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[転載]越中八尾 おわら風の盆/追儺の季節となりにけるかな

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開催期間:
9月1日~9月3日
 
 
二百十日が近づいた。
風をおさえるための祭りのひとつ「越中八尾おわら風の盆」がまた始まる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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往古、風や雨、天変地異に悩まされ続けてきたわが国の人びとの、切なき願いの追儺である。全国で儺が始まる。秋なのだ。ああ、秋が来たのだ。
 
 
 
切なき願いぞ、君知るや。
 
今宵の饒舌もここまで。
 
 
 
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 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板
http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクション http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

転載元: Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳


気になった面白い言葉

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 「坂道好きで知られるタモリさんだが、地層にも深い関心を持っているという。そのきっかけについて「高校の最初かな。教科書に書いてあった、群馬県沼田市にある『河岸段丘(かがんだんきゅう)』という地形に興味を持ちまして。高校が福岡だったんですが、どういうわけか、そこに行きたくて仕方ない。大学で東京に出てきたとき、まずやっぱりそこに行ってしまいました。(当時は)何でこんな地形になったのか、何でばかみたいに三葉虫ははいずり回っていたんだろうということに興味をもっていましたね」。
 
報道陣からは一斉に「へぇ~」と感心の声がもれた

 (「自分の家を持つときに、地面がどのような状態なのかを重点にして土地を選びました」というタモリさん。防災対策についても「水、食料の備蓄は万全。発電機もありますが、(非常時に)電力はそこまでまかなえないので、石油ストーブも持っています」と準備万端なよう。ただ、石油ストーブについては入手に苦労したようで「僕が持っている石油ストーブは昔あった、電気を使わないものです。パチンってやったら、赤くなるやつ。あれを2台持っています」と自慢げに語っていた)
 
 
 
一方で、昨夜のさだまさしは、
「自分の住んでいる土地をよく知ってなどという人もいるけれど、災害だけはいつなんどき、どこで起こるかわからない。とにかく広島も長崎も今度の雨では大変なことだった・・・」
 
 
どっちも間違ってはいない。
一方は客観的に事態を凝視し、一方は主観的に被害者を労わっている。
どちらの心も持っていれば異いい。Kawakatu
 
 

2014年8月18日、中国メディア・花生網に「5日間の北海道旅行に出かけた中国の女の子、日本への嫌悪感が好感に変わる」と題した記事が掲載された。以下はその内容。
 
「本当のことをいうと、日本に行く前はこの国に対して良い感情は持っていなかった。小さい頃から耳にするのは日本の諸悪ばかりだったから。でも、実際に日本に行って私の気持ちは180度変わった。嫌悪感が好感に変わったのだ。先に断っておくけど、私はいわゆる親日派などではなく、普通の中国人。売国奴や裏切り者というレッテルを張らないで欲しい。
 
まず、日本の新千歳空港で私たちを迎えた航空会社のグランドスタッフの美しい笑顔に好感を持った。入国審査場の係員も礼儀正しく親切で、日本の印象はさらに良くなった。
 
泊まったホテルの従業員も素晴らしかった。フロントマンからベッドメイキングのおばさんまで、私たちを笑顔で迎え、すれ違うたびに丁寧にお辞儀をしてくれた。中国国内のホテルとは大違いだ。「どんな職業訓練を受けたら、これほど美しい接客が出来るのか」と不思議でたまらなくなった。
 
だが5日間の北海道旅行で分かった。日本人の礼儀正しさや、他人を思いやり敬う精神は職業訓練によるものではない。私たちの国に欠けている国民教育のたまものなのだ。日本では省エネで環境に優しい軽自動車が主流なのも、和食が素材を生かした料理であるのも、日本人が自然を愛し、シンプルで質素なライフスタイルを大切にしているからだ。
 
戦争は権力者のパワーゲームであり、国民はその犠牲者に過ぎない。国民に罪はないのだ。偏見という色眼鏡を外して、積極的に交流しなければ、互いの垣根を乗り越えることは不可能だ。だからこそ、本当の日本を自分の目で見ることが大切なのだ。」(翻訳・編集/本郷)
http://www.recordchina.co.jp/a92907.html
 
 
 
 
 
「日中戦争では確かに日本は中国を侵略した。だが当時の中国の統治者は独裁者であり、まともな政治が行われていなかった。南京事件の犠牲者30万人をめぐって論争が起こっているが、中国の指導者が数千万人の中国人を殺したことについては言及されることはない。

1980年代に中国が大きく変わろうとした際、最も協力してくれたのが日本だ。今、日本を憎悪する中国人はこうした日本の功績を決して認めようとはしない。中国人の日本人に対する態度はグチばかりこぼす女性のようだ。「私にひどいことをした。だから償え!」と叫んでいる。中国人に必要なのは、自分を強く持ち、自己の尊厳を再び確立することにあるのではないだろうか。」
http://topics.jp.msn.com/wadai/recordchina/article.aspx?articleid=5558327

 
 
 
「氷水かぶりなぞにぼくは加担しない。ほかの方法で貢献する」名前は忘れたがランニングシャツで出てくる元五輪選手タレント。
 
 
ちょっと嫌いなタイプだったが、少し見直した。たけしもそう評価していた。
氷水で自分自身が風邪を引いたり、心臓麻痺まで起こしたら意味不明になってしまうし、ああいう「やって当然」の風潮こそが「全体右」思想の大元になりかねないのだ。選択肢がいくらでもある世界、いろんな性格の人間が共存できる世界こそが自由社会なのではないか?ステレオタイプを強要される世界にぼくもいたいとは思わない。きざな奴、しゃいな奴、弱い奴、金のアル奴、ない奴、おばかな奴、天才、凡才、だらしない奴、できすぎ君・・・個性がばらばらに同時存在できる世界・・・それこそが本当の自由平等で戦争のない社会を作るはず。Kawakatu
 
(昨夜の深夜、Eテレに、戦時中、軍部に加担しはじめる仏教会に警鐘をならして逮捕監禁された僧侶の話があった。また東洋と西洋の音楽をまとめ、日本独自の現代音楽を作ろうとしたゴジラの作曲家・伊福部昭氏の固い信念の話もされていた。自由とはなんでも言えること、できること。それが許せること。どういう器が同時代にあったとしても、どういうしうち、村八分にされようと、階級や職業を失おうと、信念はつらぬきとおそうとする意思。それぞれが違う思いで生きているが、それを排他的に押し込めない世界。本当はこっちのほうがもっと強い意思がいる。だからって、最初からすぐに大勢に擦り寄るような戦前の日本社会は、二度と来てはもらいたくない。防衛権があるとかないとか、そういうのは形だけのことなのだ。あった上で、すべてを包み込む柔軟性を持てるかを、日本人は今、問われているKawakatu
 
 
 
 
歴史に学ぶとは、いや歴史とは歴史に学ぶためになければなんの意味もない。科学もそうだし、あらゆる芸術もそう。料理だって、趣味だってそうだ。無償でやるとか、国のお金でやるとかはただの形でしかない。やるならとことん追求し、出た答えを未来に生かすことしか人類には向かう方向はない。
 
 
麻薬を吸ってしまった・・・ならばそれが自分の何に役立ったかをよく考えてみる。人を引いてしまったのなら、なぜそうあったか、それが誰と誰を悲しませたかを考える。
遭難したのなら、これからほかの人がそうならない方法を考える。
 
そうやって積み重ねていかなければ、人間は前へ進めない。今あるものをただ人がやるから「いい」とするのは頭がからっぽな動物のすることだ。
 
他国が何度も忘れないでいる日本の過去の過失を過失として認め、そうならないように他国にも教えてゆける国になれること。日本には世界中でそうなっていく義務がある。
 
 
それが歴史認識ということなのではなかろうか?
 
 
ぼくが道を間違っていたとしても、あとのものが正しい道を見つけ出す。
なぜなら、正しい道なんかはいくらでもありすぎるからだ。それはつまりぼくらの子孫が数百年後も存在できているかという問題である。できていなければ、消えていればそれはやり方が悪かったのである。答えはあとからわかるもの。
 
 
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日本一広大な河岸段丘と関連地名と危険性・全国台地一覧

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河岸段丘(かがんだんきゅう、river terrace)
とは、河川の中・下流域に流路に沿って発達する階段状の地形である。河成段丘(かせいだんきゅう)ともいわれる。
 
平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れ、平坦な部分を段丘面(だんきゅうめん)、急崖部分を段丘崖(だんきゅうがい)と呼ぶ。段丘面は地下水面が低く、段丘崖の下には湧水が出ていることが多い。
 
地殻変動や、侵食基準面の変動がその形成原因となる。侵食力を失った河川が隆起や海面低下などにより再び下刻を行うと、それまでの谷底平野内に狭い川谷が形成される。谷底平野は階段状の地形として取り残され、河岸段丘が形成される。これとは逆に、山地からの土砂供給により、形成される堆積段丘というものもある。
侵食が進んで河川勾配が侵食基準面に近付き侵食力が弱まると、段丘崖の下に新たな谷底平野が形成される。その後隆起などにより再び侵食力が強くなると新たな段丘崖が形成され、河岸段丘が多段になる。主に河岸段丘は内側に近づくにつれ、新しくなる。

地理の教科書や地図帳に多く掲載されている利根川の支流片品川(群馬県沼田市)、荒川が形成した秩父盆地(埼玉県秩父市)や多摩川が形成した武蔵野台地の段丘、天竜川(長野県下伊那郡部、但し断層による段丘もある)、信濃川(新潟県中魚沼郡津南町)の段丘が有名であり、特に9段にも及ぶ津南町の段丘は日本一の規模といわれる。そのほか仙台市の市街地も広瀬川により形成された河岸段丘上にあり、官庁街にある勾当台公園では段丘崖を利用した滝噴水や階段が見られる。これらを「はけ」と呼ぶ事があり、『武蔵野夫人』はこの説明から始まる[1]。
 
 
 


 
 
 
 
規模の大きさ日本一と言われる沼田市河岸段丘
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これがタモリが見たかった沼田市の河岸段丘
平野そのものが広大なためにゆるやかな階段状になっている。開発で切り開いて平地にしたので、なおさら階段状がはっきりみえる。広大な棚田のようである。こうなると崩れにくい。狭い段丘の土地では古くから棚田が作られ、そのために灌漑に利点があり、土砂砂防ダムの役目を果たしてきた。しかし老齢化で棚田が荒廃するとただちに地盤がゆるくなってしまう、広島市安佐の台地はまさにそれだった。棚田や広葉樹、照葉樹の森は大事なダムとなる。これからますます荒廃すれば、こういう危険台地はどんどん多くなる傾向にある。地震にも弱くなる。
 
 
 
一般地形では河川の濁流が運んだ土砂が堆積して積もった「台地=河岸崖・段丘崖」のことである。
 
蛇がはうように河川の両岸に一直線に並ぶことが多く、交通の障害や中世いくさの山城に利用。いい面と悪い面を持つ地形。古墳・鉱物・鉱山・鍛冶屋ファンには垂涎の散策場所。丘陵を降りる強風を利してたたら製鉄の野だたらや簡易製鉄。あるいは鉱山そのものがあった痕跡もある。これを「むかで」「へび」「お」などと言う。つまり考古学や鉱物に詳しくなれば、自然と危機感は身につくとも言える。
 
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緑濃い台地が蛇に見える。これが台地隠語の「尾」である。中尾、長尾、上尾・・・。鉱物地名でもあるし、横穴古墳も多い。墓場や寺、遺跡、石仏等もも多い。神社仏閣と深く関わるので、それも危険度の目安になる。
できる場所の平野が広ければ上のような段丘状になりこれが河岸段丘である。
 
 
 
 
一般に山が迫っている西日本各地では平野も狭いので、このような大規模な段丘にはならず、小高い台地が一直線に連なるケースが多い。最近の新しい地名では、新興住宅地に多い「●●台」「●●ヶ丘」地名がまさにこれの上にある住宅地である。古い地名では「原 はる」頂上が風化されて平地状地名、「駒場」「牧」「馬場」。「丘陵・台地」などなど。全国には馬牧が平坦な台地上にあったところが多い。「荒川」など河川氾濫地名がよりそう。
 
堆積した土質によっては崩れやすく、急激な台地ではしばしばハザードマップの危険箇所指定になっているので要注意。
 
 
 全国台地一覧
 
 
 
 
ダイナミズム
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台地、段丘の歴史はよく県史などで調べておくにこしたことはない。特に土壌の質、体積に掛かった年、充分に固まり、地層がつまっているかどうか、花崗岩地層でないかどうか、砂岩ではないかどうか、火山噴火で凝灰岩はカバーされたかどうか・・・などは少なくとも家を建てる前にちゃんと専門家に聞いたほうがよい。特に西日本。
 
 
 
 
地名であるが、このたび大災害をこうむった広島市八木地区には、古くから「蛇落悪谷」などの地名があったことが友人の調査でわかった。その古い地名が、どうやら近代の町名変更や区画整理の中で忘れられたようである。こういうことは全国どこにでもありえる。気をつけたほうがいいし、地域の郷土史家やお年寄りに聞いてみたほうがよかろう。
 
「蛇落」「悪谷」へびおち、じゃおち、あるいはおちみず・たるみ・みかげなども。蛇=土石流、それが落ちた、つまり大規模な地崩れがあったという代表的な地名である。
 このほか低湿地には吉原、葦原、吉野などのアシ地名。「悪し」に通じる。
 
地番には大字(おおあざ)はかろうじて残っても、小字や通称は都合が悪いので消されることもある。行政や土建・建築業の経済優先はいつでもどこでもあって当然であると考えるべきだ。それを恨んでも、数十年経てばもう業者そのものが死んでいたりするからだ。高度成長期には食うがために、さまざまな嘘もまかりとおってきた。それは食品や薬品など、当然安全であるべき商品でさえそうだったのだ。お忘れなく。戦後は日本も今の第三国並みにモラルが低かった時代がある。部分的には今も基本そうである。
 
 
 
 
河川が近いのだから、河川沿岸部は当然海抜が低く、かつては低湿地。だから雨には弱い。津波にも弱い。その上の斜面はもっと弱い。土建による整地など、大災害の前には古墳の版築に色がついた程度である。
 
またよくある話だが、低湿地にはかつては蓮根畑、竹やぶなどがあって、今は整地されていることもあり、平地とて安心は禁物である。知らないうちに家が傾いた話は枚挙に暇がない。
 
 
 
すべてが天災によって災害がひき起こるわけでもない。人災であることのほうが多い。それはつまりその人がまんまと建築業者や行政の罠にはまったということ。だからなにかあったら敢然と立ち向かい、少しでも保障をもらえるよう、常から覚悟は必要だろう。災害はどこで起きても仕方のない狭い島国である。しかも地震列島。最近は列島の外の南北で火山や地震が頻発しており、いつ何が起きても不思議ではない。いやなら海外へ移るしかない。この美しく、緑したたる先祖からのまほろばを捨てて罪悪感や愛着心がないのならだが。
 
 
 
美しい国、麗しき女性・日本列島。
愛するならまずその女性のすべてを知っておけ。
 
 
知ってなお、覚悟ももたねばならぬ。
なぜなら、彼のひとはあなたの最愛の人。
 
そして常にこの国をめでるべし。
ほめるべし。けなせばそこに災厄が生まれる。
そう、わが大和は国のまほろば!
 
