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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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倭と委/漢委奴国王は「かんい・なこくおう」が正・イワシは「いやし」が正

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倭と委
 
委 和イ 漢・呉wei ゆだねる
「委」は会意文字である。甲骨文字は「女」と「禾」の二つの象形文字の組み合わせである。左辺は「女」で、右辺は「禾」である。小篆の形は甲骨文字と同様であるが、字形の構造上「禾」の位置が上に来て、「女」が下に来ている。これは現在の楷書の構造と同じである。
 
穀物が成熟した時穀物の穂は枝葉の上に垂れさがるように湾曲する。この為「委」には曲がるという意味がある。男子と比較すると相対的に女子の体と気力は弱く、古人は禾偏を女に加えて、女性が相手の意思に従うことを表したものだ。委従、委順の言葉の中の委の字は委細、従順の意味である。
(草冠を載せると「萎える」になる。Kawakatu)

 
「委」は「矮」の中で使われ、小さいという意味を表す。「倭人」も小さい人という意味で、ある意味で蔑称だったかもしれない。
 
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「委」の漢字あれこれ
•委の字は隷属、委託を表すのにも用いられる。
•捨て失くすの意味から、回避するの意味が出てくる。委過、委罪の様に過ちや罪を回避する。
•委の字は多くの読みと意味がある。Weiと読むときの他、委蛇は山の中の道や川が曲がりくねることを表している。」
http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/05/1784-wei.html
 


 
 
「委」文字の発祥はこのように稲がたわわにこうべをたれる様を表すことに始まる。そこから「弱弱しい」「従う」「ゆだねる」などの意味を持った旁(つくり)になった。

「倭人」とはそもそも「侏儒」=こびと、と同義語あるいは類似語である。
矮小の「矮」の偏に人偏を置き換えることで「小さな人」。「わ」とはまず「私」のことであろう。自分を呼ぶ贅語(ぜいご)である。つまりそれを聞いて「わじん」と第三者が思ったのだ。「アイヌ」の「ア」や「イヌイット」の「いぬ」と同じである。よく映画で、他国人がはじめて現地人と遭遇して、現地人は自分自身を指差して「わたし」と言っている、あれである。だから多くの民族名・国名に「わたし」国は多いことだろう。つまり最初は聞いたものの勘違いである。その着想には、もともと中国南部海岸部の小さな民族・長江倭族の呼称が頭にあって、風俗が似ていたのでこの人々も「倭族」だと勘違いしたからではないか?
 
それでやがて倭人も中国・アジア、国家・国境を意識しはじめると中国の外国表記に多い「二文字表記の意識」「「私国」じゃ嫌」となって「やまと」の古い言葉である「ひのもと」を漢字にして「日本」としたのだろう。「ひのもと」は古くは「日下」であるので、それは古河内湖の東奥にあった近畿の港である「くさか江」から日下、「下」は縁起が悪いから「本」としたのであろうよ。ただし日下の国内の大元・本貫地がもともと河内の日下しかなかったかどうかは別の問題である。それが九州にあったとしてもなんの不都合もない。たとえば九州山地中央部の草部。
 
 

現代の漢和辞書にはいずれの文字にも音読みは「イ」音しかなく、「ワ」の音読は記載がない。つまり「イ」が正しいが、漢字到来ころの習慣では漢音・呉音共通の【wei】つまりウエイは言い難く、「わ」「い」「や」の混同が起きている。母音の近いところ(発音する際の口の開け方が近い、似ている)で混用するのが誤用の一般例である。例えば【a】【e】【ye】などから【i】【wi】への変化はあっても、【u】【wu】【o】【wo】への極端な変化は考えにくいだろう。「あいうえお」と口にしてみればわかることだが、「う」「お」「を」は唇を前に突き出す発音で、横に開くほかの音とは間違えにくい。

(ちなみに「う」は関西的なくぐもった「う」が当時は正しい発音。口唇を強く突出し、すぼませた時の【wu】。その他地域、現代標準語の「う」は突出が浅い、あるいは口を閉じただけの【u】である。)
 
 
 
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考古学発掘遺物での使用例(つまり不動の証拠品)
漢委奴国王印・・・倭と委の使用区別は中国でも非正式文書ではルーズである。多く人偏を略した使用例はある。しかしいずれにせよ音は【wei】であるから特に気を使っていないことは見える。特に金石文の場合は漢字の省略は多い。
 
しかし、この金印の場合、皇帝から国王に贈られた印、すなわち国璽である。当時でもアジアでの国際的な贈答品に略字を用いたはずがなく、正確な使用例と考えるのが当然で、明らかに「委ねる」意味の使用と考えるのは当然である。
 
従ってこれを「かんのわのなのこくおう」などと読ませるのは間違っており、「かんいなこくおう」と漢文で読むべきである。意味は当然文字通りに「漢が委ねた奴国の王」となり、奴国王が当時、まだ倭国王とは認められていなかった、もっと言うならば東アジアにまだ倭人の国家「倭国」など存在しなかった証拠になる。そう考え付くのが人間の歴史を知るものなら当然。

いわんや3世紀の『魏志』でさえ「倭人有り」としか書いていない訳である。少なくとも3世紀以前までの史書に「倭国」記録は一切ないわけだから、「倭の奴の」などと書くわけもないのである。光武帝へ朝貢したのはあくまでも玄界灘の奴国の王の使者であり、当時の日本にもまだ「倭国」というような広い意味の国家意識などなかったことになる。そもそも当時の国家とはまず中国に認知され属さねば「国」とは呼ばれない。この金印金石文の持つ意味はそういうことで、奴だけが国と認知された=狭義の使用がふさわしい。魏志の倭人伝にも「奴国」となっていても、広義の「倭国」使用例はない。あくまでも「倭人伝」である。倭国伝となったのは『隋書』からだが、ここでは「倭国」どころか「俀国 たいこく・あこく」になっており、それが本当に倭国のことなのかどうかも実はきめられない状態である。そもそも「たい」などという国はなかったから仕方なく倭国と考えて考察されている。
 
「「妥」は「安」の字に通じ、「安」から平仮名の「あ」の字も出来ているのである。したがって、「倭」は「わ」、「イ妥」は「あ」を表し、普通は「倭国(わこく)」と書き、また時には「イ妥国(あこく)」と書いたりしたのだと思う。」
この説が正しかろう。
 
 
※ただ「委奴」を「いど」つまり「伊都」と読めば、これはまたこれでなかなか面白い着想は生まれ出てくるかも。光武帝に朝貢した倭国王とは伊都国王であり、奴国はそれを奪って志賀島に隠した・・・?^^
 
 
 
漢字国家中国で、正式文書に誤用は考えにくい。間違えるとすれば直接金石文を刻み込む技術者の無知はありえるが、正式な金石文にそれはありえない。もしあれば子々孫々まで斬首磔刑だったはずである。
 
ちなみに「奴国」の「な」とは、意味を正しく漢字表記すればおそらく「灘」「儺」ではないかと思っている。海辺の人つまり海人、白水郎、水人となる。これを日本では古く地名「那珂」などと表記している。「なか」は中継港地名であろう。日本本土最初の中継港=ハブ港が福岡県那珂川河口部だったことになる。ということはそこまでの港はみな単なる停留地でしかないとなる。この那珂川の東部を基点視したのが奴国王である。西部を基点にしたのが伊都国である。「いと」は「倭都」「倭津」の意かと思える。奴国人が「な人」ならば伊都国人は「わ人」だったとも受け取れる。それを取りまとめたのがおそらく女王卑弥呼だったのではないか?問題はその巫女王が、果たして「仲」を取り持つにふさわしい「遠隔地」の第三者だったか、それとも現地の中間的第三者だったかで、まだ史学はもめている。どっちにせよ、彼女はどこにいたとしても、九州のこの玄界灘沿岸のクニグニを取りまとめることのできた「筑紫の縁者」でなければなるまい。それは例えば考古学と地理学のミックス古代史では「豊と吉備と大和でしかありえない」のである。
 
 
 
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有倭人以時盟不
中国曹氏墓群出土・倭人字磚にあった文字。「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」
磚(せん)とは焼成レンガである。曹操の祖先の墳墓玄室などの壁に積まれていたレンガ。時代は三国志の数代前。1世紀頃か。場所は山東半島南部。ここが曹操一族の本貫地である。正しく「倭人」と使われているが、この倭人が果たして日本人を指すのか、あるいは当時の中国沿岸部~南朝鮮海岸部・及びアムール南部海岸地域~日本海岸部に共通して住まっていた海人族の総称である倭=白水郎のことかは判断しかねる。
 
 
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伊委之
Wikiイワシに「藤原京、平城京出土の木簡には「伊委之」、「伊和志」の文字があり、鰯(日本で作られ た漢字、国字)の最も古い使用例は、長屋王(684年?〜729年)邸宅跡から出土した 木簡である。」とあるが、つまり前者が藤原京、後者は平城京の木簡という意味である。それが日本語の使い方である。
 
ゆえに、

伊委之は藤原京出土木簡である。
「いわし」のことである。イワシは「いやし」あるいは「よわし」から横訛ったと考えられているが、平城京木簡では「伊和志」であるので、先頭はいずれも「イ」であることから【ya→wa】は母音が一致して、実際にあったが、母音の違う【yo→i】への音韻変化は考えにくい。このことからも、「よわし」説はしりぞけられて「いやし」=「貴族は口にしない卑しい魚」から来たと決定してよい。ただしいずれも心の中の発音は中国音ないしは百済経由の【wei】であろうとしたことは間違いないだろう。
 
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Kawakatu作 真イワシの塩焼き
 
 
 
すると藤原京例二番目の文字「委」はもと「や」であることとなる。これは音の混乱である。つまり語調で「いやし」が言いにくかった、あるいは、卑しいではあまりに直接的なので、平民の中で、気を使い「や」を「わ」に変化させていったと思われる。漢字が百済から伝わってすぐは、こうした漢字の省略、代用などが多く、まだ充分に認知・確定されていない使用例があった。なぜなら漢字を貴族に教授したのが渡来百済人だからにほかならない。白川静の言うように、伝来当初~奈良時代あたりまでの漢字は、百済式表記や、百済発音の百済人による日本語音韻への代替期で、誤用、省略があって当たり前である。さらにそれが下級官吏~民間に伝われば推して知るべし。(この時代に万葉仮名いわゆる上代特殊音韻も登場し、すぎに消える。つまりその発音は百済書記官(史)が自分が使いやすいように音を増やした時期である。ところがその難しい音がやがて消えて五十音に落ち着いた理由は同じく、百済音が日本人には言いにくかったからにほかならない。つまりそれと同時に万葉カナも消えて行き、日本人は偉大にも真仮名を作り出したのである。えらい。ということは本来、百済音や漢字・漢文使用はなかったのであり、古墳時代までの日本語とは、そもそも五十音しかなかったのである。わずかに江戸期まで「ゐ」や「ゑ」、あるいは「くゎ」が残ったのはいいやすかったからの生き残りに過ぎない。また現代も「を」は残ったが、あくまで表記だけで、すでに「お」と発音は変わらなくなった。すれだけ朝鮮語発音は難しかった。万葉仮名時代はまだ日本人の漢字輸入によった日本語過渡期だったのである。)
 
 
 
 
要するに同じ金石文であっても、国家的な意味を持った正式文書で誤用や転用、略式等、中国では絶対ありえない。ましてわざわざ蛇の鈕をつけてまで奴国王=水人国家の王を表明した中国皇帝からの贈り物に略字などあろうはずがない。
 
 
 
 
 
結論として、奴国は単独で朝貢したのであり、そのときに自らを「倭国王」とは言っていなかったことが証明できることになる。
 
 ※後漢書や翰苑にある「倭国王帥升」だけは例外だが、この人物が日本の倭人だったかどうかはわかっていない。
 
 
 
 
反論無用。わたしがこのブログのルールブックである。
その通りと感じたならランクリクリック、ナイスクリック、このブログにほかの評価方法、反論方法は存在しない。我輩の私的な辞典に反論の文字はない。賛同の文字はある。左様、このブログはKawakatuのために存在し、たまさかそのいくつかの項目があなた方の着想を刺激しただけである。刺激がむかつくものだったとか、なるほどだったとかは、私自身の負うところでは一切ない。感じるのはあなたの勝手、書くのは私の勝手(表現の自由)であり、反論するならばおのれのサイトにしておればよい。嫌なら読みにこなければよいし、誰も読んでくれなどと「あなたに」頼んだ覚えもない。ただし誤字が多いのは私の老眼と脳梗塞履歴のせいである。そのために読み返して恥を書いている。書いて表明することには多大なリスクがつきまとう。それを畏れないからこそ面白いものが書ける。失敗や誤字などはその行為の前ではささいな嘲笑を請ければ済む事である。
 
「むかっとしたら書き込まない」
 
これが正しいネットエチケットである。
大人の態度である。
 
承知だな?
 
 
書くなささいな反発で意見を、それはあなたの恥じになるだけ。
私はこの我が家の部屋の中でただ叫んでいるだけ。ただし、窓を全部開放してであるがね。隣人はそれがやまかましければ、やはりあなたの室内で大声で「やかまし~~~!!!」と言っていればよい。その声はいずれ私の耳にも聞こえて来る。
 
それが近所づきあいの処世術である。
 
 
筆者はインターネットに「双方向」などまったく必要ないと思っている。
 
それはただ、低い次元の人間に、意地悪の火をつけるだけである。まことにネットとは、危険な日常を、本来おだやかなるはずの日本人に放り投げた、今世紀最悪の罪人である。Kawakatuにのーめる平和賞を、インターネットに悪辣賞を。
 
 
 
 
 
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[転載]59歳からのスローライフ・『目覚めよと呼ぶ声あり』 J.S.バッハ・介護だけは避けよ

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Johann Sebastian Bach
Suiten für Violoncello solo
バッハ無伴奏チェロ組曲第1番清水靖晃テナーサックス版.wmv 
http://youtu.be/mbNG5UBMG50
 
 
 
今のスローな生活を
ぼくはちょうど今から10年前
49歳のときに始めた。
それがぼくの「ハローライフ」の、早すぎる入り口だった。
 
それはとてもじゃないが「ハローライフ」などと言っていられるような
生半可なものではなかった。
 
それまでのぼくは京都と大阪で、そしてここ故郷大分に戻っても、
それは独楽鼠のように動き回るだけの
みじめなサラリーマンだった。
 
父母の病から、ふとしたことで故郷に戻り
父は、母の認知症介護で失われた自分の老後の時間を
そのままぼくに押し付け、肩代わりさせて入院した。
すべての茶飯事と看病を置いて、入院という体のいい隠れ家へ逃げたのである。
その証拠に完治しても、父は今度は施設に逃げ込み、
ついに、母の葬儀にさえ出なかった。
 
仕方なくぼくはこの家にいついてしまい、
父母の後片付けの一切合財を、今度は兄たちに押し付けられ、
圧倒的な残された家財道具の山の中に放り込まれ、
気がつけば一人だった。
結果的に親族はみな、父に取り入って家を独占した怠け者
そう決め付け、去っていった。
 
就職しなかったからである。
いや、認知症の母がいては、就職等できるはずもなかったのだが、
彼らはそれは無視し、自分たちが本来看るべきことをしなかった罪悪感を
すべてぼくの怠慢に転嫁することで
自分を正当化することにあけくれたのだった。
兄嫁のせいせいした顔をぼくは絶対に忘れない。
呪い続けることだろう。
 
これだけは言っておくが、
父母だろうが親族だろうが、他人であろうが
介護なんか、
絶対やってはならない。
ただ、自分の時間を失い、
心は崩壊の寸前まで追いやられ
心象の内部までかき回されたあげくに
結局、家族は逃げてゆく。
残るのは孤独だけである。
 
 
 
49から5年間は父母の看病と自分の店で何も暇がなく、
それでも故郷の大自然の中をいくらかは探訪した。
その後一人になってからは歴史探訪にあけくれ、
財産はほとんど使い果たした。
 
 
 
ぼくは今まさに
ひとりぼっちでスローライフをたゆとうている。
ふつうの人なら、
「楽しむ」なんて「たゆとう」なんて果たして男が一人で可能だろうか?
と時おり考えてみる。しかしぼくにはようやく手に入れた
誰にも干渉されない
自由の天国である。
だから、住んでいる町の
どんな瑣末な組織にも入らず
どんな行事にも参加しない。
気心を他人と共有するひまはない。
ぼくは取り戻した自分だけの自由な時間を
存分に独り占めしたいのだ。
 
きっとあなただって、そうなる。
 
若い頃、ぼくはよく遊んだ。
酒場にもよく行った。
食べ歩いた。
ギターを弾き
ライブハウスに浸りこむこともあった。
料理、絵画、詩歌、お茶、華、和歌、小唄、都都逸
どれも中途半端にこなしてみた。
いわゆる趣味の人である。
 
