推古30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)死去。
『藤氏家伝』大織冠伝に「
董卓の暴慢既に國に行なはる」と馬子を批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。
推古34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子死 息子蝦夷、大臣を継ぐ。
推古36年3月7日(628年4月15日)、推古大王が後嗣を指名することなく崩御。蝦夷、田村皇子を推挙し舒明天皇即位。
舒明13年10月9日(641年11月17日)、舒明大王崩御 皇極女帝即位
「天豊財重日【重日、此をば伊柯之比と云ふ】足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女なり。母をば吉備姫王と曰す。天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ。息長足日広額天皇の二年に、立ちて皇后と為りたまふ。十三年の十月に、息長足日広額天皇崩りましぬ。」
「是歳(ことし)、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみ・えみし)、己が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらぎ)の高宮に立てて、※八佾の儛をす」
「是の日の同じ時に、人有りて、白雀を以て籠に納れて、蘇我の大臣に送る」
※舒明~皇極にかけて大化のクーデターの前提としての天変地異や奇瑞が列挙される。この部分まではすべて中国の天子出現や、クーデターを予想させる表現を駆使してある。例えば王莽の白雉の話などそのまま雀に代えただけ。こういう例は武内宿禰と仁徳の部分にも出てくる。要するに『日本書記』は要所で中国史書の例証を利して、結局のところ天武に近い時代の記憶を何度も過去の歴史に焼きなおして作られてある。
つまり当時、すでに過去の歴史などいくらでも創作しても、誰も覚えていなかったというわけであろう。それならば史書などいくらでも改竄できたことになる。あとは、その時に実力のあった氏族、王家や藤原氏にとって都合のよい豪族の伝承さえ取り込みアレンジして挿入し、さらにその豪族の実在祖先の名前などを登場させておけば、だいたいの氏族は納得する。下っ端たちには文句のはさみようがなかったわけだ。あとは成立後に若いものらにインプットしてしまえば(講義は太安万侶らによって何度もあった)、日本史などはどうでもなる。
だからこそ安麻呂や天皇のそばにいた宮中歌人の柿本人麻呂、あるいは俳優などは邪魔だった。中国でも東方朔(とう・ほうさく)のような道化だった人物が暗殺、配流の憂き目に合う記事が多い。
643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。
同年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極女帝の次期大王に擁立しようと望んだ。上宮王家滅亡。
中臣鎌子は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。
法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。
645年、※三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
※注八佾の儛「やつらのまい」とは天子のみに許された特権的王権表示
祖廟も八佾の儛も中国風の習俗。八佾は八列の意。八佾舞は六十四人の方形の群舞で、これを行うのは天子の特権とされ、論語、八佾に、卿大夫の季子がこれを行ったことを責めている。
中国六佾の儛
「孔子(こうし)、季氏(きし)を謂(のたま)わく、八佾(はちいつ)を庭(てい)に舞わしむ。是(これ)をしも忍ぶべくんば、孰(なに)をか忍ぶべからざらん」
「八列六十四人を家の廟(びょう)=お霊屋(たまや)の庭(広場)で舞わしたそうな。それをさえ忍べるとすると、天下に何事も忍べないものはないではないか」。
<八佾>佾(いつ)は舞人の列のことをさす。一列八人で、八佾は六十四人の舞人からなっているというのが通説である。