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 
 
 

風の祭とは何か?二百十日によせて

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二百十日(にひゃくとおか)
9月1日頃(2014年は9月1日)。
立春から数えて210日目。
  
「この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などと言われています。一つの目安として警戒を呼びかけていたようです。
立春から数えて220日目の二百二十日も厄日と考えられています。
二百十日は伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日としたといわれていて、雑節として暦に記載されたのは江戸時代で、八十八夜とほぼ同じ頃です。先人たちの経験に基づいた生活の知恵が暦となっているのですね。
農作物を風雨の被害から守るため、各地で風鎮めの儀式や祭が行われていて、風祭りもその一つです。
 
  
 風祭り(かざまつり)
 風害から農作物を守るため、神に祈願する祭り。全国的に行われているようですが、関東・中部・東海地方では、風祭りと共に風神・風宮の伝承が色濃くあるようです。二百十日前後に行うところが多いですが、正月・2月・4月・7月・8月に行う地方もあります。」
http://koyomigyouji.com/24-210.htm#sa

二百十日は歳時記の上では春秋、初夏にも点在しており、日にちがあいまいな歳時のひとつだ。
ただ季節風や台風を意識した節目であり、特に9月は稲穂が実る時期で、風には気を使うので、秋がメインであろう。
 
 
 
 
風祭(かざまつり、かぜまつり)
日本各地において、毎年二百十日前後に行われる嵐を鎮めるための祭り。二百十日は台風来襲の特異日のため、収穫前の農作物が被害に遭わないよう祈願することを目的とする。富山県富山市のおわら風の盆等が代表例である。地方によっては屋根や竹竿の先等に風上に向けて鎌を立てる「風切り鎌」の風習も見られる。「風祭り」とも書く。
神奈川県小田原市にある地名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%A5%AD
 
 
かざまつり【風祭り・風祭】
農作物を風害から守るために神に祈願する祭りで日本の中央部に多い。二百十日前後に行われることが多いが,正月・7月に行う所もある。竜田神社の風の神祭りが有名。かぜまつり。風日待(かざひま)ち。
http://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%83%BB%E9%A2%A8%E7%A5%AD
 
『日本書紀』天武帝四年(六七六)
「風神を竜田(たつた)の立野(たつの)に、大物忌神を広瀬の河曲(かわわ)に祀る」

『令義解(りょうぎのげ)』
「謂ふこころは、また広瀬・竜田の二神なり。沴風(しんぷう)を吹かさらしめ、稼穡を滋(しげ)く登(みの)らしめんとす。故にこの祭あるなり。」
『日本書記』記事について、風を祀る意義が水田稲作における風害防除を祈るものであることを明らかにした注釈
 
『日本書紀』
持統天皇五年(691)八月
「降雨の多い災難のとき使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせた」
 
◆しなの地名由来
「「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。風神(シナトヘノミコト)説もある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD
 
「しなの」を「風の強い国=科戸辺神の国」としたのは吉田東伍(1907年『大日本地名辞典』)である。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55045433.html
 
のかも知れない。

「風の祝」を詠んだ歌に付いての検討を進めてきた。
清輔の「風の祝」の歌4首「信濃なる,伎蘇路の桜,咲きにけり,風の祝に,隙間あらすな」,清輔の「今朝見れば,伎蘇路の桜,咲きにけり,風の祝に,隙間あらすな」,家長の「信濃路や,風の祝に,こころせよ,しらゆふ花の,匂ふ神かき」,
正徹の「秋に吹く,木曽路の風の,祝子も,隙間厭わぬ,風や涼しき」
を取り上げた。これら4首の表意,裏意は,以下のように対比される・・・
http://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Kazenohahuri-koh.htm
 
 
 
 
春の風祭
4月1日豊川風まつり 四月
  小坂井風まつり
3日新潟県阿賀野市ふるさとだしの風まつり
29日 那珂川町花の風まつり
 
秋の祭り
7月1~15日京都市千本ゑんま堂 風祭り
8月20日山形県櫛引町春日神社風祭りhttp://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403214_00000&p=box
丑年と未年の8月最終日曜日 長野県諏訪大社式年薙鎌打ち神事
8月31日山形県西村山郡河北町沢畑風祭り太鼓
     千葉県横芝光町風祭り
8月下旬栃木県下野星宮神社かかし祭(本来風まつり)
8月最終日曜日 千葉県香取神社風祭り
9月1日 越中八尾おわら風の盆
11日 越中おわら宇奈月
13日 (土)  岸和田だんじり祭(→14日)
10月26日豊岡市竹野三原谷の川の風まつり
不明 静岡県駿東郡旧大御神(おおみか)村角取神社の風まつり記録あり
ほか全国に点在
 
 
 

持統天皇紀に云わく
「、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。」
http://marishi.weblogs.jp/blog/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%A4%A7%E7%A4%BE/
 
「『日本書紀』にある持統天皇が天候回復を祈願した、須波神、水内(みのち)神という、タケミナカタとは別に中央に認められた風水神だったのではないだろうか。」
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Mijakuji.html
 
「諏訪にタケミナカタを祭ったのはそらく持統天皇であろう。
それは蛇神であったが、なぜそうしたかと言えば、諏訪湖を巨大な風穴に見立て、そこからあらゆる災厄を招く風が吹き出てくると考えられていたからだろう。このとき、持統が「風の祝(かぜのほおり・ふうしゅく)として送り込んだのは多氏血脈を自称した阿蘇氏であった。
 
この阿蘇の風祝はそのまま諏訪に居つき、神長官守弥氏となり、諏訪氏となり、やがて金刺氏と名乗ったといわれている。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53264504.html
 
 
 

「風と死霊を結びつける考え方は柳田国(國)男にはじまる。柳田國男は「風位考」で、、まず「アナゼ」に着目した。戌亥から辰巳に向かって吹く風をアナゼといい、日本海側では出雲から南に下って九州の海岸。瀬戸の内海、東は摂津の西宮に及んで、紀州の日高郡にもあるという。そしてアナゼはアナシともいい、アナは昔から驚きの音であったから、これを悦(よろこ)ぶ風と解するのはむつかしく、予想せぬ風であるゆえに、常に不安を抱いて神に禱(いの)ることになったのであり、大和の纏向の穴師山(あなしの・やま)をはじめ、和泉、伊賀、伊勢、若狭などの穴師神社は、もと風の神を祀ったものと解される。大和の穴師山の地形からいって、あの山が風神(ふうじん)の本拠地であったと想像するにかたくない。都の西北に当たる竜田・広瀬の両社が風神を祀るのも、日本という国が西北から悪風を受けることと無関係ではないとしている。」(萩原秀三郎『鬼の復権』「タマカゼとカミの去来」)
 
三省堂「全訳読解古語辞典」によれば「あな」は感嘆符である。
凡例→「あなものぐるほし」更科日記
    「あなや」雨月物語・吉備津の釜
    「あなむざんや」平家物語・実盛
あとに続く言葉を強調したり、単独で驚き、恐怖、感情の高まりを表現する言葉で、「ああ!」「あれ」「まあ!」に当たる古語。
大和纏向の穴師には大兵師神社(穴師坐兵主神社 あなしにます・ひょうず・じんじゃ)があることはすでに何度か述べている。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B7%EA%BB%D5&sk=1
http://white.ap.teacup.com/kawakatublog/284.html
 
 

「その「あなし」地名は北西の風である「アナジ」「アナゼ」から来ていると柳田は推測した。
そして筆者は「戌亥の隅」は仏教が来るまでは鬼門だったと考察した。→
「西は陰陽の酉であるが、北北西は戌亥。申、酉、戌の方位は金気の方角とされ、山師は非常に好んだが、実は仏教以前には北北西は鬼門である。鬼門を北東とするのは、仏教が丑寅の方位を北東とする中国からの伝承をそのまま使った。それで丑寅は牛と虎だから鬼は頭に角を持たされ、下履きは虎の毛皮をはかされる。
だから戌亥の隅は鬼が去る(申)方角というのが古い。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%D8%FC%B0%E7%A4%CE%B6%F9&sk=0
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
さて風祭りは春と秋の季節風を押さえ込むための祭祀である。記録におけるその始まりは天武天皇紀四年に遡る。このときと、すぐあとの持統五年の風祝を龍田に送ったというのが最古になる。その送り込まれた風祝(かぜのはふり)という祭祀者は筆者は阿蘇氏だと考えている。つまりカムヤイ耳命を祖とした多氏大祝(おおはふり)を、ヤマトの多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ・奈良県磯城郡田原本町)から全国にも派遣したと思うのである。その土地は筑紫は阿蘇山阿蘇国造神社、中国は龍田神社、中部は諏訪湖の諏訪大社、東国は香取神社ではないかと思う。これらの神社と風・雨祈祷には、当時の宰相である藤原氏の中臣神道を多氏が直接受ける存在であったことが想像できる。

古代氏族には必ず武家集団と祭祀集団がよりそう格好で並び立っており、藤原氏には中臣神道が付随したが、その大元は物部神道であっただろうと思われる。千葉の香取神宮は藤原氏が物部守屋の神霊を、東国の鬼門の守りとしておいたのではなかろうか?諏訪の守矢氏と大祝が阿蘇氏系であることはつとに言われることだが、この「もりや」は、地元の縄文的伝承を持つ「もれや」とどう関するかは不明で、むしろ物部守屋に関係した名乗りではないか?龍田神社のある兵庫県揖保郡はもともと河内物部氏が石棺石材を求めた土地である。問題は大地を押さえる鯰を祭る鯰社を持つ阿蘇国造神社であるが、阿蘇の中通(なかどおし)古墳群は阿蘇国造家の墓と言われていて、ベンガラ(リモナイト)の産地でもある。

多氏がなぜ風を鎮護するのかとなるとよくはわからない。 皇別氏族屈指 の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされながら多氏は、天武の親衛隊であった岐阜の多品治から安麻呂親族以外はほとんど氏族としての記録がない。
 
神八井耳命(かむやいみみ・かんやいみみ)は、記紀には神武のヤマトにおける長男として記録されるが、神武には南九州日向の最初の妻との間に第一子タギシ耳がいたわけで、カムヤイらはこれを誅殺(ちゅうさつ)して太子の地位を略奪したかのように描かれている。つまり記紀では、日向三代からの流れはここで断ち切られた、ということになるのである。これは万世一系を建前とした『日本書記』皇国史観では非常に奇妙なことである。その子孫が多氏であることになっている。これでは、多氏こそは神武以来の天皇血脈を、すでに記紀記録の最初からアマテラス子孫系譜を否定した氏族となってしまう。つまり藤原氏は南九州隼人系を断ち切ったのである。ここに誰も言及しない。
 
多氏がヤマト氏族の子孫であることは間違いないだろうと最近思い始めた。
河内渋川本家の物部守屋が蘇我氏に滅ぼされて最初に、大阪のカササギ森の宮に埋葬され、そこから聖徳太子がもともと神社であった四天王寺へ遺骸を移している。ここが寺になるきっかけはこれである。守屋の霊魂は風神として、今は四天王寺境内に放置されている阿蘇ピンク石石棺に埋納されなおしたと思いたい。だからそれは多氏、藤原氏のやったことで、聖徳太子時代のことではあるまい。
 
物部氏の服属祭祀集団である中臣氏が盟主守屋を四天王寺に鎮護しなおしたと見るのである。おそらく乙巳の変のかなり後のことであろう。蘇我氏が亡ぼされなければ、そうしたことは絶対起こらなかったはずである。中大兄皇子が聖徳太子という亡霊を作り出さなければ、本来、畿内物部氏に復権の道もなかったはずである。中臣氏と藤原氏は、直接祖人鎌足と中大兄が手を下してしまった守屋の霊魂をスサノヲのような自然神として東国・香取におくのである。それが持統のしたこととされた。天智にはそれが必要だったのだ。
 
鹿島と香取が今でも東北の鎮護のためにある武勇の神であるのは、鹿島が藤原氏にとっての故郷であり、香取が守屋の故郷だったからだ。両者が東国から出る縄文系先住氏族だったからである。そして天智と持統が白村江出兵後の大敗で唐が攻め込んでくると思い込んだときに、聖徳太子はかつての「東天皇」だったとして復活するのである。東天皇つまりタリシ彦とは実は蘇我入鹿だったはずなのにである。
 
このとき背後で暗躍したのがおそらく多氏である。
 
 
天智・鎌足・天武そして持統が風の神として仮託した人物こそが物部守屋であった。それは出雲を最初に手にした中原王である。つまり神話が書いたスサノヲその人なのだ。日本海から吉備瀬戸内を牛耳っていた縄文系先住海人氏族である。
 
スサノヲは八岐大蛇の生贄であった稲田姫=稲穂開花の象徴を救い、妻とした。つまり稲作を最初に牛耳った男である。そしてスサノヲ自身もまた雷雨の化身、風神雷神なのである。その大風を抑えるに、彼らは目には目をとしてその子孫である守屋を各地に祭り、かつ、同時代の蘇我王家の聖なる太子としての「入鹿」を聖徳太子としていった。入鹿は生まれながらの蘇我氏の王である三代目だった。さらに手の込んだことに、その蘇我氏を滅ぼしたのが藤原鎌足だったとしたのである。
 
 
しかし実際に蘇我氏を滅ぼし、その海外通商政治を手にしようとしたのは、中大兄の叔父である孝徳大王・木梨軽であった。
 
 
 
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アサ・アス/古代大麻・苧麻と忌部、ペルシアザラシュトラと飛鳥地名の謎

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参考文献 山口博 『大麻と古代日本の神々』2014 宝島新社書
 
 
 
大麻のことなので、誤解をおそれずに書く必要がある。
 
 
 
この記事は、現代の麻薬の話ではなく、古代における歴史上の大麻と人、祭祀のかかわりを言うのであることを断っておく。
 
 
 
 
 
 
古代の大麻や苧が繊維をとるためのものであることは知られている。明治の伊達男たちが麻の上下に麻のパナマ帽でおしゃれを競ったことは誰でも知っている。麻はそのように繊維をとるための植物でもあった。
 
しかしなぜ、天皇氏族までもが、麻を畿内周辺各地に植えさせたのか、植物繊維をとるだけならば、なにも麻や苧に限る必要はないだろう。それだけならカラムシ、イラクサ、アカソ、シナノ木、楮、オヒョウ・・・とさまざまの植物が古代から存在する。なぜ麻や苧が特別に記録されたのか?
 
 
神社で、板切れを売っている。これも大麻という。神聖であるはずの神社になぜ大麻が関与するのか?
 
 
真言宗や天台宗では護摩というものを焚いて祈祷する。その護摩にも麻の種の粉末はふくまれる。
 
 
古来、大麻の主生産地はあまたあるが、関東の千葉県房総半島南部もそのひとつである。ここに安房(あわ)神社があるが忌部氏の祭る神社である。忌部氏と大麻には深い関わりがある。なぜなのか?
 
 
 
そもそも麻をなぜAsaと言うのだろうか?
麻を言う言葉で日本語のようにAで始まる単語を持つ国々は少ない。中国ではMaであり、英名はCannabis sativa。モンゴル語ではオロス、韓国語でサム、ロシア語はカノプリア、などがあるがAでは始まらない。中国の新羅を表す言葉に「三支」があり、麻杖と別記がある。読みは「サン」であるから韓国語の「サム」はこれであろう。
 
フランス語でliniere、英語ではlinenリネンは繊維製品の表示は麻だが、実は亜麻で麻ではない。苧麻と亜麻と麻はよく混同されるが、苧はラミーという品種で麻とはまったく別種の植物だ。本当の麻繊維には「指定外繊維(大麻)」と表示がされる。ところが中央アジア、トルキスタンを指す現地語にNasha,Asarathがあり、その語源をAsa、Ashaと言ったとあり、「アサ」とはタリム盆地のトルキスタンのことであると言う説がある。
 
日本語の「アサ」はこれが由来であろうか?
 
 
 
 
麻がなぜ世界中で大切に利用されてきたかというと、繊維、食用が最重要だったからではない。最大の目的は麻薬効果である。伊勢神宮でさえ祭祀で用いる木片を「大麻」よんでいる。なぜか?
 
