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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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蛇5 管川の浦島子

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童話浦島太郎の元になった説話は『日本書記』雄略紀の「丹波国余社郡管川の人、端江浦嶋子」の逸話である。
 
「よざのこほり、つつかわのひと、みずのえのうらのしまこ」と読む。
 
まず余社郡とは京都府与謝郡である。となりに大江山の加悦郡(かやぐん)もあって、与謝は歌人与謝野鉄幹の母方の在所でもある。
 
ここに浦嶋神社がある。日下部氏が祭る。
すぐそばには天橋立で有名な海部氏の籠(この)神社。海部氏系図が国宝に指定されている。
 
 
管川と書いて「つつかわ」と読むのは、管が筒と同じもの、形状だからである。つまり「つつ」なので蛇である。
 
瑞江は水江で「みずのえ」であるが、みずのえは一文字で「壬」である。壬生(みぶ)の「壬」で「み」つまりこれも蛇である。壬生氏は反正天皇(たじひのみずはわけ)の乳部(=めのと)氏族である。
 
「み」は蛟・水霊で雷神であり、「龗=おかみ」とも言う。この文字は雨と龍の間に三つの「口」が置かれるが、鎌倉時代の『徒然草』に「蛇」と書いて「くちなわ」と読ませており※、「くち」は蛇の異称「くちなわ」で、多頭の蛇すなわりインドのナーガ=蛇神をあらわしており、「くらおかみ・たかおかみ」も雷神=いかづちである。この神は水神を祭る京都貴船神社の祭神ゆえに竜神。また三島信仰の神社などでも祭られ、さらに奈良のアジスキタカヒコネを祭る大和神社にもたかおかみが祭られるので、ウミヘビである。琉球でも出雲でもヤマト大三輪でも石上神社でも蛇は神で、雷神竜神であり、先住縄文系氏族の守護神だったといえる。
 
 
※枕草子にも蛇をくちなわとある。。藤原定家らと「新古今和歌集」を編纂した鎌倉時代の歌人・藤原家隆 (1158-1237年)が,「夕陽... ... 口縄とはのことで、道の起伏が「(くちなわ)」に似 ているところから、この名が付けられたと伝えられる。
 
 
 
タケミナカタも八重子事代主もアジスキタカヒコネもスサノヲもオオクニヌシも、蛇であるが史書は一括して出雲の神でくくってしまっている。右代表=先住民の蛇神信仰だと思っていい。信州の蛇の縄文土器の子孫たちである。寒冷化で日本海を南下して出雲あたりで宗像・安曇・住吉と遭遇して合体する。
 
 
 
いずれも蛇の子孫である。やがてヤマトにはいって葛城や物部や大三輪や尾張・海部となってゆくのだろう。アマテラスなどは彼らの太陽信仰の格式化された天皇神である。スサノヲとアマテラスが兄弟、オオクニヌシがスサノヲに婿入りする、ヤマタノオロチが古志のヌナ川から来る・・・すべてこれで解釈可能になる。北の縄文が南の倭人縄文と日本海で出会い、先に近畿に入っていたところを、あとから来た何者かが懐柔統合してヘテラルキー色の濃厚な日本国の基礎を作った。
 
 
 
水江は丹後半島の竹野郡の網野町にある淡水湖であるが、かつては汽水の潟湖のことである。網野神社には浦嶋子が祭られているので、広くは往古丹後半島も与謝郡だったのだろう。
 
 
 
 
 
日下部氏はヤマトで、河内湖つまり住ノ江・墨の江の突き当たる日下江(東大阪市日下)の海人族で、宮廷の門を守護した靫=飾り弓矢の氏族なので、弓矢の矢も蛇である。雄略時代までは鎮西の守護として派遣された。
 
 
 
さて、そうすると直弧文の氏族のひとりでもあるかと見える。
葛城氏とともに吉備のステータスだった弧帯文を切り刻んでコラージュした直弧文を持った氏族ということになる。これは的臣(いくはのおみ)、刃連臣(ゆきのおみ)らも同じであろう。
 
 
 
すべて南北縄文+弥生・日本海・海蛇でまとめることができる。
 
わかりやすい。
 
 
 
浦島太郎が竜宮から帰って玉手箱をひらくと歳をとる。
蛇は脱皮して成長する。
おなじことである。
 
 
 
つまり浦嶋は蛇である。
 
 
 
 
 

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公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
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蘇我馬子の父、稲目の墓?都塚古墳、国内初の構造も

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積石塚とは?/都塚古墳は高句麗系女性馬子の母の墓である

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今日は考古学を面白くしてみよう。例によって専門家が言わないKawakatu珍説である。
 
 
 
 
◆都塚古墳 みやこづか・こふん
奈良県明日香村 6世紀後半(550年前後・飛鳥時代初期・古墳時代末)
一辺の長さが41~42mに土を積み上げた5段以上の形で高さが約4.5m以上と推定している。(古墳終末期としては大きい方)
 
イメージ 2

古墳の周辺には、古墳を守るための堀(盗掘・悪霊防止)の跡も発見された。

古墳の中には長さ12mの石室があり、入口を介して石棺(家型石棺で突起の形状からも6世紀後半)を取り寄せて納入したものと推定される。
研究を率いた米田文孝関西大教授は「このような階段状のピラミッド古墳は百済と高句麗で見ることができましたが、それよりも1世紀前に作られたものであり築造方法も異なり、朝鮮半島から流入されていないものと推定されている」とし「追加の確認作業が必要である」と伝えた。

日本経済新聞は、今回発見された古墳が飛鳥時代の豪族であった​​蘇我馬子の墓から南東に400メートル離れたところ位置しているとし、蘇我家の墓である可能性があると推測した。
 
都塚古墳位置関係図
イメージ 12
 
 
 
イメージ 1
毎日新聞より(南入りの石室。つまり石舞台に尻を向けている)
 
 
 
 
イメージ 3
縄掛け突起、天辺の台状が時代を語っている。7世紀には天辺はもっと広くなって台形蓋となり、突起も形式的に小型化あるいはなくなる。あきらかに古墳終末期直前の石棺。
 
 
 
 
◆高句麗式積石塚墓まとめ
ほかの類似する積石塚
 
●太王陵古墳・将軍塚古墳
(5世紀後半。世界遺産高句麗首都古墳群のひとつ洞沟古墓群(5~7世紀?)の中にある)
中国集安市 (旧高句麗)及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌市と南浦市にまたがって所在する高句麗後期の古墳群=北朝鮮では高句麗古墳群と呼ぶ。壁画古墳としても有名。
イメージ 4
太王陵
 
 
 
 
イメージ 5
将軍塚(横口式石室)
 
(二つの名前を逆にしているサイトがありました。これが正解)
 
 
どちらかが広開土王(好太王)の墓とされる高句麗型積石塚の代表
近くに広開土王碑文がある。
広開土王は5世紀前半の人。調査で2003年5月に太王陵から「辛卯年好太王□造□九十六」という文字が刻まれた青銅の鈴が出土したことで、韓国考古学者は太王陵こそ広開土王墓に間違いなしとなった。
ただし「好太王」という諡号自体は、「王の中の王」という一般名詞で、即位当時まだ18歳だったので好太王=広開土王とは言えないとも(東潮2003)。
今回の奈良の都塚古墳は飛鳥時代前半つまり6世紀後半の蘇我稲目の時代に相当するので、高句麗の積石塚の方が100年古い。
 
 

 
●韓国石村洞古墳群の積石塚
高句麗が南下した5世紀後半以降の高句麗南下侵攻の影響下で百済地域生まれた古墳様式。
 
イメージ 6

日本が飛鳥時代に高句麗式積石塚を取り入れるとすれば、ここが最寄になるだろう。ただ、7世紀奈良時代の終末期古墳であるキトラや高松塚に高句麗様式の壁画が導入されている。時代的に見ると積石塚様式が先にきて、100年ほどあとから壁画となる。

しかし、これが九州の積石塚・壁画古墳で比較するとまた時代観が違ってくる。 下段の久留米市祇園山古墳参照。
 
 
 
●岡山県上房郡北房町大字下呰部258 大谷1号墳
 
イメージ 7
 
五段式切り石積で高句麗・百済様式に似る対面式古墳の代表
飛鳥時代7世紀・横口式石室(都塚は横穴式)

積石塚には王墓級のピラミッド・ジッグラト様式のものもあるが、長野県大室古墳群のような円錐形もあり、階級によりさまざまあったようである。瀬戸内海では讃岐・阿波を中心に3~4世紀には登場しており、5世紀の階段式積石塚よりも前から、石積み様式はもともと古くから半島北部にあったのだと思われる。
 

●祇園山古墳 (四世紀中盤?)
福岡県久留米市御井町高良山(高良大社山麓)
 
イメージ 8
 

ピラミッド型の方墳に箱式石棺(竪穴式石室・古墳時代前期)?
()内は筆者
http://lunabura.exblog.jp/16145717/
 
 
 
●相島古墳群新宮積石塚
イメージ 13
福岡県糟屋郡新宮市の海に浮かぶ島。相島(あいのしま)積石塚古墳群(4~7世紀長期間遺跡)
 
 
 
●階段状ではない積石塚
長野県大室古墳群(6世紀)
イメージ 9
 
 
●善通寺・有岡古墳群
香川県 3世紀後半~4世紀前
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珍しい円形二段式積石塚
 
 


 
 
◆ピラミッド型というよりもジッグラト型
ジッグラトまたはジグラート(英: Ziggurat アッカド語:ziqqurat)とは古代メソポタミア において日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔である。「高い所」を 意味する言葉である。シュメール起源と考えられている。紀元前5000年。ただし構造上の複雑さにおいて東アジアの積石塚とは根本的に構造が異なっている。観念的にはヒエラルキー社会における、天空に祖霊がありそれに近づこうとする点はほとんど同じであるが、いかんせん時代が隔絶し過ぎており、両者をつなぐには間に緩衝材が必要。つまり西アジアからキルギスを通って拡散した騎馬遊牧民という「つなぎ」が東アジアのステップロードでモンゴルまで持ち込むが、その間に、騎馬民族としての必要性から簡略化されたのだというアイデアである。もちろん今後の証明が必要な説ではあるが。遺伝子から見ればありえなくもない。
 
イメージ 11
 
 
 
 
都塚古墳は全国的に類例のない多段式(八段)ジッグラト型で、古墳後期様式の横穴式石室を持つ。

奈良の考古学者は「前例がない」と言っているが、瀬戸内、久留米を見れば「奈良県近畿地方でははじめて」ということであろうか?しかし積石塚だけで見れば兵庫県には存在する。
http://www.hyogo-koukohaku.jp/bank/compilation/5tpuaj0000003u9d.html
階段の多さが違うだけである。

「古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県や山梨県の一部の地域に顕著に見られる。また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎・愛知・静岡・群馬県などにもみられる。 なかでも長野市大室古墳群、香川県高松市石清尾山古墳群、山口県萩市見島ジーコンボ古墳群などが著名である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E7%9F%B3%E5%A1%9A
 
 
 

つまり積石塚は飛鳥時代よりかなり以前(3後半)から、九州から瀬戸内、東海、北関東にかけてかなり取り込まれたポピュラーな墳墓形式だったと思ってよい。それが奈良考古学者が言うところの「ピラミッド型」つまりジッグラト型になるのは日本の飛鳥時代直前の5世紀後半の高句麗首都周辺であったということである。そして地方では、それぞれ単独で高句麗との交流があって近畿よりも早くから低い二段式や三段式積石墓が取り入れられていたところに、特に3世紀に吉備の勢力が大和地方に入ったことで大古墳時代が始まる。
 
4世紀の桜井地方王権勢力~倭五王時代を経て、5世紀後半から畿内でも積石塚が到来するが、前方後円墳華やかな時代であまり人気はなく、飛鳥時代の古墳末期になってそれを取り入れたのは国際的貿易政権を築いた蘇我氏だけだったということなのだろう。稲目の子・馬子までは方墳だったと見られる。
もしその後、蝦夷・入鹿が滅びなければ積石塚は日本のポピュラーな墳墓様式となっていたかも知れない。
 
都塚の位置が馬子の桃源墓(石舞台)の南400mにあるというが、もし石舞台が馬子であれば、父親の稲目がその南にあるのは奇妙なことであろう。天子南面の観念では、祖にあたる父親の墓のさらに北側の天子の位置に子供が墓を造らせたはずはない。

もちろん考古学が、文献にある人物に墓を当てはめようとする「奈良県考古学」では当たり前になっている示威的操作はすべきではないのは言うまでもないが、あえて憶測するならば都塚は稲目の妻で高句麗系の人という想定は考えられなくもない。というのも蘇我氏系譜上では稲目の先祖には満智-韓子(まち、からこ)という朝鮮名の名前があり、蘇我氏が半島を意識した人びとであったことを髣髴とさせているわけで、それがやがて馬背-稲目-馬子-蝦夷-入鹿と、次第に日本的名前になっていくのは、実際には彼らが高句麗や百済あるいは滅びていた伽耶などを出自として、突然、飛鳥直前に大和にあった先住葛城系氏族の領地だった石川という地域に飛び込んできた不明氏族だったということも高句麗・百済系積石塚を採用したことと関係するかも知れない。

馬背以前の系譜は造作という説は強い。稲目という人物がどこから出現したかもまったく不明である。のちに記録では、馬子が推古天皇に「葛城は産土であるから領地を割譲してほしい」とねじ込んだところを見ると、蘇我氏はそもそも武内宿禰系譜葛城系でもなく、どこの馬の骨かも知れない風来坊だったかも知れないのである。歴史上、そんなことは山ほどあることはご存知だろう。織田信長の父は日本海福井の織田郷から尾張に風来して来たし、徳川家康の父も阿弥乞食坊主として松平家に取り入った風来坊である。継体大王も倭五王始祖の応神もどこから登場したかはっきりしない大王だった。つまり民族学で言う「貴種流離」の民かも知れないのである。蘇我氏はつまり下克上の先駆者とも言えるのである。
 
 

◆蘇我氏と高句麗
欽明天皇二三年(五六二)八月
「八月。天皇遣大将軍大伴連狭手彦。領兵数万、伐于高麗。狭手彦乃用百済計。打破高麗。其王踰墻而逃。狭手彦遂乗勝以入宮。尽得珍宝〓[貝+化]賂。七織帳。鉄屋還来。
 旧本云。鉄屋在高麗西高楼上。織帳張於高麗王内寝。 以七織帳、奉献於天皇。以甲二領。金飾刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛(媛名也)。
并其従女吾田子。送於蘇我稲目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以為妻、居軽曲殿。鉄屋在長安寺。是寺不知在何国。一本云。十一年、大伴狭手彦連共百済国、駆却高麗王陽香於比津留都。」
 
 
つまり稲目の妻は高句麗王の関係者だった可能性がある。「大伴狭手彦連(おおともの・さでひこの・むらじ)が百済国と組んで」半島に欽明政権が足場を作ろうとした時代に、稲目は軽の曲の殿(かるのまがり(石川の曲)のやしき)にいたが、550年頃、狭手彦が高句麗を攻めて王の娘・美女媛なる女性を連行して?稲目に献上した・・・様の内容のようである。つまり稲目の妻は高句麗王の娘で、おそらくこれが馬子の母ではないかと思われる。

 
蘇我氏の朝鮮名先祖の名前はこの史実から創作したものか?特に蘇我満智の名は、少し前の朝鮮木満知(もくら・まんち)の伝承を受けて作ったのであろう。そういう情報も美女媛や狭手彦たちから知ることが可能である。
従って馬子の墓の南にあるこの積石塚に最もふさわしい人物は母・美女媛ではないだろうか?
 
