人類学・考古学
鼻根(びこん)=鼻の付け根
縄文人は非常にくぼんで鼻本体との落差がはげしい。つまり彫が深い。
弥生人は平坦で、ひたいかと鼻筋の間にあまり落差がない。つまりのっぺり見える。鼻が高い、低いという表現はあいまいである。人類学で鼻根が深い、浅いという。
【歴史のささやき】あり得ない弥生人骨の出現 山口
産経新聞 10月10日(金)7時55分配信
□土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸氏
わが目を疑った。
このような弥生人骨が「土井ケ浜遺跡」から出土するはずがない。昭和57年10月26日のことである。私は土井ケ浜遺跡の第7次調査に参加していた。憧れの遺跡であり、土井ケ浜遺跡の発掘調査に参加することができただけでも奇跡に近い。
目の前に、2千年の眠りから覚め、まさに出土しようとしている人骨がある。はけやブロアーを使い、顔面を覆っていた砂を慎重に取り除いた。保存状態はきわめて良好である。
ブロアーで鼻根部(鼻の付け根)の砂を吹き飛ばした瞬間、目がくぎ付けになり全身がフリーズした。鼻根部が深くくぼんでいる。これまでに見つかった土井ケ浜弥生人の特徴ではない。
土井ケ浜遺跡の発掘調査は昭和28年から32年までの間、5次にわたる発掘調査がおこなわれ、約200体もの弥生人骨が出土した。当時、弥生人骨の出土は全国でも皆無に近かった。その後の研究の成果で、土井ケ浜弥生人は、顔が高く(長く)、顔面は扁平(へんぺい)で、高身長であることが判明した。
ところが、私の目の前にある人骨は、これまで発掘されたものと、あまりに顔つきが違う。
「この土坑墓は本当に弥生時代のものですか?」
山口県教育委員会の担当者に思わず聞いてしまった。担当者は不可解な表情で「弥生時代の墓ですけど、どうしてですか」と問い返した。
「実はこの人骨の顔面には土井ケ浜弥生人の特徴はみられず、どうみても縄文人の顔なんです」
これが私が土井ケ浜遺跡で出会った初めての人骨(701号人骨)だった。
この時の衝撃は鮮烈で、今も目を閉じると、そのときの光景が蘇る。
◇
701に寄り添うようにして埋葬されていた人骨(702号人骨)は、これまで知られている土井ケ浜弥生人そのものだった。どちらも男性だが、顔もプロポーションも対照的で、異質である。
701は、顔の高さ(長さ)が短く、横幅が広い。「低・広顔」という。眉の上「眉上弓」が隆起し、鼻骨も隆起しているので、鼻の付け根(鼻根部)が陥凹(かんおう)している。いわゆる彫りの深い容貌だ。身長は158・8センチしかない。これらは縄文人の特徴なのである。
一方、702は、顔が高く(長く)、横幅が狭い「高・狭顔」だった。鼻は低く、鼻根部は扁平で、彫りが浅い。身長は165・9センチもあった。
これほど身体的特徴が違う弥生人が、なぜか寄り添うようにして、埋葬されている。一体、この2人はどのような関係にあったのであろうか。
土井ケ浜弥生人のなかには701のような縄文人的形質をもった人骨は他にないのだろうか。もし、この1体だけとしたら、701とは一体何者なのであろうか。第7次調査を終え、土井ケ浜遺跡を後にしても、このような疑問が次から次へとわき上がった。
土井ケ浜弥生人のルーツを探る、長い旅がこの瞬間、始まった。
まさか、土井ケ浜弥生人が沖縄などの琉球列島や大陸と深い関係があろうとは、この時は予想もしなかった。
◇
九州・山口地方は長い歴史に彩られ、往時をしのばせる遺跡や遺物、伝承も多い。こうした歴史のささやきに、耳を傾けてきた専門家の話を聞く。(随時掲載)
わが目を疑った。
このような弥生人骨が「土井ケ浜遺跡」から出土するはずがない。昭和57年10月26日のことである。私は土井ケ浜遺跡の第7次調査に参加していた。憧れの遺跡であり、土井ケ浜遺跡の発掘調査に参加することができただけでも奇跡に近い。
目の前に、2千年の眠りから覚め、まさに出土しようとしている人骨がある。はけやブロアーを使い、顔面を覆っていた砂を慎重に取り除いた。保存状態はきわめて良好である。
ブロアーで鼻根部(鼻の付け根)の砂を吹き飛ばした瞬間、目がくぎ付けになり全身がフリーズした。鼻根部が深くくぼんでいる。これまでに見つかった土井ケ浜弥生人の特徴ではない。
土井ケ浜遺跡の発掘調査は昭和28年から32年までの間、5次にわたる発掘調査がおこなわれ、約200体もの弥生人骨が出土した。当時、弥生人骨の出土は全国でも皆無に近かった。その後の研究の成果で、土井ケ浜弥生人は、顔が高く(長く)、顔面は扁平(へんぺい)で、高身長であることが判明した。
ところが、私の目の前にある人骨は、これまで発掘されたものと、あまりに顔つきが違う。
「この土坑墓は本当に弥生時代のものですか?」
山口県教育委員会の担当者に思わず聞いてしまった。担当者は不可解な表情で「弥生時代の墓ですけど、どうしてですか」と問い返した。
「実はこの人骨の顔面には土井ケ浜弥生人の特徴はみられず、どうみても縄文人の顔なんです」
これが私が土井ケ浜遺跡で出会った初めての人骨(701号人骨)だった。
この時の衝撃は鮮烈で、今も目を閉じると、そのときの光景が蘇る。
◇
701に寄り添うようにして埋葬されていた人骨(702号人骨)は、これまで知られている土井ケ浜弥生人そのものだった。どちらも男性だが、顔もプロポーションも対照的で、異質である。
701は、顔の高さ(長さ)が短く、横幅が広い。「低・広顔」という。眉の上「眉上弓」が隆起し、鼻骨も隆起しているので、鼻の付け根(鼻根部)が陥凹(かんおう)している。いわゆる彫りの深い容貌だ。身長は158・8センチしかない。これらは縄文人の特徴なのである。
一方、702は、顔が高く(長く)、横幅が狭い「高・狭顔」だった。鼻は低く、鼻根部は扁平で、彫りが浅い。身長は165・9センチもあった。
これほど身体的特徴が違う弥生人が、なぜか寄り添うようにして、埋葬されている。一体、この2人はどのような関係にあったのであろうか。
土井ケ浜弥生人のなかには701のような縄文人的形質をもった人骨は他にないのだろうか。もし、この1体だけとしたら、701とは一体何者なのであろうか。第7次調査を終え、土井ケ浜遺跡を後にしても、このような疑問が次から次へとわき上がった。