香木であるその木片をわざわざ大麻と言うのか?そしてなぜそれを燃やすのか?
仏教でいう、それが護摩にあたる木材だったからにほかならない。祈祷のトリップに大麻の麻酔効果が有効だったからである。
 
 
 
 
大麻が最も大和で普及しはじめる時代は、飛鳥時代である。
だいたい称徳女帝前後で、そのころ飛鳥に西アジアの博士が百済から贈られて来ている。当時のペルシャは中国では「波斯 はし」で、Hasshishiの語源もここにある。古代においてペルシャ、西アジアは西欧ギリシアやローマに先んじて影響を与えるほどの先進地である。科学、文化、戦術、哲学、芸術において、ペルシアは最高峰だったと見てまず間違いない。つまり日本語のAsaは、西アジア語がインド・中国・朝鮮を経て日本に至るわけだが、途中各地では言葉を変化させたのに、日本だけが現地語のAsaをそのまま取り込んだとみられるのである。なぜか?
 
当然、トルキスタン民族である人が日本にやってきただけでなく、飛鳥に住まった、そこで生き続けたからにほかなるまい。かの地の言葉がそのまま取り込まれたのは、日本の職人たちがそのまま彼らの言葉を使い続けたからである。ここがほかの世界の職人と日本の職人の違いである。実際に職業に関わる言葉に、教えてくれた現地の人びとの言葉をそのまま残そうとする傾向が非常に強い。
 
 
そこで「あすか」の語源ももしやここにあったかもしれないと気づいた。
飛鳥には大規模な麻農園があった。忌部氏が祭祀に用いるために栽培させたものである。
 
かつて神社の注連縄も幣も、素材は麻である。それがやがて稲ワラとなり、今ではナイロン製まで登場している。
 
  このたびは 幣もとりあえず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
 
 
「忌部氏の祖太玉命に幣を作らせた」『日本書記』神代一書第二
 
「賢木の下枝に阿波国の忌部の祖、天日鷲(あめのひわし)神が作った木綿(ゆう)を掛けた」(木綿とは当時では布全般を指す)
 
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あめのひわし・・・比翼を広げたワシの絵柄は全世界に存在する。つまり祭祀者=はふりを表す。これを羽振りと言う。憑依である。
 
 
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ゾロアスター寺院の有翼円盤とザラシュトラ
 
 
 
 
「忌部の神天富(あめのとみ)命は木綿や麻や織布を作る天日鷲命の孫を引き連れ、麻を栽培するために阿波国へ向かい、穀・麻の種を植えさせた。その子孫は今も阿波の麻殖(おえ)にいて、麻を大嘗祭に奉納する」『古語拾遺』斎広成
 
この「おえ」は「植え」でもあり、嗚咽の音でもある。麻薬に気持を悪くすることである。この布は「太布織たふおり」と呼ばれて現代でも徳島県那賀郡那賀町木頭(きとう=祈祷か?)で織られている。
 
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ここは忌部氏の居住地である。
 
 
 
つまり大麻の繊維に含まれるトリップさせる成分が、麻利用の最大の目的だったのであろう。毎年、注連縄や幣は正月13日あたりに神社で焼かれる。そのとき燃え上がる大麻の香りは、新年をことほぐための憑依に使われたのである。
 
 
 
 
 
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テュルク系民族語と日本語/日本人の中の白系血脈

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中華3 隋・唐を記事にするつもりだったが、短くまとめるのは大変だと判断し、それよりも、隋が滅亡する要因となった東突厥、また東突厥の援助を受けて成立した唐というまとめかたのほうがより面白くなりそうなので、ひとまず東西突厥という遊牧民国家のことを知っておこうと判断した。
 
隋と唐の相違は、長期政権を中華において作れたか作れなかったかにあり、その最大の基点にあるのが東突厥との確執であったと言ってよい。
 
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つまり東アジア北部において、突厥民族つまりセルジュク・トルコ帝国、オースマン・トルコ帝国系遊牧民諸国家のステップロードへの拡大は、中国に万里の長城を作らせるほどの難敵、最大のライバルだったと言ってかまうまい。それをひとまとめにしてテュルク語系諸国としていいだろう。テュルクとは広くトルコ系遊牧民諸語を使う民族で、テュルクはトルコの語源であるが、現在、日本ではアナトリア地方の国をトルコと発音し、テュルクは言語において共通性を持つカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、モンゴル、トルコ、パキスタンなどのウイグル語族国家全体を指す広義のトルコ世界を指している。
 
 
テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurksトルコ語: Türkロシア語: Тюрки)は、中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称である。
 
 
 
突厥第一帝国の版図
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春秋戦国時代の東アジア
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突厥はまだ帝国を築くほどではなく北部の脅威ではあったが、それほどでもない。中華が戦乱の時代・・・つまり気候不順の時代になって遊牧騎馬民族の本領を発揮しユーラシアの東西を席巻し始める。東西に突厥国を持ちついには隋を滅ぼす。
 
隋時代の東アジア
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隋~唐への時代の東アジア
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大唐時代
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モンゴル帝国時代のテュルク系民族の広がり
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長文引用
騎馬民族がもたらした日本のことば  東 巌夫

4.突厥語、テュルク語、ウイグル語について

突厥語とは、北東アジアの古代の民族である「突厥族《の言語です。テュルク語とは、時代・地域に関係なく突厥語(族)から派生した言語を表すものです。
 オルホン・エニセイ碑文などに見られる古代テュルク文字(突厥文字)の例2)を図4に示しました。

図4.古代チュルク文字(突厥文字)の例
          図4.古代チュルク文字(突厥文字)の例

ウイグル語はテュルク語の一種で、中国の新疆ウイグル自治区で用いられています。
ウイグル語を話す人は、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、モンゴル、トルコ、パキスタンなどにも広く分布しています。現代のウイグル語は古代のテュルク語の要素を多く残しており、テュルク系言語の代表として現代ウイグル語を用いることができます。古代のウイグル人は突厥文字を用いていいましたが、突厥文字は書くには上便で、アラビア文字系のウイグル文字、更には転写文字で表すようになりました。

表2に現代ウイグル語の字母と転写文字の関係を示しました。また、古代テュルク文字(アルファベート:字母)と転写文字、表記文字の関係を表3に示しました。

          表2.現代ウイグル語の字母と転写文字
表2.現代ウイグル語の字母と転写文字

         表3.古代チュルク文字(オルホン・エニセー碑文の文字)
表3.古代チュルク文字(オルホン・エニセー碑文の文字)
                             字母の( )は、字母の変化を示す
引用資料
2) 世界の文字{中西印刷(株)};
http://www.weblio.jp/content/%E7%AA%81%E5%8E%A5%E6%96%87%E5%AD%97

5.日本語によく似た古代テュルク語とウイグル語の例

(1) 「ちゃら《、「ちゃらんぽらん《
  日本語の「ちゃら《は、小学館・国語大辞典によれば
  ① 口から出まかせに言うこと、いいかげんなことを言うこと
  ② にせもの   となっています。
  また「ちゃらんぽらん《とは、一口に言えば、「いいかげんに《という意味の副詞です。

古代テュルク語の「チャラン・ブラン《(Ċalaŋ-bulaŋ)は、1072~1074年に刊行されたマフムダ・カ シカルの「テュルク語大辞典《に収録されており、
  ① 軽々しく、いいかげんに。お粗末に、雑に
  ② あわただしく、そそっかしく
  ③ さっぱり気にしないで、全く気にしないで
  ④ 上注意に   と説明されています。

日本語の「ちゃらんぽらん《に最も近いものは①ですが、時として②~④の意味にも用いられています。
 Ċala (チャラ)、Ċala-bula (チャラ ブラ) の用例を以下に示します。

  Bala(バラ)   qilɣan (キルガン)  iš (イッシ ) Ċala (チャラ) 
   子供 (が)   やっ た      仕事(は)   中途半端>

  Ċala-bula (チャラ ブラ)   išili-(イッシィリ)
   いいかげんに        はたらく   

  gäp (ギャップ)  qilmay(キル マイ ) uxla(ウッフラ)
  はなし(を)   しないで      ねむりなさい

(2) 「うとうと《、「うつらうつら《
  「うとうと《とは、国語辞典によると、「眠気を催すさま《とあります。
「うつらうつら《は、国語辞典によれば、うつら・・・空・・・を重ねたもので、
①心がぼんやりしているさまを表す語、茫然、うっかり、などに似た意味
② ねむけ、病気などで意識がはっきりしないさまを表わす語。「うとうと《と似た意味、とあります。

古代テュルク語の「udi-《(ウディ)は、「眠る《を意味し、大体13世紀以前の言葉です。したがって、現代のテュルク語辞典には含まれていません。
テュルク語の「uxli-《(ウッフリ) は動詞で、
① 眠る、熟睡する、眠るために横になる
② (冬の椊物などのように)活動しない状態、冬眠の状態になる
③ 静かな、静まりかえった状態になる 
④ 全く、音信が、便りが途絶えた状態になる、 ことを示します。
「uxla-uxla《(ウッフラ・ウッフラ)は、「uxli-《の繰返し語です。

udi-(ウディ)、uxli-(ウッフリ)の用例を以下に示します。

Ay(アイ) elig (エリグ)  udïma (ウディマ)  odun(オドゥン)
もしもし  だんな     眠らないで    目を覚ましなさい

gäp (ギャップ)  qilmay(キル マイ ) uxla(ウッフラ)
はなし(を)   しないで      ねむりなさい

このように、普段何気なく使っている「日本のことば《に、「テュルク語《と発音、意味、使われ方など驚くほどの類似点が見出されます。
注:ここでは、テュルク語を読みやすくするため、左から右へ書いています。

(3) 通俗的な日本のことば
日本のことばとウイグル語の類似例は多岐に渡りますが、身近な通俗的なことばを表4に示しました。ウイグル文字の書き順は右から左となるので、ウイグル語の欄は右からの書き順としています。

          表4 通俗的な日本のことばとウイグル語
表4.通俗的な日本のことばとウイグル語

6.おわりに

 拙著「騎馬民族がもたらした日本のことば《は、Ⅰ.「生活の基本となったことば《、Ⅱ.「日常的な身近なことば《、Ⅲ.「古代テュルク語から日本語への流れの深層《の3部構成としました。Ⅰ.とⅡ.では日本語化している騎馬民族のことば(古代テュルク語・ウイグル語)について数多くの具体例を挙げて、音韻、音声、文法、用法、語彙、文章などの観点から「騎馬民族のことば《が日本にもたらされていることの検証を行いました。 Ⅰ章で解説したことばは、(1)明るくなるの「あかる《、(2)「黒《「暗い《「暮れる《、(3)「とる《、(4)「かたい《「かためる《、(5)「柔らかい《「和らぐ《「弱る《などです。 Ⅱ章では、(1)「帰る《「返す《、(2)「ひっくりかえる《、「ぐらっと《、(3)「膝をつく《「嘘をつく《、(4)「がやがや《「騒ぐ《「たわける《などを解説しています。
Ⅲ章では、古代テュルク語の解析、日本人と突厥族の源郷の共通性などを述べ、訓読みのルーツを古代テュルク語に求めました。

騎馬民族によってもたらされた古代テュルク語が数多く残っているのに、日本列島の共通語になれませんでした。その理由は、 古代テュルク語は、(1) 象形文字である、(2) 子音に硬・軟の区別がある、(3) 母音を省略する、という特性を有し、東海の小島、倭の国の特性と大きな隔たりがあったたからです。テュルク語として根付くのは困難でしたが、音声だけは受け継がれて行ったと考えられます。

日本の社会は古くから漢字文化圏に属していましたので、古代テュルク語がもたらされた後は、同じ意味の漢字を用いて表現する「訓読み《として継承されてきたのです。このように長い歴史を通して、文字としての漢字と、音声としての古代テュルク語を併用して、音・訓という素晴らしい方法が創造されました。「取る《・「捕る《を「とる《と読み、「柔《・「和《・「弱《を「やわ・・・《・「よわ・・・《と読み、「空《を「から《出張・「あき《家と読むのは、同じ発音・意味のことばがテュルク語に存在し、漢字文化とテュルク語の融合の結果と考えると紊得できます。
 


 
 
テュルク語・ウイグル語はモンゴル帝国の大多数をテュルク語族が占めていた時代にもモンゴル人のあいだに定着することはなかった。朝鮮にも日本にも定着していない。しかし単語の中にかすかにその痕跡があり、血脈の中に、わずかだがトルキスタンの香りのする顔つきの日本人や朝鮮人を残したと考えられる。それがいわゆる「わたしは白人の子孫だ」ということの正体なのかも知れない。
 
 
 
画像資料 
騎馬民族がもたらした日本のことば  東 巌夫
Wiki テュルク系民族
『古代日本外交史』廣瀬憲雄  より
 
 
 
 
 
 
 
次回、東天皇・西天皇について。
飛鳥王権における蘇我馬子と入鹿の迎賓ノウハウの違い。
 
 
 
聖徳太子は作られた偶像。
お楽しみに。
 
 
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『日本書記』「東天皇敬白西皇帝」記事 「天皇」称号は聖徳太子時代にあったか?

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『隋書』「東夷傳俀國傳」
 開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
 
 
大意
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
 
 
 
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
 
大意
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。
 
 
 
 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 
大意
 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
 
 
 
 
同じ内容部分を『日本書記』から抜粋する。
 
 
 
 
『日本書記』推古天皇
秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作利爲通事。是歲冬、於倭國作高市池・藤原池・肩岡池・菅原池、山背國掘大溝於栗隈、且河內國作戸苅池・依網池、亦毎國置屯倉。
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
 
九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世罷歸。則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。」是時、遣於唐國學生倭漢直因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷八人也。是歲、新羅人多化來。
 
 
 
『日本書記』「東天皇敬白西皇帝」記事 「天皇」称号は聖徳太子時代にあったか?
 
