄文時代もまた、このあいだまでほとんど変化しないとも考えられてきたが、実際の発掘からは、縄文の前半と後半、中期~後期はそれまでとはまったく土器や道具は様変わりしていくし、特に後期には栽培も開始され、常識はどんどん様変わりしている。大きな側面では人類の歴史は確かに前に向かって進化している。しかし進化や変化だけが歴史だという一元的な論理では、これまでと今とどう違うのか?ばかりに目が行き、その要因の解説にばかり重点が置かれ、「同じ」の側面は軽視されがちだった。
 
もちろん前と今との「同じ」ところも、実際には変わってはいるのではあるが、古墳時代の前期と中期ではどう歴史意義が違うかとか、縄文土器の変遷編年、場所移動にはどんな意味があるかなどはほとんどのしろうと好事家は知らないままである。マスコミ等で特に顕著に三角縁神獣鏡とひとくくりで語られて、「卑弥呼の鏡」などともてはやされるが、では卑弥呼の時代の三角縁はどれかと聞かれて、答えられない記者ばかりが記事をスクープにするために、書きなぐっている。それを見たり読んだりしたギャラリーは、一瞬で「そうか」と覆いこむことになる。
 
(だから考古学が歴史研究の決め付けの発信源にならぬようにしなくてはならない。テレビは特に、古代史に関して恣意的無意識の嘘や推測にあまりに光をあてすぎてはならず、視聴者は話半分で視る必要がある。)
 
 
変化のすべてが発展とは限らない。
それは停滞だったり、退化だったりもする。それが普通の人類史である。なかなかそうは考えられない人も多い。敗北者は二度と復活しないと考えられ、考証から捨てられる(「間違った断捨利」は実生活でもままある。捨てるものを間違うと、もうたどり着けなくなる。判断力がないひとの掃除である)。ところがその氏族が決して絶滅しておらず、知らぬ間に復活していることなど史書にはいくらでもある。日本史・東洋史ではそれが顕著である。チェスと将棋の違いに「手駒」があるが、死んだはずの敵の駒が、将棋では見方として活躍する。それこそがヘテラルキーならではのゲーム感覚である。
 
 
 
同様に、考古学もまた、戦後の高度成長による国土開発=日本列島改造の波の中で、偶然の、民間の開発による発掘チャンスの恩恵を受けてきたなど、あまり言う人はいない。考古学者の中には、ほんのこないだまで、「土木事業はまず考古学の許可をもらえ」と豪語してものさえいた。言うべきは正反対で、考古学は土木事業による開発で偶然見つかった遺跡や遺物を掘りあさってきたことを忘れているのである。金が動くはずもない考古学のためにあたかも歴史が動くという錯覚である。
 
大半の発掘は高速道の建設や、偶発的土木事業の掘り当てたものばかりであることを忘れてきた。そのために民主党政府以後予算がけづられ、箱物整備され、自民党政府になっても最盛期のようには復活していない土木事業の減少は、そのまま昨今の発掘激減に直結したままである。国土事業と発掘と、国や国民が本当に欲しているか、考えれば小学生でもわかるはずなのにだ。
 
 
さら、その成長期の湯水のような発掘は、研究者を遺物の山に埋もれさせるという皮肉を引き起こす。
 
「これまでの多くの日本考古学の研究は、できるかぎりの情報を集積し、それから帰納して推論を抽出する方法をとってきた。それが日本考古学の特質ともなり、優れた成果を生むとともに、資料の収集、データの集積を考古学の一目標とみなしかねない、悪しき側面形成することにもなった。しかし多量の情報の洪水は、帰納的研究法の困難な状況にたちいたらしめるであろう」田中琢 1986
 
 
資料の整理が考古学だという学者は山ほどいる。しかし、その資料に埋もれて、ただのブルーカラーになってしまっているものを研究者とは言いがたい。そこから対極的な「違う」「同じ」を見つけ出し、歴史に結び付けていく大局的な「論」が生まれねば学問でなくただの土木作業になりかねない。海外でそれをしていてもあまり問題にはならない。海外の考古学者は「考える」からだ。しかし日本人はもともと、やりはじめるととことんそれに徹してしまうところがあり、資料整理などは特にはまりこんでしまう。だから精度は確かに高く、信憑性も群を抜くが、それがかえって歴史を知るためのノウハウの一部に過ぎないことを忘れているというわけだ。
 
 
 
 
 
簡単な古代史の常識で言えば、日本国民は大半が、「卑弥呼は弥生人」だと思い込んでいることではなかろうか?
 
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「あたしゃあ、こんな扁平北方アジア人じゃないよ。もっとエキゾチックな外人顔の美人だったよ!」卑弥呼像などは作られたイメージに過ぎない。虚像である。
 
 
 
筆者は古代史を広く読み進めていくほどに、弥生人とは渡来人だけではなく、当然、先住していた縄文人も、弥生時代の日本の「住民」であり弥生人なのだと思えるようになった。まして東日本の縄文人が南下していた縄文後期の近畿では、だからこそヘテラルキーな共立社会が作られたのであって、そのイデオロギーの主体はまさに縄文のものだったのであるから、当然、巫女として確率の高い預言ができたのは渡来人より縄文人の血を引く巫女だったと考えても少しもおかしくない。われわれは弥生時代を、教科書にある九州の弥生遺跡で考えすぎている。弥生時代=九州北部だと思わせられてきた。しかしもし卑弥呼が近畿の人だったなら、当然、当時の近畿の社会構造から見て、それは九州とは違う円の思想に満ちていることに気がつかねばならない。
 
 
 
 
広瀬は古墳国家論の専門家ゆえに、近畿の古墳に関する常識のうそを例にしている。
 
 
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広瀬和雄 『古墳時代を再考する』同成社 2013 より
 
 
 
近畿の古墳は、纏向に始まり、奈良盆地を北上し、佐紀まで行ったあと馬見へと移動し、やがて西へ向かって河内へ向かった・・・みんなそう思い込んでいる。たしかに中心的な墓はそう動く。しかし古市に巨大古墳が作られていた同時代に、奈良にも馬見にも、100~200m級の大古墳はちゃんと生まれている。
 
古墳中心地の変遷が、そのまま河内王朝とか、倭五王とかの独占体制になってしまったわけではないのである。
 
 
 
邪馬台国だろうが、なんだろうが、とにかく日本の古代史を正しく復元できる人間は、もうかなり絞られている。広く浅くでも、考古学・民族学・宗教学・神話・文献・環境学。地理学・理化学・心理学・地層学・人間学をやってきたものにしか、もう手に負えなくなっているのである。難しくし過ぎたのも、やはり日本人独特の「おたく」的深入りしすぎる性格が生んできたものだろう。日本史を難しくし過ぎたのである。まるでモダンジャズの迷走である。やはり歴史は繰り返す。
 
 
 
 
だって。しょせん主人公は
 
 
               人間だもの。
 
 
 
 
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よそさまに見にいかない

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ぼくはこの夏を乗り切れるかどうか自信がない(半分嘘、半分本当)ので、しばらくよそ様に行けません。行って読んで、ぼくのブログにポチしてもらうためにだけ行くようなことをもうしません。疲れてしまって、新着記事を書く気力がなくなるからです。
 
 
すまねえな。
 
 
 
だが、そうすることで、本当にここが読みたい人が誰なのかも、よく見えてきますね。
 
 
 
というわけで、ランキングサイトから明日にでも撤退するつもりですので、そこんところよしなにね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから、コメントはぼくのためにある。
記事の補足のためにコメント欄はありますので、なにか言いたい人はこのブログのコメント欄には一切書き込まないで、もうひとつのブログに書いてください。
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ただし、ファンになる情熱のある人以外のコメントなんぞは、ほとんど相手にせず削除すると思いますけどね。書くだけ無駄です。
 
そもそも「俺の素敵なブログを汚すな!!」が基本ですね。
 
許可されるのは数人ですので。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勝っ手いいます。
毎度のことです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いやなら来なくていいですし。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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前方後円墳国家論の盲点・古墳と言う張子の虎・埋葬鉄器という竹光