馬子の時代だが、高句麗から僧侶恵便が飛鳥に渡来している。馬子はグローバルな政治改革者で、あとの時代の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)=孝徳大王も難波で手本にしようとしたようだ。奇しくもその名も蘇我氏ゆかりの「軽 かる」だった。
 
 
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段築工法と都塚古墳ピラミッド状積石塚の謎

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都塚古墳のピラミッド型積石は決して珍しい工法ではない。
いや、むしろ、古墳とはそもそも段築によって最初から階段状に造られるものだったのである。
 
 
 
◆古墳の段築工法
そもそも3世紀の箸墓古墳からですら、X線透視調査では数段の段築構造であることは判明しており、古墳が階段状に作られているものであることは常識である。都塚がほかと違うのは段数の多さである。もっともまだすべてのピラミッド構造が把握されているわけではなく、「多段であろう」の段階であることも付け加えておくべきだろう。しかし頂上の台状部の膨らみは、写真で見た限りでは高句麗の高層積石墓に似ており、それは岡山の大谷1号墳も同じである。
 
イメージ 1
松木武彦『未盗掘古墳と天皇陵古墳』小学館 2013 より編集転載
 
 
 
古墳は最初から階段状に作られ、それぞれの壇上には魔よけ・奉納物としての円筒埴輪などが並べられる。当初は墓守が置かれ、誰の墓であるかは代々伝承され、墓も常に整備されて築造時の優美さを保たれているが、やがて世情の荒廃、中世以降の乱世などで墓守はちりじりとなり、歳月が風に運ばれた土で段築をわからなくしてゆく。風雨が上段の土砂を流しだし、それとともに段上の埴輪も麓へと流れ降りてゆく。だから巨大古墳の場合は禁足地の外側で遺物が簡単に拾われたりするのである。
 
 

こうして階段状の古墳は次第に土砂によって円やかに小山状になっていって、人びとは古墳とは丸いもの、山のような形だと思い込んできたのだ。さらに樹木が生え、うっそうと茂みになり、森になってしまい、今でもそれが古墳だと知られないままの墓がたくさんあると考えられている。散歩するときは足元をよく見たほうがよい。とんでもない大発見をするかも。歴代の考古学者も、そうやって子供の頃に見つけた土器などから学者への道に入ったものは多い。

段築が何層になっているかは、トレンチを切り開くことで明らかになる。古墳の発掘は決して全部を丸裸にすることはなく、丸いケーキに切れ目を入れていくように部分的に細長く切り開けられる。まるで外科医のメスによる切開のように、必要最小部分だけを切り取るのである。すると地層の断層が露出する。遺物の一部が出てくるわけである。断層にも歴史は刻まれている。地震、火山噴火による灰土の代謝、などなどで過去の歴史が降り積もっている。
 
 
 

都塚古墳は、昭和42(1967)年発掘調査で遺物として鉄鏃、刀子、須恵器などが出土。これによる年代観では都塚は5世紀後半という結果が出ている。今回の調査結果ではそれが100年も繰り下がって6世紀後半に修正されている。なぜだろうか?

想像するに、遺物が5世紀のものでも、築造は6世紀と判断した理由には、遺物は伝世されたものが多いからだという推測は成り立つだろう。また古墳編年の、後年にいくほどのデータが緻密になることで、より精密な編年修正は起きて当然で、石棺の様式編年も変化したとも考えられる。5世紀後半なら雄略の時代になり、蘇我氏はまだ影も形もないはずである。しかし6世紀後半なら蘇我稲目の死(570年頃)の直前ということになる。
 
この際、すべての方墳の封土内部調査をしてみたらどうだろう?
あるいはすべてが階段状段築でできていた可能性すらある。
 
 


 
 
 
 
■ 京都橘大学の猪熊兼勝名誉教授(考古学)は、都塚古墳は「強大な権力を握った豪族の蘇我稲目そがのいなめ(506-570)が埋葬されたのではないか」と指摘しておられる。その根拠として、次の3つの点を挙げておられる。 (猪熊兼勝http://research-er.jp/researchers/view/381988/articles)
 
●都塚古墳は6世紀後半に造られたとみられ、蘇我稲目が死んだ570年と時期がほぼ一致する。

●都塚古墳がある場所は、蘇我氏とゆかりの深い地域であり、近くには蘇我稲目の息子の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳があり、馬子の邸宅の跡とされる「島庄遺跡」もある。

●蘇我稲目は高句麗から来た2人の女性を妻にしたと「日本書紀」に記されるなど高句麗と関係が深かったと思われる。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_08_14.htm
 

このサイトは、筆者と同じく、稲目よりも高句麗美女媛だったらいいと書いている。父親の墓が息子の墓の南側にくるのは通念としても不遜になる。奈良の談山神社でも父親藤原鎌足を北にして、不比等の十三重石塔は南に置かれている。子供は父の南に墓を造るはずである。だから都塚は美女媛。ちなみに桓武天皇の母、高野新笠の墓は父方土師氏ゆかりの京都市西部大江の沓掛に作られた。桓武の墓は対角線上で南東の桃山御陵にある。
 
 

墓の様式に高句麗式を独自に取り入れたのなら、高句麗出身者だった可能性の方が高いと言える。死後も故国をしのばせる愛情表現にもなるからだ。

もし稲目の墓だとしたいなら、蘇我稲目たちと高句麗の深いつきあいが媛以外にもあったかどうか、墓に様式を取り入れさせるほどの親密な関係がなければならない。570年頃の高句麗の情勢をちょっと見ておこう。
 
 
 
「しかし5世紀末になると百済と新羅が強くなり、百済と新羅の連合により南部の領土を奪われている。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や突厥などとも手を結ぶ戦略を採った。
 
唐の第一次高句麗侵攻(645年)
中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するため突厥と結ぶ。このため隋から4次にわたる侵攻を受けたが、乙支文徳の活躍もあってこれらすべて撃退した。
 
隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍事政権によって唐の進出に対抗した。高句麗は緒戦で善戦し、唐の太宗が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたため、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。ここに高句麗は滅亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
 
 

広開土王死後、高句麗は押しなべて不遇である。北の燕から北魏といった新興中国人国家の国土拡充による南下策、新興国家新羅の隆盛、百済との領土争い、南からは倭による進入、さらに手を結んでいた突厥の裏切りと唐の半島干渉・・・結果的に百済とともに高句麗は滅びてゆくことになる。

となると、大伴狭手彦(さでひこ)らが高句麗を滅ぼし姫を奪ったという『日本書記』欽明紀の書き方は、どちらかというと自分を大きくしたい虚構で、高句麗王が、倭五王時代から半島管理で歴史の古かった倭の軍事氏族大伴氏を介して、稲目に娘を二人送ってえにしを結んだ、あるいは和平を願ったという方が、世界の歴史的常識からはかなり信憑性が出てくる。『日本書記』は皇国史観で描くので、高句麗を滅ぼしてヒメを持ち帰ると記述したが、それは史実ではないだろう。『日本書記』の対外的な態度はたまにこういう表現方法を乱用する。それは二枚舌外交(ダブルスタンダード)が当たり前の当時のアジア情勢、世界情勢を反映した、当時では当然の書き方である。ただ、倭が高句麗に攻め込んだというのは広開土王碑文と合致しているのでおおまかには史実だっただろう。それは百済王からの何度もの依頼もあっただろう。いわゆる遠交近攻である。
 
 
 
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※ときおり記紀はうそばかり書いているから読まない、などという極論を平気で言う馬鹿者がいるが、史書や政治とはそもそもそういう大人の論理で書かれているもので、うそもあれば本当もたくさんあるもの。それを相殺し、正否を見極めてゆくのが文献歴史学の醍醐味なのだ。もちろんそれが考古学とはまったく合致しない大嘘だったとしても、そこには裏の事情があったはずなのである。特に『日本書記』は雄略以降はそれほど疑ってかからなくてもいい史実が多いと思ってよい。問題なのは海外に倭国がどれだけ居丈高に見せたいか、その程度の差である。よく勉強してゆけばいずれわかることだ。考古学でも同じことで、考古学はうそつきなどと言うものも多い。じゃあ、いったい君たちはなにをもって歴史を知るのかと逆に問いたいほどである。おのれの不勉強、努力嫌いを棚に上げて、雀の涙ほどの知識を知って目から鱗をはぎとられ、もうなんでも知っているかのように反り返って意見を書いてくるのは、まさに韓国、中国のように行儀が悪い無知蒙昧の行為であり、自らそれをよそ様のサイトまでのこのこ出かけた上にご開陳し悦に入る・・・子供である。古代大和のヘテラルキー政治を地でいくおろかものでしかない。あたまを低くしてすべての情報を吸収してゆけば、史書も発掘も、いかに地道な努力と熱意で時を重ねてきたかに気づくはずだ。そしてどの口が言わせているのか知れぬ、君たちのその腐った根性もしゃんとするはずなのだ。そうはならないのならおまえたちのノウハウは間違っているのである。絶対に。愚かにもほどがある。そんな日本人が増えている。とても日本の将来はまかせがたい。
 
 また、都塚検索の上位に韓国人あるいは在日韓国人らしき人たちが、勘違いして高句麗より100年も早い」「それはまた日本人の捏造だ」などとしているのが目立つが、もう一度ちゃんと米田さんのコメントを読んで欲しい。彼の言い回しも不明瞭ではあるが
 
米田文孝関西大教授は「このような階段状のピラミッド古墳は百済と高句麗で見ることができましたが、それよりも1世紀前に作られたものであり築造方法も異なり、朝鮮半島から流入されていないものと推定されている」とし「追加の確認作業が必要である」と伝えた。
 
「それよりも1世紀前に作られた」と言っているのは都塚ではなく高句麗古墳群の方であろう。「それよりも」は「これよりも」である。記事が間違っている。しかも築法が違うとも言っており、おそらくこれは倭人が高句麗積石塚の外観を真似て、独自で考えて似せて作ったものだということになる。この件は米田氏の真意を問いただしておくべきだろう。歴史的には高句麗が5世紀後半~、都塚は6世紀後半で100年都塚が遅い。
 
 
 
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天皇陵古墳・陵墓参考地のある県、ない県一覧

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皇族墓・天皇陵・参考地のある都道府県分布地図(全時代が対象)
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作成Kawakatu
 
 
ない県はなぜないのか?
ひどく気になってしまった。
よくよく眺めていたら、ない地域は海人族が多かった地域だとふと気がついた。
それが外戚を出すこともなく、力をつけられなかった結果かと、呆然としてしまったものである。
 

 
 
 
◆皇族墓
陵墓・・・皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)第27条により、天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵(みささぎ・りょう)、その他の皇太子や親王などの皇族を葬る所を墓(はか・ぼ)と呼ぶ。なお、同附則第3項で、当時治定されていた陵及び墓は、第27条の陵及び墓とされた。
 
そのため、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の陵の他にも、「尊称天皇」・「追尊天皇」・「尊称皇后」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代、天津日高彦火瓊瓊杵尊・天津日高彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の白鳥伝承に基づく白鳥陵、飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。
 
これらのほか、宮内庁が現在管理しているものには、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準じるもの、髪・歯・爪などを納めた髪歯爪塔などの一種の供養塔、古代の殯(もがり)の地である殯斂地、被葬者を確定できないものの皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地などがあり、一般にはこれらを総称して陵墓(りょうぼ)という
 

1天皇陵
歴代天皇の陵墓

2陵墓参考地
陵墓参考地(りょうぼさんこうち)は、古記録、地域伝承、墳丘の形態や規模、出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓。

3その他皇族墓
天皇親族(皇太子・親王・皇后・妃など)墓と火葬塚・灰塚など陵に準ずるもの
 
全皇族墓の内訳
近畿地方を中心として,北は山形県から南は鹿児島県まで
1都2府30県
陵188
墓553
分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準ずるもの42
髪歯爪塔など68
陵墓参考地46
総計897
箇所数459箇所
 
 
 
◆天皇陵
宮内庁天皇陵指定地一覧
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html
◆陵墓参考地
奈良県
・黄金塚陵墓参考地
・宇和奈辺陵墓参考地
・小奈辺陵墓参考地
・郡山陵墓参考地
・畝傍陵墓参考地(見瀬丸山古墳)
・磐園陵墓参考地
・陵西陵墓参考地
・富郷陵墓参考地
・三吉陵墓参考地
・大塚陵墓参考地
・川上陵墓参考地
 
京都府
・天王塚陵墓参考地
・御室陵墓参考地
・東山本町陵墓参考地
・円山陵墓参考地
・入道塚陵墓参考地
・沓塚陵墓参考地
・浄菩提院塚陵墓参考地
・後宮塚陵墓参考地
・中宮塚陵墓参考地
・大亀谷陵墓参考地
 
大阪府
・藤井寺陵墓参考地
・大塚陵墓参考地
・東百舌鳥陵墓参考地
・百舌鳥陵墓参考地
・コウボ坂陵墓参考地
・檜尾塚陵墓参考地
 
滋賀県
・安曇陵墓参考地
・下坂本陵墓参考地
 
兵庫県
・玉津陵墓参考地
・市陵墓参考地
・雲部陵墓参考地
 
三重県
・宇治山田陵墓参考地
 
新潟県
・西三川陵墓参考地
 
鳥取県
・宇倍野陵墓参考地
 
島根県
・岩坂陵墓参考地
 
山口県
・西市陵墓参考地
 
愛媛県
・妻鳥陵墓参考地
・大井陵墓参考地
 
高知県
・越智陵墓参考地
 
福岡県
・勾金陵墓参考地
 
長崎県
・佐須陵墓参考地
 
熊本県
・花園陵墓参考地
 
宮崎県
・北川陵墓参考地
・男狭穂塚陵墓参考地
・女狭穂塚陵墓参考地
・鵜戸陵墓参考地
 
 
 


 
 
 
遠隔地の皇族墓について
「天皇以外の皇族の墓とされる場所が、近畿から遠く離れた都県にあることを知って、意外に思った人もいるだろう。これら遠方の皇族墓といわれる場所は、地方もまた万世一系の天皇のもとにあることを見せるよりどころとして設けられたものだ。したがって、なぜその皇族の墓がその地方のその場所に求められたのか、根拠がはっきりしないことも少なくない。

 これらの天皇陵や皇族の墓は、現在は宮内庁によって管理されている。そのほか、具体的には誰かれの墓と定められないが、規模が大きかったり、かつて際立った出土品が見つかったりした古墳もまた「陵墓参考地」という名の元に宮内庁管理下に入っていることが多い」
松木武彦(2013)
 