●「日出處天子致書日沒處天子無恙」と「東天皇敬白西皇帝」
『隋書』は「天子」、『日本書記』は「天皇」としている。
当然、国書を受けた側の時代に近接した唐の時代に書かれた『隋書』の記述のほうが信頼度は圧倒的に高い。『日本書記』の記事のほとんどは律令制度が完成した天武時代~8世紀初頭の書き手によっており、そのために「天皇」が使われたと見てよい。

ところが二つの「天皇」文字記録がその後発見された。

ひとつは天寿国繍帳断片にある刺繍文字。『天寿国繍帳』は、推古天皇の孫で廐戸皇子の正妻で あったといわれる橘大郎女が太子死後に作らせたといわれている刺繍である。部分的に鎌倉時代の修復が入っているが、まずは飛鳥時代の様式で作られており、高松塚よりは古い7世紀の作品であろうとされている。そこに「天皇」という文字があるのだから「天皇」という称号は7世紀にはあったということになる。しかし『日本書記』が書くような聖徳太子の頃にすでにあったかというとわからない。ただ「天皇」と「大王」が書き分けられており、使い分けが当時されていたことは、実在性を後押しすることになる。

もうひとつは法隆寺薬師如来の光背銘にも「天皇」とある。
「1979年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』を刊行し、その中で、「薬師如来像は金銅製であるが、その金鍍金が刻字の内に及んでいないことから、鋳造と刻字は同時ではなく、鍍金後の刻字であることが判別された。(趣意)」と発表した。これを受けて沖森卓也は、「(本銘文は)推古朝の製作とは判断できないものであることが明らかになった。」と述べている。
以上のことから、薬師如来像の造像・刻字の年代は7世紀後半、つまり法隆寺の再建時に新たに造像され、その後、追刻されたとの説が有力である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98#.E9.80.A0.E5.83.8F.E3.83.BB.E5.88.BB.E5.AD.97.E3.81.AE.E5.B9.B4.E4.BB.A3

こちらはどうやら後付けのようである。 
 
ただし繍帳にみられるパルメット文と同様の文様は法隆寺金堂釈迦三尊像光背にもみられ、少なくとも天寿国繍帳文字からは「天皇」という呼称は飛鳥時代の7世紀には確かに存在はしていると考え直してもよくなったと言えるだろう。
 
 
 
 
しかし・・・
 
 
 
 
では『隋書』が「天子・天子」としているものを、『日本書記』が「東天皇・西皇帝」とした理由はなぜか?あるいは逆に、天皇と書かれていたものを煬帝は天子だと改変したのか?に焦点は向かう。
 
 『隋書』の書かれた時代は唐代であり煬帝がどうしたかは関係がない。それよりも重要なのは、唐の第三代皇帝高宗は、崩御後、皇后である則天武后によって天皇の称号を贈られ、諡号を「天皇大聖大弘孝皇帝」と記録された。その崩御は668年12月であるので、天皇称号はこの年のことである。隋書倭国伝(80巻目)は列伝50巻成立636年~以下編入成立の656年の間に挿入されていると考えられる。つまり高宗天皇崩御と諡号授受よりも前になる。だから『隋書』作者はまだ「天皇」の語を未知だったと考える。ゆえに「天子」とするほかはなかっただろう。
 
高宗と則天武后の時代は、ちょうど日本の天武~持統の時代と重なる。則天武后が皇帝となり、唐という 国名を周に改めた690年に、日本では、天武の皇后が即位して持統天皇となっており、持統女帝は最初の生きて天皇を称した人物になる(天武は死んでから贈られた諡号である)。要するに(天皇の妻としての)則天武后の即位は、日本が女帝を立てて天皇を名乗るには実にタイムリーな前例となったのであろう。中国の儒教観念からはこれまで女性の王や皇帝は絶対に認められないことだったからだ。これで持統は大手を振って天皇となれる。するとそれより前の推古女帝は、対外的に中国にはどうしても知られたくないことだったことがわかるだろう。だから隋からの使節に女帝は対面させるわけにいかないから、隋書には男帝しか登場しないのは当然である。
 
言い換えれば720年成立の『日本書記』作者は、高宗の天皇称号と中国初の女帝即位を前もって知ることができた立場にあったわけである。だからここぞと持統女帝に天皇を名乗らせた。つまり日本で天皇称号を実際に使ったのは、やはり天武と持統からであって、それ以前にはあったとしても正式呼称ではなく、二つの遺物がもし正真正銘推古時代の作品であったにしても、外国への正式国書に天皇称号を用いたはずはないのだと言うことになる。中国に天皇号も女帝も前例のない時代に、自国の王が女帝であるとか、天皇であるとか大声で言えたはずがない。まして国書に天皇などと書けるはずがないのである。日本史上、自らが女王であると公言して使節を送ったのは3世紀の卑弥呼や臺與だけである。それは儒教的儀礼など知らなかったからできた行為であろう。しかし『日本書記』の時代には儒教的観念で中国が動いていることはすでに旧知のことである。だからこそ「日出る処の天子」を「東天皇」などとしらっと書けたのだ。
 
まして『日本書記』は完全なる間違いとして相手中国国家が「大唐」であったとまで書いている。これは『日本書記』成立時代を完全に意識した意図的誤謬であり、もしこれを正しいとするならば、遣隋使そのものの有無すら疑わしいことになってしまうわけである。
 
従って、二つの遺物証拠品の真偽に関わらず、『日本書記』の記述した「東天皇」の称号は虚偽の記録だということになる。
 
もちろん『日本書記』「遣唐」記事を肯定し、遣隋使などなかったと考えるならば、それはそれで馬子の時代に、推古女帝も聖徳太子もいなかったのだという結論も導き出せるわけである。するとその時代の日本の大王・アメノタリシ彦が蘇我馬子だったとしてもなにも不思議ではなくなるのである。太子なる人物をもうひとつの明日香・・・大阪の近つ飛鳥に追いやって、馬子が遠つ飛鳥の大王だったと言ったところで、かまわなくなってしまいかねまい。みしろそのほうが歴史は整合に見えてくる。そもそもなぜ蘇我氏は滅ぼされねばならなかったについて、『日本書記』には正当な理由等まったく書かれていないのだから。
 
 
 

次回、隋書の隋使節を迎えた方法と、諸外国の方法比較。さらに馬子時代の方法と入鹿時代=乙巳の変での迎賓方法を比較し、『日本書記』の虚偽を追及する。
最終的に聖徳太子やはり不在説を展開したい。
 
 
 
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今週気になる考古学ニュース

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奈文研が脱「灰色文献」 考古学資料をネット公開
産経新聞 9月10日(水)14時44分配信
 
 一般に流通していない専門誌などに掲載され、インターネット検索でヒットしないことなどから「灰色文献」とされる発掘調査や考古学の資料を公開して“白色”にしようと、奈良文化財研究所(奈良市)が、保有する関連資料から約5万7千件のデータベースを作成し、ネット上で一般公開を始めた。対象は、明治29年の専門誌や現在は入手困難な郷土史など幅広く、担当者は「成果を広く還元したい」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140910-00000124-san-soci
 
 
 

弥生中期の青銅製銅鐸が総社・神明遺跡から出土 岡山
産経新聞 9月11日(木)7時55分配信
 
 県教育委員会は10日、総社市の神明遺跡(同市福井)から、約2200年前の弥生時代中期につくられたとみられる青銅製銅鐸が見つかったと発表した。時代背景がはっきり特定できる発掘調査で出土したのは全国で20例目。現状では表面の文様が判別できないが、今後は文様の特徴を突き止め、銅鐸の主生産地である近畿地方との関連を調べていくとした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140911-00000090-san-l33
 
 
 
 

斑鳩宮東端の溝跡発見 橿考研、東西規模210メートルと確認 奈良
産経新聞 9月11日(木)7時55分配信
 
 聖徳太子らが住んだ斑鳩町の斑鳩宮跡の発掘調査で、宮の東端を区画するとみられる飛鳥時代前半(7世紀前半)に掘られた南北方向の溝の遺構が見つかっていたことがわかり、橿原考古学研究所が平成25年度の「県遺跡調査概報」で報告した。
  東端とみられる遺構はこれまでの調査でも今回の調査地のすぐ北側で確認されていたが、調査面積が小さかったためはっきりしていなかった。橿考研は、今回の発見で宮跡の東端が改めて確認されたとしている。
  斑鳩宮は、聖徳太子やその子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)らが住んだ宮殿。日本書紀によれば、推古9(601)年に造営が始まり、蘇我入鹿(いるか)によって滅ぼされる皇極(こうぎょく)2(643)年まで続いた。
  その後、斑鳩宮の跡には現在、夢殿などがある法隆寺東院伽藍(がらん)が造営された。造営時期は奈良時代の天平10(738)年ごろとみられている。
  調査は庫裏(くり)新築に伴い、平成24年10月~25年5月に実施。見つかった溝は長さ約20メートル、幅約3メートル、深さ約80センチ。出土土器から、飛鳥時代前半に掘削され、奈良時代前半に人為的に埋められたことが判明した。また、昭和53~60年度に行われた防災工事に伴う発掘調査で見つかった東端と推定される溝の南の延長線上にあることもわかった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140911-00000100-san-l29
 
 
 
 

三内丸山遺跡の溝状遺構から炭化木材/路面に敷いた可能性も
Web東奥 9月11日(木)10時18分配信
三内丸山遺跡の溝状遺構から炭化木材/路面に敷いた可能性も

三内丸山遺跡の溝状遺構内部の3カ所(棒で指し示している部分)で見つかった炭化材

 国特別史跡・三内丸山遺跡(青森市)の西盛り土北西側で本年度確認された縄文時代前期末(約5千年前)の溝状遺構の内部で、新たに炭化した木材が見つかったことが10日、分かった。使い道は不明だが、路面に板を敷いた可能性も考えられるという。
  県教委によると、炭化材は、長さ約24メートルの溝状遺構の中央からやや北東寄り、地表から約50センチの深さで集中して3カ所見つかった。最も大きいものは縦45センチ、幅30センチ弱で、繊維の方向は溝が延びる南西-北東方向と平行だった。あとの2カ所は、繊維が溝の方向と直交しているものと、繊維が見えないものが1カ所ずつだった。
  県教委は9月末までの発掘調査で他にも炭化材がないか調査するほか、来週にも見つかった炭化材を土の中から取り出し、木の種類や年代を調査して年度内に結果をとりまとめる予定。
  炭化材を調べることで、溝が使われていた年代や使用目的の解明につながるかもしれないという。
  県教委文化財保護課の岡田康博課長は「路面に敷いたのかもしれないし、投げ入れたのかもしれない。いろいろな可能性があるので慎重に調査を進めたい」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140911-11101848-webtoo-l02
 
 
 
 
イコモス専門家が三内丸山視察 
 
   国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の海外専門家ら3人が10日、青森市を訪れ、世界文化遺産登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つである三内丸山遺跡を視察した。専門家らは県教委の担当者の説明を受け、興味深そうに遺跡を巡っていた。
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2014/20140910211738.asp
 
 
 
 

スコットランド独立問題のまとめ
もし分離することになったら発生する問題
ポンドの使用権
独立したスコットランドがポンドを継続使用することに英国は難色を示しています。スコットランド自治政府はポンドの継続使用を希望しているため、交渉材料になりそう。
英のキャメロン首相率いる与党・保守党と連立パートナーの自由民主党の他、最大野党の労働党も独立に反対しており、住民がスコットランド独立を決めても通貨同盟は結ばない(ポンドは使わせない)としています。これに対し、スコットランド行政府のサーモンド首相は、ポンドの継続利用を妨げることはできないと主張しています。
 
独立スコットランドはEUに加盟できるのか?
スコットランドは欧州連合(EU)への加盟を希望してるが、加盟国の分離・独立は前例が無く、再加盟の手続きは極めて困難と言われています。
ポンドの継続使用を希望するスコットランドに対し、元EU commissioner for monetary unionのオリー・レン氏は中央銀行、独自通貨を持たない国のEU加盟を認めないと発言しています。
またEU加盟には、ERMⅡ(為替相場メカニズムⅡ)の元で自国通貨の価格水準が二年以上安定していること等の実績が条件としてあります。独立国スコットランドが新たな独自通貨を使用する場合もEU加盟には時間がかかるでしょう。
 
北海油田問題
スコットランドが独立したいって考えになびく最大の要因がこれでしょう。現状は北海油田のほとんどはスコットランド領海内にあるもののその収益は英国全体で享受しているため、独占したいって思いが強い。
スコットランドに北海油田を取られてしまったら、英国の財政・貿易収支の悪化は免れなさそう。
ただ、北海油田は歳出のピークが過ぎており、英国のGDPに占める割合は1.5%ほど(ピーク時は6~7%)なので、壊滅的な影響って訳ではないかな。

債務問題は?
現在英国が抱える債務のうち、独立スコットランドが負担する割合は1000億ユーロ以上と見積もられています。ただ、この辺は債務の帰属が曖昧な部分もあり、交渉次第って見方が多そうです。
http://www.earningmoney.jp.net/entry/2014/09/10/012611
灰色文献の公開は閉ざされてきた考古学会に風穴をあけるか?特に奈良考古学の資料公開はほかの地域以上に門戸開放をのぞまれてきた。考古学論文のほとんどは世間の目に触れることなく、学界内部にとどまったままになってきた。もちろん論文の大半はこむづかしすぎて一般人には読解も難しいものがほとんどだろうが、それをネット上に公開して、果たして国民レベルがどれだけ開くかは疑問もあることだろう。しかしアカデミズムが密室からそれを取り出して公開すれば、学界内部の研究成果の「越境」が容易になることは間違いない。
 
スコットランド独立への要望は、ひとえにイギリス北部の海底油田発見が最大の契機となったのではないかと思える。ひとつの国家が分裂するかもしれない。これはイギリス、EU内だけの問題では終わらない大事件である。世界の東西均衡にとっても大きな影響がある。西側諸国の盟主的存在でもあるイギリスが分裂すると、大英帝国国民全体が過去から引きずってきた連合の是非を問う内部論争にも、大きなひび割れが生じ、連合国としての体裁は瓦解しかねない。スコットランドだけの分離では終わらない可能性が出てくるのだ。北アイルランドもイングランドから分離するといい始めるかも知れない。これは重大な西側の結束を大きくゆるがす震源地になり、ここぞとばかりロシアや中国がつけこみ、世界を一気に席巻してしまう事態にもなりかねないのである。

考古学的にも国家の分離は、発掘の自由を分断してしまう問題にもなることだろう。国境は少なくなるにこしたことがないはずの世界平和への未来展望が根底から揺るがされる、ユーラシアの西の果ての島国から起こり始めたと言える。
 
 
 
 
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中華3 隋と聖徳太子の時代 すべては突厥から始まった へたれ国家中国のみじめな歴史

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飛鳥王朝の外国使節迎賓方法比較の前に、まずは聖徳太子の遣隋使派遣前後の東アジア情勢をざっとひとまとめにしておこう。

そうするとなぜ飛鳥王権が急に隋に接近しようとしたのか、隋がなぜ亡びたのか?などがよく見えるようになるはずだ。
 
 
 
 
480年代 新羅は高句麗に従属する新興国家だった
500年代 百済と同盟して高句麗に対抗しようともがいていた新羅は、半島南部の倭族系海人連合体であった金官伽耶を攻めてこれを滅ぼすことで一気に半島内で台頭。高句麗をおびやかすようになる。
これに対抗して、高句麗は東突厥に接近。これと手を結ぼうとした。

この頃突厥帝国が東アジア、西アジアに覇を唱えはじめ、強大化。これによって中国南朝はがたついていたところへ、548年の東魏の侯景(こうけい)の乱を発端に梁が崩壊。南朝そのものが転覆しそうになっていた。
 
 

その中から東突厥を独立させ、半属国としたつもりでいた隋が台頭したが、高句麗の東突厥との共闘に驚愕。煬帝はあわてて万里の長城を修復し、高句麗の遣東突厥使を呼びつけてこれを恫喝する。しかし新羅の脅威に怯えている高句麗の東突厥接近はとまらない。これでは突厥の反乱もまねきかねず、そればかりか東西突厥連合復活への引き金になりかねない。そこで煬帝は三回にわたって高句麗に遠征し、これを押さえ込もうとしたが、いずれも大失敗。煬帝の経済力はがっくりと衰亡してしまう。つまり隋はちょうど聖徳太子の飛鳥時代の頃にはもう死に体となっていた。
 
この間に新羅の圧力を恐れる高句麗は、倭国へ貢物を送って新羅を挟撃するぞという姿勢を見せ始める。同時に新羅でも倭国へ「任那の調」を貢ぐ。しかし二度目の倭国はこれを固辞しうけとらなくなった。つまり倭国は新羅よりも深いえにしのある百済をとった。任那復興会議も不調で、新羅の伽耶地域支配への欲望は強く、百済は任那を復興させ倭国の任那への復活と統治を約束したのだろうと思える。この同盟がのちのちまでひびく。日本の百済仏教も漢字文化導入も仏教建築技師導入もこれが契機となり、しかし結果的に白村江の敗北を導くこととなった。
 

その頃、倭国飛鳥王権を独占して対外貿易で大王以上となっていた蘇我馬子は、百済の仏教や文化、高句麗の文化を大いに取り込むことで、両者を天秤に掛けながらそれらを利用して繁栄していた。東アジアで唯一、海の向こうで戦火にも巻き込まれず、悠々として馬子の飛鳥王権は存在。朝鮮半島三国はみな倭国を強大で泰然自若とした大国であると勘違いしていた。
 