生活感の希薄な、放蕩とまではいかないが、適度に浅く身につけた。
近畿の仕事暮らしで、それはさまざまな出来事、人種も見てきた。
しゃいだった性格は、すっかり関西商売人に近くなり、
感性は摩滅したかに見えた。
市井の生活者に成り果てようとしていたときに、
父母が倒れた。
 
ぼくにはそれはいい気分転換だったことも確かだ。
 
 
 
 
 
 
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しかし、いかんせん田舎である。
生きるスピード感に圧倒的落差があった。
ひとりになって、なお、そのことに気づかされた。
 
故郷の時間はあまりに遅く動く。
平々凡々すぎる近隣の、スローモーションのような動き・・・
関西人の「いらち」に慣れているぼくには、どうにもがまんできないほど。
 
だが時間の経過は、どこにいようと同じ。
着々と、粛々と
時間だけは過ぎ去り、
ぼくは59歳になっている。
 
 
 
 
 
Johann Sebastian Bach
Wachet auf, ruft uns die Stimme (BWV 645) 
 カンタータ『目覚めよと呼ぶ声あり』」BMV140から第4曲「シオンは物見らの歌うのを聞けり」
http://youtu.be/NvLiHEuqejU
 
 
 
 
 
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ぼくは三叉路に立っている。
再び、一見忙しく充実しているように見える現役生活者に戻るか、
あるいはこのまま、みだらに過ぎる時間の焦燥に耐えながら、たゆとうているか。
喧噪か孤独か・・・。
 
 
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この必要以上に元気のいい年寄り達の世界で、
ぼくは孤独である。
だからもう一度喧噪の中に戻るためにこれからまた面接に出かける。
 
 
 
 
 
 
 
けれどそこもまた、地方では、
馴致されてしまった常識社会でしかないのはわかっている。
職場が、地方では、
都会のように、天国のような燦然と輝いている世界ではないことは
すでに承知している。
ましてぼくはもうさほど若くもなくなった。
 
 
生きてきた若い頃の躍動感や光はすでに衰退し、
ほろびまでのわずかな時間を
けんめいにうっちゃる人生である。
 
 
 
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したたるような緑の中の、真っ赤な野いちごほどにも
今のぼくには生命力がなくなった。
 
 
 
 
 
 
      一花を また咲かせたし 道の枯れ草
 
 
 
 
 
 
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 最後にもう一度言う。
晩年でも青年でも壮年でも
絶対に介護だけは避けよ。
人間では、
 
 
いられなくなるのだから。
 
 
 
 
 
 
 
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 Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
Kawakatu日本史世界史同時代年表http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/nennpyou.html
公開ファイルhttp://yahoo.jp/box/6aSHnc
装飾古墳画像コレクション http://yahoo.jp/box/DfCQJ3
ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U

転載元: Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳

方言の違いは混ざった民族の違い?

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Q どうして北関東の方言は右肩上がりなんでしょうか?
 
A 渡来朝鮮人が多い土地柄だったからではないですか?北関東主要産業は中小技術です。その基板を作り上げてきたのは渡来工人でしょう。
 
Q では、なぜ関西方言はああなんでしょうか?
 
A 中国江南からの渡来人の影響でしょう。京都を中心の為政者言語ですが、大阪や兵庫には朝鮮工人もあとから入ってミックスしてます。
 
Q では出雲などの日本海の言葉は?
 
A 東北蝦夷ですねえ。
 
Q では鹿児島・宮崎はいかがでしょう?
 
A これはちょっと難しくなります。南島からと江南からと、さらに朝鮮語アクセントなどがミックスマッチして複雑ですが、太平洋側東北人との共通性や北関東人とも共通性があるようです・・・。
 
Q では最後に、そういうアクセントや抑揚のあまり激しくならなかった南関東、瀬戸内沿岸の抑揚のあまりない、平坦なイントネーションはどうしてなんでしょうか?
 
A それがもともとの南北縄文日本人のイントネーションだったのでしょう。瀬戸内方面は南島と関西の影響を受けて淘汰された平坦さ、南関東方面は東北縄文語や朝鮮語の淘汰された平坦さでしょう。
 
Q それは決定でしょうか?
 
A ほかにもいろいろな要素はあると思いますが、今後古代の人口・民族分析によっていずれはわかることだと思います。しかし、おおまかにそういう掴みがわかりやすいことは確かじゃないでしょうか。基本、平坦アクセントを使っていた縄文人の中に、渡来、渡海してきた民族集団の影響によるバリエーションが生まれたんだと、私は個人的に思います。
 
 
Q では、その平坦イントネーションの基層を持ち込んだ縄文人とは南北でどういう民族だったんでしょう?
 
A 北はツングースでしょうね。いわゆるマツカツ・ミチハセと言われたアムール川周辺の新モンゴロイドです。南は海南島から江南の古モンゴロイド人々だったんじゃないでしょうか?そこにあとから渡来した人たちは多くが半島経由で、これも新モンゴロイドですから、結果的に日本人の遺伝子に一番多く残存したのがバイカル湖周辺の新モンゴロイドのDNAという結果とは、両者遺伝子の現代人の割合で合致することになります。
 
Q なるほど。すると日本語の文法と膠着言語の矛盾はどうなりますか?
 
A 日本語の発音はすべて膠着言語ですが、これは南太平洋一帯のオーストロネシア島人・海人に共通し、文法は世界の内陸部に多いアルタイ語系等です。これを見ても海と陸の言葉のミックスから日本語が生まれたのだと想像できます。最初は北と南、東と西へそれぞれさまざまな渡来とともに入った言語がばらばらに生きていたところが、やがて徐々に民族が触れ合い、混血することで使い勝手のいいものを選んで画一化していったと思います。
 
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アルタイ語系文法圏「主語・目的語・述語」
 
 
 
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オーストロネシア膠着語圏
膠着語に分類される言語は、トルコ語、ウイグル語、ウズベク語、カザフ語等のテュルク諸語、日本語、満州語、朝鮮語、モンゴル語、フィンランド語、ハンガリー語、タミル語、エラム語、シュメール語、エスペラント語などである。
エスキモー・アリュート語族、マヤ語族なども膠着語的だが、膠着の長さが極端(文全体が膠着する)なので、抱合語(正確には複統合的言語)とすることが多い。
 
つまりAさんも勘違いしているのは、膠着語も大陸トルコ=アナトリアからやってくる。文法と一緒に来ていることになる。そこのオーストロネシア語も入ったというのが正しい。トルキスタン~スキタイ~ウイグル~ここで複数に分岐して、別々に入った。北海道経由、日本海経由、南島経由、そして最後が弥生時代の朝鮮語ではないか?
 
 
 
 
Q では最後に、今の若い東京の人たちの、さらに平坦化してゆくイントネーションについて何かご意見は?
 
A 普通ならテレビなどの影響で、地域方言は次第に発信源である大都市の影響を受けます、瀬戸内・四国ならどうしても関西弁に、関東~東北なら東京標準語です。しかし今の東京は、それを突き抜けて、南関東イントネーションの方が北関東のイントネーションの影響を受けていくというねじれ現象を起こしているように感じます。たとえば「サポーター」などは一番分かりやすいでしょうが、サッカーの応援団のサポーターは平坦といってもやや右肩上がりですが、脛当てなどの運動用具のサポーターは従来からの山の手イントネーションでと、使い分けていますね。
 
昨今の東京の若い世代は、現実生活での広いコミュニケーションが苦手です。これは戦後高度成長期以降の核家族化の影響です。ですから地方語や標準語の意識・知識にわりと無知なところが大人になっても継続している人が多いですね。そこにさらにネットによる話すことそのものの減少があります。まずそもそも仲間と直接にしゃべらなくなっていってますね。従来の標準語は山の手言葉から始まりますが、以前は学校でかなり厳しく標準語教育を取りいれていましたが、最近はまったくそういう指導はしてないと思います。で、彼らは仕方なく、自分たちなりの標準語を模索していくことになる。東京は地方からの出身が非常に多いので、それらの「面白い」ところをどんどん取り込んでいき、言葉を楽しんでいるんだと思います。むしろこれはいいことだと思いますよ。いずれそれも淘汰されます。なぜなら言葉、方言は常に流動する「生き物」だからです。
 
特に昨今は公共放送のアナウンサーですら正しい日本語イントネーションができなくなってきました。この理由はまた別にあって、いわゆる民主主義、男女平等がもたらした厳しい社内教育の低下もあるのかも知れません。あまり厳しく指導する人がいなくなった?ためじゃないかと感じることがありますね。NHKよりもむしろ民放のアナウンサーの方が正しいアクセントの人が多いのが面白いですね。
 
われわれにとっては「高い」「暑い」などの、今の人のイントネーションの変化は違和感があります。「熱い・暑い」と「厚い」は以前、全国共通して「熱い・暑い」は「つ」にアクセント、「厚い」は「あ」にアクセントが置かれてきました。今は、まるで関西弁のようになってきたというか、「厚い心で」と聞こえてしまいますね。「熱い心で」という意味にわれわれ世代では絶対に受け取れないアクセントの入れ方をしてます。実に居住まいが悪い。しかし彼らはそれに違和感がない。つまり従来型の標準語アクセントを大家族の中で、十分に身につけていないことになります。
 
理由はやっぱり核家族、さらにその家族がばらばらに生きているのだということじゃないでしょうか?家の中におばあちゃんがいなくなるとさまざまの弊害が起きているわけです。生活の知恵も同じですね。昔の人なら常識の知識が、若い人にまったく受けつが手いません。特に地方でも大きな都市ですね、それが目立つのは。これは生活内でも古今伝授の崩壊ですよ。天候への危機感、病気への危機感の無知は目立ちます。年寄りがいなくなる悪いところはそういう民間の知恵、いいところは迷信が減ったことかな。
 
もうひとつ、「れ」貫き言葉も最近の風潮です。「生きられる」が「生きれる」になり、おかしいのは「生きていける」でいいところをわざわざ「れ」を入れて「生きていけれる」とか実に面白い。
 
Q 「住んでいれれる」とかね。はっしょてるのか、どっちかわかんなくなる。
 
A 実に独創的です、若者は。
 
Q ではそういうのはみな、家族崩壊による子供の標準語無知?
 
A ま、いいじゃないですか。仕方ない。社会的な動きですから。
 
Q そういう結論を最後に、よくここで「入れれますね」?
 
A あれれ?「入れられますね」でしょ?
 
Q あれれれれれ~~~~?こんがらがってきたりして~~~ではみなさん、いい週末をお迎えください。いや?送ってくださいかな?おくれれるかな?
 
AQ れれれれれれれれれれ~~~~お出かけですかあ???
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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A 
 

薩摩隼人という隼人は本来存在しない

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「隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも[1]方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも[2](あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E4%BA%BA

隼人と関連が指摘される文化
群馬県長瀞西古墳(5世紀前半)出土の鉄鏃の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプのものが見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、隼人と関連する鏃ではないかとも考えられている。
蛇行剣(豊前竹並横穴郡など多数)。
日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭天皇の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている。」
同上Wiki なおこのWiki隼人記事内容は部分的に、かなり信頼性に疑問を持つところが見える。
 
Kawakatu追補
京都府南山城郡大住。大住車塚古墳及び大住神社。及び宇智郡。
京都府八幡市内里、内神社。
奈良県宇智郡。
大阪府百済 大住郷
愛知県大住小学校近くの隼人廟
 
さて、一般人は鹿児島県人を「薩摩隼人」などと呼ぶことがある。
しかし歴史的に薩摩隼人と呼ばれた隼人族はいない。
大きく大隅半島の隼人は大隅隼人、薩摩半島~霧島周辺の隼人は阿多隼人である。
ほかに、記録では、
日向 宮崎県南部
多褹 種子島
甑  甑島
五島 五島列島
などがあるが、薩摩隼人の記録は一切ない。
薩摩国設置後は、『続日本紀』和銅二年709年で薩摩隼人の呼称が用いられる。
しかし一般的にこの言葉が世間に広まったことはない。
そもそも隼人そのものが大和から名づけられた蔑称であり、その正体は熊襲の中の曽於族である。「そ」が民族名。

では、いつ、なぜ、どこでそういう言葉が一般に広まったか?
これは鹿児島県民ですら勘違いしている。
幕末~明治時代に西郷隆盛が、明治政府の政策に反発して戦争をはじめ、その悲惨な結果と勇猛さを古代の隼人に重ねて薩摩隼人と呼んだ。それが一般に広まった最初である。
古代の薩摩隼人は、薩摩地域が日向国から別けられて薩摩国になったとき、奈良の朝廷が便宜的に民族名称も分離しただけで、もとは単なる隼人が正しい。その後、藤原仲麻呂の乱のあと、隼人の乱が勃発。このときに勇猛果敢だった大隅隼人はなかなか降参せず、結果的にあまりにも悲惨な終焉の仕方をしてしまう。これが「隼人」名称の全国流布の最初だが、この曽於族はあくまでも「大隅隼人」である。このイメージを、明治政府は西郷らの反骨に重ね合わせ、それから薩摩隼人が定着した。つまり薩摩隼人とは西郷隆盛以後の鹿児島県民の、主に武士のように猛々しく、勇猛果敢・・・鹿児島県民がそうだなどと筆者は一度も感じたことはなく、むしろおとなしく、腰が低く、つましい性格の人が多く、特に祖霊への墓参の回数全国一というのが、彼らの中の江戸時代からの島津藩の持ち込んだ儒教精神を見る思いがある。
そもそも西郷隆盛のイメージも、誤った写真の作り出したところも多く、姓名すら叔父と間違えているので、九州人としては薩摩隼人は作られたイメージでしかないと感じている。

以上、今朝のラジオの投稿に、鹿児島の女性がじぶんたちは薩摩隼人だった、というものがあって気になったので書いておく。
古代隼人の大半は、阿多隼人は飛鳥時代頃には大和へ移住。大隅隼人は奈良時代に全滅してしまう。従って厳密には薩摩隼人という隼人は存在していないと言える。歴史用語に忠実に申すなら明治以後の隼人は本来の隼人ではなく、単に勇猛な薩摩武士である。

これを「心の隼人」と呼びたい。
 
 
 
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魏略「春耕秋収為年紀」と風と「珍島物語」のヨンドンサル スサノヲは風の神

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魏略「春耕秋収為年紀」にある「春耕秋収」とは、正式には
 
魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」で、この『魏略』の記事を引用した『三国志』「東夷伝 倭人条」に掲載のある記事のことである。
 
 
この文章には
 
「(倭人は)その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す。」
 
とあって、つまり倭人は春と秋でそれぞれ1年と数えており、これを「春秋二倍暦」と言う。春から秋・・・つまり田植えから稲刈りまでを一年、そこから次の春までの冬を一年と勘定して、一年間に二年あるという古代中国に始まる死生観である。これが3世紀頃の古代日本人の通年観念だった、ということになる。
 

ここから日本の史書は最初の神武天皇から応神天皇あたりまでの天皇の年齢を二倍にする着想を得たというのが今の史学の見方である。すると100歳以上だった天皇たちの年齢は正しくは、「春秋二倍暦」を普通の「1倍暦」換算すれば 神武天皇は64歳・崇神は60歳・応神は55で崩御となって、現実的なるというわけである。
 
 
ここではそのことは論じない。
 
 
その「春耕秋収」の裏側にある「風」を論じる。
 
 
参考文献は萩原秀三郎『鬼の復権』ほか
 
 
 
日本で古くは風のことを「し」と言った。
「シナノ」「シガラキ」などの「シ」である。
風を品とも書いている。
中でも日本には各地に季節風の「北西風」を呼ぶ名称が実にたくさん存在する。
 
そもそも季節の秋はアキ、アク、アケ・・・(明、昭、秋、穐、飽、開、空、空気、安芸、安岐、安来、安紀、阿紀、阿貴、阿騎、阿気、麻気、天気・・・)などは風をも意味する言葉である。つまり秋は季節風の吹く季節なのである。それで風の吹きぬける土地には「秋葉神社」が火伏せの神として置かれたが、それが銅精錬地名となると狩場となる。カリ・カルは朝鮮語で銅広く金属。精錬・製鉄にも風は欠かせない。
 
 
北西の秋風名称だけをざっと並べてみても、
 
1 アナジ・アナシ (纏向・和泉・伊勢・伊賀・若狭など)
2 お忌み荒れ(出雲大社神在月の風)
3 西ながれ(石川県)
4 二ソ(福井)
5 アイの風(日本海・万葉「安由能加是」あえのかぜ)
6 ワタシ風
7 マツボリ風(阿蘇・溜め込んで=「マツぼる」一気に噴出される風)
8 ホマチ風(福島県郡山周辺・「帆待ち風」だろう)
9 タマ風(北日本全般)
10ダイコシ吹き(大師講吹き・中国地方東部)
11御神楽流れ(岐阜県揖斐郡)
12アユの風(東海地方)
13雁渡し
などなどがある。
 