 
例えば平家とともに海の底に消えたはずの安徳天皇の参考地などはいい例で、瀬戸内や九州のいたるところにある。特に神代・古代の天皇陵・陵墓参考地のほとんどは、江戸時代から明治時代に国策の一部として便宜上定めてしまったものがほとんどで、それまではほったらかし状態だったものが多かった。江戸幕府や明治政府がその時代の史観の道具として急慮決めてしまったもので、あてにはならないのだが、それまで皇室機関が守っていなければならないはずの陵墓は、ほったらかしだったということで、宮内庁は幕府や政府が考察した指定地をそのまま踏襲したような格好で、今度は後生大事に立ち入りを禁ずるという、本末転倒を引き起こしているといえなくはない。

そもそも雄略以前は、存在すら疑われる人物ばかりの史書であるにも関わらず、ちゃんと比定地が作られ、あまつさ存在皆無とされた神武の墓などは明治期に作成、欠史八代の墓まで想定してある。まずもって形骸的な暫定陵墓と言えよう。まして卑弥呼のような『古事記』『日本書記』がほとんどあずかり知らなかった系譜外部者の墓まで取り込んで親族墓だとし、一歩も立ち入らせてくれないのは、すでに憲法違反かと疑ってしまう。
 
日本人の先祖について私たちは知る必要と権利がある。一刻も早い開放を願うところだが、政治的に発掘されると困るようなことがあるのだろうか?文献の歴史が変えられては困ると?しかし、おかげで指定外だった今城塚が継体大王墓として自由に発掘されたりというおこぼれもあったわけだが。なにしろ、先進世界で自分たちの王家の人びとの墓がほとんど間違って指定されている国家というのも珍しい話ではあるまいか?エジプトやメソポタミアの時代とはわけが違うのだから。まことに困った話である。

逆に、古墳の発掘とは墓盗人と同じではないかという揶揄も存在する。確かに墓を暴くのは傍若無人なことだろう。しかし「天皇は国民の象徴」なのであるから、特別ではないか?考古学でも、現在は古墳すべての発掘はなされず、ほとんどが一部開口後はそのまま、元の盛り土を埋め戻してしまう手法が主流となっている。これは遺跡もそうで、纏向遺跡など、発掘後の修復公園化などまったく話も出ないようになってしまった。吉野ヶ里以後の傾向ごこれで、奈良市民にとっては纏向は遅れた!という嘆きが出ている。金の成る木をみすみす地下に戻されてしまったわけである。
 
 
 古代に限っては、陵墓は発掘したほうが、国民は身近に皇室を思うようになると筆者は思う。そして本当に万世一系かどうかも証明できるでしょう。
国民の総意ではないか?
 
 
  霊魂も 50回忌でよしと 僧の言い
 
1千数百年も前の人ならましておや。
 
よしや化けて出ることもあるまい。
 
 
 
 
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時代別東アジア勢力地図 3世紀~隋・唐時代まで/東アジアってどことどこ?

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紀元前・前漢時代の東アジア
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便宜上「倭」と書いてあるが、まだ世界的には国としてゼロ。
倭人の認識は次の時代の「漢書」地理誌まで下がる。
 
 
 
 
1~2世紀後漢時代(中国から見て倭が筑紫地域だった時代)
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古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。
倭人と言えば玄界灘や有明海、朝鮮南岸部の海人族だった頃の地図。まだこれに出雲や古志が単独で交流もあったか?ヤマトはまだ縄文世界。
 
 
 
 
3世紀の東アジア(卑弥呼の死ぬ直前時代)
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伽耶とは伽耶諸国の集まっている地域。
これが百済や新羅の南下政策ですべて分断崩壊していく。
まだ倭国という国家は存在せず「倭人」のいる地域という認識。
筑紫・北関東・瀬戸内・丹後・古志・出雲そしてヤマトなどにそれぞれ小王国が同時存在。その中から中国東北国家とのえにしで、遠く江南国家呉との交流が盛んな時代。やがて三国時代には、朝鮮も列島もどこにつくかの内紛が起こり、呉に勝った魏が北朝を建てると、これにいち早く朝貢したのが卑弥呼である。以後、倭の中心は筑紫・出雲・吉備からヤマトへと移行を早めてゆく。
 
人の流れは大陸情勢に背を向けて次第に列島中央部の奥地のヤマトへと集まってゆく。つまり倭人は、荒れる中国に背を向けて内陸へ引きこもりはじめた。
 
 
 
 
五胡十六国時代(4世紀臺與の時代)
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臺與の朝貢のあと、まったく倭は中国史上に登場しないくなる。いわゆる謎の四世紀。
 
 
 
 
南北朝時代(倭五王・古墳時代前期~後期)
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5世紀後半、「宋書」にようやく倭王武が上表文を送ってきて、安東大将軍を欲したとある。巨大古墳の時代。
 
 
 
 
 
 
 
隋の時代(聖徳太子・蘇我氏の飛鳥時代前・中期)
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聖徳太子?が「日出る処の天子より」「東天皇から西天皇」などの記述が中国に出てくる。しかし「聖徳太子」とか「厩戸」とか「蘇我大臣」などの名は一切使われておらず「たりしひこ」などと書かれていて誰のことかわからない。『日本書記』は「隋書」を根拠にそれがヤマトの聖徳太子の海外交易だとしてあるというだけで、どこの倭人が送った国書か実は未だに不明である。
 
 
 
 
 
大唐時代(中大兄・鎌足の飛鳥時代後期)
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白村江のあと、半島に統一新羅誕生。
唐の干渉を断って倭国に使者を送り、新羅外交が始まる。
 
 
 
突厥・西域・突騎施・契丹などの民族はおおまかな民族ではトルキスタンを中心に、そこへステップロードの諸民族が混入した騎馬遊牧起原の人びとと捉えておけばよかろうか。
 
突騎施は西突厥の属地域から分立した国家。
吐蕃はチベット史上唯一の独立国家。
 
 
中華思想
あくまで朝貢を基盤とし、中国天子に従うものだけに属国管理の役職=代理王の称号を与える考え方で、自らは他所他地域への侵略はせず、外敵からの侵入を防ぐ「専守防衛」思想でできていた。それゆえか歴代紛争、侵略・内乱が絶え間なく起こり、突厥、匈奴、吐蕃、元など、北方・南方民族国家の樹立を許容してしまうことも多かった。中国で長期政権を築けた時代は漢・宋・明程度のもので、あとはもうあらかた、ごたごたしていた4000年間であったと言っても過言ではない。
尊ぶべきはその4000年間に帝国主義に目覚めた時代が中国にはなかったということだが、残念ながら現代、中華人民共和国共産党の方向性は帝国主義的ニオイを醸し出し始めている。しかし世界情勢でかんがみれば、かつての冷戦時代のような東西二極分立時代からすでに変化しており、もっと複雑化してきているうえに、これから他地域を奪い取って世界に覇を唱えるには資源や燃料が枯渇しており、大戦争を起こす可能性は低い。つまりそれはピンポイントによる王手飛車取り戦術の必要性を経済がささやいていることでもあって、もし戦争になるなら静かなダブルスタンダード外交の間隙を縫う、意外な効果的武器が登場してもおましくなくなったという前触れでもある。そうなるとテロ行為となるので、これまでの既存の個別防衛力では意味をなさなくなる可能性が高い。要するに戦争は起きないが、破滅的で卑劣な細菌兵器のばらまき、サイバーテロによる世界経済の奪取といった方向へ、中華思想の根本も切り替わってゆくだろうことを予測させている。当分は、自由主義国家とのせめぎあいを楽しむ時代が続くだろうが。ロシアと手を結ぶことは中国にはないだろうと願う。かつては社会主義と共産主義には歩み寄るすきまはなかった。今は、どちらも主義なき亡者のごとき思想にしばられはじめている。つまり金と征服の夢である。
 
 
 
さて夏休みの問題です。
現代の「東アジア」とは、あなたの認識ではどことどこの国々を指しますか?
 
 
 
 
参考文献 廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』
 
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斜面崩壊・土砂崩れ 歴史と地形・地質・地名

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写真6.1 花崗岩山地の山崩れ-2000年9月東海地方の豪雨による愛知県北東域における崩壊
   風化の進んでいる花崗岩の山地に大雨が降ると,非常に多くの山崩れが発生することがあります.このような場合には,水が集まる谷型の斜面での崩壊が多いといったような,崩れやすさの一般的傾向が認められます.
http://dil.bosai.go.jp/workshop/01kouza_kiso/houkai/p2.htm
 
  崩壊を起こしやすい地質には,深いところまで風化を受けやすい花崗岩,変質し粘土になりやすい火山岩・変成岩,シラスとも呼ばれる火砕流の堆積層などがあります(写真 6.1 花崗岩山地の崩壊).富士山のような形の成層火山は,火山灰・火山礫・溶岩・火砕流堆積物など,性質の違った地層が流れ盤構造で積み重なって構成されているので,きわめて不安定です.
http://dil.bosai.go.jp/workshop/01kouza_kiso/houkai/slide.htm
 
 
 
 
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 歴史や言い伝えには防災の知恵がたくさん含まれています。よく知られている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の神話は土石流(迫り来る八頭の大蛇)に対して、砂防堰堤(柵)を設けて住民(姫様)を守る、今日の土石流対策のお手本と考えることもできるようです。
  言い伝えや民話だけでなく、古くから馴染まれている地名にも多くの防災の知恵が隠されています。
  中国地方の危険地名例
 
危険地名例
災害の種類
タキ類  滝、竹、高、鷹など  土石流
ヒラ類  平、比良など  山崩れ
スキ類  杉、助、管、月、附、繁など  地滑り、地崩れ、洪水
ホキ類  保木、歩危、甫起、法花、吹、萩、福など  崖崩れ、斜面崩壊
カキ類  柿、垣、掛、鍵など  山崩れ、地割れ
アワ類  粟、阿波、安歩など  崖崩れ
 
出典:「集中豪雨を追う」中国新聞社編 1989.8
 
 

  中国地方の土砂災害に関する地名(危険地名に加えて)
 
危険地名例
災害の種類
サル類  去(サレ、サル)、猿、佐礼など  地滑り
ツエ類  杖、津江、潰溜など  土石流、土砂崩れ
ウメ類  埋、梅など  土砂崩れ、斜面崩壊
ダキ類  砂子、砂古、佐古など  流出土砂の堆積他
 
出典:「川と災害、人と民話-地名と自然災害-」臼井洋輔 1992.9
 http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/sand/west/page2/index03.html 
 
 
 
 
 
君子危うきに近寄らず
家を買うなら土壌と地形と地名で判断
 
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先日の答え
 
近代の東アジアは中国・朝鮮・韓国・日本・モンゴル+ロシア東部
 
各種視点によっては、場合によって東南アジア北東部まで含める場合もある。

再掲載・日本の花崗岩帯分布図と製鉄・砂鉄・たたらおよび阿武地名はエジプト語起源か

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前の土砂崩れ記事に関連して過去記事再掲載
 
 
阿武地名由来
ちょっと意外な話だが・・・。
外国語である可能性がある。
 
Abu
「アブ」とは何か?語源、由来。
アブ石で検索すると・・・。
エジプトでは花崗岩をアブ石と呼ぶ。アブとは「洗練された」という意味で、宮殿の名前にも「アブ・シンベル神殿」などと使われ、御影石の宮殿である。
 http://jq1hdr.uzusionet.com/Photo_Abroad/Egypt/AbuSinbel1.html
 
 
どうやらアブとは磨くと輝く花崗岩(日本で言う西日本の御影石や関東の稲田石のこと)であるらしい。そのエジプト語の石材名称が日本に来たなどありえようか?
飛鳥時代の中国~百済~飛鳥経由のペルシア人工人の来訪なら可能性はある。
建築に関わった工人ゆえに、石材にも詳しかったであろう。
 
これはまだ妄想であるが、ありえる話。
 
 
 
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日本語でアブを考えると?
「阿武国造」は「あむ」と読み、「あぶ」の前は「あむ」だった。
あむ→あぶ、琉球で「あん」。
あむとは「浴びる」「編む」「危険な」「虫のアブ」「あぶみ」などがあって方言で地名起源もないまぜになっているままである。答えは花崗岩の工人の間の俗語であろう。工人の多くは海外からやってくるので、半島や中国やの技術者の間では、大本産地の呼称が伝わっただろう。それがエジプト起源の「アブ」ではないか?
 
たとえばバイブルといえば聖書だと思っているが、実は広く書物、紙を著す「ビブロス」からで、そのまた大本はエジプト語のパピルス→ペーパーである。しかもパピルスはラテン語でパンパスなので南米までもが草原をパンパと呼ぶ。ともに葦やススキの仲間で、パンパスはパンパース=紙おむつの素材・語源である。
 
 
妄想抜きでやってみると・・・。

阿武町・・・山口県阿武郡阿武町。阿武国造の記録があって読み方は「あむ」である。
http://www.nihonjiten.com/data/263341.html
花崗岩地層で古代~中世のたたら製鉄跡が非常に多い。奈古、福田村地名がある。
奈古=サナギ=スラグ、福田=吹く田。
 
 
阿武隈・・・宮城県南部から茨城県北部にかけて広がっている高地 。阿武隈山地(あぶくまさんち)とも呼ばれる。花崗岩のメッカである。中生代白 亜紀前期の阿武隈花崗岩類鳥曽根岩体は宮城県から福島県まで連なって存在する。福島の地名も「吹く州」で、製鉄地名である。
 
阿武山・・・高槻市奈佐原地区の古い呼称。阿武山古墳は中臣鎌足の墓でろうという。「なさはら」が「さなはら」の転倒であるならば、ここはたたら製鉄の金クソ=鉄滓=スラグ地名であるか。阿武山古墳の石室は阿武山の花崗岩製である。つまり阿武山も花崗岩地名になる。
 
阿武野・・・沖縄県庵野・あんの・風化の進行した領家花崗岩や和泉層群等の脆弱な地質

あんのは「あぶの」で、西九州方面から奈良時代大量に入ってきた人々の名前阿武野を琉球語発音でそうとしか言えなかった?「あむろ」これも「阿武炉」でたたら従事者名ではあるまいか?
「あむ」は古語で「浴む」で湯浴みすることになるのだが、製鉄炉などの溶解した鉄も古代には「湯」と呼び、浴むは製鉄にフィットする。

このように「阿武」地名は花崗岩地層で、たたら製鉄に関連した地名である。
これを日本の花崗岩鉱床分布図で照らし合わせてみる。
 
 
 
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このように阿武地名は花崗岩のある場所に点在する。

なぜなら花崗岩は多種多様な鉱物の入り混じった石材だが、その大半がアルミニウムや砂鉄、石英、長石、雲母などによってできた集合体である。花崗岩地層は主として東日本よりも西日本の、瀬戸内地域、中国地方に広がっており特に、兵庫県神戸市御影、出雲、安芸、吉備などに集中する。東日本では阿武隈花崗岩地層、茨城県の筑波花崗岩などが有名。みかげいしというのは、磨くと光るのでついた名前。稲田石は地名。
 
西日本の学校の校庭は主に、花崗岩が流水や土石流で溶け出した河口の土を使うため、非常にざらざらした怪我しやすい土質になっているが、関東では花崗岩がないため関東ローム層は土質がやわらかく怪我をしにくいという違いがある。(高橋正樹)
 