その馬子は隋や高句麗、突厥などの東アジア情勢を見据え、隋はすでに死に体であると見極めると、すぐに煬帝に対して対等の視線のような国書を送り、国交樹立と隋援助、及びそれによって百済とともに半島南部での支配権を手に入れようと画策した。藁をもつかみたい煬帝は、その頃、人目もはばからず琉球や赤土国(せきど。マレー半島)にまで、低い身分出身者ではあるが使節を送る始末。もちろん三韓諸国へも高身分の使者を送っている。馬子は隋の足もとをよく見ていたのである。

煬帝も一回目は倭の使節を無視するが、国書を逆読みしてしまったのか、倭国もそういえば高句麗を挟み込む位置にあると気持ちを切り替えたとみえ、蘇因高=小野妹子の帰国にあわせて名門出身の裴世清を使者として送り、倭国の力を確かめさせようとした。

裴世清は名門出身だが地位は、琉球や赤土に送った使者たちと大差がない8品である。つまり中国の当時の外交順位では倭国は琉球や東南アジア諸国と同等の「絶域」諸国のひとつでしかないわけである。蘇我馬子はこれを見越して、使者との謁見に推古女帝も太子厩戸も出席させなかったと見られ、自分ひとりが大王を装って高いところに座したのかも知れない。なぜなら慣例では中国からの使者は高所に椅子に座し、迎える側は地面にひれ伏すのが通例だからである。ところが馬子は裴世清に倭国最敬礼の四拝をさせたと『日本書記』は書く。四拝は中国では四礼にあたりやはり皇帝への敬礼である。あくまでも馬子は倭国を極東の盟主国家であるという態度を貫いたのである。つまり中国とは対等であると。

これを聞いた煬帝はついに憤慨し、「大いに義理なし」と机をひっくりかえし?交渉は決裂してしまう。この決裂は倭国内部の豪族には、蘇我氏の外交手腕の大失敗とみなされた。これがあとになって入鹿惨殺、政権転覆へとつながり、結果的に藤原氏と中大兄のクーデター、そして百済への応援は大失敗。中大兄が作り出した新羅戦争の象徴である聖徳太子という聖人のイメージだけが一人歩きをはじめてしまうのである。
 
 
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テュルク民族とイスラームに取り囲まれている中国というへたれ国家
 
 

すべての始まりは突厥にあった。
そのトルキスタンの末裔たちを、だから中国共産党は今も許せないのである。フン族が北欧民族の悪魔なら、漢民族の悪魔はモンゴル以上に突厥民族、ウイグル民族なのである。現代、いまだに中国はそのかつての突厥民族の作ったテュルク諸国に囲みこまれたままである。さらに迫害追い出したかつての長江文明の末裔であるチベット、かつての南越であるベトナム、パキスタン、そして西側同盟国家のインド・・・台湾、日本、フィリピン、ロシア・・・四面楚歌の集金ペイ。実は中国はそういう鬼っこ国家のままで大人になってしまった国である。中国はロシアとは決して結束できない。なぜならロシアの中にもタタールスタンなどの多くのテュルク民族共和国が内在しているからだ。このままじっとしているとヘタレ国家になってしまう。だから内心焦りでいっぱいで反対側の太平洋へ侵略しはじめたのである。そう、心は飛鳥時代の高句麗と同じ。つまりやがてはそうなる運命をひしひしと彼らは感じているのだ。恐れおののいているのである。
 
では諸君、同情してあげますか中国を?
あなただって蘇我馬子になるでしょう?
うまく利用することですよ。
 
 
だから馬子は偉かったとわかったでしょう?すごい政治家です。
 
 
 
 
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外交儀礼から見た蘇我氏と厩戸皇子、中大兄の食い違い

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『大唐開元礼』の朝貢来訪者謁見儀礼手順
1 到着地で蕃国(外国)王・使者を迎接し一行を入京させる
2 入京時にも迎接。鴻臚館にて謁見日程伝達 
3 宮内で蕃国王・使者が皇帝と謁見。
4 外交文書・信物(献上物)の提出
5 皇帝、中書侍郎(ちゅうしょじろう)を介して文書を受ける。
6 皇帝、中書舎人(ちゅうしょしゃじん)を介して使者に蕃国王以下の起居(安否)を問い、使者これに回答
7 日を改して歓迎酒宴。皇帝から蕃国王への返礼物や官職などの授与。
8 さらに日を改して鴻臚館へ勅使派遣し、蕃国王・使者へ外交文書の返事を授与
これが唐の皇帝謁見儀式の概要である。
 
 

次に赤土国(マレー)の隋使迎賓の儀礼
1 国境で船30艘による迎接儀礼
2 入京後、隋使のもとへ王子派遣、対面を請う
3 王宮にて外交文書の伝達。大使は昇殿し、国王以下は座礼。
4 王宮にて歓迎酒宴。大使昇殿、その他は地席(地面に座すか腰掛ける)

赤土国の迎使儀礼を見てもわかるように、属国はみな王といえども座礼で、大使は台座に腰掛けて対面する。
 
 

これに対して日本の飛鳥時代の使者らの迎賓儀礼は、『日本書記』に以下のように記載されている。

裴世清迎賓儀礼
1 難波で飾り船30艘による迎接
2 隋使を館に安置
3 海石榴市のちまたで飾り馬75頭による迎接
4 隋使入京
5 朝庭にて使旨の伝達。隋からの土産を庭に置く。裴世、外交文書持ち、「両度再拝(四拝)」して使旨を言上。阿倍鳥(あへの・とり)臣が外交文書受け、大伴囓(おおともの・くい)連が大門の前の机の上において使旨奏上。皇子・諸王・諸臣が参加。
6 朝庭にて酒宴

これが蘇我馬子が煬帝の使者・裴世清を迎えたときのあらましである。
5以外はほぼ『大唐開元礼』に準じた対応であるが、肝心の謁見では、大使裴世清に下座で四拝させたうえ、自らが昇殿し見下ろしている。あきらかにこれは赤土国同様に絶域国家日本が、唐の大使を迎える「臣下の礼」を失した行いであり、自らの国を中国の属国だと認識していないやり方で、これでは煬帝が怒るのは当然である。

おまけに皇太子(厩戸)の影も形も見えない。そのうえ推古女帝では謁見させられず(1中国儒教観念、2帝は太陽の巫=月の神ゆえに夜しか仕事しないといいわけした。つまり上座にいたのはまさしく王でも皇太子でもない人である)。
君臣関係を完全に無視した逆謁見儀式であるからには、国書にある「日出る処の天子」という記述は間違いなく倭国が送った文章である。ならば煬帝が返書など書くはずもなく、最初から返書はなかったのである。小野妹子が紛失したというのは『日本書記』の造作である。(この判断における広瀬憲雄の判断はまったくちんぷんかんぷんである。首肯しがたい。)
 
 
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かざりうまの一例
 
 
610年新羅・任那使への外交儀礼
1 難波などで飾船での迎接
2 難波などの客館にて調物の検査し、具備不足なら返却
3 入京時、飾馬による迎接
4 朝庭で勅旨の伝達。
5 四人の大夫が使者からの勅旨を聞き取り、大臣に伝達。
6 使者への俸禄
7 朝庭で饗宴、使者への叙位。
ここでも大王も皇太子も記録がなく、ただ大臣にとだけある。これまではその後、国内別途で大王への大臣からの伝達儀式があると考えられてきた。
 
 
 
乙巳の変「三国の調」
ここでは儀式の手順についてよりも、入鹿惨殺の顛末が詳しく記録されており、ひどく劇画的でリアルな臨場感あふれる軍記のような描写なかりが目立つ。

同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣を外させていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。
 
入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えた。
 
中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。
 
 
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なぜかここでだけは皇極女帝が大極殿に出席。まずここがこれまでの飛鳥王朝の手法と違っている。三韓表文を読み上げるのは倭国側の石川麻呂で、三韓側の奏上読み上げはない。太子であるはずの古人大兄は出席しているが第二皇太子の中大兄の出席がない。登場人物は皇極、古人、蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂だけである。つまり少数限定儀式なので、ほとんど内密裏のようなことで、いくらでも造作が可能。事件後、古人大兄は逃げ帰り「韓人が鞍作臣=入鹿を殺した」と言ったことになっているが、これは部分的に欠落した言辞であろう。本当は「韓人のまつりごとによりて、誅せらるるを謂ふ」との注釈が添えられているので、入鹿は外交問題で殺されたといいたかったようである(鬼頭清明)。

厩戸皇子はおそらくは新羅寄り政治をしたかった(久米皇子らを九州にとどめて新羅征伐に行かせなかった)から、馬子の親百済外交と対立したのであろう。だから儀式にも出席させられず、やがて西の明日香へ逼塞させられた。その厩戸の親新羅外交を復元しようとしたのが木梨軽=孝徳だったのであろう。だから乙巳の変の首謀者は孝徳大王である。中大兄・皇極と孝徳の接点はひとえに蘇我王家の転覆だけであって、外交の志向は真逆だったと思える、だから難波宮から中大兄と皇極だけが出て行った。二人は蘇我氏と同じく百済重視の姿勢だったのであり、孝徳にまんまといっぱい食わされた格好である。
 
 
 
儀礼各種参考 廣瀬憲雄
 
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ストーンヘンジに新たな謎・動画付き記事

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お知らせ
タイトル下に設定できるようになったグローバルナビは非常に重たいので、四つを二つに減らしました。よろしくね。あっちのブログもそうしました。
 

 
 
 
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「ストーンヘンジ」地中にも謎…全く分からない 誰が何のために?

SankeiBiz2014/9/12 11:27
 「世界遺産として知られる英国南西部の古代遺跡「ストーンヘンジ」の周辺で、大規模な建造物跡などが新たに発見された。約4年前から調査を続けていた英バーミンガム大が10日、発表した。これまで単独の環状列石(ストーンサークル)と思われていたストーンヘンジだが、その周囲を取り囲むように17の礼拝堂や古墳、死者への儀式を行うための聖堂(木造建築物)などの存在を確認した。紀元前の3000~1600年の建造物であることは判明したものの、これまでの常識を覆す発見とあって、誰が何のために造ったか全く分からないストーンヘンジの謎にますます注目が集まっている。
 
 「(今回の発見は)ストーンヘンジに対するわれわれの考え方を根本から変えた。われわれは過去、ストーンヘンジは単独の建造物だと考えていたが、違っていた。それは明らかに、もっと巨大なものだった」 」
 
 
 
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「発見されたのは6000年前の建造物群で、木や石でできた17の
構造物や数十に及ぶ埋葬塚が含まれる。また巨大な穴も複数
見つかり、一部は天文学的な配列を形成しているようにも見え
る。

ストーンヘンジ 

さらに、近くにある外周約1.5キロの「スーパーヘンジ」、ダーリン
トン・ウォールズをスキャンしたところ、その周囲にはかつて、高
さ最大3メートルの柱または石が最大で60個置かれていたことが
示された。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
ストーンヘンジのこれまでわかっていた底辺規模は500mだった。それだけでも日本の仁徳天皇大仙陵周辺全体遺跡とほぼ同じ規模の遺跡だったが、今回の発見はストーンヘンジこそが世界最大の底辺規模の墓域であることがわかったと言える。
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
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あなたの中の縄文度・弥生度/幕末人の顔写真に見る骨格

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今日二つの記事を書く。
ひとつは縄文と弥生の骨格や土器移動やDNAから、われわれ日本人の大勢がどこからやってきて、どの道を通って広がったか。
 
ひとつは縄文住居遺跡の位置から見る、石器時代人の危機管理本能。
 
まず幕末の人たちの顔写真を興味深く見ていただこう。
 
 
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明治時代の外来好古家たちは、客観的科学を日本に持ち込んだが、中でもシーボルト、モース、アーネスト・サトウ、そしてチェンバレンなどは考古学・人類学史でもよく草創期の人びととして名前が出てくる。
 
この写真はチェンバレンに影響を与えたとされるエルヴィン・ベルツが、その日本人渡来混血説のために収集したものである。
 
ベルツの渡来混血説は、日本人を基層をなすアイヌ※と薩摩型・長州型に分類し、薩摩型は丸顔で庶民的形質、長州型をほっそりとした体型、面長の貴族的形質で、前者をマレー系、後者を蒙古系と大別しようとした古い時代の珍説である。チェンバレンはこのベルツの大別を使って、薩摩型を渡来第一波、長州型を渡来第二波と考えた。
 
確かに長州人の顔つきは細長く、また山口県や山陰なども含めて、中国地方はあまり混血していない半島渡来系の顔つきに見える。しかし薩摩型を渡来第一波としているのは、ようするに先住縄文型と今なら言うべきだろう。
 
 
細かい点はさておいても、この写真の顔つきは、平民(三段目右二人)の横に広い顔つきと武家の細面を比較するにはうってつけである。明治初期までは日本人はほとんど血が混じらないでやってこれた。だから弥生と縄文の混血以降の、日本人の地方や階級による顔つきの違いは、現代人とは随分異なっている。それゆえに非常に貴重な資料になっている。
 
 
 
人類学や遺伝子学のこれまでの諸説は、日本史の中にある考古学の論調とは常に別々に存在し、微妙に違うスタンスを示してきた。しかしそれぞれが歴史を重ねてゆくうちに、次第に各分野の意見に接点が見え始めている。現代、考古学では、渡来人は少数で何度かにわけて、それも地域地域で別の人びとの集団がやってきた、その中心地帯は半島南部の伽耶であろうという説が大勢を占めている。
 
かつての日本人による日本人起源説には、常に、渡来混血説とその半面でメンタルな単独人種願望が並立してきたと言える。もちろん単独人種ではなかったことは、弥生渡来の前に先住縄文がいたことで、論を待つまでもなく自明の理であった。しかしイデオロギー的には明治以降、日本人が西欧科学を取り込んで西欧化していきたい半面に、天皇中心主義、万世一系妄信主義があったわけで、この二律背反する混在は、前者を畏怖しながら、同時に日本人としてのアイデンティティだけは失いたくないという、いわば民族主義的な根深い意地の問題だったと言えるだろう。つまり精神のバランスをとるための科学と迷信の同居である。その迷信こそが帝国主義の原動力でもあったわけで、言うならばそれは主観的、民族主義的、ある種危険な方向へ向かいやすいという一面を持っていることを忘れてはならない。北朝鮮のような排他的「孤立の思想」だとも言える。思うのは各個人の自由ではあるが、妄信で国家を動かされては国民はついていけない。
 
 
※明治時代の西欧研究家がやたらアイヌにこだわったのは、自分たちに顔つきが似ていたからであって、アイヌはあくまでも少数民族で、今では日本人概要の移動混血とは切り離しておくべきである。アイヌを持ち出すのは話が混乱するだけなので、アイヌの起原は日本人起原とは別に扱うほうがよかろう。
 
 
 
では顔つきではなく、骨格やDNAでの比較図を見てみよう。
 
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上から北部九州(金隈遺跡)弥生人、半島西部地域同時代人、中国山東省同時代人
 
 
北部九州渡来人の骨格は、あきらかに中国よりも半島人に近い。そして山東省人の骨格はかなりバラエティに富んでいるが、半島人はだいたい類型的で、日本人はまたバリエーションがある。これは半島渡来人が北部九州にまずやってきたことを語っており、そこから縄文人その他との混血が起きたこと、あるいはそれも含めて半島以外からも渡来がなかったわけではないことも示唆している。
 
 
 
 
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日本人の縄文・弥生の割合に最も近いのはやはり半島南部人である。細長い顔つきで短頭で胴長短足で、毛が薄いといった人々が、真逆の人びとと混血している。西日本の初期はこの先住縄文人とはおそらく半島伽耶にも存在する海人系人種だったと考えてよいだろう。つまり東日本・北日本のような北方から南下した縄文人とは別の人びとであろうし、縄文人にすら複数の人種がいたことは間違いない。
その東・北からの縄文人と、九州や日本海沿岸からやってくる弥生人が、出会うのは近畿地方なのである。だから従来のように、日本人を東西のざっくりした捉え方で考えるのは古いのだといわざるを得ない。弥生と縄文の混血する人種がすでに三ヶ所で異なるのである。
 
 
 
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しかもこのように北部九州だけ比較しても、最初から骨格にバリエーションがある。
 
 
 
考古学から見た北部九州弥生混血種族の移動拡散。
 
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土器の類似で見た拡散ルートにも複数あり、すでに弥生初期において、日本人はいくつもの混血パターンを持っていると考えたほうがいい。
 
その結果として現代日本人の顔つきのバラエティ豊かさが生まれた。またそれは姓の多様さ、方言の多様さ、生活様式の多様さにも影響し、さらに時代を追って、移住者も増え、国家的な開拓民の大移住も複数回起きている。その日本らしさを今知ろうとするならば北海道などは、非常にいいサンプルになるだろう。全国からの移民が混在した中で、共通する北海道文化を生み出しつつあるのだから。古代日本の最適な踏み絵になるのである。
 
 
 
混血は常に現在進行形である。国境と同じく、どんどんステレオタイプ化してゆく方向性、運命にある。テレビがそれに拍車をかける。こう複雑な混血がわかってくると。日本人学もしろうとの手にはもう負えなくなってしまっている。
 
 
 
なにしろ建国の前から私たちは複雑にまじりあって作られた。外から人がほとんど入らなかった地域があるならば、そこは今後、民俗学だけを喜ばせていてはいけないだろう。貴重なサンプルになる。そんな場所がまだありますか?あなたの近くにはいかがです?たとえば椎葉村や戸隠村のような秘境でさえも、今は民族移動されてしまっている。明治時代の学者たちがうらやましい。
 
 
画像資料 古代学協会編 下條信行監修『列島初期稲作の担い手は誰か』すいれん舎 2014
 
 
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縄文人は本当に大津波を意識して暮らしていたか?

