倭と委
委 和イ 漢・呉wei ゆだねる
「委」は会意文字である。甲骨文字は「女」と「禾」の二つの象形文字の組み合わせである。左辺は「女」で、右辺は「禾」である。小篆の形は甲骨文字と同様であるが、字形の構造上「禾」の位置が上に来て、「女」が下に来ている。これは現在の楷書の構造と同じである。
「委」は会意文字である。甲骨文字は「女」と「禾」の二つの象形文字の組み合わせである。左辺は「女」で、右辺は「禾」である。小篆の形は甲骨文字と同様であるが、字形の構造上「禾」の位置が上に来て、「女」が下に来ている。これは現在の楷書の構造と同じである。
穀物が成熟した時穀物の穂は枝葉の上に垂れさがるように湾曲する。この為「委」には曲がるという意味がある。男子と比較すると相対的に女子の体と気力は弱く、古人は禾偏を女に加えて、女性が相手の意思に従うことを表したものだ。委従、委順の言葉の中の委の字は委細、従順の意味である。
(草冠を載せると「萎える」になる。Kawakatu)
「委」は「矮」の中で使われ、小さいという意味を表す。「倭人」も小さい人という意味で、ある意味で蔑称だったかもしれない。
「委」の漢字あれこれ
•委の字は隷属、委託を表すのにも用いられる。
•捨て失くすの意味から、回避するの意味が出てくる。委過、委罪の様に過ちや罪を回避する。
•委の字は多くの読みと意味がある。Weiと読むときの他、委蛇は山の中の道や川が曲がりくねることを表している。」
http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/05/1784-wei.html
•委の字は隷属、委託を表すのにも用いられる。
•捨て失くすの意味から、回避するの意味が出てくる。委過、委罪の様に過ちや罪を回避する。
•委の字は多くの読みと意味がある。Weiと読むときの他、委蛇は山の中の道や川が曲がりくねることを表している。」
http://kanji-roots.blogspot.jp/2012/05/1784-wei.html
「委」文字の発祥はこのように稲がたわわにこうべをたれる様を表すことに始まる。そこから「弱弱しい」「従う」「ゆだねる」などの意味を持った旁(つくり)になった。
「倭人」とはそもそも「侏儒」=こびと、と同義語あるいは類似語である。
矮小の「矮」の偏に人偏を置き換えることで「小さな人」。「わ」とはまず「私」のことであろう。自分を呼ぶ贅語(ぜいご)である。つまりそれを聞いて「わじん」と第三者が思ったのだ。「アイヌ」の「ア」や「イヌイット」の「いぬ」と同じである。よく映画で、他国人がはじめて現地人と遭遇して、現地人は自分自身を指差して「わたし」と言っている、あれである。だから多くの民族名・国名に「わたし」国は多いことだろう。つまり最初は聞いたものの勘違いである。その着想には、もともと中国南部海岸部の小さな民族・長江倭族の呼称が頭にあって、風俗が似ていたのでこの人々も「倭族」だと勘違いしたからではないか?
それでやがて倭人も中国・アジア、国家・国境を意識しはじめると中国の外国表記に多い「二文字表記の意識」「「私国」じゃ嫌」となって「やまと」の古い言葉である「ひのもと」を漢字にして「日本」としたのだろう。「ひのもと」は古くは「日下」であるので、それは古河内湖の東奥にあった近畿の港である「くさか江」から日下、「下」は縁起が悪いから「本」としたのであろうよ。ただし日下の国内の大元・本貫地がもともと河内の日下しかなかったかどうかは別の問題である。それが九州にあったとしてもなんの不都合もない。たとえば九州山地中央部の草部。
現代の漢和辞書にはいずれの文字にも音読みは「イ」音しかなく、「ワ」の音読は記載がない。つまり「イ」が正しいが、漢字到来ころの習慣では漢音・呉音共通の【wei】つまりウエイは言い難く、「わ」「い」「や」の混同が起きている。母音の近いところ(発音する際の口の開け方が近い、似ている)で混用するのが誤用の一般例である。例えば【a】【e】【ye】などから【i】【wi】への変化はあっても、【u】【wu】【o】【wo】への極端な変化は考えにくいだろう。「あいうえお」と口にしてみればわかることだが、「う」「お」「を」は唇を前に突き出す発音で、横に開くほかの音とは間違えにくい。
(ちなみに「う」は関西的なくぐもった「う」が当時は正しい発音。口唇を強く突出し、すぼませた時の【wu】。その他地域、現代標準語の「う」は突出が浅い、あるいは口を閉じただけの【u】である。)
考古学発掘遺物での使用例(つまり不動の証拠品)
漢委奴国王印・・・倭と委の使用区別は中国でも非正式文書ではルーズである。多く人偏を略した使用例はある。しかしいずれにせよ音は【wei】であるから特に気を使っていないことは見える。特に金石文の場合は漢字の省略は多い。
