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鼻根/外見上、縄文人と弥生人をわけるもの

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人類学・考古学
 
 
鼻根(びこん)=鼻の付け根
縄文人は非常にくぼんで鼻本体との落差がはげしい。つまり彫が深い。
弥生人は平坦で、ひたいかと鼻筋の間にあまり落差がない。つまりのっぺり見える。鼻が高い、低いという表現はあいまいである。人類学で鼻根が深い、浅いという。
 
 
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【歴史のささやき】あり得ない弥生人骨の出現 山口

産経新聞 10月10日(金)7時55分配信
 
 □土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸氏

 わが目を疑った。

 このような弥生人骨が「土井ケ浜遺跡」から出土するはずがない。昭和57年10月26日のことである。私は土井ケ浜遺跡の第7次調査に参加していた。憧れの遺跡であり、土井ケ浜遺跡の発掘調査に参加することができただけでも奇跡に近い。

 目の前に、2千年の眠りから覚め、まさに出土しようとしている人骨がある。はけやブロアーを使い、顔面を覆っていた砂を慎重に取り除いた。保存状態はきわめて良好である。

 ブロアーで鼻根部(鼻の付け根)の砂を吹き飛ばした瞬間、目がくぎ付けになり全身がフリーズした。鼻根部が深くくぼんでいる。これまでに見つかった土井ケ浜弥生人の特徴ではない。

 土井ケ浜遺跡の発掘調査は昭和28年から32年までの間、5次にわたる発掘調査がおこなわれ、約200体もの弥生人骨が出土した。当時、弥生人骨の出土は全国でも皆無に近かった。その後の研究の成果で、土井ケ浜弥生人は、顔が高く(長く)、顔面は扁平(へんぺい)で、高身長であることが判明した。

 ところが、私の目の前にある人骨は、これまで発掘されたものと、あまりに顔つきが違う。

 「この土坑墓は本当に弥生時代のものですか?」

 山口県教育委員会の担当者に思わず聞いてしまった。担当者は不可解な表情で「弥生時代の墓ですけど、どうしてですか」と問い返した。

 「実はこの人骨の顔面には土井ケ浜弥生人の特徴はみられず、どうみても縄文人の顔なんです」

 これが私が土井ケ浜遺跡で出会った初めての人骨(701号人骨)だった。

 この時の衝撃は鮮烈で、今も目を閉じると、そのときの光景が蘇る。

                   ◇

 701に寄り添うようにして埋葬されていた人骨(702号人骨)は、これまで知られている土井ケ浜弥生人そのものだった。どちらも男性だが、顔もプロポーションも対照的で、異質である。

 701は、顔の高さ(長さ)が短く、横幅が広い。「低・広顔」という。眉の上「眉上弓」が隆起し、鼻骨も隆起しているので、鼻の付け根(鼻根部)が陥凹(かんおう)している。いわゆる彫りの深い容貌だ。身長は158・8センチしかない。これらは縄文人の特徴なのである。

 一方、702は、顔が高く(長く)、横幅が狭い「高・狭顔」だった。鼻は低く、鼻根部は扁平で、彫りが浅い。身長は165・9センチもあった。

 これほど身体的特徴が違う弥生人が、なぜか寄り添うようにして、埋葬されている。一体、この2人はどのような関係にあったのであろうか。

 土井ケ浜弥生人のなかには701のような縄文人的形質をもった人骨は他にないのだろうか。もし、この1体だけとしたら、701とは一体何者なのであろうか。第7次調査を終え、土井ケ浜遺跡を後にしても、このような疑問が次から次へとわき上がった。

 土井ケ浜弥生人のルーツを探る、長い旅がこの瞬間、始まった。

 まさか、土井ケ浜弥生人が沖縄などの琉球列島や大陸と深い関係があろうとは、この時は予想もしなかった。

                   ◇

 九州・山口地方は長い歴史に彩られ、往時をしのばせる遺跡や遺物、伝承も多い。こうした歴史のささやきに、耳を傾けてきた専門家の話を聞く。(随時掲載)
 
 
 
 
 
 
 
 
これが縄文顔
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鼻根がビコーンとくぼんでいる。
 
 
 
 
 
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弥生人のはのっぺりたら~~~ん。くぼみが平坦。
 
 
 
 
 
 
そうなる理由は弥生人・・・というよりも弥生時代人・・・というよりも新モンゴロイドだが、寒冷地対応したから。
 
 
つまりそれは原種からの環境変化であり「進化」だ。
 
縄文人は原種に近い。変わっていない。つまり寒冷地対応していない。=歩いて北方へきたのではない=馬やラクダや舟を使った、となります。
 
 
 
 
 
 
あなたはいかが?
 
ぼくは縄文型です。
 
 
 
 
 
さて、弥生人とか縄文人と言うこれまでのざっくりしたくくり、区分はもうだめです。なぜなら縄文も弥生も実にさまざまな人種がやってきたからです。
 
 
 
弥生時代初頭にはまだ縄文人がいます。
それも弥生人です。弥生時代の人が弥生人だからです。
あいまいですね。
 
 
でも人種はさまざまです。
 
 
縄文人は北海道から入ってきます。南西部~中央部は蝦夷・アイヌです=擦文文化(さつもん)。でも道北・道東は北方大陸人がいろいろ来ました=オホーツク文化。
 
それは本州以南が9世紀になってもまだまだ来ています。12世紀でもです。
アリュート、モンゴル、古ギリヤーク、往古には靺鞨とか女真族です。
 
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鈴木靖民『日本古代の周辺史』2014より
 
 
 
ところが北海道や東北からはるかに離れた西日本の山口県の土井が浜には、たった一体でしたが縄文人らしい骨格の人が、ほかの弥生人的つまり渡来人の骨格の人たちの中に混じっていたのです。だから学者の先生は当時、びっくり仰天したのです。
 
 
しかも、その701号さんは、体格や顔の幅なども東北縄文人でした。
顔が横に広く、背が低い。眉骨が高く、鼻根部が深く鋭利にくぼんでいて、鼻筋が高い。いわゆるメガネが乗せやすい顔。ほかの渡来系土井ヶ浜人は、頭が丸く、顔は面長で扁平であり、四肢骨は長く、男性の平均身長は縄文人より3-5センチメートルほど高く、163センチメートル前後です。
 
 
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さて、いったいなぜ彼は渡来人たちの中にまじっていたんでしょう?
 
 
仮説は今のところこうなっています。
 
 
「長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。

松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。
この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホウラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。

一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。

九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。
中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。

国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。

父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。
もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。

縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。」
 
 
 
 
 
 
 
土井が浜ミュージアムの松下館長は、この記事で暗に701号は琉球人ではないかと考えて、次回も記事が続くようです。琉球人?つまりあの港川先史時代人の子孫です。なぜか?
 
 
そう、貝の道です。
 
701号さんは南海のゴホウラガイの腕輪をしていたのです。
 
 
 
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ゴホウラガイはあの纏向の弧文のモデルとなった渦巻きを内部に秘めた、貴重な貝でした。ここの渡来人たちも永遠を求めて竜宮城を目指した人たちだったのです。それは主として西九州を中継地として摂津や大和、遠くは南西北海道の苫小牧まで運ばれています。ということは土井が浜の渡来人は西九州の菜畑あたりから日本海を、なんと琉球人の貝加工職人を引き連れて渡っていった人々だったと考えることが可能です。
 
 
イモガイも北海道や東北からも出ています。東北縄文人は土器でほら貝を作っていますし、イモガイを真似た土器も作りました。それは容易には手に入れられないお宝だったからのあこがれからでしょう。しかし西九州人はその琉球で加工された現物を、北国へ運ぼうとしていたのかも知れません。山口はかつての出雲文化の西の端ですから、出雲を中継して、能登、富山から新潟などの潟湖経由で秋田から津軽そして苫小牧へといく途中で、いくさにまきこまれました。きっとゴホウラの取り合いではなかったでしょうか?
 
 
 
次の松下氏の記事が楽しみですね。
 
 
 
 
松下氏の記事はヤフー考古学ニュースのリンクから転載しました。
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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武内宿禰とは何者か4 「宿禰」徹底追跡 そのはじまりは葛城襲津彦=越人倭族

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「宿禰」徹底追跡
宿禰とは?
「古代の姓 (かばね) の一つ。古くは人名につけた敬称であったが,天武 13 (684) 年の八色の姓 (やくさのかばね) 制定で第3位の姓となった。主として従来,連 (むらじ) 姓をもつ者に賜与され,真人 (まひと) ,朝臣 (あそん) に次いで高位を占めたが,奈良時代後半以降になると,出身を問わず,功績などのあった氏などに与えられるようになった。」
ブリタニカ国際大百科事典
 
 

「古代日本における称号の一つ。後に姓(かばね)になる。宿禰は,古く足尼とつくり,もっとも古い用例は,埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘に〈多加利足尼〉とみえる。宿禰(足尼)は,少兄(スクナエ)の約で,高句麗の官名の小兄に由来するという説もある。古い時代の称号である宿禰は,5世紀半ば以前に,主として畿内地方の豪族が用いていたといわれているが,姓となったのは684年(天武13)で,八色(やくさ)の姓の一つ。」
世界大百科事典 第2版

「小兄 すくなえ」と読ませているがそれは日本の「少兄」の読み方であり、中国で小兄しょうけい、高句麗では音読みで「少兄 형 Su-hyau」。
 
 
 
 
小兄(高句麗の官位)
「『隋書』や『新唐書』に見られる官位名も異同が著しいが、いずれも12階となっている。第15代の美川王(在位:300年-331年)の時代になって、次のような王権の下に一元下された13階の官制に整備されたと考えられている。
1.大対盧(だいたいろ)
2.太大兄(たいだいけい)
3.烏拙(うせつ)
4.太大使者(たいだいししゃ)
5.位頭大兄(いとうだいけい)
6.大使者(だいししゃ)
7.大兄(だいけい)
8.褥奢(じょくしゃ)
9.意侯奢(いこうしゃ)
10.小使者(しょうししゃ)
11.小兄(しょうけい)
12.翳属(えいぞく)
13.仙人(せんにん)
 
高句麗の末期に大対盧の位にあった淵蓋蘇文はクーデターを起こし、莫離支(ばくりし)の位に就いて専権を振るった。莫離支そのものの名称は『三国史記』職官志では『新唐書』を引いて12階のうちの最下位の古雛大加の別名としている(ただし『新唐書』高麗伝にはそのような記載はない)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
 
 

そもそも一般的には中国で「大兄 たいけい」=長男に対する次男が小兄である。
何人かいる兄のうち、自分に年齢の近い方を敬っていう「対象語」。
大兄は大和言葉で「おおえ」で、小兄は「こあに、しょうえ、しょうに、女性ではこあね(小兄比売=蘇我小姉君)。「しょうに」は平安時代には少弐だからやはり二番手である。

宿禰が「小兄 すくなえ」の大和での転用であるなら、例えば出雲神話で大国主と対比的に登場する少彦名(那)(すくな・ひこ・な)の出雲の「二番手」的扱いも、小兄からきていると考えてもおかしくなかろう。すると宿禰は八色の姓官位の三番目。十分に「小兄」的官位と言える。
 
 
すると、出雲神話が実は紀氏系譜を王としていた国家で、そこに、葛城鴨の祖である八重事代主やら宗像氏・安曇の祖であろうタケミナカタ?やあるいは高鴨阿治須岐詫彦根がいたのはわかりやすい。要するに武内宿禰も紀氏も飛鳥の先の王家の腹心氏族だったが、その前は日本海の王家だった。それが倭五王政権下では臣下、内の臣とされたのだと。それが本当の国譲りだろうとなる。ならば武内宿禰=蘇我氏説に有利である。また葛城氏の神社に闇龗(くらおかみ)という本来は高龗(たかおかみ・)とセットであるはずの一方だけが祀られるのも説明しやすくなる。闇龗とは雷・稲妻で雷神を指し、高龗は風神だと考えればいいのである。すると前に書いたように風神は皇別、雷神はその外に置かれる別の地位にあったことが非常に納得できるものと考える。
 
 
「龗(おかみ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。」Wiki淤加美神
 
 
高龗・闇龗は火の神カグ土の血液から生まれたわけだからどちらも「鉄の氏族」ということになるのだが、一方は天皇家がかつての出雲王からうばった製鉄技術と読み解けるのである。そうするとにわかにわかるのが天孫の天稚彦と出雲のアジスキタカヒコネがそっくりだったという喪山のエピソードだ。どちらも鉄の氏族で、軍事王だったが、一方は天孫で弓矢の達人、一方は出雲の下照姫(高照とも)を妻にした製鉄氏族。そっくりだが、一方は勝ち組、阿治須岐詫彦根(高鴨神)は負け組み。
 
ゆえに負け組み(大和の出雲族である葛城系譜や蘇我氏)である神社は雷神しか祭れないのである。阿治須岐詫彦根を祭るのは奈良の高鴨神社であり、その摂社が雷神を祭るのだ。高龗・闇龗は同時に祀られているが、それは大和で祭祀を続けるための「従属の隠れ蓑」であろう。また、闇龗は三嶋信仰でも祭神で、こっちは瀬戸内海人族たちが祭る大三島=大山積神社の摂社である。ここから気づくのは出雲地方で四国高松方言の「だんだん」などが混じっていること。それは村上水軍らが日本海でも活躍してきた痕跡とみてとれるのである。ちなみに「むらかみ」は「たむら」と同じように「たもら」「むれ」由来かと思っている。朝鮮語の済州島と山を意味する。
 
どちらの姓名も多分朝鮮由来の氏族である。「伽耶海岸部の倭国つまり金官伽耶」にいた氏族だろう。葛城氏・紀氏とは同じ血脈か?紀州九鬼水軍もそうだろう。また村上水軍の姓は越智であるが、これは越=日本海富山湾地名の高志=越からであろう。ということは彼らをひっくるめて越氏族、要するに遠くは中国越=のちに分裂して越南、百越。黄河文明に押し出されてベトナム北部人に。ドンソン・銅鼓の文化を持ち、なれ寿司や羽人の民・越人を大元にしたと自称しただろう海人氏族。蘇州を本拠地とした。蘇州の蘇は蘇我氏の蘇と同じ。(→滇国)
 
 
 
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蘇州から雲南、そして北ベトナムへ移動していった日本人と同じ遺伝子を持つ氏族
 
 
 
越人は志賀島金印と同じく蛇鈕である。
本体は蘇州海人族。つまり白水郎である。
倭族である。
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さて、「かばね」は姓と書くが、現代の姓名のことではなく、官位・尊称である。
宿禰のつく古代史の人物と言うと、主に連(むらじ)姓の神別氏族に与えられた。
野見宿禰、武内宿禰・甘美内宿禰(うましうちのすくね)兄弟、葦田宿禰などが有名だが、いずれも天武時代にはいなかった人。
 

しかし、天武が採用した官位に、滅亡した高句麗の官位を転用したというのも奇妙ではある。第一、それではゲンが悪い。もし少兄を採用したのならなぜそのまま少兄ですくねではなかったのか?小兄は中国の官位であり、天武が採用するならこっちであろう。それを大和言葉で「すくなえ」と読ませたというのがわかりやすい。
 
 

宿禰を「足尼」と書くのもげせない。どう読んでも「すくね」とは読めない。
ところが「すくね」の最も古い用例が埼玉県行田市 稲荷山古墳出土の鉄剣銘に多加利足尼と彫られていた。これが最古の考古学資料ゆえに文献の言うことより信憑性が相当高い。すると「すくね」そのものは稲荷山古墳の5世紀後半にはすでにあったことがわかる。
 
しかし表記は「足尼」である。『先代旧事本紀』巻第十国造本紀には「甲斐国造。纏向日代朝世、狭穂彦王三世孫臣知津彦公、此子塩海足尼(しおみのすくね)、定賜國造」とあって、記紀よりも信憑性がありそうか?双方から考えれば「足尼」のほうが「宿禰」よりも古いことは間違いない。旧事紀は当初、「足尼、宿祢、宿尼」を別々に使い分けているが、「大尼」などの官位も出てきて途中から「大祢」と書き換わっており、使用法がどこかでこんがらがって錯綜しはじめたようである。するとこういう思いつきもありえる。大海人=大尼。つまり天武を半島の軍人に見立てたのが「おおあま」の名前の真実・・・?
 
ちなみに「尼」は朝鮮語では비구니 音はPigーni。つまりサンスクリット語の「比丘尼」である。最後の音は呉音そのまま。日本語で「びくに」。

半島の高句麗や百済に「軍尼」という官位もあり、これは「くに」と読む。「くね」だった可能性もあろう。現代の「尼」は「に」と音読みするが「ね」であったか、あるいは混用があったか。では問題は「足」である。足は呉音で「そく」、漢音では「しょく」で、現代日本語では呉音を優先している。ならば「そくに」「しょくに」が正しい読み方か?それが「すくね」に訛ったということになる。
いずれにせよ古い表記が「足尼」だったのならば、その官職の呼称はやはり半島から来たのかとなる。は中国では呉音で「に」、漢音は「じ」で、これまた呉音が優先されている。これが尼僧に使われたのはサンスクリット音に文字を当てただけの事で、尼に尼僧の意味は当初なかった。本来の尼字の意味は新字源によれば「人に近づき並ぶ」ことである。それが官位になったと見える。王に匹敵する役職だろうか。すると宿禰たちがそういう人物像であることが理解できる。つまり側近=宰相=内臣である。
 
明治時代には呉音が珍重された過去があり、その名残であろう。明治にできた関西学院が「かんせい」と読ませる理由はこれだ。近畿や佛教界では特に呉音が優先され、仏教でも礼拝を「らいはい」と読ませている。要するに呉の方がつきあいが古かったのと、南朝のほうが権威だという考えである。実際、中国王家は南朝から始まっている。漢字漢字と言うけれど、半分以上は「呉字」だったわけである。そういえば和服を呉服とも言う。中世までの官位束帯を和服の本筋とするならば、それが着物に変わった江戸時代では呉服=正統な和服、新しい着物とするのが感じがよかったのだろう。それが今は洋服になったので和服は着物と呼ばれ始めた。着物では着衣すべてのことであるからどこの着物なのかわからないはずなのに、海外でも「Kimono」は和服を指すようになった。

では「足尼」が古いのはわかった。それが天武時代に官位として「宿禰」となった。いずれにせよ尊称でもあっただろう。王となる神人の側近、助言者だと解明できた。
 
ということは武内宿禰は助言者の代表である。ところが、武内宿禰という名前は「武」こそ名であるが、あとは役職名だけである。すれば『古事記』の読みである「たけしうちのすくね」のほうが「たけのうちのすくね」という『日本書記』呼び名よりよくならないか?「たけし」とは「たけだけしい」という意味であるので、タケミナカタとかヤマトタケルとかタケイワタツの「たけ」と同じで軍事的人物の名であろうから、結局、武内宿禰には日常で呼ばれた実名がない。つまり幽霊、空想上の人物=紀氏の伝承上の祖神となるわけである。300年生きて天皇に仕えたというのはつまり紀氏の祖先のことなのであろう。つまり紀氏は大和最古の王族=飛鳥王権にとっては「先の王家」=倭五王政権の宰相である。その子孫が葛城氏、巨勢氏、平群氏などなどで・・・そして蘇我氏であるとなる。
 
では「甘美内宿禰(うましうちのすくね)」はどうか?
「うまし」は美称で「美しい、よい」でやはり意味しかない。名ではない。これも紀氏の祖霊のへんげしたものである。「うましあしかびの神」となんら変わらない。ちなみにこの神の名の意味は「とてもよい葦の周りにできる高師小僧=褐鉄鋼」でしかない。
 
足尼の「あし」ももしや「葦」だったりするか?ならば鉄の管理者の軍事的側近である。
 
すると出雲の少彦名もまたそういう人物だろう。だから金属=ミネラル=薬物で、のちに医療・薬師の神となったのは整合。その前提として同じく調合してできる百薬の長・酒の神であることも整合となる。
 
出雲にたたら製鉄の新技術をもたらし、ついでに最新医学と酒をもたらした渡来人。それが「小さな軍師」少彦名の実態である。だからオオクニヌシは大穴持=オオナムヂになれた。

大穴とは野だたらの窪地のことである。それを持っている人は、伽耶の鉄も自在に採集した成金大王。要するにそれは大和では葛城鴨氏を指す。なぜなら葛城襲津彦は伽耶の鉄を自由に採集する伽耶連合国家の宿禰だったからにほかなるまい。
 
 
 だからこそ、大物主も大国主も大和の三諸の山=三輪山に祭られ、出雲にも祭られたのである。大物主は葛城系譜ら海人族の神=大三輪神であり、同時に出雲の神でもあり、大社のオオクニヌシなのだ。天武がその宿禰を採用したということは、天武の政治理想に葛城氏や蘇我氏の理念があったことの証明となり、もしかしたら、天武が蘇我氏血脈であることを隠すために、その前の聖徳太子の没年まで一年ずらしたという関祐二の説を強く後押しすることになるだろう。ならば・・・天武死後、天皇位が天智の子孫に戻るには、天智は蘇我氏の血脈でないことを証明するために、新たな海人族・息長氏の創作は必須になる。その息長の血とはもしや天武外籍となっていた宗像氏と藤原氏の結託から作られたものではなかったか?!
 