風全般についてはこのサイトが詳しい
 
 
 


 
 
朝鮮半島でも南部海岸部に、有名なヨンドンがある。
 
例の歌謡曲「珍島(チンド)物語」に出てくる「ヨンドンサリ(実発音はサル)」である。意味は、
 
「「ヨンドン」については、既に他の方が書かれている通り、風の神様と言われる「霊登」のことで、「サリ」はハングルで書くと "살" (サル)と "이" (イ)に分けて考えるべきだと思います。

"살" (サル)とは、霊などの影響によって起こる事件や現象のことを指します。

なので、「ヨンドンサル」自体が、風の神「ヨンドン(霊登)」によって引き起こされると信じられている海が割れる現象のことを言います。

「サル」は子音で終わる音なので、読みやすくするために、歌詞の中では最後に「イ」を付けた「サリ」の形にしたのだと思われます。」
 
 
正確に申すと古くはヨンドンは「竜童」と書く。つまり竜神の子がヨンドンであるので、日本で言えば長野県千曲地方の民話の主人公「竜の子太郎」なのである。

「サル」は霊の動き、現象である。
あるいは霊媒師「ヨンドンハルマン」を言うこともあるか?歌謡曲の意味から言うと「ヨンドンサルが願う」のであるから南朝鮮海岸部に多い「ヨンドンばあさん=霊媒師」のことを言ったのかも。これはちょうど沖縄の「ノロ」や、恐山の「イタコ」のような口寄せ巫女に似ているが、彼女は風の神を自在に手繰るとされる。だから「願いはひとつ」というのは歌の場合は、こう解釈するのがいいようだ。
 
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ヨンドンハルマン像
 
 
 
「大昔この地方の島にトラが出没し、危険を感じた住民が2.8km離れた芽島へ避難した際、老婆が事情によりやむなく一人で島に残ることになったそうです。
その後体が衰えてきた老婆は一人でいることが寂しくなり、5年間の間山に登り竜王に家族との再会を祈願。竜王は老婆の熱心な信心に心動かされ「二つの島の間に虹の橋をかけてやろう」と約束。そうして両方の島をつなぐ奇跡の海の道が出来たそうですよ。
 
その後、老婆は念願であった家族との再会を果たし、家族にみとられながら安らかに息を引き取ったというお話です。
それ以来、老婆の願いをかなえてくれた竜王の恩に報いるため、毎年霊登(ヨンドン)祭りを行うようになったというのが今の珍島霊登祭り(神秘の海割れ祭りとも言う)の起源らしいですね。
 
珍島物語の歌詞は離れ離れになった家族が神様の力で奇跡の再開を果たすというのがメインテーマ。また、それにかけて愛する人や家族とやむをえない事情により離れ離れになって暮らしている人たちを励まし、激励し、応援するような歌でもあったわけです。
 
朝鮮半島で言うと北朝鮮と韓国の同民族間による対立。日本で言うと北朝鮮と拉致被害者の関係、といった国際的な問題も暗に盛り込んでいるのかもしれません。天童よしみさんの歌唱力に圧倒されがちな珍島物語ですが、歌詞にも深い意味がこめられていた」
 
 
もちろんヨンドン・サルが普段願うのは秋の北西風を手繰る能力である。
ヨンドンは陰暦二月に吹く季節風。「陰暦二月を別命ヨンドン月という。この月になるとヨンドン神が中国江南から済州島へ海山の見物に訪れるが、この神は蓑笠をつけておいでになったので、雨が降ったといわれる。」しらがってヨンドンは南東の季節風で日本で言う南風=コチの風なのである。日本と違って半島海岸部は春先の風が雨季をもたらしたようである。江南からというのはちょっと済州の人ではないので風向きが理解しにくいが。
 
ヨンドンが竜神であるように、日本の上記の北西風の意味も祭る本体は竜神である。竜は風を引き起こす動物とされ、四神では「青龍 せいりゅう」として東に置かれる。
 
朝鮮民話のトラはそれに対して西。つまり竜はトラを制御する位置に置かれ、トラこそが北西の季節風となり、竜は十二支にも辰と巳は東南東にあって「辰巳の風」は春の南風・・・コチのこととなる。春の風を操作するのが今度は白虎になるわけである。南朝鮮のソウルなどでは、正月初辰(しょしん)の日に針供養をするが、この季節には針仕事をすると針が「竜の目を刺す」とされ、すると雨が降らずに旱魃になるといわれている。要するにヨンドンは田植えの雨を牛耳る神なのである。日本の北西の風祭祀とは逆である。台風や北西風の強力な日本と、半島の違いではあるが、どちらも竜神であるので、風の神は竜、あるいは蛇体である。
ヨンドンの話が長くなってしまった。
 


 
 
日本の秋の北西風に名前が多いのは、稲作の最後、収穫期前にやってきて、稲穂をなぎ倒してしまう風だったから、春の田植え前の風よりも恐れられ、祀らねばならなかったということである。
 
 
『説文解字』によると、竜は春分に天に上り、秋分に淵(水界)に戻るとある。で風の神・水の神である竜は太陽と同じ動きをすると考えられてきたのである。
 
 
「竜抬頭 【りゅうたいとう】(古は「龍擡頭」) 」
龍が頭を擡(もた)げる時。つまり「啓蟄」である。陰暦二月六日前後。太陽暦で三月。
 
 
「社日 しゃにち」
諏訪の春宮・秋宮に代表される全国春社・秋社を祭る日を全国で社日(しゃにち)と言った。
 
諏訪の春秋二社は竜神だと言えるが、それを祀ったのは持統天皇である。それが記録では8月なのでこの諏訪の「品の風」とは台風だと理解できる。なぜ諏訪なのか?それはそもそも諏訪春秋二社には蛇神であるタケミナカタが祭られてきたからである(と、言うか、反対に風の神を祭ったからタケミナカタになったのか?も知れぬ)。記紀出雲伝説はまずもって持統にあわせて書かれてある。
 
諏訪湖を大風の吹き出し口と見立てて、ここに竜神を置いた。だからこの地方の「薙鎌神事 なぎかま・しんじ」とは、風を切る儀式であるとなる。だから陰陽五行の「木克金 もくよろしく金を克服す」に乗っ取って金気=西の方位の鎌を、木気=東に打ち込むのである。風を牛耳る儀式。東は甲乙つまり東北東だが、竜神がここにいるとなる。金・西は白虎で、龍が虎を秋に牛耳るとなる。つまり北西風を牛耳るのは東の龍なので、奈良の穴師坐大兵主神社は三輪山のある奈良の東側に置かれるし、その珠城山のある三輪山の神も蛇体の大物主となっているわけである。
 
 
つまりどっちも8月=秋の季節風を牛耳るための置かれた神だと理解可能である。それが春には今度は破壊神=ヨンドンとなって奈良盆地に雨を降らせ、洪水や氾濫を起こす荒神となったわけである。これを氏族配置に置き換えると当時の政治や治水までもが見えてくることになる。すなわち東の物部氏石上氏らは西の葛城氏らを睨む大連だったかも・・・。わかりますか?
 
「虎を野に放つようなものだ」というあの有名な壬申の乱前の文。これはこう解ける。東=天智、西=天武、の味方、勢力がそれぞれあった・・・。東=春日山で藤原氏、西=吉野で葛城・蘇我氏と、吉野道でつながる東国勢力。わかりますか?
 
 
 
ま、今のは蛇足ですが。違うかもしれない。天武は西から来たとか、鎌足は東から着たとか、いろいろ出てくるからやめておこう。
 
いずれにせよ天武・持統時代に諏訪周辺は「シナノ」になったわけであろう。
「シナ」は「科」と書かれる。大和の磯長は「シナガ」でどちらも風である。
シナガは「息長」とも書くゆえに「おきなが=しなが」で風の一族となる。
磯と書くならそれはやはり海風だろう。ちなみに東風をコチと言うが、「ち」は「みづち=蛇」のことで、霊魂も「ち」である。生命をのせて体にめぐらせるのも「血」である。神社の千木の「ち」も風。あれは風の抜け道=チミチを現す形で、神の通り道、災害を通り抜けさせるためにある。また沖縄の読みは「おちなわ」が古く(唐大和上東征伝」には、アコナワ(阿児奈波)とあるが、「おちなわ」か?なわはウミヘビ、オキは沖かと思うが、越智だろう)、「おち」は「越」で「こし」古志で、「し」が風。「こし」は「息」で「し」「いき」と同意。だから四国の海人族・越智氏=村上水軍の「おち」も風、「息」である(要分析)。息長氏も古志=越前福井に関連した氏族だった。
出雲と敵対したのは九頭竜川氏族かもしれない。三尾氏は息長氏と結婚し継体を生み出す。「しがらき」は滋賀の新城で「しかあらき」。「しか」は海の風。鹿。
 
 
「龍は西北隅から出現」
『石氏星経』に四神のうち青龍は東方に置かれ「春に万物が生じるをつかさどる」とある。『扶桑略記』には「天子の御世を寿ぎ、天子の色である黄色の龍が西北・乾(いぬい)の角の山中より昇天」とある。
 
いわゆる「戌亥の隅」とは北西、十二支の戌亥方向で、神道での鬼門である。京都なら愛宕山の方角。風が吹く方角なので「お薪山=おたぎさん」で「火伏せの神」が祭ってある。この風神がやってくる日が「社日」なのである。だから稲作に大いに影響した大風を諏訪の春秋社に祭、田植えと収穫=春耕秋収の成就を念じたのである。
 
 
このように風の神は内陸部では稲作の龍神であり、また海上では遭難や船旅の成就を祈る水の神になったのである。その日本人の風習がすでに倭人伝の3世紀には始まっているということになろう。その祭祀がどこから来るかと言えば、それはもうヨンドンの吹いてくる江南、長江湖南であることは間違いない。これを中国少数民族倭族たちは「来訪神」と考えた。つまり来訪する精霊もまた風の神だったのである。
 
 
 
さて出雲のスサノヲがなぜ出雲の風土記には登場しないか?考えたことはおありだろう。スサノヲは自然神であることは、アマテラスが太陽、ツクヨミが月であることから理解できても、ではどんな自然現象を現すのかがよくわかっていない。夜だとか、氾濫だとかいろいろ言われる、スサノヲは風神ではないか。つまり台風や春秋の季節風である。神話ではアマテラスの水田を荒らしまわり、馬=南の皮を穂織り込んだりし、放逐されるとまず西の新羅へ向かい、出雲では蛇体のヤマタノオロチを猛虎のように退治する・・・さあ、これは風には風を、氾濫や決壊にはまさに荒ぶるスサノヲを立ち向かわせてある。まるで目には目をである。つまり風は季節によって竜虎になったのだ。だからスサノヲもまた竜虎、風神、竜神だったのではないだろうか?
 
 
そもそも荒神とは天変地異・異常気象・大災害等の「人を喰う神」である。八岐大蛇もそうである。それは古志・・・北東からやってくる青龍だ。スサノヲは新羅つまり西からやってきた来訪神=まさに北西の季節風であり、鬼門の神である。しかも彼は出雲に金気までもたらす。安来節がひょっとこ(火男)が砂金をすくう踊りと考えたことは?そう斐伊川から砂鉄である。だから戌亥は金気の方角でもあったのだ。蓬莱は東にあると中国で考えられた。その中国は西にある。つまりは西は製鉄や稲作やを持っても訪問したい人々で、東は蓬莱、日本なのである。大陸で何かあれば東アジア人は全部、必ず日本へ逃げてきた。鶴橋・大久保・新潟。大分・・・・。スサノヲはそのすべてに祀られる。やはりスサノヲは風である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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あなたがたでは一生黄泉比良坂観念はわからない

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「さて、黄泉国は通常、地下にあると考えられてきた。『古事記伝』六之巻?代四之巻には、
 
さて祝辭に、吾名妋能命波、上津國乎所知食倍志、吾波下津國乎所知牟止申氐とのたまひ、又欲罷妣國根之堅洲國と、須佐之男命の詔へる【私記に、根國謂黄泉也と云、萬葉五に之多敝乃使とよめるも、泉路のことなるが、下方使と聞ゆ、出雲國風土記に、伯國郡内夜見嶋と云ことあるは、黄泉に由あることありての名なるべし、】などを以見れば、下方に在国なりけり、(5)
 
と書かれている。しかし、最近では、黄泉国は葦原中国よりも上にあるという説が出ている。その根拠となるのは『古事記』本文中の「坂本」という言葉である。この表現から、黄泉国と葦原中国は同じ地上世界であると考えられる。(6)また、黄泉国が地下にある場合、黄泉比良坂は「坂上」で葦原中国と接し、「坂本」で黄泉国と接することになる。そのため、『古事記』本文においては、伊耶那岐命は千引の石 ちびきのいわで黄泉比良坂を塞ぎ、千引の石を挟んで伊耶那美命と話した後、黄泉比良坂を上って葦原中国に戻ってきたことになる。すると、黄泉比良坂自体は黄泉国でなく、葦原中国に属することになり、黄泉比良坂が黄泉国に属するという通説と矛盾する。(7)
 
黄泉国が上にあるという考えは私が持つイメージとは大きく異なる。だが、黄泉国としてではなく、山に死者が行くというイメージならばどうだろうか。恐山には死者の魂が集まるとされ、シャーマンであるイタコが口寄せ、すなわち故人の霊を呼び出して自分に乗り移らせる。姨捨山では更級に住む男が口減らしのために親代わりの姥を山に捨てた。『竹取物語』では富士山の山頂で不死の薬を焼く。通常、月に一番近い場所で焼いたと考えられているが、死と結び付きの深い場所で不死の薬を焼いたとも考えられる。鳥辺山は火葬場として有名である。個々の山に限らずとも、墓が立つ場所は山の上というイメージがある。こう考えれば、山と死者が結び付くイメージがある。黄泉国が葦原中国の上にあるという考えも納得できるかもしれない。」 
 
 


 
 
 
 
 
この論者は、古代人の「境目」観念がまったくわかっていない。
いや、すべての神話学者たちが、どうやら黄泉国が上にあったか下にあったかになどという、視覚的分析に埋没しているということは、何も人間の観念が見えていないと判断せざるを得なくなるのである。まことにがっかりさせられる論である。馬鹿じゃないのか?
 
 
 
境い目にある坂が、地上界のものか、死後世界のものか、などという論争自体が空虚である。なぜ、それが彼の世とこの世のあわい、つまり間にある、いずれの世界でもなくあっちとこっちの境い目だと気づかないのか?この愚鈍さにいらいらとしてくる。
 
 
こんな連中に、一生黄泉や他界観などわかるはずもないし、能や狂言の幽玄のなんたるかも理解できまい。唾棄に値する。こうしたおバカが学者である限り、記紀神話は「感じる」ものだという意味もわかるまい。一度黒田官兵衛のように幽閉したほうがいい。未知をあまりに信じられない科学バカである。
 
 
 
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黄泉比良坂を考古学で切り捨てる

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黄泉国神話は出雲が舞台ではない。天上界が舞台であるので、これは勘違いな観光地の代表。出雲は記紀神話ではあくまで地上界に過ぎない。ましてスサノヲ神話にある「根の堅州国」は「黄泉国」とは書いていない。どうしてこういうものができるのか不明???
 