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全国的に縄文の遺跡は高台、扇状地、河岸段丘、海岸段丘などに出てくる。
縄文海進時代の遺跡では、アルプスのような山奥の少し高い麓に出る。
縄文人は危機管理にたけていたのだろうか?
 

赤坂憲雄(民俗学者、学習院大学教授 、福島県立博物館館長)
小林達雄(日本の考古学者、國學院大學文学部 名誉教授。新潟県立歴史博物館名誉館長)
の対談より抜粋(『遺跡・遺物の語りを探る』2014)
 
「人間学」としての考古学の再編
東日本大津波で縄文遺跡はなぜ残ったか
 
小林  2011年の大津波のとき、縄文遺跡は残りましたが、後世の人たちの生活圏はぜんぶ破壊されてしまいました。それをきっかけに、あらためて縄文遺跡を見直そうという動きがあったけれども、わたしは「誤解を招いてはいけない」と思っています。べつに縄文人に先見の明があってやったわけじゃなくて、そのときの彼らの生活の場が高台だった、それだけの話です。それを、まさに大発見のごとく「縄文人はえらかった。彼らはあの災害から逃げられるところに居を構えていたじゃないか」という、縄文を買いかぶって称えるようなことになったらいかんと思っています。

赤坂  つまり、高潮や津波の難を逃れるために高台に住んでいたわけではないということですね。

小林  というわけではないんです。縄文以降に人が下に降りてくる理由は、そこが平らな場所だからです。足の便がいい、自分たちのコミュニティをつくりやすい。それから漁業と関係している。だからいまの人も、三陸の大津波があったその経験を生かしきれなくて、またぞろ降りてくるわけです。それはみんな、縄文人以降がわかっていながらそうしてきたという責任であって、縄文人は、降りる必要がなかった。上へいればよかった。それだけです。

赤坂  福島県南相馬市のある貝塚は発掘途中で、報告書が出るまえに津波に遭いました。考古学の人たちといっしょに歩きましたが、それは丘のすこし小高いところにあって、すぐ下まで津波がきていました。だからぼくらは、「ああ、縄文人は津波を避けるためにここにいたのか」と感動するわけです。

小林  そうか、そういう感動か。

赤坂  たくさんある貝塚も、ほとんど例外なしに、けこうな高台に位置していました。海で獲った魚や貝なんかをわざわざ運ばなくてはいけないし、「丸木舟は海辺に置いておくのか?」など、不思議に思うことがあります。海に近いほうが生活が楽でしょうからね。どうして高台で暮らしてしたんでしょうか?
 
小林 そりゃあ、経済的な問題ですよ。現代の新しい経済社会のもとでは、効率がいいから下で暮らすわけです。多少の時化(しけ)でも出ていって漁をしたほうが、帰ってきたときに魚が高く売れるからです。海の側にいれば、いつでも漁に出られる。ところが縄文人は、うしろ(山のほう)にも生活の場がある。そこに聖地的な意味があれば、わざわざ海辺に住むようなことはしない。働きやすいということと、その日の食料をとるのに有利だというのが同じじゃないわけですですから。

赤坂  なるほどねえ。

小林  いまは、その日の食料を得るということだけじゃなくて、それを生活の糧(かて)として
生きていかなくてはならないから、危険を承知で低地に住む。記録があるので、津波の怖さは縄文人より(現代の三陸の人たちのほうが)知っていた(→いるのほうがわかりやすいか)かもしれないですよ。一方、縄文人はいまの人よりも散らばって点々としていますからね。定点観測をして「ここまでだったら津波をよけられる」なんてことはない。
 
 
 


 
 
 
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福島県南相馬市の海岸段丘の上に点在する貝塚
 
 
 


 
 
 

縄文人が高台に住んでいた一番の理由は、筆者は簡単にまず縄文海進のせいだと思っている。小林ほど、わかりにくい言い回しはしなくても、まずはこれが第一だろう。
小林の言辞にあるように、縄文居住地は高台にあって、背後の森には栗などの栽培のあとがある。栗や銀杏やどんぐりの「畑」である。つまりこれは主食の畑だから一番上にあり、住居は一番大事な主食畑のすぐ下に作るのである。野菜や雑穀の畑は一番下の川のそばにある。水が必要だからである。そして、ということは雑穀は栗やどんぐりよりも水没の危険性のある場所でよかった、そこでしか作れなかったということで、必要がそうさせただけである。

さらに魚介などの「おかず」を採る場所は、当然海岸線、川沿いだが、その場所は彼らの重要性の最後でしかなかった。水際には住まなかった、住めなかったのである。城門海進で海や川は高台の真下にあった、それだけのことである。

そもそも大津波や高潮に合わせて生活していた人びとがそんなにたくさんいただろうか?どちらもいつくるかはわからない。また来てもその再来の間隔は数百年単位である。人は語り継いでもせいぜい三代・百年が関の山なのだ。そういう時間間隔でやってくる大災害を果たして縄文人は、意識して暮らしていたのだろうか?
1万年も続いた縄文時代、その遺跡のほとんどが確かに高台や、山麓の扇状地に出てくる。しかし大災害は数百年に一度しか起こらない稀有な事件である。小林達雄は実はそういうことではないと考えている。
 
東北大津波を思い出せばわかることである。すべての人は過去の大津波のことなどとっくに忘れ去ってしまっていた。そして前回の江戸期の大津波のあと、もう百年もすれば、あの「ここより下に家を作るな」の石碑さえ無視され、経済効率のために海岸線に住んでしまっている。ところが戦前までの人びとは違う。どんなに不便でも先祖からの不便な土地を愛し、坂道を毎日水汲みに上下した。現代人とはまったく不便というものへの忌避感覚が違うのである。
 
ただ、この人間としての強い継続力には、もう歴然として今と昔で愕然とするほどの差があることも忘れてはならない。縄文~戦前の農民たちは「教育」などは皆無。これが最大の違いである。つまらぬ知恵はない、ないから先祖の言いつけを守るしか指針がないということなのだ。これを愚鈍という悪い言葉で言うけれど、しかしほかに何かを教わるすべなどなかった時代と人びとが大半をしめてきたということのである。ということは純真で素直なことにかけて、先祖たちは現代人を数百倍も上回っていて、まじめにバカがつくほどそのままに守るしかなかったということなのである。だからこそ、先祖の言い伝えは延々と言い伝えてこられたのである。だから民俗学やマスコミも、東北の縄文遺跡が高台にあって難を逃れたのは、縄文人の伝承が営々と伝えられた結果、そうなったのだと思いたいわけである。

ということは現代人は、明治以降、教育を万民が受けるようになって、こういう危機感覚や経験の蓄積にはもう、どうしようもなくずぼらになった、だめになったということになる。覚える必要のない道具・・・誰でも文字記録ができるようになり、やがてPC危機や天気予報が発達し、それにともなってひとりひとりの個人が、絶対に伝承を覚えいなくてもよくなったということなのである。それは例えば、昔の国語の書き取りがいかに大事だったかと同じことである。生死が自己責任だった時代と、そうではなくなった時代の格差は、これほど生物の生存本能を変えてしまう。
 
現代の大学生は、教授の講義がわからないと、それは教授の講義がへたくそだからと考える。つまり自分自身に対する危機感が希薄だからである。昔の学生たちは、必死になって教授の一挙手一動に食らいついた。学費は高く、親は死ぬ思いで授業料を支払う、それを知っていて子供は真剣にやらねば申し訳ない・・・そう思うから、理解できないのは自分がバカだからだと思って生きていた。これが危機管理能力につながり、いいつたえは確実に申し送られていった。
 
会社に勤め始めた頃、筆者は常に不思議だった。なぜ会社の人たちはなんどもなんども同じ間違いを起こすのかと。なぜちゃんと申し送りをして引き継がないのか?なぜノートにノウハウをメモッて次の担当者に渡さないのか?と。ところが先輩たちは「それも修行だ。頭と体で覚えることだ」と言うだけだった。あんたら縄文人か?とよく酒の肴の愚痴にしたものである。農家の農作業とか漁師の漁業のようなマンツーマン作業ならそれで十分であろう。いちいち口で解説するより見ているほうが勉強になる。会社の仕事にもそういう部分は多々ある。しかし親子のように何十年も一緒に作業するわけではない会社のそれも新しい担当がきたときに、なにもマニュアルがないなどどうにかしている。
 
縄文人のノウハウにも良し悪しはちゃんとある。高台に居住遺跡があっても、縄文人がちゃんとそれを意識して言い伝えていたかどうかはわからない。そういうことが、人の心や動きを見る民俗学者には気づけないで、モノを扱う考古学者には気づけているというのが、実はこの切り取った対談の一番大事なことなのかも知れない。また考古学者が縄文海進、つまり環境という時代感覚の最前提に来なくてはならない最大の要因にまず言及していないことも気になった。

だから本当の歴史を知るって大変なのです。
なぜなら誰一人、その時代に生きていたわけではないから。
要するに学者がいくら想像しても、それがすべて正しかったかどうかは、誰も確認しようがないということなのだ。だからこそ、より詳しい、よりこと細かな情報の渦の中にぼくたちも学者たちも翻弄されてしまうことになるのである。まったく記録のある時代研究者はうらやましい。

けれど、その記録がまた本当なのかどうかも、いまや相当疑わしい時代になっていて、半端なすきものたちが、ええい!えいやっと、ややこしい分析を切り捨てて勝手な二者択一で歴史をぶった切ろうとする気持ちもわからんでもない。だが、そのやり方は歴史の選択肢を可能性を全部見捨てて、どぶに捨てる行為である。脳細胞は生きているうちに使うべし。死んだら一番に脳は肉体から遊離し、おばかだったおのれの抜け殻を、空中から眺めるそうである。そのとき初めて、あなたは第三者の客観性を手にするのだ。それまではすべては妄想でしかないのだよ。ぼくのこの記事もねえ。
 
歴史の真実などは、一生のうちにひとつでも解明できればそれで御の字だと思うべきなのだろう。
 
 
 
 
 
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スコットランドとケルト/古代英国三地域はケルトでつながっていた

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スコットランド(ブリテン島ハイランド地域)
 
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古代
紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人が到来。その後紀元前43年よりローマ軍が侵入し、現在のスターリングに前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城及びヴィンドランダ要塞(英語版)等の拠点が築かれた。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利したが(グラウピウス山の戦い)、スコットランド全域を支配するまでには至らなかった。
 
中世
407年のローマ軍撤退後、ブリトン人等諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在の直接の祖先となるケルト系スコット人(英語版)(ゲール族(英語版))が到来。スコットランド北西部をスコット人(ダルリアダ王国)、北東部をピクト人(アルバ王国)、南部をブリトン人(ストラスクライド王国(英語版))とアングル人(ノーサンブリア王国)が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続いた。
以上Wikiスコットランドより

 


 
 
イギリス(大英帝国)はスコットランド、イングランド、北アイルランドの連合王国である。

それぞれ民族に相違があり、過去さまざまの紛争の末に300年ほど前に連合国家として成立した。中でも北部ハイランダー地域のスコットランドと、南部アイルランド島北部の北アイルランドは、中央のイングランドのキングスイングリッシュとは違う特殊な方言のある英語圏で、連合体は常に内部で仲たがいを引き起こしてきた。
 
ただし、古代においてはケルト民族という共通項を持った人々がブリテン島、アイルランド島全域の海岸線を中心に割拠した地域でもあった。先史時代の、日本列島とブリテンの島々のよく似ている点は渦巻きを再生の呪模様としたこと、羨道を持つ大古墳を持つこと、海洋民族であること、太陽の夏至・冬至のレイラインを強く意識した遺跡を数多く持つことなどがある。スコットランドは始まりから移住者スコッティと先住ピルトで相克があったと見ていい。
 
 
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イングランド南部ロンドン近郊のニュー・グレンジと渦巻き
日本の古墳とそっくりだが羨道奥壁に冬至の太陽光が差し込む。
紀元前3100年から紀元前2900年
 

スコットランドには、このケルト系ピクト古代人からの影響が根強く残っており、中世にフランス王の血脈が移住して王を出してきたイングランドとは、文化的に軋轢がありつづけてきた。特にスコッティ(スコットランド人、ハイランダーとも)たちには、イングランドよりも古い先住意識が高く、日本で言えば東北、北海道縄文文化によく比較できる。一方西部のアイルランダーを琉球民族や薩摩の隼人民族、熊襲などになぞらえると日本史をやるものにも理解しやすいだろう。
 
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スコットランド オークニー諸島のメイズ・ハウ墳丘墓
イングランドのニュー・グレンジ同様、羨道奥壁まで夏至の太陽光が差し込む。
紀元前3500~2800年頃
 


 
 
※欧州のこれらの墳墓は「羨道墓」といい、日本の古墳との時代格差は4000年もある。円形で羨道を持つ日本の横穴式古墳との類似はあくまでも偶然である。というよりも丸くて山のようで横穴の奥に墓所をおくのは、あらゆる人類の基層の死生観が同じだということを証明してくれる遺跡と言うべきだろう。そして共通項は造った人たちがどちらも太陽を信仰した海洋民族だったということ。円墳が多いアジアの極東地域と欧州海岸部をつないでくれる遺跡は今のところ存在しない。
 
 
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もっとも先進地と思われている欧州には、全体的にそのような先住VS新参の相克する土地はかなり多い。それはイギリス文化圏のカナダの中でのフランス系ケベック州とか、スペインの中のロマ(ジプシー)の集中地帯とか、あるいはセルビア、あるいはフン族の混血したハンガリーなどなど枚挙にいとまがない。だからこういう根深い人種隔離は東アジアのチベット、ベトナム、テュルク及びウイグル民族との中国政府の確執をあげるまでもなく、いまだに古代の紛争の影世界中に残存しているということなのである。比較的新しい時代に起きた中東のイスラエルの問題などはいまだに尾を引き続け、実際にイスラム圏との確執は戦争として顕現しつづけている。まことに人種問題こそは常に紛争の火種である。

われわれ現代人は、イギリスのような先進国の代表と言える国家内部にいまだに民族問題があるなどとはなかなか考え付かないできたわけだが、これまでもアイルランド差別については記事にもしてはいる。しかしスコットランドとイングランドの確執があることはすっかり忘れていたと言ってもいいのではないだろうか?