 
 
となると天智のための継体大王到来が、葛城出雲王家や次の倭五王系譜との分断をはかるものだった可能性すら出てきてしまうのである。
 
 
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レンガの一致で阿武山古墳鎌足墓説は証明できるか?三島別業と軽皇子と多武峰略記の陰謀

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昨日の考古学ニュースで大阪府摂津地域にある茨木市東奈良古墳から、同じく茨木市の阿武山(あぶやま)古墳から出ていた塼(せん・焼成レンガの一種)とよく似た一枚の塼が出たと発表があった。
日経新聞など
 
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塼を拡大した画像 もっと拡大できます。
 
 
 
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うねるような渦巻きの連続模様でよく似ているのだが・・・?
微妙に違うとも、色が違うとも見えてしまう・・・?
 
 
 

●鎌足三嶋別業
「『日本書紀』は、大化の「改新」の偉業を目前に控えた皇極三年春正月、中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614~669)が、神祇伯(長官)への就任を固辞して「三嶋の別業」へ引きこもり、改革の進め方についての思案を重ねたと伝えているのですが、彼の本業(本拠地)が大和国のどこかであったのに対し、もう一つ、安心して思索にふけることの出来た場所が摂津国三嶋の地にあったようなのです。

確かに『大阪府全志・巻三』という書物によれば、摂津国嶋上郡だけをとってみても天児屋根命を祭神とする春日神社、八幡神社などが二十近くも鎮座、奈佐原には彼のものではないかと推察されている阿武山古墳が存在しています。また、三嶋という土地そのものが早くから開発され、大和の中央勢力との結びつきを強めていたことが「記紀神話」でも度々語られていますから、鎌足の「出世」を支えたに違いない、確かな地盤があったことを想像させるのです。」
http://www.ten-f.com/kamatari-to-mishima.htm
 
三島に別業(別荘)を持っていたのは鎌足だけではない。
高槻に孝徳大王即位前の軽皇子も別業を持っており、そこへ鎌足は訪問し、最初の蘇我入鹿暗殺計画を打ち明けている。
 
東奈良遺跡は集落遺跡で非常に大きな遺跡でもある。
 
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瓦や塼のデザインには流行もある。近くで出たから同じ人のものとは言えない。
 
 
ではこれまでのほかの遺物や記録での分析はどうなっているか見てみよう。
 
 
 


 
 
 
阿武山古墳は鎌足の墓か?

●考古学から
「まず、近年の阿武山古墳ニ鎌足墓説2) を挙げると、猪熊兼勝氏がX 線写真から新たに判明した冠などを拠り所に主張しており[猪熊 1988 ・ 1994J 、直木孝次郎氏も文献史料の再検討から猪熊説を肯定している[直木 1988J 。
考古学でも一般に、鎌足墓とする見解が根強い[梅本ほか 1995J 。それらに対して、奥田尚氏は、文献史学の立場から猪熊説に異論を提示している[奥田 1997 a J 。続いて、中村浩氏は、出土須恵器が鎌足の没年には合わないと指摘し、文献史学による既往の研究成果もふまえ、当該古墳の被葬者は藤原鎌足ではないとしている[中村 1998J 。」
 
「阿武山古墳が尾根項上部に単独で立地する点や須恵器の出土地点・出土状況から考えて、後に他の時期の遺物が混入する余地はほとんどなく、森田克行氏などの指摘のように、内容的なまとまりからみても、この阿武山古墳に伴う須恵器と考えざるをえない[森田 1983J [中村 1998J 。
 
それを前提に、須恵器の実年代観をみていきたい。この点については、実に様々な見解が出されている。猪熊兼勝氏は 7 世紀初頭とみなし[猪熊1988J 、森田克行氏は 7 世紀第 2 四半期の前半を下らないもので、 7 世紀の第 1 四半期と第 2 四半期の聞とする[森田 1983J 。そして中村浩氏は、7世紀の第 2 四半期、さらには640-650年頃に置き[中村 1998J 、ごく近年の研究として佐藤隆氏は、阿武山古墳を藤原鎌足墓かという想定のもとに、実質的には 7 世紀第 3 四半期頃に位置付けている[佐藤 2003J 。」

「まず、阿武山古墳出土須恵器について最もまとまった検討を及ぽしているのが、中村浩氏である[中村 1998J 。しかし、中村氏の当該期の編年案は、杯H (図 1-8 ・ 9 ほか)と杯 G (図 1 -10 ・ 11 ほか) 3) を主な指標にII ・ III型式に大別するが、杯H と杯 G を一系列的な型式変遷とみなす点で、既に指摘があるように問題視せざるをえない[佐藤 2003 ほか]。
 
そうなると、飛鳥地域の消費地資料に基づく編年案 (1飛鳥編年J) が、年代推定根拠を伴うことも合めて、現状では最も妥当性の高いものと言える。ところが、その飛鳥編年も編年指標などの点では、必ずしも固まったものではない。本来は筆者独自の編年設定を行うべきかもしれないが、資料不足の部分もあるため、さしあたり一括土器群が出土した飛鳥地域の標識的な遺構資料をそのまま用いて、比較検討してみたい。
 
ただし、阿武山古墳は摂津に住置し、その出土須恵器の産地が陶邑窯とは言えないため、厳密には飛鳥地域出土品の主な供給源である陶邑窯製品と直接比較しうるかは問題になる。しかし、同じ畿内では、産地による大きな差異が認めがたいので、飛鳥編年とも大きく雌軒するものではないと判断しておきたい[佐藤 2003ほか]。」
 
「これらの諸点から判断すると、阿武山古墳出土須恵器は飛鳥 II 末の水落遺跡段階より古い様相であり、大津京遷都 (667年)以降にまで下ることは考えがたい。そうなると、阿武山古墳出土須恵器を、鎌足の没年である 668年に当てるのは、かなり困難となる。また、より細かくみると、山田寺下層や甘橿丘焼土層よりは、杯H 身の立ち上がりがやや棲小で、法量も小さい。しかしながら、杯H 蓋や杯 G 身からみて、坂田寺段階ほどに法量は縮小しておらず、飛鳥池溝などと近似する様相だと言える。もちろん、厳密に言えば、消費地一括品の法量にもぱらつきはあるため、あまりにも細かな年代比定は、方法的に限界を有しているが、上記のことをふまえて阿武山古墳の築造年代を推測すると、 640年代でも後半、 650年前後になる可能性がより高いものと思われる。」

「以上のように、近年の資料蓄積をもとに出土須恵器を再検討する限り、阿武山古墳二鎌足墓説は蓋然性が低いと判断せざるをえなくなる。」
 
 
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阿武山古墳出土官帽と翡翠の玉枕のレプリカ
 

●文献から
「摂津三島の阿武山古墳に近接して「安威J という地名が残るが、それを冠する山、「阿威山j が鎌足の墓所としてみえることが、何よりも阿武山古墳=鎌足墓説の根拠である。そして、それを記載する史料としては、『多武峯縁起』がよく知られている。この縁起は、一条兼良の述作で、室町中期、15世紀中頃に成立したとみられることが多かったが、同内容で永済の草案により暦仁 2 年 (1239) に成立したという詞書を持つ『大織冠縁起』の存在が確認されたため、成立年代が大幅に遡ることになった[牧野 1990J 。それに先立つ史料としては、建久 8 年 (1197) に成立したとされる『多武峯略記』があり、その内容は取捨選択されて『多武峯縁起』に受け継がれている。『多武峯略記』には先行史料からの引用文を示しており、それが鎌足墓阿威山説を記す最も古い史料となる」
 
「以上みてきたように、文献史料をもとにする考察からしても、阿武山古墳が鎌足墓であることは、ほぽ否定されるものと思われる。」
 
 


 
 
 
◆そもそもなぜ改葬後の古墳に遺体も遺品も残されているのか?に気づかないと

摂津三嶋に別業を持っていたと書かれた人物は鎌足だけではない。軽皇子も三嶋に別業を持っていた。

今回の塼の類似が、阿武山=鎌足墓と決定するに充分な考古資料かはまだだと言うしかない。
なぜなら瓦や塼には、時代ごとにブームがある装飾品だからである。
摂津の窯では、この渦巻き模様が流行っていて、たまたま同じ摂津の阿武山古墳と東奈良遺跡の塼が同時期のものだから同じ窯の同じ職人によってとしても、なんら不都合はない。大量生産できる塼の模様が一致したからといって、奈良の多武峰への改葬が不比等によって行われたので、多武峰(談山神社)周辺からこの塼が出れば、阿武山鎌足墓説はようやく確実なものになるのである。
 
 
 
●東奈良遺跡
東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、大阪府茨木市の南部、阪急南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落の遺跡。1973年、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに、出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

(この付近は「沢良宜(さわらぎ)」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。 カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。)
 
 
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出土した銅鐸鋳型

この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。

 大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地とされるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺である奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜だったとの説がある。

大阪府高槻市土室町(はむろちょう)上土室(かみはむろ)には土師氏の釜跡新池埴輪窯が残されているが、ここで焼かれたのは今城塚や大田茶臼山などの継体大王時代の埴輪ではないかと思われ、鎌足とは時代がかなりかけ離れてしまう。
 
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新池埴輪窯
 
 
 
今回の塼がどこの窯で焼かれたかが重要である。東奈良は広域な集落遺跡ゆえに、同じ塼がほかにも見つかっておかしくないだろう。それらがどこで焼かれたか、つまりそれが鎌足の改葬墓がある奈良、あるいは居宅のあった山科や将軍塚付近ででも見つかったり、焼かれたことが分かれば面白くなる。
 
 

これだけでは阿武山鎌足古墳説は決められない。

摂津三嶋地域はこれまでに筆者も三度訪問しているが、春日神社などの痕跡は、藤原氏が奈良春日山に大社を建てるために在地春日氏を同族化したことに由来して、あとづけで建てられたものという考え方もできるのである。そして『日本書記』の三嶋別業記事もそうだが、鎌足と天智の乙巳の変すらもなかった可能性もあるのである。これらの一連の記事は、軽皇子つまり孝徳大王(天智の叔父)の三島別業(高槻市古曽部町説もあり)であった可能性はないか?

阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高281.1m)の山腹にある。阿武山は安威川と芥川の間に立つ丘陵で、周囲からも良く見え、なおかつ山頂から大阪平野のほぼ全部を見渡すことのできる場所である。この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足説があるなど、高貴な人物であったことは間違いない。とWikiは言う。

そしてこの発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)とも書いている。とりあえず朝日が最初に騒ぎ立てたのはちょっと気になる。
 
「1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いない。
 
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり[1]、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠(授受者は)鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。
 
しかし被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。」同じくWiki阿武山古墳
 

阿武山が鎌足の最初の墓であったという背景は、
●まずこの安威地名の藤原氏資料文献との一致
●大織冠のX写真発見
●その後、この冠から赤い繊維が見つかり、それは確かに大織冠に貼られる布の色だった
●被葬者の髪の毛から、当時は身分の高いものしか使えない高価な砒素成分が検出
●そして記録の三島別業での隠棲記事と、すぐそばに最初密会した軽の別業があること

などなどによって主に文献史学の直木孝次郎が間違いないと言われたのが始まりである。しかし一時的に隠棲した別業の近くに墓を造るのも奇妙ではある。
 
『日本書記』も「多武峰略紀」も権威、直木も権威、考古学資料もはでで明快だったから、全員が引き込まれ、一時は間違いないとなっていった。しかしその後の調査では上記の記事のように、「ありえない」のではないかへと向かうこととなる。そこへ今回の塼。
 
それよりも筆者はこの塼のデザインである渦巻きに眼がいった。
長寿の秘薬と信じ込まれていた砒素を服用した阿武山の被葬者ならばこそ、永遠の渦巻きも手に入れたのだろう。しかし砒素は当然少量なら薬品にもなろうが、なにしろ猛毒。常用すれば死をはやめてしまうもの。
 
この阿武山に残された金糸をまとった貴人の遺骨がわからない。不比等が多武峰に改葬したのなら、なぜ遺骨がそっくりそのまま古墳に残されているのかという素朴な疑問である。しかも大職冠やヒスイの玉枕のような貴重な遺品もそのままにしておくはずがないだろう?そう考えると、どうも一連の『日本書記』や藤原氏自身の伝記である「多武峰」記録は、わざわざ書き残された感が強くなった。

また被葬者は肋骨が三本欠損しており、これは記録にある鎌足死の五ヶ月前に狩猟に出かけたとあるのが原因の落馬事故であろうという説もあり、いよいよ「阿武山は鎌足」を押し上げたことがある。略記の記事には「墓は安威の阿威山にある」とあって、阿武山と一致していない。もちろん阿威から阿武へのその後の変化や、誤った地名の伝承が起きたとしてもおかしくはないのだが。

阿武地名については以前分析した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56499708.html
 

それはアラビア語の花崗岩だとしてある。
その後、高槻市の阿武山古墳石室の解説に、
「石室は花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました」

というのを発見。やはり花崗岩を切り出してきて運び上げたので、そのときから阿威山を阿武山と変更したのではないかと思えたものである。
 
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さて、今回の発見は鎌足墓阿武山説をどう動かせるのか、興味津々。
またまた『日本書記』などの記録の大々的な捏造か?不比等の画策のひとつだったか?

そういう気がしてきた。鎌足と天智の存在を疑う。

天智天皇陵がわざわざ藤原京の真北に作られるのは、『日本書記』編纂の後である。ここにも不比等の意図が感じ取れる。つまり不比等は天智を正統な天子としたのである。だから阿武山が奈良から見て北西にあるのもあまりに意図的に見えてしまうのだ。もしや阿武山と言う孝徳あたりの貴人の墓を親の墓に仕立て上げたのではないか?

これらもやはりアマテラス同様、不比等の後付に現代のわれわれが踊らされているような気がしてくる、今日この頃である。
 
 
 
 
 
 
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芭蕉忌にかこつけて/秦一族・松尾芭蕉=忍者・スパイ説を見直す

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松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
 
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伊賀上野赤坂農人町(現在の三重県伊賀上野市赤坂町)出身
 (柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり。親が柘植から※1赤坂へ引越ししており、芭蕉出生が前か後かが不明ゆえ。これはどっちでもよかろう)

父、松尾与左衛門(当時※2「無足人」と呼ばれた郷士・地侍級農家)の次男。
幼名、金作。通称甚七郎、甚四郎。

武家俗名、松尾忠右衛門宗房。

俳号、初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
蕉風(しょうふう)と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立、後世、俳聖。
十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として出仕。
主君・良忠とともに俳諧を学ぶ。
二十三歳の時、良忠が病没し主家を自辞。俳諧の道を歩み始める。
元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良(かわい・そら)ただ一人伴って、奥州への旅に出る。 この旅の俳諧紀行文が有名な『奥の細道』。

河合曽良にも実はそのときの旅日記『曽良旅日記』があり、※3その行動が比較できる。
 
 

※1 伊賀上野赤坂町
※2 無足人(むそくにん)
① 所領がなく扶持米だけを支給された下層の武士。無足衆。
②田地をもたない下層農民。(ことバンクより)
無足人は明治維新後、士族にはなれず、その大部分は「卒」扱いのままにされた。
明治5年に「卒」身分も廃止。
ただ、伊賀上野藩の場合はやや状況の違うものがおり、
 
「かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
とも聞く。
 
 
要するに伊賀の無足人は、その中に武芸・忍びにたけた伊賀者、つまり間諜(スパイ・お庭番・忍びの者)もいたことになる。もちろんだからと言って芭蕉の父、松尾与左衛門もそうだったという証拠は何もない。ただ「松尾」姓は山城の秦氏が居住した松尾大社(まつのお)周辺の名乗りであるので、伊賀や柳生の忍軍の始まりがもと秦氏部民の服部一族にあるとする説はかなり言われることではあろう。

ちなみに室町将軍に寵愛された能楽師・観阿弥・世阿弥親子には「秦」姓を明言しており、世阿弥作『風姿花伝(花伝書)』序文に杉の子服部(すぎのこはっとり)」秦元清と署名してある。
 
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
 
阿弥」とは京都などの犬神人(いぬじにん・寺社境内に巣食った遊び人で、神人(しんじん)とも言うが神社の掃除や用心棒をする程度の、いわゆる乞食や芸人の集団であり、その中心的存在は多く山城秦氏らの下人(秦人・秦部)であったと言われる。そのはじまりは秦氏が聖徳太子を祈念して奉仕した広隆寺境内にあった大酒神社からであるとされる。なお、豊臣秀吉や徳川家康の父も、そうした犬神人集団から出た乞食坊主、厄払いを旨とする回遊者であったと言う。多くが弓の弦を売り歩いたので弦召(つるそめ)とも)のことである。
 
彼らは中世~江戸期にかけて下級武士であったものがいくさがなくなって磊落したものが多く、教養の高いものもいた。ゆえに職農民としては最下層の被差別ではあったが、芸能などで貴人パトロンに囲われたり、放浪の途中、家康の父のように良家に取り入り、養子となるものもあったらしい。

