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結界遺構と遺跡空間

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結界遺構(考古学・民俗学・宗教学・人類学)
 
 
結界とは
結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられている。大和言葉では端境(はざかい)やたんに境ともいう。Wiki結界
 
 
 
結界遺構
「たとえば現在、里山に残っている近代村落を概観してみると、いくつかの氏(父兄のマキ※)で村落が構成され、家が分布している例が見られる。埋葬は共同墓地でおこなわれ「マキ」ごとに墓域を形成する事例がある。ほかには、お堂や集会場、消防小屋と火の見櫓、燃料材を積み上げて保管する「キニョ※」などが空間分布することで、集落範囲をおおよそ認識することができる。そして村境を示す結界民俗事例が確認できれば、確実にそこまでが集落範囲だと確認できるのである。」
(佐藤雅一 2014)
 
 
 
語注
※マキ
一集落内での父兄集団のうち、直系ではないが、同じ苗字を持つ父兄集団。
 
【家】より
「…また本家・分家の関係は,一族の氏神の祭祀や墓地の清掃整備を共通することなどによって,血縁関係の濃薄にかかわらず継続した。それは同姓とか一マキなどと呼ばれて,婚姻による縁戚関係とは別なものであった。田畑の細分の制限令などにより農民の分家はしだいに減少するが,新田開発等によって新しい家の増加は継続していた。… 」
 
【同族】より
「…本家とその親族分家や奉公人分家,また直接分家だけでなく間接分家(分家の分家,すなわち孫分家とか又分家と呼ばれた家)をも含む組織集団。農山漁村社会でマキ,マケ,マツイ,カブウチ,イッケ,クルワなどとも呼ばれ,商人社会ではノーレンウチなどとも呼ばれた。社会学,民族学,民俗学,社会人類学によっては同族団(同族集団,同族団体,同族組織)と呼ばれ,国際学界でもdozokuの名でとおり,クランclanやシブsibとは区別されている。」
 
 
 
※キニョ
ニョとは「積み上げたもの」。キニョは木を積み上げて山にしたものを指す。通常、キニョは長さ三尺に切られ、割った材木を整然と積み上げた貯木を言う。
 
 
 
 
 
結界の凡例
新潟県十日町市の白羽毛(しらはけ)集落と程島(ほとじま)集落の境界である十二沢に結界札が吊るされている。
 
 
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斎つき祭る久那斗大神(くなどのおおかみ)と墨書された札を、近隣の倉俣(くらまた)集落にあるお寺の住職に祈祷のうえ書いていただいたこの結界札を、程島集落の入り口にある神木に吊るす民俗儀礼。
 
 
 
「考古学的観測によって把握されている集落範囲は、集落機能がおおよそ平坦分布する範囲を想定しており、その外縁部で営まれた観念的儀礼を背景とする結界遺構を把握することはむずかしい。また、拠点集落遺跡は、そこが平坦だから立地するということではなく、集落造成コストや「遺跡の心性・場所性」などをふまえて考察する視点が必要である。
 また、拠点集落遺跡を取り囲む里山、山、深山は、資源の宝庫である。対象によってその採取加工場跡も多様である。」(佐藤雅一「遺跡を探して守り、研究する」 『遺跡・遺物の語りを探る』2014より)
 
 
 
民俗学・人類学では結界のある集落を中世から江戸期にかける「結い」のような古い、集団意識のひとつとして捉え、集落の血脈や家、同族性を研究されてきたが、考古学が遺跡をこういう結界集落内部に発見し、発掘するケースでは、縄文から引き継がれてきた岩陰遺跡・洞穴遺跡のような、人の狩猟などの移動の最中の中継点、物置小屋のような、季節回帰性長距離移動生活者の山小屋だと認識しているようである。
 
そして、そういう集落の人びとの生活は、縄文時代から営々として引き継がれたものである限り、そこに造られた後世の遺跡・遺構も当然、その流れの中に置かれた人々=同族マキの子孫のもの、として、長いスパンと環境変化などをつきあわせたうえで古い遺跡とともに把握しておく必要があるわけである。もし民俗が変わらずにそこで存続された文化であるならば、結界札や岩陰・洞窟利用とは、一万年も長く続けてこられた風習となり、ひとつの時代だけの遺産ではなくなるからである。
 
旧石器・縄文から現代に至るまで、さして変わる事がなかった風俗があるとするなら、それは日本人の基層にある基本理念そのものを知るための貴重な資料となる。
 
 
 
なかなかすぐに「これは新しい時代の遺跡だから古代とは無関係」などと切って捨てていては、人間の行動学はつかめない。
 
 
 
 
 
また開けた土地の遺跡=開地遺跡とこれらの林間、山間の遺跡との相関関係も考えていかねばならない。
 
 
このように考古学では、当座の遺跡・遺構の調査だけでなく、周辺の遺跡空間ーセト(ツ)ルメントの調査も重要である。当時の人間の行動範囲を知るためにも。
 
つまり結界を、神秘主義者のように、極めて通常空間とは差別する(特別視・超常現象的な呪物と考える)非科学性は邪魔になる。神秘な行いを神秘のままに放置し、憧憬し、特別視することは、むしろ差別と同じことであり、溺愛するに等しい偏向・迷信であるとするのが科学の立場である。良し悪しはこの際言わぬが花だろう。
 
 
 
 
「この他、生活作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしまい、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者とよぶ。
また、日本建築に見られる「(ふすま)」「障子(しょうじ)」「衝立(ついたて)」「縁側」などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結界」である。商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子を結界と呼ぶ。

空間を仕切る意識が希薄な日本においては、日常レベルでもさまざまな場面で「結界」が設けられる。例えば、「暖簾(のれん)」がそうである。これを下げることで往来と店を柔らかく仕切り、また時間外には仕舞うことで営業していないことを表示する。このような店の顔としての暖簾は、上記の役割を超えて、店の歴史的な伝統までも象徴することとなる。」Wiki結界
 
 
 
 
結界とはあちらとこちらを区切るもの。あちらがわからの侵入を防ぐ観念で成り立っている。つまり両者には精神面、民俗面、宗教面、文化面などになんらかの相違があるということが前提になるが、それ以外に、異界の侵入者を防御する意味のほうが古くから存在したと思える。十日町市のお札には「くなどのかみ」によって魔物を封じる呪が込められている。「く(ふ)などのかみ」とはつまり塞の神、道祖神、木の俣神、岐の神のことである。行く手をさえぎり魔は封じ、善は導く神。
 
 
 
このように「呪」には二つの面がある。
魔術に黒白があるように、呪にも「のろい」と「願い」の両方をかなえる法がある。念仏も呪であり、呪文である。石棺の密閉度の充実してゆく歴史はまさに呪の強化されていった歴史でもある。赤い水銀の呪性とは死者の再生を願う呪の色であり、またあるときは正反対に、死者の再生を封じ込める呪でもあったわけだろう。
 
ものごとには両面性が常につきまとう。
 
 
愛の裏には憎悪があるように。
封じられたことが必ずしも常に、のろいだったわけではない。
人の心は面白い。
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ヒロロのハバキ

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ヒロロとはミヤマカンスゲ(深山寒菅)の北陸・東北などでの呼び名。
カンスゲ(学名:Carex morrowii)は菅笠や蓑(みの・み)やハバキなどの素材になるカヤツリグサ科の植物。
 
ここで扱うのはこの人のことではないのであしからず。
 
 
 
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ハバキ・雪をふせぐ脛当て。日本刀の刀身と握り部分の間をつなぐ部品もハバキと言うが、無関係だろう。
 
 
 
 
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→アラハバキ
アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)は、日本の民間信仰の神の1柱であるが、来訪神・客人(まれびと)神であるから、きっと旅姿で蓑笠・ハバキをはいてやってくるのだろう。東北以外にもこの神はたくさん祭られており、そこでの扱いは来訪神である。これを蝦夷が西日本へ連行されてからの主客逆転とする説は多く、そもそもは東北でこの神は、東北地方のスサノヲのような災害神だったのかも知れない。いずれにせよそう考えるなら、アラハバキとは自然神、災害神でよかろうか。
 
 
 
 
 
「あれに見えるは茶摘じゃないか 茜たすきに菅の笠」
 
 
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静岡浅間神社、御園茶摘式
 
 
 
菅笠と蓑は往古からの日本の雨合羽、日除け、雪除けであるが、同時に来訪神の着る「隠れ蓑」でもあって、これを祭で着ているものは神という暗黙の了解がある。
また祭で主として女性が菅笠を斜に被って舞う様式が全国にあるが、古くから女性は農耕の女神とされてきた。これは太古の中国で大地母神(だいちぼ)が女神であったという民間に起原した西王母からの観念に、顔を見えなくする菅笠が日本で合わさったスタイルだろう。いずれもカンスゲなどで編まれる。
 
菅の中でもカンスゲは伊豆八丈島の固有種が広まった亜種が多い。すると蓑笠の素材をカンスゲにする風習はそもそも伊豆大島や伊豆で始まったかと?それならば来訪神という南島にも多いバナナ等の葉で編んだ衣装が、日本の伊豆諸島を経由して北上した結果かとも受け取れる。
 
なぜミヤマカンスゲをヒロロと呼んだのかはわからない。乾燥させたヒロロをなうときに、しゅっとか、ひょっ とか、そういう風を切る音がするからか?ひらひらするからか?
 
 
以前も書いたことだが、隠れ蓑とは、神を見る側の人間にとって見えなくなる蓑なのであって、それを着る神の側からすれば自分には見えているわけで、むしろ物理的に見えなくする道具なのではなく、自分が神であることを知らせるための衣服であろう。すると祭や茶摘で、菅笠をかぶり顔を見えなくする女性達は、神になっているということになる。要するに神秘性・神性を「見せる」ためのひとつの表現である。踊ること、作業をもくもくとすること=憑依。
 
 
民話「笠地蔵」では、雪から守るために六地蔵に笠をかぶせてやると、正月の食材が生じたとなっており、これも地蔵=神という民間の神仏混交信仰であろう。
 
六地蔵とは、六道を守護する仏教のいわば塞の神であり、そこから先はあの世という結界である。菅で編んだ巨大な塞の神などと同じ「魔をさえぎる神」だ。ダイダラボッチでもあろう。地蔵信仰は江戸期にブームとなった。つまり民間信仰と仏教がないまぜになって定着した時期だったわけだ。
 
 
 
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民間信仰は最初、道教や神仙思想に始まる。それを広めるのは地方の仏教の僧侶や修験者たちであり、やがて神仏混交も定着。そもそも中国から来るときにすでに百済で仏教と民間信仰はないまぜになっていただろうし、もっと前に、インドから中国へ入るときにもかなりいい加減なものが南部に入ってしまっていたので、教義佛教=大乗を広めるために三蔵法師などはインドまで行った。それはちょうど空海や最澄が渡海してまで本密をとりにいくのと同じことである。先に民間が取り込んだのである。
 
さてではなぜ萱の葉っぱなのかと言えば、まずは青い色であろう。南方のバナナの葉も、正月のウラジロやユズリハも同じく。常緑樹の緑色は世界各地で共通の生命の象徴。同時に死の色でもあったのは、再生願望からである。
 
 
今回もまた、ひとつの観念に両面性があることを書くことになってしまった。
 
 
弘前にはヒロロというショッピングモールがあるそうな。ほろろ?
 
 
 
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二人の現人神

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60年代の島根新聞に島根県知事の年賀が掲載された、その横に、出雲大社第83代国造千家尊祀(せんげ・たかとし)の年賀が並んでいたことを見て、司馬遼太郎。
 
司馬遼太郎『先祖ばなし』所収「出雲のふしぎ」
 
「十数世紀前の古代国家における出雲の王が、二十世紀の公選知事と肩を並べて県民に挨拶をしている」
 
 
 
 
2004年秋の園遊会で東京都教育委員・米長邦雄、天皇にお答えして、
 
「日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事であります」
 
明仁天皇、それに答えていわく
 
「強制は望ましくない」
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
あらひとがみには二柱がある。
ひとつは天孫の子孫、ひとつは国津神・オオクニヌシの子孫である。後者を特に「現津神」という。前者を特に「現人神」という。
どちらも「あらひとがみ」だ。
 
 
国津神の大王であるオオクニヌシの子孫とは、出雲ホヒの神の末裔である出雲国造、千家氏のことである。
 
 
 
司馬遼太郎ですら、千家氏の記紀における、天孫によって国を譲り、結果的に、日本国のいまひとつの「国土のあらひとがみ」となった出雲国造家の歴史的意義を認識できていなかった。
 
 
 
 
岡本雅亨 『民族の創出 まつろわぬ人々、隠された多様性』2014より
 
 
 
 
 
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日本の火山110・2014噴火した火山総覧

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日本の全火山総覧
 
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2014年6月30日現在で噴火中の火山


なお、ここからの噴火中の火山のリンクは、日本語の説明のあるものはそちらにリンクしていますが、ないものは、ボルケーノ・ディスカバリーの噴火状況ページの英語ページへのリンクとなります。


ヨーロッパ

 
ストロンボリ火山(Stromboli / イタリア)



太平洋

 
キラウエア火山(Kilauea /ハワイ)

 
バガナ火山(Bagana /パプアニューギニア・ブーゲンビル島)

 
マナム火山( Manam / パプアニューギニア)

 
ヤスール火山(Yasur /バヌアツ)

 
アンブリム火山(Ambrym /バヌアツ)



・中米、南米

 
コリマ山(Colima / メキシコ中部)

 
サンタマリア山 (Santa Maria / グアテマラ)

 
フエゴ山(Fuego / グアテマラ)

 
ウビナス火山(Ubinas / ペルー)

 
レベンタドール火山(Reventador / エクアドル)



アフリカ

 
オルドイニョ・レンガイ(Ol Doinyo Lengai / タンザニア)

 
エルタ・アレ(Erta Ale / エチオピア)

 
バレンアイランド火山(Barren Island / インド洋)

 
ニーラゴンゴ山(Nyiragongo/ コンゴ民主共和国)



インドネシア

 
シナブン山(Sinabung / インドネシア・スマトラ)

 
ドゥコノ山(Dukono / インドネシア・ハルマヘラ島)

 
イブ山(Ibu / インドネシア・ハルマヘラ島)

 
ロコン山( Lokon-Empung / インドネシア・北スラウェシ)

 
サンゲアン・アピ火山(Sangeang Api / インドネシア)

 
スメル山(Semeru / インドネシア)

 
バトゥ・タラ火山(Batu Tara / インドネシア・スンダ島)

 
スラムット火山(Slamet / インドネシア・中部ジャワ)

 
ムラピ山(Merapi / インドネシア・西スマトラ)



カムチャッカ

 
シベルチ山(Shiveluch / カムチャッカ)

 
カリムスキー山(Karymsky / カムチャッカ)

 
ジュパノフスキー山(Zhupanovsky / カムチャッカ)



日本

 
桜島(Sakurajima / 日本)

 
諏訪之瀬島(Suwanose-jima / 日本)

 
西之島(Nishino-shima / 日本)

▲ 御嶽山 
 
 
 
 
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二人の現津神 2 渡来と縄文そしてケセン国・90万アクセス感謝記事

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90万アクセス感謝記事
 
 
 
 
 
二人の「あきつかみ」の子孫
明治時代の肖像
 
あなたはどちらがカッコいいと思いますか?
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左、第百二十二代明治天皇・睦仁(むつひと)
右、第八十代出雲国造・千家尊福(せんげ・たかとみ)
 
 
 
まず相貌からは、外国人が見たら、右が大王だと見えるのではなかろうか。
恰幅、骨格、幅の広い顔。王者の風貌である。
 
しかしこれは明らかに縄文系の特色を強く持った「まつろわぬ者」の顔でもある。
熊襲・蝦夷の顔、アイヌ・西洋人の貌だと言ったほうがわかりやすいか。
 
 
 
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晩年の尊福
 
 
 
一方、明治天皇・睦仁の相貌は細面で、渡来系のように見える。弥生人の骨格である。以前武家の顔写真を貼ったが、よく似ている。面長で、ひらべったい。
 
おせじにも威風堂々とした相貌、体躯とはいいがたく、14歳ころの明治天皇に逢って会話した英国公使パークスの記録では「ミカドは恥ずかしがりやで」「おずおずしており」「(暗記したはずの)自分の述べる言葉が思い出せず」「左手の役人から聞いてどうにか思い出し、最初の一節をどうにかこうにか発音し」「結局、全文は役人が読み上げた」とある。
 
 
この頼りなく、細いからだの、なよなよして、女官たちに眉を公家風に描き化粧してもらっていた少年天皇を、明治政府は国家元首、軍隊の元帥へとどんどん教育していった。その結果、明治天皇の相貌は変わっていく。
 
 
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そして最終的に明治の日本人がよく知ることになったこの肖像画が描かれた。
 
 
 
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もちろん造られたイメージでしかない
 
 
 
 
面白いのは、堂々とした君主のイメージが、幅広い縄文顔や濃いヒゲであると明治の為政者達は思っていることである。それは西欧化を勧めていた明治政府の勝手なイメージでしかないことは、一番上の写真を見れば一目瞭然。
 
 
 
ところが、当時までの日本国民は、ほとんど誰も天皇の姿など見たこともなく、それどころかそのような君主の存在すら知らなかったのである。だから君主とはこうした立派な風采の人であると、一発で信じ込まされてしまうのである。
 
つまり、江戸期までの天皇とは、奈良・京都の王でしかない存在だったということである。平民はむしろ将軍家だけが大王であると認識しており、天皇とは大和地方の人、あるいはまったく天皇の「て」の字も知らないのだった。
 
「天朝さまとはどんなものか、民衆のほとんどは知らなかったので、政府は売り込まなければならなかった。だから天皇巡幸を催した」吉村徳蔵などの記録から岡本雅亨
 
 
読売新聞は、天皇誕生日(天長節)の解説を第一号にわざわざ掲載し、「睦仁とは恐れ多くも天子様のお名前で、陛下といふのは天子様を敬っていふ言葉」と解説せねばならなかった。
 
 
 
どうしてこんなことだったのだろう?
なぜ日本国民は明治時代になるまで、天皇という国家元首を知らないままだったのか?
 
そのこたえのひとつはこの地図にある。
 
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日本は、過去の歴史教科書が言ってきたような、『日本書記』皇国史観による奈良時代からの統一律令国家だったのではなかった、という衝撃的真実である。
 
今の教科書が使っている上の地図は、あきらかに飛鳥時代以前には、日本に大和朝廷による中央集権日本はまだなかったことを示している。この地図には、しかしまだ欠落している地方国家がいくつも存在する。南九州の熊襲たちの国家、東北地方の「日高見」連合体諸国家、日本海の丹後・若狭などの小国家・・・などなどがこの地図には載っていない。
 
天武天皇が「近畿地方を統一した壬申の乱」のあと、記録は大宝律令などの制定を言い募る。しかし、それらはすべて近畿地方、大和地方の内部の話だけで、全国の諸国家が全部、納得して頭をさげたものではなかったのである。
 
大和至上主義歴史学は前方後円墳こそ、大和が全国統一を成し遂げた証拠品だと誇らしげに主張するけれど、その前方後円墳の内部に一度でも入った人間なら、その様式が地方によってばらばらであることに気づくはずである。前方後円墳は見せかけの統一、いや、ただの型式のブームだったに過ぎない。それはすでにこのブログで、大和が自分を大きく見せるがためのハリボテ、えっへん遺跡であると書いたし、その源泉こそが縄文からのヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期の産物にすぎなかったことは明白である。
 
 

 
 
 
その証拠に、明治時代まで、日本人は標準語というものを持たなかった。東北の岩手県の人々は、明治時代まで、自分達を「ケセン国」の「ケセン人」で、しゃべっている言葉は「ケセン語」だと思っていたという。その「ケセン国」とは宮城県気仙沼地方のことである。そして東北人たちは、それまで自分達を日高見連合体=大和から見れば蝦夷連合体の中の●●国人だと固く信じ込んでいたのである。
 
また島根や鳥取でも似たり寄ったりであった。
出雲は日本海側でも珍しいズーズー弁地帯と言われてきた。
 
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ほとんどの日本人が、日本語はかつて中心地だった京都から円を描くように、しだいに外側へと拡散していったと信じ込んでいるだろう。しかし今ではそれも古い説で、大和中心主義の考え方に過ぎない。この金田一春彦の地図も、もう古いといわねばなるまい。
(特に瀬戸内言葉の区分は間違っている。四国西部を関西弁地帯としているが、古代には瀬戸内言葉地帯、それが次第に関西弁に「毒化された」。畿内の広がりにともなうもので、それこそが神話の国生みに反映されている。)
 
 
出雲だけが東北弁地帯?それも詳細には違うと言える。なぜなら出雲は縄文後期から海の道で琉球とつながっていたからだ。出雲は東北と南海をつなぐ中継地だったのだ。だから東北弁も琉球言葉も南九州・北九州言葉も南北海道言葉も入っている
。そして当然半島の言葉も。東北弁のズーズーよりも、「しゃん」「しぇい」は福岡の博多弁・朝鮮発音に近い。ざじずぜぞになるのは東北的。言葉に音節の切れ目がないのは東北弁。だからこそ、中継地だったからこそ文化が発達していたからこそ、大和に狙われた。
 
 

 
ではいったい、いつその正真正銘の統一国家日本は成立したのだろうか?
 
