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聖徳太子の正体を探る2 秦河勝


聖徳太子のイメージは、もう間違いないと言っていいのだが、少なくとも五人以上の人物像のコラージュでできあがっている。それが1作り出され 2さらにイメージがかぶさり 3そして過剰に神聖視された・・・この三つの時代的経過がそこにはある。


最初にその複数のモデルを書いてしまおう。


1 厩戸皇子
2 蘇我馬子~入鹿
3 秦河勝
4 物部守屋
5 天智・天武天皇
6 応神天皇八幡陣

もちろんこれだけではない。

さらに記紀の主人公である天武天皇、ローマから秦を経て朝鮮系湯で秦氏が持ち込んだイエス・キリスト、ゾロアスターのミトラ神・・・などなどなどなど。






聖徳太子が聖徳太子と呼ばれるようになるのは、記紀成立以降だと言ってよい。




そのイメージが当時の政治的背景で必要だったのは・・・

1 天智天皇(不在かも知れない人)
2 天武天皇(同   上)
3 持統女帝
4 藤原不比等
5 藤原光明子

である。


1、2の天皇は記紀が作り出したかも知れないので、それは不比等の作り出した幻影である。持統天皇が天智の娘だったかどうかも疑ったほうがよいだう。不比等は政治的には、父鎌足一代であるはずの「藤原氏」を勝手に名乗った人。つまりそこに自分自身の藤原名乗りの正当性が必要な人物である。光明子は不比等の娘で慈善事業マダムであり、そのために父不比等が作り出した「聖徳」=慈悲 のイメージを最大限利用して自分の慈善事業にカンパがほしい女性。





ではまずは秦河勝という作られた人物から考察しよう。

「はたの かわかつ」とは
1多くの渡来亡命者の代表 秦氏も漢氏も渡来系はすべて最初は「はた=海」のうじである

2川のすぐり これは人名ではなく伝説上の山背の開闢者としての水の開拓者という名前

3夢殿と広隆寺八角円堂の類似(これは円堂の建設が鎌倉時代なので証拠にはできない)
 
4蜂岡寺伝承の太子宇治橋で河勝これを迎えるの儀式的伝承(作り話)

5蜂岡寺所在地が葛野ではなく北野であること(広隆寺と北野に縁はない仮説)

6葛野=嵯峨野つまり嵐山界隈であること、嵯峨野が蜂岡であるのは、蜂=かえでの甘い汁で嵐山なのに、葛野秦氏の本拠地が太秦であること

7架空の大王である応神紀に早くも葛野が登場し、そこを秦氏が開拓していた記事




すべて信憑性に乏しい事柄ばかりでできあがっているのが河勝伝説である。



すなわち河勝は「かわのすぐり」という秦氏山背開闢の「おおさけ」神をさしている。




河勝の神格化がはげしく起こったのは中世からで、これは太子もそう。そして太子が大工の祖先であるとされたように、河勝は猿楽の祖とされたのは、中世被差別民だった職能民・芸能民たちの「貴種」祖先伝説であり、あるいは木地師の好む貴種流離譚もそこに加わる。これらがひとえに河勝を祖としたのは、彼らの多くもまたハタ、つまり渡来人だったからである。



では倭人であるはずの太子がなぜ渡来人秦氏の伝説的人物像から作られると思うのか?




1駿河の大生部多が祭る常世の神を勝手に祭ったことを、河勝が叱咤した
これは国家宗教としての仏教導入に対する地方神人たちの反駁であるから当然。
しかしその事実が河勝が行った証拠はない。記録だけである。そしてこの記事は、中央秦氏の栄達に対する地方渡来部民たちのやっかみがあるということを言っているのであり、問題なのは東国をはじめとするそういう勝手な部たちを統率するための意味のほうが大きい記事である。


2斑鳩宮跡の発掘から、そこに住んだのは上宮一族と母刀自古女郎だったという推定、では太子はどこに住んだのか?が不明。隣接する夢殿は、おそらくさほど古い時代からなかった。天智天皇時代あたりに作られた。なぜなら中にあったのは太子をモデルとした仏像一体で、さらしでぐるぐる巻きにされていた救世観音だった。天智には本当の太子の姿があると困る理由があった。

3 ★3法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文後世刻印の根拠
●「法皇」という表記があるが、これは法王と天皇を組み合わせた言葉で(福山敏男1935)、天皇という言葉がまだなかった飛鳥時代のものとは思えない。

●「法興」という年号は『日本書紀』だけが記録したもので、法隆寺は法興寺と呼ばれていたからここだけに使われた年号だろうが、そもそも法隆寺が法興寺とも言われたのは『日本書紀』にしか記述はなく、しかもこういう漢風年号の使用は飛鳥時代にはまだあり得ない。法隆寺は飛鳥時代には「アスカデラ」、仏教が入ってから法隆寺、天武天皇の頃には「元興寺」である。法興という年号使用も法興寺という寺名も、実際には飛鳥時代にあるはずもない。

●「知識」「仏師」という語も見えるが、これらも飛鳥時代には存在しないはずの仏教専門用語であり、生まれたのは仏教がかなり浸透してからである。

●銘文は刻印であるから仏像鍍金後にいくらでも刻める。

●金堂改修工事のさいに三尊像が台座からおろされたさいに、そこには三尊像の四角い台座に合致しない、丸い漆の塗り残しが発見された。その後の分析でこの円形にぴったり合うのは救世観音であるとわかった(NHK)。この救世観音像を撤去して釈迦三尊像を置いたのは天智天皇であることもわかった。つまり釈迦三尊像そのものも、飛鳥時代の仏像ではなく天智天皇時代から持統時代のものとされた。

●ということは勿論飛鳥時代の仏師である止利の作品ではない。
つまり鍍金の上から刻印されたこの銘文は後世のものである。
参考文献大山誠一『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』NHKBooks 2009




聖徳太子はつまり飛鳥寺付近に住んでもいなかったのである。法隆寺は太子なきあとに飛鳥寺跡地に火災で再建されている。その伽藍は百済様式であり、五重塔基礎の地中からは百済昌王の署名のある仏舎利容器が見つかった。この人は少なくとも聖徳太子の時代の人ではなく、百済が台頭してきた新羅の影響で半島がみだれたと、南下してきた高句麗広開土王の時代の人である。つまり天智天皇の時代の人なのだ。

また、この金堂の天井にある止め金具が、持統天皇がそこに仏像の上に天蓋をとりつけるためのものであったこともわかった。

さらに天寿国繍帳などの太子ゆかりの遺物や記録がみな藤原光明子を前後とする時代の作品であることも否めないことがわかっている。


つまりまずは聖徳太子なる聖人は飛鳥時代には存在していない。


であるならば、そのイメージは『日本書記』が作り出さなければならなかった宗教的国家統一のためのイメージ、虚像だったことになる。


そのイメージを作り出すにはいく人かの過去の人物像が・・・それもその時代にグローバルな外交を実行しようとして消された人物でなければならず、その穢のイメージに対するハレのイメージを持たせる必要性があった。なぜなら白村江敗北という天智の大失策をごまかす必要があったからである。




日本国はここではじめての世界での戦いに大敗北を喫しているのだ。日本は風前の灯の中にあった。歴史的恥辱である。そのことを不比等は少しでもなかったこととしなければならない。天智を藤原京の真北において天子としたのもそのためである。その敗北をごまかすには聖徳太子二は中国外交で大失敗をさせておく必要があった。あの煬帝への日出るところの天子よりという大失敗作である。


そしてその負のイメージの前例があってこそ、河勝にそれをおっかぶせることができ、中央渡来人=異郷の侵入者たちへの牽制球となったのである。秦氏は王家のための月の存在に徹しなければ生き残れなくなったのである。





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太子と椿 祟り神としての聖徳太子





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“海柘榴市之(つばきちの) 八十衢尓(やそのちまたに) 立平之(たちならし) 結紐手(むすびしひもを) 解春惜毛(とかまくおしも)”
(訳)海柘榴市の数多い街路でふみならして、歌垣をした時結んだ紐を解くのは惜しいよ
(日本古典文学全集(小学館 昭和48年12月10日初版)、訳者:小島憲之、木下正俊、佐竹昭広)




 
☆八十の衢・・・チマタは道の股。海柘榴市(椿市)は、四方八達の地であった。
☆立ち平し・・・「平す」は平らにすること。大勢の男女が地をふむことを表すが、その動作にはもと呪術的な意味がある。
☆結びし紐・・・「日本書記」武烈前紀に、海柘榴市で歌垣が行われたことが見える。
☆歌垣・・・・・多数の男女が特定の場所に集って、飲食、歌舞し、乱交した遊びをいう。この「結びし紐」は、その時に接した相手と結び交わした紐。
引用者注・・・歌垣(東国では嬥歌(カガヒ))は古代における集団見合い形式でもあったのだから、「乱交」よりは「情交」くらいにしておいた方が適切なのかも知れない。
☆海柘榴市(地名)・・・今の桜井市。大和国磯域郡、今三輪村大字金屋の地、島見山と三輪山との間。上代、歌垣の風習の行われた土地として名高い。
 




「聖徳太子ゆかりのある興隆寺(四天王寺、現在の名称、椿市廃寺)のある、すぐ前に、八十の衢の如き、多くの道が交差する地域に椿市があり、この交差点に隣接して、椿市小学校がある。最近、この万葉集の歌碑を小学校横に立てたが、「歌垣」の意を解するならば、どこか他の場所の方が・・・と思う人もいることだろう。椿市廃寺に誰がしたのか。なお、聖徳太子ほどの人物が出自不明とはおかしな話です。どこの馬の骨かわからなかった人物ならいざ知らず、実際に不明ならば、年令も不明であるはずなのだが、49才で没したということは、生まれた時が明らかであるということであり、大きな寺がないが、地名が残っているのと同様、意図的に消した証拠でもある。」








「海柘榴市は「つばきち」または「つばいち」と読み、奈良県桜井市の三輪山の南西に所在して開かれた古代の市である。『日本書紀』と『万葉集』にいくたびも登場して、大きな政治的事件やあるいは歌垣の舞台となり、古代の市としてはもっともよく知られた名前かもしれない。

    ●八十の衢の海柘榴市

 万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。

 海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)

 紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)

 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)

 「八十の衢」とは、多数の道が合流した地点をさす。八十の衢である海柘榴市は、物品を交換したり商う市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれた他に、さらに刑場となったり、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われた。

 人が集うばかりでなく、言霊や精霊が行き交う非日常的区間であり、祭祀も執り行われたという。このような場所には聖なる樹木が植えられ、地名となった海柘榴もシンボリックな意味が込められたという説もある。

 海柘榴市があった所は、大和高原に水源を持つ大和川(初瀬川)が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点である。大和川は、奈良盆地を潤す最大の河川であり、灌漑とともに近世以前には水運にも利用されていた。古代にあっては、大和と河内、摂津を結ぶ重要な交通ルートであり、難波津に上陸した外国の賓客やヤマト政権の要人が河船を利用して三輪山を仰ぐ宮との間を往来しただろう。海柘榴市は難波津の内港として、大和と大陸を結ぶ海のルートの終着点にして起点でもあった。

 陸のルートにしても、盆地の南北と東西を貫く基幹街道が十字に交錯する地点であった。7世紀始めの推古朝には河内と明日香を結ぶ直線の大道、横大路が設けられるが、それは海柘榴市を通る東西の街道をなぞるコースであったし、東を向けば初瀬谷を抜けて伊勢、さらに東国へ通じる主要ルートがその延長上にあった。

 南北には上つ道となった街道が早くから開かれ、石上や春日などの盆地東部の要地を結び、さらには山城や近江へ至るルートとつながった。南へ向かえば、山田道となって明日香へ入る。その先には巨勢道が伸び、さらに紀ノ川沿いの紀路が続いた。

 海柘榴市が正史にいくたびも登場することになったのは、もちろんヤマト政権の王宮が何代にもわたって周辺に置かれたからである。実在が確実視される最初の天皇、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)は、志紀御県坐神社付近に比定されるので、まさに海柘榴市があった場所である。欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)も海柘榴市の所在地に重なる。」








海石榴市(つばいち)は「つばき」とも読ませることがある(『日本書紀』)。
『豊後国風土記』にも「海部の郡、海石榴市(つばいち)」が出てくる。今の大分県佐伯市の海岸である。






これでやっと気がついた。
あの花は椿だったのだ。



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四弁に見えた花びらは、わが庭に咲く侘び輔の花のように、六弁がかさなった姿なのではなかろうか?


椿は神社などでもよく植えられており、全国に椿神社はある。
常緑樹で、葉はクチクラ層におおわれ、日の光を受けててらてらと輝く。
まさにとわの命の再生を示す樹木だ。



街道の交差点や三叉路には、時代別、また地域によってさまざまだが、江戸時代関東では榎、奈良時代大和では椿が植えられた。聖なる三角地点には聖なる樹木が植えられ、旅人の無事の帰還を密かに守った。


死生観の指標となる樹木だ。




しかし聖徳太子と椿にどのような意味づけを古代人はしたかったのか?




想像するしかないが、おそらく太子という、過去なにがしかによって不幸の死をとげた古代人のイメージから生み出された「魔物」に、この花はふさわしかったに違いない。それは鎮魂であり祟り封じでもあろう。

そう、聖徳太子もまたある種の祟り神なのである。



物部守屋を祭った四天王寺に、椿市廃寺があったというのなら、さしずめそこは椿の花をこよいなく愛した人物がもともと祭られていたのかも知れぬ。いや、あるいは、守屋自身がその花と常緑をこよなく愛したからここだったのかも知れぬ。

やちまたは、あらゆる人々が往来し、そこから分かれていくところである。まさに運命の交差点が海石榴市だった。


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聖徳太子の正体を探る3 物部守屋こそが聖王だった



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池田理代子作 物部守屋


先だってより四天王寺のなぞを紐解くうちに、次第に見えてきたものがある。

守屋は蘇我氏よりも先んじて、河内の別業に渋川寺なる仏教寺院を建てている、以前は、ここを寺=建造物、別荘という広義の解釈を採用していたが、どうも伽藍遺物から見てやはり寺院だったという確信が高まった。

ならば守屋、物部氏は記録とは正反対に仏教支持者だったのだ。

茨城県の藤原氏の神社である鹿島神宮と、千葉県の香取神宮のセット関係を、これまた以前は中臣氏にとっての祭祀の本家としての物部氏を鎮魂するのが香取だと判断して疑ってこなかったが、どうもそうではなく、むしろ藤原氏こそが物部氏を売った張本人であり、そのために祟りなきように香取に守屋を鎮魂したというのが正解かも知れない。

ということは、守屋こそは当時の聖王だったのであり、中臣氏はそのなりわいと所領を欲していたとも考えうることになる。


聖徳太子のイメージが、敗れた蘇我氏のものであろうというのは、もうすでに定説化したと言ってもいいが、それだけでもない。確かに、馬子の名前と厩戸の名前はリンクしており、聖者キリストを髣髴とさせるし、蝦夷・入鹿親子の殺され方の理由には、彼らが上宮王家を滅ぼしたということの裏の神やらい・鬼やらい観念が生まれた背景があるだろうが、どうも蘇我氏と物部氏を比べると、蘇我氏のほうがもしやアンチ仏教派だったんじゃないか、とまで思えてきてしまう。


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藤原不比等





なぜならあの国書の内容が、仏教国の先駆者である隋に対してあまりにも無礼な内容であるだけでなく、自国の政治は、政務は夜に行い、朝日が昇ると弟と入れ替わるとしてあって、これはまるで神社の祭祀であり、ちょうど推古の神道的なもがりの儀式を言っているようである。もっというならば、中国が知っていた魏志の卑弥呼の祭祀のごとくではあるまいか?

国書を送ったのはまず蘇我氏であるはずだから、これはどうも蘇我氏には仏教を重んじる気風はなかったとしか思えない。「たりしひこ」というのも馬子のことだろう。
ならば「わかみたふり」は当然、馬子の子の蝦夷のことだ。

聖徳太子はいないのであるから、当時、飛鳥時代中半の聖人はむしろ守屋だったか?