芭蕉が「松尾」「無足人」という理由だけで忍者スパイの役割を持った秦部の出自だったかどうかは不明だが、少なくとも、観阿弥・世阿弥親子は間違いなく上記出自だっただろうと思われる。芭蕉が下級とは言え武家の出でありながら俳諧などという芸能の道に進んだかの理由を求めるには、これしかとっかかりはありえない。つまり忍びが術のひとつとした符牒や他にわからないような言語、文字の基盤に、古代から続いた和歌・猿楽・念誦・隠れ蓑・暗号・薬品製造・火薬や製鉄、塩作りなどがあっただろうことは想像に難くなく、旅をするための天文遁行(てんもんとんこう、道教による統計的天文学・気象学など)を知っている可能性は高い。
 

※3 河合曽良旅日記と「奥の細道」の道程齟齬
「芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
 
 
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NHK出版『歴史発見2(奥の細道・芭蕉、謎の旅路)』1993 によるところでは、芭蕉がこの紀行で探っていたものとは 山形特産紅花の栽培技術ではないかという。

 眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 
 行末は 誰(た)が肌ふれむ 紅の花

芭蕉、山形尾花沢?で詠んだ二句である。
 
「芭蕉が尾花沢に着いたのは5月17日で、6月朔日(ついたち)に大石田をたっている。その間すすめられて山寺を訪れたのは5月27日と翌28日で、新暦になおすと7月の13・14日で、紅花が咲きほこっている時期であった。沿道に咲き乱れた紅花は、芭蕉の興感をさそったことであろう。
 
  紅花の研究家今田信一先生は「二つの句を味わってみると、『眉掃』の句は咲き始めの可憐な一輪咲きを見つけて心をひかれた時の句であり、『行末』の句は畑一面に咲き誇った紅花のあでやかさに打たれた時の句であろう」といっている。
 
  紅花栽培の北限は東根北部であるが、この附近では4月上旬に種をまいて「土用一つ咲き」といって、7月中旬に咲き始めるのが普通であった。これに対し、山形付近では4月4・5日頃に種をまいて、「半夏一つ咲き」といって、7月2・3日頃から咲き出すのが通例であった。
 
この紅花の開花期と二つの句の味わいを重ねてみると、『眉掃』の句は東根附近で咲き始めの紅花畑を眺めた時の句であり、『行末』の句は山寺街道沿いの、満面と咲きほこった紅花畑を眺めた時の句であろう、ということになる。
 
 芭蕉は尾花沢から南下して山寺立石寺に詣でては有名な「蝉」の句を、その途中でこの「紅花二句」を残したことになる。 」
http://www.benibananosato.jp/kahoku/lib01/211benibananiku.html

紅花が化粧に使われ始めたのは奈良時代。それまでは顔料や水銀である。従って紅花は高級品であり、貴族や武家しか買えない代物である。その紅花を詠んだ句を二句も書き残した芭蕉にはどのような意図があったか。

二番目の句に「誰が肌ふれむ」とあるように紅花は着物の染料でもあった。また上の句は「眉掃き」とあるので、紅花の穂先を、眉を刷く丸いハケと見た句である。今で言うなら似ているのは頬紅用のチークブラシであろう。
 

ここから考えられるのは、もし芭蕉に紅花の栽培法やその種を求めさせた人があったとすれば、それはどうやら良家の子女ではなかろうか?ということである。
だが、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものであるが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた例がある。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。すれば芭蕉にはほかの調査以来があったとしてもおかしくない。そもそもなにゆえにはるかな伊賀から、北上したのだろう?なぜ西海道や南海道ではないのか?なぜ紅花が満開になる北国の夏にあわせての出立だったのか?
 
 

もうひとつの仮説は芭蕉は義経の残影を求めて平泉を目的地にしたという説である。

        夏草や つわものどもの 夢の跡

なるほど平泉・・・。
 

また芭蕉はカラスの句を三つも詠んでいることから、八咫烏に惹かれて旅に出たという説もある。http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_163.html
 
 
いずれにせよ年齢45で歩いたその速度は異常に早い。
 
 
「もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに
 
  草の戸も住替る代ぞひなの家
 
 面八句を庵の柱に懸置。」
奥の細道序文
 

ここでは宮城松島のことがどうしても気になって・・・と書いてある。

別の箇所には、道祖神(庚申さま、つまり伊勢の猿田彦)に心惹かれて自分は旅に出た・・・とも書かれてある。

芭蕉はしかし道祖神に旅の中で一回も立ち寄ってはいないようだ。????
 
 
さてさて、松島といえば塩釜、塩竃である。
塩竃神社は、要するに海人たちが藻塩を作っていた土地で、塩竃とは鉄製の巨大な鍋であるが、実はここに祭られているご神体は、大津波によって海に流され、のちに拾い上げられた四枚の大なべである
 
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つまり藻塩の製塩には鉄製の塩竃が不可欠だったのだ。そして松島の海人族(あま)たちには、往古から製鉄技術があった。それははるか縄文の蝦夷たち独自の簡易製鉄技術と、伊達藩が姫路から招聘した播磨鋳物師たちの鋳物技術によって戦国~江戸期に、伊達藩の重要な産業となる。つまり芭蕉が探るとするならば伊達藩の製塩と製鉄技術のほうが紅花よりも可能性が高くなるのではなかろうか?


塩竃神社についてはかなり詳細な描写をしているが、なぜか句は詠んでいない。何か詠んでいる場合でないなにかの目的があったか?である。

 「最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html

ということは芭蕉のクライアントは伊達藩の動向、経済が非常に気になる幕府の意向を受けた水戸藩でいいということになるだろうか?
 

いや、筆者には芭蕉がスパイだったとは思えないのである。

芭蕉は俳諧師、芸術家でしかなかったのかも知れない。
つまり八咫烏や道祖神や海人のも塩と読んでゆけば、そこには彼の死生観が如実に滲みでてくるのである。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)が起きた。芭蕉はまだ生まれていないが、この話題は関東地方でかなり長く語り継がれることになるほどの大被害をもたらしている。『武藤六上衛門所蔵古大書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになる。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と津波に遭遇し、その記録を残している。
芭蕉が生きた年間に地震は数回あった。

1649  関東地方南部 ? 多数 
1662/05/01 畿内・丹後・東海西部地震 滋賀県 7.4? 多数 
1662/09/20 日向・大隅地震 宮崎県沖 7.6? ? 
1665/12/27 越後高田地震 新潟県南部 ? 1,500 
1677  房総半島沖

特に奥の細道出立(85年)の直前では65年と77年、特に江戸に住んでいた芭蕉にとっては77年の房総沖大地震による津波は、前から知っていた三陸沖の大津波の伝承を思い起こさせたかも知れない。

地震と津波によって、どちらも多数の死者を出している。これが芭蕉の古代祭祀氏族秦氏の部出自というものから身についた独自の神秘的死生観の琴線を、強く振るわせたのではなかろうか?道祖神、黒い烏、塩竃、源義経、赤い紅花そして大地震・・・これらに、人間の心の奥の後戸(うらど)を扱ってきた往古の神人血脈が「死」を俳諧師に想起させた・・・?
 
芭蕉が経巡った順路をもう一度見てみよう。福島、宮城、石巻、三陸、新潟、そして日本海・・・大災害や大いくさ、そして大きな寺社があるとこを選んで巡っている。それはただの観光旅行ではない。俳句を詠むものなら当然歴史的知識も多くあったことだろう。
 
当時の旅とは生死をかけて出かけなければならないものである。旅することそのものに死生観があった。富士山へ上るときも、熊野・伊勢・四国遍路にゆくときも、必ず江戸の民はまず築地・吉原そばの三角州あたりの河原で精進潔斎、沐浴をし、大山詣でして旅の安全と無事を祈ってから出かけたのである。旅には死生観が常にまとわりついていた。だから芭蕉の旅もまた、おのれのいのち、民衆のいのちの長く続くことを祈念する意味があったはずである。
 
 


 

さてさて・・・?
ともあれ、今日は芭蕉忌である。
妄想はさておき、俳句でもひねろうではないか。
 
 
 
 
 

       わび庵 一句ひねれば ここも青山(せいざん)
       

        人間(じんかん)は 田畑でさえ 秋葉かな
 
 
 
 
 
 
 
おそまつ
 
 
 
 
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いわきの人面土器

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「人面付土器」の一部が出土 いわきで初、県内6例目

「人面付土器」の一部が出土 いわきで初、県内6例目
いわき市で初めて見つかった人面付土器の一部
 いわき市内郷御厩町の遺跡発掘調査で11日までに、同市で初めて、再葬墓の際に骨つぼのような役割で使う「人面付土器」の一部が発見された。県内では6例目。調査を行っている市教育文化事業団は、この発見が、東日本に分布していた再葬墓の風習が同市でも行われていたことの裏付けになる、としている。同日、現地で開かれた発掘調査現地説明会で披露された。

 再葬墓は、弥生時代に東日本で行われていた埋葬法で、一度埋葬した遺体を掘り起こし、骨を土器に入れて再度埋葬する。使用する土器に人の顔がデザインされていることが特徴。

 今回見つかったのは眉、目、鼻の部分(5センチ×8センチ)で、全体の一部。他地域では全体の高さ約60センチの同土器が見つかっている。

 同事業団によると、再葬墓の風習は、亡くなった後にも儀礼を行うことで祖先の元へ旅立つことができるとする精神世界の現れといい、当時の人々の仲間意識を醸成していたとも考えられているという。
(2014年10月12日 福島民友トピックス)
http://www.minyu-net.com/news/topic/141012/topic1.html
 
 
 
 
翁だろう。
おきな、子供は「特殊な」つまり古代の死生観では「うち」、聖なるものだった。
片や長生、片や夭折。
ともにまれなものだった。
 
 
再葬とは、一旦野に放置し、鳥や風のなすがままに「野ざらし」にしたあと、
白骨化した骨を拾い集め、骨臓器などに入れるか、あるいは在野ではそのまま墓に埋葬する東日本独特の方法である。
 
古来より、葬儀は歌舞音曲で明るく送るを旨としてきた。
 
この永遠の生命をになう仮面をかぶり、手振り、足ぶり、人々はその死をいたんだだけでなく、死者が祖霊となって、また現世に幼児となって戻ることを願ったのである。送るとはヨミガエリの呪の儀式なのだ。
 
 
だから、人を送るときだけは、どんちゃん騒ぎしたほうがいい。
 
 
この世に現世の未練が残れば彼が祖霊になる決断を阻害してしまうからだ。
 
 
 
福島はやはり道の口。弥生と縄文がまざった文化だ。
 
 
死ぬ前に、一度はいっておかねばならぬ場所。
 
以前は桜の下で死にたいと西行をきどってきたが、ぼくは原発のそばにある装飾古墳でとわの眠りにつきたいと思うようになった。もちろん、かなわぬ願いになるのだろうが。
 
 
 
なにしろぼくは日本史の嫌われ者だから。
悔しいが一生、武内にも塩土にも、蘇我馬子にもなれぬだろう。
 
 
 
 
 
 
 
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古墳の総数は350年間で10万基/おきざり付き

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古墳は350年間作られ
その間に作られた古墳は、円墳、方墳、前方後円墳、双方墳など全部あわせて10万基ほど(現在確認されているだけで)。
 
 
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一年に285~6基作られた計算になる。
つまり一年に300人ほどの豪族の盟主的なえらい人が死んだということである。
 
倭人の国家は往古史書には「分かれて100余国」とあるわけだが、そのあと全国の王に匹敵する豪族がどれくらいに増えたか、まとまったかはわからないが、単純に、一年に全国豪族一族ではそれぞれ3人くらいが死んだことになるか?
 
 
1豪族に何人くらい同族がいたかは地域でばらつきはあるだろう。
 
まあ100人以上はいるとして、100×100余国ならば全倭国で10000人。その中で300人が一年に死ぬ、それが古墳時代の世界。すると逆算すればだいたい当時の豪族の数はつかめる。江戸時代の貴族と武家の割合は全人口のわずか1,5パーなので、古代には豪族の100倍弱の平民がいるだろう。すると当時の人口がだいたいわかる勘定になる。少なく見積もっても100万人以上が古墳時代の列島にいたかと?
 
 
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今の大きな地方都市ほどの人口である。そのあとは一気に増える。
 
 
 年代・元号 西暦 総数 男 女 出典
崇峻天皇2年589年3,931,152910,4203,017,033聖徳太子伝記(『大日本国古来人口考』引用)
聖徳太子574–622年5,030,9501,914,0203,116,930太子伝抄(『温故要略』引用)
4,988,8421,994,0082,994,834太子伝(『它山石初編』引用)
5,031,0501,914,1203,116,930太子伝抄(『它山石初編』引用)
聖徳太子摂政時593–622年4,969,890折焚柴の記、類聚名物考
推古天皇御世593–628年4,969,000町人嚢底払
4,990,000両域人数考、十玄遺稿(『它山石初編』引用)
4,969,899皇風大意
養老5年721年4,584,8931,904,0822,590,811行基大菩薩行状記
聖武天皇御世724-748年5,000,000行基式目(『遊京漫録』引用)
4,276,8001,954,8002,322,000日本国之図
4,899,6481,994,8282,904,820扶桑国之図
11,099,6489,094,8282,004,820南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用)
4,588,8421,994,0082,594,834南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用)
4,899,6201,994,8002,904,820行基菩薩図(『世俗用字集』引用)
8,631,074折焚柴の記、類聚名物考
4,508,951類聚名物考
8,000,000十玄遺稿(『它山石初編』引用)、両域人数考
8,631,000町人嚢底払
8,631,770皇風大意
弘安2年1279年4,989,6581,994,8282,994,830高祖遺文録
4,994,828高祖遺文録
弘安3年1280年4,989,6581,994,8282,994,830高祖遺文録
弘安4年1281年4,589,659高祖遺文録
4,994,828高祖遺文録
4,589,658高祖遺文録
弘安年間1278-1287年4,994,8281,994,8282,994,830類聚名物考
鎌倉時代?4,861,6591,924,8282,936,831日本略記
大永8年1528年4,918,652権少僧都俊貞雑記集(『栗里先生雑著』引用)
永禄5年1562年4,994,8001,994,8282,994,830香取文書
 
そのほかに人や部の群集墳・横穴墓・地下式墓が星の数ほどある。
 
 
 
 
すると毎年、90万人弱の部民は、そのほとんどが風葬、鳥葬、あるいは集団で穴に放り込まれていた。
 
 
それは大地の、つまり当時の観念で言えば神のいけにえなのだった。大地の養分である。えさとも言っていた。
 
 
しかし、この世界で最も大地のために役立ってきたのは彼らのむくろである。
 
 
 
 
 
 
 
これは着想、発想を転換するための、あえて書き置く頭の体操記事である。
 
 
 
 
 
 
 
目からうろこははいでおくに、越したことはない・
 
 
 
 
 
 
 
計算は酔ってますから間違ってるかもね。
 
 
 
 
ともうしますか、いつまでそんなサッカー見てるのよ?
 
 
 
 
 
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本当に大地に、地球に役立つことは、いきとしいけるものにとって、実は死なのかも知れない。そう思うと、ぼくなどの凡百は、生きていることに勇気が出る。
 
 
それが循環のとわ。
 
 
だからあんたも生きていなさいよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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祭りと偏西風

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大きな台風がたてつづけにやってきたが、この時期、よく忘れていることのひとつに、偏西風が10月10日前後に吹き始めるということ。
 
江戸期までは、それは当然のなりわいだったようで、9月~11月に、いわゆる「風の鎮撫の祭り」が集中する。
 
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その中には、すでにそれが風・台風の鎮魂であったことが忘れ去られた祭りも多い。
 
 
例えば大阪南部の「だんじり祭り」や、信州諏訪の御柱祭りなどは、往古は風、自然現象を押さえ込むための鎮撫祭だった。
 
 
 
どちらも共通するのは、死者が出るほど危険な、そして疾駆する様式であることだ。つまり危険で激しい祭りである。
 
 
なぜそのような危険なことをしたかというと、ここを常読してきていただいた人ならだいたいわかると思うけれど、この偏西風の時期の祭りのほとんどがかつては、神=自然へ生贄、人柱をささげて、怒りをおさめてもらうための「追儺」だったからである。
 
むしろ、死者が出たほうが神は喜んでくれる、そう考えられてきたからである。
 
 
なぜなら神とは「人を喰う」モノだったからである。
 
 
 
そして、その神への死のためにだけ生まれてくるものどもがいたのである。
 
 
 
今もそれはちゃんといる。
 
 
 
だんじりの屋根の上にそれはふんばっている。
 
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彼らは、生贄の血を受け継いだもの。
 
 
 
かつて、それは被差別だった。
 
 
 だから祭りはいつも切ないのだ。
 
 
 
 
 
 
いや、切なくなければ、
 
 
 
それは
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祭ではないのだ。
 
 
 
 
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和歌弥多弗利 わかみたふり 若翁 たふれぬ

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すでにこのことは昨年、このサイトが取り上げていることだが、
 
「殺された長屋王」
 
もちろん同じことを書こうとはみじんも思わない。
 
 
 
 
中田興吉『倭政権の構造 王権編』は、鎌倉時代の『字鏡抄』に「若翁」と書いて「たふれぬ」と読ませている例証を取り上げている。
 
先年、考古学的にもこれを証明する遺物が出ているが、木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」には何箇所も「若翁」文字が書かれていた(東野治之)。
 
「たふれぬ」あるいは「たふれす」などと読ませているらしい。
 
『隋書』倭国伝
原文
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
 
 
大意
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 
 
「雞彌」は「きみ」。王后。
「利」は「和」の書き間違いだろうという説が主流。
 
 
 
 
この記述部分にある「和哥弥多弗利」の読みである「わかみたふり」に非常に近いもので、国内では「若御若翁」などと表記したのだろうと思わせてくれたわけである。
 
 
 
「太子を」とあるのでこれは大王の「ひつぎのみこ」の呼び名だったのだろうと思われるのだが、中田は、「若翁」は「王族の子女を指すのに用いられたのであり、特に年少の者に限って用いられた」のだから「(当時の意味では)太子とは限らない」と書いている。「王の子供」全員が「わかみたふり」なのだということあり、必ずしも後継者に限ったことではないと。
 
 
太子は、当時、「ひつぎのみこ」と読む。だから隋の史書はなぜそう書かなかったかが問題になる。
 
中田は、わかみたふりに、ひつぎのみこと言う意味もあったのだと言うのだが、どうも納得しにくい。「ひつぎのみこ」と倭国側が言ったのなら、ちゃんとひつぎのみこと書いたはずだ。ならば倭国側は・・・つまり馬子が?「太子はわかみたふり」であると言ったとしか考えられまい。ならばそれは「嘘を言った」とも考え及ぶ。
 
 
 
 
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北 孤 號阿輩雞彌
 
ここでは倭王は「あま」「たりしほこ」と言うとあり、その号は「あはきみ」つまり「おほきみ」だとある。
 
 
 
「おおきみ」は倭国での「大王」の読みである。
この大王で「おおきみ」というのは一般的に、5世紀後半の稲荷山出土の鉄剣の銘文に、「ワカタケル大王の世」とあるので、これが最古とされるされてきたというのだが、和歌山の隅田八幡宮が所蔵していた(常は東京国立が借りている)人物画像鏡(隅田鏡)に「大王」とあり、書かれている内容はほとんど同時代でも、作られた時代は鏡の型式や銘文の文字から見て、稲荷山鉄剣よりも隅田鏡が古いのだ、と中田は書いている。
 
「たりしほこ」は「たりしひこ」などとも読まれている。「あま」は「天」と。すると「あめ(ま)・たらし・ひこ」となってくる。ところがそんな名の大王は記紀に出てこない。これも馬子が答えたのだとすると、これまた嘘かとなる。
 
「あめの」も「たらし」も「ひこ」も名前でもなく、ただの高貴な人という意味しかない尊称でしかない。尊称をコラージュしたもので、だからといって、そういう尊称は大王の号「おほきみ」で充分であって、そもそも名前としても答えておらず、尊称はそう言ったということだけだ。けれど飛鳥のその当時の大王は女帝推古だから「ひこ」では男王になってしまいおかしい。「あめ」のあとには助詞「の」がつくはずだがそれもない。これは姓と字を別々に聞かれたのなら仕方がないわけだが。
 
 
中田が隅田鏡のほうが古いと言う理由は、日十を允恭大王の世だと解釈すると、ワカタケルの雄略より隅田のほうが古いという解釈であろう。
 
 
 
筆者は、隅田鏡の「男弟王がおしさか宮にいるとき」というのが、ではなぜこの鏡は和歌山の紀ノ川沿線の隅田八幡宮にあったのかが以前から不思議でならない。
 
で、これはもしや当時、朝廷が二つあって並立していたのではないのか?と疑っている。というのは紀ノ川河口部の北側にある淡輪古墳群の大きさが、どうも允恭あたりから河内とは別の倭王権だったのではないか?そこに継体大王になる前のオオド王はすでに来ていて、宮が隅田あたりにあったのか?と思いついたのである。
 
ちょうど隅田八幡は北上すれば葛城山麓に出る場所にあって、これは紀氏・葛城連合体の王家だったのではないかと。
 
すると蘇我馬子が、それを隠したかったとも考え付くのである。その後の紀氏や葛城氏の史書での扱いを見ると、どうもそういう対立はあってもおかしくなく、もしや蘇我氏を滅ぼしたのは彼らが背後で・・・?
 