平安時代から?、鎌倉幕府から?、室町幕府から?、江戸幕府からであろうか?
明治時代からなのである。
 
 
 
 
天皇家と出雲国造家・・・男系で存続したのは出雲国造家の方である。
 
 
 
 
引用地図画像と参考文献 岡本雅亨 『民族の創出』
 
 
 
 
 
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二人の現津神 3 御杖代とのんのんばあ?

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今上天皇は第125代天皇ということになっている。
そして出雲国造は現在、第84代目である。
このふたつの現津神の子孫がこのたび婚姻される。
 
さて、出雲国造の始まりは「『先代旧事本紀』の巻10『国造本紀』によれば、第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めたとある。『古事記』によれば、无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・遠江国造も天穂日命の子神・建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を同祖とする。」WIKI出雲国造(こくそう)
 
 
 
第十代天皇のときに初代が生まれたとすると、一代が30年間程度の着任期間だとして85回代わったのだから・・・単純計算で85×30=2550年間存続している。(実際にはせいぜい一代20年ほどか?夭折も多かったし、暗殺もあって・・・しかし出雲国造家にはそういうことがなかったと見て30年)
 
 
天皇は125代なので125×30で計算すれば=3750年間続いたことになる。
 
第十代天皇のときに国造家が始まったのだからその分を差し引くと・・・
1200年の差になるが、では1200年間を30年で割ってみると=40代となって第十代では合わなくなってしまった。
 
 
 
さて、ここにも『古事記』『日本書記』のロジックが存在するのであろう。
十代の天皇の間が40人分の年代がかかったことに(単純計算ではあるが)なっている。しかし天皇は9人である。神武~開化までの9代9人がそれぞれ、計算上は1200年÷9人=133年生きさせねば系譜が合わなくなる。ということは彼らはまだ人ではなく神と人のあいだの人=現人神にする必要がでてくる。当時の平均寿命はせいぜい30年、栄養のいきとどく貴族でも50年だからそれはありえない。それでもう少しあいまあいまに空想の人が必要になる。ヤマトタケルとか神功皇后とか応神天皇とかである。
 
 
 
『古事記』も『日本書記』そういう干支一巡の思想で始まっていて、あきらかに嘘である。ということは国造家の系譜は、少なくとも天皇家の1200年間ほどの造作は入っていないもの、と捉えられることとなるだろう。「あまり嘘はない」系譜である。(まったく嘘がない系譜等この世に存在しない。)
 
 
 
少なくとも出雲国造家は確かに2000年以上存続した希な家柄であり、もしかすると天皇家以上に純粋な日本人の家柄である。なぜなら天皇家には外戚も入ったし、なにより女帝がいたし、渡来系もいた。系譜の存続とはむしろそうしたかつがつつながれて当たり前であるが、すると国造家の純粋培養男系系譜は世界唯一のものである可能性が出てくる。
 
 
 
 

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話はガラリと変わる。
「のんのんばあ」の話である。
 
 
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「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「杵築―日本最古の神社」(一八九〇年九月)で、こう記している。
 「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう。……神道を解明するのが難しいのは、つまるところ、西洋における東洋研究者が、その拠り所を文献にのみ頼るからである。……ところが、神道の本髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。……風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと奥に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っている。日本人の本能も活力も直感も、それと共にある」(『新編・日本の面影』角川書店)。
国家神道の対極に置かれ、消滅・弾圧の対象とされた土俗的な民間信仰の中にこそ、神道の本髄があるとの指摘は、神社を主体と考える神道論とは異質な民族宗教観を提示する。
 ハーンは出雲に住み、のち松江出身の妻・小泉節子(一八六八~一九三二年)が語る民話を聞きながら『怪談』を書いた。原書の題名がKaidanでなく出雲語訛りのKwaidanであることにも、それが滲み出ている。節子(セツ)は、杵築大社で代々上官を務める社家・高浜家の養女であった養母・稲垣トミから、出雲の神々や様々な霊・魂、祈祷や神楽囃、狐や狸や貂が化けたりする話を聞いていたという(長谷川洋二『小泉八雲の妻』松江今井書店)。
 その小泉節子と同時代に生きた諸喰(松江市美保関町)出身の影山ふさ(一九三四年頃没)から見聞きした「風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術」がベースとなって、妖怪漫画を書き始めたのが、境港出身の水木しげる氏である。
 
「私がいま描いているようなお化けとかいうものは、みな、のんのんばあから教わったものです」と水木氏はいう(『水木しげる記念館公式ガイドブック』朝日新聞社)。」
 
大社の史話
神と妖怪は紙一重 ―― 小泉八雲と水木しげるの世界
福岡県立大学准教授  岡本雅享
http://emisi.com/kawara/40/40okamoto.htm
 
 
 
岡本はこの文中でこう自分の原体験を述べてもいる。
 
「出雲の古志で生まれた私は、高校生の頃まで、草がざわつく時、それが風のせいか、生き物がいるのか、そうした見えないものの気配を感じ分けられた。」
 
 
これを読んではじめて、出雲には「古志」というところがるのだと知った。古志とは古代の富山湾沿岸地帯のことである。「古志から来るヤマタノオロチ」と『古事記』が書く。
 
 
のんのんばあとういうのは、要するに民間祭祀者ということである。
そういうものが出雲~因幡地方に多かったということになる。
 
 
 
千家尊紀に謁見したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「杵築─日本最古の神社」で、こう記している。
 
 「ひと昔前まで、国造の宗教的権威は、この神々の国一円に広がっていた。……遠方の田舎にいる素朴な信者からすれば、今でも神様、もしくはそれに準じる存在であり、神代の時代から受け継がれてきた国造という呼び方が変わりなく使われている。かつてどれほど深く国造が崇拝されていたかについては、出雲の地に長年住んだことがなければ、とうてい想像できないだろう。日本以外であれば、チベットのダライラマを除いて、これほど崇拝され、民衆の信望を一身に集めてきた人は、ほかに見当たらない」
(5)ラフカディオ・ハーン『新編日本の面影』角川書店、2000 年、149 〜 150 頁。
 
 
 
 
ハーンが感じた出雲の大王は、ダライラマに匹敵する王家・・・。
チベットの独立は中国が清朝が崩壊後~中華民国を創立する独立戦争のさなかに、今のダライラマ14世の父親によって成し遂げられた。ゆえに中国は、どさくさにまぎれて勝手に独立したチベットを国家として認めない、中国の一地方としている立場である。
 
「そのころ、東アジアには四大活仏と呼ばれた中央チベットのダライラマ、西チベットのパンチェン・ラマ、外(北)モンゴルのジェブツンダムバ・ホトクト、内(南)モンゴルのチャンジャ・ホトクトは、20 世紀初頭まで世俗王侯以上の権威を持ち、聖俗の大権を掌握していた。
 
 
同じ頃、日本にも多数の生き神がおり、中でも神道の二大生き神は、政治への関与を封印されながらも、大名を上回る権威を維持していた。太陽神アマテラスの祭祀王(御杖代)=天皇と、国土創造神オオナムチ(オオクニヌシ)(1)の祭祀王(御杖代)=出雲国造である。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=pvzJmNiKM4EJ&p=%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%9B%85%E4%BA%A8&u=www.keiho-u.ac.jp%2Fresearch%2Fasia-pacific%2Fpdf%2Freview_2009-06.pdf#search='%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%9B%85%E4%BA%A8'
 
 
 
 
 「国造は一般に「くにのみやつこ」と読むが、第 82 代出雲国造・千家尊統むね(1885 〜 1968 年)によれば、出雲では昔から音読み、清音で「こくそう」と呼んでいる。尊統は著書『出雲大社』で、国造は大化前代において、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司り、その機能を世襲する地方君主であったとも述べている(7)。
 
 歴史学者の門脇禎二は、4 世紀後半から 6 世紀の列島には、ツクシ、キビ、イヅモ、ヤマト、タニハ、ケヌなど、独自の?王権、?支配領域、?統治組織、?外交等の条件を備えた地域王国が複数併存しており、ヤマト王国もその一つにすぎなかったが、相互の交渉・競合の中でヤマト王国が台頭し、6 世紀末から 7 世紀初め頃、諸地域王国を統合していったとする。国造は一般に、倭ヤマト勢力に服属した各地の豪族を地方官として任命したものとされるが、倭政権から「半独立状態にある者もいた」といわれるのは、その中に「豪族」レベルを超えた「地域王国の王」が国造に転じたものがあったからである。その最たる例が出雲国造だといわれる(8)。」
 
 
 

御杖代とは何か?
みつえしろ
みつえ‐しろ 〔みつゑ‐〕 【▽御×杖代】
 
神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者。特に、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎院をいう。「―と定めてたてまつり給ふ事は」〈祝詞・斎内親王奉入時〉
コトバンクより
 
 
 
「神の代弁者」が天皇であるから、まずは伊勢斎宮などはまさにそのまた代弁者となる。そして正反対の意味で代弁者だったのが出雲国造家である。
 
 
古代においてそれは祭祀によってまかなわれた。いわゆる政治を「まつりごと」というのは、結局は古代において、まだ政治と祭祀が同じ土俵にあった名残であるが、やがて王権は政治王・武力王へと委譲されていった。これが西欧歴史学の古代・中世・近代の動きである。日本でもそれに合わせた歴史観をまとめようとしたが、どうしても合致しない部分が多かった。困った明治政府は、どうしても合わない部分、平安時代を古代に押しやろうとした。だから今でも平安時代は日本史の中の古代なのか中世なのかよくわからない蝙蝠のような時代区分にちゅうぶらりんのままである。
 
 
「みつえしろ」としての天皇が、天皇らしかった時代はほとんどない。すべからく為政者側に利用されてきた存在で、そういう意味で古代史の生きた化石のように扱われてきたと言えるのではなかろうか?祭祀王と言えば聞こえはよいが、つまり傀儡でしかない。だから明治天皇はいつもおどおどしていたし、昭和天皇は「そういうことは役人が決めることだから」と決して自分の意思を口にしなかった。
 
それはひとえに祭祀者だったからである。
 
 
しかし出雲における国造家の存在は、単なる祭祀者を超えた存在だった。だからハーンは国造をダライラマに匹敵する祭祀王であると「感じ取った」のであろう。
 
 
 
 
 
 
天皇は大和以外の地方では、古代から近世にはいないも同じ存在であったが、出雲国造はそうではなかった。出雲で誰一人として国造家を知らないものはなく、つねに政治家と並んでコメントを発する存在であった。まさに国津カミの王であり続けたと言えるかもしれない。
 
 
 
 
 
出雲から境港あたりに独特の妖怪・怪異文化が生き残れたのも、かのちが西日本の中の隔離されたかのような縄文世界だったからだろう。南北の古い文化と言葉が、そのまま生き残れたまれな地域・・・ハーンもそれを肌で感じたからこそ「怪談」は生まれた。水木しげるも、そういう意味で、古代出雲の血を受け継ぐものだと言えるだろう。
 
 
 
 
 古代日本海沿岸は、蝦夷が南下し西日本までやってきたルートにある。南からは琉球の貝の道。半島からも弥生の道が延びていた。だから大和とはまた別の、もっと早い時期の南北の出会いが起きていた。そういう国家が、飛鳥時代くらいまで、まだ日本の各地にあって、いくつかがまつろわぬ国とされ、平定された。しかし、その考え方そのものが大和中心主義なのであり、そこへ明治期にはキリスト教至上主義の歴史学や、考古学、さらに戦後には共産主義歴史学まで混入した。日本には日本独自の歴史学がない。だったら造ればいい。それが敗者の古代史である。
 
 
 
 
 
 
 
 
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100万アクセスで記事更新をやめたい

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正直、古代史ではもうあまり書きたい記事がなくなっている。
目から鱗が落ちるような新発見しか、もう書きたくない。
だから来年100万アクセスに到達したら、このブログから引退し、
別のことを書いて遊びたい。
 
謎がなくなったら、何も楽しくもなく、
苦し紛れに書いていたら、それは遊びとは言えなくなる。
しかも読者にも失礼である。
 
 
何も古代史だけが楽しいミステリーじゃなかっぺよ。
 
 
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[転載]二人の現津神 2 渡来と縄文そしてケセン国・90万アクセス感謝記事

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90万アクセス感謝記事
 
 
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二人の「あきつかみ」の子孫
明治時代の肖像
 
あなたはどちらがカッコいいと思いますか?
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左、第百二十二代明治天皇・睦仁(むつひと)
右、第八十代出雲国造・千家尊福(せんげ・たかとみ)
 
 
 
まず相貌からは、外国人が見たら、右が大王だと見えるのではなかろうか。
恰幅、骨格、幅の広い顔。王者の風貌である。
 
しかしこれは明らかに縄文系の特色を強く持った「まつろわぬ者」の顔でもある。
熊襲・蝦夷の顔、アイヌ・西洋人の貌だと言ったほうがわかりやすいか。
 
 
 
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晩年の尊福
 
 
 
一方、明治天皇・睦仁の相貌は細面で、渡来系のように見える。弥生人の骨格である。以前武家の顔写真を貼ったが、よく似ている。面長で、ひらべったい。
 
おせじにも威風堂々とした相貌、体躯とはいいがたく、14歳ころの明治天皇に逢って会話した英国公使パークスの記録では「ミカドは恥ずかしがりやで」「おずおずしており」「(暗記したはずの)自分の述べる言葉が思い出せず」「左手の役人から聞いてどうにか思い出し、最初の一節をどうにかこうにか発音し」「結局、全文は役人が読み上げた」とある。
 
 
この頼りなく、細いからだの、なよなよして、女官たちに眉を公家風に描き化粧してもらっていた少年天皇を、明治政府は国家元首、軍隊の元帥へとどんどん教育していった。その結果、明治天皇の相貌は変わっていく。
 
 
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そして最終的に明治の日本人がよく知ることになったこの肖像画が描かれた。
 
 
 
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もちろん造られたイメージでしかない
 
 
 
 
面白いのは、堂々とした君主のイメージが、幅広い縄文顔や濃いヒゲであると明治の為政者達は思っていることである。それは西欧化を勧めていた明治政府の勝手なイメージでしかないことは、一番上の写真を見れば一目瞭然。
 
 
 
ところが、当時までの日本国民は、ほとんど誰も天皇の姿など見たこともなく、それどころかそのような君主の存在すら知らなかったのである。だから君主とはこうした立派な風采の人であると、一発で信じ込まされてしまうのである。
 
つまり、江戸期までの天皇とは、奈良・京都の王でしかない存在だったということである。平民はむしろ将軍家だけが大王であると認識しており、天皇とは大和地方の人、あるいはまったく天皇の「て」の字も知らないのだった。
 
「天朝さまとはどんなものか、民衆のほとんどは知らなかったので、政府は売り込まなければならなかった。だから天皇巡幸を催した」吉村徳蔵などの記録から岡本雅亨
 
 
読売新聞は、天皇誕生日(天長節)の解説を第一号にわざわざ掲載し、「睦仁とは恐れ多くも天子様のお名前で、陛下といふのは天子様を敬っていふ言葉」と解説せねばならなかった。
 
 
 
どうしてこんなことだったのだろう?
なぜ日本国民は明治時代になるまで、天皇という国家元首を知らないままだったのか?
 
そのこたえのひとつはこの地図にある。
 
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日本は、過去の歴史教科書が言ってきたような、『日本書記』皇国史観による奈良時代からの統一律令国家だったのではなかった、という衝撃的真実である。
 
今の教科書が使っている上の地図は、あきらかに飛鳥時代以前には、日本に大和朝廷による中央集権日本はまだなかったことを示している。この地図には、しかしまだ欠落している地方国家がいくつも存在する。南九州の熊襲たちの国家、東北地方の「日高見」連合体諸国家、日本海の丹後・若狭などの小国家・・・などなどがこの地図には載っていない。
 
天武天皇が「近畿地方を統一した壬申の乱」のあと、記録は大宝律令などの制定を言い募る。しかし、それらはすべて近畿地方、大和地方の内部の話だけで、全国の諸国家が全部、納得して頭をさげたものではなかったのである。
 
大和至上主義歴史学は前方後円墳こそ、大和が全国統一を成し遂げた証拠品だと誇らしげに主張するけれど、その前方後円墳の内部に一度でも入った人間なら、その様式が地方によってばらばらであることに気づくはずである。前方後円墳は見せかけの統一、いや、ただの型式のブームだったに過ぎない。それはすでにこのブログで、大和が自分を大きく見せるがためのハリボテ、えっへん遺跡であると書いたし、その源泉こそが縄文からのヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期の産物にすぎなかったことは明白である。
 
 

 
 
 
その証拠に、明治時代まで、日本人は標準語というものを持たなかった。東北の岩手県の人々は、明治時代まで、自分達を「ケセン国」の「ケセン人」で、しゃべっている言葉は「ケセン語」だと思っていたという。その「ケセン国」とは宮城県気仙沼地方のことである。そして東北人たちは、それまで自分達を日高見連合体=大和から見れば蝦夷連合体の中の●●国人だと固く信じ込んでいたのである。
 
また島根や鳥取でも似たり寄ったりであった。
出雲は日本海側でも珍しいズーズー弁地帯と言われてきた。
 
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ほとんどの日本人が、日本語はかつて中心地だった京都から円を描くように、しだいに外側へと拡散していったと信じ込んでいるだろう。しかし今ではそれも古い説で、大和中心主義の考え方に過ぎない。この金田一春彦の地図も、もう古いといわねばなるまい。
(特に瀬戸内言葉の区分は間違っている。四国西部を関西弁地帯としているが、古代には瀬戸内言葉地帯、それが次第に関西弁に「毒化された」。畿内の広がりにともなうもので、それこそが神話の国生みに反映されている。)
 
 
出雲だけが東北弁地帯?それも詳細には違うと言える。なぜなら出雲は縄文後期から海の道で琉球とつながっていたからだ。出雲は東北と南海をつなぐ中継地だったのだ。だから東北弁も琉球言葉も南九州・北九州言葉も南北海道言葉も入っている
。そして当然半島の言葉も。東北弁のズーズーよりも、「しゃん」「しぇい」は福岡の博多弁・朝鮮発音に近い。ざじずぜぞになるのは東北的。言葉に音節の切れ目がないのは東北弁。だからこそ、中継地だったからこそ文化が発達していたからこそ、大和に狙われた。
 
 

 
ではいったい、いつその正真正銘の統一国家日本は成立したのだろうか?
 