また以前も書いたが、阪神淡路大震災では、御影の花崗岩が割れて、車ほどの大きさのかけらが町中を飛び回って落ちてきた報告がある(高橋)。非常に割れやすい、裏を返せば大量の鉱物を河口部に流しだす。「まさご」は花崗岩から出るもち鉄=砂鉄を含んだ砂のことで、海岸に堆積し、「白砂青松」の美観を作り出す。だから海岸線の白く美しい松原などでは、だいたい砂鉄、クローム砂鉄がとて、赤松を植えることでたたらの炭が焼かれていた。たとえば広島県福山市、宮城県松島・亘理地区、福井県気比松原、静岡県美穂の松原など名勝海岸はみな砂鉄と松とたたら製鉄・刀鍛冶などが往古から多い。
 
つまり「白浜」地名も鉄と関連して注目したほうがいい。浜の真砂はつきぬとも・・・の歌舞伎名せりふの現場は和歌山県白浜町や熊野灘。もち鉄産地である。

注目すべきなのは最近、花崗岩地層と大気中に拡散する放射性物質の多さが比例するという地質学会の報告であろう。http://www.geosociety.jp/faq/content0313.html
花崗岩は非常に表面が細かい凹凸が多く、さまざまな成分を受け止めてしまう性質がある。

また金峯山などの地名は花崗岩地名であるので、そこが修験のメッカであることと鉱脈探査は結びつくことになる。山梨県甲府北郡昇仙峡谷などは金峰山花崗岩体からできている。吉野の金峰山同じく花崗岩。熊本市金峰山同様。金とは鉄ゆえに金峰などは=鉄、花崗岩と覚えておくことが大事。
 
つまり役行者の一番困ったところとは金=鉄を牛耳ってしまったところである。だから朝廷はこれを捕らえようとする。別に鬼を使ったというわけではない。道教の天文トンコウの中にも鉱物を不老長寿の薬とするわけで、鬼とは製鉄工人のことであり、天狗とは鉱山師や修験者のことなのである。

貴重な鉄を取られては、豪族たちは武器や農具に事欠くこととなる。だから役行者伝説を作り出して、葛城氏族の残党を一網打尽にする口実にしたわけである。

次回に続く。
 
 
付録
もう少し詳細な分布図
 
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雷鳴閃光豪雨 /災害大国日本の将来とグローバルハザード

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↑上のブログタイトル枠の下に、リンクタグが置けるようになりました。
全部で6個置けます。今、5つは筆者のサイトへのリンクタグ、左端だけが考古学者・北條芳隆さんのサイトにしてあります。左端は、今後入れ替えをしていくつもりです。いつのまにかあなたのサイトにリンクしてあるかも知れませんよ。
 
 


 
 
 
いやはや、またすごい雷雨が過ぎていった。
前回はそのあと広島がやられた奴で、あれはもっと凄かったが、あのときびしょ濡れになりながら撮った動画は雨音が激しすぎ、暴風が吹いたので、雷鳴も稲光も撮れなかったのでボツにした。
 
今日の豪雨。
 
雷鳴閃光豪雨
 
 
 
 
 
 
日本は世界有数の自然災害大国
ハザードマップでリスクを認知して対策を

 「東北地方太平洋沖地震(2011年3月)を目の当たりにして、多くの人が、従来以上に地震災害に対する危機意識を持ちながら暮らしているのではないでしょうか。子どもの頃から理科や社会で学んできたように、日本は世界有数の地震大国であるだけではなく、実際にここ数年を振り返るだけでも三宅島の噴火(2000年6月)や台風9号(2009年8月)による佐用川のはん濫・山崩れなど、大きな被害災害を経験し、誰しも日本が自然災害大国(図表1)であることを認知しているはずです。しかし、私たちは「あらゆる自然災害に襲われる可能性(危険性)」と「生活を営む上での利便性(経済合理性)」を天秤にかけながら、結果として、自然災害を「万に一回の危機(クライシス)」として目を閉ざし、ないがしろにした生活を送っているのではないでしょうか。」
http://www.nisshinfire.co.jp/corp/pdf/si86_topics.pdf
 
 
 
 
◆小局と大局、足許と地球規模への視線
だからハザードマップをよく見返しなさい、とこのサイトは書いている。
それはそうなのだが、人間と言うものは概して「喉もと過ぎれば熱さを忘れ」てしまいたい生物であって、危険を見てみぬ振りしていたい存在である。
 
 
全国各市町村でハザードマップが作られている。あの3・11の翌年あたりからばたばたっと作られたものである。
 
 
 
当家にも去年一冊町内会から配布されたが、その内容には地震・津波・氾濫の危険地帯マップは掲載があるが、集中豪雨による土砂崩れ対策地図はなく、ただ注意点が列記してあるだけである。河川の氾濫地図がおそらく斜面崩壊や生き埋め危険地をかねていいるのだろうが。それにしても資料が最新かどうかは毎年更新されていないのでわかったものではない。
 
 
 
詳細は各地方自治体サイトにアクセスすればPDF地図がダウンロードできるはず。
さいわい、当家のある台地はなにも警戒地域指定はなされていない。
 
理由を考えると、阿蘇凝灰岩の台地の頂上で、土質は粘着性のある粘土層で、河川から遠いからだろう。しかし台地の裾からは水が湧き出し疎水の始発点になっているのであまり過信できない。
 
広島と決定的に違うのは、中国山地には火山がないために、長い歴史で西日本基盤地層である花崗岩基層に、九州のような凝灰岩がかぶさっていないことである。
凝灰岩は火山の溶岩流が基層にかぶさって、冷えて地表をカバ-する。でこぼこでもろいけれど、そこから出てくる成分は細かな砂土で粘着性が強いうえに、火山灰の微小粒子がそこにかぶさるために、いっそう粘着力が強まり、容易には雨で流れ出さない。つまり表層瓦解、地すべりが少ないのだ。(よく「お墓に水をかけるとすぐ割れるよ」という話が墓参りのとき出る。あの墓石は御影石、つまり花崗岩だね。雨ですぐ割れてしまうから、崩落しやすいので、地震でも危険度が高い。神戸の六甲・御影地名等は花崗岩ね。代わりに鉱物・ミネラル成分が多く、中国・関西地方の小学校の運動場の土はこれ。ガラス質で怪我し易い。西日本の砂浜も砂丘もこれでできた砂)
 
ただし、台地とは全国的に見て大河の運んだ泥が堆積した河岸段丘であり、大きくなれば関東のような沖積台地になる。小さな河岸段丘は、豪雨にはやはり弱い。それはお忘れなく。広島の安佐南、北には、まあしつらえたようにもろい真砂土(まさど)が乗っかった小さな河岸段丘が迫っていた。いやいや、人の方が迫っていったので、あきらかに人災なのだ。原因は一言で言ってしまえば「無知」・・・と言うと死者には不遜になるので、住宅地にしてしまった土建屋と市の責任である。
 
 

 
 
まあ、そういうことはあくまで小さな視点のハザード問題である。足許の問題がない人は、今後は、もっと地球規模の影響まで共有しておいたほうがよさそうだ。
 
 
 
グローバル・ハザードを同時に持つ。つまり危機感の養成が必要
 

ここ数年の夏冬を見ていると、東北大震災以来、毎年のように大災害が列島を襲っていると言える。そして春秋が短くなっているようだ。いい気候は一瞬で過ぎ去り、長い豪雪、長い豪雨、天候不順、激烈猛暑の夏と冬を繰り返している。このまま逝けば日本の国家予算から使われる災害対策費はどんどん割合が増えていくことだろう。国家は先行きが恐ろしいと感じる。

歴史を顧みれば、気候が不順になると、大陸では必ず異民族の侵入が起きたものである。現代は、化石燃料、資源の枯渇、異常気象によって中国やロシアや中東がきな臭くなっており、まさに歴史は繰り返すといった状況にも見える。

筆者の最も気にかかる出来事は、
1 シベリアの永久凍土が溶けて、地表に大陥没が起こっている事件である。あの巨大な穴からは、例の凍結ハイドロメタンの大気中への飛散が頻繁に起きていること。これはもうかなり以前に、シベリヤからやたらにマンモス半生遺体が出たりしていたので、世界はうすうす感づいていた。
 
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天然ガスが放逐されて成層圏のオゾン層を破壊している。すると宇宙からの宇宙線がどんどこ地上へ刺さってくる。ロシアが日本に天然ガスを売りたがった理由もここだ。しかしそれが今頓挫している。
ロシアがソ連だった時代からそれは始まっているので、ほとんどは内密にされてきた。本当はあんな穴は山ほどある。ツンドラ地帯は消えていっているのだ。すると土中のメタンガスのにおいがしたという広島の土砂の話がピンとこなくちゃならない。ガスはあらゆる土中に含まれる。それは植物腐敗から生じたガスだ。将来化石燃料になってゆく、それも資源である。地球は無機質からも資源を造ってくれる偉大な神なのだ。それを人類は使い果たし、ないがしろにしてしっぺがえしを今受け始めた。
 
 
 
2 原子力発電所の崩壊で太平洋に毎日垂れ流されている放射性物質。
 
3 花崗岩層に多量に含まれることがわかった放射性物質問題で、広島の原爆が70年前に拡散させた中国山地花崗岩層に付着してきた放射性物質が、集中豪雨によって表土を失い、染み出してくる(もしそうならすでに土石流中に染み出している)。原爆の放射線量は原発事故に比べれば微量だが、決して消えたわけでなく、成層圏あたりにまだ漂い、地球を循環している物質はある。それはチェルノブイリや今回の福島、あるいはスリーマイル、さらには過去の地上水爆実験による残存放射性物質もやはり上空を漂っているといういや~な事実。

4 新興国家の吐き出すCO2や、それにともなう有害物質による大気汚染と、これまでになかった急速な温暖化の先進各国の予算に与える悪影響。この問題は非常に深刻で、これまで後進地だった国々が発展するときに考える一番目が「これまで恵まれなかったのだから、今こそ他国を押しのけても勝ち組になってやろう!」とする、前近代的繁栄欲求がある。それまで先進地だった地域は、資源も枯渇して、これからは世界中が節約の時代、われわれが節約しておかねば開発途上国は繁栄できないと、懸命に対策をしていても、彼らはそれを有難いとは思わず、「今でしょう!」とばかりに世界経済を乗っ取り、独占し、他国を侵害するという成金行為をするのが歴史である。こうなるといずれ世界の均衡イデオロギーそのものが破壊されてしまう。そうなれば当然対立構造を招き戦争が起こる。
 
 
 
などなどだ。
 
 
 

 
 
自分自身の問題点を解決する
まず足許から、が一番目なのは当然です。
 
自分の家族、大切な人が住む家を、最近の安易な、官民一体であんきんたんな造り方をしてある建売住宅地に求めるのが、まず危険。そしてせめて立地を知っておく。昔は家を建てるのにまず土地を買って、自分で確かめて建てていた。だから個人の責任なので、すごく慎重に調査した。しかし建売住宅地は販売会社がコスト削減の大量生産した物件で、大工もやっつけ仕事してあると思ったほうがいい。うちなんかそうだ。それでも40年前のものだからまだましなほう。現代はしかも行政ぐるみでやっつけ仕事をしてしまう傾向。なにしろこの不況状況下で。
 
安全な場所だと完全に言える土地等日本にはない!と思うこと。
 
 
 
なにしろ日本列島は災害列島なんだから。
 
中国の脅威とか戦争なんかより、本当は異常気象、地球環境激変のほうはよほど破壊力がありますな。
 
 
 
 
浮島に住んでいるんだと思うことです。
 
 
 
 
 
 
※グローバルという意味は、世界中を歩き回るとか、飛び回って商売しているとかいうことじゃなく、「知る」こと、身につけることだと思います。そこには客観と主観によって世界が動いていることがちゃんと書いてあります。たとえば、ピラミッド、バベルの塔、高句麗式石積みと都塚古墳と大谷1号墳では、全部構造が違う。客観的建築学や考古学の理科的視点では全部別物となるよね。違うと考えたらもうそこにはリングがなくなるよね?ところが文系的、民族学、宗教学的着想では、すべて「高いところを見上げさせるため」の「仰揚型オブジェ」として同じものなんだよね。ヒエラルキー社会がその地域ではそこから始まったんだという目安になりますよね?これがグローバルな見方じゃないかとぼくは思うのね。
 
 
 
 
君子危うきに近寄らず
家を買うなら土壌と地形と地名で判断
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 
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装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

アルマジロトカゲというウロボロス

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尾をくわえて丸くなるアルマジロ・トカゲ
 
 
 
 
 
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ヘレニズム文化の「生命の再生」の象徴だったウロボロスの蛇
 
 
 
 
 
 
 
蛇がとぐろをまく姿を、日本では三輪と呼ぶが、それは神である。
世界的に見ても
脱皮して大きくなる爬虫類を
神・神霊・祖霊の象徴とした地域は非常に多い
 
 
 
ところがその空想上の生き物が
実際に存在する・・・
 
 
摩訶不思議。
 
 
 
 
 
 
アフリカ最南端にしか生息しないアルマジロトカゲの姿が、古代ヘレニズムでは空想された聖なる獣となっている。見てきたのだろう。交易されて地中海へ運ばれたのかもしれない。いや、実物を見てしまえば、かえって聖なるクリーチャーにはなりえなかったという考え方もある。中国の龍にしても、西ローマ人が見たわけでなく、伝聞によったからこそ翼を持ち得てドラゴンとなる。中国人も蛇から龍を想像した。インドのヒンドゥー教徒たちはウロボロスを天子クリシュナーの姿にしてしまう。
 
 
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漫画で図解東洋の真理 宇宙を呑むクリシュナ神=ブラフマン
 
 
 
 
 
古代人の想像力のほうが現代人よりも数段グローバルじゃないか。
 
 
 
 
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蛇抜け地名など

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筆者のほかサイトへのリンクはタイトル下にタグがあります
 

(※注意 このサイトなどのいわゆる災害地名というのは、すべてが災害があった史実にあてはまるわけではないことは先に書いておく。そういう地名に住んでいる場合、地域の歴史や土壌など再確認するきっかけになればいいということである。Kawakatu)
 
 
 「日本の各地に過去の大災害の教訓と深く結びついた地名が残っています。楠原佑介(くすはら ゆうすけ、地名研究家、1941~)によると、東日本大震災(2011.3.11)の東北の被災地にも過去の津波の痕跡を示す地名が少なくないという。
 
 
 
○ 名取市(なとりし、宮城県)の「な」は古語で土地を意味し、「とり」は土地が削り取られたことを指し、その昔津波が地面を削り取った土地だとのことです。続日本記(しょくにほんぎ、697~791)によると、この地名はすでに奈良時代にあり、平安時代の貞観年間(867~876)に起きた大地震と津波は有名ですが、それ以前にも多くの災害があったのではと見ています。東日本大震災では津波で900人を超す犠牲者を出し、仙台空港が一時使用不能となりました。
 
○ 女川町(おながわまち、宮城県)、小名浜(おなはま、福島県いわき市)など、 「おな」が付いているところが、東日本大震災で被災地名になっています。これは、男波(おなみ)と呼ばれる高く打ち寄せる波のことを、「み」を省き、「おな」と呼んだ名残と推測されます。
 東日本大震災では、女場(おなば、宮城県南相馬市小高区)、女遊戸(おなつぺ、岩手県宮古市崎山)の両集落は、海岸沿いではないのですが、津波の被害を受けました。海のそばで、「おな」の付く地名は東北地方だけでも十ヵ所を超えるという。
 