 
 
 
 
 
 
 
「是に、其の妹伊耶那美命を相見むと欲ひて、 ※1黄泉国に追ひ往きき。爾くして、殿より戸を縢ぢて出で向へし時に、伊耶那岐命の語りて詔ひしく、「愛しき我がなに妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟らず。故、還るべし」とのりたまひき。爾くして、伊耶那美命の答へて白さく、「悔しきかも、速く来ねば、吾は ※2黄泉戸喫を為つ。
 
然れども、愛しき我がなせの命の入り来坐せる事、恐きが故に、還らむと欲ふ。且く黄泉神と相論はむ。我を視ること莫れ」と、如此白して、其の殿の内に還り入る間、甚久しくして、待つこと難し。故、左の御みづらに刺せる湯津々間櫛の男柱を一箇取り闕きて、一つ火を燭して入り見し時に、うじたかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には析雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、幷せて八くさの雷の神、成り居りき。
 
是に、伊耶那岐命、見畏みて逃げ還る時に、其の妹伊耶那美命の言はく、「吾に辱を見しめつ」といひて、即ち予母都志許売を遣して、追はしめき。爾くして、伊耶那岐命、黒き御縵を取りて投げ棄つるに、之ち蒲子生りき。是を摭ひ食む間に、逃げ行きき。猶追ひき。亦、其の右の御みづらに刺せる湯津々間櫛を引き闕きて投げ棄つるに、乃ち笋生り。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且、後には、其の八くさの雷の神に、千五百の黄泉軍を副へて追はしめき。
 
爾くして、御佩かしせる十拳の剣を抜きて、後手にふきつつ、逃げ来つ。猶追ひき。※3黄泉比良坂の坂本に到りし時に、其の坂本に在る桃子を三箇取りて待ち撃ちしかば、悉く坂を返りき。爾くして、伊耶那岐命、桃子に告らさく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に所有る、うつしき青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ惚む時に、助くべし」と、告らし、名を賜ひて意富加牟豆美命と号けき。最も後に、其の妹伊耶那美命、身自ら追ひ来つ。
 
爾くして、千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞ぎ、其の石を中に置き、各対き立ちて、事戸を度す時に、伊耶那美命の言ひしく、「愛しき我がなせの命、如此為ば、汝が国の人草を、一日に千頭絞り殺さむ」といひき。
 
爾くして、伊耶那岐命の詔ひしく、「愛しき我がなに妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。是を以て、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるぞ。故、其の伊耶那美神命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追ひしきしを以て、道敷大神と号く。亦、其の黄泉坂を塞げる石は、道反之大神と号く。亦、塞り坐す黄泉戸大神と謂ふ。故、其の所謂る黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。」
『古事記』神代
 
 
伊耶那岐命と伊耶那美命は高天原の神々に命じられて、国を創る。そして、国を生んだ後に神々を生んだ。しかし、火の神である迦具土神かぐつちのかみを生んだため、伊耶那美命は死んでしまう。伊耶那岐命は伊耶那美命が死ぬ原因となった迦具土神を切り殺し、その後、伊耶那美命を追って黄泉の国へ行く。そこで彼女と出遭って以後のエピソード。
 
 
 
※1
黄泉国 よみ・の・くに
死者の世界
夜喪。闇。「よも」
「よみ」は古くは「よも」。
「よ」は「夜」「世」「余」、「も」は「間」「喪」である。暗く、この世以外の場所。「もがりののちにゆくところ。「よもつ」。 
 
 
 
 
漢字表記は中国の死者の世界を現す「黄泉 こうせん」の当て字である。中国で冥界には黄色い泉があり死ぬとそこへ行くのだと信じられていた。これは陰陽五行説の「土=黄」から来ており、死後の世界が土中つまり地下にあったと考えられていたことになる。
 
すると黄泉という観念がわが国に定着した時期は古墳時代の後半、横穴式石室の時代であるという推定が成り立つことになるだろう。なぜならば前期・中期の古墳は墳頂に竪穴式石槨を作っており、これは冥界が天上にあるとされていた証拠になるからである。ということは、8世紀の記紀の他界観は必ずしも神代のような太古の通念を言ってはいない、せいぜい古墳時代5世紀後半~6世紀以降の通念であることに気づくのである。ゆえに記紀の描く古代の記憶とは5世紀を遡らないことが見えてくる。それはちょうど雄略前後の時代であり、ちょうど森博達が『日本書記』漢文分析から割り出した中国人編者によった最初期の記事部分の冒頭が雄略紀であることと見事に合致することになる。
 
 
 
◆中国の黄泉 『春秋左氏伝』
「不及黄泉無相見也」
註「地下泉曰黄泉。言生無復与相見。至死後後方相見於地下隠公務」
「黄泉は見ることができない」
「地下の泉である。生きて見てきて帰ったものの言葉はない。死後に至り、地下に行かねば見られない」
 
当ブログ過去記事によると・・・盆前特集 黄泉はなぜ黄色い泉なのか?1

 
◆陰陽五行説
土(土行):植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
これを神獣に振替えると「土」は黄龍(黄鱗とも)。
つまり土=中央=地下=黄泉(こうせん)であり、「黄」は色ではなく「土」という意味であった。
もっとも、中国の陰陽五行説中興の地である黄河流域の土は黄色い。春先に日本に飛んで来る「黄砂」も黄色いから黄砂である。黄河文明中国人には大地=黄色となったのはむべなるかなのこと。


◆「黄」という漢字も「土」起源?
意味
旧字は黃。
黄色、黄色い、土色、中央の色、黄ばむ、老人、幼児という意味がある。〔説文解字〕に「地の色なり」とある。
字形
諸説ある。
佩玉の象形、火矢の象形、黄色のイナゴの象形、などがある。〔説文〕は田+炗(光)の会意、としている。
 
と解説してある。
 
 
 
 
 
※2
黄泉戸契(記)
黄泉竈食(紀) よも・つ・へぐい
死者の国=黄泉(よみ)の竈で炊いた飯を食うこと。食うともうこの世に戻れない。つまり死が確定される行為。古代~近世まであった死生観・他界観から派生した言葉。
「悔しきかも、速く来ねば、吾は黄泉戸契を為つ。」
「へ」は「竈 かまど」→ヘッツイ
 
死者と食を共にする、とは、この世においては神と共に食事する新嘗の儀式として伊勢神宮や皇室内に残存している行為が持つ、「饗宴」「神饌共食」の観念と同じである。饗食することが「ひとつになる」「同化する」「服属する」という意味を持っていることが見えてくる。それを黄泉の国でやれば、死者と同化したこととなるという考え方になる。やがて一般社会においても、「同じ窯の飯を食」えば仲間として認知されるという俗信が生まれたと考えられる。
 
 
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筆者近所にある黄泉比良坂。ひらさかなどどこにでも出現する概念である。
あなたが死ねばあなたのそばに現れる。上下左右、天か地か、出雲か近江かなどといった人間の浅はかな考え等すべて超越しているもの。
なぜならそれは人間の観念の中の存在だからだ。
神話が書くことはそういう
時空を超えた空間のインナーな世界。
 
 

 


 
 
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神蹟黄泉比良坂石碑 島根県松江市揖屋

 
「ひらさか」を平坂と書き直すことによって、それが古墳石室の羨道であるという論理が成り立つ。しかし「平たい」をフラットだと思ってはならず、天上界に黄泉があった時代には坂は上り坂、地下にあるとされれば下り坂と、変化する観念である。それは時代に関わらずとも、その信じる人間の考え方でも違うことになる。
 
九州が横穴式石室の時代になっても、まだ竪穴式や密閉型石棺、石室=閉じられた墓を使用していたのが大和地方であるのだから。近畿ではまだそれらはあいまいに同居していた。
 
平坂は古くはキザハシのように天に昇ったもので、祖霊がそこを上るというものだったが、やがて記紀のような地下世界へ下ってゆくものになったわけだ。けれど人によってどちらとも決めがたい時代だったから、「平坂」なのである。
 
「さか」は「境」と同義で、あちらとこちらの境界である。同じ坂でもあちら側から来れば上り坂でも、こちら側から見れば下り坂。この観念を「あわい」「まどい」の象徴と考えたに違いない。「あいまい」なところという意味になる。横穴式石室の羨道は、ほぼ平坦であるが、実は作った者の脳裏には、やや下っているものと考えられていた。だから古墳によっては下り加減の羨道も多々存在する。それは黄泉は地下という観念である。ちなみに「淡い」とは「あいまいな」という意味の和歌山弁「あわいさ」と同義語。モノとモノの「あいだ」「中間」から派生した。
 
 
 

※3
黄泉比良坂  よもつ・ひら・さか
「比良」の表記は8世紀のもの。あとに「坂本」とあるのでこれでは比叡山坂本町のことになってしまいかねない。それは比良山が北東にあるので鬼門という観念であるから、「比良坂」は表記が新しい観念で選ばれた表記、と気づかねばならない。この文字を記紀が当てるのは、明確に仏教思想(のちに天台密教へ)が8世紀に朝廷に入っていることを証明する。本来は「平坂」でよい。
 
ちなみにそれがどこにあったかなどと詮索してもなんの意味もあるまい。記紀は島根の島根半島の根っこにある出雲や松江を「根の堅州国」としてはあるが、それは読むものがわかりやすいように場所を限定しただけのことで、そのほうがリアルだったからにほかならない。ミステリーは、どこかしら現実にそういうものがあると思わせた作品が受け入れられるものである。
 
死者の国がここにあるなどと言われた土地は、むしろ当時、中央から蔑視されたということなのであり、当時の出雲人から見れば、まるで現代の放射性瓦礫埋蔵地を出雲と決め付けられたような心境だったのではなかろうか?ただ大和の西にあって、古い縄文世界で、必要な港だったというだけで。
 
 
 
「千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞ぎ、其の石を中に置き、各対き立ちて、」とあるように「よもつひらさか」とはあきらかに北部九州の横穴式石室の様式である「閉塞石 へいそくせき」を意識して書かれたことが見える。これはアマテラスの「岩戸隠れ」にも応用されている。
 
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 熊本県山鹿市オブサン古墳の閉塞石
 
 
 


 
 
九州で古墳の魔よけとして石人が置かれたが、これは近畿では埴輪で代用されている。この埴輪生産は、明確に石造物生産より大量生産が可能で、古墳時代には産業となりえた技術である。ただの空虚な土の加工品でしかないが、数だけはたくさん墓に置ける。このことはヘテラルキー思想そのものだと言える。中身は空虚でもたくさん陳列できた。見た目重視の権威主義である。古墳での葬儀に外からの参列者が多くなったことに、埴輪も前方後円墳見上げ型も対応しての変化である。従って、近畿がそうした国家意識、海外意識に目覚める時期はあきらかに6世紀以後なのである。
 
 
 
 
 
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テオティワカン新発見所感

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「テオティワカンの発掘は、「なぜ文明が生まれるのか」という問いに、新たな答えをもたらす可能性を秘めている。従来、文明は富と力を背景にした権力者を中心に生み出されると考えられてきた。しかし、近年の調査※1により、テオティワカンは、何者かが建てた小さなピラミッドへの信仰を起点に発展したことが明らかになってきた。ピラミッドは世界の成り立ちを説明するために作られ、その世界観に魅せられた人々が自発的に集い、やがて文明が生まれたというのだ。手がかりを求めてペルーの古代アンデス文明の遺跡や、※2トルコの“人類最古の神殿”の発掘現場も取材。果たしてテオティワカン誕生の鍵を握る人物の墓は見つかるのか? 古代のミステリーに挑む日本と世界の考古学者たちとともに、新たな文明論に迫る。」
動画つきサイトhttp://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/1026/
 
 
 
 
※2 ギョベックリ・テペ遺跡
1万1600年前、世界最古の?遺跡(おそらくもっと古い日本の縄文土器が出る遺跡がいずれ発見されるだろうが)
 
トルコ南部のギョベックリ・テペ遺跡で、狩猟採集民が築いたとみられる1万1600年前の神殿跡が見つかった。この発見は、農耕が始まってから宗教が生まれたという定説を覆すことになるか。
 
 
 


 
 
 
 
三つの番組を交代で見ながら、ブログを書きながらのチラ見ではあるが、三つの事柄が印象に残った。

ひとつは月のピラミッド地下に満たされた地下水。
ひとつはピラミッドが最初から巨大な建造物だったのではなく、小さなピラミッドに増築を重ねていったこと。

三つ目は杉山教授が提言している、ピラミッド建設に伴って町ができあがってゆくという説。

しかしそれが海外発掘では新発見だったかも知れないが、日本国内の民俗考古学(考古古代学)の視点からはむしろ当たり前のものであることを、Kawakatuはしてやったりと思いつつながめていた。

1の玄室内部に地下水をというのは、中国で言うならば、地下の黄泉にある泉と同源の他界観である。これが始皇帝陵ならば水の代わりに水銀を敷きこんである。水による祖霊の再生である。

2の増築構造は新発見である。これは素晴らしいこと。

3巨大建造物を機軸とする「公共事業」が都市を作ったのは、東アジア・日本の大古墳と同じであり目新しい話ではない。むしろ当然のこと。町は最初のきっかけを鉱山開発などの「発見」に始まることが多い。建造物はそれを人工的にやってのけたわけである。墓所が作られた場所、あるいは聖地・宮殿などが作られた場所は、古代では既存の都市の中ではなく、その周辺地区であるから、そこに全国から工人らが集合するのは纏向遺跡がすでに語りつくしている。
 
 
 
NHKが初めてカメラを入れた、それは素晴らしいことだが、愛知県立大学の発掘があったればこその番組であった。
 
 
快哉。
 
 
 
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ギョベックリ・テペ遺跡  産業が先か宗教が先か?

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一部転載
 
──文明の始まりや、人類の起源などは、誰もが知りたいテーマの一つです。
ところで、文明の誕生については、まず農耕が始まり、後に組織的な宗教が生れたという定説がありますが、ある遺跡の発見によって、その定説が覆されようとしているとか?

常木 はい。トルコ南部の山頂で見付かった「ギョベックリ・テペ」遺跡により、これまでの定説に「待った」が掛けられています。

──つまり、農耕より宗教が先と…。どのような遺跡なんですか?

常木 何十もの巨大なT字形の石柱が円形状に建ち並び、大きな円の中に小さな円があるといった手の込んだ遺跡です。その中には、約1万1600年前につくられたと考えられる、人類最古の神殿があります。これほど古い時代の、しかも大規模な建造物は、他に見付かっていません。
なお、地下探査により、少なくともその場所に20基以上の円形遺構が存在することが判明しています。
 

──大変な発見ですね。「宗教が先」という根拠はどこに?
 
 
常木 不思議なことに、ギョベックリ・テペ遺跡には、人が生活した痕跡がまるで残されていません。
 
例えば、T字形の石柱は、大きなもので高さ5m、推定重量が10tにもなり、石の切出しや運搬を含め、多くの人出が必要だったはずです。

それなのに、遺跡周辺には水場がなく、一番近い川も約5・離れています。また、作業員の住居などもなければ、農耕の跡もなく、生活臭のする遺構や遺物はまったく発見されていません。つまり、純粋に「祭祀を行なう場」であったことが明らかなのです。

──にわかには信じられませんね。石を運ぶ道具も、家畜もいない時代に、人の力だけで重い石を山頂まで運び、ただひたすら祈るためだけに神殿を建設するなんて…。

「ギョベックリ・テペ」を訪れた常木先生。T字柱にはキツネが彫刻されている〈写真提供:常木 晃氏〉

常木 おっしゃる通りです。当時の人達の信仰・崇拝精神は、われわれの想像をはるかに超えるものだったともいえます。
この遺跡の発見により、「狩猟採集民族が定住して農耕を始め、大きな社会を形成するにつれ生じるようになった人々の間の利害関係や緊張を緩和するものとして宗教が生れた」という従来の説の見直しが迫られているのです。

(写真左上)壁に埋め込まれたT字柱には、イノシシをはじめ多様な動物を彫刻。(写真右上)まるでガウディの彫像を思わせるような立体的な四足獣が掘り出されている〈写真提供:常木 晃氏〉
 
 
 
 
 
 
 
常木 1万数千年前に人々が定住を始めるとともに、自分達のテリトリーを強く意識するようになります。それから8500年位前までの間、テリトリーは「親からの相続=所有」という概念が基本でした。そうすると、親が亡くなった時に、どうやって「これは自分のものだ」ということを証明するか、その問題に直面します。そこで、親の遺体を家の中に埋めたり、見えるところに頭蓋骨を飾るなどして、所有権を誇示していたのです。
その後、徐々に権利関係が成熟するにつれ死者に安らかに眠ってもらうための場所として墓地ができていきました。われわれが発見した集団墓地は、西アジアの歴史で初めて成立した屋外型の共同墓地といえるもので、故人の埋葬場所が私的な建物空間から共同の屋外空間へと変化したことを示すものであると考えられます。
 
 
 
 


 
 
この新石器時代の最古の神殿遺跡が、今後、農耕よりも祭祀が先だったを証明する鍵になりそうである。
 
ほかの例証では、アイルランド~イングランド~スコットランド及び地中海沿岸地帯に多い石造物ストーンヘンジや墳墓グレンジではどうなのか。やはりあれらも祭祀的意味合いはあっただろう。
 
 
 
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風のための20度 稲吉角田遺跡・田和山遺跡など レイラインだけで解けると思うなよ

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民俗考古学・新古代学・古代人間行動学
 
 
 
 
 
「鳥取県米子市にある稲吉角田(いなよしすみた)遺跡(弥生中期)において、絵画が描かれた土器が出土した。その概要を『原始絵画の研究』(設楽2006)より以下に要約・引用する。

 
稲吉角田(inuinosumida?)遺跡は、妻木晩田(むきばんだ)遺跡の西方に位置する丘陵の裾近くの扇状地に所在する遺跡である。1980年の調査において多数の弥生土器が出土し、その中に絵画資料が含まれていた。この土器は、口径約50cm、推定高120 cm以上の大型壷であり、口縁部から頸部にかけて6種類の絵画が描かれている。土器の大きさや他の遺跡の類例からみて、土器自体はおそらくは壷棺として利用されたものと思われるが、正確な出土状況は不明である。土器の時期は伯耆Ⅳ‐3期(弥生時代中期後葉)であり、絵画は土器の焼成以前に描かれている。
 図1Aのaからfは、この土器に描かれた絵画で、見やすくするために一部補正が施された復元図である。

図1Bは、(佐々木1981)に掲載の図1Aに対応する出土原図である。」


   a鹿         c樹木?+銅鐸?   d高床式建物    e やぐら状建物        b太陽  f 船と人物
 
 
真ん中のd図に注目されたい。
ほとんど建造物としてはテントほどの役割しかないように見える。ただの天蓋であろうか?なにゆえに中央部に壁やらの障壁物がないガランドウなのだろうか?
 