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「・・・ことにメスリ山古墳では激しく盗掘されていたにもかかわらず、その副槨には212本以上もの多量の鉄槍が納められていた。大和政権中枢を担った有力首長の武力のありかが明白に示されている。さらに・・・」
 
「ともすれば呪術的・未開的なイメージをもたれがちな3~4世紀の王権だが、メスリ山古墳や椿井大塚山古墳の多量の副葬武器にみるように、実際のところは卓越した武力を保持していたわけだ。」
 
「・・・前期古墳の卓越した威信財と鉄製武器の保有を見れば、権力がどこに所在するかは明白である。」
広瀬和雄「大和政権の展開」2013
 
 
 
 
筆者にわからないのは、墓に入れられてしまった武器の数や鏡の数が、そのまま武力の表れだと考えてしまう、その思考そのものである。
 
墓に入れてしまった武器は、それでもう永遠に使用されることのない威信財である。鉄は当時、半島からしか手に入れられなかった貴重品である。なぜ伝世して実用にせずに埋葬してしまえたのか?これがまったく不可解なのである。
 
それほど大量な鉄製武器を、なぜ二度と出せない古墳の密閉空間におしげもなく入れてしまえたのか、彼らの後裔たちの、その心理がまったく不可解なのである。
それだけ大量に「捨ててしまった」ということなのである。
 
たとえ消耗品として使えなくなったものだったにせよ、金属は再生可能素材であるにも関わらず、そこまでして死者や祖霊のために威信財を「捨てていた」人々の生き方、死生観が意味不明である。なぜ実用にしなかったか?つまりそれはみな実用性の皆無なこけおどしの呪具だったのではないのか?
 
 
前方後円墳とは・・・古墳とは張子の虎ではないのか?
 
それらの鉄の武器は、果たして実用品だったかを問いたいのである。
 
祭祀用のレプリカのようなもので、ただの砂鉄の簡易製鉄品だったのではあるまいか?本当に人が切れるような鋼の武器なのか?
もしそうだったとしたなら、これらの豪族は、全員大馬鹿者ではあるまいか?現代、どこの世界に核兵器や戦闘機や軍艦を自分の墓に入れさせる司令官がいるだろうか?武器は使ってこそ意味がある道具だ。次世代のために数本にしておけばよいではないか。
 
 
ということは、古墳の主たちはつまり、実戦しないおもちゃの兵隊、ブリキの兵隊を擁するこけおどし軍団だったことになる。大和の古墳からではなく、一般遺跡から鉄器が出てこない、戦闘遺跡や痕跡が出てこないということは、それらの見た目は豪華な遺物たちの正体が、最初から墓に入れるために作られたはりぼて、竹光だったということではないのか?
 
弥生時代までを考えてみれば、それらの威信財は石製品、銅製品に限られている。どうみても実用品ではなく、祭祀具として作られた権威的オブジェなのである。古い時代でさえそうだったのに、古墳時代だけが湯水のように武器を持てたはずもなく、その一部を墓に入れてもあれだけすごい数だなど、ありえるはずもない話である。あと時代でも、そんな墓など存在しない。鏡や宝石類と武器では、そもそも副葬品としての意味がまったく違うのだ。
 
 
だから、鉄製品が山ほど墓から出てきたこと=その集団が大和中枢権威者だったというのは意味がわからない。広瀬自身、前方後円墳は見せる古墳だと書いている。だからそれはヘテラルキー独特の墓であり、副葬品も当然、葬儀参列した貴賓客に権威を見せる意味合いがあったはずである。鏡でさえ、黒塚も椿井も本物はたった一枚の画文帯鏡で、あとの三角縁神獣鏡は全部レプリカでよかったのだから、鉄器だって鎧だって、レプリカにするのが当然。
 
 
 
世の中には貧乏人ほど墓におもちゃのお金を入れてもらえるという台湾の葬儀風習もある。大きな墓、大量のおかざり、そなえものをしたがるのは成金の常である。
平原古墳の巨大な鏡は何枚も入っていた。あれは国産であっても真物である。ここに気づくべきではないのか?ヤマトの大古墳も鉄器も貴金属も鏡も、どう見ても「どや顔」をしてみたい奴の偽物であるはずだ。こういう威信財やこけおどしの大古墳を「えっへん遺物」と言うのである。裸の王様の鼻ヒゲに過ぎない。そもそも朝貢すれば国家の中枢を気取れた時代の遺物である。朝貢そのものが最初からただの権威でしかない。
 
 
 
そもそも墓の中の鉄器武器・冑などの多くがレプリカだったことは、すでに村上 恭通や近藤義郎らの研究が語っていることである。簡易な製鉄なら離島原住民や縄文人でも鏃やナイフを作れる。
 
 
 
確かに、それだけの数量の呪具用品を作れたことは、半島の資源を持っていたからだろう。それは交易の結果かも知れない。しかし魏志には「倭はほしいままに伽耶の鉄を簒奪した」ともとれる記録もある。広瀬の言う様な、ヤマトの大古墳の主たちが、それほど実用武器を惜しげもなく墓に捨てていたとは何か考え違いしているんじゃないかと、首をかしげている。実用品かどうか調べてから言ってるんだろうか?
 
 
 
あとにも先にも、高価な刀を墓に全部入れさせてしまうおばかな指導者など、見たこともない。
 
 
 
ランクリはやめました。
評価はナイスぽちで。
 
 
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OとSの悲恋 論文学者と実験学者の蜜月が科学を愚弄・翻弄す

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考古学にも歴史学にも目新しい発表がないので、ちょっと科学の人間的な部分について書いてみたい。
 
 
 
OとSの蜜月
Oは女性研究者で実験科学者。
Sは科学論文の権威である。
ふたりは同じ研究所に研究室を持っていた。
 
特にSは論文では権威的存在であり、彼の論文なら黒も白になるとさえ言われるカリスマで、しかも●細胞研究でもトップにいる。彼の弟子のひとりが●細胞の発見でノーベル賞をとったN教授である。これはひとつSにはショックでもあった。Sには、つまり若いNへの嫉妬がなかったとは言えないのかも知れない。
 
 
一方、アメリカ帰りのO女史は才気煥発だが、アメリカ的な着想は抜群でも、日本の慣習でもある堅実で証明性に富んだ論文は苦手なタイプ。だから何度も欧州論壇へ寄稿しても受け入れられずにいた。
 
 
そこでまだ30前の可愛い彼女が考えたことは、論文の権威であるSへの接近だった。同時にマウス研究で権威だった人物にも接近したらしいが、こっちは真面目一辺倒な研究者で、彼女の作り出す細胞分析にだけ専念したので、取り込めなかった。
 
 
 
やがてSは研究所内でも「俺はOを護るケヴィン・コスナー(映画のボディガードのことだろう)と口にするほど、Oの荒削りな論文を、巧妙で精緻な「作品」へと仕上げることに専念。彼の名前により、N誌という科学誌はコロリとだまされて、雑誌に大々的センセーショナルな世紀の発見としてこれを発表してしまう。
 
 
 
しかし論考はあくまで巧妙な偽装に満ちており、専門家から疑問符が出始める。
 
 
 
 
最初、研究所はOを擁護する姿勢から一変して、すべてはOの杜撰な捏造として責任のすべてを末端研究者でしかない彼女を切って始末をつけようとする。しかしほかの科学者も世論も、そのやり方に多大な疑問符を持ち、それではOが可愛そうだ、本当に●細胞があるのかちゃんと証明せよ!と糾弾。世論に負けるかたちで、今度は研究所は権威であるSまで切り捨てて首にする。ここに、まさにSこそ捏造の大元だという研究所の気がついてしまった苦痛がにじみ出た結果となった。
 
 
 
 
愛するあまりSはOの稚拙な論考を白へと改ざんさせたのである。
 
 
不倫だった。
 
 
 
このあとは筆者の空想だが、Oリーダーが去ったムーミンの研究室の冷凍庫から、S教授の専門である●細胞が発見された。Oは自分の●細胞にSno●細胞が混入するはずはないと会見で言い、室内にそれはなかったのだとはっきり言った。しかし冷凍庫にはそれがあった。
 
ふたつのアイデアが考えられる。
 
 
 
Oが嘘をついた。Sの●細胞を自分の●細胞だとしてマウスの教授に渡した。
Sが、Oが去ったあと、こっそり自分の●細胞を冷凍庫に入れて、もう後戻りができなくなっただろうOを切り捨て、保身を図った・・・。
 
 
 
細胞を受け取ったマウス権威教授は、なにも知らずに分析、その結果グリーンに輝く万能細胞の誕生を目にして驚愕し、完全に信じてしまう。そばにいたO女史すらそれに驚き、欣喜雀躍したとマウス教授は言っている。
 
 
 
つまり・・・・?
 