それに蘇我氏が滅んでしまったのなら、継体大王時代、筑紫磐井の死後から筑紫北部をもらっていた竺柴物部氏を、藤原不比等は大和へ逆転復活させてもいいはずなのに、その気配はまったくないのである。これは奇妙だ。


中臣神道が物部神道手本にし、物部守屋の霊魂を四天王寺に祭ったのであるならば、それを太子の業績とすりかえてやるのは悪い話ではないが、そうではない。実は四天王寺に守屋廟を置かねばならないのは中臣・藤原氏だったのでは?


つまり蘇我氏も物部氏も、やったのは中臣氏・藤原氏ではあるまいか?

彼らの敗北で宰相としての地位を確保できたのは藤原氏なのだ。なにがしかの事件の跡で最も得をしたのは誰か?というセオリーで考えれば、あきらかにこれは藤原氏のひとり勝ちではないか。



聖徳太子のイメージ、祟り神としてのモデルNO.1はむしろ守屋ではなかろうかと見える。

蘇我馬子の妻は守屋の妹である。この妹が守屋の財産を狙っていたのは間違いはない。直後に彼女は物部氏の大領主になっているのだから。地位も財産も土地もすべて彼女の手に入るはずだ。しかし大半は朝廷が入手し、蘇我氏、秦氏の手に分配されてしまう。中臣氏はここで蘇我氏をやればそのすべてが転がり込む可能性がある。



聖徳太子がいたとするならば上宮を滅ぼすのも、守屋を滅ぼすのも、崇峻・竹田を暗殺するのも中臣氏だったと考えが及ぶのではあるまいか?

それまで大した氏族でもない、単なる祭祀一族だった中臣氏から、突如鎌足親子が政治の勝者として登場する謎は、ここにあるとしか思えない。


まことにおそろしきは鎌足・不比等親子である。








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ケルト研究用画像資料とKawakatu的妖精解釈

ヘッダー画像は七人の小人
小人にはつるはしとカンテラと決まっている。
つまりやつらは鉱山師。




●ケルト民族分布図
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●鹿トーテムのケルトと世界の共通性
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●馬トーテムのケルトと世界の共通性

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●ケルトの妖精一覧とKawakatu的解釈


 <アイルランド特有(?)の妖精>
バンシー・・・・・・特定の旧家の守護妖精で、白い衣を着て、灰色の長い髪をなびかせ、真っ赤に泣きはらした目をしている。そして泣き叫びながら、その家の者の死を予言する。Kawa解釈=脱衣婆か座敷童であろう。

レプラホーン・・・・・・妖精の靴を直す小人の靴屋。7個ずつ2列に並んだボタンがついた緑の服を着て、赤の三角帽子をかぶった老人の姿をしている。非常に素早いが、捕まえることが出来たら大金持ちになれるという。
Kawa解釈=靴屋=皮革なめし=被差別民

プーカ・・・・・・不真面目な召使の魂。変身の術に長けている。木苺がすっぱくなるとプーカが腐らせたとされ、馬が逃げ出すとプーカの仕業と言われ、ちょっとした悪いことはプーカのせいにされるようだ。
Kawa解釈=言うことをきかない不躾な召使=奴隷=被差別民と外国人・異民族捕虜
のこと。日本では戦後冤罪が多かった朝鮮人もそれ。アメリカなら黒人。

エルフ・・・・・家に良いことがあると、それはエルフのおかげとされ、窓辺に感謝の印としてミルクが置かれる。
Kawa解釈=まごうかたなき座敷わらしのこと。




メロウ・・・・・・人魚。海底には人間の魂のつまった籠があるという。
Kawa解釈=人魚の妖怪なら海坊主だが、これは女。ギリシアでサイレン。



 <アイルランドなどの妖精>
ブラウニー・・・・・家事好きな妖精で、よく手伝いをしてくれる。報酬のミルクや蜂蜜を忘れたり、仕事に文句をつけたりすると、怒って家をめちゃくちゃにすることもある。また、丁寧に扱わないと、悪戯好きなボガードになりさがり、更に落ちると、醜くて物を壊したり投げつけたりするドビーになってしまう。
Kawa解釈=貧民出身の召使=荒神


パック・・・・・・変身が得意。焼きリンゴになってビールのジョッキに飛びこんだり、椅子に変身して誰かが座ろうとすると消えて転ばせたりする。
Kawa解釈=同上、悪がき。はねっかえり娘。

ジェニー・・・・・・水の精で緑の歯、緑の髪。子供を河に引きずり込む。ケルト圏では緑色は死の色、豆は死者の食物とされている。
Kawa 解釈=日本の河童である。

ピクシー・・・・・・人間から借りた(盗んだ?)馬を一晩中乗り回し、明け方にヘトヘトになって馬と一緒に倒れていることがある。
Kawa解釈=なんじゃ?こりゃ 猿真似のことか?

エレウ-マン・・・・・・デンマークのエルフ。ニワトコの木の精で、正面から見ると美しいが、後ろはボロボロに腐った木の空洞といわれている。
Kawa解釈=バックシャンの反対やな・・・見掛け倒しのみえっぱり女か?

グラシュティング・・・・・スコットランドのエルフ。女性やヤギに変身することが多い。正体を見破ったとき、機転の利いた言葉を言うと、幸福な一生をくれるという。
Kawa解釈=天邪鬼

スプリガン・・・・・巨人の魂から生まれた小さな妖精。巨人に変身できる。
Kawa解釈=孫悟空

ニッカー・・・・・・ドイツの水の精。人が溺れそうになると、水面で踊る。
Kawa 解釈=河童 かえる

ノッカー・・・・・・ユダヤ人の魂から生まれた妖精。
Kawa解釈=鉱山師・炭坑夫・成金麻生さんの母方祖父(炭坑成金)

ショート・ホガーズ・・・・・・洗礼を受けずに死んだ赤ちゃんの魂。
Kawa解釈=夭折幼児の聖なる霊魂は一族の祖霊を連れてくる。

ゴブリン・・・・・・意地が悪くて非常に醜く、人間に害を与える。
Kawa解釈=小鬼

ホブゴブリン・・・・・・ちょっとした悪戯はするが、好意的な性質。
Kawa解釈= 障礙神

トロール・・・・・・ドワーフに似た恐ろしい生き物で、人間に害を与える。
Kawa解釈=鬼、魔物、災害神

ドワーフ・・・・・・地下に住む小人。白・茶・黒の3種類がいる。
Kawa解釈=地震・かみなり・火事・おやじ

サラマンダー・・・・・・火の精霊。
Kawa解釈=鍛冶屋

ニンフ(ウンディーネ)・・・・・・水の精霊。
Kawa解釈=みすはめのかみ


ノーム・・・・・・地の精霊。=地震

シルフ・・・・・・空気の精霊。=風、大風



 <ミッドナイト・サマー>
 夏至(ミッドナイト・サマー)の日、地下から妖精や魔女が現れるとされていた。
=暑いから気も狂うわいな。

 <エルフ・ニップ>
つねったり叩いたりしたような青い痣は、エルフにしめつけられた跡とされた。
=夜中に嫉妬した嫁はんがつねったんやがな。

 <エルフ・ショット>
 悪賢いエルフは、強力な弓矢で人間や家畜に矢傷(ショット)を負わせるとされていた。症状は、ひりひりと痛む発疹、皮膚に残った斑点、身体の障害など。
=しっしん、かぶれ、虫さされには今はムヒがおます。

 <エルフ・ダート>
 家畜が原因不明で死んだとき、近くに小さくて平べったい三角形の石が落ちていたら、それはエルフの矢(ダート)だといわれていた。
=家畜泥棒がやじりを落としたにちがいない。

 <チェンジ・リング>
 妖精はときどき人間の赤ちゃんを盗み、代わりに自分の病弱な子や赤ちゃんに似せた丸太棒を置いて行ったり、面倒を見てもらおうと、ズルい皺だらけの妖精がゆりかごに入っていたりする。 特に洗礼を受ける前の赤ちゃんからは目を離してはいけないと言われていて、妖精除けに、ロウソクの火を灯しておいたり、ヤドリギの小枝をベッドカバーに乗せたりしていた。※国によっては、「くしゃみ」をするまでとも言われている。
=そのまんまひとさらい。貧しい人々への警告。



 <惑わしの術(グラマー)>
 四葉のクローバーから作った塗り薬を目に塗ると、グラマーから逃れることができると言われていた。
 1人の産婆が真夜中に呼ばれ、ある家に行った。非常に立派な家で、美しい婦人がベッドに横たわっていた。無事に子供を産み落とした後、婦人は子供の瞼に薬を塗って欲しいと産婆に頼んだ。 産婆は薬を指に付けて子供に塗ろうとしたとき、目にかゆみを感じて指でこすった。するとグラマーは解け、家は木の洞に、子供はとんがった耳の妖精に変わっていた。妖精たちは産婆の目を失明させてから帰した。
=ボインボインの恋多きおねえちゃんとちゃう?人を惑わす魔性の女。ご主人・奥さんたちの経験から出たしつけの話だわ。君子危うきに近寄らずと同じ。


 <妖精の輪>
 原っぱに丸い輪が出来ているのを見つけたら、それは妖精たちが踊った跡とされていた。
=それは鳩山さん(宇宙人からも阻害されたさまよえる宇宙人)が歩いた足跡でしょうね。ぽっぽぽっぽ~~
円=神の痕跡=指紋=渦巻き


 <妖精とヴァイオリン弾き>
ある日、2人のヴァイオリン弾きが妖精の結婚式での演奏を頼まれた。妖精たちが楽しそうに踊る中、2人は夜通しヴァイオリンを弾き、たくさんの金貨をもらって家に帰った。すると現実には何十年もたっていて、2人はあっという間に年老いて死んでしまった。(浦島太郎?)
=それはもう高島さち子だね。旦那の生き血を吸って、浦島太郎のように老化させてしまうがらっぱち女。


 <妖精の花>
ブルーベルの花が鳴っているのを聞いたら、それは自分の弔いの鐘とされ、ブルーベルの森に子供が迷いこむと、二度と見つからないという。
 妖精は赤や白の花をつける木(サンザシ、リンゴ、スイカズラ、トネリコ、ナナカマド、イバラ、ヒースなど)の下で踊るのが好きなので、それらの木を切って家の中に持ちこむと、妖精の怒りを買うことになる。
=木の精?気のせい?
ベルを腰につけて森に入るのは山に慣れた山師や木こり。つまりこれは神隠し。人さらいのことやね。






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ケルトの妖精たちは日本の妖怪と観念は同じ「モノ」である。
モノを鎮めるのは日本では物部氏の仕事である。ケルトではドルイド。どちらも巫覡(かんなぎ)である。こういう職種は古代から中世の端境期に登場する。それが必ず、やがてやってくる新しい褻外の政治王によって消されたり追い出されるのが歴史の定型的ストーリーで古代が中世に変わるときのいわゆる動乱・激動を言っていることになる。


太古には神観念はまだ確立しておらず、それはおしなべて災害に代表され、中心は来訪するまれ人神=精霊・・・東南アジア島嶼のピーや北欧の冬至祭の精霊のようなもの。これは原始信仰の時代の産物で器物・子供・女・老人の姿をしている。なぜなら「大人」が現実社会=うつせを生きるに大して、それらはみな非現実的社会生活をするものだからである。これを虚像とも言う。もちろん古代の男にとってということ。今でもそういう考えを持っている日本人の男ならそこらじゅうにいるだろう。

そういう妖精たちは人間に「見えた」ものでなく、見たような気がする存在で、実際には存在しない。存在しないという考え方は客観的で科学的なもので、そうなったときが「近代」である。いるかもなあ、いやいないだろう、の時代が中世、いる、絶対いると巫女が言っているからいるが古代、全員がいると信じて疑わないのが太古。
だからいると今でも信じている人は、子供のままか、あほか、古代を生きている人で希少価値がある。だから教祖様にもなれる。なんだっていいから、うそでもいいから、確信を持っているものだけが教祖や大臣や偉人になれる。つまりそんな人はまれなので=魔物、祟り神、鬼、モノである。

魔女という概念は中世に頻繁に出てくる。子供を生まない嫁さんは魔女、ふしだらな女は魔女、共産主義者は魔女・・・などなど。ようは変化を危険視した時代の迷信。古代は弘法大師も書いたように子供を生むことこそが繁栄の道=仏道真理。生まないものはつまり宇宙の摂理である、永遠の連鎖を断ち切る所業をなすモノとされたわけである。そう言いながらも宇宙神はときどき大災害でカタストロフィを起こして、善悪無関係に人を食った。あがらいがたし。






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長く曲がりくねった道 The Long And Winding Rord









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人には人の
それぞれの道がある



それこそが








歴史









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春を待つ
30万年の人類の道もまた
紆余曲折し続けた




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君はいったい
なにを思い悩むのか












行く手には














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安らぎしかないのに














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60回目の春である






宇宙史から見てほんの1ミクロン
地球史から見てほんの1ミリ
生物史から見てほんの1センチ
人類史から見てほんの10センチ
古代史から見てわずか1メートル







ぼくは歩んだに過ぎない





そしてやがてぼくという個は消えてゆく













それでも地球は回る






ぼくたちは

いつ果てるかもわからない

ささやかな命をこの世界にもらい

かつがつ生きている








長く長く曲がりくねった道を今も歩き続けている











どってことないよ
心配するな
誰でも生きてゆける
なんぼのもんじゃい!





古代天皇の妃考 妃一覧 近親婚その他一覧資料


記紀 古代大王・天皇の全妃・后一覧(全5枚)
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ミコノミヤ一覧
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近親結婚一覧
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百済王系譜




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唐代妃一覧
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荒木 敏夫
吉川弘文館 

「六~八世紀を通じて、歴代天皇のキサキを整理するとその多くが異母姉妹か、畿内の諸豪族、一部のほぼ限定された畿内の外(「外国(ゲコク)」)の諸勢力から女性がキサキとなっていることが本書で明らかにされている。

例えば天智天皇の子女四人の皇子と十人の皇女のうち、不明の二人の皇女と夭折した皇子一人を除く十一人は――天智天皇の皇女のうち四人「大田皇女」「鵜野皇女(持統天皇)」「新田部皇女」「大江皇女」が天武天皇のキサキとなっているのを始め――全て天武天皇およびその子女との婚姻関係を結ぶ。天武天皇に限らず歴代天皇は一人の男性が姉妹を妻として娶る姉妹型一夫多妻婚が広く見られているという。
当時の国津罪として近親相姦が定められているが、それに当てはまるのは同母兄弟姉妹間の婚姻で異母兄弟姉妹婚は当てはまらなかったらしい。また、同母兄弟姉妹間の婚姻も中大兄皇子(後の天智天皇)と同母妹間人皇女との関係のように王族の間では必ずしもタブー視されなかった可能性もあるとされ、「ロイヤル・インセスト」と呼ばれる世界的に見られる『王ないし王族に特権的に許された近親婚』(P46)があったようだ。

特に天皇を中心として異母兄弟姉妹婚を行うことでそれぞれの皇女を母とする単位集団を連結する目的があったと見られている。例えば欽明天皇は宣化天皇の三人の娘(石姫、稚綾姫皇女、日影皇女)と蘇我氏出身の二人の姉妹(堅塩媛、小姉君)をキサキとして迎えたが、次代の天皇は堅塩媛を母とする用名、石姫を母とする敏達、小姉君を母とする崇峻の三人が順次継いだ。

同様の目的で、同母兄弟姉妹婚とともに、オジとメイ、オバとオイの婚姻が行われて、世代の違う集団を結合させていた。用名天皇は母堅塩媛の妹で父欽明天皇のキサキであった蘇我石寸名とオバ―オイ婚をしているし、敏達天皇の孫舒明天皇は祖父敏達と推古との間の田眼皇女をキサキとするオバ―オイ婚と同時に敏達天皇の孫茅渟王の娘である宝皇女(後の皇極天皇)をキサキとするオジ―メイ婚をしている。

このような近親婚は、特に王族女性に対する王族内での婚姻に限定する婚姻規制にもとづいていたから、「不婚の内親王」と呼ばれる未婚の王族女性も数多く輩出されることにもなった。

同時に、王権を超えた婚姻関係についても、五世紀ごろ、百済から王族の女性を迎え入れていた可能性があるものの、六世紀以降中国朝鮮の王権から王族女性をキサキとして迎え入れることはなく、王族女性が他の王権と婚姻関係を結んだ例もない。

これは当時の東アジア情勢からすると異例で、新羅・百済・高句麗などは相互に婚姻関係を結ぶことで政治的緊張の緩和や同盟関係の締結など外交の一手段として活用しているし、唐王朝もチベットや契丹など西方諸国へ王族を嫁がせたり(和藩公主)、周辺諸国から王族男子との婚姻相手となる王族女性を迎え入れたりしており、当時の東アジアでは国際結婚が一般的な外交手段として採用されていた。」




記紀の政治史観では、近親結婚とは外からの血を極力入れずに、王族内だけで血を混ぜるようにしている傾向は確かに強いが、そうすると当然、正常ではない子供が増えることになる。しかし記紀が中国にならってそうしたのだと書いていることのすべてが正しいとは思わないほうがいい。記録は記録である。つまり王の正当性を言い募りたい場面で特に、近親結婚を言うのではないか?