漢委奴国王印・・・倭と委の使用区別は中国でも非正式文書ではルーズである。多く人偏を略した使用例はある。しかしいずれにせよ音は【wei】であるから特に気を使っていないことは見える。特に金石文の場合は漢字の省略は多い。
しかし、この金印の場合、皇帝から国王に贈られた印、すなわち国璽である。当時でもアジアでの国際的な贈答品に略字を用いたはずがなく、正確な使用例と考えるのが当然で、明らかに「委ねる」意味の使用と考えるのは当然である。
従ってこれを「かんのわのなのこくおう」などと読ませるのは間違っており、「かんいなこくおう」と漢文で読むべきである。意味は当然文字通りに「漢が委ねた奴国の王」となり、奴国王が当時、まだ倭国王とは認められていなかった、もっと言うならば東アジアにまだ倭人の国家「倭国」など存在しなかった証拠になる。そう考え付くのが人間の歴史を知るものなら当然。
いわんや3世紀の『魏志』でさえ「倭人有り」としか書いていない訳である。少なくとも3世紀以前までの史書に「倭国」記録は一切ないわけだから、「倭の奴の」などと書くわけもないのである。光武帝へ朝貢したのはあくまでも玄界灘の奴国の王の使者であり、当時の日本にもまだ「倭国」というような広い意味の国家意識などなかったことになる。そもそも当時の国家とはまず中国に認知され属さねば「国」とは呼ばれない。この金印金石文の持つ意味はそういうことで、奴だけが国と認知された=狭義の使用がふさわしい。魏志の倭人伝にも「奴国」となっていても、広義の「倭国」使用例はない。あくまでも「倭人伝」である。倭国伝となったのは『隋書』からだが、ここでは「倭国」どころか「俀国 たいこく・あこく」になっており、それが本当に倭国のことなのかどうかも実はきめられない状態である。そもそも「たい」などという国はなかったから仕方なく倭国と考えて考察されている。
「「妥」は「安」の字に通じ、「安」から平仮名の「あ」の字も出来ているのである。したがって、「倭」は「わ」、「イ妥」は「あ」を表し、普通は「倭国(わこく)」と書き、また時には「イ妥国(あこく)」と書いたりしたのだと思う。」
この説が正しかろう。
※ただ「委奴」を「いど」つまり「伊都」と読めば、これはまたこれでなかなか面白い着想は生まれ出てくるかも。光武帝に朝貢した倭国王とは伊都国王であり、奴国はそれを奪って志賀島に隠した・・・?^^
漢字国家中国で、正式文書に誤用は考えにくい。間違えるとすれば直接金石文を刻み込む技術者の無知はありえるが、正式な金石文にそれはありえない。もしあれば子々孫々まで斬首磔刑だったはずである。
ちなみに「奴国」の「な」とは、意味を正しく漢字表記すればおそらく「灘」「儺」ではないかと思っている。海辺の人つまり海人、白水郎、水人となる。これを日本では古く地名「那珂」などと表記している。「なか」は中継港地名であろう。日本本土最初の中継港=ハブ港が福岡県那珂川河口部だったことになる。ということはそこまでの港はみな単なる停留地でしかないとなる。この那珂川の東部を基点視したのが奴国王である。西部を基点にしたのが伊都国である。「いと」は「倭都」「倭津」の意かと思える。奴国人が「な人」ならば伊都国人は「わ人」だったとも受け取れる。それを取りまとめたのがおそらく女王卑弥呼だったのではないか?問題はその巫女王が、果たして「仲」を取り持つにふさわしい「遠隔地」の第三者だったか、それとも現地の中間的第三者だったかで、まだ史学はもめている。どっちにせよ、彼女はどこにいたとしても、九州のこの玄界灘沿岸のクニグニを取りまとめることのできた「筑紫の縁者」でなければなるまい。それは例えば考古学と地理学のミックス古代史では「豊と吉備と大和でしかありえない」のである。
有倭人以時盟不
中国曹氏墓群出土・倭人字磚にあった文字。「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」
磚(せん)とは焼成レンガである。曹操の祖先の墳墓玄室などの壁に積まれていたレンガ。時代は三国志の数代前。1世紀頃か。場所は山東半島南部。ここが曹操一族の本貫地である。正しく「倭人」と使われているが、この倭人が果たして日本人を指すのか、あるいは当時の中国沿岸部~南朝鮮海岸部・及びアムール南部海岸地域~日本海岸部に共通して住まっていた海人族の総称である倭=白水郎のことかは判断しかねる。
中国曹氏墓群出土・倭人字磚にあった文字。「倭人有り。時を以って盟することあるや否や」
磚(せん)とは焼成レンガである。曹操の祖先の墳墓玄室などの壁に積まれていたレンガ。時代は三国志の数代前。1世紀頃か。場所は山東半島南部。ここが曹操一族の本貫地である。正しく「倭人」と使われているが、この倭人が果たして日本人を指すのか、あるいは当時の中国沿岸部~南朝鮮海岸部・及びアムール南部海岸地域~日本海岸部に共通して住まっていた海人族の総称である倭=白水郎のことかは判断しかねる。
伊委之