まだこの辺は考えがまとまっていない。
 
 
 
それにそもそも「たふれぬ」とはどういう意味なのだ?
「たぶれたやつ」か?
「たふる」とはなんだろうか????なぜそう読ませるのかさっぱり見当もつかない。どこに皇子の意味があるのか?みこはみこでよいではないか?
 
 
 それに「若」が重複する理由もまた、さっぱり「わか」らない。
 
 
 
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朝鮮半島慶州の九州型屍床を持つ開かれた古墳・虚像の大和朝廷開始と神話

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和田晴吾は古墳石室の棺(ひつぎ)について、九州型の「開かれた棺」と、畿内型の「閉じられた棺」について論じ、さらに「開かれた棺」が朝鮮半島南部の慶州に多いことを書いている(『古墳時代の葬制と他界観』2014 4月)
 
 
慶州周辺の屍床などを持つ「開かれた棺」
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(『古墳時代の葬制と他界観』2014 より)
 
 
「開かれた棺」とは、竪穴式石室を「閉じられた空間」の埋葬様式とするに対する、日本では北部九州で横穴式石室に伴って始まる5世紀後半~6世紀にかけた開かれて、石棺を持たない、直接床に死体を置く葬送様式の石室を言う。この床を屍床と言い、九州ではやがて屍床周囲を石の衝立で囲み、前部だけが開いて遺骸が入り口から見える横口式となる、いわゆる「組み合わせ式石槨」が作られ始め、さらに石槨の上に屋根石=石屋形を置くようになり、次第に屋根の様式が中国的な宮の屋根のように凝ったものへと発展した経緯がある。
 
畿内では、竪穴式石室から6後半になりようやく横穴式石室が始まるが、棺は閉じられた石棺のままである。石棺はやがて畿内河内王権であろう強い氏族が登場して、それが派遣してきた国司クラスの墓には、九州でも採用され始めた。
 
朝鮮南部の屍床のある石室はほぼ、北部九州から遅れて6世紀後半から採用されており、かつ光州の前方後円墳の来訪の遅れることからも、これらは北部九州から半島南部へ人の移住とともに持ち込まれた墓制だろうと筆者は考える。
 
 
 
 
また、和田の仕分けと分析を受けた吉井秀夫は、半島南部横口式・横穴式の古墳における石室・木棺の年代別分析を綿密に行い、木棺を「持ち運ぶ棺」と呼んでおり、半島東部のかつての新羅の範囲だった慶州地方でも、九州型の屍床、石枕などのある古墳の存在を述べている。
 
 
半島で前方後円墳のような外観の一致する墳墓は、かつての百済の範囲である南西部の光州に多く集中するが、これもおそらく九州型横穴式石室を持っており、版図南部の東西に、九州からやってきた氏族の墳墓があることが確認できるのである。
 
 
古墳時代初期~中期の竪穴式石室では、一度土をかぶせるともう二度と開くこともできず、さらに石棺に先行した木槨・木棺も釘で蓋を身に打ち付けられ、あけることがかなわない。要するに竪穴式は閉じられて、再び家族を入れられない、個人の墓であるが、横穴式石室は重たい石で扉されるものの、それは開くことができたわけである。その証拠に重たい閉塞石の地面には「敷居」状の刻みがいれられている。これは『古事記』が描く「黄泉へぐい」の穴倉つまり死者の国のイメージそのものであり、天の岩屋戸の扉そのものであろうと思えるわけだ。そうなると『古事記』が言うところの黄泉のイメージというのは、考古学的にはせいぜい横穴式が畿内へ入ってあと、つまり6世紀後半を遡らない観念で描かれたことになるので、記紀の神話記事そのものが、紀元前何千年などまでは決して遡らない、つまり畿内大和王権の開始が6世紀程度・・・・雄略以後の観念で作られているのだと理解できるのである。はっきり言えば、神武どころか、スサノヲやアマテラスの神話時代も、8世紀記紀の編者が、6世紀あたりを神代と考えていることの証拠にもなろうか?
 
 
 
そしてもっと重要なことは、北部九州型の墓制が、7世紀直前の半島に再現されたことだろう。これは半島民族のアイデンティティを根底からくつがえすことになる。すべての古式がわが国から日本へ行ったといいたがる彼らには、かなりなショックであるはずだ。
 
 


 
 
吉井秀夫 
朝鮮三国時代の墳墓における棺・槨・室構造の特質とその変遷
から抜粋
 「朝鮮半島南西部と南東部では、木棺墓・木槨墓が築造される段階を経て、埋葬施設に石材を用いた、さまざまな構造の竪穴系埋葬施設が築造された。そうした変化の中で、各地域の大型墳墓の埋葬施設内に、鎹や釘を用いた「木棺」が用いられるようになる点に注目したい。南東部においては、鎹のみが用いられる地域が多い。例えば、洛東江河口の慶尚南道金海・大成洞墳墓群や釜山・福泉洞墳墓群では、長さ30cm以上の大型鎹が用いられる。鎹の用途についてはさまざまな説があるものの、出土状況からみる限り、筆者や李賢珠が指摘してきたように(李賢珠1997・2006、吉井2002)、木槨や石槨の内部に築造された「内槨」もしくは「木棺」と呼ばれる構造物に用いられたとみるのが、最も妥当であると考えている。また慶州の積石木槨墳の場合は、梅原末治によって木槨を構築するために鎹が用いられたと想定されている。洛東江中流の高霊を中心とする大加耶系竪穴式石槨からは、釘と鎹が出土することが多く、釘で側板と小口板を結合し、板同士を連結するために鎹が用いられたと推定される(吉井2000、本書第Ⅱ章)。
 
中略
 
 以上のように、4・5世紀においては、王墓が出現する一方で、地域ごとにさまざまな構造の墳墓が築造される。その過程で、同一地域において木槨から石槨へ変化したり、「室墓」と呼びうる横穴系埋葬施設が受容された。しかしその一方で、「棺」の構造や、被葬者の数や葬送儀礼は必ずしも変化しなかったことを、この段階の墓制の特徴としてあげることができるだろう。
 
後略
 
 
 
(3)6・7世紀における墳墓の地域性と棺・槨・室
 6世紀にはいると、高句麗・百済・新羅および加耶諸国において、王墓級の墳墓に横穴系の埋葬施設が採用される。そして、百済の陵山里型石室のように、石室構造に代表される独特の墓制・葬制がそれぞれの政治的領域内に普及した。
 
 この段階において、「持ちはこぶ棺」である釘と鐶座金具が伴う木棺が、朝鮮半島の各地で確認されるようになる。百済の場合、宋山里墳墓群・陵山里墳墓群などの王墓級墳墓では、日本特産種であるコウヤマキを用い、釘や鐶座金具などによって装飾がなされた木棺が用いられ、他の墳墓で用いられた木棺との間に大きな違いが認められる。こうした木棺の出現時期について、筆者は、横穴式石室の出現と共に漢城期にまでさかのぼる可能性を考えていた(吉井1995)。しかし、最近調査例が急増している漢城期横穴式石室では、鎹と釘が共伴する場合が一般的である。
 
中略
 
 
 6世紀の洛東江以西地方、中でも高霊・陜川を中心とする大加耶圏を中心とする地域では、玄室平面方形の横穴式石室が出現する段階において、釘と鐶座金具からなる「持ちはこぶ棺」が出現する。これらの中には、玉田M11号墓出土例のように、金銅や銀で釘頭や鐶座金具を装飾する木棺も存在する。こうした木棺は、咸安・宜寧・晋州などに分布する玄室平面細長方形石室でも用いられている。さらに陜川苧浦里古墳群D-Ⅰ地区のように、小型竪穴式石槨にも釘を用いた木棺が用いられた。以上の様相からみて、6世紀前半から中頃の洛東江以西地方においては、横穴式石室の構造のみならず、釘と鐶座金具からなる木棺を用いた新たな葬送儀礼が受容されたと考えられる(吉井2008c・本書第Ⅲ章)。
 
 5世紀に尚州や昌寧で受容されはじめた横口式石室は、6世紀にはいると洛東江以東地方の各地域で築造されるようになる。昌寧校洞墳墓群の例のように、受容の初期段階の石室からは鎹が出土する場合があり、何らかの木製構造物が存在したと推定できる。しかしその後は、梁山夫婦塚のように、屍床の上に複数の被葬者が直接安置される場合が一般的になる。
 
羨道を備えた横穴式石室は、慶山や浦項など慶州周辺地域で築造がはじまるものの、慶州では6世紀前半頃まで積石木槨墳の築造がつづいていたようである。初期横穴式石室の中には、釘や鐶座金具が出土した例があるが、こうした木棺を用いる風習は定着しなかった。
 
忠孝里型石室」と呼ばれる、慶州で発達した横穴式石室においては、屍身は屍床に直接安置され、石枕や足台が発達する。また、このような被葬者の安置方法は、横穴式石室の構造や「短脚高杯」に代表される特徴的な土器類の副葬などと共に、洛東江以東地方のみならず、洛東江以西地方、漢江流域、東海岸地域など、新羅領域内の各地に広がった。」
 
 
 
 
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            同上 和田著書より
 
 
 
 


 
6世紀後半には、北部九州人たちが半島南部の東西に入って、世代を重ねていたわけで、これはちょうど武烈から継体あたりの飛鳥直前のことなので、半島の百済・新羅経営や伽耶の鉄の占拠などといった大和、あるいは葛城勢力のやったことと書いている『日本書記』などは、まさに嘘になってしまいかねない。また葛城・紀の海人勢力こそが九州から和歌山を経て畿内へ入り、葛城山麓や紀ノ川沿線で別の王家を作っていたという筆者の持論に、考古学が合致するデータを提供してくれたことになるだろう。
 
 
と言うことは、要するに畿内が勢力を強くする時代は葛城・紀・吉備各氏を滅ぼす時代からであり、しかもそれは飛鳥でも奈良大和氏族でもなく、河内の倭五王の後半の人物だったこととなる。だから大和朝廷などという名前の近畿の勢力が登場して王朝をちゃんと作った時代とは、せいぜい飛鳥の蘇我氏が最初で、大和地方ではないとなるのである。用語を正確に使うならば「大和朝廷とはなかった」河内の次が摂津・乙訓、そのあとが飛鳥となり、最後にやっと奈良時代がやってくる。飛鳥が奈良につながるのは天武がつなぐという『日本書記』の記事しか記録はないし、ましてその前の河内政権から継体へのつなぎも『日本書記』が言っているだけであり、そのすべてにクーデター乗っ取り劇があったと思うのは、もう当たり前だとなったとも言える。
 
 
百歩譲っても、大和政権の誕生は雄略からである。
しかもそれも允恭時代までに葛城勢力つまり武内宿禰の勢力を倒して以後、雄略がようやく大和に入ってからである。
 
 
もしかしたら神武から仁徳、聖徳太子あたりもかなり怪しくなリャせんかい?
 
 
『日本書記』はすでに正史とは言えない状況。なにかこう、今の小渕さんみたいな水際状態である。
 
 
 
 
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Kawakatuにさすがと言わせる白川静語録

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梅原猛 米というのはどこから来ますかね。
 
白川静 米はおそらく屈家嶺文化から来ておる。武漢三鎮※1辺りから。あれよりもう少し西南辺りからがその起源地ではないかと思いますけどね。ビルマの方まで行くのかはちょっと解らない。
 


 
 
※1武漢三鎮辺りから。あれよりもう少し西南辺りから。
 武昌・漢口・漢陽。武漢は長江西南部湖北省の都市。稲作発祥地はその後考古学によってほぼそのさらに西南部から・・・約1万年前の中国長江流域の湖南省あたりが稲作の起源とされたので、白川のこの12年前の意見は当時としては慧眼。
湖南省は春秋時代には楚国があったところ。
 
 
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正確にはその中間に位置する上山遺跡群が2004年に発祥地となっている。
 
 
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梅原  巌文明※2さんの、「長江中流」というのが考古学の定説になりかかっていますが。
 
白川  それは屈家嶺文化を起原とみるという見方※3ですね。
ところがこの屈家嶺文化を支配しとったのは、実は僕は苗族だと思う。ミャオ族は昔大変文化が高かった。力も強かった。だから中国の神話は殆ど苗族起こっとるんです。「伏儀・女媧」というのが苗族の神で、彼らは今でも※4伏羲・女媧の歌を六十首ぐらい伝承しとる。伏羲・女媧というのは、天地創造のいちばんの神さまです。
 
 それから重黎神話、天地開闢の説話というのがあります。それから槃瓠説話というのがありますね、黄帝が犬戎と争うて、どうしても勝てんもんだから、敵将の首を獲る者には我が娘を与えると約束した。ところが、黄帝の番犬が・・・・・(誰でも知っているので詳細は省く)その子孫が蕃えんしたものが苗族であると。これがいわゆる槃瓠説話ですが、今でも祭の時には匍匐(ほふく)して口でものを喰うんです。   
 
梅原  それは面白いですね。
 
 

 
※2巌文明
最古の稲作地は小麦農業の発生よりは2千年も古く、約1万4千年前で ある可能性を指摘した中国考古学の権威。
 
※3屈家嶺文化を稲作起原とみる見方
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝神農蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。
 
※4伏羲・女媧の歌を六十首 重黎神話・槃瓠説話
ミャオたちは先祖代々伝わる洪水型兄妹始祖神話をオデッセイにして歌うことで、太古の記憶を今に伝え続けてきた。当ブログ書庫「犬祖伝説」などを参照のこと。
 
   いわゆる蚩尤(しゆう)が出てくる中国の開闢神話
 
槃瓠説話 犬やら動物やらが王の娘と結婚して民族の始祖となったという、いわゆる民俗学が言う「動物婚説話」「異類婚姻譚」「神婚説話」と同類。西欧にもハリネズミの話等さまざまあり。槃瓠とは最初は王の番犬だった。要するに民族の誕生の特殊性を言うことが、彼らが聖なるもの、特別なものであるということ。特権的民族論の一種で、どれも無学なものに教えやすい型式を取るため、古今伝授の定番である。
こういうのは覚えやすく、わかりやすくしておかないと、代々正確に伝承できないので、かなり特殊な話になりがちである。へびやかえる、いぬ、きつねなどさまざま。稲作文化圏では犬や蛇が多い。それは水田にいる生き物で身近だから。日本で俺たちはパンダの子孫だとかローランドゴリラとか言い出してみい?誰も信じません。
 
 

 
 
白川  禹は最後の洪水神であったからね。それで全国的に禹が信奉されるようになったんです。それまでに羌人の洪水神・共工※5とか、色んな洪水神が居るんです。
 
白川  だいたいね、訓読みをするのは日本人だけです。ベトナムも漢字は使っていたけれども、漢音のままで使う。朝鮮の方も、漢字は入ってきたけれども、あれ全部音読みです。訓読がないんです。 
 
それから百済の方では郷札(きょうさつ)とか、吏読(りと)とかいう、やはり宣命式※6の振り仮名をする。しかしそれでも漢字は音読みです。訓読みはないのです。全部。だから音読みするからね、どうしてもイディオム(慣習的単語連結)で読んでしまう。三字、四字、ぶっ続けの句としてね、読んでしまう。それに、「は」とかいう時には、何々「亦(ィ)」という主語を表す助詞を入れるという風にしてね、読むのです。ところがおそらく、百済の人が日本に来て、日本語と漢字との関係ということからですね、百済読み出来ん訳ですね。日本では、全部音読してしまうか、分解して読むか、という以外にないのです。百済的な手法が取れん訳ですね。
 
 日本へ来た人たちが、まだ日本の人では文字はもちろん使えませんから、彼らが皆、「史(ふひと)=記録係、書記」としてね、かなり後まで、文章のことは全部彼らがやっておった(当時は役職を世襲するもの。書記の子孫はずっと書記。ただし万葉時代にはもう日本人は漢字をカナにしてしまう。だから万葉の和歌は日本人がおぼえたての漢字を用いて大和言葉の訓読に一音一文字当てたのであり、百済語に置き換えて意味を探る行為は無意味)日本人は参加していませんからね。だから、彼らが漢語にも通じ、日本語にも通じ、それを折衷してね、日本語に適合する方法として、読むとすれば日本語読み、訓読ですね。これを入れる他ない訳です。だから、本当の訓読を発明したのは、僕は百済人だと思う。
 
 

 
※5羌人の洪水神・共工
河南西部から西の山稜地帯に居住した牧羊民族。姓はみな羌。著名人では太公望呂
尚は姓は姜だがこの姓は羌人と知られたくないので変化させた。共工(ゴンゴン)は羌人たちの洪水神。
 
洪水を押さえ込む=治水は、世界中で王の必須条件になっている。夏王禹もそう。秦氏の弓月君もそう。阿蘇のタケイワタツもそう。とりわけ水耕稲作従事民族には治水はかかせなかった。それで先祖神が洪水神となってゆくが、それは同時に洪水と言う祟り神・自然災害の象徴でもあった。Kawakatu
 
※6郷札(きょうさつ)とか、吏読(りと)とかいう、やはり宣命式※6の振り仮名
郷札(きょうさつ、향찰ヒャンチャル)とは、漢字による朝鮮語の表記方法の1つである。主に新羅時代の歌謡である郷歌の表記に用いられた。古代朝鮮語の資料の1つとして重要な位置を占める。文字の音と訓を利用して古代朝鮮語を表記する方式。
朝鮮において,おもに助詞・助動詞など,送り仮名に相当する部分の表記に用いられる漢字の特殊な使用法をさす。「吏吐」「吏道」とも書く。日本における宣命書きと同趣のもので,まだみずからの文字をもたなかった古代朝鮮において,すべて漢字で表記しようとした結果生れたもの。
 