そもそも、王統はいくつかあって、外戚とされた豪族が、実は天皇家の前には大王だったと思うべきであろう。葛城や吉備や筑紫や物部、あるいは倭五王系譜などは、当然、天皇家が大王に推薦される前の王家であるとむしろ考えるべきなのだ。




次回、「国際結婚記録」その他、百済王、新羅王が送ってきた娘とだれが結婚したか?天皇は熊のぬいぐるみでもよかったか?など。




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[転載]戦争前から敗戦まで 焼け残った母の日記



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戦時中、米軍の大分市爆撃時の焼夷弾でかろうじて焼け残った、嫁入り前から剣今後までが記された日記が、ぼくの手元にある。






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周囲が焼け焦げてしまい、中はもうばらばら寸前である。
かねがね、これを母の死後、箪笥の奥の奥に油紙に包まれているのを発見してからというもの、どう扱うべきか悩んできた。

もし、読んだら、ぼく自身、もしや精神が平常ではいられなくなるのではないか・・・それが怖いし、女子師範学校を主席で卒業した彼女の達筆が、ぼくごとみに読めるかどうかとか、あるいは彼女のピュアだった青春時代のことどもなどを、ぼくが垣間見ることなど、不遜なことではないか、などなど、さまざまな煩悩があったのである。


ようやく昨日から、これを二階の箪笥から出してきて、居間のパソコンの真横に一応置いている。

あけてみるといきなり、「結婚」とあった。
だめだ。とてもじゃないが読めない・・・。


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彼女には戦前、約束を交わした海軍将校がいたとは本人から聞いている。しかし戦死し、彼女は恋の破滅を経験した。そして戦後、陸軍少尉から帰還した年下の父と結婚しぼくが生まれた。もし戦争がなく、海軍将校と結婚していればぼくは生まれなかったことになる。


その約束してからずっと再会がかなわなかった人との悲しい終焉、それ以前の女学校時代の男性への素直な気持ちも記述がある。


母は大分南部の竹田藩主の家老の二女と、北部の海岸部の漁師の長男との間に生まれた星霜のひとり娘で、才気煥発、B型気質の天才肌であったが、時代はこの才女をせいぜい地方の一小学校教師としてしか仕事を与えてくれなかった。

祖父は明治男らしく関白で、たったひとりの娘にも厳しすぎる折檻をあたえ、しかし美くしく丈夫で夢見る、男勝りの魅力的人物に育てた。ぼくたち兄弟は、ひとえに、彼女の才気と、美観と、祖母の忍耐するしとやかな、しかし武家らしく背筋の通った慈愛の中で、乱暴でもなく、秀才でもなく、ごく普通の良家の男三兄弟として育てられたのだった。


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敷島の 大和心の雄雄しさは 心ある時ぞ あらはれにける


中央にひときは大きくある和歌は、それがまさに戦時中であることを思わせる。
グラマンやB29など、米軍の戦闘機の観戦記録もある。



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こんな貴重な戦争資料をほったらかしておくわけにもいくまい。
ひとつ、ぼくの手で、現代文に書き直し、どこかで少しずつ公開しようかと思い始めている。



けれど、おそらく、書写しながら、ぼくはおいおい泣くのではなかろうか?それもまた怖い今日この頃である。



新聞記者に渡す手もあろう。資料館に寄贈する手もある。しかし、ぼくが生きている間は、彼女の箪笥にしまっておきたかった少女から青年への秘密を他人の手に渡すわけには行かない。まずはぼく自身がすべて読み通して、人様にお見せしてよいものかどうかを認識しておくべきだろう。




ちなみに母の老いてからの日記は別に30冊ほどある。
最期へゆくほどに読めなくなる。文字が・・・しだに書けなくなってゆく、その過程が・・・ぼくにはこれもつらい、重い、重すぎる、認知症になった母の心の叫びである。ほってある。もちろん目の前に、見えるような見えないような場所に。

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生きていると、どんどん重荷が増えてゆく。
ぼくのようにあらゆるしがらみを捨ててきたものにも、まだそういう重荷がいくつかあるのだ。父のそういうものはすべて捨てても、母のものは捨てられない。父のものが軍の武器であったに対して、母の遺産は「ねがい」や「思い」や「ゆめ」や「あい」であるからだ。



心は、たとえぼくが子供であっても捨てる権利などない。


それこそが彼女が生きていたという証拠なのだから。




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転載元: Kawakatuワールドなんでも拾い上げ雑記帳

ユダヤと日本に関連を求めるな


これは筆者の、このブログを始めた前からの信念である。
歴史をまったく学んでいなかった若いころに、日ユ同祖論とか、とんでも書の神道=ユダヤ=秦氏なんぞのばかげた本を読み漁っていたころがあったが、それは古代史や秦氏への、確かに入り込むきっかけにはなったが、その後、史書や考古学に入り込むと、そんなものはまずもって意味がないことにすぐに気づいた。


特にケルトを日本・アジアの比較対象に最近選んだ理由もここにある。
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これはケルトの渦巻き文である。ケルズの書より



ここには日本の神社にざらにある神文がいくつも描かれている。
うねるような円弧と線分のいきつくところにそれは螺旋の渦巻きとして表現されている。


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三つ巴 一般に巴文という。
これもあれも、まったく同じ死生観の産物である。
そもそも勾玉の形状である。
それは胎児の形でもある。
胎児の形状はそのまま魂の形状であり、魚の卵の中にある姿とまったく同じである。
体内、卵内で、命は渦を描くように丸まった姿で、それは生命が悠久のときをへて進化してきたままの歴史を、胎児もまた赤ん坊になるまで母の胎内で、卵の中で繰り返すのだと、高校の教師にぼくたちは教わった。その姿は、どんな生物にも共通するのだとも。進学校へ進んだおかげで、うそのような高い教育をぼくは受けることができた。


それがらせん、渦巻きの、実は古代人の願いなのである。




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組紐がからまる・・・。


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組紐がやはりからまる・・・・






同じなのだ。古代には。世界中が。




あるユダヤのラビが駐日大使としてたまたま日本に来て、ひどく驚いた。これらの模様や、偶像のない神社、祭祀形態、神社様式に自国文化との類似点を見出した。それがきっかっけで、たったそれだけのきっかけで、彼は日ユは兄弟で、ユダヤ教からキリスト教が分かれたあと十二人の使徒のうち、行方知れずになったものがアジア・中国にいるので、その子孫が日本人に違いない、と、思い込むようになった。ほかに多くの世界をしっているでもないただの宗教者が、そう思い込み本にしたら、一大センセーションを引き起こす、ある一時期大問題になった。


たったそれだけのことだった。しかし同じく歴史にしろうとであった日本人は飛びついた。しかし、ただいくつかが似ているというだけのことである。そうした類似なら、このように北欧やケルトや、アフリカにもメキシコにも、世界中に山ほどある。それを無知だから信じ込むものが、あとの時代になっても出てきた。やはりちゃんと自分で世界のあちこちの共通性を知らない人、あるいは知っていても無視する人、わくわくミステリしか興味がない人、それで金をかせぎたいやから・・・がいる。ろくに高校も出ていないか、低いレベルの教育しか知らない人々がほとんどである。自分の靴の右左もわからない、「からだ」が「かだら」になってしまう程度の幼児のような信者たちであろう。


全部勉強したのか?そう言いたい。


うそもいい加減にしろ。それはカルト信仰と同じではないか?



ちゃんと調べろ。太古は、古代は、人類すべてが共通した神観念を持っていた、ただそれだけのことじゃないのか?では違うところはどうするのだ?違うところは山ほどあるぞ。どうするのだ?


そしてあなたはそんな馬鹿げた幼稚なことをどうして容易に、すぐに、幼稚園児のように信じ込めて、しかもその受け売りを・・・つまり自分が馬鹿であることを世間に広めたいのだ?ただのミステリー信者ではないか。と。




そこから始めない論理など意味がない。水掛け論にしかならない。
それを論とも呼ばない。


ぼくはそういう人間である。

だからそういう人々のことは嫌いだし、認めないし、相手にもしたくない。そこから始まった歴史研究など研究ではない。ただの御伽噺である。そもそもそういうやつらはまともに文章もかけない、読めない、箸もちゃんと持てない、芸能人みたいにおばかで不勉強な滓ばかりである。
「赤丸フラッグ」主義者となんらかわりがない。魔女である。オウムである。じょうゆうである。


おとといきやがれである。保育所からやり直し。





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古代日本の国際結婚・美女貢献記事一覧



●百済新斎都媛 しせつひめ
『日本書記』応神三十九年(428)
 百済直支王、妹の新斉都媛を遣わした。
 (ちなみに石渡信一郎は『アマテラスの正体』で倭の倭王済は新斉都媛との間に興(オオシムラジ)と仲姫(なかつひめ)と弟姫(おとひめ)を生み、珍の孫娘大中姫との間に目子媛(メノコヒメ)を生んだとして、蓋鹵王の弟昆支(余昆)と余紀(継体)を娘婿に迎え、昆支は仲姫と弟媛と結婚。また余紀=継体は目子媛と結婚したと「妄想」している。)

●百済池津媛 いけつひめ
『日本書記』雄略二年(458)秋七月
「百濟池津媛、違天皇將幸、婬於石川楯。【舊本云、石河股合首祖楯。】天皇大怒、詔大伴室屋大連、使來目部張夫婦四支於木、置假[广技]上、以火焼死。
【百濟新撰云、己巳年(429)蓋鹵王立。天皇遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟装飾慕尼夫人女、曰適稽女郎。貢進於天皇。】」
=百済の池津媛は、雄略天皇天皇がまさに召そうとしたときに、石河楯と通じた。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来目部くめべを使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。

●適稽女郎
雄略五年(461)夏四月
『百済新撰』
己巳年補に蓋鹵王が即位した。天皇は阿礼奴跪を遣わして、女郎(えはし)を乞わせた。百済は慕尼夫人(むに・はしかし)の娘を飾らせて適稽女郎(ちゃくけい・えはし)と呼び、天皇に奉った。

●百済女人
『日本書記』雄略五年夏四月条。
百済の蓋鹵王は倭国天皇に女人を貢ったが礼を失して我が国の名誉がけがされたので、もう同じことはできない、今度は弟の軍君を送ることにしよう、ということになった。軍君は条件として蓋鹵王の婦人のひとりを所望した。蓋鹵王はすでに妊娠している婦人を軍君に嫁がせて、「子供が生まれたら船に乗せて送り返せ。」と命じた。六月、蓋鹵王が言った通り筑紫の各羅島で子供が生まれた。島で生まれたので「嶋君」と名付けた。

●蕃女
『日本書記』継体廿四年秋九月
吉備韓子那多利、斯布利(きびのからこなたり、しふり)条
「大日本人(おおやまとのひと)、蕃女(となりぐにのめ)を娶りて生めるを、韓子(からこ)とす」
朝鮮人との間の子を「韓子」と名づける風習があったようだ。

●韓婦
欽明二年 秋七月 
「紀臣奈率弥麻沙(きのおみのなそちのみまさ)は、紀臣、韓婦を娶りて生まれた子なり」

●美女媛
欽明廿三年八月
「天皇、大将軍大伴狭手彦を遣わし、兵数万を領(ひき)いて、高麗(高句麗)を伐つ。狭手彦すなはち百済の計を用いて高麗を打ち破りつ。中略 美女媛(をみなひめ)、あわせてその従女(まかだち)吾田子(あたこ)を以て蘇我稲目宿禰大臣に送る。是に大臣ついに二の女を納れて妻として軽曲殿におらしむ」

逆の例
●『日本書記』天智即位前紀
「織冠をもって百済王子(せしむ)豊璋に授けたまふ。多臣薦敷の妹をもって妻す。」
 
●その他
『類聚国史』798 羽栗吉麻呂と唐女
『日本三大実録』867 藤原貞敏と劉嬢、
『続日本記』778 藤原河清と中国女と娘の喜娘(きじょう)
『日本紀略』792 大春日朝臣清足と李自然(唐女)(『日本後紀』逸文)

世界の外交史、東アジアの外交史などにおいての国際結婚や「美女」の貢献記事は、当時の国際情勢をかんがみて、ほぼすべてが政略結婚であることは言うまでもない。特に百済国から倭国への美女貢献は、当時、百済が半島において危ういケースに倭国に助力を求める場合に起きている。この中で応神紀の記述は前例として置かれた記事ではないかと思えるので、信憑性はあまりない。雄略以降の記事はある程度信用できる。4~5世紀はそうした東アジア情勢が動いた激動期だったからである。

いずれにせよ倭国へ、百済を中心として海外からの王女や美女の来訪があって、それが日本人と結婚して子孫を残していることは、もっとあってもおかしくない。
中国では新羅からの何度もの美女贈呈がくるので、迷惑がってもう送るなと命じたと記事があるが、その後もなお新羅は美女を贈っている。

国際結婚は歴史的にけっこうある。
 
(いきなりなんだと言うなかれ)
 
◆ハプスブルグ家
ルドルフ一世のあと、アルフレヒト一世~フリードリヒ一世~マクシミリアン一世と継承された血脈は、ブルゴーニュ公国のマリアをの国際結婚を選択した。さらにその皇子フィリップもまたスペインのファナと結婚。これらによって領土を拡大していく。
これは政略結婚が歴史的に、帰順=婚姻であったことを語っている。
 
◆「和蕃公主」
中国でも異民族の王族から何度も妻を娶っている。これを和蕃公主(わばん・こうしゅ)と言う。
漢代の武帝の兄の孫娘・劉細君(烏孫王に嫁いだ)、あるいは王昭君、唐代の太宗の養女でチベット王に嫁いだ文成公主」などが例である。
 
 吾が家 我を嫁がす 天の一方
 遠く 異国に托す 烏孫王
 窮慮を 室と為して せんをしょうと為す
 肉を以って 食と為して 酪をしょうと為し
 居常 土を思ひ 心 内に傷め
 願わくば 黄鵠と為りて 故郷に帰らん
 
この詩のように、劉細君は数奇の人生の址、故郷孫と伴に漢に帰る。
 
あたかも幕末の皇女和の宮のごとき、蛮族に嫁ぎたくなかった心が見える。
この「願わくば黄鵠となりて故郷に」という表現は、ヤマトタケルの白鳥になって故地へ帰らんとした慙愧を表現する定型文と言える。
 

では各時代の大王や、そのあとの天皇家が外国人を娶った事例はあるかといえば、光仁天皇に嫁いだ高野新笠(たかのの・にいがさ 桓武母)の例が唯一(とは言っても彼女は在日二世であるから日本人であるが)であるようだ。