 
C図はいった何を表しているのか?
 
 
e図はまるで出雲の杵築大社の原始の姿のようである。
 
f図はどうやら中国の「羽人 うじん」に似ている。
 
 
 
 
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九本柱の建造物として有名なもの
この見取り図の南北のラインから、この柱構造物は右へ20度ずらして立ててある。つまり東へ20度、斜めに建っているのだ。
 
このずれを、あなたなら、よく言われている冬至と夏至で解明しようとするかも知れない。
 
 
 
 
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この佐賀県吉野ヶ里の墳丘墓の向きと同じように解釈するだろう。
 
 
 
 
 
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その復元されたもの。
なんともどてっぱらがすーすーした、風通しのよい建物に仕上がっている。
なぜこうしたのだろうか?
 
 
さて神社の屋根には千木と鰹木があるのだが、あれは何のために置かれているのかよくわかっていない。
 
 
 
次に田和山遺跡の九本柱・五本柱建造物を見てみよう。
 
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おや?どこかで似たようなものを?
そう、青森県三内丸山、日本海の桜町遺跡などの縄文の柱構造物である。
果たして、この高地性擬似戦闘場集落で、人はこの柱に何を祈ったのか?
実はここもやはり南北に10~20度の「北西から南東に向く」建造物である。
 
 
 
 
 
それは太陽祭祀のレイラインだけで果たして読み解けるだろうか?
 
 
 
ほかにも島根県杉沢遺Ⅱ跡は20度、鳥取県羽合町の古墳時代の遺跡・長瀬高浜遺跡が20度、それぞれ「戌亥の方角を向くように」南北ラインからずらして建てられていた。
 
そのうち、古墳時代の長瀬高浜をのぞくすべての弥生遺跡に、
 
二間×二間の田の字型九本柱構造物があって、すべて戌亥・辰巳の方角を向いている。
 
 
 
これが夏至と冬至、春分・秋分のそれぞれの角度差である。
日の出入り方位
北 緯夏 至立 夏
立 秋
春 分
秋 分
立 春
立 冬
冬 至
20°
25
30
32
34
36
38
40
45
50
+25.4°
26.5
27.9
28.6
29.3
30.2
31.1
32.1
35.3
+39.5
+17.7°
18.5
19.5
19.9
20.5
21.0
21.6
22.3
24.4
+27.1
+0.3°
0.4
0.5
0.5
0.6
0.6
0.7
0.7
0.9
+1.0
-17.1°
17.7
18.4
18.8
19.2
19.7
20.2
20.8
22.5
-24.8
-24.7°
25.6
26.8
27.4
28.0
28.8
29.6
30.5
33.2
-37.0
表.各地の日の出入り方位(「理科年表」1990版より)
 
 
日の入り、日の出の角度は、北緯つまり測る場所によってずいぶん差がある。
 
 
 
 
しかし、これまで見た来た遺跡の、どこでも南北に対して20度のずれである。
島根、鳥取、能登、三内、北緯に左右されてはいない。さて?
 
 
 
 
北西と南東・・・・はて?
 
 
 
 
『出雲国風土記』大原郡神原郷の条に
「大神の御財(みたから)積み置き給ひし処は、戌亥の隅」・・・
とある。
 
日本海側と言えば四隅突出型墳丘墓がある。
あの糸巻き型の突出部はそれぞれ四至を現すと言われるけれど、どこも青銅器=銅鐸などが埋められていた。
 
あの有名な加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡は、神原郷のまさに北西の端にあって、そこから銅鐸・銅剣・銅矛などが大量に出土した。これこそが風土記にある「戌亥の方角に隠された出雲大神=大穴持オオナムチの御財」だったのではあるまいか?
 
二つの遺跡はともに戌亥を背にした丘陵の東南斜面に埋められていたのだ!
 
 
 
 
 
 
 
ではなぜ戌亥なのか?
 
神庭荒神谷は加茂岩倉から丘陵を越えて3.4キロ北西に位置する。
あの有名な「景初四年鏡」が出た神原神社古墳という古墳時代前期の古墳も、実は北西~東南の方位軸上に作られている。
 
 
 
 
 
この記事を書きながら、外の風の音を聞いている。
強風が吹いてきた。
関東で山瀬、関西で穴師、季節風、冬将軍、モンスーン、木枯らし・・・などなどそれこそ名前の多い風の到来である。その風は先にも書いたように、秋は二百十日を過ぎて神嘗祭の頃から吹き始める、出雲では「忌み荒れ風」である。
 
この風の名前が日本海側に特に異称が多いこと、よもやお忘れではあるまい。
 
1 アナジ・アナシ (纏向・和泉・伊勢・伊賀・若狭・能登など)
2 お忌み荒れ(出雲大社神在月の風)
3 西ながれ(石川県)
4 二ソ(福井)
5 アイの風(日本海・万葉「安由能加是」あえのかぜ)
6 ワタシ風
7 マツボリ風(阿蘇・溜め込んで=「マツぼる」一気に噴出される風)
8 ホマチ風(福島県郡山周辺・「帆待ち風」だろう)
9 タマ風(北日本全般)
10ダイシコ吹き(大師講吹き・中国地方東部)
11御神楽流れ(岐阜県揖斐郡)
12アユの風(東海地方)
13雁渡し
 
Kawakatuはこの風に逢わせてここ数日、風の記事を書いてきたが、読者の反応はいまいちであった。
 
 
この風こそが戌亥の隅から吹いてくる神風・鬼風なのだ。
 
 
 
 
 
つまり、千木や鰹木同様に、これらの建造物が柱しかない、空虚な構造物である理由とは、風を防ぐのではなく、風をやり過ごす意味を持っているのではないか?
 
 
 
千木は風を切るためにある。
同じ構造が江南の少数民族の家屋にもついている。
 
柱は屋根がない。壁もない。
ただ風を通り抜けさせるだけの構造物なのである。
なぜ?
それこそが風災害の「行き過ぎてくれる」ための呪、願いだからである。
 
 
 
そのためにわざわざあのような巨大な柱を?
それが縄文~古墳にかけての、日本海の蝦夷文化にある「魂風 たまかぜ」の祭祀だったのではないか?
 
 
この季節風が吹くと西高東低が確固たるものになり、北には大雪、中部・関東にはまた竜巻や突風、空っ風、そして西日本には中国からの黄砂を大量に降らせる冬が始まる。それが追儺である。二月のお水取りが春を告げるまで、全国に追儺行事が始まる。そして呪師が祭祀で走り始める師走がやってくる。
 
右へ旋回、左へ左盤・・・・能楽も呪師も猿楽も、厄払いも、舞踏家も、すべてが回り始める。力士は土を踏みしめる。ああ、年末がやってくる。大つごもりがやってくる。来訪する災害神よ、どうか今年こそは人を食わずに去ってくれ!!!
 
 
 
 
 
 
なのではないか?戌亥の隅を向くのは?いかが?
 
 
 
参考 萩原秀三郎
『鬼の復権』「戌亥の隅から」より
 
 
 
 
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 いなよし よい稲穂のために戌亥の
すみた  隅で祭祀した 
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季節風と鹿角と榊に鏡と

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鹿の角
 
 
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鹿、特に牡鹿はその姿かたち、皮をたたらフイゴにすること、なめし皮の袋が水や砂金を入れるに絶好だったこと、さらに角が秋に落ちて生え変わる再生能力、角の形が樹木に似るためにそれが神樹の枝に見立てられたりしてきた。
 
 
 
 
さて、ひとつ前の記事に書いた、稲吉角田遺跡の不思議な土器の絵柄Cの復元したものを、見てみよう。
 
 
 
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下に吊るしてある二個の丸いものは、実は鏡であるそうだ。
銅鏡である。
 
記紀アマテラスの天の岩戸隠れ神話に、木の枝に鏡をかけて祈るという話が出てくる。これはまさにそれに酷似するオブジェである。
 
 
 
これまでその儀式は、太陽に感応して祖霊を呼び戻す太陽信仰の再生儀式だと、誰言うともなく認知されてきて、常識化していた。
 
 
しかし、この枝の上部の枝えだが作り出す櫛目状の空間を見ると、筆者にはイザナギ黄泉国巡りで、イザナギが投げつけた「櫛の男歯を抜いて」の一説を思い出した。
 
この形状は、どうもオス鹿の角にも似ている気がする。
 
 
 
 
この絵柄がなぜ、日本海側の鳥取の遺跡の土器に描かれてあったかは、次のような解釈をすることができまいか?
 
 
枝のすきまを通り抜ける風をうっちゃる形状であると。
ではなぜ鏡を下にかけたか?
風によって鏡は回る。
すると反射光線はくるくるとあたりを照らすだろう。あたかも現代の鳥おどしのように。その光はめぐる。ぐるぐるとめぐる。
 
風がそこを通り抜けてゆくのであろう。
太陽を呼び戻しつつ、北風を難なく通り抜けさせる・・・。
春を呼び、冬のすみやかな通過を祈念する、これはその装置なのだろうと。
 
 
戌亥の風には祖霊が乗ってやってくる。そして新生児の誕生をムラにもたらす魂風だと、東北の縄文世界では信じられてきたともいう。
 
枝に季節風がもたらしてくれる生命がくっつく。
その着想は、北西からの豊かな大陸の黄砂が含まれ、また種子なども含まれている。だから日本の国土には自然に養分の多い土壌と、樹木が育ってきた。その自然にひきおこる不思議ななりわいは、ちょうど新しい命がいつのまにか母親に宿ることによく似ていた。それは風が運んでくるのだ・・・
 
中国では黄泉(こうせん)に棲む黄龍が死者の生命の再生を、春、蒼い竜が天に上って、秋に黄竜となって生命=玉を握り緊めて帰ってくるのだと信じられていた。
 
これをヨミガエリと言うのだ。
 
春の一斉の芽吹きの不思議を、古代人はそんなふうに解釈した。だから黄竜=西の下り竜は春・生命の象徴、秋の青龍は冬・死滅の象徴だったのである。これが「春耕秋収」の一年間であった。この年間二順の観念は、稲作民共通の死生観を生み出した。だから同じ中国人であっても、北部の雑穀民族である漢民族には、倭人を見たときに奇妙な風習だと見えた。しかしそれは漢民族がかつて追い出した江南民族たちには当たり前の観念だったのだ。
 
 
 
 
今日。まさに全国に季節風が吹き荒れた。
春の嵐と秋の嵐は、この稲穂の国=葦原中つ国を吹きぬけてゆくとき、多くの福と災いをもたらしてきた。福は吹く。そして枝に福だけがひっかかることを人は望んだ。災いは枝の隙間、巨木建造物の間を吹く抜けてくれればよかったのだろう。
 
 
 
切ない願いが、日本海の何箇所もの巨木の九本柱に見えた気がする。
 
 
太陽に関する冬至と夏至だけ祈っていればよかったわけではないってことだ。
 
 
 
 
 
 
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腰穴

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腰穴 こしあな
 新温泉町二日市の「浅谷下山古墳群」で、古墳の埋葬施設(木棺)の下から副葬品を納める腰穴などを確認し、県教委が発表した。古墳時代の腰穴の確認は県内で初めてという。

 同古墳群は岸田川に面した山の尾根にある。浜坂道路(国道178号)の整備に伴い、県教委が県まちづくり技術センターに委託し、5月から発掘調査を実施したところ、弥生時代後期末(3世紀後半)から古墳時代初め(4世紀前半)の墳墓・古墳を7基確認した。
 
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 埋葬施設の木棺はすべて流失していたが、尾根上部の古墳時代の7号墳は、埋葬施設の下に副葬品を納める長円形の横穴(長さ80センチ、幅45センチ、深さ15センチ)があり、「珠文鏡」と呼ばれる銅鏡1面(直径7センチ)、竪櫛の一部、碧玉製の小玉、土師器(はじき)の高杯などが埋葬されていた。

 腰穴のある埋葬方法は中国、韓国にある風習で、国内では弥生時代にみられたが、その後途絶えた。7号墳は古墳時代に復活したことになるという。

 同センター埋蔵文化財調査部の渡辺昇・副課長は「腰穴は県内では弥生時代の尼崎市の遺跡で確認されているが、古墳時代の腰穴は県内で初めてとなり、身分の高い人が埋葬された可能性がある」と話している。

 一般向けの説明会は、25日午後1時半から2時半まで、新温泉町の山陰海岸ジオパーク館で行う。
 
 
 
腰穴。
はじめて聞く言葉である。
「腰穴のある埋葬方法は中国、韓国にある風習で、国内では弥生時代にみられたが、その後途絶えた」
どうやら埋葬施設の下に副葬品を納めるための別区らしい。
 
弥生時代の風習だったものが古墳時代に復活。
 
場所は兵庫県美方郡新温泉町二日市
 
日本海側の鳥取寄り。
兵庫と言えば日本海なら東部の城之崎、出石であるが、正反対の西部である。
どちらかと言えば出雲文化圏が近いところだ。
 
腰穴について用語検索しても見つからない。
ほかの地域でもあったようだが、どこだか不明。
 
 
いきなり「腰穴」と来ても、しろうとにはさっぱりである。
 
解説のしようがない。
 
ニュースソースを作る人間は、こういう初出の用語に疑問は感じない奴が多いらしい。ジャーナリストの癖に・・・。好奇心や探究心もなく、用語を右から左か・・・。次元が低い。ちゃんと用語解説くらいつけた記事にしていただきたいものだ。長年考古学の本を読み込んできたが、そんな筆者でさえ知らない言葉。
 
 
 
想像するに、弥生時代は甕棺?、あるいは周溝墓石槨の下に穴を掘ってそこに副葬品を入れたのだろう。それはたぶん、盗掘を恐れてのことだったか?穴や槨が小さいからそういうスペースしかなかったようだ。
 
その様式をこの古墳の被葬者は古墳時代になってまだ継続してきた氏族ということになる。日本海の旧態を残存させる傾向のひとつか。
 
 
 
いずれにせよ、古墳と言う祖霊再生装置が、決して全国画一でなかったことをこれも示す遺跡だと思う。
 
 
 
しかし、これでは腰穴解説になってないな。
また調べておきたい。
 
 
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アトランティス場所と沈没原因がついに明らかに

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アトランティス大陸“沈没”の真相がついにわかった!