 
可能性は
 
1 OはES細胞の混入を知らなかった可能性がないとは言えない。
2 いやOとSの完全な結託しての捏造だ
3 いやいや、それならなぜ、彼女は現在、再び実験に飛び込んだのだ?最初からないなら逃げてしまえばよかろうのに?
 
 
 
 
 
あの最初の「大発見会見」で天国にいた二人の、その蜜月を語るシーンがある。
 
にこやかに、ほこりに満ちたO女史が語ったあと、手にしたマイクを笑いながら右へ無造作に持ち上げると、Sの手がさっとそれを取り上げる・・・。そのOの渡し方には師匠と弟子という上下関係は垣間見えず、むしろ仲のいい恋人同士の日常生活の受け渡しのようだった、と感じたのは筆者だけだったろうか?
 
 


 
 
これが科学だとは思わないで欲しい。
これはできの悪い不倫劇でしかない。
 
 
女は恋に不遇な研究者だった。
男は弟子に先を越されて焦っていた。
 
 
 
 
事件とは人間劇に始まる。
 
 
 
 
 
日本の科学は一方で先端へとまい進するけれど、一方で文系的な組織が存在せず、個室にこもってやられている。一方は最先端、一方は古代のようにファジーなのである。まるで相撲世界や柔道界のように。
 
 
 
 
 
なぜなら科学者とは職人だからにほかならない。
コーディネーターと管理者が不在なら、中国の冷凍食品とさして変わらない世界が、実は、簡単に生じてしまう。
 
 
 
つまり、
人間とはそういう
不完全であるが、実に人間的なあやうい存在なのだ。
 
 
誰が石持て撃てるのか二人を?
ならば研究費を政治はもっと出してやれ。
 
 
 
 
 
 

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前方後円墳 なぜ竪穴式石室から横穴式石室へ? 民俗学的考察

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前方後円墳・・・
初期、石室は墳頂に掘られる。これが竪穴式石室で、大陸的様式に類似し、その観念には、族長の霊魂をできるだけ祖霊のいる天空に近づけようとする様式である。
 
 
ところが5中盤頃から石室は横穴式へとさまがわりする。
それまで前方後円墳の後円部頂上の密閉された石槨内に置かれた組み合わせ式石棺は、古墳底辺に最初に石室と羨道が作られ、その上に盛り土されるようになった。
 
 
しかも、横穴式石室のレイアウトは、後円部に限らず、前方部にも、置かれ、しかもそれぞれの中央でもなく浅い部分に、さらに羨道は斜めに置かれたり、まったく中央や墳頂・・・つまり天神地祇の思想を無視して置かれるようになった。
 
 
 
理由のひとつに九州・朝鮮的家族追葬があるが、それはソフトの一面の答えに過ぎず、主観性に留まる。もし祖霊が降臨し、次の首長に交接するのであれば、墳頂中央に死者が置かれ続けていなければならない。けれど九州でも近畿でも、古墳時代中盤以降、そうなる。
 
 
ところが九州では特にだが、横穴式石室には癖邪の装飾がどんどん描かれはじめ、死者の「祖霊蘇るべき肉体」の魔物による腐食を護ろうとしている。近畿ではそれまで中心だった頂上の竪穴石槨という密閉空間に腐食防腐剤の水銀塗布が終了し、横穴石室に塗布、長大な割竹式木棺から石棺へと流れが変わり、広い空間は追可能な広さを持つようになる。つまり中期とは個人葬から家族・世襲葬の時代である。
 
 
初期前方後円墳には視る方向があった。それは初期古墳の裏側は二段式、表側は三段式盛り土で知ることができる。最初、前方後円墳は横から見るものだったわけである。
 
 
 
同時に、横穴石室の広い空間は、多大な副葬品の投入を可能にした。最初、石室は羨道のいきつくところに両袖式という、ちょうどブリテン島ケルトのニューグレンジの斧型石室そっくりのT字型で、やがて片袖型になる。
 
 
 
 
これらは最初、死者の再生祈願の場だった古墳に、バリエーションを求めるようになったことを示している。死者そのものが再生しないと認識され、祖霊が降臨して新たな誕生者=正嫡へと乗り移り世襲されるという、イデオロギーの更新を証明している。
 
 

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ハード・ナッツなラビリンス脱出法と魏志倭人伝

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迷路の脱出法は壁伝いです。
どんな複雑な迷路も、壁面に手をかざしながら歩んでいけば、いつか必ず出口に到達できるというのが、科学的論理なのです。
 
ただし、それはその迷路に必ず入り口と出口がある場合にのみ有効な手段でもあります。
 
もしその迷宮に出口がなかったとしたら、いくらさまよっても、入り口に逆戻りすることとなるでしょう。
 
 
魏志倭人伝などは、まさにその「出口がない地図」を描き出す目的をもって書かれた史料だと言えます。最初から、そこには目的地がどこにあったかがわからなくしてあるのです。要するに倭人伝は、中国人が大好きな禅パズルのようにしてできた呪文だったと言う事も可能なのです。
 
 
 
 
 
人が作り出す文章には、必ず言霊というパズル遊びの要素が隠されています。
 
 
 
 
文献から歴史を知ろうとする場合、たとえば論理一辺倒の考古学などでは行き着けない、想像力が不可欠です。それはただの少年少女の空想ではない、経験に裏打ちされたものでなければなりませんが、それにつけても歴史のほうは一万年以上の歳月なので、100歳近く人生経験した個人の想像力では及ばぬことが多々あります。そのために、法則や、繰り返す歴史のルールを知る知識が必要となりましょう。それが他者の経験の知識である書籍などです。
 
 
 
考古学は、いや、科学は、懸命に迷路の壁を着実に遅々としてなぞっていく学問で、非常に時間がかかります。迷路の出口がない文献の穴を、考古学は埋めてくれますが、そこから古代人の言霊を見つけ出すのは至難の業です。
 
 
 
 
 
人は数式のようには動かない場合もあります。まして作り上げた数式の裏を書く場合もある。倭人伝のようにです。
 
 
 
 
 
 
逆転と、ジャンプが必要です。
 
 
 
 
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「大和魂」はやまとごころと読むと心得べし

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「才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(か た)も強ふ侍(はべ)らめ」紫式部『源氏物語』「少女帖」
 
 

大和魂という言葉の、記録上の初出であろうと言われている。
ここで式部は「大和魂」の訓について言及していない。
読み方をどうするかは、従って私たちにゆだねられたことと考えたい。
 
『源氏』の「大和魂」を、式部の平安時代における「漢才(かんさい、からごころ)」に対しての「和魂(わこん、やまとごころ)」と筆者は読むことにしている。「やまとだましい」とは読んでいなかっただろうと見ているわけである。
 
「やまとだましい」という和訓は、歴史的には江戸時代、国学華やかなりし頃からの読みであろう。国学というのは、中国の儒教の国粋的部分をクローズアップした、悪く言えば至上主義的なところの多い学問である。
 
いつも書いているように、人は右に偏りすぎても、左に偏りすぎてもいけないわけで、筆者はあまりに時勢が左よりな、あるいは平和ボケし過ぎる反応が見える論調がはばをきかせようとしたときは、あえてアイロニーをこめて右寄りに、反対に右が強く出すぎた論調には、あえて左寄りに記事を書くことにしている。
 
例えば今話題の集団的自衛権の問題で、朝日などの世論が平和ボケしているなと感じたときは、むしろ自衛権を肯定し、オスプレイ歓迎とか、核を持つべきだと書く。これは論調や立場を明確にしているわけではない。今、やや右に寄ったところで、重大な有事には至らないことをちゃんと確認したうえでの書きようをしているだけである。それが見えないで反論してきたり、ここから去ったものは、おっちょこちょいである。