季氏は魯(ろ)の家老季孫子(きそんし)の五代目の当主季平子(きへいし)、つまり季孫意如(いじょ)をさしている。魯の昭公は季平子以下叔孫(しゅくそん)・孟孫(もうそん)の三家老の専横にたえかね、クーデタをおこし季平子を殺そうとして失敗し、斉(せい)国に亡命する(前五一七年)。そのとき三十六歳であった孔子は、公のあとを追って斉にのがれた。八佾とは前に述べたように、天子の礼で、宗廟(そうびょう)の祭に、一列に八人を八列、つまり六十四人の舞人を奉納する特権である。この特権を陪臣(ばいしん)の家老の季氏がほしいままに行使したので、孔子が大憤激したのである。(貝塚茂樹訳注「論語・第二巻・八佾篇」中公文庫)
つまり蘇我蝦夷は大王にしか許されていない舞いを舞った。これは蘇我氏が当時、実際の大王であったことを示している。大豪族の臣下でもせいぜい六佾の儛程度しか許されなかった。しかし蘇我氏は推古時代にはもう、倭五王よりも古い王家であった葛城氏の直系を言うがために葛城氏の子孫であると表明していた。ところが中大兄はその葛城氏に育てられ「葛城王」と名乗っていた。馬子時代には葛城を本領としたいと願い出るが推古はこれを脚下している。これも大それたことを言うとして「蘇我氏悪人、だから殺されて当然」を言うための嘘であろう。
※三韓の調(みくにのしらべ)
調とは租庸調のうちの「つき=貢物」である。
三韓は高句麗・新羅・百済であるが、当時の半島情勢は北魏時代からずっと中国その他から侵入を受けていた。だから倭国はいつも彼らの援助要請で潤っていたのだ。百済豊章の人質とか、稲目がもらった高句麗王女などまさにそれ。飛鳥寺造営も百済王の助力である。
さていよいよ乙巳の変のクーデターが勃発する。
『日本書紀』巻廿四 皇極四(六四五)年六月戊申条 乙巳変
戊申、天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、為人多疑、昼夜持劒、而教俳優、方便令解。入鹿臣、咲而解劒。入侍于座。倉山田麻呂臣、進而読唱三韓表文。於是、中大兄、戒衛門府、一時倶鏁十二通門、勿使往来。召聚衛門府於一所、将給禄。時中大兄、即自執長槍、隠於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂、授箱中両劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰、努力々々、急須応斬。子麻呂等、以水送飯。恐而反吐。中臣鎌子連、嘖而使励。倉山田麻呂臣、恐唱表文将尽、而子麻呂等不来、流汗浹身、乱声動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戦。山田麻呂対曰、恐近天皇、不覚流汗。中大兄、見子麻呂等、畏入鹿威、便旋不進曰、咄嗟。即共子麻呂等、出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿転就御座、叩頭曰、当居嗣位、天之子也。臣不知罪。 乞※垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知、所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作尽滅天宗、将傾日位。 ※豈以天孫代鞍作乎。<蘇我臣入鹿、更名鞍作。>天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。是日、雨下潦水溢庭。以席障子、覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、 ※韓人殺鞍作臣。<謂因韓政而誅。>吾心痛矣。即入臥内、杜門不出。中大兄即入法興寺、為城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是、漢直等、総聚眷属、擐甲持兵、将助大臣処設軍陣。中大兄使将軍巨勢徳陀臣、以天地開闢、君臣始有、説於賊党、令知所赴。於是、高向臣国押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、応当被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則為誰空戦、尽被刑乎、言畢解劒投弓、捨此而去。賊徒亦随散走。
大意
皇極天皇三乙巳(645)年六月戊申(12日)
天皇は大極殿にいた。古人大兄がその横に座している。中臣鎌子連(藤原鎌足)は蘇我入鹿の人となりが疑い深く、昼も夜も、たえず剣を持っていることを知っている。そこで俳優(わざおぎ・道化)に剣をはずすよううながした。入鹿臣は笑って剣を解き座に侍る。倉山田麻呂は三韓の表文を読み上げる。中大兄は護衛係に指図し宮中の十二門を閉鎖させ、出入り出来ないようにした。