○ 波倉(なみくら、福島県樽葉町)の倉とは、「刳(く)る」が名刺化した語で、地面がえぐられたような地形に使われることが多いという。文字通り、波がえぐった土地というわけです。今回の東日本大震災では辛うじて損壊をまぬがrた福島第2原発も、津波の危険性は大きいことが推測されます。
 
○ その他、釜石(かまいし、岩手県)は、釜のようにえぐられた磯に由来し、気仙沼(けせんぬま、宮城県)は、津波によっても「消せない」との願望の意です。
 また、東海地震で危険が疑われる場所として、鎌倉市(かまくらし、神奈川県)があり、「かま」とは、かまどや釜の由来でもあるように、穴のへこんだ状態のことです。記録が確かな13世紀の百年間だけでも7度の大きな地震、津波に襲われ、膨大な死者を出したことを語り継ぐ必要があります。
 
○ 芋川(いもかわ、新潟県)は、「埋もれる川」、中越地震に近い山古志村から南流、妙見(みょうけん、新潟県)は、損壊するという意味の「めげる」に由来し、中越地震で山崩れが発生、加賀(かが、石川県)は、自然の力で「欠け」た土地の意味、波により多くの崖(がけ)ができたとのこと、灘(なだ、兵庫県)は、地面が大きな力で「なでられる」、「なだれ」に由来、阪神大震災で被災、桜島(さくらじま、鹿児島県)は、噴火口が「裂(さ)ける」に由来、普賢岳(ふげんだけ、鹿児島県)は、「吹けぬ(噴火しない)ように」との願望の意です。
 
○ 蛇抜(じゃぬけ)の地名は、長野、岐阜、富山、長崎など各地にあり、水害の歴史と深く結びついています。笹本正治(ささもとしょうじ、歴史学者、信州大副学長、1951~)によると、かって蛇抜で多くの犠牲者が出た与川のある木曽地域では、花こう岩の白い地質があり、川を曲がりくねりながら抜けていく土砂は、白い大蛇に見えてもおかしくなく、ここから土石流を蛇抜と呼ぶようになったと推測されます。
 東日本大震災という未曽有の大災害を受け、全国の自治体では各種のハザードマップを作成する動きが広まっている中、楠原氏は、「マップには大字(おおあざ)や小字だけでなく、確認できる限りの旧地名を盛り込み、古(いにしえ)の人々が未来にどのような警笛を鳴らしているのかを、考えて欲しい」と提言しています。
(参考文献) 北陸中日新聞: 地名から災害の歴史を学ぶべきだと話す楠原氏(東京都千代田区で)、研究家が著書で訴え、地名から災害史学んで、この地名が危ない(幻冬舎新書)今月下旬出版、2011年(平成23年)12月3日(土)朝刊; 北陸中日新聞: 生活、蛇抜、蛇の道、地名は災害教訓、2013年(平成25年)1月7日(月)朝刊.
 
 
(追加説明)
 
 ○ 阿波(のち徳島)藩の藍の生産地、板野(いたの)の地名は、板(いた)は、傷む(いたむ)の語幹であり、河川などによる川岸の崩壊に由来するので、板野(いたの)は吉野川の氾濫によりできた平野を意味していると推測されます。
 
 1784年(天明4年)頃、阿波藍の生産地の中心は、吉野川中・下流域の北方5郡(名東、名西、麻植、板野、阿波)、特に吉野川下流の板野郡の地域でした。この地域は、吉野川が毎年氾濫し(1800年代で16回)、上流から土砂が流出し、肥沃な平野を形成していました。
 
 俗説では、徳島藩が吉野川流域に堤防を築かなかったのは、流域の藍作を持続したいためとのことですが、史実は、藩には吉野川の完璧な治水工事を行う財源もなければ、労働力の確保も出来なかったのだと言われています。」
http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-4616.html
 
 


 
 
 
 
留意点
 

芋川地名・・・「いも」は鋳物(いもの)地名でもある。鋳物師(いもじ)は播磨を中心にした針鋳物師が渡来系工人だろうと考えられ、近畿では京都南部に「いもあらい」などの地名がある。姫路鋳物師たちは中世以降、東北に招聘され南部鉄器の元を形成した。芋川は鉄を冷やした川という地名。ただ、そういうせせらぎや小川が扇状地の急斜面にあることは否めず、当然上記のごとき災害地名としてリンクしていたこともあるだろう。
 
 
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芋川決壊による護岸工事計画 新潟県
 
広島市芋川、氾濫。
 
 
 
 
 
 
 
蛇抜け・・・蛇、まむし、むかでなどは鉱山師の隠語地名で、鉱物の筋を指す。当然、鉱物を多く含む地層には花崗岩が存在する。「へびがぬける」とはほかの地名で言うなら「山移やまうつり」なのであり、土砂災害も多かったわけだろう。また蛇にともなってその土地に三輪伝説、苧環型、神婚丹塗り矢伝説、ミゾクイなどの治水豪族伝承なども付随する。東アジア最古の治水王は中国夏王朝(商・実在)の伝説的王・夏王禹である→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%B9
大崎、さけ、さきなども河川氾濫、決壊地名で、京都では大酒、兵庫では大裂、地名で大崎、稲荷、きつねなどなども秦氏が切り開いた土地の意味。阿蘇の蹴り裂き伝説も阿蘇氏開拓地名。
 
 
 
 
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また蛇は「は」「はは」「はぶ」ゆえに、羽地名も。付随して久留米の「羽犬原」なども。「はいぬ」とは「蛇犬」か?犬は鉱物を探すもの=ポチで、蛇=鉱脈。そういう氏族がいた場所。当然危険地名となる。
 
サル・・・申は仏教で北東の鬼門、古神道、陰陽道、道教で北西で「金」。いずれも鬼門で、サルや猿太彦つまり庚申が置かれるということは危険な方向。要するに鬼は災害、災厄、わざわいの象徴。近世以降、「去る」に転じて、魔物よけに。ちなみに当家は北東にサルの玩具を置いている。(苦笑)
 
あわ・・・泡のようにふらふらした安定しない。夢の浮島。同時にアワビの多い海がある土地。生命が生まれ出る場所。粟島、淡島。浮き橋=この世のものでない不安定なはっきりしない=和歌山弁「あわいさ」。
 
 
ユリ・・・百合、由利は淘汰させる製鉄、精錬地名。ユリ分ける・・・百合若大臣。流れ出す溶岩、なだれ、土石流。揺れる。
 
田原・・・淘汰。田原の藤太。むかで退治。藤原秀郷。製鉄武人。「ふじ」=ツル=葛=井戸掘り、垂直坑道を掘る人。
 
 
広島の安佐地名は二つの村の複合地名で、災厄とは無関係。
 
なが・なか・・・海人地名。「なが」は蛇で河川が分かれる中州地帯などを言う。つまり低湿地で津波や高波、氾濫に弱い。「なか」地名に関しては「那珂地名」として別記事を参照。「なが」はサンスクリット語「ナーガ」=複頭の大蛇。ヤマタノオロチこれは出雲の簸川の象徴。
 
中通し、中通り・・・なか=蛇が抜けた場所。通ったところ。つまり決壊や土石流、津波地名。五島列島中通り、福島県中通り、熊本県阿蘇市中通(なかどおし)古墳群など。
 
また中=蛇=海人族海士地名。あま=スム・住吉・つつ・つづ・くくり・きくり・もぐり・かずく、かづき、くぐる・くぐつ・くくつ・くくち・くこち・きくち・・・・

須佐・・・「すさんだ」「荒れた」。そういう神々の子孫がいる所。つまり工人=荒神。千手観音=技術者の仏。工人、技術者は儒教観念から差別され河原などに住んだ。そういう場所は危険な土壌だったことが多いわけである。湿地や海抜0m地帯、高山、山奥の奥。山頂。河原。扇状地。匠地名なども山奥が多い。隠れ住んだ。同時にスサノヲ子孫伝承や新羅神信仰、一向宗、時宗、隠れキリシタンなどのマイノリティな信仰。平家落ち武者伝説、貴種流離譚、天照御魂信仰などなどが付随。
 
羽生・・・はにゅう、蛇が生まれる土地。水銀、ベンガラ地名。土生。壬生。秩父。鉱山。
 
 
なた・なだ・たるみ・すわ・・・大風、洪水、難破、津波
(※人名と地名に直接関係はない。その土地に入ったことで名乗るのが中世動向も明治の苗字名乗りも普通。地名が人名と同じ意味を持つ人は相当古い血脈の人で本物といえる。つまり埴生、羽生などは古代から鉱山師か画師か古墳作成者で地名の大元になるほどのご先祖さま氏族だ。)
 
 
 



 
 
もう一度書き添えておくが、その後改良された土地もあれば、そのままのところもある。必ず土壌調査や災害史実などと照らし合わせて利用されたい。所詮は伝承であることはお忘れなく。ヒントになれば幸い。また地名は明治以後、相当変更があるし、平成の合併もある。慎重に。安易な引用は風評被害を生みますので。引用するときはしつこいほど、こういう注意点を添えておいていただきたい。知らないところで差別をしてしまうことになりかねない。
 
ただし、そこに住む人にとって、どんなにささいな迷信、言い伝えでも、危険から遠ざかるためのヒントにできることは間違いなく、石橋を叩くことになるのである。昔は老人たちの言い伝えがあった。民俗学的な話は生活の中に生きていたのだ。それが今は老人のたわごととされ、耳を傾けなくなった。だが地名は静かにそれを伝えている場合が多い、地方自治は地名をどんどん改変している。危険を増幅させているとは気づかずに。
 
住む町の言い伝え、土壌、地名、そして歴史を知っておくことは、あなたの危険度を間違いなく軽減します。しつこいようだが、過去記事と重複しても、こうした記事は定期的に何度も繰り返し書いておく必要があると思っている。
 
 
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氷水かぶって、善意のねずみ講パフォーマンスやっているひまがあったら、足元を調べてください。金持ちは金を出し、貧乏人は水被るのが正しいんじゃないの?やらないものは悪人になってしまいかねない、冗談が過ぎた行い。だって病気はそれだけじゃない。たとえ僕の息子がそうであっても、ぼくには別の貢献方法をとる権利がある。
 
 
 
 

ヤマタノオロチの鳴動シーン

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記憶に新しい国道168号線での地すべりシーン
 
 
 
 

『古事記』神代 スサノヲの尊天下り・八俣の遠呂智退治すのこと

「故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪(とりかみ)といふ地に降(くだ)りたまひき。此の時箸(はし)其の河より流れ下(くだ)りき。是(ここ)に須佐之男命、人其の河上に有りと以為(おも)ほして、尋ね覓(もと)めて上り往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)の二人在りて、童女(をとめ)を中に置きて泣けり。
 
爾(ここ)に「汝等(なれども)は誰ぞ。」と問ひ賜ひき。故、其の老夫答へ言(まを)しけらく、「僕(あれ)は国つ神、大山津見神の子ぞ。僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ、妻(め)の名は手名椎(てなづち)と謂ひ、女(むすめ)の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と謂ふ。」とまをしき。亦「汝(な)が哭く由(ゆゑ)は何ぞ。」と問ひたまへば、答へ白言(まお)しけらく、「我が女は、本より八椎女(やおとめ)在りしを、是の高志(こし)の八俣の遠呂智(おろち)、年毎(としごと)に来て喫(くら)へり。今其が来(く)べき時なり。故、泣く。」とまをしき。
 
爾に「其の形は如何(いかに)。」と問ひたまへば、答へ白しけらく、「彼(そ)の目は赤加賀智(あかかがち)の如くして、身一つに八頭八尾(やかしらやを)有り。亦其の身に蘿(こけ)ち檜椙(ひすぎ)と生(お)ひ、其の長(たけ)は谿八谷岐八尾(たにやたにをやを)を度(わた)りて、其の腹を見れば、悉に常に血爛れたり。」とまをしき」
 
 
 
「おろちの姿は「目はホウズキのごとく真っ赤で、身ひとつだが頭と尾は八つあり、は苔むして、背には杉・ヒノが生え、その長さは八つ又の谷を越えるほどで、その腹は常に血でただれている。」
 
 
目はホオズキのように真っ赤・・・「かがち」と表現しているのがホオズキの古語だとされるが、「加賀地」とはぎざぎざしてとげとげしい断崖絶壁。大分県豊後高田市に「かかぢ・かかぢ」という地名あり。吉野裕子は「かがち」は「蛇」であるとする。「かが」は海蝕崖や洞穴=目のあるような崖を指す(かがのくげど)。海岸に迫る崖がある。ホオズキの赤い実をした大蛇とは、そういう大怪我しそうな崖であるか?あるいはその原生林の中に点々と見える真っ赤なハゼやナナカマドの紅葉であろうか?
 
身はひとつ八頭八尾・・・山塊の尾根と谷を言い表している。
 
身は苔むして・・・まさに山を覆う苔
 
背にはスギ・ヒノキ・・・動画そのままに、森が動くのが地すべり。「山が動いている」とはこのこと。木々は大きく揺れ、大蛇動くが如しである。
 
腹は血でただれたように真っ赤・・・一般に出雲の緋の川に、降雨時に滲み出てくる砂鉄成分、赤土成分の表現。
 
そして謎の「古志からくるオロチ」・・・古志とは越前の水沼の海士つまり諏訪の蛇神タケミナカタである。これをスサノヲが退治することでタケミナカタは出雲へ翡翠をもたらすよき神、妻となる。その前身は筑紫の安曇であろうか。出雲海人族と有明海人族の争いがあっただろうことは甕棺の戦争遺体や、鳥取青谷などの遺跡で想像できる。そしてオオクニヌシと義兄弟となる。
 
 
 
まさに出雲のみならず、葦原中津国の治水王の伝説である。
 
 
 
 
 
 
 
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ちち・はは・かか、血・川・皮は全部霊魂のチで蛇?

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【引用】
「古代に日本では、K音とH音の区別がないので、「カカ」と「ハハ」は同じ言葉である。このことは、日本にも、世界の他の地域でと同様に、蛇を地母神の化身と見る女性崇拝の宗教があったことを示している。蛇は、川のように大地の上を蛇行するがゆえに、水の神としても見られていた。
 
古語で蛇を意味するカカは、ハハ(k→h)に転訛する。ハハは水平、あるいは大地性、カカは垂直性、あるいは直交性を示していたと考える。カ・ハで皮、脱皮と関係するのは偶然だろうか。(参考:カタカムナの図)」
 https://twitter.com/kihitsu/status/467554444213645312/photo/1
 
 
おっとう、おっかあ
はは、かか、おっかあ、かあさん・・・かは・・・皮、川、側・・・・
「川と河は同じ語源で、流れの幅によって漢字を区別します。
 川→幅が狭い流れ、河→幅が広い流れ。
 古語「かは」の語源は流れる音「がはがは/がばがば」。
 皮と革と側は同じ語源。(古語:かは)
 「皮」が鞣(なめ)されると「革」。
 皮は体の一番外側にあることから「側」。
 古語「かは」の語源は「上肌(かは)→側→皮」が有力。

 以上のように、「川」と「皮」は語源は異なるようです。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1125717936
 
「か・は」は「か」=上、「は」=被るで、表面をかぶせてあるもの。
古代、ある地方で蛇を「かか」とも言ったが、これは脱皮するものを指す方言ではあるまいか?

