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天武と劉邦 天智と項羽 赤色エレジー

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天武と赤色、劉邦と赤色
(項羽の白、天智の白)
1 壬申の乱
秋七月庚寅朔辛卯、「其の衆の近江の師と別け難きを恐りて、赤色を以て衣の上に着く」
天武軍は近江軍と区別するために赤い衣を羽織った。
このいくさのときから染色集団の長であろう置(染)始菟が参加している。三重県津市(旧安濃郡)産品(うぶしな)に置染神社あり。このあたりの氏族だろうか?
もちろん天武が赤を好むというのは劉邦の古事を模したものである。

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瀬田唐橋決戦絵図で天武軍は赤旗を立てている

『史記』高祖本紀 
老婆が言うには「わが子は白帝の子なり、化して蛇と為り道に当たれり。今、赤帝の子=劉邦に之を斬られぬ。故に哭す」
この老婆の子が大蛇で、今、道をふさいでいるので帰れと劉邦に言う。すると劉邦はこれをたたき切ったのである。その劉邦を赤帝の子であり、自分の子は白帝の子であったと老婆は泣きながら言ったのだった。

また柿本人麻呂の天武の皇子・高市の死をしのぶ歌に

「ささげたる旗の靡(なび)きは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風のむた靡くのにも似ており」万 巻第二 199

ともあり、高市の参加した天武軍が、「火がなびくがごとき赤旗」をなびかせていた古事にちなんでいると思われる。



2 朱鳥改元
「あけみとり」は天武が得意とした「天文遁甲」によれば赤=南=朱雀である。
天武六年に筑紫から赤い烏が献上された。

「天武天皇が死を前にして,7月にあわただしく改元している〈朱鳥〉の年号も道教の文献《淮南子(えなんじ)》などに見える言葉で,朱雀と同じく南方の赤い火すなわち生命の充実もしくは蘇(よみがえ)りを象徴し,天皇が病気で〈体不安〉であったためにこの処置が取られたものと見られる。天武の陵墓は大内陵とよばれて道教の神学用語〈大内〉を用いており,また持統の治世に造営された藤原宮が,中国の皇都にならって全面的に道教における皇都の宗教哲学」を元に、天智天皇陵=藤原宮の北=白=太一=北極星=天命天子として置いた。大して天武・持統陵は宮の南=朱雀・赤の位置に置かれてある。絵に描いたような道教思想だが、もちろんこれはすべて劉邦=赤、項羽=白としている「史記」の受け売りである。



「壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることなく、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対して、8月25日に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。

このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される」Wiki天武天皇 政策
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.A3.AC.E7.94.B3.E3.81.AE.E4.B9.B1

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Wiki道教より



こうした紅白によって歴史的事柄を表現するのは、平民にでも一発でわかりやすく面白くするための軍記の常套手段で、必ずしも実際にそういう色分けをしたかどうかは古代ではわからない。ただ、中国の場合、紅巾、黄巾の乱などの例もあり、そうしていたのかも知れない。日本の物語である平家物語などでも源平を紅白で色分けする思想が反映されており、軍記や講談などで、非常に臨場感の出るビジュアル効果がある。そうした紅白合戦のイメージは、その後に影響して戦国時代、あるいは現代の学校の運動会の帽子や、歌合戦でも紅白で争う行事はいまだに多い。赤も白もそうした瑞兆、おめでたのしるしであり、水引や大弾幕に用いられている。参考ことバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E9%9B%80-184373



なお、道教(陰陽五行説)などでは五色の旗(仏教でも同じだが青・黄・赤・白・黒)を立てるが、これを幢といい、旗の語源でもある(宇佐八幡宮の縁起にもある一縷の幡をなどのはたもこれであろうか)。

赤=火、黄=土、白=金、黒=水、青=木のそれぞれ「気」にあてられる。天武の赤は火であり、火克金(か・こく・きん)で、火は金属を溶かすので、金=白=天智が天武に負けるを暗示してある。さらに金=中臣金(なかとみの・かね)の死も当然の結末となろう。つまり大友軍が合言葉にした「金」とは、まずもって火に負ける金の暗示(物語のノウハウである)となっていると言える。中臣金という人物も、だからそれにそって創られた登場人物だったとも考え付くだろう。

しかし、もし天武軍が不破出立のときからみな赤い衣を着ていたのならば、のちの倉歴の合戦で合言葉などは必要もないはずであり、ここにも『日本書紀』の破綻が見て取れるのである。



日本古代の年号に関して。
白雉元年  これは孝徳天皇の年号
白鳳・朱雀『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」といった記事がみられる。これを私年号といい、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。日本書紀に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉650年654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。とするならば、この朱雀年号も同じく朱鳥の美称となるのだが・・・。坂本のような往古の単純な考え方で流してしまってよいものかどうか?