 
 
「「この地下遺跡にも女神像などの宗教遺物が数多く残り、最初は神殿として使われていたことは間違いありません。大量の人骨は、乱雑な重なり具合などから一度に運び込まれたと推定されています。

そうした不自然な状況から見て、突然襲ってきた大災害で大量死した遺体を、緊急に地下神殿へ収容したのではないでしょうか」(有賀氏)

その4000年前に発生した大地震と大津波については、マルタ、イタリア、フランスなどの合同研究チームが原因を解明中だが、最も有力視されているのは海底で起きた急激な地殻変動説だ。それは、地中海中央部がユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に位置することからも十分考えられる。イタリア半島南部やシチリア島の火山群での噴火活動も、この地域のプレート衝突が引き起こしている。

マルタとゴゾ島の周辺数十kmには水深20~100mの浅海が広がっているが、東側約70kmには地中海最大の海底活断層が潜み、ここで水深は一気に3000~4000mへ落ち込んでいる。また、西側約20kmから先の海底にも水深1500m以上の大きな窪み地形が3ヵ所ある。

欧米の地質学者や地球科学者たちの多くは、これらの場所で4000年前にM9クラスの巨大地震が起き、大規模な海底崩落が大津波を誘発した可能性が高いと推測しているのだ。

しかし、もし仮にマルタ巨石文明が大津波に襲われたことがアトランティス伝説の原型だとすれば、プラトンが記した急激な陸地の「水没」についてはどうなのか?」
 
 
 

 


 
 
 
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マルタ島は巨石文明で有名。その起原は8000年前だとされてきた。
しかし今残っている周辺の島々はかつてはひとつの大きな島で、そのほんの一部がマルタやゴソであるらしい。
 
 
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「ユネスコが主導した初期の調査では、巨石神殿の倒壊原因は大地震だとされていました。ところが復元が進むうちに、多くが横方向からの非常に強い圧力を受けて破壊されたことがわかったのです。さらに遺跡の床などにたまった厚さ2m以上の土砂は、大津波で海底から運ばれたものと判明しました。つまりマルタ、ゴゾ島内の巨石建造物は大地震と大津波のダブル攻撃で破壊され、それは約4000年前頃に起きた出来事と推定されています」

驚くべきは、その大津波の規模だ。マルタ島の北東海岸に面した首都バレッタの考古調査では、ほぼ北側から押し寄せた津波が斜面を駆け上り、約2km内陸の「タルシン神殿(海抜約50m)」を破壊して土砂で埋め尽くした。
 
 
 
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このS字渦巻きはどうも海洋民族だったケルト系民族のニューグレンジのものに似ている。
 
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大地震と大津波で沈んだ。
場所はマルタ島だった。
詳細は週刊プレイボーイで。
 
 
っていうか、週刊プレイボーイってまだあるんだ。
 
 
 
 
 
 
 
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ヒト・にっぽんーじん

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全体ランキング

学問・科学前日:694位660位 / 1959人中
 考古学(割振率:10%)2位 / 28人中
芸術・人文前日:125位118位 / 3456人中
 歴史10位 / 373人中
  古代史(割振率:90%)1位 / 29人中
総合ランキング3018位 / 1096403人中
 
 
カテゴリーRanking週間IN週間OUT月間IN
考古学(割振率:10%)2 位 / 28人中5658240
古代史(割振率:90%)1 位 / 29人中5045222160
 
割振率やカテゴリーは定期的に変えています。
「古代史」カテゴリーのように割合を低くしても順位に大差がないカテゴリーの場合(このカテは筆者がBRさんに設置してもらったもの)、常はだいたい10~20パーに割り振ってありますが、今回は身の程知らずが約一名、ここへちゃちゃをいれてきましたので、身の程を知らせるために一時的に90パーにしてあります。
まったく迷惑なことです。ケタが違うのに対抗心を燃やしているなんてみっともない。
 
 
 

 
 
 
 
 
ヒト
界 : 動物界 Animalia
門 : 脊索動物門 Chordata
亜門 : 脊椎動物亜門 Vertebrata
綱 : 哺乳綱 Mammalia
目 : サル目 Primate
亜目 : 真猿亜目 Haplorhini
下目 : 狭鼻下目 Catarrhini
上科 : ヒト上科 Hominoidea
科 : ヒト科 Hominidae
哺乳類で最も新しく出現した新参者。
 
 
 
 
 
 
Nipponn-jin
日本人
ヒト科の一亜種。
主として東アジアの日本列島などを生息地とする人類。
地球上で最も遺伝子の混ざり合ったハイブリッド民族の総称。
民族では大和民族と自称しているハイブリッド族を中心に、南琉球、北琉球、アイヌが同居。混血の度合いを深めている。
 
歴史
先史時代は約3万年前から。
新石器時代に北方から新モンゴロイドが来訪。南方から古モンゴロイドも来訪。
このとき列島の中心部はからっぽである。
新石器時代の中盤から、氷河が溶け始め、縄文海進が起こる。このときからいわゆる「渡来」が急増した。
朝鮮半島を経由して、北方、南方から続々と渡来者が。
特に九州の北西部に最初の入植者。これが新石器人と一部混血。
次に東部遠賀川流域に別の入植者。これは日本海を北上して拡散。
弥生時代中盤以降、列島中心部へ拡散し、北方から温暖化で南下していた縄文人という人々と混血。
多民族国家として人口を増やす。
奈良時代直前、外交用語としての「日本人」が成立。
 
 
 
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石川幹人「超常現象」を本気で科学する

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石川幹人「超常現象」を本気で科学する (新潮新書)
 
 
 
 
 
 
以下は著書の「はじめに」より抜粋
 
 「本書は「幽霊はいる」とか「超能力は存在する」などと超常現象を肯定するためのものでもなければ、その逆でもありません。そうではなく、超常現象について、今現在、「実際に何がどこまで分かっているか」、「何がどのように謎なのか」を皆さんに紹介しながら、「いかに未解明の現象に取り組んでいくべきか」という「科学的思考」を身につけていただくことを第一にしたいと思っています。
 本書は、あくまで本気の科学の本です。
 
 こうした傾向は、大学で学生たちをアンケート調査した結果からも裏付けられます。
 
「超常現象について肯定的か否定的か」を問うと、否定的な学生が約4割、肯定的な学生も約4割と勢力は拮抗しているのですが、つづけて「一般多数の意見はどうだと推測するか」と問うと、なんと否定が約7割に上昇し、肯定は約1割に減少します。つまり、実態以上に周囲が超常現象に否定的だと多くの人が信じ込んでいるのです。

 では、この相互理解の壁になっているのは何でしょうか。幽霊の存在について考えるとき、じつは肯定派も否定派も、現実はひとつなんだから幽霊はいるかいないかのどちらかだ、ということを前提にしがちです。しかし、そうするとどちらかは正しく、他方は誤っているということになりますから、白黒つけようと双方が対立の深みにはまるのです。

 そこで私は、「幽霊はいるのか」ではなく、「幽霊は役に立つのか」という視点を持つことを提唱しています。意外に思われるかもしれませんが、この「役に立つのか」という見方をすると、「ほんの少ししか役に立たない」、「私にとってはやや価値がある」、「こんな場合には思いのほか意義がある」などと、中間的な主張が可能で、そこから新たな理解が広がるのではないかと私は考えています。」
 
 
 

 「じつは、ある種の明るい幽霊が、かつては社会的存在だったことがあります。原始的コミュニティにおける精霊の類で、そのなごりは現代にもあります。
 米国の心理学者ジェシー・ベリングは、子どもたちにひとりでゲームをさせるときに、ルール破りがどれだけ発生するかという画期的な実験を数年前に行っています。ボールを投げて的に当てるという単純なゲームで、ルールは「床に引かれた線より的に近づいてはいけない」「ボールは後ろ向きに肩越しに投げる」「投げるときは利き腕とは反対の手を使う」の三つだけです。しかし、子どもたちは誰も見ていないところではこうしたルールをしばしば破って高得点を上げます。いわゆるズルを犯すのです。
 
 ところがこの実験では、部屋の隅に姿の見えない「精霊アリス」がいると子どもたちに事前に言っておくと、ズルが大幅に減るということが示されたのです。精霊のような未知の存在が、倫理的行動を促したのです。
 
 コミュニティのメンバーが精霊の存在を実感することで、現に倫理的行動がとられ、メンバー同士の協力活動が良好に行えるのであれば、精霊はそのコミュニティの社会的存在となっていると言ってよいでしょう。文明以前の原始的コミュニティではとくに、そうした精霊の存在がとても有効に働いていたと推測できます。
 ひと昔前までの日本でよく口にされた「お天道さま」、また、霊や精霊などからの通信を受けるとされるイタコやユタなども、そうした伝統のなごりだと考えられます。それに宗教的教義における「神」も、ときには同様の役割を担っていたのでしょう。
 
 ただ、今日の文明社会では、社会的存在としての精霊の位置づけは失われています。倫理的な行動が法制度や他の文化慣習によって守られるなかで、精霊の存在意義は薄れたのです。」
 
 
 
 


 
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超常現象を最も利用できた時代はもちろん古代である。
そしてそれを見せることができる人間は、絶対的に「王」あるいはシャーマンとして地位を確立できた。

言っておくべきことは、超常現象を見せることのできるシャーマン王本人は、実は科学者でもあっただろうということではなかろうかと筆者は考える。

見る側にはその奇怪な、非日常的な現象がすべて異常、幻視的、夢のような・・・つまり主観に即座に訴えかけてくるバーチャルな異界のなりわいであったとしても、それを見せる側は常に客観的になぜそれが起こるかを知っている可能性がある。ちょうど現代のマジックがそうであるように。

理屈があってまやかしは作り出せる。それがマジックである。

シャーマニズムにもそういう部分は多々あったはずだ。
しかし、そうではない現象、本人すらなぜそうなるのかがわからない超常現象もあったことだろう。それが淘汰されずに今に残ってきたのが、超常現象であるはずだ。この著者は、それは今はまだわかっていないだけだ。いずれは解明されると自信を持って言っている。それでこそ科学者魂である。
 
そうするとだます側にもやる気が出るだろう。ただ、だます側も解明する科学者も、同様にどうしてもわからない謎が、自然界にはかなり存在する。
 
古代の人びとは実は、だまされることを望んでいたのだろう。
うすうすはわかっていても、憑依するため、死ぬほど遊びのない緊張した生死のすぐそばにあった時代にそれは絶対不可欠だった。言いかえれば、それは死への恐怖、神への畏怖、なにかわからない脅威への、逃げや転化や、願いですらあったわけである。

しかし現代は科学がある。客観的視線で人はすべてを見るようになった。そうした中で、まだすごいと思わせるものこそが本物なのだろう。大宗教も最初はこけおどしのような見世物的手品から始まったものである。キリストが見せたという奇跡も、聖書はそう書くけれど、冬至としては驚天動地だったかも知れないが、今だったらどう酷評されているかわかりはしない。
 
だが、超常現象は、やっぱりあったほうが生きてゆく元気になってくれる。
かくいう筆者もかつて何人かで同時に、グリーンに光り輝く何かを、近くの山の中で夜中に見ている。
もう一度みたい。あんなに近くで。すぐ頭の上だったんだ。
 
 
 
 
 
 
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料理は鍋から始まった

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「懐石の献立にみる椀物も、鍋料理がはじまりです。つまり、鍋は日本料理のルーツです。私は数十年前、父(故・敏雄)とともに全国各地の郷土料理を食べ歩いて地方色豊かな鍋を味わい、「生きること」と直結した鍋の歴史をかいま見ることができました。 日本には各地に地方色豊かな山のなべ、海のなべがあります。きりたんぽは、米がとれた秋田でマタギの保存携行食糧「たんぽ」を切って鍋にいれたことがはじまりといわれています。また「しょっつる鍋」は魚醤で味をつける鍋ですが、もともとは大きな貝を鍋に仕立てたところから「しょっつる貝焼き(かやき)」と呼ばれていました。この貝焼きは小鍋の先駆的存在といえるでしょう。こうした郷土の鍋は交通網が発達してくる時代より前に育まれてきたものです。さて、歴史をひもとき、鍋について考えてみましょう。.
 
なべは「肴瓮(なへ)」の意味だといわれています。肴はさかな、瓮は土焼きの「かめ」のことです。土焼きの器でものを煮たところから、「肴瓮」という言葉が生まれ、「堝」の字が当てられるようになりました。時代が下ると、鉄器の普及によって金偏になり「鍋」という字が生まれたといいます。『和名抄』(日本初の漢和辞典 930年頃)では土篇の「堝」、金篇の「鍋」が書き分けられています。囲炉裏端で、薪を焚きながらつるのついた鍋を煮炊きした時代は長く、鍋そのものが一つの世帯を意味していたと思われます。鍋前で火床、調味、煮具合などを司る主婦はその座を揺るぎないものとし、「鍋座」「鍋代(なべしろ)」「女座」などのことばが生まれました。いまの「鍋奉行」と同じ意味のことばです。」
http://www.kibun.co.jp/knowledge/nabe/history/rekishi/
 
 
 
 
 
 
 
 

鍋物はあらゆる料理の中で、最も古く、最も簡単で、最も体があたたまる料理だと言えよう。そのルーツは、縄文鍋であると思われる。
 

縄文土器の多くが、深くえぐれた土器で、底辺が尖ったもの。先端を土に突き立てて、周囲に火をくべれば、もう鍋物の支度ができあがる。海辺なら土器には海水を張る。山辺なら水に岩塩でいい。そこへ季節の具材を放り込むだけだ。魚介や獣肉で出汁が出る。
 
 なぜ鍋だったのか?
それは地球環境が寒冷期から温暖期への変遷の最中だったからだ。そういう時期だからこそ、野生動物も海の生物も、日本列島の中心部に集まり始めていた。だからヒトも南下、北上し列島の中央を目指したのである。ヨーロッパの民族大移動もまったく同じだ。こっとも北欧には異民族の侵入が起きての大移動。だが異民族の移動そのものの始まりも気象の変化によっていたわけだ。いきとしいけるもの、すべてが地球のダイナミズムの前にはなすすべがなかった。これが信仰のきっかけでもある。そしてその地球のダイナミズムを作り出すのは、宇宙の「風」なのである。それを「神」と人々は「感じた」。
 
 
 

今の季節なら材料は山ほどある。
きのこも出汁を出す。
動物の骨でも素晴らしい出汁がとれる。
 
 
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太古のほうが食材も野趣に富んで濃い味になったことだろう。栄養価も格段に高かったはずだ。春夏秋冬、鍋があったからこそ、ぼくたち人類の祖先も生きながらえ、ぼくたちを生み出す文明も生まれたのだ。
 
それだけではない、往古の燃料は木材や炭、それで熱した石などだ。炭火は煮る、焼く、炊く、蒸す、自由自在である。記紀イザナギ・イザナミ黄泉神話に「天のひとつ火」と出てくる。たったひとつの炉で、太古の人たちはさまざまな煮炊きをした。そして、毎日新しい炉、新しい食器、新しい箸で、食事した。贅沢な話だ。しかもそうすれば道具を洗う必要もない。本当の潔癖とはこういうことかも知れない。
 
 
再利用は、当時、むしろ貧乏な発想で、なかったのだ。
ぼくたちは贅沢とはなにかを実は間違えている、いやまったく経験していないのではないだろうか?
 
 
 
 
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豆腐もない、写真のようなうまい野菜もない、醤油もない。
そんな時代には、「美味」の感性は現代とはまったく違っていて、きっと素材そのものの「味」を堪能するほかはなく、かえって素材の素晴らしさ、自然の作り出す味覚の偉大さがひしひしと感じられただろう。
 
 
そして十分に寒暖を防ぐほどの住居もなく、外にいるのと変わらないチープな家屋の囲炉裏端でさえも、今日のひとしの幸を感じさせ、心の奥底までほっこりとさせたことだろう。
 
 
 
 
 
冬が近づくと、なおのこと、ぬくもりが欲しくなる。それはあらゆる人類に共通の欲求だったはず。ぼくらは恵まれすぎて、大切なものを多く失った。しかし鯛お子の人たちは、ほんのきれはしであろうと絶対に捨てたりしなかっただろう。ありがたみがまったく違う。ぼくたちはその「ありがたみ」の、果たして一寸さえ今、感じ取れているだろうか?
 