平安時代から?、鎌倉幕府から?、室町幕府から?、江戸幕府からであろうか?
明治時代からなのである。
 
 
 
 
天皇家と出雲国造家・・・男系で存続したのは出雲国造家の方である。
 
 
 
 
引用地図画像と参考文献 岡本雅亨 『民族の創出』
 
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
かわかつワールド!なんでも拾い上げ雑記帳
 http://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクションhttp://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典


ケート民族は縄文人のルーツなのか? 気多・気比・居多・毛野 「け」とは何か?

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縄文人のルーツを探る その1

気多の地名由来を調べていると、「けた」とは「こた」「いた」などと後世なまっているところもあるが、日本海側に広く「け」の語頭に来る地名が多く、「気比」「気多」などは著名であるようだ。太平洋側では気仙、毛野などがあるが、語頭の「け」は果たして由来は何かがわからない。この記事もまだまだ不確実な結論しか導き出せまい。なぜなら資料が少ないからだ。
 
ただ、縄文人とはのちの蝦夷(えみし・えぞ)・毛人(もうじん・けひと・けっと)であるのか、アイヌ人は縄文人なのか、アイヌと蝦夷はどう違うか・・・などの日本人起源に関わる難解な問題であることは明治時代から今に至るまでほとんど何も前進していない。
 
科学的には遺伝子DNAの分析が確実なのだろうが、サンプルが希薄で、世界各地に存在する文化的に類似する少数民族との比較もままならないようである。(わかってしまったらそれはそれで面白くなくなるわけだが。)
 
 

筆者はまず「けた」に絞り込んで、そのルーツを「毛」に求めているのだが、「け」は大和側の記録では「もうじん・くまそ」のように毛深いという意味から始まったようである(不確実)。えみしとかえぞとかアイヌという呼び名も大和民族側からの銘銘に過ぎないのであろう。
 
 

2010年にいくつかのケットについての記事を書いている。
まだ喜田貞吉らの古臭い仮説しか知らない頃のものである。
 
 
「■ マットとケットという呼称
マットとケットは新潟県中魚沼郡でそう言う村民がいたそうだ。
マットはまともな平民を指す。「まひと」=真人の俗語である。
対してケットはケットーで毛人(けひと)でありクマ人・肥人などと同種(とこれまでされてきた)、苗場山の西の渓谷・秋山あたりの村落がそれで、「秋山者」とも呼ばれる賤民である。平家落人(貴種流離譚の亜種)を自称したが、もちろんそうした自称は全国的にうそである。
 
面白いのはケットーたちの相貌が、
身体長大、色白く、眼は青味を帯び、毛多く、頬骨が秀でている」(喜田貞吉「「ケット」と「マット」)
 
と語られてきたことであろうか。ちょっと聞いただけでは西欧の白人のごとくであるが、頬骨が大きく出っ張るのはツングースの特徴だし、色白だったり目の色が違うのは、長く同族結婚するからである。身体長大というのは彼らの一面で、逆に短小な者もいたであろう。
 
血が交じらないと突然変異が多く起きる。目が青い、色が白いは、色素の不足から起こる現象ゆえ、白子とまではいかないが、やはり突然変異である。代々長く日陰の山をさ迷うからかも知れぬ。幕末になって西洋人をやはり「けとう」と読んだけれど、これも外国人を南蛮人とか唐人とかあるいは毛人と読んで来た習いで、毛深く白く、眼の色が青い西洋人を毛人にたとえた差別用語であろう。」
当ブログ既存記事http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49265175.html
 
 (明治時代にこういう仮説が定着したものだから、日本人に熊襲も蝦夷もいっしょくたが定着したのだろう。特に西日本人にとっては東北よりも九州のほうが身近)

しかし、このときはまだケート民族への興味のあまりなかった頃で、毛人とはもしやケートのような熊祭祀風習とアイヌの共通性を解くか?と最近思い始めたところである。
 
ではまずはケートについて知っておきたい。
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WIKIケット人より
相貌はアイヌに近いのか?アメリカ先住民にも似る?
確かに新潟の毛人記事にあるように、北方系の特徴であるほほ骨が高く、貌の幅が広く、毛深い。背も高く、まれにテュルク系トルキスタンの中にも存在する青い目の人もいるのだろうと思わせる。こういう人々が、日本人の中にいれば確かに目立つし異民族とされておかしくなかっただろう。説得力のあるよい写真である。
 
 
 

問題は
1 ケートは蝦夷の祖か、アイヌの祖か
2 それ以前に、蝦夷とアイヌは同一なのか
3 東北縄文人とは蝦夷のことか、アイヌのことか、あるいはもっとさまざまな人びとの混合したものか?
4 アイヌはどこまで南下して、なぜまた北海道の片隅に戻ってしまったか?
5 そもそもアイヌは蝦夷なのか?
6 東北に多い「ない」「さわ」などのアイヌ地名と言われている地名は、どこまで南下しているかによってアイヌの南下範囲もわかるだろう。それは蝦夷の南下、縄文人の南下とリンクすると考えても間違いではないのか?
7 あるいは縄文人分析にアイヌは邪魔か?
8 東北で常識のようにされてきた地名のアイヌ語起源説は誰が言いだしっぺなのか?(つまり筆者自身は地名のアイヌ語起源説を日本全国に当てはめようという東北人の「愛県意識」は分析のためにはむしろ障害になってきたと考えている。)
 
 
 

ケート人、ケット人
「ケット人(Ket)またはケート族とはシベリア中央部のエニセイ川やケット川(オビ川水系)などの流域に住む少数民族。かつてはオスチャーク(Ostyak)と呼ばれたが、これはハンティ人やセリクプ人など他の民族も含めた名で正確ではないので、区別するためにエニセイ・オスチャークとも呼ばれ、さらに自称からケットと呼ばれるようになった。
 
固有の言語ケット語を話す。18-19世紀まではケット人と同じ系統の民族(言語はエニセイ語族と呼ばれる)がシベリア中央部から南部に広くおり、近年になって民族集団として認められたユグ人(Yugh、現在は数人以下で事実上消滅)も同系統であった。つまりケット人はこれらエニセイ諸族のうち最後に残った人々である。ケット語(エニセイ語族)は他のシベリアの言語とは大きく異なる。2008年、エドワード・ヴァイダの研究で北米先住民のナ・デネ語族と同系統の言語であることが明らかにされ、デネ・エニセイ語族という呼称が提案されている。
 
夏冬で居住地を移し、夏は下流にて漁労を、冬は上流にて狩猟を行い、トナカイ遊牧を生業としてきたが、17世紀以来ロシア人に圧迫され、さらにソ連時代には集住政策がとられたため、現在では古来の社会・生活様式は失われている。ソ連時代には主にコルホーズにて農牧業を営んでいた。
 
古来の宗教はシャーマニズム(シャーマンは1960年代にはいなくなった)で、その他に熊崇拝など他のシベリア諸民族と共通する点も多い。ケート神話を持ち、天神エシ、悪神ホセデムをはじめとする自然神を信仰していた。
人口は2002年の国勢調査によれば1494人で、これは1920年代からあまり変わっていない。そのうちでケット語話者は現在600人ほどとされる。
古代シベリア南部に栄えたタシュティク文化や丁零(一般にはテュルク系とされる)との文化的関連を考える説もあるが、地理的に重なる以外に積極的な証拠はない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E4%BA%BA
 
 
 
 
第一章 ケート語初等読本の読解
1−1 ケート民族
「ケート民族は西シベリアの大河エニセイ河の中下流域、そこのタイガ地帯とトゥンドラ地帯に住み漁労と狩猟を営む少数民族である。
 
кет ket は1人2を意味する自称であって、複数形はデング денг deng 1人々2という。他にオストィク остык ostykとかユグィン югын jugynとも言った。
 
今もってその言語系統が不明であり、シベリアの謎の民族とも言われている。この言語はその孤立性と文法構造の特殊性から、古来多くの言語学者の興味をひいていた。ケート語はシベリアの他の言語、例えばサモエード語やトゥングース語、とは著しい違いを見せ、言語学者により、漢・チベット語、北コーカサス語、バスク語(Basque)、日本語 2、ビルマ語、果ては北米インディアン語とまで、その系統関係を比較された経緯をもつものであり、しかもその根拠のいくつは強力であった。
 
謎の民族とはいえ、シベリア民族学は彼らの成り立ちについて次の様な歴史を再構
築している3
 
:祖先は青銅器時代にオビ河とエニセイ河の南の連水地域で、南シベリアのユーロペイドと古代のモンゴロイドとの混血によって成立した。紀元千年紀にチュルク語諸族、サモエード語諸族、ウゴル語諸族と接触をもつようになった。数波の移住によりエニセイ河北方に定着した。ロシア人との出会いは17世紀の初めである。
 
この南方起源説の成り立つ経過を、民族学者ポポーフ(А. А. Попов A. A. Popov)とドルギフ(Б. О. Долгих B. O. Dolgikh)の考えをモデルに更に詳しく紹介しておこう4。
 
 
十七世紀(史料の教えるところ)、ケートと言語的に親縁関係にあったアリン(Arin)、ヤリン(Yarin)、コット(Kott)、およびバイコット(Baykot)は、馬を飼い牧畜を行っていたが、農業も行い、更にはまた鉄鉱石からの鉄の精錬も知っていた。
 
今日のケートは、ガウンに似た開放的な服を着(テュルク系遊牧民は前開きの上着を着る。寒冷地で騎馬なのにである。おそらく寒さより騎馬での邪魔にならないからだろう。これは過去調査済み Kawakatu)、ショール(Shor) 族の鍛冶技術に近いものをもっており、これらはいずれも南方に起源がある5。エニセイ河流域のタイガは農業、牧畜には不向きであり、南方にその適地がある。また鉄鉱石はアルタイ山地がその供給地であり、(カールゲル著ケート語初等読本およびドンネル収録音声資料試論3)ここには鍛冶に優れたチュルク語系民族が居住している。これが彼らの故郷が南であるとする根拠である。
 
民族誌も南方を示唆する。その伝承は、「突破することが困難なほど高い山を越え、自分たちは南方からシベリアへやって来た」、と語る。東方にあるウラル山地は千メートル程であり、植生も地勢も踏破には容易であり、伝承の語る山とは考えられない。
 
またケートの人々は決まって、「南に居た頃はトィシタッド Tys2tads 1山の石人2から攻撃をうけ、北へ移住したのはそのせいだ」、という話をしている。
 
次に、(エニセイ上流へやって来た)ケートは強いキリキ(Kiliki)の攻撃に遭い、河を更に下らなければならなかった。この伝承の内容は、(ケートの居住しない)エニセイ河上流のある支流につけられた名称の意味がケート語を基にして解釈可能である事実に暗合する6。
 
 
 
 


 
 
 
さて、日本語の「気多」とは「ケート」だったのであろうか?
当初、筆者は「来た」を念頭に置いた。
そういう地名は全国的に多いからだ。「きた」がなまってか、あるいは蝦夷たちの言葉かはわからないが、来た→けた ではないかと。
 
しかし上記の解説を読むと、ケートこそが語源ではないかと行き着いた。
 
 
ケートは新潟沿岸の青い目のケットとどう関与するかが気になる。
 
 
 
 
気多神社の日本海での分布
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気多信仰の関連地名は内陸部の飛騨などにも広がっている。
気多神社の分布は但馬国気多郡、越前国. 加賀国 江沼郡の気多御子神社、越中国射水郡気多神社、越前国頸域郡の居多(けた). 神社、遠江国(静岡県) 等があって、「気多」の神名、地名は. 日本海沿岸の中央部に特有の分布があり、三代実録掲社として越前 国、飛騨国(気多若宮神社)が鎮座している。また新潟の河内神社も正式には式内社 越後國磐船郡 多伎神社で、御祭神は雲上佐市郎となっているが、「たき」は「けた」の逆転現象で、河内は大阪の河内物部氏と縄文系オオナムチに関わる可能性があろうか。となるとやはり縄文系だと思われるが?
 
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気多・気比と日本海縄文文化の関係図
 
 
祭神はいずれもオオナムチ(オオクニヌシ)(地域によって物部系祭神がかぶさる。新潟の弥彦神社などがそうである)であるので、中心にあるのは出雲文化のようであるが、それはおそらくだが、東北から縄文人が南下して出雲に集中していったという歴史的背景があるからだろう。出雲の気多島は日本海に突出する半島の先の先にある小島であるが、例えば気仙地名にも突出した岬の意味がある説もある。また出雲節、出雲言葉のこれらの地域との関与が考えられるようだ。
 
となると「け」地名は縄文人地名だ?となるかも知れない。
 
 
※物部氏とオオクニヌシの関係は、スサノヲ祖人として出雲経営に物部氏が関わったからだろう。その後、敗北した河内物部氏残党が阿波や古志(越)に移住した結果、敗者の国家神である出雲オオクニヌシを祭ったか?物部氏が近畿にいた多くの縄文系種族(長髄彦のような)の最初の管理者だったからかも知れない。
 
 
 「けたとは、水の上に渡した棒で、橋の一種であるとは言へますが、橋ではないので、間のあいてゐる渡し木なのです。同時に叉、いまだにその意味を失はずに居ります。けたはまう少し形が変れば、たな ── 海岸や水中に突出したもの ── と同じ形になるのであって、ともかく、海から陸地へつなぐもので、何も土地と土地とをつなぐものではなく、それを通らねば陸地に上れない、と考えられて居りました。これがけたなので、皆水に関係のあるものなのです。湯桁なんかを考へても、叉井桁でも、水に関係のあるものだと思はれます。神は海からすぐに上るのではなく、一種の足溜りを通つて上つたらしいのです。それが、けたといふ土地が、日本の海岸地方に分布してをり、叉、古い信仰が残つてゐる理由なのです。けたといふ所は、海から陸地へ上る足溜りですから、その土地が、同時にけたと言はれます。」
  ・折口信夫氏『春来る鬼』
 
橋げた?さて?
 
 
気多大社では「気が多く集まる聖地」
まあ、大社の伝承のたぐいは往々にして記紀権威、神道絶対主義で貫かれるので信頼性はない。
 
『気多本宮縁起』(享保16年)によれば気多の神大巳貴は出雲から因幡の気多崎に至り能登へ渡ってきたとある。
 
 
また「こし」地名もまた「来し」地名でもあろうか?すると「こし」は元は「けし」「きし」であるか?では「けひ」のツヌガアラシトも新羅ではなく、新羅に近い大陸=シベリアから来たか?となると但馬の気多神社はアメノヒボコでもあるか?となると太平洋側の毛野や気仙の「け」もまたケート由来なのか?
 
「け」って何よ?
 
 
 
 
やはりこれまでの通説は一旦全部、忘れたほうがよさそうである。
越境の思考はまさに固定観念の払拭に始まる大変な意識のコントロールである。
生まれながらのコスモポリタンでなければ先に進めなくなる。
そういう選ばれた第三者しか、こういう問題は扱えないな。筆者でさえ難しいものがある。生きてきた間に勝手に身につく固定観念ほどうっとうしいものはない。邪魔である。
 
 
今回はここまで
次回にご期待。
 
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 異論反論は今、受け付けていません。
まずはよく読んで、よく考えて、再来年あたりにまた記事にするだろう。
まだ筆者にも過渡期である。
 
 

ケット人その2 ケットは「私」、アイヌも「私」、蝦夷はエニセイ?

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さて、前の記事で見たように、シベリアのケット族のケットとは一人称、つまりケット語で「私」のことである。自分自身をそう呼んだので聞いた人はそれが民族名だと思ったわけである。
 
それはアイヌも同じであろう。
 
kuani
目次. 1 アイヌ語. 1.1 発音; 1.2 代名詞. 1.2.1 語源; 1.2.2 例文; 1.2.3 翻訳; 1.2.4 関連 語 ... 代名詞[編集]. 口語 一人称単数 本来は贅語。 (自身)。 (本来、主語を強調して )なら。としては。こそ。 〔現代アイヌ語〕(主語を文頭にもってきて)は。」
 
本来の発音は「クアニ kuani」だが、当時の大和民族には「アイヌ」と聞こえたわけだ。
 
 
これらの自分自身を指す言葉は日常では使われないため(わざわざ自分を私とは紹介しないからね)贅語(ぜいご・普通は使わない無駄な言葉)と言うそうだ。
 
 
 
では蝦夷(えみし)は?
こちらは明確ではないが、大和民族が東北地方の東夷の中でも最強の者を呼んだと大和側の記録にあるので、他者がそう呼ぶということは蝦夷とは文字はさておき、読み方はいい言葉のようだし、正直な感想だろう。では蝦夷自身は自分たち民族のことをどう呼んでいたかはわかるはずはない。文字がないし、まずもって自分達の民族呼称などその民族自身には必要がないわけである。
 
われわれ日本人でも、国家アイデンティティが確立しなければ「自分は日本人だ」とはなかなか言わなかったはずである。そういう民族呼称そのものが、あとから第三者がつけるものであるし、国家になるために初めて自国名をつけるたぐいのものである。
 
しかし、それでは蝦夷の名の由来はわからなくなる。
すると蝦夷の音の「Emishi」とはいったいどこから派生したのか?
もしかするとケット民族の故郷である「エニセイ」に語源があったのではなかろうか?自分達を「エニセイから来た人」と言っていた蝦夷がいて、大和側の田村麻呂などがそれを民族名だと勘違いした可能性はなかろうか?
 
 
 


 
 
アイヌとケットの違い
 
筆者は同じ北方の民族とは言っても、アイヌは南方から海を舟でやってきた民族、ケット・蝦夷は内陸を騎馬でやってきた民族だと分けている。
 
ケットがシベリアまで来るために騎馬を使う以前、人類は大陸内部を歩くしかなく、その時間は膨大で、その間に寒冷地対応して顔がモンゴルのような平べったい、毛髪の薄い新モンゴロイド化していったと考えられるが、ケット民族は頬骨が高いく、目が一重で細長いのはまさに北方系対応だが、毛深いのは南方系をまだ残した形質かと見る。こういう顔つきの日本人がけっこう今も全国にいるなと感じている。これらはケット民族が、新モンゴロイドほどの時間をかけずに、しかしアイヌほどの短時間ではなく、シベリアに来たと考えるに充分である。するとバイカル湖のような割合近いところから騎馬で来たのが最初で、そこからテュルクやモンゴルとの混血が起きて日本海沿岸にやってきたと思える。太平洋側へはまたそこから時間がかかっただろう。
 
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一方、アイヌは毛深く、二重まぶたが多く、ホリが深く、しかも体躯はケットほど大きくない。
 
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眉が眼球のすぐ上にある。
北方系なら眉と目の間隔が随分広い人が多い。これも寒冷地対応で顔が横に平たくなったのに対応する、全体的レイアウトの変化である。
 
鼻が横に開くのはアフリカ系の古い形質が残存している。
 
つまり短い時間で北上してきた民族がアイヌだろう。
 
 
 
 
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ま、どっちにしても科学的な証明が出てくるまで待つしかあるまいが、なかなか説得力があるんじゃなかろうか?
 