今の国際情勢は、きなくさいように見えていて、実は東西イデオロギーが対立して、いつか世界大戦へという風潮の中にはない。中東とイスラエル、あるいは中国とロシアの右傾化、なぞ、どれももっと複雑化している三つ巴、四つ巴の時代ゆえに、まだ大丈夫だと知った上での書き方である。
 
相撲界で久々に国産大関が生まれ、彼が「大和魂」などと、死語を持ち出した。その本意はもちろん、久しく日本人の横綱が出ていない情勢を意識しての「自分は横綱になる」宣言の、ひとつの意思表示であろうと思う。つまり戦時中に利用された「やまとだましい」と彼の「やまとだましい」は意味合いが違うのであろうが、戦後教育をよきもあしきも受けてきた筆者世代以上には、違和感の多い言葉だったことは否めない。
 
だからあえてこの記事を書いておくことにした。
 
戦前派、戦後派にとっては、大和魂は敗戦のあしき思い出の産物であろうし、そのあとの世代ならボクシングのハワイ二世選手だった藤猛(ふじ・たけし)の「ボクシングは大和魂」「岡山のおばあちゃん」「勝ってもかぶってもかぶとの緒を締めよ」を思い起こさせた言葉かも知れない。
 
筆者の小さい頃までは、大和魂は=日本軍のまけじだましい・・・つきつめれば、勝てるはずもないのに大国にたちむかった負け犬根性というイメージしかない言葉である。しかし平安時代には「やまとことば」に類似した漢風に対する「和風」「国風」のわびやさびを言っていた言葉でもある。
 
海外から見たときに、今でもそうだが、「和風」にはいろいろな意味が含まれていた。古墳や鏡や銅鐸を巨大にしてしまう畿内風のヘテラルキーとヒエラルキーが交じり合う時代の風習も、いわば和風の虚栄だし、まったく逆に精緻なミニチュアへ向かう職人気質もまた和風である。でっかく見せたい・・・この部分だけを軍部は取り出してきて、やせがまんや欲しがりませんを国民におしつけつつ、両方を大和魂なんだと押し付けてきたわけである。
 
それでは今の若い人にはちんぷんかんぷんだったり、少しは世界を知ったものには「右」としか見えないことになりかねない。そこで筆者は今度の大関に言葉は「やまとごころ」が正しいとしたいのである。日本人として、なんとしても横綱になるぞと豪栄道クンは言いたかったのだと捉えるようにしている。
 

このように、言霊はちゃんと理解してやらないと、ときおり、とんでもない反発を生むこともある。一昔前の柳沢大臣の「女性の生む機能」発言など、まあ冷静に考えれば、ちゃんと理解できる言い回しだったのだろう。何も女性が産む機械だと言ったわけでもないのに、機能という言葉を勝手に誰かが「出産マシーン」みたいに思い込んで、思わず世論もそれに乗せられたが、機能という言葉にマシーンの意味はなく、あくまでも彼が少子化をまじめに考えていたからこそ出た言葉だったと当時から思っている。
 
なにか言葉尻だけをとって、一大事!だとしたいのはいつもマスコミであり、それにのせられてしまうから、先の大戦なども大和魂が復活してしまったのである。こういうのはヒステリックでシニカルな、日本人の悪いところだろう。もうすこし、言外の思惑をおもんばかって理解してやる方向性、寛大さは、特に日本のマスコミを中心として必要になっている。それこそが「やまとごころ」のやさしさではあるまいか。
 
 
 
 
次回、古墳の持つもうひとつの「機能」を類推する。
古墳、神社がかつて「兵庫」「兵主」だったことについて。つまり自衛権のための倉庫としてのはりこの虎・前方後円墳を証明する。
 
 
 
 このように、筆者の記事は、常に振り子のように両極端に平等であらんとしている。たまさか、一方の記事だけを読んで正論で反論してくる人もあるが、わたしはある意味悪く言えば優柔不断、よくいえば懐が広い人間なのだわ。なぜなら、時流は昨今の天気のごとく不安定なものだからである。
 
 
 
あっちへふらふら、こっちへふらふらしているおっさんだと思わないで、がまんづよくつきあいなさいや。
 
 
 
 
 
 
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[転載]呉太伯

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■太伯
「太伯の弟仲雍は皆周の太王の子にして王季歴の兄也。季歴は賢にして聖子昌有り。太王、季歴を立て、以って昌に及(およ)ぼさんと欲す。是に於て太佰・仲雍の二人は乃ち荊蠻に奔り文身斷髮し、用うべからざるを示し、以って季歴を避く。季歴果たして立ち、是を王季と爲し、昌を文王と爲す。太伯の荊蠻に奔るや、自ら句呉と號す。荊蠻之を義とし、從いて歸するや千餘家。立てて呉の太伯と爲す。」
『史記』 卷三十一 「呉太伯世家 第一 」
  ※太伯=呉太伯=泰伯とも書く(『論語』)

■倭人は太伯の子孫
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
「帯方郡から女國に至る距離は1万2000里。その男子は皆、顔や体に刺青をしている。その旧語(伝承)を聞くに、倭人は自らを太伯の後裔であると言う。昔、夏后小康の子が会稽に封ぜられ、断髪・文身をしてもって蚊龍の害を避けた。今の倭人もまた文身をして、水のなかで害を厭(おさ)えた。」
『翰苑』巻三十が引用した『魏略』逸文

「昔、夏后小康の子が会稽に封ぜられ、断髪・文身をしてもって蚊龍の害を避けた。今の倭の水人は好んで水中に水没し魚や蛤を捕る。そのために文身して大魚や水禽をはらった。」
『魏志』東夷伝倭人条

■文身
「後にやや装飾となす。諸国の文身各異なり、あるいは左にあるいは右に、大きく小さく、尊卑により差がある。」
『魏志』東夷伝倭人条

■呉太伯とは
この場合の「呉」とは春秋時代の呉である。
華北の国家であった夏王・禹の後裔。
夏王禹から数えて6代目が夏后帝少康である。
この裔が呉太伯。
「周の太王(古公亶父)の息子に太伯・仲擁$・季歴の3人がいた。季歴とその息子の昌は賢く聖人の資質を持っていたので、太王は跡継ぎと考えた。それを察した仲擁$と季歴は、南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。昌は後の周の文王である。
主なものに禹陵、※越王台(やまたい・後で説明)」
http://6245.teacup.com/kojimakousi/bbs/133

「呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。それは周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、【呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。】後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

しかし、この逸話は実際に南方の蛮族である呉が後に春秋の覇者となった時の美談として創られた可能性が高いと見る史家も多く、どうやら太伯と虞仲の末裔は、呉の兄弟国(実際に呉とは別系統らしく、虞は周王室の連枝という)とされる、夏の古都を拠点とした虞(山西省を拠点とし、後年に大夫の百里奚の諌言を聴き容れなかった虞公は、晋の献公の言いなりにされた挙句に滅ぼされた)のことを指すらしい[要出典]。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
華北にあった夏王朝が滅びて後、封ぜられて会稽に南下して作った国が呉。(北方系民族の南下の実例)
簡略にわかりやすく把握するなら、そこから二兄弟が分かれて呉越を建国したのだと思えばよかろう。のちの呉越はそもそも兄弟国家だとなる。

■少康 の子孫
少康の庶子たちは「会稽に封ぜられ、文身・断髪して蚊龍の害を避け」、後20世にして勾践(こうせん)が王を称する。
一方、華北に残っていた周の太王の長男が太伯。弟に政権を移譲し、華中・荊蠻に南下、その地の風俗にあわせて刺青し、句呉を起こし、呉太伯と呼ばれるようになった。

■会稽 かいけい 越王台
会稽は越の中心地。都は紹興酒で有名な浙江省紹興市付近
越王台とは紹興市内にある越王・勾践(こうせん)が築いた都の跡のこと。
越王が酒を投げ入れた河が、現在の醪(にごりざけ)を投げた河、「投醪河」で、紹興の城南にある。
これが「越王台紹興酒」。http://item.rakuten.co.jp/kawachi/445631
これに対してこれまた有名なのが貴州省の茅台酒(まおたいしゅ)。
このように銘酒から見ても華中以南は稲作水田、米、華北は陸田(畠)で粟・ヒエ