 
 
土器を考え出した最初の人類にせめて「ありがとう」と言いたい。
 
 
 
 
 
 
太古からまったく変わらないこと・・・。
食べるために人は生きる。
 
 
 
 
 
それを忘れてはいけない気がする。
 
 
 
 
 
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みづらでわかる 記紀神代は雄略以後に設定してある 倭人伝にみづらは記録なし

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「みずら」という言葉は、「耳に連なる」の意で、髪の形状を表した言葉とする説が有名である。ただし、全ての研究者が賛同しているわけではなく、みずらは「美面」の意であり、ミは美称であるとする考え(筑波大教授・増田精一説)もある。その考察に従えば、みずらとは、「いい面」の意ではないかとする。おさげ遊牧民であるモンゴル人は、おさげをクク、あるいはケクといったが、これは「いい面」の意味である。チョンマゲが大陸の南方文化に多いのに対し、みずらのようなおさげ文化は、大陸の北方文化に見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%AB%AA
 



 
 
「連なる」とか「面 つら」が語源であるならば読みは「みずら」ではなく「みづら」と表記しなければおかしかろう。

芝居の鬘を「かづら」と言い、略して「づら」とするように。
「桂」を「かづら」、葛城を「かづらき」とカナ表記するようにだ。
 思うに「つら」とは髪の古い言い方かもしれない。
 
 
 
 

みづらの確かにあったという物的証拠は古墳時代の埴輪だけである。
 
 
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しかもその時代は古墳時代後期の6後半から7世紀のさきたま古墳群などにかぎられており、なんと関東地方の話になる。近畿でも同じことで、せいぜい後期。
 
 
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ましてこれなどはまるでユダヤ人である。
 
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記録にいくらそういう髪型だったと書いてあったとしても、それは記紀以降の人々のかすかな記憶に基づく書き方でしかなく、まして神代などはいつの時代に設定してあるかもわかったものではない。

それを百歩譲って弥生時代だったとしたところで、記録以外に古墳時代の埴輪以前になんの証拠もないわけである。古墳時代なら物的証拠はあるが、それ以前には記録もあるはずもないし、まして考古学的にもなんらの物的証拠もありはしない、
 
謎をとく鍵はいつの時代であろうが物的証拠と動機である。ほかになにがあろうか。双方の一致しか説得力ある論理はないのだ。歴史研究家は記録がないといい、考古学者は物的証拠がないと言う。両方がそろえばそれは事実だったのである。それが謎解きである。どっちも否定するような意見はもちろん妄想である。主観でしかない。主観はしょせん科学を論理的に支配できない。論理なき謎解きもありえぬ。妄想はいくら重ねても小説でしかない。ドキュメントの名を借りたエンターテインメントでしかない。推理には必ず推理のあとづけが必要なのだ。あらゆる知識を駆使するためには自分の抱え込んでいる妄想は必要ない。それは論理なき主観=空想でしかない。納得を得られない、ただのSFである。それはただ、面白ければいいだけの思いつきでしかない。そんな論理では大向こうは絶対に納得しない。もしそれで納得する人がいるならば、その人々は妄想家の烏合のやからでしかない。話にならぬ。山師の小説ファンである。証明しようと言う努力をはなから捨去ったやからである。そおようなものは歴史研究から今すぐに去るべきだ。
 
 
 
 

するとこういう仮説も成り立つ。
みづらが確実に日本人の高貴な男性の髪形であった時代は、どう遡っても考古学的には古墳時代末期の飛鳥時代を遡れないと。象徴的な人物で言うならばそれはせいぜい聖徳太子の時代である。
 
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しかし聖徳太子の絵画の、姿かたちも、それが描かれたのは太子が死んだ後の、飛鳥時代のずいぶんあとのほうであるので、たいした一級証拠品にもなりはしない。そもそも太子は作られたイメージであり、むしろ当時は少年がみづらを結っていたことの証拠品にしかならない。問題は大人である。
 
 
 
 
◆倭人伝のどこに「みづら」と書いてあるのか?
3世紀の客観的に倭人を描いた中国の魏志倭人伝には、
「男子皆髪は、木綿を頭にかけ、その着衣 は横幅の広いものを、ただ結束して相連ね、縫うことはない」
 
とある。この一文のどこにも「みづら」などとは書かれてはいない。どこにも一言も書かれてはいないのである。

ここに「みづら」とあるなどと言っているのはhttp://www.geocities.co.jp/Bookend/6743/katudo09/kami.htm
など少数サイトでしかなく、そんなものは嘘である。みづらは「角髪」などと表記するはずだがここには「髪」としか書いてはいない。
 
原文を当たればこうである。

        男子皆露紒、以木緜招頭。
 
 
 
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これを訳すと、

「その風俗は淫らならず。男子は皆「露紒」し、木綿を以て頭に招け、」
 
で、一般によく音読される「ろかい」ではなく「ろけい」であり、そうした髪形が間違いなく「みづら」であるかどうかなど、まったく決められないわけである。

「紒」の音はWeblio辞書によれば「ケイ」である。だから「ろかい」や「ろしょう」ではなく「ろけい」と読むのが正しい。
 
 
読み:ケイ、 ケツ、 ケチ、 カイ
訓読み:ゆう、 むすふ、 むすぶ
で、訓読の意味は「結う」でしかない。
だから「露紒 ろけい」とは「露にして結んだ」である。
 
 

この文字は角川の「新字源」糸偏の項目にない。つまり当て字か相当古い用例になる。
「露紒」の意味は「なにもかぶらないで結んでいる」であり、そのあとの「木綿を頭に招け」とは鉢巻のような布を巻いているという意味である。それは後世でも朝鮮人の風習である。
 
つまり倭人伝のどこにも一切、倭人男子の髪形を古墳~飛鳥時代の、長髪を真ん中で分けて左右を巻いたいわゆる「みづら」のような髪形だとは表現しておらぬのである。いったいどこからこの倭人伝の一文から「みづら」などという大和言葉を上記URLサイトは導き出せるのかがまったく理解できない。
 
つまり3世紀、いや弥生時代以前の倭人に「みづら」型の髪形などまだないのである。
 
 
ではそれは何を語るのか?

みづらなる髪形は古墳時代、それも中期以降しかないのである。縄文時代にも弥生時代にもないと判断せざるを得ない。では古墳時代のどの年代なのか?それは確実なのは終末期飛鳥時代前期つまり6世紀~7前半以後となる。それが記紀の神代観の正体である。つまり言い換えると、どんなに譲っても雄略以前の知識や時代観で記紀は書かれていないということになるわけであろう。
 
はっきり言おう。
『古事記』『日本書記』の神代とは6世紀なのである。
 
 
 
 
天皇を「すめら・みこと」と呼んだという記録も記紀が最初であり、本当にそうだったかも不明である。「すめら」がシュメールだというのもあながちありえなくはないが、その時代は神代~弥生ではなく、古墳時代・飛鳥時代だからこそ信憑性は出てくる。なぜなら飛鳥時代には黒人もイラン人も飛鳥に来たからだ。それらはすべて中国から下賜された百済経由であり、グローバルな蘇我氏と皇極女帝だったから起きた。筆者はそれがなかったとは言ってはいない。飛鳥時代ならありえると時代を限定できるからだ。
 
したがって日本の古代のはじまりは、記紀は雄略~飛鳥時代を神代としていると見てほぼ間違いないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
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いびしい=いぶせし・いぶかし

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「一、二日たまさかに隔つるをりだに、あやしう いぶせき心地するものを」
                                                                               源氏 須磨
[訳]一日二日たまに(あなたと)間を置くときでさえ、不思議なほど気が晴れない思いがするのに。
 
 
 
今一度かのなきがらを見ざらむが、いといぶせかるべきを」源氏 夕顔
[訳]もう一度あの遺体を見ないとしたら、それがひどく気がかりにちがいないから。
 
 
 
 
「やがてその興(きよう)尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ」

[訳]すぐにその興味がなくなって、見苦しく、不快に感じられたので。
                            徒然草 154
 
 
 
 
いぶせし   いぶーせし
1 気が晴れない うっとうしい。

2 気がかりだ

3 不快だ。気づまりだ。

 

 
「いぶせし」と「いぶかし」の違い 「いぶせし」は、どうしようもなくて気が晴れない。「いぶかし」はようすがわからないので明らかにしたいという気持ちが強い。

 


 
瀬戸内地方方言 いびしい いびせえ(広島)
意味 気持が悪い。気色が悪い。転じて「いびつ」
 
なんとなく釈然としないの「いぶかし」と気持が悪いの「いぶせし」の混用である。
 
瀬戸内地方から四国。豊前・豊後。
つまり瀬戸内海人族文化圏の方言が「いびしい」である。
 
共通語「いびつ」 
[名・形動]《「いいびつ(飯櫃)」の音変化》
1 《飯櫃が楕円形であったところから》㋐物の 形がゆがんでいること。また、そのさま。「箱が―になる」㋑物事の状態が正常でないこと 。また、そのさま。秋田=マゲワッパ
 
 
㋑物事の状態が正常でないこと。また、そのさま。「―な社会」「人間関係が―になる」
 
 
㋐「飯櫃(いいびつ)」に同じ。〈日葡〉
㋑楕円形。小判形。いびつなり。
「―なる面桶(めんつ)にはさむ火打ち鎌/惟然」〈続猿蓑
㋒金貨・銀貨などの小判。いびつなり。
「五三桐九分づつ―六十目」〈洒・知恵鑑〉
 
 
 

 
 
 
「いびつ」以外はほとんどどの地方でも死語になりつつある。
 
語源は「いぶかる」「いぶかし」に同じ。
    飯を入れる木製の器。めしびつ。の飯櫃から。ゆがんだ形。
     
なんかこう気分がすぐれない。気がかりだ。うっとうしい。不快である。むさくるしい。気味が悪い。などに広く使われた古語から派生。
 
そもそもは燻したようにあいまいで居住まいが悪い、から。
燻し銀。訝る(いぶかる)。
 
 
 
 
いぶす 燻す 煙でものを燻製すること。煙を焚く事。
煙でなにも見えず息苦しい状態にすること。
 
 
 
「いいびつ」から「いびつ」「いぶせし」「いびしい」
「いぶす」から「いぶせし」「いびしい」
 
両方が考えられ、混用されたと見られる。
 
 
 
 
ただし「いいびつ」は器物の名称で、「めしびつ」「おひつ」が一般的。
 
従って「いぶせし」の語源として最古とは言えず、「いびつ」の語源としては不採用としたい。すると「いぶーす」を語源とできる。
 
 
 
「いぶ」とは?
「いぶかーし」
「いぶーす」
語源確定 いぶ=煙、雲のようにもやもやして安定しないこと、もの。見えない空気。「いぶーき」。
 
 
 
 
「いぶき」は「いぶく」
いー吹く 「い」は接頭語・美称。吹く風。風や息。目には見えないのに災いを引き起こすもの。転じて「いぶかし」「いびし」「ものをいびつに歪めるもの」「災害」・・・伊吹山。伊福部。畏怖。怖いもの。そこから気色が悪いへと発展。
 
 
中心となる語幹は「ふ」である。
「ふ」=不
「ぶ」=不気味
 
 
 
つまりこれらの言葉は最初、漢語の「ふ」に始まる。「不」「負」「武」「部」「分」「巫」「腐」「婦」。あいまいなもの。人でもモノでもない中間の存在が「ふ」。「ふ」から「ぶ」。
 
 
 
強調の「い」が付属して「いふ」「いぶ」。
ここからすべてが始まっている。
 
地名 揖斐郡 伊比 因美
 
どっちつかずであいまいな土地。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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多氏=ヤマトタケル 秦氏・多氏・雄略・熊襲征伐をすべてつなぐ完全推理

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多神社注進状(久安五年 1149年)
  「大宮二座、珍子賢津日靈神尊(読めず)、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊(読めず)、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳(かむ・ぬなかわ・みみ=綏靖)天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
  御間城入彦五十瓊殖(みまき・いりひこ・いにえ=崇神)天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命(たけ・えがさき?)に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷(おうのさと)という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」

多坐弥志理都比古神社 (おうにます・みしりつひこ・じんじゃ)
奈良県磯城郡田原本町多569
祭神 
神武天皇第二皇子神八井耳尊(かむやいみみのみこと)
第三皇子神沼河耳尊(かむぬなかわみみのみこと)
神倭磐余彦尊(かむ やまといわれひこのみこと)=神武
玉依姫(たまよりひめ)
合祀 太安萬侶
 
弥志理都比古は神八井耳命の別名であると社伝は言い伝えてきた。
 
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している。
また『古事記』では、意富臣(多氏)・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする。
そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
以上参考文献は『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年
 
左京皇別 多朝臣 - 出自は謚神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。
以上Wiki神八井耳命 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%AB%E4%BA%95%E8%80%B3%E5%91%BD

ここで重要な氏族は肥直(ひのあたい)である。
「多神社注進状」には多神社神職は多朝臣と肥直とある。
 「別宮(外宮)
     目原神社  天神高御産巣日尊(アマツカミ タカミムスヒ)  神像円鏡に坐す
            皇妃栲幡千々媛命(コウヒ タクハタチヂヒメ)  神像□□に坐す
             已上神社川辺郷に在り 肥直を禰宜と為す」
 
このように多氏と熊本の肥直は同族だったと考えてほぼ間違いあるまい。(ここでもうひとつしっかり捉えておきたいのは肥直であって阿蘇国造ではないことである。これは非常に大事なことである。肥は火であって熊本西部の有明海~ハ代海=不知火海方面を指す。東部の阿蘇ではない。)

神八井耳の「耳」が、倭人伝に言うところの投馬国の官職である長官「 弥弥(ミミ)」、副官「弥弥那利(ミミナリ)」に由来するとするならば、神八井耳を祖とする多氏が、九州にえにしがあるのはむしろ当然だとも考えうる。

多氏の明確な痕跡を今に伝える地方は、大和の多のほかは静岡県~茨城県だと言える。
静岡の富士川周辺には例の、秦川勝に叱咤された大生部の多(おおうべの・おう)一族が住まっている。「枕草子」に「浦はおほの浦」とあり、中世には於保、「和名抄」に飯宝、飫宝と書いて「おう」とある。静岡県磐田市のことである。ここから太平洋を北上すると千葉県袖ヶ浦に飯富(いいとみ)があり、式内飫富(おう。現在は飽富)神社がある。さらに北上して茨城県
行方(なめかた)郡潮来町に大生原(おおうはら)がある。ここは建貸間(たけかしま)命軍勢が「杵島歌」を歌って国栖(くず)という山賊をおびき出して殺した記録が『常陸国風土記』にある。「きしま」は「かしま」であるので茨城県鹿島郡の「かしま」と同じである。その「きしま」は阿蘇山のひとつ杵島岳に由来する地名である。また同じ風土記に「ヤマトタケル食事を煮炊きするために小屋を海辺にかまえ、小舟を並べ連ねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(おおい)の意味をとって大生と名づけた」ともある。これらの「おう」地名はすべてが多氏居住の痕跡であると言える。

熊本の阿蘇に、持統天皇時代に災害を押さえ込む祝(はふり)として阿蘇氏が国造として入ったときに、阿蘇氏はすぐに在地の先住・肥の氏族を懐柔したとみられ、祖神を肥直由来の神八井耳命の子孫としている。つまり阿蘇氏・阿蘇国造家は熊本の古代では新しい氏族であることになる。従って阿蘇氏を多氏直系氏族とは考えにくい。直系は神八井耳を祖神とする肥直氏であり、その系譜は遡れば「火君」であることが想像できる。

さらに、熊本南部の人吉・球磨・八代地域には神八井耳の兄とも弟ともされる日子八井命が祭られる。これは『古事記』では神武につきしたがい東征するが、『日本書記』では名前すら出てこず、大和において神武の南九州での長子である手研耳(たぎしみみ)を殺害したとされる。つまり日子ヤイは『日本書記』史観には都合の悪い熊本南部の氏族なのであり、それに該当するのは球磨地方では熊襲しかありえない。ということは九州発の天皇家祖神には、記紀がしきりに賊として扱っている熊襲や日向の曽於族=隼人の血脈が最初混じっていた=北部九州渡来系氏族の南部縄文人懐柔策、という書き方をしてあるわけである。

そして大和へ行ってからは、その長子の女系の血脈が都合が悪くなり=近畿豪族三島ミゾクイらとの婚姻という政略結婚・・・南九州血脈は消されてしまうのである。しかも誅殺したのは、元は同族とも言える球磨族である。
 
こうしてわかることは球磨地方の豪族から多氏は出ただろうということである。
 
 
 
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九州と同じ靫、弓矢、的の絵柄で満ちている。
 
 
 
 

考古学では、さきほど書いた茨城県那珂郡=水戸市海岸部~福島県海岸部を貫通する「中通り」という街道沿いに、九州熊本に多い装飾古墳が点在することであろう。
 

茨城には虎塚をはじめとして数基、福島中通りには清戸迫などの横穴装飾墓群が数基と、装飾絵柄が熊本県のものとほとんど変わらない(大場磐夫)がある。また茨城の仲郡の仲国造が上記にあるように神八井耳の子孫で多氏枝族であることは、千葉から福島の海岸部の大生部が、つまり=多氏だったことの絶対的なあかしとなるのである。(奇しくも熊本県阿蘇には中通古墳群があり阿蘇国造の墓とされているが、その中のいくつかは阿蘇氏ではなく肥直・火の君の墓ではないかと筆者は睨んでいる)
 
 
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九州の珍敷塚古墳壁画。
やはり靫、的、が描かれる。
これが多氏=太陽信仰民族を証明する壁画である。記紀はこの太陽信仰を天皇家のものとしている。ならば多氏こそがもともとの王家だったと考えてもおかしくないことになる。そこから倭五王政権から飛鳥王権への「なんらかの交代劇の真実」が見えてくるのである。それこそは「記紀の嘘」を明々白々のものとし、天皇血脈の万世一系ではなかったことをも証明する証拠となるのである。だから研究家は多氏の謎を解くのにやっきとなるのである。
 
 
 
 
 
では秦川勝がなにゆえに、山城太秦からはるかに離れた土地である富士川の多を叱咤して、しかも殴打までする必要があったのか?

飛鳥時代の聖徳太子や蘇我氏の時代、秦氏は新興勢力として、古参九州由来の「記紀的には正統な純日本氏族である多氏を、ここぞとばかりに叩いて、地位の逆転をはかる目的があったと考えていいのではなかろうか?

ということは、飛鳥時代中盤直前において、秦氏は外からやってきた氏族であり、それはおそらく4~6世紀の間に渡来があった氏族だと言うことができるだろう。一方、多氏は考古学の装飾古墳から考えて、墓に虎塚と同じ弓矢や靫円紋を描き出すものが登場する時代・・・5世紀にはもう九州南部~北部に住まっていたこととなるのであろう。
 
それはしかし、単独で大陸からやってきたということではなく、熊襲の管理のために国造的な役職(耳)として大和から入ったのだと考えるべきである。その頃の大和は倭五王後半になっている。つまり日本古代史として整合性が高い雄略直前の話になるので、多氏自体の派生はあくまで大和であるとしてよいと考える。この多氏の南九州管理の伝承こそがヤマトタケル神話の正体であると言ってよいのではなかろうか?
 