 
 
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武内宿禰とは何者か?内臣氏と倭直氏/大和最古の来訪海人族・卑弥呼の協力者

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内神社(うちじんじゃ)は、京都府八幡市にある神社。式内社で、旧社格は村社。

祭神
山城内臣 (やましろのうちのおみ)

「山代内臣」とも。味師内宿禰 (うましうちのすくね)
文献では「甘美内宿禰」とも記される。武内宿禰の異母弟で、山城内臣の祖。相殿に祀られる。
 
 
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「内神社は、平安時代の「延喜式神名帳」に、「内神社二坐」と記されている式内社で、創建年代は不明ですが平安時代初期には既に知られていた古社になります。祭神は、古代の伝説上の大政治家として知られる武内宿禰(たけうちのすくね)の異母弟(讒言により兄の失脚を謀ったという伝承もあります。)と伝わる味師内宿禰(うましうちのすくね)と、その後裔にあたる山代内臣(やましろうちのおおかみ)です。
「日本書紀」によれば、応神天皇の時代、味師内宿禰は兄の武内宿禰が謀反を企てていると讒言し、潔白を主張した武内宿禰と共に礒城川で「盟神探湯(くがたち)」を行ったという記述があります。(盟神探湯の始まりとされます。)「盟神探湯」は、神に誓った後に熱湯の中に手を入れ、事の正否を探る古代の裁判方法で、火傷すれば罪があり、火傷しなければ無罪と判定されたといわれ、この時は武内宿禰の.無罪が証明されたと記述されています。
 
武内宿禰は紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏等の多くの諸豪族の祖となったという伝承があり、味師内宿禰(うましうちのすくね)も紀氏の祖となったという説もあるようですが、実在の人物というより神話の世界に属し、幾つかの部族集団の事跡を一人の人物に仮託して伝承されている可能性も高く、当然ながら諸説あって実態は不明です。また、内神社のもう一人の祭神、味師内宿禰の子孫とされる山城内臣(やましろうちのおみ)についてもまったく不明ですが、山城南部のこの内里周辺には、奈良時代前期に南九州の隼人たちが征服され移住させられた地域でもあることから、彼らが神社を創建したとも考えられているようです。このように、内神社は、紀氏・内氏など畿内豪族の誕生を探るという古代史的な点で注目される神社のようです。

それはともかく、社伝によると、内里の地には、山代内臣の住居があったとされ、死後に山代内臣を祀る一社が創建され、その後、山代内臣の祖神・味師内宿禰(うましうちのすくね)が合祀されたと伝えられています。中世には内里村の鎮守社として春日宗像神社と称し、現在地の東南700メートル隔てた地にありましたが、室町時代の大永(1521~27)の兵乱で社殿が荒廃したため(尚、内神社の境内にある由緒書では、平安時代の天永(111~1112)の乱(西暦1100年)と恐らく誤記されているようです。)、天正年間(天正四年(1576)頃という)に現在地に遷座したと伝えられ、旧社地は現在も「古宮」といわれています。」
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/55509423.html
 
 
 
 
「武内宿禰についてはその出生が「古事記」と「日本書紀」では同じ出典から出たものであろうが、若干、趣を異にしている。即ち、「古事記」では、第八代孝元天皇、その皇子比古布都押之信命、比古布都押之信命が、木国(紀伊国)の国造の祖に当る宇豆比古の妹・山下影日売を娶って生まれた御子が建内宿禰と言う。
 
「日本書紀」では、第八代孝元天皇、その皇子彦太忍信命、その御子屋主忍男武雄心命が、紀直の祖・菟道彦の娘・影媛を娶って生まれた御子が武内宿禰と言う。
当時は妻問婚だったと思われ比古布都押之信命(古事記)なり、屋主忍男武雄心命(日本書紀)はどこに住んでいたかはわからないが(後世の大和国宇智郡〈奈良県五條市〉か「日本書紀」では〈阿備の柏原〉と言う)、武内宿禰は和歌山市で出生、養育されたのではないかと考えられている。

ところで、当時も現代流に言う標準語とズーズー弁があったようで、
「古事記」  宇豆比古(ウヅヒコ)
「日本書紀」 菟道彦(ウヂヒコ)
とあり、現代なら差し詰め、菟道彦(ウヂヒコ)が標準語で、宇豆比古(ウヅヒコ)はズーズー弁とレッテルを貼られると思われる。「古事記」も「日本書紀」も格調高い当時の奈良標準語で書かれたと思われるが、どうしてこんな開きが出てきたのだろうか。「古事記」は稗田阿礼が語り部として誦するところを太安万侶が筆録したとなっているので、当時の奈良標準語は現在のズーズー弁か。しかし、「日本書紀」も当時の奈良の都に在住していた官僚が書いた(漢文で書かれているので多くは中国人が書いたとの説あり)ものであろうから、当時既に奈良の都では各地の方言が混在していたのであろうか。

 武内宿禰が宮仕えを始めた天皇にも記紀では若干の違いがあり、即ち、
「古事記」では、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇の四代の天皇に仕えたとあり、
「日本書紀」では、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇の五代の天皇に仕えたとある。
 私見では景行天皇、成務天皇、日本武尊は本来一人の人物であり、記紀の原作者が何らかの都合により三人に分割して「帝紀」なり「旧辞」を作出したと思われる。したがって、武内宿禰が初出仕したのが景行天皇か成務天皇かはかまわないのであるが、そこで問題となるのは景行天皇と武内宿禰の出会いと言おうか関わりである。
「日本書紀」には
景行三年二月条に「紀伊國に幸して、群の神祇を祭祀らむと卜ふるに、吉からず。乃ち車駕(みゆき)止みぬ。屋主忍男武雄心命(一云武猪心)遣して祭らしむ。爰に屋主忍男武雄心命、詣して阿備の柏原(和歌山市という)に居て、神祇を祭祀る。仍りて住むこと九年あり。則ち、紀直が遠祖菟道彦の女影媛を娶りて、武内宿禰を生ましむ」とあり、景行天皇と武内宿禰の出会いを設定している。
とは言え、和歌山市には延喜式神名帳にも内氏を祀る神社はなく、和歌山市安原に武内宿彌誕生井(産湯の水を汲んだ井戸)と武内神社(祭神・武内宿禰)があるが、後世に作出されたものである。こう見ると、和歌山市と内氏ないし武内宿禰はあまり関係がないのではないか。
 
 
★景行天皇と関係があると思われる「内」地名
畿内には内、宇智、有智、宇治などの地名がある。私見では景行天皇は但馬国場合によっては因幡国の出身と思われ、おそらく、邪馬台国と狗奴国の紛争の際、但馬より援軍として駆けつけた兵士ではなかったかと考えられる。その後、論功行賞か何かはわからないが摂津国(現在の阪神間あたりか)に小豪族として定住したのではないかと思料せられる。そこで、武内宿禰と接点を持つ内氏となると、畿内の内などの地名、また、内一族を祀る内神社があるところが有力となろう。そういう地名を探してみると、
 
山城国綴喜郡有智郷(現・京都府八幡市内里内) 式内社「内神社」がある。
 摂津国谷部郡宇治郷(現・兵庫県神戸市中央区宇治川あたりか)
大和国宇智郡(現・奈良県五條市) 式内社「宇智神社」がある。
 紀伊国名草郡宇治(現・和歌山県和歌山市宇治)
がある。

ほかに山城国久世郡宇治郷、山城国宇治郡宇治郷(いずれの宇治郷も現・京都府宇治市)があるが、これらの起源は応神天皇の皇子である「菟道稚郎子皇子(うぢのわきいらっこ)」に起因する地名と言うことで割愛する。但し、皇子の名前の由来は「古事記」(宇遲野〈うぢの〉)、「日本書紀」(応神六年二月菟道野)によるものと思われる。
 
 
山城国綴喜郡有智郷
 文献等の記録
「古事記」 孝元天皇段「比古布都押之信命、尾張連等の祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(うましうちのすくね)(此は山代の内臣の祖なり)」
 「日本書紀」 応神天皇九年四月条「時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廃むとして」
 「日本書紀」 雄略天皇十七年三月条「山背国の内村」
式内社
 内神社 祭神「山代内臣、味師内宿禰」
摂津国谷部郡宇治郷
 文献等の記録
「法隆寺伽藍縁起並流記資財帳」
天平十九年(747)二月十一日
 摂津国雄伴郡宇治郷宇奈五岳 山林を所有。郡内に二ヶ所の庄を所有。
 摂津国莵原郡宇治郷 池一塘を所有。
 雄伴郡は谷部郡の旧呼称。雄伴郡と谷部郡を合わせて雄伴国と言ったという。
「行基年譜」(1175、泉高父宿禰著)
天平二年(730)二月十五日 摂津国莵原郡宇治郷に船息院・尼院を建立
大和国宇智郡
 文献等の記録
「弘福寺田畠流記帳」 和銅二年(709)十月二十五日「内(宇智)郡二見村陸田陸段」
 「続日本紀」(797) 宝亀四年(773)「(井上内親王と他戸親王)を大和国宇智郡没官の宅に押込め給いき」
式内社
 宇智神社 祭神「不詳。彦太忍信命、宇智大神説など」
紀伊国名草郡宇治
 

 文献等の記録
「日本書紀」 景行三年二月条「紀直が遠祖莵道彦」
 「一代要記」(後宇多天皇時代に成立。著者不詳) 成務天皇条「武内宿禰の母を紀伊国名草郡人宇治郷人」
 「日本霊異記」(弘仁13年 (822年) か。著者は薬師寺の僧、景戒)上巻第五話「紀伊国名草郡宇治大伴連等」
以上より考察すると正統な文献で判断するならば、「山城国綴喜郡有智郷」が「内氏」の本貫ではないか。「摂津国谷部郡宇治郷」と「大和国宇智郡」は資料が比較的新しく、「紀伊国名草郡宇治」は公文書が少ない。

しかし、太田亮博士の『姓氏家系大辞典』によると、『大和国宇智郡より此の地(綴喜郡有智郷)に移り住居したか。地名もその時起こしたものか。内神社は大和国宇智郡宇智神社の分社に外ならず。「内氏の本貫を此の地(綴喜郡有智郷)とするのは誤也」』と。また、次のようにも言っておられる。『欽明紀14年条に「内臣を遣わして百済に使いせしむ」と。蓋し、次の項に照らして味師内の裔なるを知るべし』と。これなら、内臣の本流は味師内宿禰の子孫ではなかったのか。
 
 
まとめ
1.「古事記」には孝元天皇段「比古布都押之信命、尾張連等祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(此は山代の内臣の祖なり)。また木國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日賣を娶りて生みし子は、建内宿禰。此の建内宿禰の子は并せて九たり(男七たり、女二たり)」とあり、味師内宿禰(長男、本家)、建内宿禰(次男、分家)のような感じだ。また、「日本書紀」応神九年四月条にある味師内宿禰が出張中の建内宿禰を讒言したなどと言う話もない。こういう話はまだ藤原氏の覇権が確立していなかった時代に各有力豪族が権力闘争や足の引っ張り合いをした残滓であろう。建内宿禰は子孫が多い、となっているが、これも事実かどうか。後世に大臣となった巨勢、葛城、平群などが自己の正統性を主張するため言い出したものではないか。
 
2.「ウチ」氏については、大和国宇智郡には「氏直」が住んだと言う説もある。字面だけを言うのも問題だが、武内宿禰の子孫という二十七姓にも「氏」姓はなく、紀伊国では「紀直」がいるがこれは武内宿禰の母の実家とされる。即ち、紀氏は武内宿禰より前に既に存在していた。莵道彦(うぢひこ)だがこれは今で言う名前のことか。さすれば、武内とは(吉備)武彦とか(大伴)武日のように実際は名前だったのか。和歌山市の宇治の地名を「莵道彦」を根拠にしても、ほかの「ウチ」地名が「ウチ」と清音なのに対し、「ウヂ」と濁音なのも気がかりなところだ。単に漢字の表記の問題だけではないような気もする。今のところ「タケウヂ」と濁って読ませる見解はないようだ。但し、多数説はこの和歌山市宇治(本来は紀ノ川河口部の中島で、内の意であったという)に武内宿禰の伝承があったと解している。
 
3.味師内宿禰は「臣」と言うがいったい何をしていたのだろう。当時は「臣」カバネの人は後世の「荘園」のような領地を所有し、そこで完全自立の生活を送っていたようだが、その子孫の働きぶりの一端を「記紀」で見ると、「日本書紀」雄略天皇十七年三月条『土師連等に詔して、「朝夕の御膳盛るべき清器を進らしめよ」とのたまへり』とあり、山背国内村からも人員が選抜された。作陶能力のある者を抱えていたのだろうか。また、欽明十四年六月「內臣(闕名)を遣して、百濟に使せしむ。仍りて良馬二匹・同船二隻・弓五十張・箭五十具を賜ふ。勅して云はく、「請す所の軍は、王の須ゐむ隨ならむ」とのたまふ。別に勅したまわく、医博士・易博士・暦博士等、番に依りて上き下れ」と。この内臣は阿部氏と解する説もあるが、綴喜郡有智郷の内臣ではないか。この頃は「内臣」も華麗に宮廷官僚に転身したのであろうか。もっとも、武内宿禰の子孫は蘇我稲目の時代だった。
 
4.地名の混同があったか。山城国には紀伊郡と宇治郡があり、紀伊郡は、「欽明即位前紀」に「紀郡」(きのこほり)で初見し(紀伊郡と書く写本もある)、「山城国風土記」逸文に「許乃国(このくに)」(「木の国」解するのが多数)とあるといい(宇治の旧称と言うが疑問でもある)、宇治郡は「記紀」に「宇遲野」(応神記)、「菟道野」(応神六年二月条)とあり、武内宿禰の説話は本来は山城国の伝承だったものを誤って紀伊国の伝承としてしまったものか。『延喜式神名帳』で「山城国綴喜郡 内神社二座」とあるのも、味師内宿禰と武内宿禰を祀ったものではないのか。
 
紀伊国は、高天原ないし出雲国の人であるはずの素戔嗚尊が紀伊国に関連づけられたり、大国主命の御祖命(母)が大国主命を木国の大屋毘古神のもとに逃がしたとか、本来関係ないものが紀伊国に関連づけられるようだ。武内宿禰の話も、本来、山城国或いは摂津国の豪族だった「内臣」の話が、名草郡宇治の地名に引かれて紀伊国の話になったものか。おそらく、武内宿禰の出身地としては、まず、山城国綴喜郡有智郷が有力で、次いで、摂津国谷部郡宇治郷ではないかと思う。谷部郡は莵原郡と併せて元雄伴国と称されたという説も発音は全然違うが「雄伴」は「大伴」を連想させる。」全文引用
http://tytsmed.wordpress.com/2012/12/15/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%8B/
 
 


 
 
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武内宿禰   たけ・うじの・すくねと読むのが正しいか?

 
 「比古布都押之信命、尾張連等祖、意富那毘の妹、葛城の高千那毘賣を娶りて生める子は味師内宿禰(此は山代の内臣の祖なり)。また木國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日賣を娶りて生みし子は、建内宿禰。此の建内宿禰の子は并せて九たり(男七たり、女二たり)」

がヒントになる。

木国造宇豆比古(きのくにのみやつこ・うづひこ)とは珍彦で、椎根津彦槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、のことか?

神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖である。

木国造とは紀直氏のことであり、倭直氏ではない。 紀伊国には紀直氏と紀臣氏という二大勢力が存在していた。しかし倭直氏の祖である椎根津彦は『古事記』では木国造の祖とされているから、同一人物に違いない。
 
ということは倭直=紀直となって、武内宿禰の子孫であるはずの紀氏たちと、神武東征のナビゲーターとなって大和に入った倭国造はもともと同じ氏族?
 
これを真面目に受け止めていると頭が混乱してくることになる。
宇智地名・内臣
内臣には音読みすると「ないしん」=記録上四人しかいなかった大王の特殊な大臣という意味になるので、武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)を、記録どおりには受け取らずにそういう、ある一時期の特殊な大臣の象徴として、話にちりばめたものと捉えたらどうか?

このさい、どっちが正しいかではおそらく紀氏の二つの氏族・・・紀直氏と紀臣氏の仲たがいと受け取っておいたほうがよさそうだ。どちらかが武内で、どちらかが甘美内ではないか。

いずれにせよ紀氏も倭氏も、南九州の海人族の出身と見て間違いなかろう。つまり葛城系譜の中にある彼らには大和宇智(うぢ と読むべきだろう)に入り分裂して各地にちらばったと。そのひとつに宇治も入るのだろう。従って二人の名前の読み方は・・・たけし・うぢのすくね、うましの・うぢのすくねだったと推定でき、そこから派生してきたのが葛城・蘇我・波田・許勢などであることとなる。これは近畿最古の来訪氏族。そして物部・尾張・海部・(息長・宗像も?)などもどこかで彼らとつながっていた氏族だったと見られる。最初は南九州であろう。
 
渡来系よりも早くから大和にいた人びとのひとつ。
 
やはりこれは葛城系譜=隼人系豊玉姫子孫じゃあなかろうか?
 
つまり浦島太郎の一番古い祖先であり、鹿児島霧島山の山幸彦・海幸彦かな?
 
 
 

要するに彼らをまとめたのが女王卑弥呼だったんだろうな。共立した氏族。
 

熊襲を平定したのも彼らの誰か・・・日下部氏だとなるか。となるとあさぎり町の金メッキ画像鏡が出た才園古墳の主は日下部氏だな。森さんと人吉市民には悪いが、熊襲じゃない。人吉市には靫や的の陽刻のある横穴があるのだから、弓をステータスにしていたのは日下部氏や的臣だから想像どうりである。
 
 
 たけし・うじのすくね うまし・うじのすくね だな。理解できた。あとは南九州に「うじ」を探せばよい。
 
 
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二人の現津神 2 渡来と縄文そしてケセン国・90万アクセス感謝記事

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画像が消えてしまったので再編集して再掲載します。
前記事は削除しました。
2014/9/30(火) 午後 7:31
  

90万アクセス感謝記事
 

 
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二人の「あきつかみ」の子孫
明治時代の肖像
 
あなたはどちらがカッコいいと思いますか?

 
左、第百二十二代明治天皇・睦仁(むつひと)
右、第八十代出雲国造・千家尊福(せんげ・たかとみ)
 
 
 
まず相貌からは、外国人が見たら、右が大王だと見えるのではなかろうか。
恰幅、骨格、幅の広い顔。王者の風貌である。
 
しかしこれは明らかに縄文系の特色を強く持った「まつろわぬ者」の顔でもある。
熊襲・蝦夷の顔、アイヌ・西洋人の貌だと言ったほうがわかりやすいか。
 
 
 

 
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晩年の尊福
 

 
 
一方、明治天皇・睦仁の相貌は細面で、渡来系のように見える。弥生人の骨格である。以前武家の顔写真を貼ったが、よく似ている。面長で、ひらべったい。
 
おせじにも威風堂々とした相貌、体躯とはいいがたく、14歳ころの明治天皇に逢って会話した英国公使パークスの記録では「ミカドは恥ずかしがりやで」「おずおずしており」「(暗記したはずの)自分の述べる言葉が思い出せず」「左手の役人から聞いてどうにか思い出し、最初の一節をどうにかこうにか発音し」「結局、全文は役人が読み上げた」とある。
 
 
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この頼りなく、細いからだの、なよなよして、女官たちに眉を公家風に描き化粧してもらっていた少年天皇を、明治政府は国家元首、軍隊の元帥へとどんどん教育していった。その結果、明治天皇の相貌は変わっていく・・・と、岡本雅亨は書いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
そして最終的に明治の日本人がよく知ることになったこの肖像画が作り出された。かなりの修正されたイメージであろう。
 
 
 

 
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もちろん造られたイメージでしかない。わざわざ西欧人に王者らしく見える「縄文顔」にしてある。
 
 
 
 
面白いのは、堂々とした君主のイメージが、幅広い縄文顔や濃いヒゲであると明治の為政者達は思っていることである。それは西欧化を勧めていた明治政府の勝手なイメージでしかないことは、一番上の写真を見れば一目瞭然。
 
 
 
ところが、当時までの日本国民は、ほとんど誰も天皇の姿など見たこともなく、それどころかそのような君主の存在すら知らなかったのである。だから君主とはこうした立派な風采の人であると、一発で信じ込まされてしまうのである。
 
つまり、江戸期までの天皇とは、奈良・京都の王でしかない存在だったということである。平民はむしろ将軍家だけが大王であると認識しており、天皇とは大和地方の人、あるいはまったく天皇の「て」の字も知らないのだった。
 
「天朝さまとはどんなものか、民衆のほとんどは知らなかったので、政府は売り込まなければならなかった。だから天皇巡幸を催した」吉村徳蔵などの記録から岡本雅亨
 
 
読売新聞は、天皇誕生日(天長節)の解説を第一号にわざわざ掲載し、「睦仁とは恐れ多くも天子様のお名前で、陛下といふのは天子様を敬っていふ言葉」と解説せねばならなかった。
 
 
 
どうしてこんなことだったのだろう?
なぜ日本国民は明治時代になるまで、天皇という国家元首を知らないままだったのか?
 