 
一方、川の方は、蛇のような「か」、曲がりくねった「わ」。「河曲、河勾、河匂、河輪、河和、川曲、川勾、川匂、 川和・・・かわわ」は河川が曲がって湾どになっている地形である。

「曲がり」と同意。従って「川」と「皮」は同じところから生じた同音異語ととらえてよいのではなかろうか?
 
すると「はは」はなぜ母親を表すことになったか?
そもそも「母」の「かか」は武家の「おかたさま」からの転である。
「かたさま」「かあさま」「かかさま」「かあちゃん」「おかあさん」「おっかあ」「かか」・・・・

母の「はは」は「天の羽羽矢」の「はは」と同じ。つまり蛇。子を生むもの。生命力。

「はは」が蛇で羽状の筒であり、そこをつらぬき差し込んである棒が父=矢=男根でこれまた一体の蛇である。「は」は「はぶ」「はむ」の「は」で、「噛む」もの。
 
「父」の「ちち」は「おやじ」の「じ」、「おじ」の「じ」に同じく、オロチの「ち」で、霊である。ミヅチの「ち」も水霊で姿は蛇である。祖霊であるゆえにその血脈も「血 ち」で「つながる」=「掛かる かか・る」のである。「ちち」の幼児用語が「てて」「とと」である。
 
「か」は「かみ」の「か」
アイヌ語で神はカムイ
宮古島で巫女を「カンカカリャ」=神ががり屋という。(デンドロカカリヤではないよ)
「掛かる」は橋でつなぐこと。
霊魂をつなぐものが巫女である。
橋は異界とこの世をつなぐ虹で、蛇である。
つまり「かか」蛇は、つなぐもの、霊魂をつなぐ橋で虹である。
 
白川静daisennseiが生きていたら殴られるな。この続きはおちゃらけそうなので、ステージを変えて書きます。
 

面白い動画で歴史知る

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“国の史跡”1500年前の円墳 記録的豪雨で崩落(14/08/19)
 
 
所詮復刻した人工物なんだから、少々の雨でもすぐ壊れてもなんら驚く事件でもないんだけれど、崩落の仕方などは参考になりますな。
 
1500年間で最も降ったなどと言っているが、古墳そのものが整備され、作り直してあるのだから、それは当たらない。オリジナルの古墳は過去、かなりひどい状態だったはずのものをやりなおしてあり、つまり、現代の整備作業が不備だということでしかないでしょう?
 
ちゃんと版築をしっかりやらないからそうなったんですよ。京都の考古学は昔からちょっと古代を軽んじてきましたからね。
 
 
 
 
 
「氷水バケツ」パレスチナ版 ガザの現状訴え、がれきを浴びる(14/08/26)
 
 
アイロニーに富んだいい行い。
金持ちはやるべきこと、金を出すべき肝をわかっていない。そう言っている。
 
パレスチナはもう2000年、ほったらかされ、やっつけられ、勝手な先進国のわがままに翻弄されてきた。ここを解決しなければ、世界平和なんか夢の夢。
直接的には石油高騰させているのは先進国だと言える。
 
 
 
 
 
 
古代のピラミッドにファンら列 奈良、都塚古墳で説明会
 
マスコミも好事家も結局はヤマト至上主義史学に踊らされているってこと。
 
 
 
 
 
 
 
古墳にコーフン協会 石舞台古墳でコーフン
罪がない。
罪がないから人気出た。
しろうとはこれでいいのだ。
 
 
 
 
 
 
古代人からのメッセージ・装飾古墳の謎 Messages from the ancients.
 
秋の公開ですな。
 
 
 
 
 
 
「火星の大地で前方後円墳を発見!」ムーの基礎知識2014年5月号
 
まあ、楽しめるからいいんじゃね?
 
朝から飲んで機嫌のよいKawakatuでした。
 
 
 
 
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科学と伝承が語る三輪山の災害、全国の災害と蛇の伝承

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斜面環境 山の辺の道「1」
中村 三郎 防衛大学校名誉教授・理学博士

4-2 断層前面緩斜面の古墳群
 「大神神社から北へ1.5kmの位置に桧原神社がありますが、このお宮も三輪山そのものがご神体であるため拝殿も本殿もなく、三輪山へ向けて鳥居のみが三つ立つユニークな構えの神社で、大神神社の摂社であります。「山の辺の道」を北方へ移動すると、巻向川へ出ます。川沿いに30戸ほどの集落があり、巻向川の谷は俗に「車谷」と呼ばれ、川の上流は断層崖のV字谷を流下し、その後三輪山北麓を西流し下流は初瀬川に合流しています。川の流れを利用して、当時車谷では30を超す水車を稼働させ、三輪そうめんの原料である製粉、あるいは油絞りなどが盛んであったと言われています。

 巻向川をこえて竜王山(585.5m)の西山麓には、新旧の扇状地緩傾斜面が発達しており、一部押し出し地形とも考えられる尾根状地や、埋積地塊状の地形起伏を見ることができます。この地帯一面に「柳本古墳群」があります図-6(天理市2004)。2基の巨大な前方後円墳を核として構成された古墳群であり、古墳群北東部に位置する行燈山古墳(崇神天皇陵)、南に位置する渋谷向山古墳(景行天皇陵)の他17の古墳が報告されており、奈良県において最も重要な古墳群の一つとされています。一般に断層沿いの地形と集落との関係をみると、集落は断層直近部分か扇面末端付近に認められ、この位置は湧水との関わりの深いことが十分・・・
 
また、自然災害と関わり深い異常気象問題について、最近の報道(読売2010)では、名古屋大の中塚武(地球化学)教授が、木の年輪の分析結果から、2〜3世紀にかけて確かに干魃や激しい大雨の時期が繰り返し存在していたことを実証しています(中塚2010)。歴史や考古学の記載でも、当時大和地方における自然災害の頻度は多かったようであります。造構造運動の激しい日本列島、モザイク状の複雑な列島は、モンスーン地帯ということもあり災害の頻度激しく、古来為政者は自然災害との対応に苦労してきました。このような自然条件の中でも、3世紀前半頃には大和の稲作農村社会は逐次発展し、支配階層は強力となり勢力圏も拡大しました。この頃、順次多数の原始的国家の並立に終止符をうち、大和に統一国家としての大和王権を出現した(日林調1998)とあります。

 前記柳本古墳群北東部に位置する行燈山古墳に祀られている崇神天皇(258年没)が、日本最初の統一者であったということは、古典に「御肇国天皇」と記載され讃えられていることから、確かであると指摘されています(水戸部1989)。崇神陵は山麓に墳丘を築き、周りをダムアップして環濠としたもので、かなり高度の技術を要した立派な陵墓で、肇国の英雄にふさわしいその功績を後世に伝えようとした往時の人々の意向が伺えます。

 大和王権出現の頃から、奈良盆地を中心とした地域

間の交流はますます緊密となり、人の行き来する手段としての「山の辺古道」は大きな役割を持ちました。同時に大和川は国内外の歴史・文化を育み、人々は国の安泰と共に、国土の防災に伴う地域の安全・安定のための防災意識を強く持つことになります。

 最近の兵庫県南部地震(1995)・新潟県中越地震
(2004)、そしてこの度の東日本大地震(2011.3.11)において日本人は大変な被災経験をしています。調査等で来日された国外の人々が異口同音に賞賛する、被災地における日本の人々の行動と冷静さと秩序の良さがしばしば報じられています。これは、古来頻度激しく地震や風水による災禍を経験し、耐えてきた日本人の心の中には、万物の生滅変化の過程で天然の無常という感覚が培われ、それが国民性・精神性に大きな影響を与えているのではないかと言われています。

 人間には人間の都合、自然にも計り知れない自然の都合があり、その狭間で私達の生活は展開しております。「山の辺の道」をたどりつつ周縁の風情を展望していると、古奈良の「人と自然」に関わる経過と歴史を感じることができます、同時に何時の世も「アメニティー」と地域防災の大切さを改めて思考させてくれるような気がします。」
http://www.stc.or.jp/14sabo/sabo/pdf/SABOVol.107.pdf
 
 


 
 

1みわやまでんせつ【三輪山伝説】 
《古事記》《日本書紀》崇神天皇の条にみえる伝説。《古事記》によると,陶津耳(すえつみみ)命の娘活玉依毘売(いくたまよりびめ)には夜な夜な通う男があってついに身ごもる。父母が怪しんで男の正体をつきとめるために,糸巻きに巻いた糸を針に通して男の衣の裾に刺すように娘に教えた。翌朝見ると糸は戸のかぎ穴から抜け出ており,糸巻きには3巻きだけ残っていた。そこで糸をたよりに訪ねて行くと美和(みわ)山の神の社にたどりついた。 (苧環型)
 
 

2丹塗り矢型説話
「丹塗り矢と水銀」
 「カミムスビの娘キサカヒヒメは加賀の潜戸で我が子が立派な男神なら失せた矢よ出てこいと言った後、鉄の鏃の矢が出てきてその矢で洞窟を射通した。その他、オオモノヌシが丹塗り矢となってセヤダタラヒメと通じる話、ホノイカヅチが丹塗り矢になってカモワケイカヅチが生まれる話もある。丹塗り矢は赤い色、鉛丹という性質から邪霊を払う意味もある(丹塗り矢型)。
  洞窟・溝と女性性、矢と男性性が結びついており、タタラは製鉄と関連し、丹は水銀と関連している。金属が男性・女性の結びつき、生産と結びつけられるのは当然だろう。このように神話は自然と人間の重要な営みの関連性を比喩によって表している。」
http://toi-clinic.com/sinwa/21-40/sinwa-33.html
 

 
『新撰姓氏録』大和国神別大神朝臣条
  「大神朝臣。素佐能雄(スサノオ)命の六世孫、大国主の後なり。初め大国主神、三島溝杭耳(ミシマミゾクヒミミ)の女(ムスメ)、玉櫛姫に娶(ミア)ひたまひき。夜の曙(アケ)ぬほどに去(カエ)りまして、来(ミタ)すに曾(サラ)に昼到(キ)まさざりき。是に玉櫛姫、苧を績み、衣に係けて、明くるに至りて、苧の随に、尋覔きければ、茅渟県の陶邑を経て、直に大和国の真穂の御諸山(ミモロヤマ)に指れり。環りて、苧の遺を視れば、唯、三縈(ミワ)のみ有りき。之に因りて姓を大三縈(オホミワ)と号けり。」
 
 
 
神武紀 大物主
「然れども更に大后(オホサキ)と為む美人を求めたまひし時、大久米命臼しけらく、「此間に媛女有り、是を神の御子と謂ふ。其の神の子と謂ふ所以(ユエ)は、三島溝咋(ミシマミゾクヒ)の女、名は、勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)、其の容姿麗美しかりき。故。美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れる溝より流れ下りて、其の美人の富登<此の二字は音を以いよ。下は此れに效へ>を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎(イススキ)。<此の五字は音を以いよ。>乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)命(ミコト)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂う。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。」
 
 
 

『神道集』諏訪縁起事・大岡寺観音堂縁起
「甲賀権守の息子である甲賀三郎は大和の国司となり、三笠山の春日大社参詣のおりに春日姫を娶る。だが、三郎が二人の兄と伊吹山で狩りをしていると春日姫が行方不明になってしまった。
 春日姫を探し求めた三郎は信州蓼科岳の人穴のなかで妻と再会し救い出すことに成功するが、兄たちの企みにより穴から出られなくる。
 三郎は流浪の末に辿りついた維縵国(ゆいまんこく)で国王の末娘と結婚して、そこで13年と六ヶ月の間暮らす。だが春日姫のことが忘れられず、再び地上に戻る決心をして国王父娘の協力を受け、千日かけて信州浅間岳に着く。
しかし笹岡の釈迦堂で三郎の体が蛇になっている事に気づき、彼は仏壇の下に身を隠してしまう。日が暮れた頃、釈迦堂に十数人の説法僧が訪れ、その会話から甲賀三郎は維縵国の服を脱いで池の水を飲み、呪文を唱えることでと元に戻れることを知る。人に戻った三郎は三笠山で春日姫と再会し、平城国で夫婦ともに神道を学ぶ。
そして信濃国岡屋庄に諏訪大明神として現れた甲賀三郎は上社に、春日姫は下社に祀られることになった。 」

甲賀三郎訪方(すわさぶろう・よりかた)→
 
 

泉小太郎神話
「西塩田村にある鉄城山の山頂に寺があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った寺の住職は、彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、住職が糸をたどって行き着いた先は、川の上流にある鞍淵の洞窟であった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があった。住職は驚いて逃げ出し、出産を終えた大蛇も正体が知られたことを恥じて死んでしまう。赤子は小泉村の老婆に拾われ、小太郎という名前で育てられた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎であったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、老婆から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。夕方、小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は老婆に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った老婆は結びを解いてしまう。すると、束がたちまち膨れあがり、家も老婆も押しつぶしてしまった。」(童話『龍の子太郎』の元になった信州の話)
 
 
 
 
健磐龍命と蹴裂伝説
「むかし、阿蘇谷や南郷谷は外輪山にかこまれた大きな湖でした。
  この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑をひらいた神様、健磐龍命のおはなしをしましょう。 命は、神武天皇のおいいつけで、九州の中央部を治めるために、山城の国から、はるばる阿蘇の地にやって来たのです。
  外輪山の東のはしから、満々と水をたたえた湖を眺めていた命は、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えました。外輪の壁を蹴破ることは出来まいかと、ぐるっと見回し、北西にあたるところにやってきたのです。
 「よし、ここを蹴破ってみよう。」
  しかし、そこは、山が二重になっていて、いくらけってもぴくともしないのです。現在、二重の峠と呼ばれているところでした。
  命は、少し西の方にまわってみました。「ここならよかろうか。」満身の力をこめて蹴りつけました。 湖の壁は大きな地ひびきをたててくずれ落ち、どっと水が流れ出したのです。
 あの阿蘇谷.南郷谷いっぱいの水も、みるみるうちに引いていきました。
 しかし、途中からばったりと流れがとまってしまったのです。
 「これはおかしい。水が動かなくなってしまった。」
                            
  命は川上を調べてみました。おどろいたことに、巨大な鯰(なまず)が、川の流れをせきとめていたのです。尾篭(おごもり)の鼻ぐり岩から、住生岳のふもと、下野までのあいだに横たわっていたといいますから阿蘇谷の半分ぐらいに及んでいたことになります。
 命は、この鯰を退治しました。鯰が流れついたところを鯰村、といい村人が片づけた鯰は、六つに分けられたため、その部落は六荷-六嘉(ろっか)というようになりました。
また、水の引いていったあとが、引水(ひきみす) 土くれがとび散ったところは(つくれ)津久礼 小石がたくさん流れていったので合志(こうし)、水が流れ出したところは数鹿流(すかる)であり、スキマがアルという意味だともいい、鹿が流されたという意にもとれるのです。阿蘇には、このように神話や伝説にちなんだ地名が多いようです。」
 
 
 