ヤマトタケルのモデルを雄略ワカタケルとする説を採るならば、それはますます整合性を増す。タケルという尊称は、熊襲からもらったのだと記紀は書いている。熊襲を牛耳って支配権を手にし、ようするにそれまでのタケルという首長の名前をヤマトタケルは熊襲タケルに代わって襲名したのである。こう考えるとヤマトタケル伝説とは必ずしも雄略本人のことではなく、雄略が派遣した大和の精鋭たちの伝承であるとなるし、その後ヤマトタケルが北上して出雲・吉備を征服し、次に東国へ向かうコース上に、「おう」地名と装飾古墳と、そして鉱物探査の痕跡がちりばめられている事実は、まったくもって多氏=ヤマトタケルを照明していると言ってもかまうまい。
 
 
 
 
 
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Kawakatu’s HP 渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
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多氏と弥五郎どん祭と倭面土国 奴国は「とこく」と読むか

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森浩一『山野河海の列島史』121Pより
 
「大足彦の治世の十二年に熊襲が反いた【ママ。そむいた】。反いたとはあくまで、『紀』の叙述に使われた言葉であるから、要するにトラブルがおこったのである。そこで大足彦は軍勢を率いて筑紫(この場合は九州島を指す)【くれぐれも「つくし」と読んで欲しい。たまに「ちくし」と読む方がおられる】に行くことになった。周芳(防)、豊前、碩田(大分・おほきた)の順で、それぞれの土地の豪族にたいして軍事行動をしたあと、日向国に入って熊襲、とくに襲国を討つための会議をひらいた。
 
 
○つまり第一の問題は、熊襲を討つとはいっても、最初の目標にしたのは襲国であった。
 
襲国には、厚鹿文【あつかや】、しんにゅう扁に乍鹿文【さかや】という熊襲の渠帥者【きょすいしゃ】がいた。

しかも衆類がはなはだ多く、彼らを熊襲の八十梟帥【やそきょうすい】(古訓は八十多稽屡【やそ-たける】=神武即位前紀。たくさんの勇者のこと)といい、勢いが盛んで合戦では適う者がいなかった。
 
○第二の問題は、熊襲という軍事的集合体の渠帥者は、襲国にいたことになる。襲国の王的な二人の人物が熊襲全体の首長だったとみてよかろう。
 
軍事力では格段上にある熊襲にたいする策が一人の家来から提案された。「熊襲の梟帥には、市乾鹿文【いちふかや】と市鹿文【いちかや】という娘がいます。この姉妹を多くの幣【まいない】で手なずけると、戦わずに破ることができます」という内容だった。
大足彦はこの策を採用して、姉妹を手なずけた。*1姉の市乾鹿文は家に帰って父に酒を飲ませて酔わせると、父の弓の弦を切ってしまった。市乾鹿文がともなっていた一人の兵士が熊襲の梟帥を殺した。*2だが大足彦は姉を不孝だという理由で殺し、妹の市鹿文を火の国造にしたという。
○この話からの第三の問題は、女性の力と役割が大きく、国造に任命されてもおかしくはなかったという点である。【森は、これは蝦夷とは雲泥の相違であると書いている。】」
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
以上の記事の中で○をつけた三つの問題点を分析してみよう。
まず熊襲の中心はクマではなくソだったことであるが、クマは球磨郡であるから熊本南部の人吉盆地周辺に住む「山の熊襲」であろう。そしてソはこれまた森が言うところの「海の熊襲」すなわちのちの隼人がいた曽於郡のあたりであろう。

従って熊襲とは言っても中心は鹿児島県北西部~大隅半島あたりの襲国こそが中心地であったということになる。これを把握しておく必要がある。一般に熊襲とは熊本というイメージが先行し、隼人=熊襲という発想は人口に膾炙していないからである。今、鹿児島の大隅半島や宮崎県南部で行われる「弥五郎どん祭り」の巨人が川上梟帥(かわかみたける)と呼ばれることと大いに関連している。

一方、熊本県南部にそのような祭りがないことも知っておかねばなるまい。
第二の問題は第一の問題と同じである。首領もまた中心であった襲国にいた。
第三は蝦夷とは違って熊襲では女性の役目が重要だったということである。
九州には未だに、女性を大切にする祭りが見受けられ、歴史上でも女性の首領、女神をたてまつる地域が多かった。巫女的シャーマンが中心にいた。
 
そしてさらに彼女らのうち、*1実際に手を下して父親を裏切った姉の方は殺害し、手を下さなかった妹を助けている。これは儒教的な「親殺しは極刑」の倫理観が反映されたと言っていいだろう。つまり景行紀にはあきらかに、記紀成立時に大和に入っていた儒教の影響がある。従って記事の完成は新しい時代のものだと言えるだろう。景行の時代がいつかははっきりしなくとも、記事ができたのは記紀の8世紀のものである。
 
さらに*2火の国造の初代が女性だったということ。しかも地元の襲人の娘だということである。これはあとになって書かれている「神功皇后が鴨分を熊襲征伐に差し向けた」「火の葦北国造は百済人」という記述とは矛盾する。

まして景行時代に「国造」の概念や言葉があったかどうか疑問である。
少なくとも国造は倭五王から雄略までの概念ではなかろうか?
景行の西征が雄略の、つまり倭五王の上奏文を背景に作られているという説があるように、景行~ヤマトタケル~仲哀天皇の熊襲征伐は、雄略の事績を奪う形で応神の前に置かれた可能性が高いだろう。
 
景行に「おおたらしひこ」という崇神王朝的ではない「たらし」をつけているのも、もしかしたら崇神王朝と倭五王の間にはかなりの時間的隔たりがあって、ここで時間の調整をした感も否めない。
 
いずれにせよ、認識をあらためておきたいのは、やはり襲こそが熊襲のメインだということ。
 
「大足彦はこのあと六年間を襲国ですごし、襲国を平定し、その国の御刀姫(みはかしひめ)を妃として、豊国別皇子を生んだ。皇子は日向国造の始祖であると述べている」(同著122P)

日向国造とはおそらくのちに襲の君(曽君)となった隼人の一人か?豊国とは今の大分県のことであろうか。日向国はこうして豊から分かれて国となる。河内王朝が送った国司・日下部氏のことであろうか?それともまったく別なのか?
2007/12/3(月) 民族学伝承ひろいあげ辞典 景行紀の熊襲問題点http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/38999248.html
 
 
 
 


 
 
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宮崎県南部の弥五郎どん祭
冠が熊本のチブサン古墳にある人物の冠に似ている。
三本の角の形式は百済と、百済が親しくしていた中国江南の王朝との関係を語る。
また人吉あさぎり町にある才園古墳の金メッキ神獣鏡は中国南朝と人吉球磨地方の豪族の関係を物語る遺物である。
 
 
 
弥五郎どんを見るために鹿児島県の霧島姶良~大隅半島に筆者が向かったのは2007年の年末だった。もうあれから7年も経ってしまった。

鹿児島には「弥五郎どん祭」のほかにも、年末年始の追儺行事としての「歳どん」儀式や、また道祖神を「田のかんさァ=田の神様」と呼んで年中敬う風習など、かなりマニアックな奇祭や神事が多い。田の神様というのは中国の江南の少数民族など稲作農耕民族に共通の「年の神」で「たのかんさあ」も「としどん」も同じく稲魂・穀霊の来訪を迎える精霊信仰だと言える。つまり来訪する神とは秋の季節風を神格化したものと考えても間違いではない。風である。
 
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田のかんさァ
 
 
 

さて弥五郎どん祭は、昨日文化の日にとどこおりなく行われたが、この神様は熊襲の首領だとされていて、その名を「大人川上渠帥」と言う。「ひじり・かわかみ・たける」と読ませるが、大人は「おとな」ではなく「たいじん」の意味、川上は熊本県に多い氏名だが球磨川上流のこと、渠帥は記紀の歴史観側からは「賊の首魁」のことである。しかし勝負の双方に平等に言うならば族長、ドン、ボスでいいだろう。
 
渠は、緩和辞書では1には暗渠のように使われた「堀」のことだが、2の意味では「かしら、首領」の意味しかないし、帥にも「率」つまり率いる者の意味しかないので、あわせてもどこにも賊や悪の意味は含まれてはいない。「そつ」などは太宰権率(だざいのごんのそつ)など、中央官人の職称であり、もっと古くは中国の「後漢書」にも光武帝の頃に朝貢した倭王のことを帥升としてあり、これは国王・升ということで、おそらくは「倭面土国」の王のことである。
 
 
 


 
 
 

ちなみに倭面土の読み方には諸説あるが、
 「漢書」<地理志倭人条>(原文)には、
(本文)
  夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云
(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
  臣サン曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
  師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
     魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」
         台湾商務印書館発行 「百衲本二十四史 第2巻」漢書 より

「如墨委面」とは意味は「入墨をした奇怪な面構え」である。つまり国名とか何人という意味がない言葉に始まっており、その様子からはどうやら倭の海人族だったと考えられる。この語句を無理に音読しようというにはちと無理があり、意味面だけ採ればいいのではあるまいか?

この如淳の注は本文中の「倭人」の語句をみて、「入れ墨をしたような変な顔をした種族が、帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い所)に住んでいる。」と注釈を入れたわけである。倭人とはそういう連中のことだろうという意味だ。
 
その後の 
 臣サンの注もまた本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて、
   「「倭」というのは国名であって、入れ墨をしているという意味ではない。古くは
  これ(倭)を委と言った。」であり、

 師古の注もまた本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて追加して、「如淳は『入れ墨をしたような変な顔をした種族』と注をしているが、どうして、(倭の)音は「委(ゐ)」の字だけしかないとするのか。(倭の音は)この(委[ゐ]の字の)音ではない。「倭」の音は「一戈反(わ)」である。今でもなお「倭」という国はある。

 (史書の)魏略に次の様に載っている。
   『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。
   海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』と、したのである。

だから倭面は委面と同じことで「いびつな顔の」であり、土国は「奴国」の音を示唆する音読みで「と・こく」のことであろう。「いびつな顔の奴国」だと書いてあるのである。だから魏志の「奴国」も当然、「とこく」あるいは「どこく」と読むのかも知れぬ。そうすると狗奴国も「くどこく」になる。
参考http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm
 
 
 
 


 
 
 
 
さて弥五郎の名前はどう見てもさほど古くない日本人の名前であるので、この巨人が祭られるようになったのは少なくとも奈良時代の、中国の風習である「儺」が日本に入ってかなり経ってからのことであろう。名前の弥五郎とは「五郎」は「左甚五郎」とか「曽我の五郎」とかいうような「ちょっと人を超える人」に共通する名前であり、前につく「弥」とは新潟の「弥彦」とか倭人伝の「弥弥 みみ」のように、やはりちょっと飛びぬけている偉人の名前になっている。
 
「みみ」は人の意見をよく聞くという尊称で、聖徳太子を豊総耳(とよとみみ)と書いたのと同じである。もちろん綏靖の「ぬなかわみみ」「かむやいみみ」「ひこやいみみ」「たぎしみみ」、あるいは古墳地名の「百舌鳥耳原 もずみみはら」「摂津耳原」などもみな同根であろう。特に摂津表記は古くは攝津で、耳が三つもある。ここには例えば三島溝咋耳とか紫金山古墳の被葬者のような王者が三人いたのであろう。つまり三島の地名もかつてここが三ヶ所に分かれて統率者がいたことを表してもいるわけである。古墳の地名に耳原が多いのは、その被葬者がみな、上手に人を統率し、よく意見を聞いた偉人だったからにほかならない。
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54731420.html
 
 
また「大人」は中国的なあだ名呼称であり、年長者のことだが、「おおひと」「ひじり」とも読ませるのは、弥五郎がちょうど山ノ神であるダイダラボッチのような巨人に作られることとかかわり、そういうこの世のものでないほどの偉大なことをした人の意味に使われていると思えるのと、同時にダイタ=大太という武将名もダイダラボッチ由来で、道をさえぎり護るものの意味を持つ魔物のような首領だったことを指すので、古墳に置かれた石人や横穴墓の石人のように、両手を広げて立ちはだかる巨人・弥五郎の姿にまったく一致するのである。
(静岡の伊豆に大仁という町がある。おそらくダイダラボッチ地名である。)
 
 
さて、弥五郎どんはなぜ大隅半島で祭られるのかであるが、地元民は弥五郎どんを熊襲・隼人の首領だったと考えており、それが何度かの中央からの圧迫に対抗して見事に討ち死にしたから聖人として祭ったとするのである。つまりその「何度かの圧迫」とは記紀の言うヤマトタケル、景行天皇ら吉備氏族を引きつれて不知火以南にやってきた人たち、さらには霧島山~大隅半島にかけての地域がかつての曽於や阿多であったこと。またこれは半島が薩摩半島での事件だが隼人20年戦争の悲惨な終結と八幡神による中央支配があったことなどにかなりの影響を受けているだろうし、もっと新しくは西郷隆盛の薩摩の敗北なども絶対にあとから付加された反発心・叛骨心の集大成した創造物であるに相違ない。
 
その球磨と曽於をやっつけたのは多氏である。
そして多氏がそのときから球磨・曽於地域の首長となったのであろう。
その多氏は大和から、倭五王の指令で南九州へ来るのであるが、そのまま九州の南北の境目である中央構造線別府~八代構造線に沿って靫負として防御網を築いたのである。つまりこれが中央「日下部(くさか・べ)」や「額田部(ぬかた・べ)」になることは間違いない。ということは彼らは多氏の手下だったことになるので、倭五王当時、西の雄であった大伴氏などは、極めて多氏に類似してしまうのである。

あらに日下といえば東大阪市の生駒山の麓にあった古河内湖の港である「くさか江」を名乗っていて、草加江を開いた聖徳太子もまた、どうにも熊本と大いに関係ありそうな気配。日下部は孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)とされ、もっと古くは1.開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)。ともされているが、そもそもは九州熊本の草部を本拠としていて、それが5世紀中頃のことであることは、その土地にあの日子八井命を祭った草部吉見神社や、人吉市のやはり日子八井を祭る青井阿蘇神社のあることでまず間違いない。

そして中央から彼らがやってくる以前、熊本は阿蘇から八代までが肥直の祖先であった火の君の領地であったわけである。すると肥君の正体はどうも熊襲だったか?となってゆくのだが?
 
ヤマトタケルの征伐は、要するに中央にまつろわぬ火君たち神八井耳氏族の懐柔と支配なのであり、逆に神八井耳氏族がみな神武の長男皇別氏族だと主張する理由も一種の叛骨心ある表現であると見えてくるわけである。

ここで最大のヒントは天武天皇にまで時代が下る。
壬申の乱で活躍した氏族がやはり多氏である。そして天武が皇位を奪い取った相手は天智天皇の嫡子である大友皇子=弘文天皇。その父・天智は中大兄皇子であり葛城王子でもあり、藤原鎌足とともに蘇我氏を滅ぼした。つまり天智王権は蘇我氏政治には反対した勢力であり、天武はそれをまた転覆させた人物なのである。

『日本書記』に登場する宰相では二大巨頭がまずは武内宿禰、もうひとりが蘇我馬子である。
あとは自分でコラージュしてみてください。何か気づくことはないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
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PS
宗像君徳善と天武は急速接近して外戚となった。このときから沖ノ島祭祀に素晴らしい遺物がどんどん増えてくる。さらに持統天皇は伊勢にアマテラスという太陽神を祭り、さらに豊受大神という海人族の女神を置いている。その宗像氏は徳善以前の系譜がよくわからず、なぜ宗像にやってきて管理者となったのかがわからない。天武は何を政治の根底にすえようとしていたのだろうか?その律令制度の基盤は実は蘇我氏が築いたものの再現ではなかったか?そして天武の幼名が大海人皇子であること。多氏をよく使ったこと。聖徳太子と蘇我馬子が秦氏を重要視したのに対して、天武は倭五王以来の重臣多氏を復活させた感がある。
 
 
 
もうひとつ。
倭五王と飛鳥王権をつないだ継体大王のつなぎ役としての存在。その墓がなぜか摂津三島の今城塚であること。しかもでき過ぎたことに同じ三島には鎌足の阿武山古墳があること。その古墳は不比等によって改葬され、鎌足は奈良の談山神社に移されたはずなのに、阿武山石室には被葬者遺体も、大事な大職冠も放置されていたこと。被葬者頭髪からは砒素が検出されたこと、などなどが、多氏によってつなぐことができないのだろうか?
 
 
 
 
 
また額田部にしても推古女帝の名代であるから蘇我氏とも深く関わってきそうな按配なのである。
 
 
 
 
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