のちに日本が遣唐使を送った時、その目的地のひとつが寧波(ねいは)。
寧波は会稽の外港である。伊予の海人族・河野氏を母方に持つ空海もここを目指す。河野氏が船頭だった場合、航路の変更は空海の希望通りにできるわけだ。

■台 たい
台とは中国で宮城
倭国の邪馬台もそうであろう。(東夷伝倭人条にも倭人が酒を好むとある。この酒も中国華中の米酒だっただろう。倭人は中国華中以南の風習をふんだんに持っている。)

■結語
あくまでも言い伝えの記録ではあるが、北部九州にいた倭人は呉太伯の末裔を自称していた稲作民族だったとすれば、あきらかにそれは華中から華南方面に少なくとも交流があった海人族で、長江流域にいた白水郎(あま)と交流があった、あるいは彼等自身だったとしか考えられない。四国の水軍も空海もまたその後裔ということになろう。

次回、パーデレが見た倭人


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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]隼人 高千穂と出雲

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今、「隼人」と言うと西郷隆盛時代あたりに喧伝された「薩摩隼人」という言葉を思い起こす人が多いが、本来の隼人とは古代南九州から発した海人族で、その種類は

1 阿多(吾田)隼人
2 大隅隼人
3 タネ隼人
4 掖久隼人
5 五島隼人
などが記録されている。ただし、森浩一らは3~5は海の隼人である大隈隼人の移住したものと考えており、大きくは本土にいた二種がいたと思われる。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/92/51437392/img_0?20110319185757


■おおまかに東の大隈隼人、西の阿多隼人と覚えておくのがいい。
大隅隼人は大隈半島から曽於郡、宮崎平野にまで至る「海の隼人」、阿多隼人は薩摩半島と吾田湾を中心とした「山の隼人」と言われている。

■伝承として「海幸山幸」「トヨタマヒメ」「ウガヤフキアエズ」「阿多の小椅命」「呉太伯子孫」「塩土翁」伝承などを持つ交易の民である。

■かつて熊襲と書かれた曽於郡は今、鹿児島県東部に位置するが、かつては北部の霧島山、韓国岳、高千穂岳周辺にも隼人がいたとされその範囲はかなり広かったようだ。隣接する熊本県南部の人吉を球磨、鹿児島県姶良(あいら)郡から曽於郡を襲とするのがいいようだ。

■記紀では高千穂は「日向の襲の高千穂」と書かれるため、ここの高原町が天孫降臨、高天原の聖地であると主張している。襲とは曽於郡の古称で、もともと一文字の曽であったところが奈良時代に地名二文字の命令が出て曽於郡となったという。
つまり曽於は本来一文字一音で「そ」が正しく、熊襲のいたことを証明する。

■大隈隼人は奈良時代大反乱を起こし中央から制圧された。そのときの記事で彼等が巫女的女性を酋長としていたことがわかっている。その名前を「はず」といい、今、幡豆地名のある指宿郡には朝廷が建立した?枚聞神社(ひらきき・じんじゃ)が荘厳なたたずまいで、そこにいた反乱の歴史、鎮圧の歴史を物語っている。このいくさで鹿児島県中央部には正八幡が建てられた。以後、大隅隼人の主力はすべて畿内へ連行され、大和や山背各地に入れられ中央の警備をさせられた。

■一方、阿多隼人は早くから畿内に入り皇室直属の近衛となり、のちに名族となった。その風習には「犬咆」があるのは有名。また「隼人の盾」という置き式の盾も大和で出土している。記紀では天孫の最初の妻を出したとされ、トヨタマヒメはワニの化身だったとも言われる。しかしその後の記紀では、姫の兄・大小椅命が守護した嫡子は異母兄弟の神八井耳命系の嫡子に殺され、天皇にはなれなかった。神八井耳は九州の?(熊本の?あるいは岐阜の?あるいは大和の豪族?不明)多氏の血統で、彼等はのちに神武直系と自称して真人にまでなった。多氏が人吉の球磨族だったとすれば、熊襲が襲を裏切ったとも見えるが不明。

各地に大隈、大住などの地名を残したのは大隈隼人だったと思われ、畿内では山背南部の田辺の大住には大住車塚古墳と大住神社が存在する。

■いわゆる国譲り神話では、天孫はスサノオが開いた出雲を征服したにも関わらず、なぜか南九州に降臨したことになっている。しかし出雲には天皇がその後訪れたという記事は一回も出てこない。一方、日向からは天孫の子孫である神武が船出したとなっている。『日本書紀』はニニギが降りた場所を襲の高千穂峰として譲らない。ではなにゆえに出雲を平定する必要があるのかが何も説明されない。スサノオと国譲りの舞台に出雲を設定することで、大和は出雲を侮蔑し、無視したことになっていると言える。
ところが出雲には、大和から滋賀の海(琵琶湖)を抜けて北陸へ出て、半島交易するための重要な位置にある内海を持っていた。中継基地としてどうしても大和には出雲は必要だったはずだ。しかしそれが実際に港になったのは継体大王前後の時代の話である。前衛基地で、古い王家があった北部九州の交流の歴史があったことから、やがて大和には北部九州の独占を断ち切りたかったのだろう。そのためには北部九州が友好関係にあった日本海側ルートを奪う必要があった。出雲はその代名詞となり、青谷などで大きな争いをした。そして服属のあかしに大量の銅器が神庭荒神谷に埋められた・・・という構造だろうか?不明。

■北部九州を攻めるならば南九州を最初に手中にする意味は見えてくるが?

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


古墳は武器庫・大和王権は雄略から

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①高安山(488m)山頂近くの気象レーダーがある尾根に古墳時代終末期に造られた3基の古墳がある。このうち真ん中の1号墳は前から開口していて、武器庫の古墳として有名であった。昭和56年3月、大阪府教育委員会は高安城範囲確認調査の一環として、1号墳及びその東にあった2号墳を発掘調査した。調査の結果、1号墳(武器庫)は無袖式の横穴式石室で、奥行約2.9m、幅は、約1mであった。2号墳は石室の全長約6m、幅60~80㎝の極めて長い無袖式の横穴式石室で、2体埋葬していたと考えられる。出土した須恵器の形から両古墳ともほぼ同じ時期で、7世紀の第三4半期(650~675年頃)に築かれたものと思われる。この点で高安城と時期を同じくする。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】 
八尾市観光協会 http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1284
 

「有名な七観古墳は戦後の土とりで完全に破壊され、現在のものは復元。直径50mの円墳でした。
三っの埋葬施設に武器・武具などが満載されて発見されました。
人体埋葬がないことから履中陵古墳の武器庫とも考えられていますが、実は中央に巨大な盗掘穴があり、本当に被葬者がなかったかは不明だとか」
http://blogs.yahoo.co.jp/ichoucon/38208194.html
 
 
 
 


 
 
 
 
古墳は武器庫
かつて古墳だったといわれる大和の石上神宮や穴師坐大兵主神社、京都市伏見区の藤森神社は朝廷や物部氏らの武器庫だったという説がある。藤森神社も正式には兵主神社であるので、兵主=兵庫である。石上神宮にも「石上坐布都御魂神」という剣の魂が祭られている。兵庫県の地名もそこに武器庫が置かれたゆえである。

大和のメスリ山古墳はあまりにも大量の武器が副葬されていたために、考古学者も史学者も武器庫だった可能性をささやいている。

上記神社が、もとはその地に古墳があったようである。
つまりすべての古墳がそうだったとは言わないまでも、首長の墓の周囲に武器庫としての培塚(ばいちょう)が寄り添っていることは不思議ではないだろう。培塚は殉死者や死者のための宝物を別に入れる塚であるが、墓域を隠れ蓑にして武器庫を紛れ込ませておいたのだろう。

メスリ山のような、副葬品にあまりにも実用武器が多く出る墓は、まず武器庫だったと言えるだろう。でなければ、貴重な鉄器が氏族間で枯渇してしまいかねない。古墳の多くは中世には山城に応用されたが、そもそも古代から古墳が戦闘にふさわしい高さや堀を持っていたことは武家も十分に知った上での築城ではあるまいか。
 