Wikiイワシに「藤原京、平城京出土の木簡には「伊委之」、「伊和志」の文字があり、鰯(日本で作られ た漢字、国字)の最も古い使用例は、長屋王(684年?〜729年)邸宅跡から出土した 木簡である。」とあるが、つまり前者が藤原京、後者は平城京の木簡という意味である。それが日本語の使い方である。
ゆえに、
伊委之は藤原京出土木簡である。
「いわし」のことである。イワシは「いやし」あるいは「よわし」から横訛ったと考えられているが、平城京木簡では「伊和志」であるので、先頭はいずれも「イ」であることから【ya→wa】は母音が一致して、実際にあったが、母音の違う【yo→i】への音韻変化は考えにくい。このことからも、「よわし」説はしりぞけられて「いやし」=「貴族は口にしない卑しい魚」から来たと決定してよい。ただしいずれも心の中の発音は中国音ないしは百済経由の【wei】であろうとしたことは間違いないだろう。
Kawakatu作 真イワシの塩焼き
すると藤原京例二番目の文字「委」はもと「や」であることとなる。これは音の混乱である。つまり語調で「いやし」が言いにくかった、あるいは、卑しいではあまりに直接的なので、平民の中で、気を使い「や」を「わ」に変化させていったと思われる。漢字が百済から伝わってすぐは、こうした漢字の省略、代用などが多く、まだ充分に認知・確定されていない使用例があった。なぜなら漢字を貴族に教授したのが渡来百済人だからにほかならない。白川静の言うように、伝来当初~奈良時代あたりまでの漢字は、百済式表記や、百済発音の百済人による日本語音韻への代替期で、誤用、省略があって当たり前である。さらにそれが下級官吏~民間に伝われば推して知るべし。(この時代に万葉仮名いわゆる上代特殊音韻も登場し、すぎに消える。つまりその発音は百済書記官(史)が自分が使いやすいように音を増やした時期である。ところがその難しい音がやがて消えて五十音に落ち着いた理由は同じく、百済音が日本人には言いにくかったからにほかならない。つまりそれと同時に万葉カナも消えて行き、日本人は偉大にも真仮名を作り出したのである。えらい。ということは本来、百済音や漢字・漢文使用はなかったのであり、古墳時代までの日本語とは、そもそも五十音しかなかったのである。わずかに江戸期まで「ゐ」や「ゑ」、あるいは「くゎ」が残ったのはいいやすかったからの生き残りに過ぎない。また現代も「を」は残ったが、あくまで表記だけで、すでに「お」と発音は変わらなくなった。すれだけ朝鮮語発音は難しかった。万葉仮名時代はまだ日本人の漢字輸入によった日本語過渡期だったのである。)
要するに同じ金石文であっても、国家的な意味を持った正式文書で誤用や転用、略式等、中国では絶対ありえない。ましてわざわざ蛇の鈕をつけてまで奴国王=水人国家の王を表明した中国皇帝からの贈り物に略字などあろうはずがない。
結論として、奴国は単独で朝貢したのであり、そのときに自らを「倭国王」とは言っていなかったことが証明できることになる。
※後漢書や翰苑にある「倭国王帥升」だけは例外だが、この人物が日本の倭人だったかどうかはわかっていない。
反論無用。わたしがこのブログのルールブックである。
その通りと感じたならランクリクリック、ナイスクリック、このブログにほかの評価方法、反論方法は存在しない。我輩の私的な辞典に反論の文字はない。賛同の文字はある。左様、このブログはKawakatuのために存在し、たまさかそのいくつかの項目があなた方の着想を刺激しただけである。刺激がむかつくものだったとか、なるほどだったとかは、私自身の負うところでは一切ない。感じるのはあなたの勝手、書くのは私の勝手(表現の自由)であり、反論するならばおのれのサイトにしておればよい。嫌なら読みにこなければよいし、誰も読んでくれなどと「あなたに」頼んだ覚えもない。ただし誤字が多いのは私の老眼と脳梗塞履歴のせいである。そのために読み返して恥を書いている。書いて表明することには多大なリスクがつきまとう。それを畏れないからこそ面白いものが書ける。失敗や誤字などはその行為の前ではささいな嘲笑を請ければ済む事である。
「むかっとしたら書き込まない」
これが正しいネットエチケットである。
大人の態度である。
承知だな?
書くなささいな反発で意見を、それはあなたの恥じになるだけ。
私はこの我が家の部屋の中でただ叫んでいるだけ。ただし、窓を全部開放してであるがね。隣人はそれがやまかましければ、やはりあなたの室内で大声で「やかまし~~~!!!」と言っていればよい。その声はいずれ私の耳にも聞こえて来る。
それが近所づきあいの処世術である。
筆者はインターネットに「双方向」などまったく必要ないと思っている。
それはただ、低い次元の人間に、意地悪の火をつけるだけである。まことにネットとは、危険な日常を、本来おだやかなるはずの日本人に放り投げた、今世紀最悪の罪人である。Kawakatuにのーめる平和賞を、インターネットに悪辣賞を。