 
緒方三郎惟栄:嫗嶽大明神伝説
既出苧環型異類婚姻譚 http://www1.bbiq.jp/hukobekki/ogata/ogata.html
穴森神社伝承
 
 
これらすべてが大三輪氏つまり大神氏が伝えてきた伝承である。それはつまり多氏の伝説だということになる。『古事記』を編纂した太安麻呂の先祖伝承である。オオタタネコの子孫の伝承である。つまり『古事記』の底流に彼ら多氏『古事記』がまずあって、そこから『日本書記』も出てきたのだと大和岩雄は言うのである。
 
 
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真楽寺大池(甲賀三郎伝説)
 
 
 
 
 


 

いずれも蛇あるいは矢が主人公の伝奇的説話・伝承である。
そのどれもが蛇すなわち災害が神であることを言い、蛇が地下、地中の穴に潜み、人前に姿を変えて出てきて、妻を求めることとなっている。これはちょうど出雲神話の八岐大蛇が、毎年娘を生贄として食べに来るのとまったく同じ意味である。つまり大風や津波や土砂災害を象徴している。

苧環という糸巻きは、古代中国の西王母が持っている「工」である。これを「かせ 枷」と言う。これは以前も書いた。手かせ足かせの枷である。工人の「工」の形である。つまり工人とは最初、糸をつむぎ、機織し、衣服を縫うものであり、そのもくもくとした行為を巫女の呪であると考えたのである。また、同じく初期技術である籠編みもまた呪であり、こちらは「籠もる」とした。神獣鏡の西王母や東王父が手にコンパスや定規を持つわけはここにある。九州に多い方格規企鏡の「きく」とは定規とコンパスのことで、TLM鏡などと形状で呼ぶこともある。それぞれT字定規、差し金、コンパスを表す。
 
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その苧環を蛇の衣に指すというのは、娘の側の「願い」を示している。祖霊の正体を片や蛇=海蛇=来訪する災害神に求め、妻になるものを生贄=人柱=人身御供=災害平癒の犠牲としてある。災害とは言うべくもなく、古代にはなすすべもない神の怒りであったが、それはつまり大自然の摂理、すなわち宇宙と地球のなせるパワーの象徴なのである。ゆえに宇宙=神だったのが古代~近世である。その姿のひとつに蛇という、地を這う異類に求めたわけは、蛇が山を鳴動して降りてくる土石流や溶岩流にたとえられたからにほかならない。

だから「つつ」の解釈に吉田東伍などが「星」としてしまったのも無理はなかった。しかし宇宙すべての象徴が「つつ」という蛇にたとえられるとは考え付かなかったようである。スケールが違うのだ。まことにトポロジー的な着想を、古代人は想像できた。「筒」のような形状の蛇は、中身が一本の管で、それが輪になるとなんと永遠の生命の輪廻であると、古代人は考えることができた。すでに現代の学者や詩人や哲学者を、はるか大昔に彼らは越える発想をなしえたのだ。

そしてそれが宇宙の原理、大地母の摂理であり、神の使者なのだとまで考えた。それが古墳時代あたりには祖霊となり、一族の生命の根源となり、勾玉のような新生児を生み出し憑依して、一族はいやさかするのだと、彼らは信じた。
同時にその神は、大災害という怒りを引き起こし、一族に災厄をもたらした。神とはそういうものだった。祝いと災厄の双方を、確かに大自然は交互にもたらしたのだから。
 
 
 
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五つの火山が同時爆発?カムチャッカ

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カムチャッカで謎の赤い爆発
 
 
五つの火山同時爆発8月24日
 
 
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それぞれのサイトから転載
 
 
 
 
 
 
 
どうも火山弾ではないかと?
 
 
 
 
 
 
リング・オブ・ファイアーで、いったい何が起きているのか?
 
天変地異がどんどん増えてきている。
 
 
 
これまでの気象の歴史ではありえなかった事態が、集中的に起こり始めている。
 
 
 
韓国の原発事故も気にかかる。
 
 
歴史研究が役にたたない事態に、翻弄されてばかりだ。追いつかない。落ち着かない。何かが地下で地上で天空で、鳴動を始めている。
 
 
いよいよ地球も終末期に入ったのだろうか?!
 
 
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恐竜は絶滅しなかった 羽毛を持った鳥盤竜クリンダドロメウス

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夏休みも終わりと言うことで、少し恐竜の新発見ニュースを転載します。
 
 
 
絶滅せずに…実は形態を変えて地球に生存 生き残りをかけた恐竜たちのある試み
「オックスフォード大学とロイヤル・オンタリオ博物館の共同研究によると、恐竜から鳥類への進化成功の鍵は、体長を著しく小型化させることだった可能性がある。
 
地球上の生物は、形態的、または生態学的に、非常に幅広い多様性がある。これを説明するモデルのひとつに「適応放散」と呼ばれる現象があるが、この説によると、多様性は生物が異なる環境の空きニッチに適応した結果、生まれたものなのだとされている。
 
恐竜は絶滅したわけではない」と話すのは、オックスフォード大学の脊椎動物古生物学者であるロバート・ベンソン博士だ。「現在、恐竜の子孫は10,000種という鳥類へと姿を変えて存在している。われわれは、鳥類と、すでに絶滅したティラノサウルスやトリケラトプス、ステゴサウルスといった中生代の親類を比較し、進化の繋がりを理解したかったのです」
 
ベンソン率いる研究グループは、まず426種の恐竜の大腿骨の大きさから体重を推定。この方法は非常に信頼性が高いといい、進化のラインにある恐竜たちがどのように体長を変化させてきたかを知ることが可能だ。また、とある近縁種がそのサイズおいてかなり類似しているならば、おそらく進化は遅かった。しかし、彼らの体長が大きく異なるならば、進化は速かったことがうかがえるという。
 
調査によると、2億2千万年前頃から全恐竜の体長に急速な変化が起こっていた。これは草食性などの空きニッチに適応するために、恐竜のサイズの大小に変化が生じたためだとみられている。しかし急速だった変化はすぐに減速し、その後多くの恐竜は安定した形態を維持していたことが明らかになった。
 
ただひとつの例外は、羽のあった恐竜「マニラプトル類」だけである。ベンソンの調査では、この恐竜の系統樹だけは、1億7千万年間に渡って急速な体長の変化速度を保ち続けた。映画『ジュラシック・パーク』でお馴染みのヴェロキラプトルを含むマニラプトル類は、肉食、草食、雑食のみならず、体長も種類によって15グラムから3トンと、幅広い形態をもつに至ったのだ
 
しかし地球が突然中生代の歴史を閉じた6,500万年前、急激な環境の変化に順応できたのは、どちらの恐竜グループだっただろうか? 化石が語るように、長い氷河期が食料不足を引き起こしたとき、巨大な体躯を持つ多くの恐竜は環境の変化に素早く順できなかった。結果的に巨大な恐竜は絶滅を余儀なくされたが、常に空き※ニッチを模索し続け適応してきたマニラプトル類は生き残った。体のサイズを“デザイン”し、多くの場合小型化しながら、鳥類へと進化を遂げたのである。
 
分類学上、側系統群では鳥類は爬虫類の枝分かれの一部であり、現生種の遺伝子分析ではワニ目と最も近縁であるが、同様に恐竜の子孫であるワニ目は23種。鳥類10,000種の多様性とは比較にならない。太古の昔からサイズの大小は変われど基本的には淡水域に潜み、肉食で、それ以上にニッチの拡大はないワニ目と比べ、鳥類はありとあらゆる場所に存在し、食性もサイズもさまざまだ。四肢の脊椎動物の中で最も種に富んでいる鳥類は、常にエコロジカルなニッチに応え、長い時間をかけて継続的なイノヴェイションを遂げることで進化していった、実に汎用性に富んだ生物だと言えるだろう。」
http://sankei.jp.msn.com/wired/news/140721/wir14072113440001-n1.htm
 
 
ニッチ(英: niche、フランス語読み:ニーシュ)は、生物学では生態的地位 
 
 
 
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全身に羽毛が生えた恐竜「クリンダドロメウス」の想像図(研究チーム提供)
 
 
 
 
全身に羽毛の新種恐竜 シベリア南東部の地層から発見、全長1.5メートル
「ロシア・シベリア南東部の地層から頭や胴体など全身に羽毛が生えた全長1.5メートルほどの小型の新種恐竜の化石を発見したと、ベルギーなどのチームが25日付の米科学誌サイエンスに発表した。恐竜は「竜盤類」と「鳥盤類」に大別され、これまで羽毛は、鳥の祖先の恐竜を含む竜盤類で主に見つかっていた。発見された恐竜は原始的な鳥盤類のため、チームは「全ての恐竜に羽毛があったのかもしれない」と推測している。」
http://sankei.jp.msn.com/science/news/140725/scn14072508440001-n1.htm
 
 
 
 
やはり恐竜はすべてが絶滅したのではなく、一部は羽毛をさらに進化させ、体を縮小して鳥類へと進化したのだ。いや、もしかするとカモノハシなどはそういう連中の中の変わり者だったかもしれないし、げっ歯類へと進化したものだっていたかもしれない。今後の研究が楽しみになってきた。
 
 
しかし、一方で、ロシア シベリヤで恐竜が次々に発見されているというのも、凍土の氷解が原因であろうし、それはそれで不気味な話でもある。
 
 
地球は今、私たちが体感している温暖化ではなく、実は大勢としては寒冷化、つまり氷河期へ向かっているのは間違いがないそうである。現在は氷河期と氷河期のはざまの間氷期である。これは地球史の中でまれな時間帯であり、われわれが今、このように住み心地のよい時代に生きていられるのは、大変な幸せだと言える。その中で今の温暖化は、わずかに数度、気温が高い、言ってしまえばそれだけのことであろう。新興国家がどれほどCO2を出したとしても、実は平常時の地球が吐き出してきたCO2の量に比べれば微々たるものなのだという。たとえば大地震が一回起こっただけでも、摩擦による二酸化炭素は発散される。火山活動もそうである。山火事もそうだ。
 
しかし地球の自浄作用とは実によくできており、それらを消費して酸素や水素や過酸化水素へと還元している。つまり今もなお、地球は二酸化炭素を上回る量の酸素を吐き出しているのである。
 
ということは、昨今の異常気象や天変地異は、むしろ起きていて当然、これまでがあまりに地球が温厚すぎたのだという判断もできることになる。杞憂のしすぎも困ったもので、人間の中には、極度に潔癖、完全主義な人種がけっこういて、「こりゃ大変だ。人類滅亡だ!」と叫んでみたり、一方で「地球環境を壊したのは人類なのだから、ぜがひでも人類の手でそれを食い止めねば!!」といった正義を振りかざしすぎる言及がもてはやされたりしてしまう。
 
ところが地球は、人類の気まぐれな善意などまったく欲しておらず、泰然自若として自己解決してしまうのである。神の手助けをしようとするに等しい、こざかしい人のあさはかさは、地球の前では正邪もなにも無関係である。正義などは姑息なその場限りの思いつきでしかなく、片腹痛いのであろう。巨人の足にかみつく蚊のようなものである。
 
ところがその小さな蚊が、いまや病原菌を復活させ、世界では奇妙な病原菌が増殖し始めているのも温暖化に問題があるのだろう。結局、身から出たサビでおのれを脅威に向かわせてしまっている人類・・・。
 
 
そろそろ地球脱出を真剣に考え始めている国家首脳も多いという。しかし人類が住みやすい地球のような天体なんぞ、どこにもありはしないのは最近、はっきりしはじめてもいる。もうNASAが何十年も電波を宇宙に送っても、なにも返事はないのがその証拠である。宇宙人などいない。残念ながら。
 
 
 
進化に学ぶ。地球に学ぶ。結局、人類にはそれしかないようだ。
 
 
 
 
 
 次回、侵略に耐え続けた中国史
漢・宋・隋・唐のあわれな外敵から侵略されまくりの逆転の世界史で、今の中国がなぜ領地獲得に奔走せねばならぬかを「憐憫をもって」理解してやろうじゃないか。最近、やっと東南アジアへの侵略を見直し始めている習金瓶梅に贈る。愛のレクイエム。
 
 
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中華 1 概論  自然と地域構成

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中華・・・東ユーラシアの一国
その枠組みは南の農耕漁労稲作王朝と北の遊牧畑作王朝との対立関係を基軸に歴史を積み重ねてきた。ゆえに東部ユーラシアという空間の地理的特徴も当然、基本的には中国内地との南北関係をメインにして、北から順に漠北~漠南~華北~江南の四区分で把握できる。
 
 
 
 
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江南・・・日本との関係が中華では最も深い地域である。地理的には秦嶺と淮河(しんれいとわいが)を結ぶ線より北が華中、南嶺より南が華南であるが、東晋あるいは宋の南朝では双方に及ぶ領域となるので、6世紀以前の中華では、華中と華南をあわせて江南(こうなん)と呼ぶのが理解しやすい。
 
江南の北限である秦嶺~淮河間では年間の降水量が800mほどで、これよりも北部の華北では降雨量が減少し砂漠化が著しいし、南部では増加する。この降雨量の差は植生に大きな相違を生んだ。つまり江南は稲作、華北は雑穀である。これに比して日本の年間降雨量は北海道を除いて、ほぼ1000mを越え、水田稲作が中心であるので、江南と気候的に似ていると言える。
 
江南と華北を分けてきた秦嶺~淮河線は、地域の境界線であるのとどまらず、歴史上の境界線をなしてきた。五胡十六国時代や第一次南北朝の頃には、東晋南朝と五胡北朝との境界はだいたい淮河ラインで推移した。
 
 
 
華北・漠北(ばくほく)・・・漠とはゴビ砂漠のことであり、その北側に広がる草原地帯がモンゴル高原である。五胡十六国(実際には二十国ばかりも分立国家があった。十六は便宜的な表現に過ぎない)のうちのいくつかがここに点在し、多くは遊牧の民であるが、農業や交易も行っていた。チンギス・ハンの遺跡である大オルド跡とされるアウラガ遺跡でも小麦・大麦・キビなどの雑穀と、麦作にともなう雑草が出土している。
 
ここで筆者が描き出したいのは、中華が久しく長期政権を作りえないできた歴史の、最大の要因を形成したこの華北や西域との攻防の歴史である。これがあたかもピストンのように周辺諸国へと影響を与え続けたのが東アジアの歴史そのものである。中でも華北の胡、西域の胡諸国は中華王朝最大の強敵であり続ける。その多くはシルクロードの草原地帯を自在に騎馬で闊歩していたスキタイ、トルキスタン、モンゴル民族である。南朝も北朝も、実に彼らの季節による、あるいはエルニーニョなどによった天候不順と不作と不猟による南下侵略によって、翻弄され続けてきたと言っていい。その影響は、3世紀の朝鮮半島や列島に多大な迷惑をかけることになる。また隋・唐時代の同じ理由による琉球属国、半島侵略によって、倭国の白村江敗北も起こった。琉球は周辺諸国の中で、最下位の位置に置かれ続け、いいように利用され続ける。縄文時代からのタカラガイ交易のつながりで、お人よしの琉球人たちは中華を尊崇するべき国家として朝貢したが、中華側から見れば、属国以下の認識しかない地域であった。それは倭国日本もそうであり、要するに海で隔たれて遠隔の諸国は、半島に比べればとって食うほどの脅威も必要のない、埒外諸国に過ぎなかったのである。ただ、それは日本にとって非常に都合のいいことでもあった。常に、半島小国家たちを「援助してくれる」助けになる島国として日本海にしっかりと存在し、中国でさえ倭人を頼りにした曹操先祖すらいた。
 
この分析は、現代日本の東アジアにおけるダブルスタンダードと独自路線を進むためのよき指針となるだろうと考えている。
 
 
 
では次回、漢~宋への流れを扱いたい。
 
 
 
参考文献 廣瀬憲雄『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』
 
 
 
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今週の考古学ニュースから 死者の20年前に古墳は完成している?