韓国人の中の馬鹿なやからがよく、高野新笠を「韓国系」だとか無知蒙昧な書き方をするが、彼女は百済系であって決して「韓国系」などではない。百済王家はかつて新羅が半島から追い出したのであるから、それを今ごろ「韓国系」とは歴史の知識がないにもほどがある。今の韓国人のほとんどは百済王とは一切関係ない野蛮な新羅や、知的な高句麗人の子孫である。それが韓国であるのに、百済王族の子孫を韓国系とは、片腹痛い。へそで茶が沸かせる。王族以外は済州島などへ幽閉しておいて、監獄島だった済州島からソメイヨシノの種が行った、とか、まあ、非科学的で不勉強でばかまるだしのうやからばかりである。袋入りナッツでも食って、おとといきやがれである。





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韓国の国花ムクゲは中国原産






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韓国の国花はムクゲ
ムクゲの原産地は中国




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日本の国花は菊あるいはサクラ
菊の原産地は中国
サクラの原産地はヒマラヤ
なお、サクラは品種は限っていない。平安時代は山桜で、これはDVA分析の結果、原産地はヒマラヤ一帯が自生地。日本人はすべてのサクラを愛しており、中でも染井吉野は東京都上野の染井村での交配種であり、これを近年は最も愛する。済州島起源説は明治時代の誤った説で現在一切採用されていない。そもそも国花とその起源地が違っていても特に問題はなく、それとこれとでは論理の次元がまったく別である。
 



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中国の国花は牡丹
牡丹の原産地は中国北西部






国花とは必ずしも自国原産植物である必要はない。
その花がその国民性を見事にあらわしていればそれでよい。





そもそも植物の原産地がどこであろうとも、地球の気流が西から東へ動く限り、種子も勝手に西から東へ飛来してくる。それが起きた時代と、国が国花を決めることになにも因果関係などあるはずもない。



韓国の国花は中国から輸入された花ムクゲである。
日本の国花の菊は輸入品だが、サクラは地球の気流が運んできたものである




つまりサクラ自身が日本を選んで定着したのである






その種が自然交配したにせよ、あるいは人的に江戸時代の染井村の園芸職人によってかけあわせられたものがソメイヨシノであるかにせよ、サクラは日本でこそ大切にされた。韓国人が往古からサクラを大切にしていたというイメージも事実も皆無である。いずれにせよ自然交配の場合でも、それがどこで最初に起こったかなどはさほど重要なことではない。なぜならA地点でそれが起こったとしたところで、それがその種の意思でB地点に根付いたのならば、A地点よりもB地点のほうがその種が好きになったからにほかならない。しかも、A地点ではその花が歴史的にさほど愛されていなかったようならば、その種がB地点の国花になることに歴史的になんらの違和感もあろうはずがない。つまり朝鮮半島の山桜は、より住みやすい場所として日本列島を選んだことに間違いはない。ならばサクラはその時点で日本の樹木である。



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ただし、日本の古い国花はあくまでも天皇家の菊(平安時代~)であることはいうべくもなく、サクラは二番手、あくまでも武家(中世以後)の風習からである。したがって韓国がことさらにサクラを目の敵にするのは第二次大戦の植民地支配下時代へのうらみから出たものであり、中国原産のムクゲを国花としていることは棚に上げて、何を言うのかお笑い沙汰だと言えよう。

世界中の人々がサクラと聞いてどこの国を思い浮かべるだろうか?韓国だという人がどれほどいるのだろうか?またムクゲが韓国の国花だといったいどれほどの人々がしってるのだろう?他国の花にどうのこうのいう前に、自国の国花の認知度を上げるほうが先ではあるまいか?


国花の原産地がどこにあろうとも、そのようなものに何の意味もない。意味のない論議にいちいち耳を傾ける必要もない。いずれにせよ世界はどんどん韓国・朝鮮民族を嫌いになっていくだけのことである。韓国人ならもっと国花であるムクゲを大事にしたまえ。

そんなにサクラがいいなら、国中に植えればいい。その種子もまた日本に逃げてくるはずだ。百済王家や高句麗王家の人々や、優秀な職人たちのように。全部、おたくから逃げ出してやってきた資源や人々だ。海流に乗って日本海沿岸にやってきた砂鉄もまた朝鮮半島の花崗岩から流れ出たものである。韓国さん、いろんなプレゼントをありがとう、である。ちなみにゴミもやってくるが、日本人は黙ってそれを拾い集め処分している。ひとりとしてあなたの国に文句など言うこともない。泣き喚き、他人のものは自分のものとわめき倒しているのは、世界中でイスラムと韓国だけじゃないのだろうか?


哀れな心根である。





ちなみに、我が家には白いムクゲがある。邪魔だから去年切り倒してやったら、庭が実に広々とすっきりした。そこにサクラを植え替えた。ムクゲは嫌いではないが、一日花で首根っこから落ちてくるのが嫌だ。凋落する国みたいだからだ。




珍説『日本書記』 逆転の不比等作文術/天武と劉邦・持統と卑弥呼・天智と天忍穂耳


これから、不比等には天皇など誰だってよかった、馬に関係しておれば、を書く。
馬とは厩戸、馬子、鸕野讚良に共通する騎馬系渡来人の名前である。そこにキリスト生誕伝承を混ぜ込んだのは秦氏だろう。


あくまでもざっとしたものの見方であるが、『日本書記』編纂者たちが当時、ある程度の過去の知識を持っていて、それらをつなぐ時間帯の知識だけが失われていたとする。
そういうことは歴史上充分にあり得ることである。

するとどうしても日本史を書こうとすれば、忘れられている時間枠の加工編集は編纂者の自由になる。誰も知らないことだからだ。問題はコラージュすべきエピソードの、1いくらかは誰もが知っており変更できない事柄、2うろ覚えだが全大和氏族たちがだいたいは伝承してきたエピソードで、脇役は変更できそうなエピソード、3まったく忘れられている事柄、などにあらかた分類できる。それらを貼り合わせてつなげれば一応の史書の体裁は整うはずである。あとは細かい部分のすり合わせをすればいい。地方の氏族はもちろん大和地方での出来事など知っていたはずもない。そもそも『日本書記』『古事記』などは、大和・畿内の一部氏族しか知らない、地方伝承の貼りあわせでできている。

藤原某という人物が『日本書記』を作らせるさいに、最初に自分たちに操縦しやすい大王を作り出すための最適の方法をどうするかと考えていたとする。そしてそれが対外的にも認めてもらえる「東アジアの中の日本正史」でなければならない。



すると藤原某はまず「誰でもいいから操縦しやすい傀儡王をピックアップ」し、それに都合のいい先祖をつむぎださねばならない。

具体的には当時の飛鳥という田舎の町では有名な美女である鸕野讚良姫(うののさららひめ・実態は渡来系馬飼い氏族の娘か?鸕野も讚良も大阪の馬牧の名前である。また馬が出てきた。聖徳太子・蘇我馬子・鵜野は馬に関係が深すぎる)という高貴な?女性を引っ張り出してくる。しかし彼女には当時のせまい飛鳥の豪族内部に、これは正当だというほどの家柄がない(それまで大した実績もない息長という海人交易氏族である)祖先しか持っていなかったとする。

藤原某たちは「自分たち氏族の正当」のために、まずこの女帝の正当性が必要である。そこで日本最古の、中国王朝が認めた日本女性は誰であるかと考える。するとそれは魏志倭人伝の女王卑弥呼である。持統が女性だから当然、前例も女帝、女王でなければならない。では、そのどうみても大和の王家とは関係がなさそうな書き方をされた卑弥呼を、いかに、日本最初の王は女性だった。それが三国志の勝者・魏皇帝によって認められ、その子孫たちがちゃんと現在の大和の鵜野讃良につながるように系譜を作成することになるだろう。

まず親、夫、祖父・祖母、親戚一同、その先祖である皇祖となる人物の、卑弥呼から直系であるかのごとき遠大な氏族系図とエピソードが必要になる。


父、天智大王という人がおり、われわれ藤原氏の大元である鎌足と二人で、前の王家の飛鳥王家から天命によって天智が王となる必要がある。天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみことという名前の空想の人物である。この人も馬で狩に出かけてのちに死んでいるのである。この人物は白村江での大敗北という大チョンボがあったとされ、それを消してしまわねばならない立場がある。これを「われかつあかつ」の繰り返しと筆者は言っている。あめのおしほみみのみことの名前である。

さらに夫は、その天智の正しい血脈で、さらにできたら中国の伝説的国家樹立者とよく似た人物に仕上げることも重要だろう。それはできれば漢の高祖・劉邦のような人物に仕上げたい。つまりどこかしら天智とは違った出自をにおわせる農民出自でもいいことになる。なぜなら劉邦がそうだったからだ。劉を名乗って漢の正嫡であるかのように劉邦は描かれたが、ただの一地方役人でしかも貧しい農民出身である。それがクーデターによって後漢を復活させ、いっかいの亭長から高祖にまで出世するのである。天武イメージにもそのクーデターが必要である。それが壬申の乱である。

『日本書記』には天武が吉野逼塞前に語った言葉がある。

「若し仕へて名を成さむと欲ふ者は、還りて司に仕へよ」

劉邦はこう言った。
「公等皆去れ、吾も亦此れより逝らむ」。
高祖は国の亭長だったから県令によって「り山」で始皇帝の墓を修復せねばならなかった。だが役夫たちは途中で逃げ出してしまう。そこで豊県の沢中にとどまり、馬から下りて酒を飲み交わし、方策を練った。夜半に残りのすべての役夫を開放し、「みなここから立ち去れ。わたしは決断した」と述べた。

天武も劉邦も追いこめられた状況で、ほぼ同じことを口にし、開放したことになっている。あきらかに決然と立ち上がる前の行動が二人は一致しているのである。(遠山美都夫『天武天皇の企て』2014)
すると敵味方を作り出さねばならない。かたき役と味方役を、当時の実在の人物からより分ける作業がはじまる。さすがに記紀直前のできごとなので、まったくうそは書けないのだから、クーデターとまではいわずとも、似たような政権抗争さえあればよい。

しかしそれが絶対に王朝転覆であっては困る。日本の王家はこれまで一切断絶もなく引き継がれたことにしなければ、最初の卑弥呼の正当性の意味がなくなってしまうからだ。

おそらく実際には弥生末期のどこかにあった邪馬台国を首都にする女王国などなかった可能性は十二分にある。魏が作り出した夢の女王国という発想である。

魏は三国の争いに勝ったとは言え、まだ全土に充分な政治支配の基盤を持っていない。すると誰も知らない外国がいくつか、その権威を知って貢献に来たと書いてみたくなる。隣国では誰でもうそに気づく、海外の未知の国家ならちょうどいい。そこが野蛮な女王シャーマンという一世代も二世代も前の政治組織であることは非常に都合がいい。そう考えた結果、朝鮮の記述はざっと書きなぐったものなのに、倭人のことだけは異常な丁寧さと、丁重な人物の扱いをしてあり、東夷伝中異例のかきっぷりになった。充分に行ってきて、見てきて、われらは知り尽くしているのだという書き方が必要だ、なぜなら呉や蜀は、まだ実際には完璧に敗北しておらず、広い国土にいくらでも残存勢力が潜伏している。それが中国という大陸国家なのである。

そこで倭人の中心地は呉越のすぐそば東側であり、いつでも彼らは攻め込めると思わせる位置にある必要があるわけである。呉の真東は琉球あたりになる。すると倭へは、南へ南へ行くという書き方しかなくなるのである。


一方、『日本書記』編纂者はそれを受けてこう考える。卑弥呼は女王だ。その次の臺與も女王だ。あいだに男王が何人かいたことは間違いない。では鸕野讚良の前にも女帝の前例が必要になる。そこで推古、皇極、称徳らが登場。そしてそれらすべての女帝正当性をさらに強めるカリスマ的巫女王が必要=神功皇后。限りなく卑弥呼によく似たシャーマン女帝で、朝鮮を征服して大国家のきっかけを作った強烈なイメージの肝っ玉かあさん、要するに大地母神のような人で、さらに強力な神通力を持つ子孫を生む必要もある=応神。その応神の王権がたとえ現在新しく差捏造しようとしている女帝一家と、なんらの関係もない別の王家だったとしても、墓の形さえ同じにしてしまうえばよい。それが前例のない巨大なものであれば、なお応神やその子の神通力をさらにイメージアップしてくれるだろうとなる。

実に都合のいいことに、「宋書」には倭五王という倭王のいたことが書かれていた。応神からこっちを倭王だったことにしてしまえば、次の飛鳥がそれを受け継ぐように書けば問題ない。

そこで倭五王と飛鳥王朝の間に、鵜野や神功皇后の先祖としての息長氏直系の継体大王が差し込まれる。応神の血脈だけ受け継いで、気になる反駁勢力である尾張氏の立場も立てつつ、その血脈には消えてもらえばいい(安閑・宣化の死)。また倭五王の系統と飛鳥に関係がないことがばれたときのために、倭王の終末の王をふたりほど、それはそれはめちゃくちゃな乱暴者だとしておけばよい。中国にもそういう書き方をされて政権奪取された前例は山ほどあるから問題ない(雄略・武烈)。

手の込んだごまかしかたをさらに加えて、直系は何通りかあったことにしてもよい(ヲケ・オケ)。


さて、次に飛鳥の前の王家にもなにか悶着をつけて、転覆してもいい理由が必要(蘇我氏三代)。それがさらに前の、実に小うるさい大和の縄文勢力の王者を殺してしまうことにしよう(物部守屋)。そのためには物部氏という縄文人には、そもそも祖神(ニギハヤヒ)の時代から似たような帰順征服事件があったことにすればよかろう(長髄彦の反乱とニギハヤヒの帰順)。そしてシャーマンとして強力だった守屋=大物主さえ手名づける聖者には、あとから祟られないように、丁重に正式に二度の改葬をさせた上で、しかも滅ぼしたのは蘇我氏だけでなく、守屋に匹敵する聖者を作り出し、二者が殺したことにすれば「目には目を」「祟り神には祟り神」だし、雄略のように暴走したアンチ仏法者=破戒者=大物主=長髄彦=先住王家=スサノヲなので滅ぼしていいという理由付けにもなる。そしてその聖者(聖徳太子)にはしばらくあいだ、幽閉も必要だ=夢殿の中の包帯巻きにされた救世観音)。ほとぼりがさめたらこの人物をタイミングよく祭り上げて、国家の聖人にしてゆけば祟りもなくなるはずだ。


じゃあ、その聖人一家を蘇我氏が滅ぼしたことにもしてしまえば、いよいよ鎌足と天智の名声は高くなり、うまくいけば天智こそが倭王の高祖とすることも可能である。
ついでにクーデターでそれを倒した天武も後漢の高祖のような農民からのなりあがり者と思わせるような書き方をしよう。そうすればのちに天智血脈が復活しても違和感はあるまい。ならば結果的に持統女帝とは天智の娘にしてしまおう。その先祖には息長氏の媛を突っ込んで、大嘘の祟りも薄めてしまいたい・・・。



さて、問題は、それ以前の歴史だが、そんなものはもう誰も知りはしない。怖いのはこれまで消えていった前王家のいくつか(吉備王・筑紫王・葛城王など)と列島東西の先住民王族の恨みつらみである。それらすべてがかつては王家の外戚だったことにしてしまおう。さらに筑紫は間違いなく大昔の王家だったが、それも筑紫君という子孫を継体という、朝鮮の三尾氏の子供に殺させてしまえばいい。それで息長の系譜を長期的には気づかれないように系譜上から抹殺していくこととしよう。もともとなかった血脈なのだし、息長氏などはそもそも小さな商売人(中国秦始皇帝の子供・胡亥と同じ「貴貨おくべし」伝説の商人・呂不韋の前例利用)なのだから、文句は言えるはずもない。所詮、海人族などは利用するだけ利用すればよい。いや、それとも尾張や大分君や丹後・丹波なんかももう海部職を与えて名誉職にしてほめ殺しにしておいたらいいわい。いい記録を書いてやって、代わりに人質と神器をとりこにしておけば、当分は反発できまい。そうだ出雲に押し込めた縄文先住民の野蛮で遅れた時代の神々も、そうしよう。でかい神社で蓋をして、中には造化の神を置けば祟り封じになる。さらに真北にスサノヲ、真西には蘇我馬子でも置いて目には目をにしてしまえ。変わりに祭祀権限は縄文人にまかせてやろう。

おお、日向が残った。でかい大古墳群を作らせておけ。五世紀風に作らせろ。今ある墓地の一番いいところをこぼって、前の墓は撤去して五世紀風の前方後円墳を二つおけ。それが阿多の先祖の神武の女房とか、天孫だとかしておけば文句は言わん。


ああ、これでやまかましいやつらは全員封じ込めることができた。しかも藤原氏も万全だ。なに?紀氏や葛城・大伴・物部残党らをどうするか?