宣命式とは宣命書き方式のこと。宣命・祝詞を中心に奈良時代から平安初期にかけて用いられた国語表記法の一。「国法乎過犯事無久」のように,ほぼ国語の語序に従い漢字だけで書かれ,体言や用言の語幹の類は大字で,用言の語尾・助動詞・助詞の類は小字で書き分ける。
 


 
日本の最初の漢詩文は近江朝のころにようやく始まる。つまり習ってからしばらくしないと。しかし最初はへたくそな稚拙なもので、『懐風藻』のような立派なものは天武以後成立し始める。
 
和歌も最初は漢文調。人麻呂の「天皇は神にしあれば」のように。しかし人麻呂晩年の歌は次第に日本的な哀傷を描くようになってゆく。感情の吐露を表現できるようになれば手馴れた証拠だ。
 
東日本、特に以前も書いたが、関東では渡来工人と海人族と蝦夷らが多かったので、かえって非常に日本語に熱心で東歌は山ほど残された。おそらく大和の人から見れば、彼らの斬新さ、田舎びた言葉の使用法が珍しかったのだろう。発想の参考にしたと思うし、地方の名所や風俗等を知る知識にもなったことだろう。東国人の方も、和歌くらいしか都の知識を増やせるものはなかった。それに漢字やカナによって、言葉も標準語の勉強になり、ひいては中央での出世もかなうことになる。
 
 
 
 
 
 


 
 
雄略時代の稲荷山や江田船山、あるいは和歌山の隅田八幡鏡などの銘文は、当然、百済工人らが刻んだものだろう。しかし、彼らは書記官のようには漢字に詳しくなく、銘文考案者の言葉を漢字に置き換える際に、かなりの間違いを起こしている。それを学者はどうにか読もうとするのだが、なにしろ最初から、漢字を反転させたり、さかさま、あるいは文法なども記号として無関係に並べてしまうものも多かっただろう。技術系の人々には文武に無学な人が多いから、日本の学者もたいそう苦労するが、なにしろはなから記号として並べるので、間違えられるとお手上げになってしまうわけである。
 
 
 
白川  朝鮮の漢文というのは。ちょっと癖がありましてね。例えば「八月に」というときに「八月中」と書く。それから。「何々死せり」という場合に、それでもう終わりの言葉は要らんのですけどね、文末に「之」をつける。そこに「之」を付けるような漢文はないのです。ところがそういうね、百済式漢文の癖があるのですね。この百済式漢文の癖が、推古朝のものであるとか、それから初期の色んな文章に残っている。例えば近年、太安麻呂の墓碑が出ましたわね、あれにやはりそれが付いとる。「中」とか「之」とついとる。
 
あれは百済人が書いとるのに違いないんです。
 
 
 

 
 
 
その百済式の漢文を、彼らに習った日本の貴人たちはのちに使うことになるわけである。だから癖が似てしまう。
 
そういう癖のある文章を、地域の下級官吏が木簡に墨書したり、工人達は鏡や剣に刻み込む。だから当然間違いも多くなる。
 
『日本書記』の場合は真ん中部分はたまたま中国人が送られてきたから、まともな漢文で書かれたが、神話や雄略までの記述は和製漢文になっているので、それが漢文を習得した日本人があとから書いたとわかるのだ。また風土記などはもっと大変。なにしろ中央で漢文を習ったものがいなければ漢文ではかけない、どころか文字そのものを持たなかった人々が急に史書など書けるはずがない。だから出雲国風土記などは22年も遅れて完成するのである。もちろんそれ以外に、国内で意見がすったもんだしたことも、中央から国造がやってきた出雲なら当然だろうが。結局阿蘇も出雲も結果として国造のほうが地元の言い伝えを重視するほかはなかっただろう。なぜなら、そうしないと税金を納めてくれない反骨のお国柄だからだ。そうなると国造の系譜そのものにも地元豪族の血脈が入り込み、結果として国造は中央ではなく地元寄りの人々の傀儡化する可能性が高くなる。そうでない場合は、神社内部に並立二派ができあがり、それぞれが独立して、対立することになるだろう。例えばやはり阿蘇や出雲のようにである。
 
 

 
 
梅原  子安貝が貨幣として用いられているのは、あの貝が採れるところではない訳ですね。これは大変重要な指摘だと思います。で、もうひとつは?
 
白川  もうひとつはね、呪霊という観念ですね。シャーマニズム的なね。お祭が殆どそういう性格のお祭なんです。何々のタタリに対する祭、というね。
 
梅原  その大きな違いは文字があったかないかですね。
 

 
 
 
そういうこと。
文字、というか、知識が増えれば科学的になり、金属を取り込むようになれば当然それは科学へと発展してゆく。すると人間の脳みそはおのずと科学的、客観的になり、自然災害は決して「神」などではないのだと気づく。たたりなど実はないことにも気づくのである。これがそのまんま人類の歴史なのだ。もしこの科学や学校教育が発達した現代で、まだ古代のような神秘性や主観的呪術に感化される人間がいるのならば、それは基礎学習すべき幼少のころ、不勉強、勉強苦手、あるいは先天的に異界を見てしまう右脳人間であるからであろう。
 
 
 
 
韻文だけでなく散文もかけるほうが、脳みそは左右平等に遣うことになるだろう。科学だけでなく、芸術にも目が行くなら、左右の脳を存分に使うことになる。
どっちかに偏ることは、要するに人間として与えられた機能を使い切れて居ないことになる。だから超能力者を人は差別してしまのである。偏った視線の信者だからだ。見えないものが見えていても、それだけではなく、論理的な思考能力も使わねば「かたわ」と見られるのである。
 
 
タタリ神という観念は、まだ知識が不完全だった時代の世界中の民族の共通性である。靖国のような、未だに戦犯を祟るから祭るなどという前近代的な思想は、すでに海外では前世紀の遺物となっており、忘れられている。あの共産国でさもそう思うのである。もちろんそれは共産主義と言う新たな悪霊を彼らが見つけたからにほかならない。彼らもまだ、日本人政治家同様、合理主義に目覚められない「かたわ」国家なのであろう。
 
 
 
白川大明神の著書など、ぼくはほとんど読まないで歴史をじっとり考えてきたが、その気づいた多くの点を、大明神はぼくがこのブログを書き始める前に書いておられたわけである。そう考えると、単騎考え付いた私は天才的なんじゃないかとにんまりするのだった。
 
 
誰や?今、「あほか」ちゅうたんは?
まあ、白川センセは流石です。
 
 
引用 白川静×梅原猛対談 『呪の思想 神と人の間』
 
 
 
 
 
 
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千年後の自分は

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千年後、自分は何をしているだろうとは、おそらく誰も考えることなどないと思う。
 
 
けれど私は、今そう考えている。
 
 
ありえない?
 
 
いや、そうではなく、
 
 
歴史を知るという行為は、そういうものなのだと言っているのだ。
 
 
千年後の将来等、誰にもありえないし、あったとしても知ることなどできるはずはない。
 
 
歴史とは過去でしかない。
 
 
過去はほのかに見ることが可能だ。
 
 
けれど未来は絶対に見ることはできない、不可視の将来である。
 
 
だから、未来を少しでも見えるようにするために、自分は過去を知ろうとしている。
 
 
 
実は、歴史とは、過去にこだわりつつも、未来を見たい人たちのためにあり、
 
 
古ぼけ、苔むしたと現代人の誰もが考える、人間の生きてきた痕跡を通して、
 
 
千年後のこの世界が、どうなっているかを空想するためにあるのであって、
 
 
決してただ単純に過去の真実に迫りさえすればいいものではない。
 
 
なぜなら、時は戻らず、前にしか進むことがないからだし、
 
 
地球と言う大地でさえ、老いてゆく器物に過ぎないからである。
 
 
すると、私が気になって仕方がないのは、未来の世界人類が、果たして、今の国境
 
を超えて、ひとつになれているだろうか、なのである。
 
 
自分は、そのために古代史を楽しんでいる。
 
 
どうにも、気になることの次元が、学者たちとも、研究者たちとも、愛好家たちと
 
 
も、違うのだろう。
 
 
 
私はここにいない。
 
 
 
悠久の過去と、永遠の未来とをただ行き来している無なのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
意識の中での話だが。
 
 
 
 
 
 
 
例えば、逢いたい偉人がいるなら誰にあいたいかと聞かれても、私の答えには、
 
 
 
キリストも仏陀もマホメッドもなく、
 
 
 
それらを生み出した宇宙の創造者にしか、逢いたいものがないのだ。
 
 
 
やはり、私はここにいて、本当は過去にも未来にも固執のない、
 
 
 
すでに風のような、空気のような、いなくてもいい存在になってしまっているのか
 
 
 
 
そうかも知れない。
 
 
 
 
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無機質な石がうらやましい。
 
 
 
 
千年経ってもそれはそこで時間を眺めているだろうから。
 
 
 
 
もし、石に意識と視力があるのなら、今すぐ石になってもかまわない。
 
 
 
 
 
けれど、非凡でない私には、それは無理な話だ。
 
 
 
生物とは、なんとはかなく、切なく、消えてゆくモノなのだろうか。
 
 
 
 
かなわぬものはかなわない。
 
 
 
過去を鏡にして、未来を想像するしかないまま、われわれはみな、
 
 
 
やがて消滅する。
 
 
 
いさかうことなど何もない。
 
 
 
 
 
 
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レンガの一致で阿武山古墳鎌足墓説は証明できるか?三島別業と軽皇子と多武峰略記の陰謀

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昨日の考古学ニュースで大阪府摂津地域にある茨木市東奈良古墳から、同じく茨木市の阿武山(あぶやま)古墳から出ていた塼(せん・焼成レンガの一種)とよく似た一枚の塼が出たと発表があった。
日経新聞など
 
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塼を拡大した画像 もっと拡大できます。
 
 
 
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うねるような渦巻きの連続模様でよく似ているのだが・・・?
微妙に違うとも、色が違うとも見えてしまう・・・?
 
 
 

●鎌足三嶋別業
「『日本書紀』は、大化の「改新」の偉業を目前に控えた皇極三年春正月、中臣鎌足(なかとみ・かまたり,614~669)が、神祇伯(長官)への就任を固辞して「三嶋の別業」へ引きこもり、改革の進め方についての思案を重ねたと伝えているのですが、彼の本業(本拠地)が大和国のどこかであったのに対し、もう一つ、安心して思索にふけることの出来た場所が摂津国三嶋の地にあったようなのです。

確かに『大阪府全志・巻三』という書物によれば、摂津国嶋上郡だけをとってみても天児屋根命を祭神とする春日神社、八幡神社などが二十近くも鎮座、奈佐原には彼のものではないかと推察されている阿武山古墳が存在しています。また、三嶋という土地そのものが早くから開発され、大和の中央勢力との結びつきを強めていたことが「記紀神話」でも度々語られていますから、鎌足の「出世」を支えたに違いない、確かな地盤があったことを想像させるのです。」
http://www.ten-f.com/kamatari-to-mishima.htm
 
三島に別業(別荘)を持っていたのは鎌足だけではない。
高槻に孝徳大王即位前の軽皇子も別業を持っており、そこへ鎌足は訪問し、最初の蘇我入鹿暗殺計画を打ち明けている。
 
東奈良遺跡は集落遺跡で非常に大きな遺跡でもある。
 
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瓦や塼のデザインには流行もある。近くで出たから同じ人のものとは言えない。
 
 
ではこれまでのほかの遺物や記録での分析はどうなっているか見てみよう。
 
 
 


 
 
 
阿武山古墳は鎌足の墓か?

●考古学から
「まず、近年の阿武山古墳ニ鎌足墓説2) を挙げると、猪熊兼勝氏がX 線写真から新たに判明した冠などを拠り所に主張しており[猪熊 1988 ・ 1994J 、直木孝次郎氏も文献史料の再検討から猪熊説を肯定している[直木 1988J 。
考古学でも一般に、鎌足墓とする見解が根強い[梅本ほか 1995J 。それらに対して、奥田尚氏は、文献史学の立場から猪熊説に異論を提示している[奥田 1997 a J 。続いて、中村浩氏は、出土須恵器が鎌足の没年には合わないと指摘し、文献史学による既往の研究成果もふまえ、当該古墳の被葬者は藤原鎌足ではないとしている[中村 1998J 。」
 
「阿武山古墳が尾根項上部に単独で立地する点や須恵器の出土地点・出土状況から考えて、後に他の時期の遺物が混入する余地はほとんどなく、森田克行氏などの指摘のように、内容的なまとまりからみても、この阿武山古墳に伴う須恵器と考えざるをえない[森田 1983J [中村 1998J 。
 
それを前提に、須恵器の実年代観をみていきたい。この点については、実に様々な見解が出されている。猪熊兼勝氏は 7 世紀初頭とみなし[猪熊1988J 、森田克行氏は 7 世紀第 2 四半期の前半を下らないもので、 7 世紀の第 1 四半期と第 2 四半期の聞とする[森田 1983J 。そして中村浩氏は、7世紀の第 2 四半期、さらには640-650年頃に置き[中村 1998J 、ごく近年の研究として佐藤隆氏は、阿武山古墳を藤原鎌足墓かという想定のもとに、実質的には 7 世紀第 3 四半期頃に位置付けている[佐藤 2003J 。」

「まず、阿武山古墳出土須恵器について最もまとまった検討を及ぽしているのが、中村浩氏である[中村 1998J 。しかし、中村氏の当該期の編年案は、杯H (図 1-8 ・ 9 ほか)と杯 G (図 1 -10 ・ 11 ほか) 3) を主な指標にII ・ III型式に大別するが、杯H と杯 G を一系列的な型式変遷とみなす点で、既に指摘があるように問題視せざるをえない[佐藤 2003 ほか]。
 
そうなると、飛鳥地域の消費地資料に基づく編年案 (1飛鳥編年J) が、年代推定根拠を伴うことも合めて、現状では最も妥当性の高いものと言える。ところが、その飛鳥編年も編年指標などの点では、必ずしも固まったものではない。本来は筆者独自の編年設定を行うべきかもしれないが、資料不足の部分もあるため、さしあたり一括土器群が出土した飛鳥地域の標識的な遺構資料をそのまま用いて、比較検討してみたい。
 
ただし、阿武山古墳は摂津に住置し、その出土須恵器の産地が陶邑窯とは言えないため、厳密には飛鳥地域出土品の主な供給源である陶邑窯製品と直接比較しうるかは問題になる。しかし、同じ畿内では、産地による大きな差異が認めがたいので、飛鳥編年とも大きく雌軒するものではないと判断しておきたい[佐藤 2003ほか]。」
 
「これらの諸点から判断すると、阿武山古墳出土須恵器は飛鳥 II 末の水落遺跡段階より古い様相であり、大津京遷都 (667年)以降にまで下ることは考えがたい。そうなると、阿武山古墳出土須恵器を、鎌足の没年である 668年に当てるのは、かなり困難となる。また、より細かくみると、山田寺下層や甘橿丘焼土層よりは、杯H 身の立ち上がりがやや棲小で、法量も小さい。しかしながら、杯H 蓋や杯 G 身からみて、坂田寺段階ほどに法量は縮小しておらず、飛鳥池溝などと近似する様相だと言える。もちろん、厳密に言えば、消費地一括品の法量にもぱらつきはあるため、あまりにも細かな年代比定は、方法的に限界を有しているが、上記のことをふまえて阿武山古墳の築造年代を推測すると、 640年代でも後半、 650年前後になる可能性がより高いものと思われる。」

「以上のように、近年の資料蓄積をもとに出土須恵器を再検討する限り、阿武山古墳二鎌足墓説は蓋然性が低いと判断せざるをえなくなる。」
 
 
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阿武山古墳出土官帽と翡翠の玉枕のレプリカ
 

●文献から
「摂津三島の阿武山古墳に近接して「安威J という地名が残るが、それを冠する山、「阿威山j が鎌足の墓所としてみえることが、何よりも阿武山古墳=鎌足墓説の根拠である。そして、それを記載する史料としては、『多武峯縁起』がよく知られている。この縁起は、一条兼良の述作で、室町中期、15世紀中頃に成立したとみられることが多かったが、同内容で永済の草案により暦仁 2 年 (1239) に成立したという詞書を持つ『大織冠縁起』の存在が確認されたため、成立年代が大幅に遡ることになった[牧野 1990J 。それに先立つ史料としては、建久 8 年 (1197) に成立したとされる『多武峯略記』があり、その内容は取捨選択されて『多武峯縁起』に受け継がれている。『多武峯略記』には先行史料からの引用文を示しており、それが鎌足墓阿威山説を記す最も古い史料となる」
 
「以上みてきたように、文献史料をもとにする考察からしても、阿武山古墳が鎌足墓であることは、ほぽ否定されるものと思われる。」
 
 


 
 
 
◆そもそもなぜ改葬後の古墳に遺体も遺品も残されているのか?に気づかないと

摂津三嶋に別業を持っていたと書かれた人物は鎌足だけではない。軽皇子も三嶋に別業を持っていた。

今回の塼の類似が、阿武山=鎌足墓と決定するに充分な考古資料かはまだだと言うしかない。
なぜなら瓦や塼には、時代ごとにブームがある装飾品だからである。
摂津の窯では、この渦巻き模様が流行っていて、たまたま同じ摂津の阿武山古墳と東奈良遺跡の塼が同時期のものだから同じ窯の同じ職人によってとしても、なんら不都合はない。大量生産できる塼の模様が一致したからといって、奈良の多武峰への改葬が不比等によって行われたので、多武峰(談山神社)周辺からこの塼が出れば、阿武山鎌足墓説はようやく確実なものになるのである。
 
 
 
●東奈良遺跡
東奈良遺跡(ひがしならいせき)は、大阪府茨木市の南部、阪急南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落の遺跡。1973年、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに、出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

(この付近は「沢良宜(さわらぎ)」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。 カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。)
 
 
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出土した銅鐸鋳型

この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。

 大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地とされるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺である奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜だったとの説がある。

大阪府高槻市土室町(はむろちょう)上土室(かみはむろ)には土師氏の釜跡新池埴輪窯が残されているが、ここで焼かれたのは今城塚や大田茶臼山などの継体大王時代の埴輪ではないかと思われ、鎌足とは時代がかなりかけ離れてしまう。
 
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新池埴輪窯
 
 
 
今回の塼がどこの窯で焼かれたかが重要である。東奈良は広域な集落遺跡ゆえに、同じ塼がほかにも見つかっておかしくないだろう。それらがどこで焼かれたか、つまりそれが鎌足の改葬墓がある奈良、あるいは居宅のあった山科や将軍塚付近ででも見つかったり、焼かれたことが分かれば面白くなる。
 
 

これだけでは阿武山鎌足古墳説は決められない。

摂津三嶋地域はこれまでに筆者も三度訪問しているが、春日神社などの痕跡は、藤原氏が奈良春日山に大社を建てるために在地春日氏を同族化したことに由来して、あとづけで建てられたものという考え方もできるのである。そして『日本書記』の三嶋別業記事もそうだが、鎌足と天智の乙巳の変すらもなかった可能性もあるのである。これらの一連の記事は、軽皇子つまり孝徳大王(天智の叔父)の三島別業(高槻市古曽部町説もあり)であった可能性はないか?

阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高281.1m)の山腹にある。阿武山は安威川と芥川の間に立つ丘陵で、周囲からも良く見え、なおかつ山頂から大阪平野のほぼ全部を見渡すことのできる場所である。この古墳は「貴人の墓」という別名でも知られ、被葬者は藤原鎌足説があるなど、高貴な人物であったことは間違いない。とWikiは言う。

そしてこの発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)とも書いている。とりあえず朝日が最初に騒ぎ立てたのはちょっと気になる。
 
「1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物であったことは間違いない。
 
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり[1]、それを授けられた人物は、史上では百済王子・余豊璋を除けば大織冠(授受者は)鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。
 
しかし被葬者として鎌足の同時代人の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)をあげる説もあり、阿武山古墳が鎌足の墓所だとはいまだ断定できない。」同じくWiki阿武山古墳
 

阿武山が鎌足の最初の墓であったという背景は、
●まずこの安威地名の藤原氏資料文献との一致
●大織冠のX写真発見
●その後、この冠から赤い繊維が見つかり、それは確かに大織冠に貼られる布の色だった
●被葬者の髪の毛から、当時は身分の高いものしか使えない高価な砒素成分が検出
●そして記録の三島別業での隠棲記事と、すぐそばに最初密会した軽の別業があること

などなどによって主に文献史学の直木孝次郎が間違いないと言われたのが始まりである。しかし一時的に隠棲した別業の近くに墓を造るのも奇妙ではある。
 
『日本書記』も「多武峰略紀」も権威、直木も権威、考古学資料もはでで明快だったから、全員が引き込まれ、一時は間違いないとなっていった。しかしその後の調査では上記の記事のように、「ありえない」のではないかへと向かうこととなる。そこへ今回の塼。
 
それよりも筆者はこの塼のデザインである渦巻きに眼がいった。
長寿の秘薬と信じ込まれていた砒素を服用した阿武山の被葬者ならばこそ、永遠の渦巻きも手に入れたのだろう。しかし砒素は当然少量なら薬品にもなろうが、なにしろ猛毒。常用すれば死をはやめてしまうもの。
 
この阿武山に残された金糸をまとった貴人の遺骨がわからない。不比等が多武峰に改葬したのなら、なぜ遺骨がそっくりそのまま古墳に残されているのかという素朴な疑問である。しかも大職冠やヒスイの玉枕のような貴重な遺品もそのままにしておくはずがないだろう?そう考えると、どうも一連の『日本書記』や藤原氏自身の伝記である「多武峰」記録は、わざわざ書き残された感が強くなった。

また被葬者は肋骨が三本欠損しており、これは記録にある鎌足死の五ヶ月前に狩猟に出かけたとあるのが原因の落馬事故であろうという説もあり、いよいよ「阿武山は鎌足」を押し上げたことがある。略記の記事には「墓は安威の阿威山にある」とあって、阿武山と一致していない。もちろん阿威から阿武へのその後の変化や、誤った地名の伝承が起きたとしてもおかしくはないのだが。

阿武地名については以前分析した。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56499708.html
 

それはアラビア語の花崗岩だとしてある。
その後、高槻市の阿武山古墳石室の解説に、
「石室は花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました」

というのを発見。やはり花崗岩を切り出してきて運び上げたので、そのときから阿威山を阿武山と変更したのではないかと思えたものである。
 
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さて、今回の発見は鎌足墓阿武山説をどう動かせるのか、興味津々。
またまた『日本書記』などの記録の大々的な捏造か?不比等の画策のひとつだったか?

そういう気がしてきた。鎌足と天智の存在を疑う。

天智天皇陵がわざわざ藤原京の真北に作られるのは、『日本書記』編纂の後である。ここにも不比等の意図が感じ取れる。つまり不比等は天智を正統な天子としたのである。だから阿武山が奈良から見て北西にあるのもあまりに意図的に見えてしまうのだ。もしや阿武山と言う孝徳あたりの貴人の墓を親の墓に仕立て上げたのではないか?

これらもやはりアマテラス同様、不比等の後付に現代のわれわれが踊らされているような気がしてくる、今日この頃である。
 
 
 
 
 
 
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芭蕉忌にかこつけて/秦一族・松尾芭蕉=忍者・スパイ説を見直す

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松尾 芭蕉(まつお ばしょう)
寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
 
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伊賀上野赤坂農人町(現在の三重県伊賀上野市赤坂町)出身
 (柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり。親が柘植から※1赤坂へ引越ししており、芭蕉出生が前か後かが不明ゆえ。これはどっちでもよかろう)

父、松尾与左衛門(当時※2「無足人」と呼ばれた郷士・地侍級農家)の次男。
幼名、金作。通称甚七郎、甚四郎。

武家俗名、松尾忠右衛門宗房。

俳号、初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
蕉風(しょうふう)と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立、後世、俳聖。
十九歳の時、藤堂藩の侍大将の藤堂良精(ヨシキヨ)の嗣子、良忠に子小姓として出仕。
主君・良忠とともに俳諧を学ぶ。
二十三歳の時、良忠が病没し主家を自辞。俳諧の道を歩み始める。
元禄二年(1689)三月末、江戸を立ち、門弟河合曽良(かわい・そら)ただ一人伴って、奥州への旅に出る。 この旅の俳諧紀行文が有名な『奥の細道』。

河合曽良にも実はそのときの旅日記『曽良旅日記』があり、※3その行動が比較できる。
 
 

※1 伊賀上野赤坂町
※2 無足人(むそくにん)
① 所領がなく扶持米だけを支給された下層の武士。無足衆。
②田地をもたない下層農民。(ことバンクより)
無足人は明治維新後、士族にはなれず、その大部分は「卒」扱いのままにされた。
明治5年に「卒」身分も廃止。
ただ、伊賀上野藩の場合はやや状況の違うものがおり、
 
「かつて、伊賀の郷士たちは「伊賀惣国一揆」を組んで守護大名の支配に抗して自治をはかり、各々、 伝統の武芸である忍術の修練に励んだが、やがて、織田信長の二度にわたる伊賀討伐によって壊滅する。 この時、多くの者が全国に四散して諸大名に仕えたが、また多くの者は郷士として伊賀に留まった。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
とも聞く。
 
 
要するに伊賀の無足人は、その中に武芸・忍びにたけた伊賀者、つまり間諜(スパイ・お庭番・忍びの者)もいたことになる。もちろんだからと言って芭蕉の父、松尾与左衛門もそうだったという証拠は何もない。ただ「松尾」姓は山城の秦氏が居住した松尾大社(まつのお)周辺の名乗りであるので、伊賀や柳生の忍軍の始まりがもと秦氏部民の服部一族にあるとする説はかなり言われることではあろう。

ちなみに室町将軍に寵愛された能楽師・観阿弥・世阿弥親子には「秦」姓を明言しており、世阿弥作『風姿花伝(花伝書)』序文に杉の子服部(すぎのこはっとり)」秦元清と署名してある。
 
また曾孫に当たる観世小次郎信光の肖像に書かれた讃には、伊賀の服部氏一族の武士であった観阿弥の父が、あるとき春日神社より「子を楽人として神に仕えさせよ」との神託を受け、三男である観阿弥に結崎氏を名乗らせ春日神社に捧げた、という伝説的なエピソードが記されている。
 
阿弥」とは京都などの犬神人(いぬじにん・寺社境内に巣食った遊び人で、神人(しんじん)とも言うが神社の掃除や用心棒をする程度の、いわゆる乞食や芸人の集団であり、その中心的存在は多く山城秦氏らの下人(秦人・秦部)であったと言われる。そのはじまりは秦氏が聖徳太子を祈念して奉仕した広隆寺境内にあった大酒神社からであるとされる。なお、豊臣秀吉や徳川家康の父も、そうした犬神人集団から出た乞食坊主、厄払いを旨とする回遊者であったと言う。多くが弓の弦を売り歩いたので弦召(つるそめ)とも)のことである。
 
彼らは中世~江戸期にかけて下級武士であったものがいくさがなくなって磊落したものが多く、教養の高いものもいた。ゆえに職農民としては最下層の被差別ではあったが、芸能などで貴人パトロンに囲われたり、放浪の途中、家康の父のように良家に取り入り、養子となるものもあったらしい。

芭蕉が「松尾」「無足人」という理由だけで忍者スパイの役割を持った秦部の出自だったかどうかは不明だが、少なくとも、観阿弥・世阿弥親子は間違いなく上記出自だっただろうと思われる。芭蕉が下級とは言え武家の出でありながら俳諧などという芸能の道に進んだかの理由を求めるには、これしかとっかかりはありえない。つまり忍びが術のひとつとした符牒や他にわからないような言語、文字の基盤に、古代から続いた和歌・猿楽・念誦・隠れ蓑・暗号・薬品製造・火薬や製鉄、塩作りなどがあっただろうことは想像に難くなく、旅をするための天文遁行(てんもんとんこう、道教による統計的天文学・気象学など)を知っている可能性は高い。
 

※3 河合曽良旅日記と「奥の細道」の道程齟齬
「芭蕉隠密説が、その決定的な根拠とするところは、 その東北旅行に同行した河合曽良の「曽良旅日記」(「奥の細道随行日記」)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることである。 まず、江戸深川を旅立った日から既に食い違っている。 芭蕉は三月二十七日、曽良は二十日としている。 芭蕉の「奥の細道」は文学作品であるから、ある程度の文学的デフォルメがあるのは已むを得ないにしても、 その食い違いの多くは、そのようなことでは解釈出来ず、 そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないと云う。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html
 
 
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NHK出版『歴史発見2(奥の細道・芭蕉、謎の旅路)』1993 によるところでは、芭蕉がこの紀行で探っていたものとは 山形特産紅花の栽培技術ではないかという。

 眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
 
 行末は 誰(た)が肌ふれむ 紅の花

芭蕉、山形尾花沢?で詠んだ二句である。
 
「芭蕉が尾花沢に着いたのは5月17日で、6月朔日(ついたち)に大石田をたっている。その間すすめられて山寺を訪れたのは5月27日と翌28日で、新暦になおすと7月の13・14日で、紅花が咲きほこっている時期であった。沿道に咲き乱れた紅花は、芭蕉の興感をさそったことであろう。
 
  紅花の研究家今田信一先生は「二つの句を味わってみると、『眉掃』の句は咲き始めの可憐な一輪咲きを見つけて心をひかれた時の句であり、『行末』の句は畑一面に咲き誇った紅花のあでやかさに打たれた時の句であろう」といっている。
 
  紅花栽培の北限は東根北部であるが、この附近では4月上旬に種をまいて「土用一つ咲き」といって、7月中旬に咲き始めるのが普通であった。これに対し、山形付近では4月4・5日頃に種をまいて、「半夏一つ咲き」といって、7月2・3日頃から咲き出すのが通例であった。
 
この紅花の開花期と二つの句の味わいを重ねてみると、『眉掃』の句は東根附近で咲き始めの紅花畑を眺めた時の句であり、『行末』の句は山寺街道沿いの、満面と咲きほこった紅花畑を眺めた時の句であろう、ということになる。
 
 芭蕉は尾花沢から南下して山寺立石寺に詣でては有名な「蝉」の句を、その途中でこの「紅花二句」を残したことになる。 」
http://www.benibananosato.jp/kahoku/lib01/211benibananiku.html

紅花が化粧に使われ始めたのは奈良時代。それまでは顔料や水銀である。従って紅花は高級品であり、貴族や武家しか買えない代物である。その紅花を詠んだ句を二句も書き残した芭蕉にはどのような意図があったか。

二番目の句に「誰が肌ふれむ」とあるように紅花は着物の染料でもあった。また上の句は「眉掃き」とあるので、紅花の穂先を、眉を刷く丸いハケと見た句である。今で言うなら似ているのは頬紅用のチークブラシであろう。
 

ここから考えられるのは、もし芭蕉に紅花の栽培法やその種を求めさせた人があったとすれば、それはどうやら良家の子女ではなかろうか?ということである。
だが、俳諧と云うものは中世の連歌から発展したものであるが、中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴するので、しばしば諜報活動を担わされた例がある。 室町時代の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。 宗長は今川家の有力な家臣である朝比奈氏の掛川の城を詳細に探索し、日記の中に書き残している。すれば芭蕉にはほかの調査以来があったとしてもおかしくない。そもそもなにゆえにはるかな伊賀から、北上したのだろう?なぜ西海道や南海道ではないのか?なぜ紅花が満開になる北国の夏にあわせての出立だったのか?
 
 

もうひとつの仮説は芭蕉は義経の残影を求めて平泉を目的地にしたという説である。

        夏草や つわものどもの 夢の跡

なるほど平泉・・・。
 

また芭蕉はカラスの句を三つも詠んでいることから、八咫烏に惹かれて旅に出たという説もある。http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_163.html
 
 
いずれにせよ年齢45で歩いたその速度は異常に早い。
 
 
「もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに
 
  草の戸も住替る代ぞひなの家
 
 面八句を庵の柱に懸置。」
奥の細道序文
 

ここでは宮城松島のことがどうしても気になって・・・と書いてある。

別の箇所には、道祖神(庚申さま、つまり伊勢の猿田彦)に心惹かれて自分は旅に出た・・・とも書かれてある。

芭蕉はしかし道祖神に旅の中で一回も立ち寄ってはいないようだ。????
 
 
さてさて、松島といえば塩釜、塩竃である。
塩竃神社は、要するに海人たちが藻塩を作っていた土地で、塩竃とは鉄製の巨大な鍋であるが、実はここに祭られているご神体は、大津波によって海に流され、のちに拾い上げられた四枚の大なべである
 
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つまり藻塩の製塩には鉄製の塩竃が不可欠だったのだ。そして松島の海人族(あま)たちには、往古から製鉄技術があった。それははるか縄文の蝦夷たち独自の簡易製鉄技術と、伊達藩が姫路から招聘した播磨鋳物師たちの鋳物技術によって戦国~江戸期に、伊達藩の重要な産業となる。つまり芭蕉が探るとするならば伊達藩の製塩と製鉄技術のほうが紅花よりも可能性が高くなるのではなかろうか?


塩竃神社についてはかなり詳細な描写をしているが、なぜか句は詠んでいない。何か詠んでいる場合でないなにかの目的があったか?である。

 「最近の研究によると、芭蕉の目的は仙台伊達藩の動静を探ることにあったと云われている。 当時、幕府は伊達藩に日光東照宮の修繕を命令したが、莫大な出費を強いられることから、 伊達藩が不穏な動きを示す可能性があったためと云う。 そして、彼はこの探索を水戸藩を通じて命ぜられたと云う。 事実、彼の旅程を詳さに検討すると、伊達藩領内については、何かと異常と思われる節が多く見られるのである。」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/basho.html

ということは芭蕉のクライアントは伊達藩の動向、経済が非常に気になる幕府の意向を受けた水戸藩でいいということになるだろうか?
 

いや、筆者には芭蕉がスパイだったとは思えないのである。

芭蕉は俳諧師、芸術家でしかなかったのかも知れない。
つまり八咫烏や道祖神や海人のも塩と読んでゆけば、そこには彼の死生観が如実に滲みでてくるのである。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)が起きた。芭蕉はまだ生まれていないが、この話題は関東地方でかなり長く語り継がれることになるほどの大被害をもたらしている。『武藤六上衛門所蔵古大書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになる。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と津波に遭遇し、その記録を残している。
芭蕉が生きた年間に地震は数回あった。

1649  関東地方南部 ? 多数 
1662/05/01 畿内・丹後・東海西部地震 滋賀県 7.4? 多数 
1662/09/20 日向・大隅地震 宮崎県沖 7.6? ? 
1665/12/27 越後高田地震 新潟県南部 ? 1,500 
1677  房総半島沖

特に奥の細道出立(85年)の直前では65年と77年、特に江戸に住んでいた芭蕉にとっては77年の房総沖大地震による津波は、前から知っていた三陸沖の大津波の伝承を思い起こさせたかも知れない。

地震と津波によって、どちらも多数の死者を出している。これが芭蕉の古代祭祀氏族秦氏の部出自というものから身についた独自の神秘的死生観の琴線を、強く振るわせたのではなかろうか?道祖神、黒い烏、塩竃、源義経、赤い紅花そして大地震・・・これらに、人間の心の奥の後戸(うらど)を扱ってきた往古の神人血脈が「死」を俳諧師に想起させた・・・?
 
芭蕉が経巡った順路をもう一度見てみよう。福島、宮城、石巻、三陸、新潟、そして日本海・・・大災害や大いくさ、そして大きな寺社があるとこを選んで巡っている。それはただの観光旅行ではない。俳句を詠むものなら当然歴史的知識も多くあったことだろう。
 
当時の旅とは生死をかけて出かけなければならないものである。旅することそのものに死生観があった。富士山へ上るときも、熊野・伊勢・四国遍路にゆくときも、必ず江戸の民はまず築地・吉原そばの三角州あたりの河原で精進潔斎、沐浴をし、大山詣でして旅の安全と無事を祈ってから出かけたのである。旅には死生観が常にまとわりついていた。だから芭蕉の旅もまた、おのれのいのち、民衆のいのちの長く続くことを祈念する意味があったはずである。
 
 


 

さてさて・・・?
ともあれ、今日は芭蕉忌である。
妄想はさておき、俳句でもひねろうではないか。
 
 
 
 
 

       わび庵 一句ひねれば ここも青山(せいざん)
       

        人間(じんかん)は 田畑でさえ 秋葉かな
 
 
 
 
 
 
 
おそまつ
 
 
 
 
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いわきの人面土器

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「人面付土器」の一部が出土 いわきで初、県内6例目

「人面付土器」の一部が出土 いわきで初、県内6例目
いわき市で初めて見つかった人面付土器の一部
 いわき市内郷御厩町の遺跡発掘調査で11日までに、同市で初めて、再葬墓の際に骨つぼのような役割で使う「人面付土器」の一部が発見された。県内では6例目。調査を行っている市教育文化事業団は、この発見が、東日本に分布していた再葬墓の風習が同市でも行われていたことの裏付けになる、としている。同日、現地で開かれた発掘調査現地説明会で披露された。

 再葬墓は、弥生時代に東日本で行われていた埋葬法で、一度埋葬した遺体を掘り起こし、骨を土器に入れて再度埋葬する。使用する土器に人の顔がデザインされていることが特徴。

 今回見つかったのは眉、目、鼻の部分(5センチ×8センチ)で、全体の一部。他地域では全体の高さ約60センチの同土器が見つかっている。

 同事業団によると、再葬墓の風習は、亡くなった後にも儀礼を行うことで祖先の元へ旅立つことができるとする精神世界の現れといい、当時の人々の仲間意識を醸成していたとも考えられているという。
(2014年10月12日 福島民友トピックス)
http://www.minyu-net.com/news/topic/141012/topic1.html
 
 
 
 
翁だろう。
おきな、子供は「特殊な」つまり古代の死生観では「うち」、聖なるものだった。
片や長生、片や夭折。
ともにまれなものだった。
 
 
再葬とは、一旦野に放置し、鳥や風のなすがままに「野ざらし」にしたあと、
白骨化した骨を拾い集め、骨臓器などに入れるか、あるいは在野ではそのまま墓に埋葬する東日本独特の方法である。
 
古来より、葬儀は歌舞音曲で明るく送るを旨としてきた。
 
この永遠の生命をになう仮面をかぶり、手振り、足ぶり、人々はその死をいたんだだけでなく、死者が祖霊となって、また現世に幼児となって戻ることを願ったのである。送るとはヨミガエリの呪の儀式なのだ。
 
 
だから、人を送るときだけは、どんちゃん騒ぎしたほうがいい。
 
 
この世に現世の未練が残れば彼が祖霊になる決断を阻害してしまうからだ。
 
 
 
福島はやはり道の口。弥生と縄文がまざった文化だ。
 
 
死ぬ前に、一度はいっておかねばならぬ場所。
 
以前は桜の下で死にたいと西行をきどってきたが、ぼくは原発のそばにある装飾古墳でとわの眠りにつきたいと思うようになった。もちろん、かなわぬ願いになるのだろうが。
 
 
 
なにしろぼくは日本史の嫌われ者だから。
悔しいが一生、武内にも塩土にも、蘇我馬子にもなれぬだろう。
 
 
 
 
 
 
 
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古墳の総数は350年間で10万基/おきざり付き

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古墳は350年間作られ
その間に作られた古墳は、円墳、方墳、前方後円墳、双方墳など全部あわせて10万基ほど(現在確認されているだけで)。
 
 
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一年に285~6基作られた計算になる。
つまり一年に300人ほどの豪族の盟主的なえらい人が死んだということである。
 
倭人の国家は往古史書には「分かれて100余国」とあるわけだが、そのあと全国の王に匹敵する豪族がどれくらいに増えたか、まとまったかはわからないが、単純に、一年に全国豪族一族ではそれぞれ3人くらいが死んだことになるか?
 