鉄器を石室に収めた場合、湿気が一番の課題である。そのために、かなり頻繁に石室内部に入り、先祖祭祀にかこつけて武器を磨き、あるいは実践練習していたのかも知れない。
 
このように多くの武器を隠し持つことが、当時の氏族には必要不可欠だったのだろう。なぜなら目だって武器を集めれば、情報が漏れ、反乱の下心ありと思われかねないからである。古墳時代中期以後、大和の古墳が横穴式になっていったもうひとつの理由もここにあったとも考えうる。

従って、古墳内部の鉄器武器は、実力者の象徴的遺物である、立派ないくつかの武器を除けば、副葬品というよりも実用品と見る方向性も必要で、そうすると広瀬のいう古墳の武器=被葬者氏族の当時の実力という考え方に、別の視点から納得がいくこととなろう。また、中期以降の横穴式石室が半島西部・南部域の伽耶・百済あたりから入って、雄略あたりからの、畿内にようやく真の武力王の登場、という時代の流れにも矛盾しなくなるだろう。松木武彦によれば伽耶の古墳はヤマトに大きく影響したようである。新羅や高句麗様式よりはよく似ている様式。(『未盗掘古墳と天皇陵古墳』2013)
 
言い換えれば、『日本書記』などの雄略=わかたけるの前の記録は後世のあとづけがほとんどだという判断を裏打ちすることにもなろうか。大和の「王権(世界史的に正統な武力政権)」は神武からなどではなく、雄略に始まると考えたほうが整合であろう。卑弥呼の時代からは200年ほどあとになる。中国が乱れていた四世紀をはさむのだから、むしろそのほうが理屈にあう。宋が成立してすばらくして倭王武の上表文も送られており、合致してくる。
大和王権の誕生は従って5世紀後半。日本海貿易王である継体大王が登場し、日本の東西の雄であった筑紫と上野が平定され、飛鳥時代・奈良時代へつながってゆく。
 
 
 
 
次回からは久しぶりに谷川健一の「蛇」を題材にする。
 
民俗学的な面白さを。
 

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蛇1

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縄文人も弥生人も、古代日本人はなぜか蛇を神としてきた。
 
 
蛇を呪者の頭部に巻きつかせると呪力が増すと考えていたらしい。
 
 
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これは世界的にみても、共通性がある。
ギリシア神話のゴルゴン(ゴーゴン)姉妹のひとりメドゥーサも髪の毛は蛇で、見たものは石になったと言う。
 
 
 
蛇は脱皮して成長し、その脱皮した皮を床下等に残すが、それを吉兆として財布に入れるのも世界的な習慣である。つまり再生へのあこがれである。
 
 
 
天皇の名前にまむしをつけていた人がいる。たじひのみずはわけ・・・反正天皇である。「たじ」とはマムシで、「みずは」は水際である。つまり蛇は湿を好む。この「たじ」を植物のイタドリだとする説もあるが、イタドリの花は白く、泡を吹くようについて、その様子が天皇の真っ白い健康的な歯並びに似ていたと『日本書記』は書いている。
柳田國男は故郷播磨で、イタドリは「ダイジ」と呼んでいたと書いており、西日本の各地で「ダンジ」「タヂチ」など、「たじ」に近い呼ばれ方をしていた。「たじ」は同時にマムシを指す古語でもあった。
 
 
王者の歯が白く、丈夫であることはプルタークス英雄伝のエピルス王ピルスの逸話にもあって、これまた洋の東西を問わず、王者の条件であったようだ。(南方熊楠)
 
 
 
 
海人族宗像一族は胸に蛇のうろこの刺青があって、「ムナカタ」と自称したらしいが、同じく蛇の鱗が尾てい骨付近や背中にあった一族は「尾形」と言っており、大三輪一族という。こちらも大神とも書いて海人族で、ヤマトでは三輪山の大物主を蛇だと伝承しており、その末裔だというのが九州の緒方氏である。
 
 
 
 
その中に三輪山伝説というものが伝えられている。いわゆる「オダマキ神話」「三輪山伝説」などという民話・神話の類型である。次回は、そのオダマキ神話のルーツを海外に追いかける。
 
 
 
 
 

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蛇2 異類婚姻譚その源流

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極めて単純明快な解釈をする。
 
 
 
三輪山神話は民話・神話・伝説の民族学的くくりで「蛇婿入り譚」の中のひとつの型である。山の神である蛇ないしは蜘蛛などの異種が、男あるいは女に変身して娘ないしは男の家によなよな通いつめ、やがて神婚するが、その前に正体が蛇だとばれてご破算になることも多い。その原因は男を怪しんだ家人が、帰ってゆく神の衣のそでに糸をつけた針を指してそれを追ってゆき、たどり着いた暗所に蛇等の正体をさらした姿を見つけてしまうからだ。
その糸を巻きつける道具を苧環(おだまき)と言うので「苧環型説話」とも呼ばれる。
 
この民話・伝説は、伝承年代の新旧はあっても日本中に分布している。
 
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苧環型を追いかけた民俗学者・民族学者は多いが、谷川健一はその類型が朝鮮半島、中国、奄美諸島、琉球諸島にまであるとしており、諏訪春雄はその源流は中国長江流域から東西へ拡散するとしている。
 
しかし、その追求・考証は東アジアから出ないもので、極めて狭いと言うべきである。なぜなら苧環型が置かれる蛇婿入り譚は、もっと広い民話分類では異類婚姻譚という範疇に入り、この話の類型は西はヨーロッパから東は新大陸、南は太平洋の諸島にまで広がり、東アジアに留まらないものだからだ。
 
 
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いや、もっと広い目で言うならば、日本にある神話・民話の類型のほとんどは、実はもともと人類発祥のアフリカからあり、西アジアを基点にしてアフリカ人以外のすべての人種が携帯して移動・拡散することで広まった、とさえ考えられるのである。
 
 
もっともその遺伝子によるミトコンドリア・イヴ説の言う人類分岐説を一元的発祥論とし、中国などでも独自に人類が誕生したのだという多元論を言う人々も多い。
しかし、そうであるならば、世界の最古級から存在する伝説や風俗や再生願望やフォークロアと土俗祭祀の共通性が地球の東西南北に同時存在することがうまく説明できなくなる。多元説のすべてを否定しないが、一元説の方が合理的である。
 
 
 
 
そうするとこれらの多くの世界共通性は、アフリカを出て人類が拡散した分岐点である西アジア・・・サウジアラビア~紅海~イラン・イラクに求めるのが最も合理的であると思えるのである。
 
 
 
 
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多くの類似した民話や神話と筆者が書いた範囲の中には、もちろん江南経由とされてきたハイヌベレ神話やバナナ型やイヌ婿型なども入るし、北方系とされたきた犬祖神話も、南島からとされてきた洪水・射日・太陽信仰・招日神話などなどの、そべての異種婚姻による民族起原神話が含まれる。
 
 
ある日本人起原説にキルギス民族(契丹)分岐説があるが、上の遺伝子分岐図を見れば、それもまた狭い一説に過ぎなくなることが見えてくるはずである。北方系モンゴロイド・・・いわゆる扁平な顔つきや薄い体毛の新モンゴロイドの発祥地は、確かにバイカル湖の南に位置する今のキルギスや新彊自治区の匈奴~モンゴル人~朝鮮人へ広がり、寒冷化によって日本列島にも及んだが、一方で西アジアからインド海岸部を経て、インドシナ、台湾、琉球へ、あるいはボルネオから南太平洋を経て拡散した人びともまた、日本人の源流のひとつとして否定できないことも確かである。
 
 
日本の南北縄文人と渡来弥生人が、なぜ類似する死生観、蛇信仰、墓を持つのかのミッシング・リングは、数の多少はあってもさまざまな来訪と混血がこの不思議な島国で確かに起きたことを語るのである。
 
 
 
あらゆる民族によく似た風俗が見える場合、まずその源流はそれぞれの民族の分岐点よりもさらに奥にもともとあったと見るのが整合なはずである。するとたいがいの謎、不思議だった人類の源流がひとつであることに収束してゆく。つまり遺伝子分析と人類学分析と民族学分析が合致するのである。
 