スコットランド地方は英国の家内制手工業産業や重工業を支えている部分が大きく、もし分裂すればイングランドに大きな損失をまねくことだろうし、スコトッランドにとっても決して経済効果はいいほうへいかないだろうことは目に見えている。

英国の著名なミュージシャンであるビートルズのメンバーたちの出身地はイングランド中部のマンチェスター・リバプールというかつての繊維産業地帯であり、またエルビス・プレスリーの父親はアイルランド人、俳優のショーン・コネリーはスコットランド人である。それぞれが国内ではそれぞれの出身を誇りにしているが、それは同時に国内での評価に影響を与えているということでもある。かつてあのビートルズでさえ、音楽評論の中で「猫背の」「出自の悪い」「悪がき」と揶揄されたのである。そういう歴史を見ていると、英国は三韓時代の朝鮮半島にも似ているとすら思えてしまう。見えないところで、差別と言う古代イデオロギーはまだまだ続いている。しかし、われわれ日本人もまた、そのことにあからさまな批判のできる歴史を持ってきたとは言いにくい過去がいくつもある。人類の意識の越境はまだまだ遠い現実なのだろう。
 

 
 
今回の独立選挙は、「浮動票は必ず安定を選ぶ」の法則どおりスコットランド独立反対に決着するのではないかと筆者には見える。独立すれば共倒れは目に見えている。
 
 
 
 
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幅広い麺の世界を探る フェットゥチーネ/ベシュパルマク/ほうとう・きしめん・団子汁・ひもかわ

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世界に幅の広い面を好む文化がある。
イタリアのフェットゥチーネ、ラザーニャ、
カザフスタンのベシュパルマクに使う幅広麺、
アメリカではヌードル。
中国では河粉があるが、麺と言えば小麦粉をこねて広げた幅の広い生地すべてが麺である。
 
 
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フェットチーネ
 
 
 
 
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カザフスタンのベシュパルマク
 
 
 
 
 
 
日本ではきしめん、ほうとう、ひもかわうどん、団子汁のやせうま団子
 
 
何か共通性はないか?
 
それはどこもみな海洋民族が住み着いて、米よりも小麦を栽培した地域。
 
 
 
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群馬県桐生ひもかわうどん
 
 
 
 
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大分県団子汁
 
 
 
 
 
 
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愛知県三河地方発祥きしめん
 
 
 
 
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山梨県ほうとう
 
 
 
 
伸ばす麺、伸ばして切る麺に大別できるが、どっちにしても小麦粉麺の二次的加工形態であり、うどん、切りそば、スパゲッティなどはむしろ、三次的に工夫をされたコンパクトな新しい形態であると言える。麺とは切る前に伸ばすものだったからだ。
 
 
 
狭い麺は、広い麺から生まれ出るのである。
 狭い細い麺は、こしを出す技術が発達してから可能になる。
それは各地でいろいろ工夫された。
パスタはデュラム小麦粉と乾燥方法から。
さぬきうどんは地道に踏む工夫から。
あとは機械である。
 
 
 
 
これはイタリアでも中国でもトルコでも、小麦粉麺の本場での順番がそうなのであるから否定できないだろうと思う。
 
 
 
 
四角く切る切り麺は、技術の発展の結果である。
拍子木型は機械加工ができてから。
 
最初は伸ばして作られる。
次に伸ばして切るようになるが、これは商売として経済的効率のためであるから遅くなる。日本の蕎麦も最初は蕎麦掻、広蕎麦、伸ばしそば、切り蕎麦の順に完成してゆく。
 
 
イタリアのパスタも同じである。最初はラザニア、ニョッキ、伸ばす、切る、穴から押し出す、そしてバリエーションでの貝のような形の形もの、マカロニに。
 
 
 
だから麺、パスタとは当初は伸ばしたもの、広いものである。春巻きの皮や餃子やワンタン、シュウマイ皮のように。
 
 
 
それが包丁やカッターの発明発展で切り麺になる。だから当然最初は大きく切られる。
 
 
 
 
面白いのは日本で幅広い麺が太平洋側に偏ることだろう。
 
 
 
九州の大分・熊本
愛知県三河
甲斐・山梨
群馬県
 
 
共通性は簡単に見つかる
海の民が多い。
米より雑穀だったところ。
渡来系部民が多い。
つまり職能民・技術者が多い。
味噌文化にともなうが、味噌の方が完成が遅い。
つまり最初はすましであろう。
 
 
 
では西欧とトルキスタンに存在したのは?
小麦文化圏。
職能・騎馬・海洋民。
底辺文化。
 
 
さして世界にかわりがないとわかるのである。
 
 
 
 
もう一度もうしあげておくが、うどんは幅広麺のあとから出てくるのである。
そして粉食渡来文化の大阪で広められたから、うどんがメジャーになった。ただそれだけのことなのである。大阪は食・文化の問屋だった、古代から。
 
 
讃岐うどんとは?
渡来人と海洋民族がたくさんやってきて、雨が少ないので小麦メインしかなく、そこで発達した。
 
要するに米ができないので小麦。
 
群馬県の串まんじゅうも、もち米がないからの代用品。
 
機構のせいだしょうがあるまい。
 
 
 
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日本列島二つの縄文人/白水郎

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あくまでも筆者の推測
 
 
 
 
次回から天武と多氏
 
 
 
 
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天武と多氏

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『日本書記』天武天皇紀に登場する神八井耳命の末裔たち
六月辛酉朔壬午、詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」

六月二十二日、(前月のうちに挙兵を決意していた)天武天皇は、むらくにのむらじ・おより、わにべのおみ・きみて、むげつのきみ・ひろに命じて「聞くところによれば「近江朝庭=天智近江宮」の重臣たちは私の殺害を企てているという。そこで、そなたらは急ぎ美濃国へ迎い、安八磨(あはちま)郡の湯沐令(ゆえの・うながし)多臣品治(おうのおみ・ほむじ 太安万侶の父)に機密を伝え、まずそこで兵士を集めよ。さらに国司たちに知らせ、軍勢を動員してすみやかに不破の道を封鎖するのだ。私もほどなく出陣するつもりだ。
 
 
 

甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下、則道路難通。何無一人兵徒手入東。臣恐、事不就矣。」天皇從之、思欲返召男依等。卽遣大分君惠尺・黃書造大伴・逢臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得鈴也。」

二十四日、天皇はいよいよ東国へ入ろうとしていた。このときひとりの臣下が天皇に向かい、
「近江朝庭の重臣らはもとより策謀に長じております。おそらく国中に妨害が巡らされ、通行はままならないでしょう。どうして一兵も率いず、武器も携帯せずに東国へはいれますでしょうか。自分は計画が失敗するのではないかと懸念しています」と言上した。天皇はもっともだと思い、おおきだのきみ・えさか、きぶみのみやつこ・おおとも、あふのおみ・しまを留守司の高坂王(たかさかのおおきみ)のところへつかわし、駅鈴(うまやのすず=公務出張の際の通行手形のようなもの)を発給するよう要請した。天皇は恵尺らに「もし駅鈴を得られないときは志摩はすぐに吉野宮に取って返し、その旨を知らせよ。恵尺は馬を駆って近江国に向かい高市皇子・大津皇子を呼びだして、伊勢国にて私と落ち合うことができるようにするのだ。」と仰られた。恵尺らはそのとおりにしたが駅鈴は得られなかった。恵尺は馬を走らせて近江に向かい、志摩は吉野宮に戻って「駅鈴は手に入れられませなんだ」と報告した。
 
 

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大。是時、人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。

秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆自不破出直入近江。恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上。然後、別命多臣品治率三千衆屯于莿萩野、遣田中臣足麻呂令守倉歷道。
 
翻訳はご自分で。疲れ果てた。
 
 
六月癸酉朔乙未、大分君惠尺、病將死。天皇大驚、詔曰「汝惠尺也、背私向公、不惜身命、以遂雄之心勞于大役。恆欲慈愛。故爾雖既死、子孫厚賞。」仍騰外小紫位。未及數日、薨于私家。
 
天武天皇4年(675年)6月23日に、大分恵尺は病んで臨終に近づいていた。天皇はこれを知って驚き、恵尺の功を語って子孫を厚く賞することを約束する詔を発し、恵尺を外小紫にした。小紫は高位だが、恵尺が得たのは外位である。出自の身分が低い恵尺を有力貴族と同列にすることはできないが、功臣を高く賞したいという考えから、外位になったと考えられる。恵尺は数日後に自宅で死去した。
 

資料・『日本書記』原文検索http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
現代文訳Kawakatu
 
 


 

壬申紀に登場する人物たちの中で、神八井耳命の子孫は以下の三氏である。

多氏は皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。邪馬台国の女王の卑弥呼もまた、多氏の一族である肥国造の人とする説もある。

古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。

多氏の後裔でもっとも有名なのは阿蘇国造の後裔という肥後の阿蘇氏だが、阿蘇氏の多氏子孫説には多くの疑問があるとされる。阿蘇氏の祖神は健磐龍命であり、多氏とは別系統だが系譜を接合したともされる。筑後国の蒲池氏にもまた多氏の流れを汲むという説があるが、もとより伝承の域を出ない。
 
大分氏(大分君)は豊後国大分郡(現在の大分県大分市周辺)の豪族であり、多氏の一族で大分国造家とする。壬申の乱の勃発時、恵尺は大海人皇子の舎人だったと推測される。( 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年など)
 
逢氏の出自は明らかでないが、臣姓であったことから有力豪族であったとみられる。壬申の乱勃発当時、逢志摩は大海人皇子の舎人として皇子のそばにいたと考えられている。
 
多臣品治(おふのほむじ)の役職であった「湯沐令」については天皇幼少時のめのと・乳部であるともされるが、中国の『史記』に「湯沐邑とうもくゆう、ゆのむら」の前例があり、古代中国と、飛鳥時代から平安時代までの日本で、一部の皇族に与えられた領地である。
 
「湯沐邑は周の制度として始まった。文献初見は『春秋公羊伝』隠公3年3月条である。そこでは、邴(へい)は鄭の湯沐邑であるとして、湯沐邑について解説する。それによれば天子が泰山を祭るとき、諸侯もみな泰山の下に従う。そのとき諸侯はみな湯沐のために邑を持つという。また『礼記』王制篇に、方伯が天子に朝するときにはみな天子の県内に湯沐の邑を持つとある。どちらも斎戒沐浴を名目とするが、遠くから来る諸侯と従者、使者の滞在に必要なものを、現地で満たすために与えられたのであろう。」

「前漢の高祖劉邦は皇帝になってから、「朕は沛公からはじめて暴虐を誅し、ついに天下を得た」として、挙兵の地である沛を自分の湯沐邑にして、沛の税や労役負担を軽減した。皇帝の湯沐邑はこの一例のみで、その後は皇族が湯沐邑を与えられた。」
以上Wiki湯沐邑より
 
 

要するに『日本書記』は天武を前漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に見立てたと言ってよいだろう。ほかにも劉邦のエピソードが使われている。天武が天智天皇から次期天皇として与えられた直轄地が美濃国(岐阜県)の海岸部、安八磨の海に面した土地(現在の安八郡あんぱちぐん)であった。だから湯沐令とはつまり美濃国・尾張国にまたがる海部の管理者だと見られる。

大分君もまた大分郡から海部郡をたばねた海人族管理者であろう。

すると逢臣もおそらくそういう地方の海人管理者であろうと思われる。

 
 
神八井耳の子孫の多くは、このように海部に関わる職業の人が多いようだ。

古族多氏の子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多いわけだが、軍事的にも対外的にも政治的にも経済的にも最重要な、海と港を守る氏族であり、「あふ」「おふ」「おう」「おお」の呼称で共通していた。天武の幼名である「大海人おおあま」も、大海人氏という氏族を乳部にしたゆえである。(「天」を「あめの」と読むのか「あまの」と読むのかは意見がわかれるだろうが、大きく「あま」は海、「あめ」は天と見ている)
 
彼らの大元は大和国十市郡飫富郷の多である。彼らがでは、どこからここへやってきたかは不明であるとしか言いようがない。各地に散らばった記録は天武・持統以前にはまったく見えないためである。壬申の乱の後から突然、多氏は全国の国司になってゆくが、一番遅く九州に入る(持統時代)阿蘇氏・諏訪氏などもそうである。

多氏前身として考えられることは、おそらくまずは九州西部へ渡来した外来人ではなかったか、あるいは先住した倭族系縄文氏族とも、さまざま考えられるがすべて想像でしかない。

少なくとも海人族に関わることから、九州でならば古墳時代の装飾古墳に関わった氏族か、南九州系譜か、遠賀川土器を広めた人びとの子孫か。
ただ、南九州系とは考えにくい。庶兄の手研耳(たぎしみみ)命を殺しているからだ。
 
こうした記録から考えられる可能性は、最初北部九州で丹生や顔料を採集して死者の祭祀を司った縄文巫覡だったことである。「おう」とは「青」であったという谷川健一の意見も傾聴に値する。青は、当時、すべての色である。青にはまた硫黄などの鉱物の色でもあったのであり、死生観に関わる仕事の人がいた場所や、墓所に「あお」「おう」地名は多い。死は祭祀であり、それらの人は総じて巫覡(ふげき・はふり・かんなぎ=神の預言者)である。
 
戦国武将の丹羽氏も多氏末裔と主張したことから「丹」水銀と関わった人々だったと思われ、装飾古墳造営者で東へ移動していき瀬戸内を吉備から大和へ、そうしたえにしで倭五王時代にはもう九州国司クラス、靫負氏族として入り、南九州氏族を平定し、国造家にとってかわっていった、それが景行・ヤマトタケルの熊襲征伐に影響した。つまり吉備が派遣の出発点ではあるまいか?
 