この時、中大兄は自ら長槍を執って殿の側らに隠れた。中臣鎌子等は弓矢を持って助け護った。海犬養連勝麻呂は箱に入れていた剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授け「くれぐれも間違うなよ、瞬時に斬り殺せ!」と伝えた。
子麻呂らは水で無理やり飯を流し込んだが、緊張のあまりもどし、吐きだしたので中臣鎌子は責めて励ます。
倉山田麻呂は表文を読み終ろうとしていたが、子麻呂らがまだ出て来ないので緊張のあまり汗を流し、声が乱れ手がおののいた。鞍作臣が怪しんで、
「叔父貴よ何故、ふるえて戦慄くのか?」と問うと、倉山田麻呂は「天皇の近くに侍るので恐れ多くて汗が流れるのじゃ」と。
中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢に畏れて進まないのを見て「やっ」と気合を入れて一喝する。そして子麻呂らとともにいきなり入鹿の頭・肩を剣で斬りつけた。入鹿は驚いて立った。
子麻呂は剣を振って入鹿の脚を斬りつけた。入鹿は女帝の足元にまろびつつ請い願う。
「まさに嗣位に居すべきは天子なり。自分は無罪だ。垂審察(あからめたまへ=なにとぞもう一度この自分に罪があるかどうかよく調べてください)」と言った。
皇極女帝は大きく驚き、中大兄に「何事が起こったのか」と曰う。中大兄は地に伏して「鞍作は天宗を滅ぼし皇位を傾けようとしています。※どうして天孫を以て鞍作に代えられましょうか」と申した。天皇はその場を立って殿の内に入られた。
佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田は入鹿臣を斬り殺した。
この日は雨が降って水たまりが出来ていた。鞍作(蘇我入鹿)の屍に筵を覆った。古人大兄はそれを見て自宅に走り、人に「韓人(からひと)は鞍作臣を殺した。吾が心痛し」と云って臥内(ねやのうち)に入り門を閉ざしたと。
※1豈以天孫代鞍作乎。
「どうして天孫を以て鞍作に代えられましょうか」では、
一見して奇妙な言葉になっている。
言うべきは真逆。
「どうして鞍作を以って天孫に代えられましょうか」が正しい。
※乞垂審察
あきらめたまへと読ませるが、=なにとぞもう一度この自分に罪があるかどうかよく調べてくださいという意味である。
審察を垂れたまえ。審察とは漢語の「取調べ」であるからこの場合は「再調査して無実をあきらかにしてください」である。『日本書記』音訓注にある「あきらめたまへ」は現代語から考えてしまうと奇妙な『日本書記』の音訓指定で、「あきらめる」は「明からめる=あからめる」で「あきらかにする」「白日の元にさらす」の意味が古い。
※韓人殺鞍作臣
朝鮮半島を巡る政治情勢の混乱が蘇我入鹿を殺してしまったと解釈するのが一般的。
しかしそのまま読めば、どうしても「朝鮮の人が大臣を殺した」である。しかし登場人物を見ても韓人的渡来系氏族はいないようである。三韓の使者が殺すはずはない。入鹿を直接殺した佐伯は蝦夷連行管理者の子孫だし、犬養は海人管理者である。中大兄が朝鮮人のはずもない・・・。
奇説では関裕二が著書『藤原一族の正体』(PHP文庫)の中で、中臣鎌足とは韓の人であり、、この中臣鎌足とは当時の倭国にやって来ていた百済王・義慈王の子、つまり、百済王子の豊璋(ほうしょう)、余豊璋(ヨ・ブンジャン)と同一人物ではないのかとしている。
この解釈は難しい。古人大兄は蘇我氏が次期大王に選んだ人で、蘇我氏の血筋である。その人が「からひとが殺した」と言ったと書いたのは、『日本書記』作者に何かの意図があってのことだろう。保留。
いずれにせよ、αであろうがβであろうが、そもそも最初から『日本書記』は虚構とコラージュでできている。文武時代以降、継体以後の記事に、それがなおさら加筆されていると見てよい。うそにうそを重ねてある。皇国史観を固めるために、聖徳太子も天智も天武も、アマテラス信仰も伊勢信仰も、みな、上乗せされた。藤原氏によって。また天智・天武の息長血脈や神功皇后伝承も嘘である。すると当然、神功皇后からうまれでた応神・仁徳もどこまで信じられるか知れたものではなくなる。となると継体も、欽明も、磐井の乱も、すべて天智王朝の捏造のために考案されたお話となってしまうのである。もちろん話の大元はちゃんとあっただろう。天皇家ではなく各地の豪族達の伝承として。
筆者が続守言と薩弘恪だったなら、きっとあきれかえって毎日酒に溺れていることだろう。やってられねえってね。