そうだな、紀氏・大伴は軍事氏族で祟らないから当分左遷して要職からはずせばいい。葛城は先祖をクローズアップしておこう。それが蘇我の先祖でもあり、紀氏の先祖であるとしてしまえば一石二鳥だ。

なに大和の国魂氏族たち?
王だったことにしておこう。そうさな、崇神とか名前もちゃんとさせてな。ヤマトタケル?尾張氏の伝説か。悲劇のヒーローにしてしまえばよい。さらにタケルは残虐な人殺しにしておくといい。尾張氏は出雲・熊襲に恨まれ、崇神~景行といった地方の王家の野蛮さが象徴できる。

さあて神武か・・・。
九州が先に大和に来たことにして置こう。あのうるさい中国系の連中の対面も保てるし、半島人は中国人には文句は言えないからな。先に来たのはうちだと言うようなら、秦部によって暗殺させればいい。神のたたりだったとしておけば全員黙るだろうさ。もちろんそれが秦の暗躍だと知れば、なおさら口をつぐむしかない。いろいろしゃべれば、今度はわが身が消させるからな。はっはっは。




といった具合で『日本書記』完成。不比等ばんばんざい。持統初代天皇となり、それ以前のことに口を挟むことはタブーとなるはずだ。聖徳太子はうちの娘と聖武さんが鎮魂する。それも持統さんと天智さんがやったことに一部しておけ。なにしろ、あの残虐ばか息子めは、勝手に百済を援護して大失敗したまぬけ王だから、相当立派に書き換えてしまわねばなるまい。墓も藤原京の真北に作り直して皇帝だったことにしてしまおう。なに?親父の墓?それはこの私が改葬し、毒殺とわからぬようにしておくから安心せよ。何?前の古墳の中身は?そんなものは勝手に作って入れておけ。そもそもあの死体は親父のものじゃないじゃないか。あれは百済王になりきれなかった豊璋ちゃんのむくろだ。父鎌足などいなかったことは内緒だ。そもそもこの不比等こそが鎌足だ。父親はただの北関東の田舎のシャーマンだったに過ぎない。だからうそのおわびに神宮を建てておけ。名誉ある大神宮だ。そこから春日山に祖神を分詞したことにすれば親父も浮かばれる。


あああ、そ、それから守屋大聖人の神社も建てて蝦夷どもににらみを利かせておくことも忘れるな。あの蚊のように小ざかしい異民族をたたく聖人だから香取と名づけよ。当家の神宮のほうは「かしま」にしよう。多氏に祭祀させろ。あれはわが同族だ。人が足りない?阿蘇から行かせよ。阿蘇氏でいい。変わりに阿蘇氏には多氏子孫も名乗ってよいと伝えよ。安麻呂たちが生きている?じゃあ、殺しちゃえ。砒素飲ませて徐々にな。そして墓誌を入れさせよう。ちゃんとした死だったことになるからな。多氏大宮司にはこう伝えよ。「今後、おまえたちの祖神は「みしりつひこ」と名前をつけよ。意味がわかるな?知っていたとて、何もしゃべるなという意味だ」

「豊前の秦氏に中臣・藤原の神社を冷水のそばに作らせよ。八幡神とせい」


豊前の畑冷泉のそばにできあがった神社の名はこういうものであった。



「嘯吹八幡神社 うそぶきはちまんじんじゃ」




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すぐ近くに草場邑、赤村がある。草場邑は中臣邑である。
そこに秦氏女性の墓がある。すべては秦氏が作り上げたでっちあげの古墳だろうが、
呰見(あざみ)大塚古墳といい、「あざむく」ための墓という名前がついている。
被葬者は女性で阿射弥勝布施売(あざみの・かつ・ふせめ)と推定できる。「勝」秦氏の村長の尊称ゆえ、彼女は秦人である。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1605207.html?m=lc


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赤村には天智天皇の伝承がある牛頭山(ぎゅうとうざん)がある。祭神・我勝吾勝天忍穂耳尊で「あかつ神社」という。よほど天智には勝った勝った、本当は勝ったと宣伝する必要があったのだろう。忍穂耳とは要するに天智の実態であり、「あかる」からここは赤村となり、それを演出したのは当然「勝」の氏族であった秦氏であり、そのフィクサーこそは竹内宿禰を祭らねばならなかった大和朝廷最初のドンであった藤原不比等であるに違いない。

八幡である意味は、東の蝦夷封じ・物部封じ・長髄彦=縄文人封じの鹿島・香取神宮同様に、南の蛮族隼人封じとともに、そこが古い筑紫から出た中臣氏を宣伝しておくための広告塔。実際に草葉の陰で泣いているのは葛城氏氏族であろう。隼人から出た葛城一族。それが中臣の裏切りの歴史であることは祭神武内宿禰がおかれたことで明白である。中臣も蘇我も実は葛城氏族の部民だったのかも知れない。だから天武も実はただの海人族だったかも知れないのである。そうなると、日本の天皇はやはり持統女帝が最初で、その前はただの部民であるという妄想すら生まれかねなくなる。

「仁科濫觴記」に、天武のことを 皇極太子とした記録がある。天智・天武が実はまったく存在せず、ほかの女帝のモデルになった可能性すらある。天武が劉邦から、持統が卑弥呼から創作された人物であるとすれば、天智・鎌足も当然、いなかったという推測は成り立ちえるのではないか?





とりあえずは


「これにて一件落着」



不比等の背中に花吹雪は舞い散るのだった・・・。

うそで固めた日本古代史のお話。
おあとがよろしいようで。











多氏名簿


多氏(おお・うじ)はある意味、秦氏よりも謎の多い氏族である。
どこから彼らが大和に来て、どうして大和で祭祀者として根付き、どうやって『古事記』を編纂することになったかということも、まだ充分にわかっていない。また、彼らの分派氏族がなぜ北関東や九州や信州などに拡大して行ったか、なぜ天武天皇の最重要な騎馬氏族となったかなど、史学では一向に明確にならないまま、ただ時が過ぎている。


多氏といえばまず太安万侶(おおの・やすまろ 養老7年7月6日(723年8月11日)には、奈良 時代の文官と記録)ということになる。そしてその父であろう美濃の多臣品治(おおの・おみ・ほむじ 7世紀後半の人)が知られている。安麻呂はもちろん『古事記』編纂で、品治は天武壬申の乱で、それぞれよく知られる存在である。

だが、この氏族のほかの人名をよく知る人はそうはいないだろう。




多氏は太氏、意富氏とも表記されて記録に登場する。読みは「おふ」つまり「おお」である。久安五年(1149)の「多神宮注進帳」によれば、安麻呂は表記を「多」から「太」に改めるとある。

しかし子孫はやがてまた「多」に改めている。宝亀元年(770)10月23日以後のことだ。

少なくとも天武壬申の乱の頃には父・品治の姓は「多」となっている。

祖神は神八井耳命(かむやいみみのみこと)である(『古事記』『日本書記』『新撰姓氏録』に共通)。安麻呂はその十五代であるとされている。また安麻呂から51代目が現在の多神社宮司の多忠記(おお・ただふみ)である。


これ以後の人名をこれから列挙するが、これ以前は神話的な伝承の名前しかわからない。古族多氏の子孫は、意富(おふ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部(さざきべ)臣、雀部造、小長谷造、都祁(つげ)直、伊余國造、科野国造、道奧石城(みちのくのいわき)國造、常道仲(ひたちのみちのなか)國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。



●『日本書記』景行12年九月
多武諸木(おおの・たけもろき)

●『古事記』神武天皇記条 
意富~至島田臣全19氏族
大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造科野国造道奥石城国造常道仲国造長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣

●「多氏系図」

第五代多臣祖 武諸木(たけもろき)
第十三代 宇気古(うけこ) 子=多品治 孫=太安万侶
多品治、子は太安万侶、道万侶、宅成、遠建治(をけじ)。
太安万侶、遠建治、國吉、徳足四代、太氏を名乗る。

●『日本書記』斉明七年(661)九月
中大兄皇子、長津宮において、百済義慈王の子余豊璋に織冠を授けて、多臣蒋敷(こもしき)の妹を妻とさせる。宇気古=蒋敷(和田萃説)


●天武十三年(683)
十二月十三日
多朝臣を賜る。

●続日本紀
多(太)朝臣犬養
宝亀元年10月23日以降、犬養は「太」から「多」朝臣に変更。


●日本後紀
多朝臣入鹿(いるか)、同じく人長(ひとなが)

●続日本後紀
多朝臣、
多朝臣清継(きよつぐ)=もと百済連清継

●日本三代実録
貞観元年~(859)多臣宿禰自然麻呂(じねんまろ)
貞観八年~(866)太朝臣貞長

●『新撰姓氏録』
多朝臣追加氏族として
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。 山城国皇別 茨田連 - 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。 摂津国皇別 豊島連 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。 摂津国皇別 松津首 - 豊島連同祖。 河内国皇別 茨田宿禰 - 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。 河内国皇別 下家連 - 彦八井耳命の後。 河内国皇別 江首 - 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。 河内国皇別 尾張部 - 彦八井耳命の後。







大和の飫富(多)郷に茨田(奈良県田原町満田)と秦庄(奈良県田原本町秦庄)の地名。また河内国茨田郡に幡多郷太秦。

熊本県人吉、球磨郡の草部吉見に彦八井耳墓所あり、九州の神八井耳後裔氏族とされるが、『新撰姓氏録』の記載ではのちに多氏に編入された氏族と見られている。

阿蘇氏・諏訪氏。これも後世、多氏同属と主張しているが不明。阿蘇氏の祖神は神八井耳の子孫であるので、最古からの同族とは考えにくい。

つまり古代氏族には、後世になって婚姻、あるいは氏族派遣によって取り込まれた地元氏族も同族とされた例が多く、それは政治的なものだった可能性が高い。たとえば、持統天皇が阿蘇に派遣した阿蘇氏・諏訪氏などは、本来、多氏直系だったかどうかは判断が難しく、『新撰姓氏録』追加後裔氏族などもそうであろうという。


和田あつむは、筑紫三家や大分、火などの国造も、もともとは中央多氏とは無関係であり、歴史的事件後に吸収され組み込まれた氏族と書いている。


多氏の神武直系母方子孫伝承自体が、そもそも大和祭祀者が九州起源であることを言えばそれに従うだろうという付会である可能性もある。

筆者は多氏を出雲意宇郡から吉備の氏族だったと見る。谷川健一の地名解釈では「あお」は「青」で、そもそも墓場地名である。墓所となる場所を姓名にする氏族はつまりは往古は祭祀者、シャーマン氏族だったということが言える。また色彩の「青」が往古は青色以外に黄色も指していて、それが硫黄などが酸化して生じる色彩に起源があるとも思え、青・黄・緑などの色は、生命力の色彩であることから、多氏はもともと祭祀者で間違いはなく、生命の再生をうながす意味を持った名前であると考える。

のちに太安万侶らが「太」の文字を使った背景には、同じ祭祀者渡来系氏族である秦氏などへの組み込みがあって、太秦に習って改名したかとも考えうる。だからといってでは多氏=秦氏と早計に決め付けるのは間違いであろう。当時の氏族が多くの氏族と同族となるのは政治的に当たり前であり、それは氏族を大きくするための手法である。同族化は時代を追ってなされるため、記録上、あとのものにどんどん追加氏族が増えてくる。それをもともとからの同族だとするのはおかしい。平安遷都前に婚姻関係を持った藤原氏と秦氏の関係を、では同族と主張する研究者がどれほどいるだろうか?そうしたやや乱暴な論調は、結局は氏族というものの本体を見極めるには邪魔になることのほうが多い。


古くから多氏筆頭とされてきた小子部氏と、あとから追加された茨田氏では、当然、「同族」としての度合いに差があるはずである。「ちいさこべ」が体の小さい、鉱山関係者であると判断できるけれど、茨田氏は堤を築く土木氏族である。


多氏が多神社の祭祀者として登場することと、岐阜の騎馬隊軍人だった多品治とがどこでどう結びつくかは重要であるし、その多氏がやがて九州に派遣され日下部などの靫負軍団とどう結びついたのか、それが九州の装飾古墳とどう関与するのかなどなどは、今後も不明のままである。



多くの後世の同族化譚や、派遣によった家臣団への編入の歴史をまずはそぎ落としていかねば多氏の実態は見えてこないだろう。婚姻によって同族となったからそれらがみな同じ仲間だと考えるよりも、逆に、中核の実態へと細分化して区分けする科学的分析がなされるべきであり、それはそのほうが随分と大変な作業である。安易な着想でずべてが同じだったと考えることに、まったく氏族分析の意味はない。

むしろ細かく区別して、注進である多氏にのみ着目してゆくべきである。


氏族分析を科学へ発展させるには、そうした細分化しかありえないし、そもそも科学とは細分化する学問なのである。十把ひとからげにくくってしまうのは確かにわかりやすいし、しろうと受けするだろうが、それではミステリーでしかなくなる。ミステリーにしてしまえば、なんでも空想が成り立ってしまう。客観性や多くの苦労をいとう歴史小説のやり方でしかない。


多氏は今後も多くの伝承をそぎ落とし、顕微鏡的にインナートリップすべき氏族である。





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古風土記 成立1300年


かつて史学では、風土記は「低い山」と言われていて、研究するものが少なかった。では「高い山」とは何かと言えば『万葉集』である。これは文学界でも同じで、風土記では教授になれないから万葉集をやりなさいと権威学者たちは学生に勧めてきたのである。しかし、それでは歴史は文学かということになってしまう。日本では歴史学を文学部に置く風習があるが、やればやるほど 感じるのは、史学は科学であり、理化学的な知識が必要なのだという痛切な思いである。

いや、そもそも日本の文学というものが、はなから主観的で、まったく分析科学ではありえないので、はっきり言って大学に文学科などあっても意味がないはずなのだ。それは哲学科や宗教学科で扱うほうが本来、いいかも知れない。文学部でも言語学などは科学的であるが、そもそも文学などという学問(西欧的近代分化科学の一環として)が大学には必要がないものだとすら思う。自分が文学部の国文科出身だから、なおさらそう思うのだ。

風土記を低く見て研究対象外にしてきた文学者や歴史学者は、いったい、日本の文学部を科学に発展させる努力を怠ってきた怠け者だとすら感じる。


もっと目から鱗が落ちることを申すと、

国文学や国史学が風土記だけでなく六国史の中のあらゆる地誌として重要な記録に、充分に目をむけ、さらにそれを受けた日本の地理学、地震学などの科学部門がちゃんとその貴重な記録を解析し、日本政府にそれなりの忠告をしてきていたなら、先の大震災と津波におけるさまざまの人災、原発事故などもすべて起こらなかった可能性が非常に高い。つまり日本の大学の科学すべてが、文科系権威の怠慢に始まって引き起こされ、理科系権威たちもまた、日本でしかあり得ない話だが、文科系権威の明治時代から間違ってきた西欧科学=大学という基本の基本をそのまま継承してきており、教育委員会などの古い権威主義と体制の中の文科系>理科系の考え方に、多くの理系学舎も頭が上がらなかったがために、このような世界に大恥をかくことになる大災害を引き起こしたのだ、とすら言えるのではなかろうか?