 
1豪族に何人くらい同族がいたかは地域でばらつきはあるだろう。
 
まあ100人以上はいるとして、100×100余国ならば全倭国で10000人。その中で300人が一年に死ぬ、それが古墳時代の世界。すると逆算すればだいたい当時の豪族の数はつかめる。江戸時代の貴族と武家の割合は全人口のわずか1,5パーなので、古代には豪族の100倍弱の平民がいるだろう。すると当時の人口がだいたいわかる勘定になる。少なく見積もっても100万人以上が古墳時代の列島にいたかと?
 
 
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今の大きな地方都市ほどの人口である。そのあとは一気に増える。
 
 
 年代・元号 西暦 総数 男 女 出典
崇峻天皇2年589年3,931,152910,4203,017,033聖徳太子伝記(『大日本国古来人口考』引用)
聖徳太子574–622年5,030,9501,914,0203,116,930太子伝抄(『温故要略』引用)
4,988,8421,994,0082,994,834太子伝(『它山石初編』引用)
5,031,0501,914,1203,116,930太子伝抄(『它山石初編』引用)
聖徳太子摂政時593–622年4,969,890折焚柴の記、類聚名物考
推古天皇御世593–628年4,969,000町人嚢底払
4,990,000両域人数考、十玄遺稿(『它山石初編』引用)
4,969,899皇風大意
養老5年721年4,584,8931,904,0822,590,811行基大菩薩行状記
聖武天皇御世724-748年5,000,000行基式目(『遊京漫録』引用)
4,276,8001,954,8002,322,000日本国之図
4,899,6481,994,8282,904,820扶桑国之図
11,099,6489,094,8282,004,820南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用)
4,588,8421,994,0082,594,834南贍部州大日本国正統図(『運歩色葉集』引用)
4,899,6201,994,8002,904,820行基菩薩図(『世俗用字集』引用)
8,631,074折焚柴の記、類聚名物考
4,508,951類聚名物考
8,000,000十玄遺稿(『它山石初編』引用)、両域人数考
8,631,000町人嚢底払
8,631,770皇風大意
弘安2年1279年4,989,6581,994,8282,994,830高祖遺文録
4,994,828高祖遺文録
弘安3年1280年4,989,6581,994,8282,994,830高祖遺文録
弘安4年1281年4,589,659高祖遺文録
4,994,828高祖遺文録
4,589,658高祖遺文録
弘安年間1278-1287年4,994,8281,994,8282,994,830類聚名物考
鎌倉時代?4,861,6591,924,8282,936,831日本略記
大永8年1528年4,918,652権少僧都俊貞雑記集(『栗里先生雑著』引用)
永禄5年1562年4,994,8001,994,8282,994,830香取文書
 
そのほかに人や部の群集墳・横穴墓・地下式墓が星の数ほどある。
 
 
 
 
すると毎年、90万人弱の部民は、そのほとんどが風葬、鳥葬、あるいは集団で穴に放り込まれていた。
 
 
それは大地の、つまり当時の観念で言えば神のいけにえなのだった。大地の養分である。えさとも言っていた。
 
 
しかし、この世界で最も大地のために役立ってきたのは彼らのむくろである。
 
 
 
 
 
 
 
これは着想、発想を転換するための、あえて書き置く頭の体操記事である。
 
 
 
 
 
 
 
目からうろこははいでおくに、越したことはない・
 
 
 
 
 
 
 
計算は酔ってますから間違ってるかもね。
 
 
 
 
ともうしますか、いつまでそんなサッカー見てるのよ?
 
 
 
 
 
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本当に大地に、地球に役立つことは、いきとしいけるものにとって、実は死なのかも知れない。そう思うと、ぼくなどの凡百は、生きていることに勇気が出る。
 
 
それが循環のとわ。
 
 
だからあんたも生きていなさいよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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祭りと偏西風

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大きな台風がたてつづけにやってきたが、この時期、よく忘れていることのひとつに、偏西風が10月10日前後に吹き始めるということ。
 
江戸期までは、それは当然のなりわいだったようで、9月~11月に、いわゆる「風の鎮撫の祭り」が集中する。
 
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その中には、すでにそれが風・台風の鎮魂であったことが忘れ去られた祭りも多い。
 
 
例えば大阪南部の「だんじり祭り」や、信州諏訪の御柱祭りなどは、往古は風、自然現象を押さえ込むための鎮撫祭だった。
 
 
 
どちらも共通するのは、死者が出るほど危険な、そして疾駆する様式であることだ。つまり危険で激しい祭りである。
 
 
なぜそのような危険なことをしたかというと、ここを常読してきていただいた人ならだいたいわかると思うけれど、この偏西風の時期の祭りのほとんどがかつては、神=自然へ生贄、人柱をささげて、怒りをおさめてもらうための「追儺」だったからである。
 
むしろ、死者が出たほうが神は喜んでくれる、そう考えられてきたからである。
 
 
なぜなら神とは「人を喰う」モノだったからである。
 
 
 
そして、その神への死のためにだけ生まれてくるものどもがいたのである。
 
 
 
今もそれはちゃんといる。
 
 
 
だんじりの屋根の上にそれはふんばっている。
 
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彼らは、生贄の血を受け継いだもの。
 
 
 
かつて、それは被差別だった。
 
 
 だから祭りはいつも切ないのだ。
 
 
 
 
 
 
いや、切なくなければ、
 
 
 
それは
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祭ではないのだ。
 
 
 
 
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和歌弥多弗利 わかみたふり 若翁 たふれぬ

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すでにこのことは昨年、このサイトが取り上げていることだが、
 
「殺された長屋王」
 
もちろん同じことを書こうとはみじんも思わない。
 
 
 
 
中田興吉『倭政権の構造 王権編』は、鎌倉時代の『字鏡抄』に「若翁」と書いて「たふれぬ」と読ませている例証を取り上げている。
 
先年、考古学的にもこれを証明する遺物が出ているが、木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」には何箇所も「若翁」文字が書かれていた(東野治之)。
 
「たふれぬ」あるいは「たふれす」などと読ませているらしい。
 
『隋書』倭国伝
原文
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
 
 
大意
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 
 
「雞彌」は「きみ」。王后。
「利」は「和」の書き間違いだろうという説が主流。
 
 
 
 
この記述部分にある「和哥弥多弗利」の読みである「わかみたふり」に非常に近いもので、国内では「若御若翁」などと表記したのだろうと思わせてくれたわけである。
 
 
 
「太子を」とあるのでこれは大王の「ひつぎのみこ」の呼び名だったのだろうと思われるのだが、中田は、「若翁」は「王族の子女を指すのに用いられたのであり、特に年少の者に限って用いられた」のだから「(当時の意味では)太子とは限らない」と書いている。「王の子供」全員が「わかみたふり」なのだということあり、必ずしも後継者に限ったことではないと。
 
 
太子は、当時、「ひつぎのみこ」と読む。だから隋の史書はなぜそう書かなかったかが問題になる。
 
中田は、わかみたふりに、ひつぎのみこと言う意味もあったのだと言うのだが、どうも納得しにくい。「ひつぎのみこ」と倭国側が言ったのなら、ちゃんとひつぎのみこと書いたはずだ。ならば倭国側は・・・つまり馬子が?「太子はわかみたふり」であると言ったとしか考えられまい。ならばそれは「嘘を言った」とも考え及ぶ。
 
 
 
 
開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北 孤 號阿輩雞彌
 
ここでは倭王は「あま」「たりしほこ」と言うとあり、その号は「あはきみ」つまり「おほきみ」だとある。
 
 
 
「おおきみ」は倭国での「大王」の読みである。
この大王で「おおきみ」というのは一般的に、5世紀後半の稲荷山出土の鉄剣の銘文に、「ワカタケル大王の世」とあるので、これが最古とされるされてきたというのだが、和歌山の隅田八幡宮が所蔵していた(常は東京国立が借りている)人物画像鏡(隅田鏡)に「大王」とあり、書かれている内容はほとんど同時代でも、作られた時代は鏡の型式や銘文の文字から見て、稲荷山鉄剣よりも隅田鏡が古いのだ、と中田は書いている。
 
「たりしほこ」は「たりしひこ」などとも読まれている。「あま」は「天」と。すると「あめ(ま)・たらし・ひこ」となってくる。ところがそんな名の大王は記紀に出てこない。これも馬子が答えたのだとすると、これまた嘘かとなる。
 
「あめの」も「たらし」も「ひこ」も名前でもなく、ただの高貴な人という意味しかない尊称でしかない。尊称をコラージュしたもので、だからといって、そういう尊称は大王の号「おほきみ」で充分であって、そもそも名前としても答えておらず、尊称はそう言ったということだけだ。けれど飛鳥のその当時の大王は女帝推古だから「ひこ」では男王になってしまいおかしい。「あめ」のあとには助詞「の」がつくはずだがそれもない。これは姓と字を別々に聞かれたのなら仕方がないわけだが。
 
 
中田が隅田鏡のほうが古いと言う理由は、日十を允恭大王の世だと解釈すると、ワカタケルの雄略より隅田のほうが古いという解釈であろう。
 
 
 
筆者は、隅田鏡の「男弟王がおしさか宮にいるとき」というのが、ではなぜこの鏡は和歌山の紀ノ川沿線の隅田八幡宮にあったのかが以前から不思議でならない。
 
で、これはもしや当時、朝廷が二つあって並立していたのではないのか?と疑っている。というのは紀ノ川河口部の北側にある淡輪古墳群の大きさが、どうも允恭あたりから河内とは別の倭王権だったのではないか?そこに継体大王になる前のオオド王はすでに来ていて、宮が隅田あたりにあったのか?と思いついたのである。
 
ちょうど隅田八幡は北上すれば葛城山麓に出る場所にあって、これは紀氏・葛城連合体の王家だったのではないかと。
 
すると蘇我馬子が、それを隠したかったとも考え付くのである。その後の紀氏や葛城氏の史書での扱いを見ると、どうもそういう対立はあってもおかしくなく、もしや蘇我氏を滅ぼしたのは彼らが背後で・・・?
 
まだこの辺は考えがまとまっていない。
 
 
 
それにそもそも「たふれぬ」とはどういう意味なのだ?
「たぶれたやつ」か?
「たふる」とはなんだろうか????なぜそう読ませるのかさっぱり見当もつかない。どこに皇子の意味があるのか?みこはみこでよいではないか?
 
 
 それに「若」が重複する理由もまた、さっぱり「わか」らない。
 
 
 
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朝鮮半島慶州の九州型屍床を持つ開かれた古墳・虚像の大和朝廷開始と神話

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和田晴吾は古墳石室の棺(ひつぎ)について、九州型の「開かれた棺」と、畿内型の「閉じられた棺」について論じ、さらに「開かれた棺」が朝鮮半島南部の慶州に多いことを書いている(『古墳時代の葬制と他界観』2014 4月)
 
 
慶州周辺の屍床などを持つ「開かれた棺」
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(『古墳時代の葬制と他界観』2014 より)
 
 
「開かれた棺」とは、竪穴式石室を「閉じられた空間」の埋葬様式とするに対する、日本では北部九州で横穴式石室に伴って始まる5世紀後半~6世紀にかけた開かれて、石棺を持たない、直接床に死体を置く葬送様式の石室を言う。この床を屍床と言い、九州ではやがて屍床周囲を石の衝立で囲み、前部だけが開いて遺骸が入り口から見える横口式となる、いわゆる「組み合わせ式石槨」が作られ始め、さらに石槨の上に屋根石=石屋形を置くようになり、次第に屋根の様式が中国的な宮の屋根のように凝ったものへと発展した経緯がある。
 
畿内では、竪穴式石室から6後半になりようやく横穴式石室が始まるが、棺は閉じられた石棺のままである。石棺はやがて畿内河内王権であろう強い氏族が登場して、それが派遣してきた国司クラスの墓には、九州でも採用され始めた。
 
朝鮮南部の屍床のある石室はほぼ、北部九州から遅れて6世紀後半から採用されており、かつ光州の前方後円墳の来訪の遅れることからも、これらは北部九州から半島南部へ人の移住とともに持ち込まれた墓制だろうと筆者は考える。
 
 
 
 
また、和田の仕分けと分析を受けた吉井秀夫は、半島南部横口式・横穴式の古墳における石室・木棺の年代別分析を綿密に行い、木棺を「持ち運ぶ棺」と呼んでおり、半島東部のかつての新羅の範囲だった慶州地方でも、九州型の屍床、石枕などのある古墳の存在を述べている。
 
 
半島で前方後円墳のような外観の一致する墳墓は、かつての百済の範囲である南西部の光州に多く集中するが、これもおそらく九州型横穴式石室を持っており、版図南部の東西に、九州からやってきた氏族の墳墓があることが確認できるのである。
 
 
古墳時代初期~中期の竪穴式石室では、一度土をかぶせるともう二度と開くこともできず、さらに石棺に先行した木槨・木棺も釘で蓋を身に打ち付けられ、あけることがかなわない。要するに竪穴式は閉じられて、再び家族を入れられない、個人の墓であるが、横穴式石室は重たい石で扉されるものの、それは開くことができたわけである。その証拠に重たい閉塞石の地面には「敷居」状の刻みがいれられている。これは『古事記』が描く「黄泉へぐい」の穴倉つまり死者の国のイメージそのものであり、天の岩屋戸の扉そのものであろうと思えるわけだ。そうなると『古事記』が言うところの黄泉のイメージというのは、考古学的にはせいぜい横穴式が畿内へ入ってあと、つまり6世紀後半を遡らない観念で描かれたことになるので、記紀の神話記事そのものが、紀元前何千年などまでは決して遡らない、つまり畿内大和王権の開始が6世紀程度・・・・雄略以後の観念で作られているのだと理解できるのである。はっきり言えば、神武どころか、スサノヲやアマテラスの神話時代も、8世紀記紀の編者が、6世紀あたりを神代と考えていることの証拠にもなろうか?
 
 
 
そしてもっと重要なことは、北部九州型の墓制が、7世紀直前の半島に再現されたことだろう。これは半島民族のアイデンティティを根底からくつがえすことになる。すべての古式がわが国から日本へ行ったといいたがる彼らには、かなりなショックであるはずだ。
 
 


 
 
吉井秀夫 
朝鮮三国時代の墳墓における棺・槨・室構造の特質とその変遷
から抜粋
 「朝鮮半島南西部と南東部では、木棺墓・木槨墓が築造される段階を経て、埋葬施設に石材を用いた、さまざまな構造の竪穴系埋葬施設が築造された。そうした変化の中で、各地域の大型墳墓の埋葬施設内に、鎹や釘を用いた「木棺」が用いられるようになる点に注目したい。南東部においては、鎹のみが用いられる地域が多い。例えば、洛東江河口の慶尚南道金海・大成洞墳墓群や釜山・福泉洞墳墓群では、長さ30cm以上の大型鎹が用いられる。鎹の用途についてはさまざまな説があるものの、出土状況からみる限り、筆者や李賢珠が指摘してきたように(李賢珠1997・2006、吉井2002)、木槨や石槨の内部に築造された「内槨」もしくは「木棺」と呼ばれる構造物に用いられたとみるのが、最も妥当であると考えている。また慶州の積石木槨墳の場合は、梅原末治によって木槨を構築するために鎹が用いられたと想定されている。洛東江中流の高霊を中心とする大加耶系竪穴式石槨からは、釘と鎹が出土することが多く、釘で側板と小口板を結合し、板同士を連結するために鎹が用いられたと推定される(吉井2000、本書第Ⅱ章)。
 
中略
 
 以上のように、4・5世紀においては、王墓が出現する一方で、地域ごとにさまざまな構造の墳墓が築造される。その過程で、同一地域において木槨から石槨へ変化したり、「室墓」と呼びうる横穴系埋葬施設が受容された。しかしその一方で、「棺」の構造や、被葬者の数や葬送儀礼は必ずしも変化しなかったことを、この段階の墓制の特徴としてあげることができるだろう。
 
後略
 
 
 
(3)6・7世紀における墳墓の地域性と棺・槨・室
 6世紀にはいると、高句麗・百済・新羅および加耶諸国において、王墓級の墳墓に横穴系の埋葬施設が採用される。そして、百済の陵山里型石室のように、石室構造に代表される独特の墓制・葬制がそれぞれの政治的領域内に普及した。
 
 この段階において、「持ちはこぶ棺」である釘と鐶座金具が伴う木棺が、朝鮮半島の各地で確認されるようになる。百済の場合、宋山里墳墓群・陵山里墳墓群などの王墓級墳墓では、日本特産種であるコウヤマキを用い、釘や鐶座金具などによって装飾がなされた木棺が用いられ、他の墳墓で用いられた木棺との間に大きな違いが認められる。こうした木棺の出現時期について、筆者は、横穴式石室の出現と共に漢城期にまでさかのぼる可能性を考えていた(吉井1995)。しかし、最近調査例が急増している漢城期横穴式石室では、鎹と釘が共伴する場合が一般的である。
 
中略
 
 
 6世紀の洛東江以西地方、中でも高霊・陜川を中心とする大加耶圏を中心とする地域では、玄室平面方形の横穴式石室が出現する段階において、釘と鐶座金具からなる「持ちはこぶ棺」が出現する。これらの中には、玉田M11号墓出土例のように、金銅や銀で釘頭や鐶座金具を装飾する木棺も存在する。こうした木棺は、咸安・宜寧・晋州などに分布する玄室平面細長方形石室でも用いられている。さらに陜川苧浦里古墳群D-Ⅰ地区のように、小型竪穴式石槨にも釘を用いた木棺が用いられた。以上の様相からみて、6世紀前半から中頃の洛東江以西地方においては、横穴式石室の構造のみならず、釘と鐶座金具からなる木棺を用いた新たな葬送儀礼が受容されたと考えられる(吉井2008c・本書第Ⅲ章)。
 