そのこたえのひとつはこの地図にある。
 
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日本は、過去の歴史教科書が言ってきたような、『日本書記』皇国史観による奈良時代からの統一律令国家だったのではなかった、という衝撃的真実である。
 
今の教科書が使っている上の地図は、あきらかに飛鳥時代以前には、日本に大和朝廷による中央集権日本はまだなかったことを示している。この地図には、しかしまだ欠落している地方国家がいくつも存在する。南九州の熊襲たちの国家、東北地方の「日高見」連合体諸国家、日本海の丹後・若狭などの小国家・・・などなどがこの地図には載っていない。
 
天武天皇が「近畿地方を統一した壬申の乱」のあと、記録は大宝律令などの制定を言い募る。しかし、それらはすべて近畿地方、大和地方の内部の話だけで、全国の諸国家が全部、納得して頭をさげたものではなかったのである。
 
大和至上主義歴史学は前方後円墳こそ、大和が全国統一を成し遂げた証拠品だと誇らしげに主張するけれど、その前方後円墳の内部に一度でも入った人間なら、その様式が地方によってばらばらであることに気づくはずである。前方後円墳は見せかけの統一、いや、ただの型式のブームだったに過ぎない。それはすでにこのブログで、大和が自分を大きく見せるがためのハリボテ、えっへん遺跡であると書いたし、その源泉こそが縄文からのヘテラルキーからヒエラルキーへの過渡期の産物にすぎなかったことは明白である。
 
 
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 大正天皇のお顔も細面
 
 
 
 
 
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自称元皇室のこの人も細い。
 
 
 
 
 
 
 
その証拠に、明治時代まで、日本人は標準語というものを持たなかった。東北の岩手県の人々は、明治時代まで、自分達を「ケセン国」の「ケセン人」で、しゃべっている言葉は「ケセン語」だと思っていたという。その「ケセン国」とは岩手県気仙郡~宮城県気仙沼地方のことである。そして東北人たちは、それまで自分達を日高見連合体=大和から見れば蝦夷連合体の中の●●国人だと固く信じ込んでいたのである。
 
また島根や鳥取でも似たり寄ったりであった。
出雲は日本海側でも珍しいズーズー弁地帯と言われてきた。
 

 
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ほとんどの日本人が、日本語はかつて中心地だった京都から円を描くように、しだいに外側へと拡散していったと信じ込んでいるだろう。しかし今ではそれも古い説で、大和中心主義の考え方に過ぎない。この金田一春彦の地図も、もう古いといわねばなるまい。
 
(特に瀬戸内言葉の区分は間違っている。四国西部を関西弁地帯としているが、古代には瀬戸内言葉地帯、それが次第に関西弁に「毒化された」。畿内の広がりにともなうもので、それこそが神話の国生みに反映されている。)
 
 
出雲だけが東北弁地帯?それも詳細には違うと言える。なぜなら出雲は縄文後期から海の道で琉球とつながっていたからだ。出雲は東北と南海をつなぐ中継地だったのだ。だから東北弁も琉球言葉も南九州・北九州言葉も南北海道言葉も入っている
。そして当然半島の言葉も。東北弁のズーズーよりも、「しゃん」「しぇい」は福岡の博多弁・朝鮮発音に近い。ざじずぜぞになるのは東北的。言葉に音節の切れ目がないのは東北弁。だからこそ、中継地だったからこそ文化が発達していたからこそ、大和に狙われた。
 
 
 
 
ではいったい、いつその正真正銘の統一国家日本は成立したのだろうか?
 
平安時代から?、鎌倉幕府から?、室町幕府から?、江戸幕府からであろうか?
明治時代からなのである。
 
 
 
 
天皇家と出雲国造家・・・男系で存続したのは出雲国造家の方である。
 
 
 
 
引用地図画像と参考文献 岡本雅亨 『民族の創出』
 
 
 
 
 
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武内宿禰=海幸彦=浦島太郎=珍彦の謎

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昨夜啓上して置いた「武内宿禰とは何者か?内臣氏と倭直氏/大和最古の来訪海人族・卑弥呼の協力者」記事を読まれた方の中は、じゃあ武内宿禰のご先祖様は浦島太郎か?」と気づいた人もいただろうと思いたい。

そうなのだ、武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)は海人族紀氏から出たと伝承されるが、その紀氏こそが倭直(やまとのあたい)であり、その先祖が椎根津彦(しいねづひこ)で、海上に亀の背中に乗ってただよっていて、腰には漁師の身につける腰蓑をつけて釣りをしていたところへ九州から神武さんがやってきて、神戸から難波津までの水先案内をしたのである。

だから宇智の宿禰氏族のルーツとは海人族。そのまたルーツは鹿児島の大山積と天孫から生まれたという海幸彦・山幸彦。そのまた大元は要するに二人のおかあちゃんである海神わだつみの娘豊玉ヒメ。これは山の神と海の神の結婚=天孫と縄文の南九州での結婚つまり平定を言っている系譜なのである。
 
では鹿児島県に「うづ」地名があるのか?
 


 
 
 
全国に「うち」「うじ」地名は以下の如し。
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2011-04.html?p=6
ウチ 内 鹿児島県。①創賜。江戸時代にあった門割制度の内門から。位置の例。鹿児島県薩摩郡さつま町平川、鹿児島県日置市伊集院町古城、鹿児島県鹿児島市福山町、鹿児島県南九州市知覧町郡、鹿児島県肝属郡肝付町波見、鹿児島県肝属郡肝付町後田。②鹿児島県大島郡和泊町内城(ウチシロ)発祥。内城の「内」の字を使用した奄美群島の一字姓。③ナイもあり。島根県浜田市内村(ナイムラ)町発祥。南北朝時代から記録のある地名。石見国での伝承。※奈良県五條市(旧:宇智郡)発祥。飛鳥時代から記録のある地名。内臣の姓氏があった。京都府八幡市の内里の付近(旧:有智(ウチ)郷)は経由地。奈良時代から記録のある地名。
ウチアイ 打合
ウチアイ 打会
ウチアイ 打會
ウチアカ 内赤 宮崎県。創賜。宮崎県えびの市杉水流に江戸時代にあった門割制度の内赤池門から。
ウチアケ 打明 広島県尾道市。広島県尾道市因島土生町郷区の小字の打明から発祥。※山口県で戦国時代に三増氏が打明姓も称していた事例があった。
ウチアゲ 打揚
ウチアゲ 打上 鹿児島県出水市、三重県鈴鹿市。創賜。鹿児島県出水市高尾野町江内に江戸時代にあった門割制度の打上屋敷から。
ウチアツメ 打集 奈良県・大阪府。奈良県御所市條の家の前が山道となっており、道を広げるため杭打ちを始めたことから明治新姓時に「打始(ウチハジマリ)」と届けたところ役人が誤記したと伝える。
ウチイ 内井 富山県。
ウチイ 打井
ウチイケ 内池 福島県福島市。滋賀県蒲生郡日野町内池発祥。福島県福島市大町での伝承。
ウチイシ 内石 高知県。※山梨県西八代郡市川三郷町に戦国時代にあった。
ウチイズミ 内泉 大阪府、京都府。
ウチイト 内糸
ウチイワ 内岩
ウチウゾウ 内生蔵 富山県魚津市、北海道。富山県黒部市内生谷(ウチュウダニ)発祥。「蔵」は富山県魚津市東蔵(トウゾウ)から。
ウチウゾウ 内生藏
ウチウダ 内宇田 長野県千曲市、神奈川県横浜市。長野県千曲市土口では農業に従事していたと伝える。
ウチウミザキ 内海崎 茨城県かすみがうら市。
ウチウラ 内浦 北海道、大阪府、奈良県。
ウチエ 打江
ウチエ 宇智英 山形県上山市。
ウチエ 内恵
ウチエ 内江 福井県坂井市。
ウチエ 内惠
ウチオ 内尾 福岡県、大分県、熊本県。豊前国上毛郡内尾発祥。
ウチオ 打尾
ウチオオクボ 内大久保 鹿児島県鹿児島市。
ウチオカ 内岡 熊本県・高知県幡多郡三原村・岡山県高梁市。
ウチオキ 内沖
ウチオケ 内桶 茨城県笠間市、茨城県常陸太田市。
ウチオボ 内大保
ウチオンボウ 内音坊 広島県。
ウチガイ 内貝 兵庫県。
ウチガイト 内垣内 岐阜県高山市・兵庫県、大阪府。
ウチガイト 打垣内 和歌山県海南市・大阪府・長野県。
ウチガイト 内垣外 京都府。
ウチガイト 内垣戸 岐阜県飛騨市。
ウチカガミハラ 内鏡原 鹿児島県鹿屋市。創賜。鹿児島県鹿屋市吾平町上名に江戸時代にあった門割制度の内鏡原門から。
ウチガキ 内垣 兵庫県、愛知県、大阪府。
ウチガキ 内栫 鹿児島県出水市。
ウチガクチ 打ケ口 石川県。
ウチカケネ 内掛根
ウチガサキ 内ケ崎 宮城県、北海道。内崎の異形。
ウチガシマ 内ケ島 岐阜県郡上市。内島の異形。岐阜県郡上市に江戸時代にあった。
ウチガシマ 内賀島 熊本県山鹿市。熊本県山鹿市長坂が本拠。
ウチガシマ 内ケ嶋
ウチガシマ 内賀嶋
ウチカタ 内潟 石川県かほく市。地形。石川県かほく市での河北潟に面した土地から。
ウチカタ 内方 福井県小浜市、福井県鯖江市、京都府。福井県小浜市下田が本拠。福井県鯖江市下新庄町では宮大工だったと伝える。
ウチカタ 内形
ウチカタ 内片
ウチカタ 打方
ウチガタ 内瀉
ウチカド 内門 鹿児島県。江戸時代にあった門割制度の内門から。位置の例。鹿児島県南さつま市金峰町高橋、鹿児島県南さつま市加世田武田、鹿児島県南九州市知覧町永里。鹿児島県南九州市川辺町神殿、鹿児島県南九州市川辺町平山では内門屋敷。鹿児島県いちき串木野市川上の小字の内門から発祥。同地に江戸時代に門割制度の内門屋敷があった。
ウチカド 内角
ウチカネ 内金 鹿児島県。
ウチガネク 内兼久 沖縄県。
ウチカネザキ 内金崎 岩手県上閉伊郡大槌町。岩手県上閉伊郡大槌町の小槌川の付近にあった金崎の地名の内に位置した内金崎から発祥。
ウチガマエ 内構
ウチガミ 内上 兵庫県、大阪府。
ウチガミ 内神
ウチガメ 内亀
ウチカリヤ 内仮屋 宮崎県小林市・東京都。創賜。宮崎県小林市細野に江戸時代にあった門割制度の内仮屋門から。
ウチカワ 内川 長野県、佐賀県、東京都。長野県千曲市内川発祥。和歌山県西牟婁郡白浜町内ノ川(ウチノカワ)発祥。江戸時代から記録のある地名。同地では1473年(文明5年)には内川氏がいたと伝える
ウチカワ 内河 長野県、埼玉県、富山県。内川の異形。
ウチカワ 打川 秋田県大仙市、秋田県横手市、北海道。秋田県大仙市内小友が本拠。同地に江戸時代にあった。
ウチカワ 宇知川 千葉県印西市。
ウチカワグチ 内川口 岩手県遠野市。地形。岩手県遠野市土淵町山口の住民によるどこにもない姓にしようとした明治新姓。川の内側に住んでいたことによる「内川」と地名の山口の「口」の合成。
ウチカワノ 内河野
ウチカンナ 内 広島県。
ウチカンボリ 内上堀 鹿児島県鹿屋市。創賜。鹿児島県鹿屋市吾平町上名に江戸時代にあった門割制度の内上堀門から。
ウチキ 打木 神奈川県、群馬県、東京都。ウツギもあり。宇津木姓あり。石川県金沢市打木(ウツギ)町は江戸時代から記録のある地名。
ウチキ 内樹
ウチキリ 打桐
ウチキリ 内切
ウチクガ 内空閑 熊本県熊本市。熊本県山鹿市鹿本町来民今古閑(旧:内空閑)発祥。
ウチクネ 内久根 長野県上田市。
ウチクボ 内久保 岩手県。
ウチクボ 内窪 宮崎県都城市、宮崎県小林市、広島県。創賜。宮崎県都城市高城町大井手に江戸時代にあった門割制度の内窪門から。創賜。宮崎県小林市東方に江戸時代にあった門割制度の内窪屋敷から。ほか。
ウチクラ 内倉 鹿児島県、宮崎県、東京都。創賜。江戸時代にあった門割制度の内倉門から。位置の例。鹿児島県鹿屋市名貫町、鹿児島県鹿屋市串良町下小原、鹿児島県鹿屋市吾平町下名、鹿児島県肝属郡東串良町川東、鹿児島県肝属郡肝付町後田。鹿児島県鹿屋市串良町有里、鹿児島県肝属郡肝付町宮下では内倉屋敷。ほか。武蔵国足立郡にあった。 
ウチクラ 内蔵
ウチクラ 内藏
ウチグロ 内黒
ウチクロハネ 内黒羽子 鹿児島県、和歌山県。創賜。鹿児島県鹿屋市吾平町上名黒羽子に江戸時代にあった門割制度の内黒羽子門から。
ウチゴウチ 内河内
ウチコガ 内古閑 熊本県熊本市。内空閑の異形。
ウチコシ 打越 茨城県、鹿児島県、北海道。秋田県由利本荘市内越(ウテツ(旧:打越))発祥。岩手県遠野市では同地の打越からとも伝える。位置不詳。創賜。江戸時代にあった門割制度の打越門から。位置の例。鹿児島県指宿市山川小川、鹿児島県肝属郡東串良町新川西、鹿児島県肝属郡南大隅町横別府。紀伊国にあった。和歌山県和歌山市宇須の小字に打越ノ坪あり。
ウチコシ 内越 宮崎県延岡市。打越と通用。
ウチコシ 宇地越 神奈川県横浜市旭区。
ウチコシキ 内甑 鹿児島県。創賜。鹿児島県姶良市北山に江戸時代にあった門割制度の内甑門から。
ウチコシヤマ 打越山
ウチコダ 内古田
ウチコバ 内木場 鹿児島県鹿児島市、宮崎県。創賜。江戸時代にあった門割制度の内木場門から。位置の例。鹿児島県鹿児島市喜入瀬々串町、宮崎県小林市東方。
ウチコバ 内木塲
ウチコミ 打込 石川県・千葉県・東京都。
ウチザ 打座
ウチサカ 内坂 広島県、山口県、神奈川県。
ウチサカ 打坂 広島県安芸高田市。広島県安芸高田市に江戸時代にあった。
ウチサキ 内崎 兵庫県姫路市、宮城県、熊本県。宮城県大崎市(陸前国栗原郡内崎)発祥。ほか。
ウチザキ 内埼
ウチザクラ 打桜
ウチザクラ 打櫻
ウチサコ 内迫
ウチササイ 内笹井 埼玉県、愛知県。埼玉県大里郡寄居町用土の小字の山井岡で農業に従事していたと伝える。
ウチザト 内里 沖縄県沖縄市。
ウチザワ 内沢 岩手県、青森県。岩手県九戸郡洋野町大野の小字の内ノ沢から発祥。地名は「内の沢」とも表記。ほか。
ウチザワ 内澤 岩手県、北海道、青森県。長野県に分布あり。
ウチジ 打地 北海道、東京都。
ウチシバ 内芝 和歌山県。
ウチシバ 内柴 愛知県、北海道、熊本県。熊本県熊本市に江戸時代にあった。
ウチジハラ 内地原 沖縄県沖縄市。内原の琉球形。
ウチジマ 内島 富山県高岡市、神奈川県、長崎県。①富山県高岡市内島発祥。江戸時代から記録のある地名。飛騨国では越中国の出と伝える。岐阜県大野郡白川村保木脇にあった帰雲城の城主は「内ヶ島(ウチガシマ)」と呼称していた。1586年(天正13年)の地震による山崩れで滅亡。②埼玉県深谷市内ケ島(ウチガシマ)発祥。江戸時代から記録のある地名。同地に平安時代にあった。③奄美群島の一字姓の内に「島」の字を追加した創姓。
ウチジマ 内嶋 宮崎県、長崎県、神奈川県。①創賜。宮崎県小林市細野に江戸時代にあった門割制度の内嶋田(ウチシマダ)門から。②内島の異形。
ウチジマ 内嶌
ウチスガワ 内須川 神奈川県、長野県佐久市。新潟県岩船郡関川村内須川は江戸時代から記録のある地名。地名はウチスノガワとも発音した。
ウチスギ 内杉 大阪府、兵庫県・鹿児島県鹿屋市。創賜。鹿児島県鹿屋市吾平町上名に江戸時代にあった門割制度の内杉門から。
ウチズミ 内炭
ウチセ 内勢
ウチセト 内瀬戸
ウチゾエ 内添 鹿児島県、兵庫県。創賜。鹿児島県出水市野田町上名に江戸時代にあった門割制度の内添門から。
ウチゾノ 内園 鹿児島県。創賜。江戸時代にあった門割制度の内園門から。位置の例。鹿児島県鹿児島市喜入前之浜町、鹿児島県南九州市知覧町瀬世。鹿児島県出水市武本では内薗(ウチゾノ)門。鹿児島県南九州市川辺町宮では内園屋敷。
ウチゾノ 内薗 鹿児島県指宿市。創賜。鹿児島県指宿市山川福元に江戸時代にあった門割制度の内薗門から。 鹿児島県指宿市山川成川に江戸時代にあった門割制度の内薗門から。
ウチゾノ 内苑
ウチゾノ 内囿 大阪府、鹿児島県。
ウチソノダ 内園田
ウチダ 内田 埼玉県、神奈川県、東京都。静岡県菊川市中内田・下内田発祥。茨城県常陸太田市内田町発祥。ほか。創賜。江戸時代にあった門割制度の内田門から。位置の例。鹿児島県日置市東市来町伊作田、鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木、鹿児島県南さつま市加世田唐仁原、宮崎県えびの市永山、宮崎県西諸県郡高原町西麓。鹿児島県いちき串木野市川上では内田屋敷。鹿児島県日置市東市来町湯田では内門に「田」の字を追加して創姓。奄美群島の一字姓の内に「田」の字を追加した創姓。コリア系。岩手県北上市で1955年5月16日に帰化の記録あり。「芮」が含む「内」の字を使用したもの。本姓は芮。※熊本県熊本市南区内田町に分布あり。※島根県浜田市内田町に分布あり。※大分県豊後大野市三重町内田に分布あり。
ウチダ 打田 三重県、北海道、愛知県。三重県津市に江戸時代にあった。和歌山県紀の川市打田(ウチタ)は江戸時代から記録のある地名。岐阜県関市下之保では農業に従事していたと伝える。
ウチダ 内多 富山県高岡市、京都府、兵庫県。内田姓あり。※三重県津市に江戸時代にあった。
ウチダ 宇智田
ウチタク 打宅 福島県南相馬市。相馬中村藩士にあった。
ウチタケ 内竹 岩手県、宮崎県、北海道。創賜。宮崎県小林市細野に江戸時代にあった門割制度の内竹ノ下門から。
ウチタテ 内立 宮崎県えびの市。創賜。宮崎県えびの市東長江浦に江戸時代にあった門割制度の内立門から。
ウチダテ 内館 岩手県。
ウチダテ 内舘
ウチタテモト 内立元 鹿児島県鹿屋市、鹿児島県鹿児島市。創賜。鹿児島県鹿屋市吾平町上名の小字の立元に江戸時代にあった門割制度の内立元門から。
ウチタテワ 内立輪 鹿児島県日置市、鹿児島県鹿児島市。創賜。鹿児島県日置市麦生田に江戸時代にあった門割制度の内立輪門から。
ウチタニ 内谷 石見では美濃の内谷(ウツダン)からと伝える。岐阜県本巣市根尾上大須に内谷(ウチンダニ)あり。ウチヤもあり。秋田県由利本荘市内黒瀬に鎌倉時代にあった。
ウチタニ 打谷
ウチタネ 内種 奈良県生駒市。宮崎県小林市北西方に江戸時代に門割制度の内種子田門があった。
ウチダヤ 内田屋 鹿児島県。
ウチツ 内津 長野県南佐久郡佐久穂町、長野県佐久市。長野県南佐久郡佐久穂町穂積が本拠。同地に江戸時代にあった。
ウチヅカ 内塚
ウチツネミ 内恒見 鹿児島県霧島市、三重県・愛知県。創賜。鹿児島県霧島市牧園町持松に江戸時代にあった門割制度の内恒見門から。
ウチツボ 内坪
ウチヅメ 打詰
ウチデ 内出 宮城県、東京都、神奈川県。
ウチデ 打出 富山県、石川県。川越藩士にあった。
ウチデヤ 打出谷
ウチド 内戸
ウチドイ 打土井 兵庫県淡路市。
ウチドイ 内土井
ウチトク 内徳 鹿児島県いちき串木野市、福岡県。創賜。鹿児島県いちき串木野市の旧地名の下名に江戸時代にあった門割制度の内徳屋敷から。
ウチドマリ 宇地泊 沖縄県那覇市。沖縄県宜野湾市宇地泊発祥。地名は内泊の琉球形。
ウチトミ 内富
ウチトミ 内冨
ウチトヨドメ 内豊留 鹿児島県姶良市。鹿児島県姶良市豊留の内に位置する土地から。
ウチナ 内那
ウチナ 内名
ウチナオ 打猶 広島県広島市佐伯区、島根県益田市・大阪府。
ウチナカ 内仲
ウチナカ 内中 長崎県・大阪府。
ウチナガ 内永 熊本県、宮崎県、鹿児島県。①熊本県下益城郡美里町名越谷が本拠。②香川県東かがわ市帰来では戦国時代の武将である松永久秀の後裔が1688年から1704年(元禄年間)に松永の松を「内」として創姓したと伝える。③創賜。鹿児島県曽於市末吉町深川に江戸時代にあった門割制度の内永門から。
ウチナガ 内長
ウチナシ 内梨 大分県大分市。大友氏の分流が鎌倉時代に称したと伝える。
ウチナミ 内波 兵庫県。兵庫県赤穂市有年横尾が本拠。石川県珠洲市の若山町に鎌倉時代にあった。
ウチナミ 打浪
ウチナミ 打波 福井県。
ウチナミ 内浪
ウチニシ 内西 鹿児島県、福岡県、滋賀県。創賜。鹿児島県鹿屋市串良町有里に江戸時代にあった門割制度の内西屋敷から。ほか。
ウチヌキ 打抜
ウチヌノ 内布 熊本県人吉市、熊本県球磨郡球磨村。熊本県球磨郡球磨村渡甲の小字の内布から発祥。
ウチヌマ 内沼 埼玉県飯能市、東京都、神奈川県。埼玉県飯能市岩沢に江戸時代にあった。
ウチネハラ 内根原
ウチノ 内野 東京都、埼玉県、福岡県。筑前国早良郡内野発祥。武蔵国足立郡内野発祥。創賜。江戸時代にあった門割制度の内野門から。位置の例。鹿児島県薩摩川内市東郷町山田、鹿児島県南さつま市金峰町宮崎、鹿児島県南さつま市金峰町花瀬。
ウチノ 内埜
ウチノ 打野
ウチノイ 内野井 和歌山県新宮市。
ウチノイ 内ノ井 東京都。
ウチノウ 内納 大分県、福岡県、神奈川県。大分県中津市伊藤田が本拠。※安中藩士にあった。
ウチノウラ 内之浦 鹿児島県、宮崎県。鹿児島県肝属郡肝付町(旧:内之浦町)発祥。
ウチノウラ 内ノ浦 鹿児島県伊佐市。
ウチノクラ 内之倉 鹿児島県。鹿児島県志布志市志布志町内之倉発祥。創賜。江戸時代にあった門割制度の内之倉門から。位置の例。鹿児島県薩摩川内市祁答院町黒木、鹿児島県肝属郡肝付町野崎、宮崎県小林市真方。
ウチノクラ 内ノ倉 鹿児島県薩摩郡さつま町・宮崎県小林市・東京都。創賜。鹿児島県薩摩郡さつま町求名に江戸時代にあった門割制度の内之倉(ウチノクラ)門から。
ウチノクラ 内野倉 
ウチノクラ 内之蔵
ウチノサワ 内野沢 岩手県九戸郡野田村、岩手県久慈市、北海道。
ウチノサワ 内野澤 岩手県。
ウチノタニ 内野谷
ウチノダン 内之段 鹿児島県、福岡県。創賜。鹿児島県霧島市溝辺町竹子に江戸時代にあった門割制度の内ノ段(ウチノダン)門から。
ウチノノ 内野々 鹿児島県鹿屋市、宮崎県延岡市。創賜。江戸時代にあった門割制度の内野々門から。位置の例。鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原、鹿児島県志布志市松山町泰野。
ウチノノ 内野野
ウチノハエ 内之八重 宮崎県宮崎市。
ウチノマキ 内之牧 鹿児島県曽於市・東京都。
ウチノマル 内之丸 広島県呉市・大阪府・愛知県。
ウチノミ 内呑 兵庫県養父市。
ウチノミ 内能美 山口県宇部市。
ウチノミヤ 内野宮
ウチノミヤ 内之宮 鹿児島県南さつま市。創賜。鹿児島県南さつま市加世田武田に江戸時代にあった門割制度の内門から「内」の字を使用したもの。
ウチノミヤ 内ノ宮
ウチノミヤ 内の宮
ウチノムラ 内ノ村
ウチバ 内場 福岡県、熊本県。福岡県糸島市二丈鹿家が本拠。
ウチバエ 内八重 宮崎県宮崎市。宮崎県宮崎市田野町甲が本拠。
ウチハシ 内橋 兵庫県西脇市。兵庫県西脇市合山町が本拠。福岡県に分布あり。福岡県糟屋郡粕屋町内橋は室町時代に「打橋」の表記で記録のある地名。
ウチハシ 打橋 福岡県、神奈川県、香川県。長崎県長崎市に江戸時代にあった。
ウチハタ 内畠
ウチハタ 内畑
ウチハタ 内幡
ウチハタヤ 内畑谷 大阪府。大阪府岸和田市内畑町に由来する内畑屋(ウチハタヤ)の屋号から。
ウチババ 内馬場 宮城県、北海道。福島県伊達郡桑折町南半田内之馬場(ウチノババ)発祥。
ウチハマ 内浜
ウチハマ 内濱
ウチバヤシ 内林 滋賀県甲賀市。
ウチバヤシ 打林
ウチハラ 内原 沖縄県、香川県、大阪府。沖縄県が起源地。和歌山県日高郡日高町萩原付近(旧:内原)から発祥。創賜。鹿児島県南九州市川辺町高田に江戸時代にあった門割制度の内原屋敷から。764年(天平宝字8年)に内原直の姓氏の記録あり。和歌山県日高郡日高町原谷に江戸時代にあった。茨城県水戸市内原町発祥。江戸時代から記録のある地名。内原氏の名前からとも伝える。
ウチハラ 宇地原 沖縄県。内原の琉球形。琉球音はウチバル。沖縄県うるま市に琉球王国時代にあった。
ウチハル 内春 大分県別府市。
 