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今日は私事で中華記事が準備できなかったので、考古学ニュースから思いついたことを。
 
 
 
Yahoo!考古学 の関連ニュース一覧
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(重要な事柄は太字表示した Kawakatu)
 
 
.古代の葬送再現し公開 松山の国史跡「葉佐池古墳」  産経新聞 8月29日(金) 7時55分.

.兵庫県教委「豆腐町遺跡」発掘調査、新たに井戸や柱穴  産経新聞 8月28日(木) 7時55分.
.出雲の「発掘現場」展示 目立つ傷み、整備求める声  産経新聞 8月28日(木) 7時55分.

.築20年後に埋葬 沼津・高尾山古墳追加調査で判明  @S[アットエス] by 静岡新聞 8月28日(木) 7時20分.

 
.土器片や石器多数出土 日向洞窟遺跡  河北新報 8月28日(木) 6時5分.

.博多名所巡る「博多情緒めぐり」-黒田家にスポット当てたコース用意 /福岡  みんなの経済新聞ネットワーク 8月26日(火) 11時14分.

.奈良・都塚古墳に説明板 古代史ファンらの訪問続く  産経新聞 8月26日(火) 7時55分.

.恵解山古墳の史跡公園記念しシンポ 京都・長岡京  京都新聞 8月25日(月) 9時49分.

.中世京都の土師器皿は「ブランド」  向日で埋蔵文化財セミナー  京都新聞 8月24日(日) 11時9分.

 
.奈良・高松塚古墳壁画の一般公開始まる、31日まで  産経新聞 8月24日(日) 7時55分.

.「飛鳥美人」など一般公開 奈良・明日香村  日本テレビ系(NNN) 8月23日(土) 20時18分.

.宮崎県が指定史跡登録諮問 清武上猪ノ原遺跡  宮崎日日新聞 8月23日(土) 11時51分.

.最新の発掘成果公開 多賀城で速報展  河北新報 8月23日(土) 9時13分.
.高松塚・キトラ古墳の壁画、タッチパネルで楽しんで 奈良・飛鳥資料館  産経新聞 8月23日(土) 7時55分.

.中世塩田、境界を確認 上島・宮ノ浦遺跡  愛媛新聞ONLINE 8月22日(金) 17時32分.

.奈良・都塚古墳に似た「階段ピラミッド状」、岡山にも?  産経新聞 8月22日(金) 14時0分.

.栗原・志波姫の御駒堂遺跡 奈良期に関東からの移民  河北新報 8月22日(金) 9時14分.

.磐田の歴史、魅力認識 小学生が発掘体験や着物で散策  @S[アットエス] by 静岡新聞 8月22日(金) 8時42分.

.4~6号墳、同族の墓か 湖西の神座古墳群 @S[アットエス] by 静岡新聞 8月22日(金) 8時34分.

.長野・茅野の「仮面の女神」国宝に正式決定 柳沢遺跡出土品は重文に  産経新聞 8月22日(金) 7時55分.
Yahoo!考古学ニュースより http://news.yahoo.co.jp/related_newslist/archaeology/
 
 
 
 
 
この中で、筆者が一番重要だとピックアップする記事はこれです。

築20年後に埋葬 沼津・高尾山古墳追加調査で判明

@S[アットエス] by 静岡新聞 8月28日(木)7時20分配信
 古墳時代初期の前方後方墳「高尾山古墳」(沼津市東熊堂)の発掘調査を進めていた同市教委は27日、古墳は230年ごろに墳丘が完成し、250年ごろに埋葬されたと、調査結果を発表した。市教委の担当者は「墳丘の築造時期と埋葬時期に開きがあるとはっきり分かったのは珍しいケース」と話した。
 
 
 
 
 
何が重要か?
古墳の築造が被葬者の実際の死のかなり前に完成するように造られるということ。
たとえばこの古墳の場合、死の20年ほど前には完成しているとわかったわけだが、同時代の最初期古墳であると近畿考古学が言うあの箸墓古墳が、250年頃の築造ともされているのだから、このルールが全国的に存在したとするならば、248年頃に死んだ卑弥呼の墓は、その20年前ほどにはできていなければならなくなり、推定築造年230年頃の墓でなければ卑弥呼の墓とは言えなくなってしまうのである。(そうなったらそうなったで近畿考古学は箸墓年代をもっと繰り上げる
^^+ --キ)
 
すると彼女の墓は、箸墓よりも古い形式の纏向石塚や矢塚の比定されなければならなくなり、箸墓と同時代の巫女王は卑弥呼ではなく臺與のほうがふさわしい、という一般好事家の見方に合致することになるだろう(?)。
 
 
それにしても、最古の古墳群とされてきた纏向古墳群とほぼ同時代に、東海地方にもう最古級古墳が出現しているというこの推定は、かなり近畿考古学にはショッキングな話になることだろう。
 
 
「追加調査は人が埋葬されていた主体部を中心に幅1メートル、深さ2メートルの溝を計7本試掘した。発掘の結果、墳丘から出土した2千点の土器は230年ごろのものが大半で、それ以前のものが見つかっていないことから、墳丘の築造時期は同年ごろと判断した。埋葬時期は副葬品として250年ごろの鉄製のやじりが見つかっていることから、同年ごろとした。主体部周辺から見つかっていた230年ごろの土器は埋葬時に混入したと結論付けた」同記事より
 
 
 
まず、この沼津の古墳から出ている東海系土器群と、纏向遺跡から出ている東海系土器の比較検討は必要であろう。おそらくパレス式土器であろうと思うが、もしかしたら纏向の推定崇神に当たる王の宮を建設した人であるかも知れないわけである。
 
 
 
このように、マスコミは奈良県発掘には非常に高い関心を示すが、地方の発掘には、相当なインパクトがなければ関心を示さず、都塚のような派手な扱いもされないということだ。つまり奈良県考古学は実にマスコミの使い方を心得ているということが言えるし、地方考古学はそれがへたである。いや、逆に、マスコミそのものがヤマトにしか興味も知識もないのではないかと思えてしまう。
 
この年代測定結果は、当然、ほかの地方古墳の築造年代の指針にもなってゆくことだろう。ヤマトだけが邪馬台国候補地、王権発祥地だとするこの国の歴史観の一元的見方に、疑問を投げかけた、地味だが非常に示唆に富んだ発見だと言える。
 
 
 
 
はででセンセーショナルな発掘には人はすぐに飛びつくが、そういう人たちは「にわかファンの好古家であり、実は本当に重要な発見が見えていないことも多い。
考古に関わらず審美眼を持ちたいものである。
 
(PS 出雲の神庭荒神谷遺跡のレプリカによる遺跡維持がかなり痛んできたようだ。予算が厳しい風潮がよく見える)
 
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トレンチの入れ方の勉強になりますな。
どうやら竪穴式方墳のように見える。
 

中華2 漢~第一期南北朝宋までをざっと

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最近こういう論文が中国人学者から出ている。まずはお読みいただきたい。

日本という国があってよかった、中国は幸せだ!―中国ネット
 
「21日、中国の作家で文学博士の陳希我氏が書いた「日本の存在は、中国にとって大きな幸せだ」と題した記事が、中国のブログサイト・網易博客に掲載されている。資料写真。
21日、中国の作家で文学博士の陳希我氏が書いた「日本の存在は、中国にとって大きな幸せだ」と題した記事が、中国のブログサイト・網易博客に掲載されている。
2014年8月21日、中国の作家で文学博士の陳希我(チェン・シーウォー)氏が書いた「日本の存在は、中国にとって大きな幸せだ」と題した記事が、中国のブログサイト・網易博客に掲載されている。以下はその内容。

「日本はいい国?悪い国?」という質問ほど幼稚なものはない。「悪い国だ」と言えば、相手は安心する。だが、「いい国だ」と答えれば、相手の顔色が変わる。中国では親日派=売国奴なのだ。

「日本は昔の恩を忘れて中国を侵略した」と中国人は考える。中国人は歴史的角度からでしか日本を見ることができない。例えば「日本の文化は中国に由来する」と中国人は主張するが、日本の良いところは「中国から来た」と言い、悪いところは「日本独自のもの」と主張するのだ。

日本は中国に対し罪もあるが功労もある。日清戦争で日本は・・・」
続きhttp://topics.jp.msn.com/wadai/recordchina/article.aspx?articleid=5558327
 


田中角栄の国交回復以来、日本は相当な援助を中国には提供してきた。日本から見れば今の習体制の日本バッシングは、「飼い犬に手を噛まれた」と見えているだろう。だがこの考え方や中華思想の誤った復活は、それ以前、周恩来以来の中国共産党の念願でもあったのである。要するに日本政府はいいように利用されたのだ。


 
 
さて、中華史の2はまず漢から始める。ざっと流してしまおう。今回大事なのは隋・唐である。

中国の古代史は漢以前に、長江文明、黄河文明の諸国から始まるわけだが、直接日本と関係が始まったと考えられるのは後漢の2世紀あたりから。もちろんそれもヤマトから見てそうだったのであり、考古学的視野で見るとすでに紀元前の前漢の鏡が九州から出てくるし、縄文後期から弥生、古墳時代に、すでに沖縄~九州五島~朝鮮の諸島を経て山東半島というタカラガイ貿易がはっきりと存在が証明できる。当初の日本と中華の関係は九州の王権に始まると見てよい。それは主として倭人=海人族による交易である。
 
 
中国古代史のおおまかな流れ

長江文明
玉蟾岩遺跡…湖南省(長江中流)。紀元前14000年? - 紀元前12000年?の稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
仙人洞・呂桶環遺跡…江西省(長江中流)。紀元前12000年ごろ?の栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
彭頭山文化…湖南省(長江中流)。紀元前7000年? - 紀元前5000年?。散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされる。
大渓文化…四川省(長江上流)。紀元前4500年? - 紀元前3300年?。彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。

屈家嶺文化…湖北省。紀元前3000年? - 紀元前2500年?大渓文化を引き継いで、ろくろを使用した黒陶が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。

石家河文化…屈家嶺文化から発展し、湖北省天門県石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。
河姆渡文化 …紀元前5000年? - 紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
良渚文化…浙江省(銭塘江流域)。紀元前5260年? - 紀元前4200年?(以前は文化形態から大汶口文化中期ごろにはじまったとされていたが、1977年出土木材の年輪分析で改められた)青銅器以前の文明。多数の玉器の他に、絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東竜山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。
三星堆遺跡…紀元前2600年? - 紀元前850年?。大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをインダス文字と結びつける説もある。
 
 
黄河文明
裴李崗文化…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し、農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色
老官台文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器作りや粟作りが行われていた。陝西省(黄河上流)。土器は赤色。

北辛文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は黄褐色。山東省(黄河下流)

磁山文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は赤褐色。河北省(黄河下流)
仰韶文化…紀元前4800?~紀元前2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進み、マルクス経済学でいうところの原始共産制は仰韶文化のころに終焉したと見られる。土器は赤色。
後岡文化…紀元前5000?~紀元前4000?。北辛文化が発展。河南省。

大汶口文化…紀元前4300?~紀元前2400?。土器は前期は赤色(彩陶)、後期は黒色(黒陶)。なお、この区分は黄河文明全体に見られる。山東省。
馬家窯文化…紀元前3100?~紀元前2700?。彩陶中心。仰韶文化が西へ伝播し発展した。甘粛省。

龍山文化…紀元前2500?~紀元前2000?。大汶口文化から発展。後期黄河文明最大の文化。土器は黒色(黒陶)。山東省。

喇家遺跡…紀元前2000年頃の遺跡。水害で埋まり、麺類や楽器などが発見された。青海省。

二里頭文化…紀元前2000?~紀元前1600?。遺跡の中心部には二つの宮殿がある。河南省。
 
 

史記では伝説と目される三皇五帝時代に続いて夏[† 2]王朝について記述されている。夏については実在が確かでなくまた定説もない。


(代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。

紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした
周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した
 
春秋戦国時代
春秋
諸子百家
戦国 晋の分裂以後
秦漢帝国・・・
Wiki中国の歴史より
 
 

そして三国時代
魏すぐに司馬氏西晋、そしてまたまた大混乱の五胡十六国を経て東晋。
これもすぐだめになって第一期南北朝時代。そしてようやく南朝宋の時代となって倭五王が朝貢したのがもう5世紀である。
 
前漢も後漢もその時代は中華史の中ではまれに長期政権だったが、それは気候が温暖な時代だったからだと言ってかまうまい。その証拠にどちらも滅亡するのは天候不順によって国内農民の不満が噴出したからである。前漢は「赤眉軍の乱」で、後漢は「黄巾の乱」が直接的要因で、数百年の歴史を閉じた。特に後漢滅亡の原因である「黄巾の乱」は、匈奴の侵犯や気候の不順によった農民たちの不安が、太平道の教祖張角の五斗米道(ごとべいどう)信仰を増幅させ後漢はあっけなく幕を閉じた。要するに古代神仙思想を基軸にした「鬼道」である。
 
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その後、華北、東北部には北魏が登場。倭にとっては縄文以来のえにしのあった南朝・・・江南との決別を考えねばならなくなったと言える。
漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。
 
そのほとんどの時代は戦乱と大旱魃で翻弄される。
南朝宋時代も数十年で終わる。漢~中世中華で重要な政治キーワードは
 
1 封禅による王位
2 冊封(さくほう)体制
3 11世紀澶の盟以後の多数国家共存方式によった専守防衛の中華思想
 
への変化。
さらに外敵である匈奴・契丹・西域・南越などとの排他的・集団的防衛権確立のためのストラグル(内部闘争)である。
そのすべての基盤は地球環境の激烈さにある。
 
 
 
要するに中華は自己を防衛するための歴史に終始してきた。4000年以上。
倭人も韓民族も常にこれに翻弄されてきた。チベットもベトナムも南沙諸島も、台湾エイ州も、琉球もみなそうだ。中華の独善的排他的防衛権主張閉じこもり政治のために、多大なる迷惑をこうむってきた。

邪馬台国時代には中心地を近畿に移すわけだが、その理由は3世紀国内での東海系土器の南下拡散を見てもわかるように寒冷化、乾燥化によった民族の移動と、九州玄界灘における大陸動向への大いなる不安があったことは間違いないだろう。東海地方の気象史でも、3世紀前後は非常に天候不順であったことが見て取れる。

このように歴史はまず地球環境の激烈な変化に翻弄されるステップロード地域の荒廃と南下侵略に始まる。古くは黄河文明の長江文明侵入も寒冷化のせいである。
次回、いよいよメイン記事となる隋・唐時代。蘇我氏の謎に関わる時代。
 
 
 
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