大学は、一から西欧分化科学を見直し、すべての大学体制をゼロからはじめてしかるべき大犯罪の張本人である。それをマスコミはもっととりあげておくべきだった。
日本の対外的国策や対内的政策の駄目さの根底に、教育そのものの西欧からの受け取り間違いがあることを認識しておきたい。





風土記とは
「広く地誌一般をさすこともあるが,文学史では和銅6 (713) 年の官命に基づいて編纂された各国別のいわゆる「古風土記」をいう。
内容として,郡郷の名に好字をつけること,郡内の産物を具体的に記すこと,土地の沃瘠 (よくせき) ,山川原野の名の由来,古老相伝の旧聞異事を記すことの5点が要求されている」https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98-125439#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

「風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことをさすが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす[1]。正式名称ではなく、ほかの風土記と区別して「古風土記」ともいう。律令制度の各国別で記されたと考えられ、幾つかが写本として残されている。」WIKI風土記

※古風土記以外に、時代によって編纂された新風土記もあるが、ここでは扱わない。


『続日本紀』にその条件がある。

  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

当初、提出されたものは風土記とは呼んでおらず、資料としての「解 げ」となっていた。それを編集して書物にしたものを初めて風土記という。

「写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る[4]。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在する。」Wiki風土記


各国の古風土記と逸文のある地域
橋本雅之編『風土記研究の最前線 風土記編纂発令1300年』より
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まったく逸文にすら出てこない地域ある。
その地域の人々は、なぜそうなのかも考えてみては?
偶然、火事で消えたのでしょうか?
それとも歴史的・政治的理由があって消されたのでしょうか?
あるいは古代にとって、意味のない場所だったのでしょうか?
気になりませんか?気にしてください。
それが古代史の入り口です。





1 九州風土記
九州では「豊後国風土記」と「肥前国風土記」のふたつの古風土記が残っているが、これ以外に豊前や筑前や筑後風土記の逸文が、各記録には引用掲載がある。これらをひっくるめて甲類とし、それ以外に別途編纂されている「筑紫風土記」逸文を集めたものを乙類に分類しており、九州ではこ二種類の風土記が別々に作られたと考えられている。つまり中央が提出させた国風土記以外に、地元用?の風土記が並立して作られた。

ひっくるめて「九州風土記」というが、おしなべてどれも、『日本書記』内容にあまり矛盾のない、準じた内容でできあがっている。


風土記と『日本書記』の関係には諸説ある。

1 風土記が『日本書記』に影響した
2 『日本書記』が風土記に影響した
3 もっと古い原資料があり、それが両者に影響した

の大きく三説が存在する。
小島憲之は、九州の場合、「『日本書記』の文章を参考にした甲類を基として、乙類が生まれた。」とする。
関和彦・井上通泰は1説であるが、井上が「甲類本は往々日本紀に引用されて、乙類はさらにその日本紀の影響を受けている」と述べ、関は「甲乙両風土記が『日本書記』に影響を与えた」とする。

言えることは、甲類本は『日本書記』の影響を受けつつも、独自の立場を明確にする場面が多く、北部九州が概して、中央のいいなりになって政治的・国家信仰の統一的側面に素直に準じていなかった可能性を示唆していると言える。そのことについて橋本雅之は、風土記が地誌であり、『日本書記』が史書であるという立場の違いが大きいとするが、筆者はそれだけではなく、敗者としての北部九州が、中央によって完全に掌握され、支配下に置かれ、海部や国造の一角に放置されることをよしとしない反駁心が筑紫旧勢力にあったためではないかと思え、それは出雲などともよく似たところがあるとも見えるのである。


2 『出雲国風土記』
記紀国譲り神話における天孫から送り込まれた天菩比(あめのほひ)神が、風土記地名説話にある屋代郷楯縫(たてぬい)記事にある「天夫比(あめのふひ)と布都怒志(ふつぬし)」の神が云々について、天菩比=天夫比であり、経津主神=布都怒志であると考えられている。 アメノホヒとは一見、中央支配体制側の神に見えるが、事実は出雲出身者であって、しかも縄文系氏族であると筆者は見る。またフツヌシは物部氏の神剣の御霊の名前であるから、これはやはり縄文系物部氏によって在地系アメノホヒを監視させた形式かとも見え、その原型を、記紀「大物主神話」に求めることができそうである。国譲りで、オオクニヌシは同時に大和大物主がその幸魂として登場するわけで、両者はちょうどホヒとフツヌシの相互関係にリンクしている。また大和で大物主は神やらいされ、それを鎮魂するものとして大三輪氏の祖であるオオタタネコがこれを勤めることになっているが、これもまた二者によるけん制関係を意味している。

さらに、天照国照彦天火明櫛玉饒速日の帰順では、ニギハヤヒが長髄彦を抑えている王であるに対して、そこへ九州南部から神武がやってきて、一方だけを殺させてニギハヤヒを天孫と認めつつも帰順させる。このニギハヤヒ=物部=大物主と考えると、これらは目には目をの自主規制を喚起させる構造になっている共通の話だと考えることが可能である。

つまり出雲には、考古学的にも日本海の東西から民族が交流しあう、そういう「海の八街」的な場所であり、当然、遺跡には東北縄文、九州弥生の双方が同時に存在し、共栄圏であっただろうと思え、それをさらに第三者として神武的な勢力が別途畿内で国家を成立させると、これを支配にやってくる話であると見て取れるのである。


神武を、九州北西部にある中国系遺伝子や、甕棺文化、船文化の継承者と考えると、こうした複数の西から東への移住者集団が何度か動いて、そのたびに民族のピストン運動が起こったが、大陸とは違い、さらに東の海の先に島も大陸もなかった日本では、しかたなく帰順や懐柔によって和合する共立国家しかなかったことが見えてくるのである。



つまり出雲は支配されたというよりも、中央を助けてやるしかなかった、というなんとも白黒のはっきりしない日本文化の代表地と筆者は見る。



3 『常陸国風土記』
最も面白いのは地名の音読み、訓読みの違いが、中央と非常に落差があることである。それはこの風土記が漢文的な表現方法を随所に使うことからも、北関東がどうやら漢字表現が得意な人々によって開かれた地域であることを思わせる。
つまり半島系渡来人たちが多いというべきであろうか。
彼らは倭訓にまだなじまずに、地名などを漢文風に表現している。

「居穴」とか「流東」地名がそれである。

「昔、国巣には山の佐伯、野の佐伯がいて、あまねく土で窟(むろ)を作って常に穴に住んでいた」ゆえにここを「あない」と言うというわけである。この「穴に居る」のところが原文では「居穴」となっており、これは返り点を入れて「穴に居る」と読ませている。そういう箇所が二箇所ある。

「あない」地名を言う場合、そこは「穴居」で充分通じる日本語表現であるのを、わざわざ返り点を入れる漢文にしてある。

北関東がそもそもは東北縄文人の世界への入り口・・・つまりのちの国名である道奥前国=みちのくのくちのくに=常陸(茨城県)であることから、前から縄文人蝦夷の国だったところへ、日本海から半島人が勝手に入り込み、やがて合体した。それが大和の支配を受ける前には、東国尾張などの人々によって仲間になってゆく。すると中央にとっては非常にやっかいなことになりかねない。そこで中央の渡来系氏族を目には目をで投入し、懐柔したい。ところが送り込まれた渡来系たちは在地の縄文系・渡来系共同体になじんでしまい、効果がない。そこで漢字がとくいな彼らに、大和言葉を教え込んで、まず文化からこっちに親しみをもたせよう・・。そういう流れがどうやらあったらしい。それで万葉集も東歌をさかんにとりあげ、あちらでもやたらに万葉仮名使用法を練習していたようだ。木簡にそれが表れている。





このように風土記から見える歴史は大変多い。
これを文学としてみようとするから、「万葉集より価値は下」になってきた。しかし文学ではなく、ちゃんと地誌、歴史としてみたならば、実に多くの意義が見えてくる。


なんとなれば、万葉集を高みに仰いできた文学者・歴史学者ですら、地名の「末の松山」の「波こさじ」の意味がまったく理解できなかったのである。それがあの大津波によってようやく理解できた。なんと1000年間もただの松尾芭蕉の句碑のおある景勝地高台とされていただけの末の松山の丘の上の、一歩手前で今回の津波は止まったのである。つまり、「末の松山波越さぬ」丘であることに、やっと気づかされたのである。そしてもしそれが理解できていたならば、貞観の大津波記事はもっと文学者や歴史学者によって、地震学の資料として訴えることもできていた。ということは宮城の松島あたりの人々は避難場所を末の松山よりも上に設定し、意識して暮らせていたわけになるのである。


文学や歴史が人を殺しも、生かしもする、などといったい誰がこれまで考えたことだろう?学者たちはどれもこれもが「へえ、面白い地名だ。恋愛との関連性って?」ばかり考えてきた。貴族の遊びでしかなかった、いわば恋愛話を歌にしたものばかりが万葉集で、それこそが日本最高の文学なのだと考えてきた。まるで昭和歌謡が日本最高の歌曲だといってきたようなものである。ほれたはれたのノウハウや悲喜劇など、いったいどこが役に立つのか、である。


文系も理系も、いったいなにをやってきたのだろう?
特に風土記をほったらかしてきた史学の罪は、今回重い。







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天智天皇紀の虚構


『日本書記』天智天皇紀は虚構に満ちている。

「これらは天智紀が基本的に政府にたくわえられた記録類をもとに執筆されたことを示すといえよう。」「(編集の)最終段階において推敲作業を怠らなければ、このような不体裁は避けられたはずである」(遠山美都男『天武天皇の企て』2014)

遠山が指摘する「不体裁」とは、天智紀に数箇所見える記事の重複である。
具体的にはまた別記するが、天智紀には実録と思える記事を、それとは異質な作文でつないだ部分が確かに存在する。

「天皇、天命将及るか(すめらみこと、みいのちをはりはむとする)」

この「天命」はまさに天智の諡号である。天命と言う言葉がいかに中国の影響下に天智紀が書かれたかを、くしくも証明する字句だと言ってかまうまい。

天命とは宇宙(一宇)支配者・天帝の命令のことである。中国では皇帝による地上支配は天命によっているとされてきた。天智紀はまさにその思想で描き出されている。つまり、あきらかに天智=皇帝、という恣意的書き方をされているのである。

天命が下って王権を手にすることを「易姓革命」という。『日本書記』は壬申の乱と言う天命・易姓革命を描きつつも、実は天武よりも天智のほうを天命に従った王者としていると言えよう。


天智紀は『日本書記』分類において雄略以後のα群に含まれる。編纂は7世紀であるから、最初からこれは予定されていた記事である。


この記事については、後日、もう一度ちゃんんと記事にするのでこれにて。

虚構はすぐにあばかれるだろう。




天智天皇紀の虚構 『日本書記』は偽書である



天智天皇紀の虚構
あきらかな重複記事の事例

●四年二月是月 「百済の国の官位の階級をかんがむ。なお、佐平(役職)の福信の功をもって鬼室集斯に小錦下を授けた。」
●十年正月「小錦下を以て鬼室集斯(学職頭)に授けた。」

●四年八月「城を長門国に築かしむ」
●九年二月「又、長門城一つ、筑紫城を二つを築く」

重複の上に杜撰な天智の任命
●七年七月「栗前王を以て筑紫率に拝す」
●八年一月九日「蘇我赤兄臣、筑紫率に任じられる」
●十年六月是月「栗隈王を以て筑紫率とす」
こんなに目まぐるしく率が入れ替わるはずがない。

●三年二月丁亥「天皇、大皇弟(大海人)に命じて冠位の階名を増し換ふる・・・」
●十年正月「東宮太皇弟奉宣して冠位・法度のことを施行ひたまふ。

●八年是歳「大唐郭務悰ら二千余人来朝」
●十年十一月癸卯「「郭務悰ら六百余人の云々と合計2000人で対馬にやってきた」と筑紫率が伝えてきた。」




これらはすでに存在した過去記事の単なる重複挿入とは言うには、あまりに箇所が多すぎる。

では複数編集者による手違いか?それもありえない。そもそ『日本書記』は元明天皇あたりの時期に完成するわけだが、わずか100年ほど前の記憶が、まさか消えていたはずもないのだから、機械的に既存記事を貼り付けていってこうなったなどいくら編集者がまぬけでも、また官庁的な張り合わせでも、起こるはずがない。つまり天智紀は推敲もなされていないような杜撰な記事でつぎはぎされているのである。








『日本書記』天智天皇紀鎌足の死去
●霹靂於藤原内大臣家(六六九)十月乙卯 冬十月丙午朔乙卯
鎌足宅に落雷あり

●天皇幸内大臣家 親問所患
=天智天皇鎌足を親しく見舞った。

●而憂悴極甚 詔曰 天道輔仁 何乃虚説 積善余慶 猶是無徴 若有所須 便可以聞 対曰、臣既不敏 当復何言 但其葬事 宜用軽易
=鎌足がこれに答えて「臣は全く不敏でいまさら何を言えようか。生きて軍国に何のつとめもしなかった。死んでさらに何を重ねてなやませましょうや」といった。


●生則無務於軍国 死則何敢重難 云 時賢聞而歎曰 此之一言 窃比於往哲之善言矣 大樹将軍之辞賞 詎可]可同年而語哉 《天智天皇八年(六六九)十月庚申 天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家 授大織冠与大臣位 仍賜姓為藤原氏 自此以後 通曰藤原内大臣 (六六九)十月辛酉 藤原内大臣 〈日本世記曰内大臣春秋五十薨于私第廼殯於山南〉「列伝」【金庾信傳原文】是文武大王十三年
=十六日、藤原内大臣が薨じた。天皇は大織冠を与え大臣位を授け藤原姓を許可した。 
(「日本世記」曰く、「内大臣は、年50歳で「私第に薨じた。」」)
山に埋葬した。遷して山(科)の南で一殯した。




いっぽう「列伝」はこうなっている

『列伝』金庾信傳 金庾信死去
●春妖星見地震 大王憂之 庾信進曰 今之變異
=春先に妖星が見えて地震があった。

●厄在老臣 非國家之災也 王請勿憂 大王曰 若此則寡人所甚憂也 命有司祈禳之 夏六月人或見戎服持兵器數十人 自庾信宅泣而去 俄而不見 庾信聞之曰 此必陰兵護我者見我福盡 是以去 吾其死矣 後旬有餘日
=守護兵が去った。福が尽きたと言った。

●寢疾大王親臨慰問 庾信曰 臣願竭股肱之力 以奉元首 而犬馬之疾至此 今日之後 不復再見龍顔矣 大王泣曰 寡人之有卿 如魚有水 若有不可諱 其如人民何 其如社稷何 庾信對曰
=庾信が病の床に伏したので大王が親しく慰問した。

●臣愚不肖 豈能有益於國家 所幸者 明上用之不疑 任之勿貳 故得攀附王明 成尺寸功 三韓爲一家 百姓無二心 雖未至太平 亦可謂小康 臣觀自古繼體之君 靡不有初 鮮克有終累世功績 一朝隳廢 甚可痛也 伏願殿下知成功之不易 念守成之亦難 疏遠小人 親近君子使朝廷和於上 民物安於下 禍亂不作 基業無窮 則臣死且無憾 王泣而受之
王の慰問に答えて「わたしは愚かで不肖なものです。どうして国家に利益をもたらすことができましょう。」と言った。

●至秋七月一日 薨于私第之正寢 享年七十有九〈略〉●出葬于金山原 
=秋七月一日になって、「私第の表御殿で薨去した。」(私第=私邸)
享年は、七九歳であった。金山原に埋葬した。




ここはあきらかに文脈、記事内容のすべてが「列伝」金死亡記事をそっくりそのまま名前だけ置き換えて作文してある。







以上のことから言えることは、天智紀の編集者には正史を書こうという情熱がまったく感じられず、すべてが捏造だったと判断できる。またこのあと、天智自身も死去するわけであるが、そこへ至る「前兆」部分の書き方は、そのまま中国史書の前例をそのまま使っており、たとえば「八つの鼎が鳴動した」「天皇、天命をはりなむとすか」「瑞兆があらわれた」「逆に貴兄動物があらわれた」などが目立つ。これらも明白にこの文章が全部、コラージュであり、事実ではないからこその熱意のなさしか見えてこない。

そしてついに、まさに中国易姓革命の用語「下克上」が登場し、劉邦にそっくりの弟王・天武が登場する。あきらかに「天智とは異質の王」が革命を起こそうとしてこれもまた中国の「天命」を謳いあげるのである。




つまり・・・
これは中国や朝鮮の天命王の即位や死去にそって、いもしなかった人物たちを描いた虚構の記事であると言ってもなんらさしつかえはない。

実際には、天智が白村江で敗北があったとするならばだが、その時点ですでに天智は消されていたのだとも考えうるだろう。もちろん鎌足(鎌子)などという人物も作り出された人物ということすら可能である。とにかく『日本書記』のほかの記事から考えても、『日本書記』は偽書であると言える。すべての記事が八世紀になって捏造されたことばかりである。『古事記』と合致する部分をのぞいて、それは全編にわたっていると考えていたほうがよい。

前提となる「帝紀」「国紀」なども『日本書記』があった、火事を逃れたと書いてあるだけで、現物はなく、信用できない。そうなってくるとそもそも『古事記』序文における太安万侶が稗田阿礼から云々もまたとても信用しがたくなってくる。

天武の勅命であやまった歴史を正すべき史書であるはずの記紀には、まったくそれに従って編纂されたような痕跡すら垣間見えない。



少なくとも、このような杜撰で推敲すらされていない「小説」を筆者は正史・国史として認めることはできない。たとえ、若干の事実が含まれているとしても、あきらかな改変・捏造が多すぎる書物であることに間違いはない。こんなものを利用されて起きた先の大戦など、今後、絶対に起きてはならない。日本人はもと自分たちの過去について知識を持たされるべきである。そのためにさらに今後、記紀は子供たちに正しく伝えられねばならず、真偽を問われねばならない。こんあいい加減な史書を正史などとされていては、日本人として非常に迷惑である。






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王権転覆


この世界中に、かつて王権が一度も交代しなかった国家があるのだろうか?
そういう素朴な疑問をあなたは持ったことはないだろうか?