 
 
 
私たちはそこから離れ離れになりながらやって来た。そしてここで再び奇跡的に出遭った。
私たちはあらゆる東へ向かった先祖たちの子孫なのだ。蛇の子なのである。
 
 
ぼくたちはアラビア半島からやってきた。アフリカを出て。
つまり
世界人類はみなイブのハラカラである。
なぜ、憎しみあわねばならないか?不思議でならなくなる。
 
 
 

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蛇3 異称

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蛇の異称が各地にある。
琉球ではウジー。
これは本土の渦(うず)である。
 
 
古代には「つつ」これは筒状の姿態を言い表している。「つち」とも言う。
筒とは棒状で、中が空洞な物体を指す。京都南部の綴喜郡はむかし筒城・筒木で、竹をあらわしていた地名である。軍隊で「捧げつつ」という「つつ」は鉄砲で中が空洞な鉄棒を言う「銃」「砲」のことである。大きなものを「大筒=大砲」と言った。
 
「は」あるいは「はは」。
「みずは」の「は」は「蛟=みづち=水霊」と同意語で、「みーづち」で「水の蛇神」である。「天の羽羽矢」も蛇のような長いもので、先端は男根型の→である。
 
 
「なが」「なーが」は「長い」のもとになった。これはインド~インドシナで蛇神を言う。
 
 
「えらぶ」「いらぶ」これは沖縄でエラブ海蛇。
 
 
 
「みわ」「くちなわ」「なわ」。
 
 
「ながむし」
 
 
「にじ」これは沖縄で「むじ」「うじ」で虹であるが虹もまた蛇である。虫がつく。
 
 
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エラブウミヘビ
 
 
ウミヘビにはセグロ、エラブなどさまざまあるが、『古事記』の言う「海を照らして寄り来る神」とはウミヘビ=大物主=オオクニヌシの幸魂である。
 
 
 
 
 
 
 
「うなぎ」は古語で「むなじ・むなぎ」と発音したが、「む」と「う」は音韻変化。「ぎ」は動物につく蔑称で意味はなく、「うな」「むな」が語幹ゆえ、「むな」は蛇の形ということである。「むなーかた」蛇の鱗のイレズミをした氏族。
 
 
 
「すみよし」は「すむ」が語幹だが、「すむ」とは「もぐる」ことである。
それで蛇の氏族であるムナカタや安曇の神には、「筒」がつき、水中に没して水を「くぐる」蛇の異称がつくこととなった。住吉神を「つつのお」と言うのは、蛇のように水中を潜行した海士(あま)の神を言うのである。
 
 
 
「あなご」「うつぼ」もまた蛇を指す。いわゆる「うづー坊」がウツボ、「穴ー子」がアナゴであるが、穴は砂に穴を掘って住まう筒状の生き物だからである。
 
 
「てなづち」「あしなづち」の「つち」も蛇の氏族であろう。
 
 
 
「つちのこ」という幻の蛇の何も「つち」がつく。つつの子であろう。
また当然、土を這うものとしての意味もあろう。
 
 
 
 
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蛇4 三輪山伝説の国内流布と多氏・大三輪氏神長官国造

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日本国内における三輪山伝説(苧環型) 古い順に
●『古事記』人代一 崇神記大田田根子の条
河内美努邑の意富多多泥古命神の子と知れる所以は、
 上に云へる活玉依毘売 其の容姿端正しかりき。
 是に壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無きが、夜中の時にたちまち到来つ。
 故、相感でて共婚ひして共住る間に、未だ幾時もあらねば、
 其の美人妊身みぬ。爾に父母其の妊身みし事をあやしみて、其の女に問ひて曰ひけらく、
 「汝は自然ら妊みぬ。夫无きに何由か妊身める。」
といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しい壮夫有りて、其の姓名もしらぬが、
 夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ。」といひき。
 是を以ちて其の父母、其の人知らむと欲ひて、其の女にをしへて曰ひけらく、
 「赤土を床の前に散らし、閉蘇紡麻(へそを)針に貫きて、其の衣の裾に刺せ。」といひき。
 故。教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通りていでて、
 唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、
 美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。
 故、其の麻の三勾遺りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。
(この逸話は『日本書記』にも採用されている)
 
 
●『肥前国風土記』 松浦郡褶振峯条 任那出征大伴狭手彦、弟日姫子
大伴の狭手彦の連、發船して任那に渡りける時、
 弟日姫子、此に登りて褶を用ちて振り招ぎぎ。
 因りて褶振の峯と名づく。
 然るに、弟日姫子、狭手彦の連と相分かれて五日を経し後、人あり、
 夜毎に来て婦と共に寝ね、暁に至れば早く帰りけり。
 容止形貌 狭手彦に似たりき。婦、其を恠しと抱ひ忍默えあらず、
 竊に績麻を用ちて其の人の襴に繫け、麻の隨に尋め往きけるに、
 此の峯頭の沼の邊に到りて寝ねたる蛇あり、身は人にして沼の底に沈み、
 頭は蛇にして沼の脣に臥せりき。惣ちに人と化為りて、すなわち語云ひしく、
 篠原の 弟姫の子ぞ さ一夜も 率寝てむ時や 家にくださむ
時に弟日姫子の従女、走りて、親族に告げければ、親族、
 衆を發りて昇りて看けるに、蛇と弟日姫子と並に亡せて存らざりき。
ここに其の沼の底を見るに、但、人の屍のみありき。
 各、弟日姫子の骨なりと謂ひて、
やがて此の峯の南に就きて墓を造りて治め置きけり。其の墓は見に在り。
 (同様の逸話は『日本書記』出征宣化二年、欽明二十三年にも見える。) 
 
 

 

●『新撰姓氏録』 大和国神別大神(おほみわ)朝臣条
大神朝臣。 素佐能雄命の六世孫、大国主の後なり。 初め大国主神、三島溝杭耳の女、玉櫛姫に娶ひたまひき。 夜の曙ぬほどに去りまして、来すに曾に昼到まさざりき。 是に、玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、 明くるに到りて、苧の随に、尋ゆきはれば、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山に指れり。還りて、苧の遺を視れば、 唯、みわのみ有りき。之に因りて姓をおおみわと号けり。 
 
 
 
●『平家物語』恐ろしき物
 寿永2年(1183年)7月,平氏は安徳天皇を奉じて都を落ち,8月,九州大宰府に入った。
  まず原田種直の宿所に遷座し,やがて豊前宇佐宮に行幸し,宇佐八幡宮大宮司公通(きんみち)の宿所を皇居とした。
  しかし宇佐宮もあまり頼りにはならないとみた平氏は再び大宰府に移った。
  
  豊後国は刑部卿三位藤原頼輔(よりすけ)の領国であった。子息頼経(よりつね)を知行の代官としておいていた。
  その頼経に後白河法皇から頼輔を通じて使者が遣わされた。
 「平家はすでに神々にも見放され,法皇にも見捨てられ,都を脱出し,西海の波の上を漂う落人となった。しかるに九州の者どもがこれを迎え入れていること,けしからぬこと。隣国と一味同心して九州から追い出すように」と申し送ったので,頼経はこの次第を豊後国住人の緒方三郎惟栄に下命した。

 
 かの緒方三郎惟栄という者は,おそろしき者の末裔なり。 と申すは,当時,豊後国の或る片山里に住む夫をもたない独り身の娘がいた。
  ところがいつの頃からか,素性の知れぬ不思議な男が夜な夜な娘のもとに通いつめ,やがて,娘は身ごもってしまった。その母が不審に思い,娘に問い尋ねると,娘は,男の来るときにはわたしの目にも見えるが,帰るときは何も見えないと語った。
 そこで母は,娘に男が帰るとき針で「緒環」(苧環)を通して,そっと男の襟に刺しなさいと,と教えた。
  娘は,その夜,母の教えどおり,男の襟に針を刺した。男が何も知らずに帰ったあとをたどると,日向国の境にそびえる嫗岳(今の祖母山)という山のふもとの大きな岩屋(大分県竹田市穴森神社と伝承がある)の中に糸が続いていた。
 娘が岩屋の入り口にたたずんで耳を澄ませていると,岩屋の奥から異様な唸り声がしたので,娘は「あなた様のお姿を見たさに,ここまで尋ねてまいりました」と言うと,奥から「われこそは人間の姿をしているものにあらず。
  そなたが,われの姿を見れば,肝もつぶれるばかりに驚くことは必定。そなたの腹の中の子は,男子にちがいない。武勇にすぐれ,九州・壱岐・対馬にも並ぶ者とてもあるまいぞ」と答えが返ってきた。
  娘はなおも呼びかけて「たとい,どのようなお姿にもせよ,日々の睦み合いが忘れられましょうぞ。互いの姿を今一度見せあいましょう」と言う。
 