 5世紀に尚州や昌寧で受容されはじめた横口式石室は、6世紀にはいると洛東江以東地方の各地域で築造されるようになる。昌寧校洞墳墓群の例のように、受容の初期段階の石室からは鎹が出土する場合があり、何らかの木製構造物が存在したと推定できる。しかしその後は、梁山夫婦塚のように、屍床の上に複数の被葬者が直接安置される場合が一般的になる。
 
羨道を備えた横穴式石室は、慶山や浦項など慶州周辺地域で築造がはじまるものの、慶州では6世紀前半頃まで積石木槨墳の築造がつづいていたようである。初期横穴式石室の中には、釘や鐶座金具が出土した例があるが、こうした木棺を用いる風習は定着しなかった。
 
忠孝里型石室」と呼ばれる、慶州で発達した横穴式石室においては、屍身は屍床に直接安置され、石枕や足台が発達する。また、このような被葬者の安置方法は、横穴式石室の構造や「短脚高杯」に代表される特徴的な土器類の副葬などと共に、洛東江以東地方のみならず、洛東江以西地方、漢江流域、東海岸地域など、新羅領域内の各地に広がった。」
 
 
 
 
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            同上 和田著書より
 
 
 
 


 
6世紀後半には、北部九州人たちが半島南部の東西に入って、世代を重ねていたわけで、これはちょうど武烈から継体あたりの飛鳥直前のことなので、半島の百済・新羅経営や伽耶の鉄の占拠などといった大和、あるいは葛城勢力のやったことと書いている『日本書記』などは、まさに嘘になってしまいかねない。また葛城・紀の海人勢力こそが九州から和歌山を経て畿内へ入り、葛城山麓や紀ノ川沿線で別の王家を作っていたという筆者の持論に、考古学が合致するデータを提供してくれたことになるだろう。
 
 
と言うことは、要するに畿内が勢力を強くする時代は葛城・紀・吉備各氏を滅ぼす時代からであり、しかもそれは飛鳥でも奈良大和氏族でもなく、河内の倭五王の後半の人物だったこととなる。だから大和朝廷などという名前の近畿の勢力が登場して王朝をちゃんと作った時代とは、せいぜい飛鳥の蘇我氏が最初で、大和地方ではないとなるのである。用語を正確に使うならば「大和朝廷とはなかった」河内の次が摂津・乙訓、そのあとが飛鳥となり、最後にやっと奈良時代がやってくる。飛鳥が奈良につながるのは天武がつなぐという『日本書記』の記事しか記録はないし、ましてその前の河内政権から継体へのつなぎも『日本書記』が言っているだけであり、そのすべてにクーデター乗っ取り劇があったと思うのは、もう当たり前だとなったとも言える。
 
 
百歩譲っても、大和政権の誕生は雄略からである。
しかもそれも允恭時代までに葛城勢力つまり武内宿禰の勢力を倒して以後、雄略がようやく大和に入ってからである。
 
 
もしかしたら神武から仁徳、聖徳太子あたりもかなり怪しくなリャせんかい?
 
 
『日本書記』はすでに正史とは言えない状況。なにかこう、今の小渕さんみたいな水際状態である。
 
 
 
 
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Kawakatuにさすがと言わせる白川静語録

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梅原猛 米というのはどこから来ますかね。
 
白川静 米はおそらく屈家嶺文化から来ておる。武漢三鎮※1辺りから。あれよりもう少し西南辺りからがその起源地ではないかと思いますけどね。ビルマの方まで行くのかはちょっと解らない。
 


 
 
※1武漢三鎮辺りから。あれよりもう少し西南辺りから。
 武昌・漢口・漢陽。武漢は長江西南部湖北省の都市。稲作発祥地はその後考古学によってほぼそのさらに西南部から・・・約1万年前の中国長江流域の湖南省あたりが稲作の起源とされたので、白川のこの12年前の意見は当時としては慧眼。
湖南省は春秋時代には楚国があったところ。
 
 
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正確にはその中間に位置する上山遺跡群が2004年に発祥地となっている。
 
 
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梅原  巌文明※2さんの、「長江中流」というのが考古学の定説になりかかっていますが。
 
白川  それは屈家嶺文化を起原とみるという見方※3ですね。
ところがこの屈家嶺文化を支配しとったのは、実は僕は苗族だと思う。ミャオ族は昔大変文化が高かった。力も強かった。だから中国の神話は殆ど苗族起こっとるんです。「伏儀・女媧」というのが苗族の神で、彼らは今でも※4伏羲・女媧の歌を六十首ぐらい伝承しとる。伏羲・女媧というのは、天地創造のいちばんの神さまです。
 
 それから重黎神話、天地開闢の説話というのがあります。それから槃瓠説話というのがありますね、黄帝が犬戎と争うて、どうしても勝てんもんだから、敵将の首を獲る者には我が娘を与えると約束した。ところが、黄帝の番犬が・・・・・(誰でも知っているので詳細は省く)その子孫が蕃えんしたものが苗族であると。これがいわゆる槃瓠説話ですが、今でも祭の時には匍匐(ほふく)して口でものを喰うんです。   
 
梅原  それは面白いですね。
 
 

 
※2巌文明
最古の稲作地は小麦農業の発生よりは2千年も古く、約1万4千年前で ある可能性を指摘した中国考古学の権威。
 
※3屈家嶺文化を稲作起原とみる見方
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝神農蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。
 
※4伏羲・女媧の歌を六十首 重黎神話・槃瓠説話
ミャオたちは先祖代々伝わる洪水型兄妹始祖神話をオデッセイにして歌うことで、太古の記憶を今に伝え続けてきた。当ブログ書庫「犬祖伝説」などを参照のこと。
 
   いわゆる蚩尤(しゆう)が出てくる中国の開闢神話
 
槃瓠説話 犬やら動物やらが王の娘と結婚して民族の始祖となったという、いわゆる民俗学が言う「動物婚説話」「異類婚姻譚」「神婚説話」と同類。西欧にもハリネズミの話等さまざまあり。槃瓠とは最初は王の番犬だった。要するに民族の誕生の特殊性を言うことが、彼らが聖なるもの、特別なものであるということ。特権的民族論の一種で、どれも無学なものに教えやすい型式を取るため、古今伝授の定番である。
こういうのは覚えやすく、わかりやすくしておかないと、代々正確に伝承できないので、かなり特殊な話になりがちである。へびやかえる、いぬ、きつねなどさまざま。稲作文化圏では犬や蛇が多い。それは水田にいる生き物で身近だから。日本で俺たちはパンダの子孫だとかローランドゴリラとか言い出してみい?誰も信じません。
 
 

 
 
白川  禹は最後の洪水神であったからね。それで全国的に禹が信奉されるようになったんです。それまでに羌人の洪水神・共工※5とか、色んな洪水神が居るんです。
 
白川  だいたいね、訓読みをするのは日本人だけです。ベトナムも漢字は使っていたけれども、漢音のままで使う。朝鮮の方も、漢字は入ってきたけれども、あれ全部音読みです。訓読がないんです。 
 
それから百済の方では郷札(きょうさつ)とか、吏読(りと)とかいう、やはり宣命式※6の振り仮名をする。しかしそれでも漢字は音読みです。訓読みはないのです。全部。だから音読みするからね、どうしてもイディオム(慣習的単語連結)で読んでしまう。三字、四字、ぶっ続けの句としてね、読んでしまう。それに、「は」とかいう時には、何々「亦(ィ)」という主語を表す助詞を入れるという風にしてね、読むのです。ところがおそらく、百済の人が日本に来て、日本語と漢字との関係ということからですね、百済読み出来ん訳ですね。日本では、全部音読してしまうか、分解して読むか、という以外にないのです。百済的な手法が取れん訳ですね。
 
 日本へ来た人たちが、まだ日本の人では文字はもちろん使えませんから、彼らが皆、「史(ふひと)=記録係、書記」としてね、かなり後まで、文章のことは全部彼らがやっておった(当時は役職を世襲するもの。書記の子孫はずっと書記。ただし万葉時代にはもう日本人は漢字をカナにしてしまう。だから万葉の和歌は日本人がおぼえたての漢字を用いて大和言葉の訓読に一音一文字当てたのであり、百済語に置き換えて意味を探る行為は無意味)日本人は参加していませんからね。だから、彼らが漢語にも通じ、日本語にも通じ、それを折衷してね、日本語に適合する方法として、読むとすれば日本語読み、訓読ですね。これを入れる他ない訳です。だから、本当の訓読を発明したのは、僕は百済人だと思う。
 
 

 
※5羌人の洪水神・共工
河南西部から西の山稜地帯に居住した牧羊民族。姓はみな羌。著名人では太公望呂
尚は姓は姜だがこの姓は羌人と知られたくないので変化させた。共工(ゴンゴン)は羌人たちの洪水神。
 
洪水を押さえ込む=治水は、世界中で王の必須条件になっている。夏王禹もそう。秦氏の弓月君もそう。阿蘇のタケイワタツもそう。とりわけ水耕稲作従事民族には治水はかかせなかった。それで先祖神が洪水神となってゆくが、それは同時に洪水と言う祟り神・自然災害の象徴でもあった。Kawakatu
 
※6郷札(きょうさつ)とか、吏読(りと)とかいう、やはり宣命式※6の振り仮名
郷札(きょうさつ、향찰ヒャンチャル)とは、漢字による朝鮮語の表記方法の1つである。主に新羅時代の歌謡である郷歌の表記に用いられた。古代朝鮮語の資料の1つとして重要な位置を占める。文字の音と訓を利用して古代朝鮮語を表記する方式。
朝鮮において,おもに助詞・助動詞など,送り仮名に相当する部分の表記に用いられる漢字の特殊な使用法をさす。「吏吐」「吏道」とも書く。日本における宣命書きと同趣のもので,まだみずからの文字をもたなかった古代朝鮮において,すべて漢字で表記しようとした結果生れたもの。
 
宣命式とは宣命書き方式のこと。宣命・祝詞を中心に奈良時代から平安初期にかけて用いられた国語表記法の一。「国法乎過犯事無久」のように,ほぼ国語の語序に従い漢字だけで書かれ,体言や用言の語幹の類は大字で,用言の語尾・助動詞・助詞の類は小字で書き分ける。
 


 
日本の最初の漢詩文は近江朝のころにようやく始まる。つまり習ってからしばらくしないと。しかし最初はへたくそな稚拙なもので、『懐風藻』のような立派なものは天武以後成立し始める。
 
和歌も最初は漢文調。人麻呂の「天皇は神にしあれば」のように。しかし人麻呂晩年の歌は次第に日本的な哀傷を描くようになってゆく。感情の吐露を表現できるようになれば手馴れた証拠だ。
 
東日本、特に以前も書いたが、関東では渡来工人と海人族と蝦夷らが多かったので、かえって非常に日本語に熱心で東歌は山ほど残された。おそらく大和の人から見れば、彼らの斬新さ、田舎びた言葉の使用法が珍しかったのだろう。発想の参考にしたと思うし、地方の名所や風俗等を知る知識にもなったことだろう。東国人の方も、和歌くらいしか都の知識を増やせるものはなかった。それに漢字やカナによって、言葉も標準語の勉強になり、ひいては中央での出世もかなうことになる。
 
 
 
 
 
 


 
 
雄略時代の稲荷山や江田船山、あるいは和歌山の隅田八幡鏡などの銘文は、当然、百済工人らが刻んだものだろう。しかし、彼らは書記官のようには漢字に詳しくなく、銘文考案者の言葉を漢字に置き換える際に、かなりの間違いを起こしている。それを学者はどうにか読もうとするのだが、なにしろ最初から、漢字を反転させたり、さかさま、あるいは文法なども記号として無関係に並べてしまうものも多かっただろう。技術系の人々には文武に無学な人が多いから、日本の学者もたいそう苦労するが、なにしろはなから記号として並べるので、間違えられるとお手上げになってしまうわけである。
 
 
 
白川  朝鮮の漢文というのは。ちょっと癖がありましてね。例えば「八月に」というときに「八月中」と書く。それから。「何々死せり」という場合に、それでもう終わりの言葉は要らんのですけどね、文末に「之」をつける。そこに「之」を付けるような漢文はないのです。ところがそういうね、百済式漢文の癖があるのですね。この百済式漢文の癖が、推古朝のものであるとか、それから初期の色んな文章に残っている。例えば近年、太安麻呂の墓碑が出ましたわね、あれにやはりそれが付いとる。「中」とか「之」とついとる。
 
あれは百済人が書いとるのに違いないんです。
 
 
 

 
 
 
その百済式の漢文を、彼らに習った日本の貴人たちはのちに使うことになるわけである。だから癖が似てしまう。
 
そういう癖のある文章を、地域の下級官吏が木簡に墨書したり、工人達は鏡や剣に刻み込む。だから当然間違いも多くなる。
 
『日本書記』の場合は真ん中部分はたまたま中国人が送られてきたから、まともな漢文で書かれたが、神話や雄略までの記述は和製漢文になっているので、それが漢文を習得した日本人があとから書いたとわかるのだ。また風土記などはもっと大変。なにしろ中央で漢文を習ったものがいなければ漢文ではかけない、どころか文字そのものを持たなかった人々が急に史書など書けるはずがない。だから出雲国風土記などは22年も遅れて完成するのである。もちろんそれ以外に、国内で意見がすったもんだしたことも、中央から国造がやってきた出雲なら当然だろうが。結局阿蘇も出雲も結果として国造のほうが地元の言い伝えを重視するほかはなかっただろう。なぜなら、そうしないと税金を納めてくれない反骨のお国柄だからだ。そうなると国造の系譜そのものにも地元豪族の血脈が入り込み、結果として国造は中央ではなく地元寄りの人々の傀儡化する可能性が高くなる。そうでない場合は、神社内部に並立二派ができあがり、それぞれが独立して、対立することになるだろう。例えばやはり阿蘇や出雲のようにである。
 
 

 
 
梅原  子安貝が貨幣として用いられているのは、あの貝が採れるところではない訳ですね。これは大変重要な指摘だと思います。で、もうひとつは?
 
白川  もうひとつはね、呪霊という観念ですね。シャーマニズム的なね。お祭が殆どそういう性格のお祭なんです。何々のタタリに対する祭、というね。
 
梅原  その大きな違いは文字があったかないかですね。
 

 
 
 
そういうこと。
文字、というか、知識が増えれば科学的になり、金属を取り込むようになれば当然それは科学へと発展してゆく。すると人間の脳みそはおのずと科学的、客観的になり、自然災害は決して「神」などではないのだと気づく。たたりなど実はないことにも気づくのである。これがそのまんま人類の歴史なのだ。もしこの科学や学校教育が発達した現代で、まだ古代のような神秘性や主観的呪術に感化される人間がいるのならば、それは基礎学習すべき幼少のころ、不勉強、勉強苦手、あるいは先天的に異界を見てしまう右脳人間であるからであろう。
 
 
 
 
韻文だけでなく散文もかけるほうが、脳みそは左右平等に遣うことになるだろう。科学だけでなく、芸術にも目が行くなら、左右の脳を存分に使うことになる。
どっちかに偏ることは、要するに人間として与えられた機能を使い切れて居ないことになる。だから超能力者を人は差別してしまのである。偏った視線の信者だからだ。見えないものが見えていても、それだけではなく、論理的な思考能力も使わねば「かたわ」と見られるのである。
 
 
タタリ神という観念は、まだ知識が不完全だった時代の世界中の民族の共通性である。靖国のような、未だに戦犯を祟るから祭るなどという前近代的な思想は、すでに海外では前世紀の遺物となっており、忘れられている。あの共産国でさもそう思うのである。もちろんそれは共産主義と言う新たな悪霊を彼らが見つけたからにほかならない。彼らもまだ、日本人政治家同様、合理主義に目覚められない「かたわ」国家なのであろう。
 
 
 
白川大明神の著書など、ぼくはほとんど読まないで歴史をじっとり考えてきたが、その気づいた多くの点を、大明神はぼくがこのブログを書き始める前に書いておられたわけである。そう考えると、単騎考え付いた私は天才的なんじゃないかとにんまりするのだった。
 
 
誰や?今、「あほか」ちゅうたんは?
まあ、白川センセは流石です。
 
 
引用 白川静×梅原猛対談 『呪の思想 神と人の間』
 
 
 
 
 
 
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千年後の自分は

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千年後、自分は何をしているだろうとは、おそらく誰も考えることなどないと思う。
 
 
けれど私は、今そう考えている。
 
 
ありえない?
 
 
いや、そうではなく、
 
 
歴史を知るという行為は、そういうものなのだと言っているのだ。
 
 
千年後の将来等、誰にもありえないし、あったとしても知ることなどできるはずはない。
 
 
歴史とは過去でしかない。
 
 
過去はほのかに見ることが可能だ。
 
 
けれど未来は絶対に見ることはできない、不可視の将来である。
 
 
だから、未来を少しでも見えるようにするために、自分は過去を知ろうとしている。
 
 
 
実は、歴史とは、過去にこだわりつつも、未来を見たい人たちのためにあり、
 
 
古ぼけ、苔むしたと現代人の誰もが考える、人間の生きてきた痕跡を通して、
 
 
千年後のこの世界が、どうなっているかを空想するためにあるのであって、
 
 
決してただ単純に過去の真実に迫りさえすればいいものではない。
 
 
なぜなら、時は戻らず、前にしか進むことがないからだし、
 
 
地球と言う大地でさえ、老いてゆく器物に過ぎないからである。
 
 
すると、私が気になって仕方がないのは、未来の世界人類が、果たして、今の国境
 
を超えて、ひとつになれているだろうか、なのである。
 
 
自分は、そのために古代史を楽しんでいる。
 
 
どうにも、気になることの次元が、学者たちとも、研究者たちとも、愛好家たちと
 
 
も、違うのだろう。
 
 
 
私はここにいない。
 
 
 
悠久の過去と、永遠の未来とをただ行き来している無なのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
意識の中での話だが。
 
 
 
 
 
 
 
例えば、逢いたい偉人がいるなら誰にあいたいかと聞かれても、私の答えには、
 
 
 
キリストも仏陀もマホメッドもなく、
 
 
 
それらを生み出した宇宙の創造者にしか、逢いたいものがないのだ。
 
 
 
やはり、私はここにいて、本当は過去にも未来にも固執のない、
 
 
 
すでに風のような、空気のような、いなくてもいい存在になってしまっているのか
 
 
 
 
そうかも知れない。
 
 
 
 
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無機質な石がうらやましい。
 
 
 
 
千年経ってもそれはそこで時間を眺めているだろうから。
 
 
 
 
もし、石に意識と視力があるのなら、今すぐ石になってもかまわない。
 
 
 
 
 
けれど、非凡でない私には、それは無理な話だ。
 
 
 
生物とは、なんとはかなく、切なく、消えてゆくモノなのだろうか。
 
 
 
 
かなわぬものはかなわない。
 
 
 
過去を鏡にして、未来を想像するしかないまま、われわれはみな、
 
 
 
やがて消滅する。
 
 
 
いさかうことなど何もない。
 
 
 
 
 
 
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