 
かどわりせいど【門割制度】 
薩摩藩全般に施行された強制割地制度。名称の初見は1197年(建久8)の《大隅国図田帳》所載姶良(あいら)庄の元吉門であるが,その性格は未詳。中世の門(かど)は垣内村(かいとむら)のような血縁ないし地縁共同体であったが,島津氏の領国一円化とともに,とくに1658年(万治1)ごろから1722‐26年(享保7‐11)の総検地ごろまでの外城制度の確立過程の進展のなかで,下人(被官)や一族が解体されて新門を分立していったので,高も人員も平均的な門に変貌した。 http://kotobank.jp/word/%E9%96%80%E5%89%B2%E5%88%B6%E5%BA%A6
 
だからこれらの「うち」地名は今回無関係。新しい地名。
これでは「内」では探しても意味がない。
「宇智」あるいは武内宿禰を祭るなどの神社を探そう。
しかし、鹿児島で宿禰を祭るという神社は、まずは黒尾神=住吉神となる。それは隼人反乱以後に豊前の宇佐から持ち込まれた隼人怨霊鎮撫の形式である。九州で住吉=武内宿禰=黒尾神である。そしてこの黒尾神の風貌は色黒、短躯でまさに往古の千代の富士みたいな精悍、小兵、しかし強力となっていて、これはやっつけた隼人が祟らぬように持ち上げた形式。まさに神霊の持ち上げである。だからそれ以前の太古にここに宇智・宇治の氏族がいた証拠とは言いがたくなる。
 
 
 


 
 

ここで塩土爺(しおつちのおじ)を思い出そう。
神武さんに大和のニギハヤヒの存在を教えて、東征のきっかけを作った長生き仙人だ。このイメージが武内宿禰イメージの出発点。桐山士郎は武内宿禰こそは海幸彦だとしている。天孫神武=山幸彦である。それに道案内で塩土が加わることは、海と山の氏族の団結を指すわけだが、その背景こそは神話の海幸・山幸の釣り針探索での竜宮へというあのお話。これはそのまま浦島太郎に反映されている。

だから塩土=武内宿禰。

ならば宇智氏族の大元は鹿児島の海。

その伝承を大和に広めたのは紀氏である。

紀氏が一番古い。山城南部には宇治郡と紀伊郡が隣接しており、八幡市内里は木津川で宇治市と隣同士往古はここも宇治の範囲だったのだろう、今でも宇治茶の産地はここにある。
 
 
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山城の宇智の北側に大隅郷があり、ここは大隅隼人が置かれた土地。これも木津川沿線の筒木(旧綴喜郡)にある。筒は住吉神の別名。底筒男・中筒・・・。つながるねえ。継体大王はここの筒城に宮を置いた。そのわけは息長氏系譜の海人王だったからだろう。その継体さんの出身地は滋賀県あるいは福井県つまり古志。まさに日本海出雲系縄文海人族の末裔だ。貿易商人の子である。この伝承は中国秦始皇帝から取った創作だろう。→「貴価置くべし」
 
 
ということになると、じゃあなぜ、浦島伝説が日本海側の宮津・舞鶴の中間地に移動したか?なぜ海部氏のメッカのそばか?なぜ日下部氏が浦嶋を祀るのかとなる。
 
 

乞うご期待。
 
 
 
 
 
 
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二人の現津神から武内宿禰まで ぼくにはもっと遠大な主張が

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この一週間ここに書いてきた一連の記事、二人の現津神から武内宿禰までで、筆者が言おうとしていることがご理解できましょうか?
 
 
筆者Kawakatuがこれから言おうとしていること先に書いておきます。
 
 
 
武内宿禰と仁徳天皇も、天皇と国造も、海幸彦と山幸彦も、すべて、記録が言おうとしている日本人にとって最も大事なことを記紀が言うがためのエピソードに過ぎません。
 
 
 
 
 
それはあの聖徳太子17条憲法にも成文化されている事柄です。
 
 
 
 
 
それは、新参の渡来者も、先住の南北縄文民族たちも、天津神も国津神も、ひとつになって、この小さな列島の国を大きくするために手を結んだのだということなのです。
 
 
 
こんな国は世界中にありません。
 
 
 
大陸のどのような国家も、新参が先住を排除し、殺戮し、仲間にしようとしませんでした。しかし、この国だけは違います。
 
 
 
 
さまざまの反発する意見もありましょうが、絶えず両者が婚姻相手を出し合い、勝者は敗者も仲間と認め、海外のような明確な区別と差別をしていない。同化して、むしろ勝者が敗者を持ち上げています。
 
 
 
 
それは、先住者の知恵や知識を、新参者が認めた結果でしょう。
 
 
 
 
 
このような見事な国はほかにないのだと記紀はわが国を褒め称えているのでしょう。
 
 
 
 
『古事記』『日本書記』から、最終的にそれが見えてこなくてはなりません。
それが日本古代史研究の行き着くべき結論であります。
 
 
 
 
 
 
 
どの古代までの記録にも、勝者が敗者を完膚なきまでに叩き潰すような話は見えません。隼人の制圧は古代史ではありません、9世紀の話です。それでもちゃんと宇佐八幡宮から辛島氏が鎮魂の鹿児島神宮正八幡神社を造営に向かっているし、地元宇佐では隼人を黒尾神・住吉神として鎮撫、人形芝居で慰めています。
 
 
 
 
 
 
結局、古代史の研究が言えることは、そういうことです。
 
 
 
 
 
怨念をいつまでもつながない、怨と恨を、いつまでも覚えておかない、そして前を向けと、記紀は語りかけてきます。藤原不比等も蘇我入鹿も聖徳太子も天智天皇も継体大王も応神天皇も神功皇后も武内宿禰も明治天皇も出雲国造も筑紫君磐井も、ニギハヤヒも長髄彦も・・・・・・・・・・
 
 
 
阿修羅たちのすべてが歴史を通して語りかけてくることは、日本人だったらどんな民族であろうとひとつになれ、そして手をつなぎ、この小さな小さな島国を守らないでどうするんだ・・・ということではないでしょうか?
 
 
 
 
負けたから民族的に劣等だろうか?
勝ったから優秀だろうか?
そんなことを言い合っていて、こんな小さな狭小な国家が保てるだろうか?
 
聖徳太子はそう言っているのです。
 不比等もそう言っている。
蘇我入鹿だってそういっている。
 
 
 
 
 
 
空を見たまえ。
国境をとりはらいたまえ。
 
小さな日本人だけにそれができる。
 
 
 
歴史からすべてを言うなど驕りである。人の上下をきめるなど不遜である。
ぼくたちにできることは、ただ、歴史がいう虚構の中から、誰も気づかなかった真実と真意を見出し、明日へ生かしてゆくことだけだ。言うべきは批判でも差別でもない。日本人は太古から手をつないできた。複数民族が彼らの影を見せることなく包み込んできた自在な世界だったのだ。
 
 
 
 
融通無碍 無信仰  すべては整合。すべてが世界唯一。
すべてが稀有、奇跡の国家なのである。
 
 
 
ほめたたえてしかるべし!!!
 
 
 
 
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紀氏と倭直氏 浦嶋伝説はなぜ日本海に?熊襲征伐の裏側

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紀氏
神魂命(かみむすび)の五世孫の天道根命(ニギハヤヒ随行者の1人)もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族、「日前国縣神宮」を祭祀。紀ノ川河口あたりの名草郡を本拠とし勢力を張り、その同族と称する氏族が伊都・那賀・在田・日高各郡に広がった。

股(箕「き」氏)起こる
紀元前770 中国夏王朝(姫「き」氏)の末裔太伯呉を起こす           
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住     
      
紀元前445 夏末裔杞国滅び北上す、半島に杞人移住
  縄文晩期~弥生前期 北西九州菜畑で稲作開始
            博多湾那珂川周辺に渡来文明人登場
            南九州霧島周辺に移住、南朝と直接外交
            半島南経営のために出雲に一部が移住?
            半島で秦氏と交わる?八幡宮辛島氏とはスサノヲ・五十            建で同祖 
一部は霧島・内から出て太平洋を北上、徳島県那賀郡から紀伊半島那賀郡に至る?海部氏・尾張氏と同族化?瀬戸内経由では吉備で倭直氏と同族化?
                         
  弥生中期 岡村遺跡(和歌山県海南市)水稲栽培始まる
  202 太田・黒田遺跡(和歌山市)発展へ
  391 紀氏、紀の川流域に勢力をはる
       紀角宿禰半島に攻め込む
       「西の庄」巨大製塩遺跡   
紀ノ川を遡上して吉野から大和・山城南部に入り葛城連合体として倭直・倭国造となる?  紀州で尾張氏・海部氏らと、大和で物部氏と婚姻?これらが吉備王氏族・葛城氏族らと合体し纏向に連合体。 出雲紀氏南下して和歌山へ。                  
    
 5世紀後半 紀ノ川北岸に大きい前方後円墳
         紀氏、ピークの時代に岩橋千塚古墳築かれ始める
         源流は高句麗
 5世紀末 大谷古墳(馬冑)
 6世紀初 紀直と紀臣に分離開始
    ※河瀬直 =紀直
太平洋側に「なか(中継地地名)」地名多数登場。
 
 
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夏王朝~呉の南朝を始祖とし、呉太伯の末裔とも称したと見えて、この系譜は隼人の主張に同じであるので、紀氏は最初南九州で隼人あるいは熊襲の曽於族を懐柔した神武系譜の大元になる伝承を持っていたと見られる。この曽於族については今の曽於郡を本拠として熊本の球磨地域の球磨族と合わせて大和側は「熊襲」と一括する。しかし熊襲はもともと「熊曾」という表記が正しかったはずで、その後奈良の二文字・良字表記命令で「熊」は「球磨」に、「曾」は「曽於」になった。わざわざ熊襲と「襲」の悪字を記録があてたのは、ちょうど葛城氏の祖でもあった葛城沙至比跪 (曾津彦)が『日本書記』によって「葛城襲津彦」とされたのに相通じており、熊襲征伐記録に伴った大和側の勝手な改変であろう。
 
そもそも景行天皇とヤマトタケルが熊襲建や出雲建(=ほかならぬオオクニヌシのことであろう)を征伐した事実など一度たりともなく、それは吉備や紀氏らの先着渡来民らの時代ごとの対決をすべて天皇家の事跡として奪い取った記録ではないかと見る。彼らは決して熊襲や曽於・隼人族を絶滅させてはおらず、むしろふなど=水先案内者として雇ったと見たほうがいい。そのために何度も攻めたとされたが、攻めたというよりも文化水準の物まねと地理に疎いための船人としての利用価値を認めたからこそ西九州から有明海を南下して彼らを懐柔し、北上した伝承を取り込んだ天皇家側は、わざわざ天孫は太平洋に出たとなってしまうわけである。