政権がひとつしかなく、それが2000年近くも一度も転覆も交代もしなかった国家・・・それは日本だけであろう(国家体制が整っていた国としては)。

『日本書記』が言うのはまずもって天皇家は万世一系である、そういうイデオロギーだけであるので、交代劇がなかったように描かれているだけである。実際には、都合の悪いところは書かないですませる、それもまた皇国史のやり方であった。少なくとも、第二次大戦中の史観はそれで貫かれたという前例があり、その史観をこれまた貫く思想こそが皇国史観であったわけである。

明治時代に天皇を担ぎ上げたときから、日本の史観は敗戦までずっと『日本書記』皇国史観で「創造」されてきた。




『日本書記』の歴史記事の中で、そうしたぶれない思想が何度か、ぶれている気配のある部分がある。最初は応神天皇登場のところ、次にその応神の五世孫という継体が登場するところ、まずはその二箇所に、編集者自身の疑問、疑念があったことは垣間見えている。


そもそも天武天皇の意思によって『古事記』が編纂されたが、太安万侶は序文において、これはそれまでの誤った日本史部分を糾し、正しい日本史を伝え、記録しておこうという天武天皇の意思によって作られたのだ、と表明している。

ところがその後新たに漢文で・・・つまり中国を意識した、東アジアの中の日本の歴史書として編纂された『日本書記』の内容は、「一書に曰く」が乱用され、まったく天武の言った唯一絶対の日本史に反した構造で書かれている。さまざまな異説をそのまま「あるいは言う」として並列してしまっている。これではどれが正史だったのかはなからごまかしていることになる。

学者たちは当時の大和政権は脆弱で、有力豪族の強い意見は無視できなかったとして、これを追求せず、仕方がないとでも言いたげに放り出してきた。それでどこが正史なのだろう?



王権は日本でも交代したのだ。何度も。それが世界史から見ても当然の姿ではないのか?あなたはそうは思われないだろうか?筆者は常々そう思っている。





『日本書記』の記述に従うならば、まず奈良という地域には物部という豪族の王家が存在し、それが神武によって帰順させられて最初の王朝ができ、それを崇神が受け継ぎ、であるのに再び物部氏の古い神である大物主を三輪山に鎮撫させ、次に新羅を征伐して帰国した神功皇后という女性が、夫を九州で神やらいして、子供を生んで、それが応神となる。その王家はかろうじて神功皇后という「天皇のきさきの子供」であるから正嫡王家だとされているだけで、実は応神は父王の実の子ではないかも知れない書き方をされている。まずはここまでは創作された歴史とみてまったくかまわない部分である。つまりすでに8世紀には忘れられてしまった過去=うそである。

なぜ忘れ去られているのか?文字がなかったからである。文字は一部渡来人によってもたらされ、一部使えたものはいたけれど、それを使うのは体外的な朝貢時にしか使われなかった。あったけれどそれを使って自分たちの歴史を記録しようとすらしていない。なんとなれば古墳に墓誌すらなく、代わりに墓守が置かれた。つまりこれは口伝しかなかったという意味である。

口伝は長い歴史の中では、必ず伝えるものによって改変されてしまうものである。そういう口伝された氏族の記録は記紀以降、いくつか残されはしたが、そもそも口伝の時代に相当変化しており、しかも氏族のプライドを反映しているため、ずべてを信用することはできない。

『古事記』そのものが口伝で成り立っている。多氏と言う氏族の子孫である太安万侶がそれを口述筆記したのがおおまかに言えば『古事記』である。するとこれは「物語」でしかなかったことになる。


『日本書記』はそれをさらに資料を集めて改変し、漢文で、つまり口語体ではなく文語体で書き、最初は雄略天皇紀から書き出された(神話部分は除き)。それを書いたのは中国人書記である。確かな漢文で書かれているからである。このことはすでに過去分析済み。


神武から仲哀まではあとから付け足されている。日本人が書いている。



ところが中国人が書いたはずの部分に、わずかに漢文の誤った部分もある。そこはおそらくあとからの改変である。それが継体天皇紀の仲にはあり、そればかりではないが、継体が応神という、実在したかどうかわからない大王の五世孫であって、近江から招聘されたのだとなっている。王統に子供がなくなったからだというのである。ひとりで何人もの后や采女を持っているはずの武烈王に子供がひとりもいなかったと。
そんなこともありえない。いなくても、王統には武烈の兄弟や、親戚があるわけで、なのによりによって一番縁の遠そうな他国の人物が選ばれた。

ここでなぜ前もって神功皇后という女性がいたことにされたかの意味にすぐ気づくわけである。彼女は近江の息長氏の人だからである。だから継体も息長氏の血脈なので「いいだろう?」という図式になっているわけだ。しかも息長氏と葛城氏から皇后は出たとなっている。本当かどうかもわからない。

葛城氏は実在の氏族である。葛城にちゃんと古墳がいくつもある。だからあとの蘇我氏もここから出るとしても不都合はない。しかし、葛城氏は神功皇后の参謀であった武内宿禰の氏族なのだ。

物部氏も葛城氏も史上、二度以上の消され方をされた氏族である。しかも壬申の乱では葛城系の紀氏・許勢氏・蘇我氏らは朝敵にされた大友皇子の左右大臣とされている。あまりにもできすぎていて、当然、天武が勝利すると彼らはまたまた排斥。こんんなに排除、排斥を繰り返されるのは熊襲くらいのものである。つまりこういう記事はみな、史実とは言えない。ちょうど刑務所帰りが何度も何度も罪を犯す時代劇と同じ手口である。前例が何度もあとでも利用されるのは、要するに、最初からそんな事実がなかった可能性が高いものだ。


応神・継体を前例として、『日本書記』はまずもって王朝交代はあってもおかしくないのだよと匂わせている。なぜか?あったからである。あったけれども、それでは対外的に体裁が悪いから変えますよ、変えましたよと、『日本書記』は「一書」挿入によって他の氏族に強引に納得させようとしているのではないのか?


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壬申の乱関係図
『日本と世界の歴史』(学研 1970)より


壬申の乱
もしこれがなかったとする。
なぜ天武は近江東部で軍を召集するのか?
なぜ舞台の大半が琵琶湖の東側なのかが気になりはすまいか?
また尾張に援助を求めたのなら、なぜ尾張地域には痕跡がないのか?
そもそもそう書かれたこと自体、氏族たちの持っていた古い信仰や神を、ある一方向へ向けさせ、そのために人質として彼らの神器すら取り込もうとしたということではないのか?

天武が大海人皇子で、岐阜の海人族多氏によって育てられ、海部のある尾張や大分の海人族に助けを求めたからだ・・・それがこれまでの常識だった。

しかし琵琶湖東岸といえば息長氏の本拠地。
この息長という不明な集団を取り込んでしまえば、壬申の乱の書き方には非常に都合がよくなりはしないか?なかったものをあったとするためのまずは地盤固め、ロケーションハンティングに、在地実在豪族は実に邪魔である。口に戸板は立てられない。必ずうそはばれる。では息長を取り込んでしまえばいい。祖先が王家の外戚だったことにすれば不満は出ないはずだ。


このようにして応神王朝、継体王朝は創作された。




乙巳の変。
これもなかった。
蘇我本家氏には実は実態が不明な部分が多すぎる。実体がない。
万葉集には和歌のひとつも、蘇我氏は出てこない。
蘇我倉石川氏も同じく。
葛城氏枝族だったという証拠すらない。
古墳は巨大なのに、盛り土は全部流出している。あり得ないのである。そんな巨大な古墳としては。最初から版築工法がおざりに作られたとしか思えない、あるいは最初から石室しか作られなかったかも知れない。しかも古い墓を全部埋めて、その上に作られた。

蘇我氏は大王家である。
物部氏も葛城氏もかつての大王家である。
それが交代した。転覆されて交代したのである。


飛鳥王権・・・。
欽明からの流れ・・・。
なかっとは言わない。しかしそれは蘇我王朝である。


それを転覆したかった氏族がいくつかあった。
それが中臣氏と天皇氏=天智~持統天皇である。
天武は天智が蘇我氏から簒奪した王権を、天智を殺すことで奪い返した王権であり、それは海人王権である。

そして3世紀吉備・4世紀物部・5世紀葛城と交代してきて蘇我氏が奪った政権を最後に奪ったのが高天原廣野姫天皇持統女帝なのである。



彼女の「高天原」とはほかならぬ「天照大神」のいる世界のことを示している。そう諡ったのは藤原氏である。つまり最も王権を欲していた氏族は藤原氏だったといえる。

物部守屋を悪者にし、殺したあとは四天王寺へ、蘇我三代を捏造し抹消し、しかしこれは祭ることもなく。



ここに中臣金という人物がいたことを想いだす。
鎌足の父だと思われる人物。

次回、金について。





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古代日本史は絵に描いた餅をひっぱって広げたもの


せいぜい7世紀までほどしかなかった記憶を用いて餅を描き、1000年以上分も思い切り引き伸ばしてこしらえたのが日本古代史であろう。


だから、読んでいくとこれはどこかに似たような・・・という記事の繰り返しに気がつく。人物と名前が変わっただけで、同じことを何度も書いてある。年寄りの繰言か、アメリカ漫画のスプラッター技法のように。

たとえば多氏。
実在の名前は岐阜の多品治以降だけ。
それ以前は地方国造が子孫だったと自称しているという記事のみ。
ただ神八井耳という人物から出たとだけあり、そのもとは大和の「おう」という場所だとしているだけ。そのわけは壬申の乱で活躍してもらうためであり、対外的には天武の律令体制で真人となって子孫が『古事記』を書く、そのためにだけ大層に描かれ、それが全国の反発した氏族を祭祀で取り込んでふくれあがる。

中国の『史記』よりも『漢書』を重んじ、そこから話を作り上げる。
だから朝鮮の史書と齟齬が多い。
だから朝鮮の史書が少ない理由は?と逆に気づかされる。

逆に逆に考えてゆくと見えてくる。

持統女帝=アマテラス国家神の必要性から逆算してある。

そうだ、『日本書記』はそこから遡るように作られている。そう考えるとこの奇妙な史書が、当時、必要だったことが見えてくる。そしてその必要は、誰が一番必要だったかにも気づかされる。

要するに動機である。
物的証拠はなにもない。
だから書かれた直後からすぐに刷り込み作業が始まっている。『日本書記』講読解説の会が何度も行われた。



刷り込まれたのである。
持統・・・女帝の整合性、藤原氏宰相の妥当性・・・



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チェロキー族の早期帰順について


日本の古代史の隼人や蝦夷の帰順について、知っておくほうがいい事例として北米のチェロキー族のことは知っていたほうがいい。




チェロキー族はネイティブアメリカン、つまりインディアンの中で最も早くキリスト教に同化し、自分たちが新参者のプロテスタントイギリス人たちに敵対する意思はないと示した種族だったが、そんな彼らでも、欧州人からの差別と誤解にさらせた。

そういう歴史は、日本では阿多隼人にたいへんよく似ている。


歴史には、悲しいかな、そういう共通性で見て取れる「帰順」の持つ損益の部分がある。


そういう人間の悲しさ、時間のかかることは理解しておいたほうがいい。






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壬申の乱戦場遺跡はない 初代天皇は持統 合言葉は金だった


●壬申の乱までのあらまし

乙巳の変で蘇我氏本宗家を滅ぼした中大兄皇子はすぐには即位していない。即位したのは伯父の軽皇子(孝徳大王)であった。孝徳は、蘇我馬子らが形を作ったそれまでの倭国にはなかったグローバルな対外交易を簒奪するかっこうでこれを継承し、河内湖に突き出した上町台地に難波宮を構える(守屋を祭った荒墓の四天王寺もこの台地上にある。NHK敷地そば。谷町、平野区など懐かしい台地)。

しかし中大兄はその方針に反発し、叔母の元皇極女帝とともに近江に逼塞し大津に近江宮を建てて引きこもる。中大兄としては白村江(はくすきのえ)での大敗北という前代未聞の大失策を犯した経験上、大王として認められるには相当なリスクをしょっていた。それを援助するのは中臣鎌足ら中臣氏と、中大兄自身が援助してきた亡命百済王家しかない状態。つまり鎌足とは=余豊璋であったと考えられる。いずれにせよ近江逼塞のこの段階では、中大兄はまだ天皇でも大王でもなかったはずである。畿内での彼の評価は最悪だっただろう。

しかし孝徳をほったらかしたショックで、伯父大王が死ぬと、すぐに天智天皇として即位。

そして倭京=飛鳥にあった今の法隆寺阿弥陀三尊像伽藍にあった救世観音像を台座から夢殿へ隠し、にわかに聖徳太子という人物を国家作りの聖人としはじめる作業に入った。聖徳太子(実は物部守屋のこと?)によってかつて中国と台頭に渡り合えた先人がいて(つまりそれは蘇我馬子と厩戸のことだが) 、自分は実際にはその直系であって、白村江でも勝った勝ったと「大本営発表」し始めた(いやそれはもちろん『日本書記』成立の時代の藤原不比等がそう記事を改変していったのだ)。

勝った勝った、自分こそは天孫の直系である。天孫の親だった正勝吾勝天忍穂耳とはおれのことだと大発表。自分は天命を受けて大王になる人間であると言い出す。これによって過去の失策をなかったことにしてしまおうというのである。

それをバックアップするのが中臣金と鎌足(豊璋)である。金はその手柄もあってやがて天智の息子の大臣となれた。唐が攻めてくるぞと豪族たちに吹聴したのだろう。おかげでばらばらだった国は聖徳太子のご威光を徐々に信じ始め、大和はひとつになってゆく。しかし不満分子はそれを信じず、別途、天智とはまったく縁のない皇族である大海人皇子を担ぎ上げようとしていた。大海人は美濃の多品治によって軍人として育て上げられていた。多氏湯沐(ゆえ)邑とこれをいうが、この湯沐という言葉は『後漢書』にある後漢高祖・劉邦が出身地沛県を湯沐邑と呼んだ、という古事の受け売りである。大海人は名のとおり、海人族尾張海部=多氏によって養育された海人の子孫であったのである。