 
 

 「なれば…」という声とともに岩屋の奥から,とぐろを巻けば5,6尺もあろうかという大蛇が身をゆすりながら,這い出てきた。
  これを見た娘は,肝をつぶして,魂も消えるほどに驚いた。
                    
  引き連れてきた侍たちも10人あまりも,悲鳴をあげてその場を逃げ去った。
  娘が,男の狩衣の襟首に刺したと思った針は,大蛇ののど笛のところに突き刺さっていた。

  間もなく娘は,大蛇の予言どおり男子を産んだ。祖父が「大事に育ててみようではないか」と言うので,育てていくと,男の子はまだ10歳にもならないのに背丈は大きく,顔も長い,たくましい男子となった。
  元服させるにあたり,母方の祖父大太夫は,自分の名にちなみ大太(だいた)と名づけた。
  大太は,夏にも冬にも手足にアカギレができたので,アカギレ大太と呼ばれた。
  死んだ大蛇は,日向の国の高千穂大明神だったという。
  その緒方三郎惟栄は,かの大蛇と娘の子である大太の5代の子孫であった。このように恐ろしい者の末孫であったからだろうか,豊後の国司刑部卿三位藤原頼輔(よりすけ)の命令を院宣と称して,九州・壱岐・対馬に回文(めぐらしぶみ)をしたので,一円の名だたる武士たちは,すべて惟栄に従属した。
 
 

●信州北部小県郡一帯の民話
西塩田村にある鉄城山の山頂に寺があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った寺の住職は、彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、住職が糸をたどって行き着いた先は、川の上流にある鞍淵の洞窟であった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があった。住職は驚いて逃げ出し、出産を終えた大蛇も正体が知られたことを恥じて死んでしまう。赤子は小泉村の老婆に拾われ、小太郎という名前で育てられた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎であったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、老婆から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。夕方、小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は老婆に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った老婆は結びを解いてしまう。すると、束がたちまち膨れあがり、家も老婆も押しつぶしてしまった。
※小県は「ちいさがた」であるが「おがた」とも読める。
『信府統記』には小太郎はタケミナカタの化身とあり、谷川はミナカタはムナカタか?と書く。
 
 
●「常陸国記」 鹿袋第八所引
何時ごろの書であるか不明に曰く、として…兄妹があって、田植えをしていたが、日も暮れて遅くなった。すると伊福部神が怒って、妹を蹴殺した。兄が恨んでいると、雌雉が肩にとまる。その尾にヘソ(績麻)をつけて放つと、伊福部丘の神の岩屋へ行き着いた。兄はそこにいた雷神を斬ろうとしたが、命乞いをされて許す。以後、彼の子孫には雷の害がない。
※萬葉集註釋 卷第二に「常陸の國の風土記に云はく、新治の郡。驛家(うまや)あり。名を大と曰ふ。然稱ふ所以は、大蛇多くあり。因りて驛家に名づく。云々。 」とあり、大神(読み知れず)には大蛇が多かったとある。隣県の群馬に大神朝臣の末裔緒方氏がいたと聞く(→下の●群馬赤城山の伝承参照)。
 
 
●群馬赤城山の伝承
「苧環型を唯一伝承しているのは、片品です。赤城山周辺.JPG片品から赤城山の位置は南から若干西に傾いた方向です(地図)。残念ながら太陽が昇る方向ではありません。また古代の遺跡も見あたりません。そこで、もう少し伝承を検討してみました。すると③の赤堀長者の娘の話に、娘の腋の下には鱗があったと伝承しています。このタイプの伝承が、『平家物語』の緒方三郎伝承にあることを、群馬編①で紹介しました。それは、沼田城主が緒方三郎の家系であるとの伝承です。では沼田から見た赤城山の方位はどうでしょう。南東方向に位置します(地図)。沼田から見れば、赤城山はまさに太陽が昇る方位にあるのです。沼田の周辺にも縄文から弥生にかけての遺跡が見られます。しかし古墳の遺跡が見られないのが気になります。私は、この神話は中世においても有効であったのではないかと考えています(佐々木高弘『民話の地理学』古今書院、2003を参照下さい)が、頼朝の時代の、沼田太郎など沼田を中心に活躍をした人物の神話だったと考えてもいいのかも知れません(文・地図・写真:佐々木高弘)。」
http://regionalmyth.seesaa.net/archives/20100430-1.html
 
 
 
 


 
 

大和岩雄は三輪伝説は多氏=阿蘇氏の持ち込んだ伝承とするが、阿蘇から高千穂、祖母山にかけては緒方三郎にまつわる話が多く、それが多氏の伝承であるならば大和大三輪氏と多氏の関係を述べねばなるまい。すると多氏とは天武時代の多品治(おほのほむじ)を祖としてオホタタネコの子孫である大三輪氏の枝族ということがわかる。そして阿蘇氏は持統天皇前後には阿蘇に入り阿蘇国造家となっており、同じ頃諏訪神社大祝(おおはふり)となる神長官守矢氏や宮司・神(じん)氏、戦国時代の金刺・諏訪氏もみな阿蘇氏と同じ多氏系譜となったことがわかる。ただし阿蘇も諏訪もその進入が持統時代になるので、もともとあった多氏系譜を国造として引き継いだ可能性もある。

では、その系譜は遡ればどこにあったかは、大和大三輪氏か、あるいはそれより前の5世紀頃の九州の古墳に見える靫や的をステータスとした日下部にあったかとなろうか。緒方氏や宇佐神宮の大神(おおが)氏が大和大三輪末裔を名乗り、また諏訪の甲賀三郎や泉小太郎も大蛇の子孫であるように、その大元をさらに辿れば宗像神社の海人族安曇・住吉にたどり着くはずである。これらは壱岐対馬や沖ノ島を元とする倭人であるので、天武の伊勢太陽神信仰の形成期には宗像君徳善が天皇の外戚となって宮地嶽神社古墳のような日本第二の長さの大石室を持ち、この頃から宗像神社の沖ノ島祭祀つまり太陽信仰がさかんとなる考古学的時代考証と合致する。
天武・持統時代には、各地で天変地異があり、大地震のあとに大風=台風が起きていると『日本書記』は語っている。そこで持統は阿蘇と諏訪、さらには常陸へそれぞれ多氏つまり大三輪氏の祭祀者を送り込んだ。そのために大和の大三輪伝説が全国に広がったというのがことの起こりであろう。
 
 
 
ちなみに大三輪氏や多氏は多くの工人を持っており、大三輪氏は堺市の須恵器、多氏は鉱山開発が知られていた。末裔に中央には祭祀者神氏、阿蘇氏、日下部氏、また地方には大神氏、緒方氏などがあり、工人には藤内(とうない・ふじうち)などもあるが、この「藤」とは藤ヅルを身に巻いて鉱山の竪穴に下りていた土蜘蛛であり、その管理者にはアジスキタカヒコネの子孫である高鴨氏・葛木氏もある。つまり縄文系が大元で、渡来系工人を率いていた古い氏族であるから、ヤマトが九州より古い、あるいは別系統で同時存在していたであろう。それがたとえば熊本南部の日下部吉見系阿蘇氏ではあるまいか。つまりこれは熊襲系。
 
 
 
 
古くから大豪族になる条件として
1 その身は縄文系海人族なれど
2 半島に南部に往古から進入し(3世紀以前)
3 半島工人を率い
4 在地倭国では縄文系先住者も管理した
 
 
 

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