紀氏と尾張氏・海部氏との出会いは南九州ですでにあったと思われ、北部九州の壱岐対馬や遠賀川では物部氏・宗像氏・安曇氏つまり倭直の祖と出会っているはずだ。倭氏の祖である天火明(あめのほあかり)と物部氏の祖神ニギハヤヒは合体して天照国照彦天火明櫛玉饒速日となったわけだが、天火明は尾張・海部のいわゆる海部連合体の祖神でもあり、尾張氏と物部氏は大和では同祖とされているのだから、みなつながっていたわけである。これは渡来するさいに安曇や五島隼人や久米を使った証拠であり、彼らの部となった海人族が、それよりも古くから海人ネットワークでつながっており、日本海・瀬戸内・太平洋沿岸は彼らなしには成り立たなかったのである。だから記録の要所要所で水先案内者が出てくるわけで、伊勢の猿田彦などは『伊勢国風土記』逸文にまった同様の姿かたちで「伊勢津彦」なるものが登場するのだが、彼は「くなどの神=岐の神」であったとされる。岐とは分かれ道のことで、海では「くなど」とは「ふな土」で船の案内者=水先案内=木の股神=国津神=山の神・海の神という意味である。ということは国土の最初の神である大山積神と綿積神そのものが天孫にはナビゲーターだったのだから、最初の懐柔=結婚をする相手になるのは当然である。これらの先住氏族のすべてが山の神と海の神の出会いから生じた皇別氏族で海人族の管理者であるのは、むしろ当然のことと理解できる。当時の長距離移動手段は船しかないわけだから。今で言えば海人族とはジェット機の持ち主であり客船・貨物船のオーナーなのである。だから古語では海も空も「あま」と言うのである。
 
記紀はすべてを大和で起きた統一譚に仕立てているが、それは編集者・為政者が天皇を最初の統一者=はつくにしらす天皇にし、大和至上主義で描くからであって、すべての伝承がそうではなく、はじめの頃は邪馬台国以前の地方での懐柔策を大和に持ってきただけのことである。
つまり天孫がそれらをすべて行ったなどというのは大嘘で、卑弥呼や大王や天皇はただ彼らに担ぎ上げられた象徴王・祭祀者でしかない。いわば占いの大家であれば誰でもよかった。
 
シャーマンが王となれば、当然、どこの世界でもそのカリスマ性が薄くなれば王は交代させられる。だから万世一系などということは絶対にありえないのである。どこかで政権交代が起こる。
 
紀氏たち海人族には中継地が必ず必要で、要所要所に「なか」の土地が生まれ、そこでまた新たな氏族との合体・外戚化が起こる。その中からその時代にみあったシャーマンが選ばれたのが大王であろう。ということは卑弥呼や臺與もまた、吉備や豊の女性シャーマンだっただろうから、ちょっと地方の考古学を覗けば、豊後の築山古墳から女性シャーマンの遺骨が出ているし、吉備にも女性シャーマンの痕跡があるはずである。船の旅に海上安全を占うシャーマンはつきもので、倭人伝にある持衰などはその一例である。そういう中の成功者には土地や権威が約束されたわけで、そうなれば何度も成功したものなどはカリスマシャーマンであると同時に地方の大富豪をいうものも登場したはずであり、そこから最もシャーマン力の強いものが共立されたのが卑弥呼であろう。すると天皇も最初はそうした水先案内者の大カリスマ王だった可能性が出てくる。だから自分では政治や戦争には権限はなく、祭祀象徴王として大和で最高の人から始まった・・・例えば崇神。しかし纏向遺跡を見るとそれはどうやら吉備のカリスマだったと考えられる。となると紀氏なども最初の王家だったとなってもおかしくない。実際、大和国造は椎根津彦の子孫である倭氏だったのである。

だが大和国造はなぜか黒塚古墳の3世紀後半ころから中心地から離れたところへと移動した。つまりこれこそが政権交代であろう。黒塚古墳の主は「灘=な」がつくところから来た人であろう。「なしめ」「な王の子孫」。
 
このように紀氏は倭直という海部管理者とすでに吉備で出会っている。その後海部氏は尾張氏とともに伊勢湾へ入り、安八の木曽川を遡上して諏訪を経て日本海へ出る。半島外交のための港を求めて福井に向かい、若狭湾に入るのである(籠神社祭祀)。

大和からは南朝に固執して反発する熊襲・隼人の経営のために氏族が送り込まれる。これを夷守(ひなもり)といい、宮崎県の韓国岳の北側に派遣。東北は新潟県頚城郡(くびき)に鄙守が置かれたと記録にある。頚城と言えば気多神社、内神社、そして弥彦神社などが近く、外来者がよりつく場所でもあり、蝦夷のメッカでもある。この「夷守」という役職は、倭人伝ではミミ=耳と同様に、中国から見て国派遣知事というよりも地元の王のように書かれている。つまり国造のような存在である。耳は「人のいうことをよく聞く人」でつまり王であるのはわかるが、ひなもりはただの地方警護者である。しかし当時から王の二番手のように見えたということは、耳が政治王ならひなもりは武力王だろう。これまでの調査で、阿蘇氏のように派遣されてその土地の王族伝承を取り込んでしまう氏族もあれば、まったく地元の実力者が国造になった例もある。すると熊襲のあさぎり町で古墳を作れた人は、まずもって大和から来たものであろう。そもそもここから南部周辺に古墳のない地域である。しかもそれは靫負氏族の日下部氏である。なぜなら群集横穴古墳に靫が描かれているからだ。その管理者なら、西の雄族だった大伴氏が一番ふさわしい。5世紀~6世紀に南朝とつきあえる氏族は大伴氏しかいまい。隼人や熊襲の王に権威のある金メッキ鏡まではくれなかっただろう。
 
日下部氏はこうして人吉地方から豊前地方までを斜めに横断する遺跡を残した。これが九州を南北にわける国境であろう。そこで日下部氏らがまずやったことは、在地氏族=草部の部民たちつまり熊襲残党であろうが、彼らの始祖伝承である神八井耳と日子八井伝説の取り込みと抹消である。その中に紀氏と彼らの婚姻譚がまじっていたはずである。こうして『日本書記』からは日子八井伝承と手研耳という地元王族の命が絶たれることとなった。残った神八井耳のほうは大和に元からいた摂津三島あたりの王族の神に取り替えられた。
 
日下部氏は倭五王衰亡とともに、大伴氏もろともに大和では力を薄くしていったかも知れぬ。そして間人王女につきしたがって丹後へ流れた。そこで海幸・山幸伝説の焼き直しをしたのが浦島太郎伝説である。
 
 
 
楽しい妄想の時間であった。
 
 
 
 
 
付録

大倭(おおやまと)氏 旧倭直氏・大和国造氏
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏の祖でもあり、「振」は石上神宮の布留御魂神の「布留」であり、物部首の祖・春日臣市河が和珥氏系であることから、和珥氏との関係も窺えるだろう。http://homepage2.nifty.com/amanokuni/yamato.htm
2)倭氏人物列伝
倭氏の祖を国神・地祇とする説。天神とする説。天孫とする説が併存している。筆者は新撰姓氏録に基づく地祇説で列伝を記すことにした。異説も併記したい。
本拠地は大和国山辺郡大和郷とされている。
 
・伊弉諾尊・伊弉冉尊
 
・綿積豊玉彦
①父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
②子供:豊玉毘売(彦火火出見尊(山幸)妃)玉依毘売(鵜草葺不合尊妃)宇都志日金折命(別名:穂高見命:安曇氏祖)振魂命
 
・振魂命(海部氏・尾張氏祭神天火明命の父)
①父:綿積豊玉彦 母:不明
②子供:武位起命・天前玉命(尾張氏祖)・大鐸比売(オオヌテひめ)
 
・武位起命(たけいたて・たけくらたつ・たけくらき)
①父:振魂命(異説あり) ②母:不明
②子供:椎根津彦・八玉彦(八木氏祖)  別名:建位起
異説1(海部氏勘注系図)天孫系
父:彦火火出見 母:不明
父:彦火明 母:不明
異説2(先代旧事本紀・皇孫本紀)天孫系
父:彦火火出見 母:玉依姫?
異説3天神系
父:天神振魂尊(高皇産霊尊と同格の神) 母:不明
 
2-1)椎根津彦(しいつねひこ)
①父:武位起命(異説あり) ②母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲  母:丹波伊加里姫
②子供:志麻津見 妻:不明 
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
③出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
④古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦と号す。
⑤日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
⑥国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。
 
 
 
 
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ハヌマーン/猿田彦/伊勢津彦/建御名方/孫悟空

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ハヌマーン(हनुमान् Hanumān)は、インド神話におけるヴァナラ(猿族)の1人。風神ヴァーユの化身であり、ヴァーユが猿王ケーシャーリーの妻(アプサラスとする説もある)アンジャナーとの間にもうけた子とされる。ハヌマット(हनुमत् Hanumat)、ハヌマン、アンジャネーヤ(アンジャナーの息子)とも。名前は「顎骨を持つ者」の意。変幻自在の体はその大きさや姿を自在に変えられ、空も飛ぶ事ができる。大柄で顔は赤く、長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つとされる。像などでは四つの猿の顔と一つの人間の顔を持つ五面十臂の姿で表されることも。
 
 
 
顎が変形した顔で描かれる事が多いが、一説には果物と間違えて太陽を持ってこようとして天へ上ったが、インドラのヴァジュラで顎を砕かれ、そのまま転落死した。ヴァーユは激怒して風を吹かせるのを止め、多くの人間・動物が死んだが、最終的に他の神々がヴァーユに許しを乞うた為、ヴァーユはハヌマーンに不死と決して打ち破られない強さ、叡智を与えることを要求した。神々はそれを拒むことができず、それによりハヌマーンが以前以上の力を持って復活した為にヴァーユも機嫌を良くし、再び世界に風を吹かせた。Wikiハヌマーン
 
 
 
 
 
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 ハヌマン・ラングール モデルとなった猿
 
 
ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』では、ハヌマーンは猿王スグリーヴァが兄ヴァーリンによって王都キシュキンダーを追われた際、スグリーヴァに付き従い、後にヴィシュヌ神の化身であるラーマ王子とラクシュマナに助けを請う。ラーマが約束通りにヴァーリンを倒してスグリーヴァの王位を回復した後、今度はラーマ王子の願いでその妃シータの捜索に参加する。そして羅刹王ラーヴァナの居城、海を越えたランカー島にシータを見出し、ラーマに知らせる。それ以外にも単身あるいは猿族を率いて幾度もラーマを助けたとされており、その中でも最も優れた戦士、弁舌家とされている。
 
今でも民間信仰の対象として人気が高く、インドの人里に広く見られるサルの一種、ハヌマンラングールはこのハヌマーン神の眷属とされてヒンドゥー教寺院において手厚く保護されている。中国に伝わり、『西遊記』の登場人物である斉天大聖孫悟空のモデルになったとの説もある(これについては中野美代子『孫悟空の誕生 ― サルの民話学と「西遊記」』(1980年 ISBN 4006020503)が参考になる)。
http://syoya44.exblog.jp/
 
 
 

猿田彦
 
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邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は八咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来たのであった。
 
邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った(日本書紀では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
 
猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(現松阪市))の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神様が生まれた。
倭姫命世記(神道五部書の一)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
Wiki猿田彦
 
 
 
伊勢津彦
伊勢津彦(いせつひこ)は、『伊勢国風土記』逸文内に記述される国津神で風の神。元の名を出雲建子(イズモタケコの)命、またの名を櫛玉(クシタマの)命というが、逸文一説内の記述である(国号由来とは別の地名由来が語られている)ため、本項では国号由来となった「伊勢津彦」の神名で統一する(「系譜と別伝」も参照)。大和系統の柱ではなく、出雲系統に属する柱である。

伊勢津彦とは、『伊勢国風土記』逸文に見える神武朝の神であり、同書によると、伊賀の安志(あなし)の社に坐す神で、出雲神の子であり、またの名を出雲建子命、天櫛玉命といい、石で城を造って居住していた。神武東征の際に、神武が派遣した天日別命に国土を天孫に献上するかを問われ、はじめに否と答えたために討伐されそうになったので、居住していた伊勢を風濤に乗じて去った、と記されます。その後補の文には、「近くは信濃国にいる」と記されます。http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/isetuhiko1.htm
 
 
 
 
ハヌマーン
風の神
サルの軍団長
サルの化身
大柄で金色の肌とルビーのように赤い顔
長い尻尾を持ち雷鳴のような咆哮を放つ
果物を間違えて持ってくる
ヴィシュヌ神の化身ラーマを助ける
孫悟空のモデル
 
猿田彦
目はホオズキ(あかかがち)のように照り輝いている(八岐大蛇と同じ)
天の八街で天孫を道案内する
空を飛び、ひとり伊勢にゆく
妻はアマテラスの踊り子
 

伊勢津彦
風の神
国土を譲るかと問われる
出雲の出身(出雲の風となると出雲国造家の鍛冶を思い起こさせる)
出雲タケルのモデルか。
諏訪の風の神建御名方と同一神か?
この神のことが記紀出雲神話の元で、伊勢神宮創建のはなし は、つまり出雲国譲りとまったく同じ話になっているわけである。
要するに出雲国譲りなど実際にはなかったのではないか?
 
 
 
 
 
 
 
このように猿田彦のモデルはインドの叙事詩『ラーマ・ヤーナ』の猿神・風の神ハヌマーンだとわかる。風貌がそっくりであるが、ルビーのような赤い顔のところを記紀は「赤いほうずきのようだ」と、まるで八岐大蛇の目の表現と同じにしてある。暗に猿田彦の出雲の神であるのをちらつかせてある。

伊勢津彦は伊勢の猿田彦神社に国を伊勢神宮建設のために譲った風の神だと書いてある。つまり伊勢の地主神で猿田彦その人とも言える。この三人はいずれも神や天孫や天皇のために働く国津神だと見られる。その点で共通。中国では孫悟空は三蔵法師をこれまた助ける猿。たすけるを一文字で「佐」と書く。だから猿田彦は出雲佐多大神を匂わせてあり、出雲国造が「出雲神代詞」で大和を助けると宣言することとリンクする。ということは「さたのおおかみ」の「さた」とは大和からの「沙汰=命令」を届ける役目の国造となるので、佐多神社とは大和が出雲に置いた国造の執務室であるとなる。行政管理局、国の庁舎。

では伊勢もそうである。
新しく入ってくる天皇家の信仰を、在地先住氏族が邪魔しないように目を配るのが伊勢津彦の役目になる。だから知事。つまり伊勢国造となる。
 
いずれにしろ、記紀の編者たちは飛鳥時代末期に、インドの神話を読んでいたことになる。
このように日本の神話にはけっこう広範囲な海外の伝承が、形を変えて取り込まれていて、当時のグローバルな外交がしのばれるが、その一番の取り込み手は蘇我氏や称徳・皇極女帝だったと考えられる。蘇我氏の外交のおかげだったのだろう。
 
猿田彦や伊勢津彦に製鉄と出雲のイメージを持たせたのは、スサノヲ神話をインドから持ち込んで出雲に突っ込むためでもあるだろう。スサノヲの八岐大蛇退治などは出雲国風土記にはないのだが、どうしても製鉄を奪うのが自分たちとしたいがために天孫アマテラスの弟を一度出雲に入れさせ、それを本当の出雲の地主神オオナムヂが受け継ぐとしたかったわけだ。

ヤマタノオロチが製鉄と砂鉄を思わせる赤い目で、斐伊川を思わせる山を背負った大蛇であるのは、やはりインドのナーガ神を持ち込み、それを敵としたのは古志の氏族であることを言って、ついでに富山もこっちのものだったと言いたかったのだろう。だから伊勢津彦らには出雲の兄弟の弟であるタケミナカタのイメージがかぶさっており、どれもこれも先住者が渡来によって平定され、案内人となり、土地も譲って臣下になったんだということが書いてあることになる。もちろん書いてあるだけのことで、彼らは本当には負けておらず、臣下という名前の協力者になっただけのことである。臣下だと言っているのは大和側の主張である。

本人たちはまたいつでも順位は逆転できるから国を譲るのである。猿田彦は勝手に海で死んだのであって、これは出雲の兄である八重事代主と同じ最後である。死んだのではなく隠れたのであるから、その子孫は別のところに、少彦名のように移住したのだろう。そりゃそうだ、国をとられてわけのわからん太陽の巫女を祭られたんだから。本来、太陽神を祭ってあるところにアマテラスなどという祭祀者を祭られて、それじゃあ神じゃないじゃないのと思うのが、海人族にとっては当然。出雲はアマテラスを祭られなかったんだから、まだましか?いやいや、安心させておいて、実は神殿に彼女はちゃんと祭られてますって。しかもオオクニヌシは西を向く、アマテラス天神五座は前を向く。おいおい。

日本の神で風神は国神、雷神は天神となっているからご注意。
ハヌマーンもまた風の神で王家の別格に置かれているのを真似てあるのだ。

さて大国主は諸氏誰もが出雲の地主神であると信じておられようが、出雲の国神はオオナムヂであって、大国主は葦原中国の神で、つまり日本全体の国土神なのだと考えたことありますか?なぜってオオクニヌシは大和のみもろの山=大三輪山に大物主と一緒に祭られたわけでしょう?つまりヤマトの地主神でもあるわけだ。その大和の国造は先住海人族である倭国造である。つまり倭国造は出雲の人でもあろうとなる。記紀の出雲の出来事は、何も出雲だけの話なのではなく、全国のそういう先住氏族にも共通する話にしてあるのだ。おまえたちもそうなるぞ、とともに、おまえたちの先祖もそうされたんだぞである。おまえたちはとっくに忘れているだろうし、中には間違って氏族の間に流布している伝承があるだろうが、それは間違っているんだぞ、なのである。その証拠に『古事記』編纂の宣言の中で天武天皇は「こなままでは間違った伝承ばかりが広がる。今こそ正しい伝承を作らねば」と言っているのだから。

ほんとうをうそにしてしまう、この強引なやり口。

しかし逆に考えれば、天尊族つまり渡来人が、いかに倭国の中で孤独だったかも見えてくる。仲間が少ない。周囲の臣下は全部自分より先に大和に住んでいた人々。ひとたび彼らが結束したら、ひとたまりもなく海外追放もありうる。上げたり下げたり、懐柔したり、仲良くしなくちゃならなかったわけである。だからこの国は今も政治が「なあなあ」なのである。
 
 
 
 
 
水先案内、佐の氏族は、だいたいその後ひどい扱いを受けることになっている。
 
蘇我氏も、紀氏も、手研耳もそうなった。ま、利用されたものの宿命だろう。
 
ということは、そもそもほかの氏族はそうならぬよう心がけたことだろうし、そうならなかったものはよほど王家の内部で実力を持ったのだろう。藤原氏の様に。
 
だから息長のような系譜を充分もちあげておかねばならなかったのだろう。息長氏のようにいたかいなかったかがわからない系譜を持ち出し、それが天智以後の今の天皇の母方になっていくこと自体、ちょっとありえないのである。
 
 
 
 
 
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面白かったのでそのまま転載 肌シミから日本人がわかる

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ネタ切れでして。ちょいと転載記事。
 
 
 
 

日本人のルーツ、肌シミの話 (縄文肌と弥生肌) 【ニュースJAPAN】

フジテレビ【ニュースJAPAN】(2011/11/25)
 
 
 
肌のシミの遺伝子研究が日本人のルーツ解明に繋がりそうというニュースをやっていたので記録しました。
 
 
 
001
 
 
 
秋元アナ「さて、日本人の肌のシミを作る遺伝子の分析から、シミが出来やすい縄文肌と出来にくい弥生肌の存在が浮かび上がってきました。
化粧品会社と国立科学博物館のコラボ研究は、日本人のルーツ解明にも一役買いそうです。」


002
篠田氏「こちらがですねぇ、縄文の人骨から復元した縄文人の男性なんですね。
 
 
003 
 
 
鼻筋の所を見ていただくと、1回へこんで、鼻が高くなっているということがわかると思います。
004 
 
 
こちらは弥生人になるんですけれども、全体に顔に凹凸がないというのが弥生人の特徴と、、」(国立科学博物館人類史研究グループ長)
いにしえより日本列島に住み着いていた縄文人。

その後に、大陸から海を渡りやって来た弥生人。
未だに多くの謎が残る日本人のルーツに、今、意外な分野からのアプローチが進んでいる。
 
最先端の美容研究を行うポーラ横浜研究所。
研究員の本川智紀さんが目下取り組むのは、シミのできやすさの分析。
 
 
 