土井ケ浜弥生人のルーツを探る、長い旅がこの瞬間、始まった。
まさか、土井ケ浜弥生人が沖縄などの琉球列島や大陸と深い関係があろうとは、この時は予想もしなかった。
◇
九州・山口地方は長い歴史に彩られ、往時をしのばせる遺跡や遺物、伝承も多い。こうした歴史のささやきに、耳を傾けてきた専門家の話を聞く。(随時掲載)
これが縄文顔
鼻根がビコーンとくぼんでいる。
弥生人のはのっぺりたら~~~ん。くぼみが平坦。
そうなる理由は弥生人・・・というよりも弥生時代人・・・というよりも新モンゴロイドだが、寒冷地対応したから。
つまりそれは原種からの環境変化であり「進化」だ。
縄文人は原種に近い。変わっていない。つまり寒冷地対応していない。=歩いて北方へきたのではない=馬やラクダや舟を使った、となります。
あなたはいかが?
ぼくは縄文型です。
さて、弥生人とか縄文人と言うこれまでのざっくりしたくくり、区分はもうだめです。なぜなら縄文も弥生も実にさまざまな人種がやってきたからです。
弥生時代初頭にはまだ縄文人がいます。
それも弥生人です。弥生時代の人が弥生人だからです。
あいまいですね。
でも人種はさまざまです。
縄文人は北海道から入ってきます。南西部~中央部は蝦夷・アイヌです=擦文文化(さつもん)。でも道北・道東は北方大陸人がいろいろ来ました=オホーツク文化。
それは本州以南が9世紀になってもまだまだ来ています。12世紀でもです。
アリュート、モンゴル、古ギリヤーク、往古には靺鞨とか女真族です。
鈴木靖民『日本古代の周辺史』2014より
ところが北海道や東北からはるかに離れた西日本の山口県の土井が浜には、たった一体でしたが縄文人らしい骨格の人が、ほかの弥生人的つまり渡来人の骨格の人たちの中に混じっていたのです。だから学者の先生は当時、びっくり仰天したのです。
しかも、その701号さんは、体格や顔の幅なども東北縄文人でした。
顔が横に広く、背が低い。眉骨が高く、鼻根部が深く鋭利にくぼんでいて、鼻筋が高い。いわゆるメガネが乗せやすい顔。ほかの渡来系土井ヶ浜人は、頭が丸く、顔は面長で扁平であり、四肢骨は長く、男性の平均身長は縄文人より3-5センチメートルほど高く、163センチメートル前後です。
さて、いったいなぜ彼は渡来人たちの中にまじっていたんでしょう?
仮説は今のところこうなっています。
「長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。
松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。
一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。
九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。
国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。
父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。
縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。」
松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。
この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホウラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。
一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。
九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。
中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。
国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。
父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。
もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。
縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。」
土井が浜ミュージアムの松下館長は、この記事で暗に701号は琉球人ではないかと考えて、次回も記事が続くようです。琉球人?つまりあの港川先史時代人の子孫です。なぜか?
そう、貝の道です。
701号さんは南海のゴホウラガイの腕輪をしていたのです。
ゴホウラガイはあの纏向の弧文のモデルとなった渦巻きを内部に秘めた、貴重な貝でした。ここの渡来人たちも永遠を求めて竜宮城を目指した人たちだったのです。それは主として西九州を中継地として摂津や大和、遠くは南西北海道の苫小牧まで運ばれています。ということは土井が浜の渡来人は西九州の菜畑あたりから日本海を、なんと琉球人の貝加工職人を引き連れて渡っていった人々だったと考えることが可能です。
イモガイも北海道や東北からも出ています。東北縄文人は土器でほら貝を作っていますし、イモガイを真似た土器も作りました。それは容易には手に入れられないお宝だったからのあこがれからでしょう。しかし西九州人はその琉球で加工された現物を、北国へ運ぼうとしていたのかも知れません。山口はかつての出雲文化の西の端ですから、出雲を中継して、能登、富山から新潟などの潟湖経由で秋田から津軽そして苫小牧へといく途中で、いくさにまきこまれました。きっとゴホウラの取り合いではなかったでしょうか?
次の松下氏の記事が楽しみですね。
松下氏の記事はヤフー考古学ニュースのリンクから転載しました。
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