尾張と美濃、海部などで考察するとそういう結果になる。また日本海では出雲にもオウ郡があるので、出雲の横口式石棺や石馬の存在は海部に関与すると考えている。倭五王、天武・持統時代の多氏派遣は、もともと出身地である九州へのいわば出戻り派遣であったかと思える。
 

ただし、古代の乳部氏族の多くが渡来系であったことから、多氏も渡来系と見る考え方もあるだろう。
 
 
いまだ不明。謎の氏族。
なぜ天武のそばに彼等はいたのか?
それは『日本書記』ならではの捏造なのか?
まずもって不明。
 
 
 
 
 
 
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壬申の乱はなかった/太安万侶は暗殺された

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壬申の乱はなかった。
『日本書記』の創作である。
天武紀は前漢劉邦をモデルに不比等が書き直した。
なんのために?
女帝正統性と藤原氏正統性、そして蘇我氏惨殺正統性のために。
 


 
1 天武壬申紀の要所要所に劉邦のエピソード、その他の中国史書を真似た箇所がある。
 
2 天武紀は森博達の分析で中国人の正しい漢文で書かれており、『日本書記』β群である。
 
3 α群は天武時代に中国人書記官が書き、β群は持統~文武時代に日本人が書き足している。
 
4 おおまかに神代と神武紀~雄略の前までがα群(詳細は別記事森博達に既書)で、漢文に誤りがない。
 (ときどきαとβの逆転、西と東の逆転、木梨軽と軽皇子の逆転などなどが筆者には起こります。これは脳梗塞の後遺症ですのでご容赦願います。)
 
 
5 中国人が書いたはずのα群の中で、皇極紀・天智紀・天武紀には文法の誤りが何箇所かある
 
6 つまり乙巳の変、天智紀・壬申紀は明らかにあとから日本人の書き直しが行われた
 
 
7 理由は『日本書記』が天智=中大兄と高祖鎌足を正当化し、さらに藤原氏にとって都合のいい女帝時代を正当化することによって、国外でも国内でも大和政権の正統性を確固たるものにするためである。
 
8 当時、まだ九州や東国は完全に日本を中央集権国家とは認めていなかった。その証拠に壬申の乱には、大分君以外のカムヤイミミの子孫として当然参加しているはずの筑紫三家連、火君をはじめ、東国各地の国造たちの名前が出てこない。その代わりに宗像君の娘が生んだ高市皇子は登場する。
 
9 中国に対して天武が正統であるとすれば、当然、兄の天智も正統な前王となり
、乙巳の変は正当化される。『古事記』が天武の正統を言うのに対して、『日本書記』の正統は天智と持統の血脈のために書かれてあり、天武はそのための中国的革命君主という扱いでしかない。
 
10 『日本書記』は藤原不比等が、自分達の正当性と蘇我氏の不当性を国内に向けて宣言した捏造史書であり、全体がこれ虚偽で貫かれてある。そのすべてが天智~天武の正統性で満ち満ちており、ほかのエピソードはみな太安万侶が作り出した多氏のための『古事記』を、藤原氏と天智のために書き換えてある。神武東征は多氏の伝承であって皇孫のためのものではなかった。つまり継体以前はまるでうそ。継体~持統までは書き換えでできている。したがって天武以前の記録はすべてを疑う必要があり、天智も天武も壬申の乱もなかった可能性が高い。壬申の乱は劉邦前漢の革命を借りた軍記劇でしかない。つまり『日本書記』は時代小説である。
 
 
 
もちろん乙巳の変や聖徳太子も潤色された歴史劇である。読み物でしかない。
いくらかの正しい歴史をないまぜにして、読者をけむに巻くしたたかな不比等の手腕しか、そこには存在していない。天智は大王ではなかった。
 
太安万侶の墓にだけ墓誌があった。なぜか?
暗殺されたから。
普通に死んだとみせかけるためにあざとく墓誌が置かれ、後世にそれが安麻呂の墓であること、自然死だったことを言うために。
だから多氏は大和中心の古代史から消されたと言える。真実を知りすぎていたから。
 
では消された多氏の祖霊は今どこに?
それは当然、「見知り過ぎたもの」として多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)に多氏自身の手で封じ込められたのだろう。
 
 
 
 
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大化の改新もあったかどうか知れたものじゃない

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推古30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)死去。

『藤氏家伝』大織冠伝に「董卓の暴慢既に國に行なはる」と馬子を批判する記述があり、董卓に比肩する暴政としている。
 
推古34年5月20日(626年6月19日)、蘇我馬子死 息子蝦夷、大臣を継ぐ。

推古36年3月7日(628年4月15日)、推古大王が後嗣を指名することなく崩御。蝦夷、田村皇子を推挙し舒明天皇即位。

舒明13年10月9日(641年11月17日)、舒明大王崩御 皇極女帝即位

「天豊財重日【重日、此をば伊柯之比と云ふ】足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王の女なり。母をば吉備姫王と曰す。天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ。息長足日広額天皇の二年に、立ちて皇后と為りたまふ。十三年の十月に、息長足日広額天皇崩りましぬ。」
 
「是歳(ことし)、蘇我大臣蝦夷(そがのおほおみ・えみし)、己が祖廟(おやのまつりや)を葛城(かづらぎ)の高宮に立てて、※八佾の儛をす」
 
「是の日の同じ時に、人有りて、白雀を以て籠に納れて、蘇我の大臣に送る」
 


 
※舒明~皇極にかけて大化のクーデターの前提としての天変地異や奇瑞が列挙される。この部分まではすべて中国の天子出現や、クーデターを予想させる表現を駆使してある。例えば王莽の白雉の話などそのまま雀に代えただけ。こういう例は武内宿禰と仁徳の部分にも出てくる。要するに『日本書記』は要所で中国史書の例証を利して、結局のところ天武に近い時代の記憶を何度も過去の歴史に焼きなおして作られてある。
 
つまり当時、すでに過去の歴史などいくらでも創作しても、誰も覚えていなかったというわけであろう。それならば史書などいくらでも改竄できたことになる。あとは、その時に実力のあった氏族、王家や藤原氏にとって都合のよい豪族の伝承さえ取り込みアレンジして挿入し、さらにその豪族の実在祖先の名前などを登場させておけば、だいたいの氏族は納得する。下っ端たちには文句のはさみようがなかったわけだ。あとは成立後に若いものらにインプットしてしまえば(講義は太安万侶らによって何度もあった)、日本史などはどうでもなる。

だからこそ安麻呂や天皇のそばにいた宮中歌人の柿本人麻呂、あるいは俳優などは邪魔だった。中国でも東方朔(とう・ほうさく)のような道化だった人物が暗殺、配流の憂き目に合う記事が多い。
 
 
 
 


 
 

643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。

同年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極女帝の次期大王に擁立しようと望んだ。上宮王家滅亡。

中臣鎌子は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。
 
法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。
 
645年、※三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。
 
 
 


 

※注八佾の儛「やつらのまい」とは天子のみに許された特権的王権表示
祖廟も八佾の儛も中国風の習俗。八佾は八列の意。八佾舞は六十四人の方形の群舞で、これを行うのは天子の特権とされ、論語、八佾に、卿大夫の季子がこれを行ったことを責めている。
 
 
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中国六佾の儛
 
 
 
「孔子(こうし)、季氏(きし)を謂(のたま)わく、八佾(はちいつ)を庭(てい)に舞わしむ。是(これ)をしも忍ぶべくんば、孰(なに)をか忍ぶべからざらん」
 
 「八列六十四人を家の廟(びょう)=お霊屋(たまや)の庭(広場)で舞わしたそうな。それをさえ忍べるとすると、天下に何事も忍べないものはないではないか」。
 
<八佾>佾(いつ)は舞人の列のことをさす。一列八人で、八佾は六十四人の舞人からなっているというのが通説である。
 
季氏は魯(ろ)の家老季孫子(きそんし)の五代目の当主季平子(きへいし)、つまり季孫意如(いじょ)をさしている。魯の昭公は季平子以下叔孫(しゅくそん)・孟孫(もうそん)の三家老の専横にたえかね、クーデタをおこし季平子を殺そうとして失敗し、斉(せい)国に亡命する(前五一七年)。そのとき三十六歳であった孔子は、公のあとを追って斉にのがれた。八佾とは前に述べたように、天子の礼で、宗廟(そうびょう)の祭に、一列に八人を八列、つまり六十四人の舞人を奉納する特権である。この特権を陪臣(ばいしん)の家老の季氏がほしいままに行使したので、孔子が大憤激したのである。(貝塚茂樹訳注「論語・第二巻・八佾篇」中公文庫)
 

つまり蘇我蝦夷は大王にしか許されていない舞いを舞った。これは蘇我氏が当時、実際の大王であったことを示している。大豪族の臣下でもせいぜい六佾の儛程度しか許されなかった。しかし蘇我氏は推古時代にはもう、倭五王よりも古い王家であった葛城氏の直系を言うがために葛城氏の子孫であると表明していた。ところが中大兄はその葛城氏に育てられ「葛城王」と名乗っていた。馬子時代には葛城を本領としたいと願い出るが推古はこれを脚下している。これも大それたことを言うとして「蘇我氏悪人、だから殺されて当然」を言うための嘘であろう。
 
 
※三韓の調(みくにのしらべ)
調とは租庸調のうちの「つき=貢物」である。
三韓は高句麗・新羅・百済であるが、当時の半島情勢は北魏時代からずっと中国その他から侵入を受けていた。だから倭国はいつも彼らの援助要請で潤っていたのだ。百済豊章の人質とか、稲目がもらった高句麗王女などまさにそれ。飛鳥寺造営も百済王の助力である。
 


 
 
 
 
さていよいよ乙巳の変のクーデターが勃発する。

『日本書紀』巻廿四 皇極四(六四五)年六月戊申条 乙巳変
戊申、天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、為人多疑、昼夜持劒、而教俳優、方便令解。入鹿臣、咲而解劒。入侍于座。倉山田麻呂臣、進而読唱三韓表文。於是、中大兄、戒衛門府、一時倶鏁十二通門、勿使往来。召聚衛門府於一所、将給禄。時中大兄、即自執長槍、隠於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂、授箱中両劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰、努力々々、急須応斬。子麻呂等、以水送飯。恐而反吐。中臣鎌子連、嘖而使励。倉山田麻呂臣、恐唱表文将尽、而子麻呂等不来、流汗浹身、乱声動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戦。山田麻呂対曰、恐近天皇、不覚流汗。中大兄、見子麻呂等、畏入鹿威、便旋不進曰、咄嗟。即共子麻呂等、出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿転就御座、叩頭曰、当居嗣位、天之子也。臣不知罪。  乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知、所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作尽滅天宗、将傾日位。  豈以天孫代鞍作乎。<蘇我臣入鹿、更名鞍作。>天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。是日、雨下潦水溢庭。以席障子、覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、      韓人殺鞍作臣。<謂因韓政而誅。>吾心痛矣。即入臥内、杜門不出。中大兄即入法興寺、為城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是、漢直等、総聚眷属、擐甲持兵、将助大臣処設軍陣。中大兄使将軍巨勢徳陀臣、以天地開闢、君臣始有、説於賊党、令知所赴。於是、高向臣国押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、応当被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則為誰空戦、尽被刑乎、言畢解劒投弓、捨此而去。賊徒亦随散走。
 

大意
皇極天皇三乙巳(645)年六月戊申(12日)
天皇は大極殿にいた。古人大兄がその横に座している。中臣鎌子連(藤原鎌足)は蘇我入鹿の人となりが疑い深く、昼も夜も、たえず剣を持っていることを知っている。そこで俳優(わざおぎ・道化)に剣をはずすよううながした。入鹿臣は笑って剣を解き座に侍る。倉山田麻呂は三韓の表文を読み上げる。中大兄は護衛係に指図し宮中の十二門を閉鎖させ、出入り出来ないようにした。

 この時、中大兄は自ら長槍を執って殿の側らに隠れた。中臣鎌子等は弓矢を持って助け護った。海犬養連勝麻呂は箱に入れていた剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に授け「くれぐれも間違うなよ、瞬時に斬り殺せ!」と伝えた。
 
 子麻呂らは水で無理やり飯を流し込んだが、緊張のあまりもどし、吐きだしたので中臣鎌子は責めて励ます。
 
 倉山田麻呂は表文を読み終ろうとしていたが、子麻呂らがまだ出て来ないので緊張のあまり汗を流し、声が乱れ手がおののいた。鞍作臣が怪しんで、
 
 「叔父貴よ何故、ふるえて戦慄くのか?」と問うと、倉山田麻呂は「天皇の近くに侍るので恐れ多くて汗が流れるのじゃ」と。
 
 中大兄は、子麻呂らが入鹿の威勢に畏れて進まないのを見て「やっ」と気合を入れて一喝する。そして子麻呂らとともにいきなり入鹿の頭・肩を剣で斬りつけた。入鹿は驚いて立った。

 子麻呂は剣を振って入鹿の脚を斬りつけた。入鹿は女帝の足元にまろびつつ請い願う。
 
「まさに嗣位に居すべきは天子なり。自分は無罪だ。垂審察(あからめたまへ=なにとぞもう一度この自分に罪があるかどうかよく調べてください)」と言った。
 皇極女帝は大きく驚き、中大兄に「何事が起こったのか」と曰う。中大兄は地に伏して「鞍作は天宗を滅ぼし皇位を傾けようとしています。※どうして天孫を以て鞍作に代えられましょうか」と申した。天皇はその場を立って殿の内に入られた。
 佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田は入鹿臣を斬り殺した。

 この日は雨が降って水たまりが出来ていた。鞍作(蘇我入鹿)の屍に筵を覆った。古人大兄はそれを見て自宅に走り、人に「韓人(からひと)は鞍作臣を殺した。吾が心痛し」と云って臥内(ねやのうち)に入り門を閉ざしたと。
 
 
 


 
 
※1豈以天孫代鞍作乎。
「どうして天孫を以て鞍作に代えられましょうか」では、
一見して奇妙な言葉になっている。
言うべきは真逆。
「どうして鞍作を以って天孫に代えられましょうか」が正しい。
 
 

※乞垂審察
あきらめたまへと読ませるが、=なにとぞもう一度この自分に罪があるかどうかよく調べてくださいという意味である。

審察を垂れたまえ。審察とは漢語の「取調べ」であるからこの場合は「再調査して無実をあきらかにしてください」である。『日本書記』音訓注にある「あきらめたまへ」は現代語から考えてしまうと奇妙な『日本書記』の音訓指定で、「あきらめる」は「明からめる=あからめる」で「あきらかにする」「白日の元にさらす」の意味が古い。
 

※韓人殺鞍作臣
朝鮮半島を巡る政治情勢の混乱が蘇我入鹿を殺してしまったと解釈するのが一般的。

しかしそのまま読めば、どうしても「朝鮮の人が大臣を殺した」である。しかし登場人物を見ても韓人的渡来系氏族はいないようである。三韓の使者が殺すはずはない。入鹿を直接殺した佐伯は蝦夷連行管理者の子孫だし、犬養は海人管理者である。中大兄が朝鮮人のはずもない・・・。

奇説では関裕二が著書『藤原一族の正体』(PHP文庫)の中で、中臣鎌足とは韓の人であり、、この中臣鎌足とは当時の倭国にやって来ていた百済王・義慈王の子、つまり、百済王子の豊璋(ほうしょう)、余豊璋(ヨ・ブンジャン)と同一人物ではないのかとしている。
 
この解釈は難しい。古人大兄は蘇我氏が次期大王に選んだ人で、蘇我氏の血筋である。その人が「からひとが殺した」と言ったと書いたのは、『日本書記』作者に何かの意図があってのことだろう。保留。
 

 
 
 
いずれにせよ、αであろうがβであろうが、そもそも最初から『日本書記』は虚構とコラージュでできている。文武時代以降、継体以後の記事に、それがなおさら加筆されていると見てよい。うそにうそを重ねてある。皇国史観を固めるために、聖徳太子も天智も天武も、アマテラス信仰も伊勢信仰も、みな、上乗せされた。藤原氏によって。また天智・天武の息長血脈や神功皇后伝承も嘘である。すると当然、神功皇后からうまれでた応神・仁徳もどこまで信じられるか知れたものではなくなる。となると継体も、欽明も、磐井の乱も、すべて天智王朝の捏造のために考案されたお話となってしまうのである。もちろん話の大元はちゃんとあっただろう。天皇家ではなく各地の豪族達の伝承として。
 
筆者が続守言と薩弘恪だったなら、きっとあきれかえって毎日酒に溺れていることだろう。やってられねえってね。
 

 
 
 
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ヨミガエリの色
 
 
 
 
 
 
 
 
朱・丹・閼伽
 
 
 
 
 
 
 
      奥山丹   黄葉踏別  鳴鹿之  音聆時曾   秋者金敷 
 
 
 
猿丸大夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿()黄()之()者()音(
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これが解けたら、あなたも閼伽
 
 
 
 
 
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