005 
 
 
本川研究員「今回、我々が着目しているものは、この『MC1R』というたんぱく質です」(ポーラ化成工業)
 
006 
 
MC1Rというたんぱく質は、紫外線から肌を守るメラニンの量を調整する役目を持つ。これが正常に機能しないと、シミの原因になる。
今回の研究では、日本人251人のMC1R遺伝子の解析が行われた。
その結果・・
本川研究員は「MC1R遺伝子は、日本人では大きく2種類のグループに分かれるということが分かってきました。
そして、そのうちの1つが、シミができやすい遺伝子で『縄文型』、もう1つのタイプをシミができにくい『弥生型』という仮説をもって、今、さらに研究を進めている状況です。」
 
 
008
 
 
遺伝距離という指標などを基に本川さんが推測したところ、この2種類の遺伝子は、数万年以上前に枝分かれしたとみられる。
 
 
 

009
 
 
このことから、縄文人と弥生人という別々のルートで日本へと入ってきたという仮説を立てた。
 
 

010 
 
 
 
さらに、シミのできやすい縄文型の遺伝子はヨーロッパやインドに、シミのできにくい弥生型は東アジアに多く存在し、これは縄文人、弥生人のルーツともマッチするという。
現在は、縄文人のDNAとの照合を進めており、早ければ来年にも結果がわかる見通しだ。
 
 
 
011 
 
 
 
本川研究員「(自信はありますか?)はい、我々が今あるデータから考えると、その可能性は高いというふうに考えています」
早めのシミ対策に役立つと期待される今回の研究。
まだ一般では行われていないが、番組スタッフの肌タイプを特別に診断してもらった。
 
 
 

 
 
 
 
 
診断は、眉毛や髪の毛など数本からMC1R遺伝子の分析を行い、最短5時間ほどで肌のタイプがわかる。果たしてその結果は・・
 
014 
 
本川研究員「(縄文型だと思っていた)こちらの方は、弥生型でした。この方は、日本人の約60%いらっしゃいました。日本人の中では一番シミになりにくいタイプです。
そして、(弥生型だと思っていた)こちら方なんですけれども、こちらの方は縄文型と弥生型の混合タイプでした。こちらの弥生型だけをお持ちの方よりも、約2倍程度、シミになりやすいという結果でございました。」
 
 
015 
 
 
本川さんによると、縄文型と弥生型では、シミのできやすさに最大でおよそ4倍も違いがあり、混合型の30代と弥生型の40代のシミのリスクは同じレベルだという。
 
 
 
 
 
 
 
 
016 
 
 
 
篠田謙一氏
弥生系の遺伝子っていうのは、基本的に近畿地方を中心とした日本の中心部に多くて、北海道であるとか、あるいは沖縄なんかには逆の遺伝子(縄文系)が多いだろうということは、いろんな実験から言われてるんですね。
 
 
017 
 
 
実証的に研究できればですねぇ、それ自体が日本人の成り立ちというものを考えるときに、非常に重要な情報になるだろうと、、」
以上
 
 


 
 
この番組見落としていたなあ、面白そうな。
 
 
 
 
読みやすく編集した功績だけです。
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武内宿禰とは誰かシリーズ3 では内とは宇治、そして渦か?日本人一万年の邂逅

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武内宿禰と甘美内宿禰は「うち」の氏族である。
それは内臣(うちつおみ)の代表ということになる。
彼らは紀氏という氏族集団の中で兄弟つまり同じハラカラから出た。
 
そして「うち」は濁って「うぢ」なのであるが、では「うづ」でもあったのか?
倭直氏(やまとのあたい・うじ)の祖・珍彦(うづひこ)の「うづ」は物部氏の系譜に出てくる「うつ」という集団の欝色雄命 ( うつしこおのみこと )の「うつ」. と同じく渦=生命の再生模様をステータスとした氏族だと考えていい。渦とは例えばある人間の持っている輪廻の姿でもあった。
 
 
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福島県浜通りにある清戸迫横穴古墳の壁画。先の大地震でかろうじて破壊をまぬかれた。
 
 
 
海人族が古くから移住していた福島の海浜地帯にあるこの横穴墳の壁画には、人物の肩口から彼の魂とおぼしき渦巻きがまるでオーラのように噴出す画像が描かれている。これによって渦こそは世界中で、まずは海洋民族の太陽信仰に伴って始まる、生命の復活、再生の象徴であったことが理解できるのである。
 
 
つまり海人族にとって生命の始まりが太陽なら、その蘇りを現すのは渦だった。
 
 
渦=内=宇治=氏つまり運命共同体=氏族を永遠につなぐもの、なのである。
 
 
であるならば、すぐに理解できるはずだ。
 
 
武内の「うち」は紀氏が弥生時代の山背で最初に住まった宇智郡の「宇治」(小倉遺跡)であり、次に住まったおとなりの紀伊郡の深草(深草弥生遺跡)の弥生人なのである。それが次に山背南部内里、宇智郡を経て、大和宇智郡に住まったのだろう。
 
 
そしてそこのすべてに紀氏とともになぜか南九州の隼人が隣接して住み、大隅・大住・阿多などの地名が残されたわけである。
 
 
これはいったいなぜなのかをちゃんと解明できなければ、武内宿禰という「うちつおみ」の正体はわかるはずもない。
 
 
この国にいた海人族にはどういう種族があったか?
それらはまったく別々に独立して動き続けたのか、それとも海のネットワークで常に知識と血脈を共有してきたか、である。当然、後者であろう。なぜなら海と言う危険な交通網を単独では誰も動けない。詳細な海図は常に共有されるものだからだ、つまり海人族はあらゆる民族の中で、最も死に近いところを棲家とする民族だからだ。太陽も、星も、ウミヘビも、より来る精霊も、シャーマニズムも、彼らの中から最も濃い色合いで派生する。
 
それだけ彼らの先祖達は、はかなく死んでいったのである。それが経験と知識を彼らに持たせた。生命の再生、魂の復元がかなわぬことを彼らは痛いほど知っていた。だからこそ太陽信仰はいっそう輝きを増したのであろう。
 
 
 
 
南より寄り来るウミヘビと、北から寄り来る白熊は、海路で陸路で出遭う。それを1万年の邂逅、と筆者は感じ取っている。はるかなる大陸のどこかで起きた人類の分岐から1万年後、はらからたちは、この狭小な島国で再会する。そのはかない確率を思え。まるで奇跡ではあるまいか?それは海流がひき起こした運命の奇跡なのだ。ぼくたちはその運命の奇跡が作り出した悠久の歴史の果てに、この世に生を受けた、世界でも希なひとりなのである。生きよ、生きてつなげ、稀有な生命の円環をつなげ。
 
 
 
 
 
 
 
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インターバル・世界の渦=生命を過去画像で

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これまでこのブログでは、古代人の渦巻きと再生の死生観について、世界各地の遺跡を記事にしてきた。
その画像のいくつかを並べておきましょう。
 
 
 
 
纏向遺跡弧文円盤の渦巻き
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このスタイルは巻貝を切り取った断面そのもの。
 
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渦は貝殻の中にあった・・・。
 
 
 
 
 
 
 
それとまったく同じものが古代ケルトの意匠にもある。
その年代差は数千年もあるのに。
 
 
 
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それは南半球のアボリジニですら
 
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古代エジプトの太陽信仰でも、やはり太陽が渦巻きの絵柄になって、最も貴重だった船の真上に。舟は死者の命を太陽へと運ぶもの。
 
 
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太陽がそのまま円文になったのは、そこに生命の渦巻き=永遠を見たからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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エジプトのラー=太陽神にはセトのような巫女王(日本では日子・比)が寄り添う。比の「」は音が「よう」で太陽と同じ。羊に口でしゃべる美人である。美人の「美」にもちゃんと羊が乗っかっている。中国で美の代表は羊の毛並みだった。
 
 
 
 
 
 
縄文人も・・・
 
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弥生人も、古墳時代人も、そしてなんと江戸時代でも・・・
いや現代の意匠もまだ
 
 
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太陽=生命
渦巻き=永遠=再生・・・・を願い続ける・・・
 
 
 
 
 
 
インド人も
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中世西欧人も
 
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なぜ共通するのか?
それは海洋民族たちの永遠の願望である再生が、太陽と言う生命を生む母の胎内を表そうとした結果。
また生命を生み出す「海」こそが「産み」の語源だったから。
だから太陽のいます空も、貝殻と渦を持つ海も「あま」「あめ」、海人も「あま」。貝を採る人々も「海女・海士 あま」。海人族も海部も「あま」。
 
 
 
海と山・・・。
山に降る雨は、海へと流れ出しプランクトンを育て、それを食べて小魚は育ち、それを食べてカツオは育ち、それを食べて勇魚は育ち、輪廻転生し、また循環の輪を形成し、死んで再び栄養素となり還元され・・・リーインカーネーションとナース・ログを繰り返し、あなたが生まれ、私が生まれ、そして死に、子が孫が・・・
 
 
 
 
 
 
 
はるかな永遠の繰り返し。
それこそが種の生存。
つないでつないで、バトンを渡して、永遠に繰り返すことこそが不老不死。
 
 
 
 
だから宿禰も300年、浦島太郎も300年、海幸も300年、何度も何度も同じことが、主人公を変えながら書かれねばならない。
 
 
 
 
それはひとりの人間の長寿などではなく、氏族のつながること、すなわち氏族が亡びず繁栄してゆくことを指している。
 
 
なんと賢い人類。
 
 
 
なんとはかないひとりの生命。
 
 
 
なんと切ない観念なのだろうか、永遠とは。
 
 
 
 
 
 
 
いつかわたしの氏たちの中から、誰かカリスマは現れ、きっと歴史に残されることだろう。ぼくはそのための「捨て石」。けれどそれは、人類、はるかなる継続の中の、どれもが輝く星屑。
 
 
 
 
 
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天武天皇誕生日と聖徳太子没年の関係・関祐二「天武は蘇我氏の子」説

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新潮社Foresightサイトに先日、歴史研究家の関祐二が面白い仮説を書いている。
 
 
 


 
 

「権威」を疑うと見えてくる「聖徳太子」「天武天皇」本当の関係
関裕二
 
執筆者:関裕二
2014年10月8日
前略
■天武「生年」の謎
  「15世紀前半に編纂が始まった『本朝皇胤紹運録』(皇族の系譜)によれば、天武天皇は推古31年(623)に生まれ、朱鳥元年(686)に亡くなり、65歳だったとある。しかしこれだと計算が合わず、その上、『日本書紀』で推古34年生まれとされている兄・天智天皇よりも年上になってしまう。
 
  もちろん史学者たちは、この記事を無視する。「65歳は56歳の誤り」とする説もあるほどだ。
 
  けれども、中世文書のほとんどが、天智よりも天武が年上としているのはなぜだろう。『日本書紀』の主張に対し、声を合わせて反論しているとしか思えない。
 
 
■「本当の父」は蘇我氏系?
 『日本書紀』は、天武天皇の生年と年齢を記録していないが、もし仮に中世文書の主張が正しく、『日本書紀』が天智と天武の兄弟関係を逆に記しているのならば、『日本書紀』編者に何か「動機」があったはずだ。
 
  こういう考えがある。天智と天武の母・皇極天皇(重祚して斉明天皇)は、舒明天皇に嫁ぎ天智らを生む前に蘇我系の高向王(たかむくのおおきみ)と結ばれ、漢皇子(あやのみこ)を生んでいたが、漢皇子こそ、天武の本当の姿ではないかというものだ。すなわち、天武は蘇我系皇族だったというのだ。
 
 『日本書紀』は、古代史の根幹を揺るがしかねない巨大な隠蔽工作を行ったのではあるまいか……。ここで注目されるのは、聖徳太子である。
 
 『日本書紀』は「聖徳太子は推古29年(621)に亡くなった」と記録するが、百科事典を調べれば分かるように、一般にはその翌年に死んだと考えられている。それはなぜかといえば、法隆寺や中宮寺に残される金石文に「聖徳太子は推古30年(622)に亡くなった」と刻まれているからだ。なぜここだけ、通説は『日本書紀』の記事を採らなかったかというと、金石文は聖徳太子の死後すぐに作られたと信じられているためだ。
 
  しかし、どうにも不可解だ。なぜ、『日本書紀』は、皇室の聖者としてもてはやされた古代の有名人の死亡年数を誤って記録したのだろう。信じがたいことではあるまいか。恣意的な隠蔽工作の匂いを感じる。
 
  聖徳太子の死亡年と中世文書の示す天武の生年を重ねてみると、興味深い事実に気付かされる。それは、もし『日本書紀』の証言通りなら、天武は聖徳太子の死の2年後に生まれたことになるが、金石文の証言を採用すれば、翌年ということになる。しかも中世文書は天武天皇の年齢を間違えて計算していることがあるが、なぜか誕生の年は推古31年だと言い張っている。じつは先述した『本朝皇胤紹運録』もそうなのだ。ここに、中世文書の「本当にいいたかったこと」が、隠されているように思えてならない。
 
  そこで筆者は、意地の悪い推理を働かせる。
 
 「『日本書紀』は聖徳太子と天武の関係を抹殺したくて、聖徳太子の死を1年繰り上げ、さらに、天武の生年を隠匿したのではなかったか」
 
  つまり、天武が聖徳太子の子供だったと推定するのだ。とすると、聖徳太子とは高向王だったことになる。父の死の翌年に子が生まれていたなら、計算上親子関係を否定できなくなる……。だからこそ『日本書紀』は天武の生年を抹殺したのではなかったか。
 
  天武を聖徳太子の子と考えると、古代史の多くの謎が解けてくる。天武は反蘇我派の天智と対立していたし、壬申の乱(672)で天武は窮地に立たされたが、蘇我氏の後押しを受けて勝利している。天武を蘇我系皇族とみなせば、これらの謎が解けてくる。兄弟で敵対する別々の派閥に支えられていた意味がはっきりする。
 
  もちろん、この考えはまだ仮説だが、少なくともこれだけは言えるだろう。『日本書紀』という権威を、あてにしてはならないということだ。権力者の描いた歴史書を信頼していては、いつまでたっても本当の歴史は解明できないのではないだろうか。」

 歴史作家 関裕二
Foresight(フォーサイト)|国際情報サイト
http://www.fsight.jp/
http://www.fsight.jp/29797
 
 
 


 
 
法隆寺金石文とは何を指しているのだろう?
おそらく例の光背銘文のことかと思う。中宮寺のほうは不明にして知らない。

天武が兄天智よりも年長だったというのは、おそらく複数の記録にあるから『日本書記』よりも信憑性があるだろう。筆者は天智、天武そのものの存在を疑ってしまう立場で、はなっから『日本書記』記録の二人の存在からして作り話だったと考えている。

日本の史書の不確実さをよく表している箇所は、なにも『日本書記』だけではなく『古事記』にも、その書かれた前提から奇妙な記述がある。
『古事記』はその序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)が編纂し、元明天皇に献上されたことになっている。
「成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。」Wiki『古事記』
 
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
 訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。
 
一方『日本書記』は、『古事記』と異なり、成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
大意
「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」

ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる。

ということは『日本書記』よりも先に編纂され、天武天皇は生前、最初から二つの指示を出して、二つの史書を作らせようとしていたことになるのである。これは奇妙なことである。
『古事記』よりも8年あとに成立した『日本書記』の編纂事情は、明らかに『古事記』の太安万侶、稗田阿礼の二人によった編纂による天武の正史編纂指示と矛盾してくる。

古事記編纂に先立ち、 諸家の帝紀、本辞(旧辞)があったようである。別名として「帝皇日継」(すめらみことのひつぎ)、「先代旧辞」(さきつよのふること)とも記されている。これを仮に「正真正銘の古史古伝」と命名する。「正真正銘の古史古伝」は何文字で書かれていたのかも分からない。恐らく、今日では痕跡が消えている古日本文字で書かれていたのではなかろうか。そういう意味で、古事記は万葉仮名で「帝紀を撰録」、「旧辞を討覈」したものと云うことになる。
 
 711(和同4).9.18日、元明天皇の御代、元明天皇が、大安万呂(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼詠みまとめていたところの歴史書の編纂の詔を下す。

それを稗田阿礼が暗誦して詠唱し、それを太安万侶が書き取った。さらにそれを

  712(和同5).正月28日、元明天皇の御代、大安万呂は、天武天皇の命を受けて始めた国史として古事記3巻を編纂し、持統、文武の時代を経て元明天皇に献上した。これが我が国初の国史書となった。実際には古事記以前の国史書の存在も推定できるが残存しておらぬ為、古事記が史上最も古い国史書と云う歴史的地位を獲得している。

 だから太安万侶の序が正しいとするならば、天武が命じて完成した史書は『古事記』だけのはずだ。そこで『続日本紀』は天皇は舎人親王に別の史書編纂を命じていた。この「天皇」はおそらく元正女帝だろうから問題はない。しかし「天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる」というのは、どう考えても天武が安麻呂に・・・と重複指示を出していたことになってしまっているのである。

学者の解釈は天武の川島皇子らに編纂させた原「日本紀」を、安麻呂がさらに編集して『古事記』に使ったというのだが、それでは稗田阿礼はなんだったの?となってしまうわけだ。
 
安麻呂がわざわざ序文に明記した内容は、『日本書記』ではまったく破棄されてしまうのである。しかし史書はふたつともに今に残されている。これは不思議なことである。もし『日本書記』が『古事記』内容を消し去るつもりなら焚書されていてもおかしくない。
 
このようにどうもあとからできた『日本書記』成立過程からして、どうも『書記』は怪しい文献なのである。
 
『古事記』が正しいという視点で見れば、天武の意思ではじめられた史書編纂は天武を健勝してあって当然。『古事記』序はちゃんとそういう書き方で、天武が壬申の乱がいかに勇壮なものだったか、天武が勇ましかったか、敵の大友がいかに女々しく死んだかを言ってある。つまり立場として『古事記』は整合だが、『日本書記』は成立過程も明確にしておらず、天武よりも天智・大友が正統だったことをさまざまな手を用いて表現しようとしてある。
 
だから『日本書記』が繰り返し同じことを言い募ることは、あくまで天智のためのリフレインであるのに対して、『古事記』は天武のために同じエピソードの繰り返しをしていると見ている。これは大きな違いを生むことになるはずである。
 
そうした中で、『日本書記』の飛鳥時代~持統天皇までは、どこまで信用できるかである。
聖徳太子の死去年のすぐあとに天武が生まれていたならば、天智と天武の兄弟関係は疑われて当然である。もしふたりにそもそも兄弟関係がなかったとしたら、そして天武が蘇我氏血縁だったとすれば、関が言うように、天智の異常なまでの百済重視と天武の新羅重視外交の対立が乱となって表出したとして矛盾はなくなるのである。
 
ただし、天武時代にはすでに百済や高句麗はあらかた滅んでおり、外交相手にならなくなったわけなので、残るは新羅しかなかった。そこで判断題材になるのが、日本国号の中国への表明、天皇号の同じく表明が重要になる。それは天武晩年のこととされるのが定説で、生きてそれを名乗ったのが持統天皇であることからも、新羅だけではない、東アジア外交へのデビューを意識したのは『日本書記』のほうであるわけである。ところが現実の持統外交はなぜか中国との交わりはほとんどない。遣唐使派遣を見ても天武から女帝時代がすっぽりとぬけており、天智と文武のあいだが一回もなかった。ということは天武が果たして蘇我氏のようなグローバル外交を目指したのかどうかはなはだ疑わしくなってしまうのである。
 
もちろん白村江敗北による天智以後の唐との疎遠は、天武にはいますぐ中国とというのはあるにしても、持統も元明・元正もというには不思議である。しかもその間に『日本書記』は製作され、そこには中国への日本・天皇国家体制が整った律令国家だったとある。このあたりがやや気になった関説だった。みなさんはいかがお考えでありましょうや?
 
 
 

 
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