660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、

天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。いわゆる「虎を野に放った」のである。

12月3日(672年1月7日)近江宮において狩りに出たまま遭難し行方知れず(暗殺死)されていた天智天皇が、46歳で崩御と公表された。大友皇子は弘文天皇に即位。
天武天皇元年6月24日(7月24日)に大海人ついに吉野宮滝宮を東国へ向けて出立。美濃・尾張国境の不破を目指す。ここで多品治ら海人族勢力と合流するためである。
弘文天皇はこれに対して援助を筑紫にいた栗隈王に要請。しかし王は筑紫の国は外敵に備えることが任務であり兵の動員はできないと,近江朝廷方の出兵命令に応じなかった。

この栗隈王とは橘氏の祖で、美濃王=三野王の親ともされる人物で美濃国の由来氏族でもある、天武に協力するわけだが、のちに橘氏は藤原仲麻呂に対抗する諸兄を生み出す氏族である。そのあたりの関係がここの記事にはかなり影響しているだろう。三野は継体母方の三尾氏ともよく似た名前である。応神・継体にしろ天武にしろ、いずれも東国・北陸・百済・高句麗などの氏族からの援助を受けて大王となれたのであり、天智とはまた別の王家であったのだろう。西国中心の天皇家に対抗するもうひとつの大王家だと言える。もちろん壬申の乱や乙巳の変の挿入は、中国の天命を受けて即位した天子を持ち込んだということなのであり、ドラマチックに仕立て上げて、日本もそうした天命や革命によって立国したのだと海外に言うためのひとつの創作軍記に過ぎまい。

まず吉野から名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、皇后高天原廣野姫とともにはるかなる伊勢の神を遥仰したとされた。伊勢の神とはもともとは伊勢・鳥羽海人族の太陽神であったが、のちにこれを国家神アマテラスと変えて持統女帝を暗に示すことになる。これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族(すべて海人族族長)の信を得ることに成功した。それは引いては広く全国の海人・海部集団ネットワークの援助を得たことになる。それで大分君などが乱で活躍したことにできる。このやりかたはそのまま、『日本書記』継体大王と尾張目子媛の婚姻として応用された。

続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で嫡男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある。)更に伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。

671年7月2日天武、美濃国不破(ふわ)にて挙兵。総数二万。隊を二手にわけ琵琶湖の東岸・西岸の双方向から近江京(現「錦織にしこうり遺跡」)を目指す。








●壬申の乱古戦場の舞台となった地域
6月25日伊賀積殖山口(つむえやまぐち)


7月2日飛鳥古宮高安城(たかやすき)  大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍がいる高安城(たかやすのき)に。すると朝廷軍は米倉に火をつけて逃げた。

7月3日 衛我河(えががわ=現在の大和川支流石川)  坂本臣財ら、衛我河の西で壱岐史韓国と戦って敗走

7月4日飛鳥乃楽山(ならやま)   大伴吹負軍は現在平城京跡がある場所を北に上った乃楽山で朝廷軍と戦う。簡単には勝利できず,大海人皇子軍が敗走。

7月4・5日 奈良当麻(たぎま)  大伴吹負(おおとものふけい)を大将とする大海人皇子軍は朝廷軍と二上山のふもとで戦って勝利。

7月5日 倉歴(くらふ)  夜の戦いで敵味方がわからないので,朝廷軍は「金(かね)」という合い言葉を使って敵味方を区別。これは大海人皇子軍を混乱。「誰が裏切り者だ?」「金」とでも使ったのだろうか?

7月7日箸墓 朝廷軍と大伴吹負(おおとものふけい),置始菟(おきそめのうさぎ)らの軍が戦って勝利

7月7日近江息長横河  村国男依(むらくにのおより)らの軍が朝廷軍を破る。

7月9日近江鳥籠山(とこやま)

7月13日安河(やすのかわ)・栗太(くるもと)  大海人皇子軍13日安河の戦い,17日栗太)の戦いで朝廷軍を破って迫撃。

7月22日三尾城の戦い、瀬田橋の決戦
羽田公矢国(はたのきみ・やくに)が率いる大海人軍は、琵琶湖西岸を南下していた。この日、三尾城(みおのき 滋賀県高島郡高島町西にある山城)で近江朝廷軍と遭遇して、これを破っている。そして、さらに大津を目指して行軍を続けた。三尾城の場所はわかっていないが、岳山(だけさん)には古代の寺院跡も見つかっており有力候補地となっている。戦場はおそらくこの山の中だったと思われる。
 
瀬田唐橋(せたからはし)決戦
  瀬田橋東側に村国男依の軍、大友皇子率いる朝廷軍は橋の西。弓を構えた兵たちは一斉に矢を放ち,それらが雨のように落ちてくる。橋の中程の板をはずして敵を落とすという朝廷郡の仕掛けたわなは,一人の勇者,大分君稚臣(おおきだのきみわかみ神八井耳子孫)によって破られ、稚臣はわなを見破り,弓矢の中に突撃。その結果,朝廷軍は総崩れ。



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壬申の乱の痕跡(戦争遺跡)はあるのか?
●1飛鳥
 壬申紀(『日本書記』は天武天皇だけ例外的に二巻(壬申紀(天武即位前紀)・天武紀)に渡って記述する。その一巻目が「壬申紀」である。ひとりの王者について二巻を割いた前例は中国にあり、それを模してのことであろう。)
あらすじ
「病に倒れた天智天皇は天智10年(671年)10月17日,蘇我安麻呂に命じて大海人皇子に宮に来るように伝えた。それは天智天皇の後の皇位について相談するためだった。病床にあって天智天皇は大海人皇子に対して「皇位を継いでほしい」と頼んだ。これは本心ではなく,大海人皇子の反応を見たかったのであろう。これに対して大海人皇子は,皇位を自分に譲る気はないと天智天皇の本心を悟っていた。そのため,大海人皇子は自分の体調が悪いことを理由に断り,皇位は皇后(倭姫王:やまとひめのおおきみ)に,大友皇子を皇太子にと願った。そして,自分は出家したいと申し出た。天皇はこれを許したので,大海人皇子はすぐに退室し,宮中の仏殿の南で髪を切り,僧の姿となった。
  このことを伝え聞いた天皇は大海人皇子に僧の衣装である袈裟(けさ)を送った。
  実は大海人皇子が宮に入る前,迎えに来た蘇我安麻侶から天皇の言葉には「用心して返事するように」と聞かされていた。また天智天皇はすでに息子の大友皇子を太政大臣にしているから,皇位を弟の大海人皇子に譲る気はないと考えていた。皇位継承を断るということは天智天皇の意を悟った上での返事だった。
 
  2日後の19日,大海人皇子は天皇の前で吉野に行って仏道の修行をしたいと願い出た。天皇はこれを許したので,すぐに都を出てこの日のうちに吉野に向かうこととなった・・・。」http://www.asuka-tobira.com/jinshin/keika.htm

1吉野宮滝遺跡=宮跡が吉野にあったことだけは間違いない。

2飛鳥寺西方遺跡:飛鳥時代の建物跡 壬申の乱の陣営か
 「大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられている飛鳥寺西方遺跡(奈良県明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が初めて見つかり、明日香村教委が5日発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。
 村教委によると、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80メートル西側で建物跡2棟分の柱穴が見つかった。南北の幅は2棟とも4.8メートル、東西に延びる長辺は16.7メートルと17.5メートル。2棟は約6メートル離れて、東西に並んで配置されていた。2013年の調査で2棟の南側長辺の柱穴だけが見つかっていたが、一列だったため塀の跡とも考えられていた。

 穴の形や間隔にはばらつきがあり、村教委は「一時的に造られた仮設の建物と考えられる」と推測する。柱穴は焼けた赤っぽい土で埋まっていた。

 槻の木の広場は日本書紀に度々登場。古代の内乱・壬申の乱の際、大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷(えみし)や隼人(はやと)ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述などもある。

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「天皇の儀礼のために仮設建物を建てるのは理解しにくい。壬申の乱の陣営の一部と考えられ、乱の様子が目に浮かぶような遺構だ」と話している。」
http://mainichi.jp/feature/news/20150206k0000m040131000c.html


※さしたる確証もないのに、偽書である『日本書記』記事を持ち出してきて勝手な推量を行っている文献史学に強く影響された、考古学者にあるまじき意見に過ぎない。「あったことにしたい」という恣意的捏造。




●2伊賀国
「天武元年(六七二)六月二十四日、東に入らん」
大海人皇子一行は吉野を脱出し、大和の莵田の郡衙(榛原)・大野を通って伊賀国入りする。
「夜半に及びて隠の郡に至りて、隠の駅家を焼く──横河に至らんとするに黒雲あり」
隠(名張)郡衙跡=名張川(横川)を渡る手前(南側)に所在。
名張市中村観音寺遺跡=古代の大型掘立柱建物跡
これみな平安時代の郡衙の痕跡で、飛鳥・奈良時代の痕跡は一切なし。

「即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀の駅家を焼く。伊賀中山に至る」痕跡なし
上野市上神戸高賀遺跡=街道筋を見下ろす立地の良さと古代の優秀な掘立柱建物跡や円面硯が発掘。乱との関連性不明。

「会明に蕀萩野に至る。暫く駕を停めて進食す。積殖の山口に至り──大山を越えて伊勢の鈴鹿に至る」=遺跡なし
中貞夫『名張市史』 名張市役所 昭和四十九年
『伊賀町史』 昭和五十四年
『日本の古代遺跡 三重』保育社 平成八年
伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡
伊賀地内の7世紀後半以降の発掘主要遺跡




●3伊勢
  「(四日市)本市北部にある大矢知町の伊勢湾を望む丘陵の東先端部には、久留倍(くるべ)遺跡という弥生時代か ら室町時代にかけての遺跡があります。久留倍官衙遺跡は、この久留倍遺跡に含まれる遺跡です。
  一般国道1号北勢バイパスの建設にともない、その事前調査によって確認 された奈良時代の役所跡の範囲が国指定史跡久留倍官衙遺跡となりました。
  丘陵上部の平坦面では正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・八脚門(はっきゃくもん)などを備える 東を向く政庁(せいちょう:役所の中心的な建物群)や、南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群の遺 構が確認されました。また、丘陵東斜面には稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群も建てられて おり、区画溝で囲まれていることから、正倉院として築かれたものと考えられます。さらに、丘陵の北 東側の裾部には官衙関連施設と考えられる多くの建物も見つかるなど、次々と役所の建物が建てられて いたことがわかりました。
  このような久留倍官衙遺跡は、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されており、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡となりました。」=壬申の乱との関連不詳
http://www5.city.yokkaichi.mie.jp/menu73646.html

智積廃寺ちしゃくはいじの遺構 四日市市智積町字土丹どうたん
「1968年に発行された『智積廃寺発掘調査報告書』に、智積廃寺は飛鳥時代後半から奈良時代初頭に創建され、約100年間存続して廃絶したと記されています。一連の調査で、平安時代から鎌倉時代後半頃までこの地域で集落が営まれたことを示す住居跡や、多数の尾張の猿投窯や知多古窯の製品や宋磁も2点出土したことから、鎌倉時代の文献にみられる「智積御厨みくりや(伊勢神宮領荘園)」の成立と、その「流通機構の形成」が考古学的に裏付けられました。」







こうして考古学的に見てくると、いくつかのそれらしい遺跡が見て取れはする。しかし、それが確かに戦争があった遺跡かといえば、そういう戦場遺跡は皆無である。あとになって協力したから立派な国衙や寺院が建設されているようだが、それをすべて8世紀の「あとづけ」「裏づけ作業」だったとしてもおかしくはない。

壬申の乱が、本当にあったのかどうか、証明できる遺跡はいまだにひとつとして出ていない。





いえることは、壬申の乱は天武を正統な大王として認めさせるためのドラマチックな軍記に仕立てているということである。わざわざ一巻を割いて、中国の正史『後漢書』に似せるために。それは劉邦が項羽とは違い大儀のある人物で、天命によって定められた運命の王であったことを、まさに天武に当てはめたい編者たちの策謀である。もし実際にあったとしたら、この戦いは言うならば古い純粋倭人海人族たちが、垂涎の政権奪取に成功した歴史的大事件となったはずである。それは継体時代の尾張氏や物部、大伴ら縄文的旧勢力の台頭にまったくよく似ているのである。

天武が天命王であるならば、同じく天命王で太極とされた天智とも兄弟としておけばさらに説得力がある。しかも、天武の后もまた天智の娘であるとしてしまえば、それはさらに格があがる。しかし結果的には、『日本書記』は持統即位までで終わっており、持統が孫の文武に(ちょうどアマテラスが孫のニニギを天孫としたように)つなぐあいだ宰相として登場してくるのが藤原不比等なのだった。


不比等死後、藤原四家は菅原道真左遷によって不遇時代を迎えることになる。そのとき対抗馬として権力を奪うのが栗隈王の子孫である橘諸兄なのである。諸兄の母は犬養橘三千代である。犬養氏もまた天武と深い関係を持つ吉備の海人族である。天武政権がもしまことに存在したのなら、それは埒外の海部氏族たちが樹立した新政権であったと言える。多氏、犬養氏、安曇氏、息長氏、宗像氏、尾張氏、隼人らの、それは宿願の復権でもあっただろう。

しかしながら天武政権は簡単に終焉し、再び天智の子孫桓武が登場する。おそらくここに息長氏の血は実は流れていない。つまり天智は葛城王であり、これらの蘇我氏から続いたよくできた転覆記事のすべては、かつての古い複数王統の近畿内部での狭い王権簒奪合戦だったことが見えてくるわけである。

いずれにせよ、天皇家は高天原廣野姫天皇から始まったと考えられる。







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天武紀の「大納言」


恥ずかしながらこの数日間、辞書にいれている「にほんしょき」表記が『日本書記』に、何者かによって「改変されていた」ことに気がつかずにいた。『日本書紀』である。申し訳ない。恥ずかしい。







大納言(だいなごん)は、
「太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。
天智天皇の下で設置された「御史大夫」や天武天皇の下で設置された「納言」がその前身とも言われるが、つながりははっきりしない。「大納言」の名称がはじめて現れるのは、飛鳥浄御原令の下であるが、これが大宝令・養老令の下での大納言と同じものであるかどうかは断言できない。
養老令職員令では、その職掌を「庶事を参議し、敷奏・宣旨・侍従・献替を掌る」と定めている。大臣とともに政務を議し、宣下と奏上に当たることである。『令義解』では、大臣が欠員・休暇の際にはその代行をするものと説明している。君主の言葉を臣下に伝え、臣下の言葉を君主に伝える役割であることから、『令集解』では、中国の古典を引いて「喉舌の官」と呼んでいる。」Wiki大納言

わかりやすく言えば内閣官房の官房長官である。広報長官。





『日本書紀』壬申紀に「大納言」という言葉が出てくる。
大友皇子の大臣として
「左大臣蘇賀 赤兄臣、右大臣中臣金連、大納言蘇賀果安臣」

とある。

この大納言が、のちに制定された大納言と同じであるか、諸説があるが、おそらく天武の時代にはまだありえない役職名だろうと思う。


蘇我 果安(そが の はたやす、生年不明 - 天武天皇元年7月2日?(672年7月31日))は、日本の飛鳥時代の豪族。姓は臣歴
蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、蘇我馬子の孫にあたる。石川麻呂、日向、赤兄、連子の兄弟とされる。倉麻呂の系統は645年に蘇我蝦夷と入鹿が滅んでから蘇我氏の本流になった。
天智天皇10年(671年)1月5日に、巨勢人、紀大人とともに御史大夫になった。同日に大友皇子(後の弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
Wiki蘇我果安

『日本書紀』はこう書いている。
以蘇我赤中臣為左大臣。以中臣金連為 右大臣。以蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣為御史大夫。〈御史。蓋今之大納言乎。〉

御史大夫という役職は今で言う大納言のことである。
ということになる。


また、八月庚申に処罰が下るさいに
「右大臣中臣連金斬浅井乃田根、左大臣蘇我赤兄、大納言巨勢臣比等」とある。


この場合、大納言の読みは?
「おほきものまうすつかさ」と読ませている。
つまりやはり官房長官のことである。



『日本書紀』の中で役職名がこういう新しいものに置き換えられている箇所はかなり多く、編者たちがさほど過去の時代考証に頓着のなかったことは知っておくほうがいい。言うならば、『日本書紀』は非常にいい加減な書物なのである。






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