九州王朝説ではそれらはみな九州での年号の簒奪・受け売りであるとする説もある。

「白鳳・天平」などと美術史では区分けしている時代がある。仏教美術史上の区分だが、これはつまり『日本書紀』年号を無視した名前付けであり、それが同じ教科書に両方使われてしまっているのは、いかに古代史がいい加減なものであるかを語ってしまうのである。


『続日本紀』編纂時(797年)から、記事の724年が、果たして孝徳~天武時代から「年代玄遠にして」と言うほど離れた時代かと言えば、わずか70数年ばかりのことであり、ということは、平安時代でさえ、すでに飛鳥・奈良の記憶はついえてしまっていたかとなるわけで、『日本書紀』が書いているような1000年も前の記憶が、いかに頼りなく、いい加減なものであるか想像がつこうというものである。


要するに記紀という書物は、それまで1000年、文字がなかった時代のことまで一気にまとめて恣意的に、時の政府が書き上げたものなのであり、せいぜい人の記憶は100年とするならば、雄略以前はいくらでもでっちあげが可能であり、雄略以降でさえ、これまたいくらでも変更が可能なのだと見えてきてしまうのである。


以上ここまでの天武・壬申の乱記事の参考文献 遠山美都男 『壬申の乱で解く日本書紀 天武天皇の企て』2014 角川選書

 

次回、雄略と継体に間はなくスライドしていた。継体~聖徳太子までも捏造。
倉本一宏の論考を参考にして啓上します。




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応神~武烈・継体系譜の捏造

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倉本一宏 『平安朝 皇位継承の闇』2014 角川選書よりさらに発展させて。


●暴虐王記事という『日本書紀』天皇交代パターンについて
これは『日本書紀』だけには限らず、中国やローマ帝国ではいくらでも存在する定型パターンであるが、雄略紀の後半や武烈全般で、この天皇はとにかくひどい大王で、人は殺すは、妊婦の腹は裂くわ、酒池肉林のぜいたくをして政務を振り返らなかった・・・だから天罰覿面、王統は滅びたのだと書いてある。要するにこういう部分は、8世紀の政治観だったのであろうし、それを縦横に使ってダメ王を言い募り、ここで政権が切り替わって当然じゃないかと史書編者は読者に同意を求めているのである。


小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈・おはつせの・わかさざき)という諡号には、雄略の「大泊瀬」の小型という意味と仁徳(おおさざき)の子孫という意味以外にはなんの意味もない。この天皇はいなかったと見られてもしかたがない。ただ、河内王朝の近い将来の交代のために作られた人物というのが大方の見方である。



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系図を見ればこうなっている。武烈は仁徳の孫のオケ・ヲケ王(仁賢・顕宗天皇)の子供である。しかし奇妙なことから播磨で発見されるオケ・ヲケ兄弟の存在もまた極めて疑わしい。彼らの姉の飯豊青皇女などは「あおばずく=ふくろう」という意味の名前で、ふくろうとはつまり夜うごめく生き物=いんばい女というネーミングで、ひどいものである(過去分析済み→飯豊青皇女)。

これらの一群はもちろんあとに継体大王が越前から登場してくるための前振りだけであり、倉本はしべて不在、創作の人物と書いている。まずもってそのとおりであろう。このことは随分前から筆者も書いたつもりである。読んですぐにオケ・ヲケの発見話はどこかで似たような話を読んだなと気づいた。

さてそれはさておき、倉本はまた、雄略大王は即位から23年で死去したことになっているが「六世紀初頭まで在世していた可能性がある」と書いている。その理由は倭王武が建元元年(479)に大陸の斉(さい)に遣使を送った可能性(氣賀澤保則「倭人が見た隋の風景」)、そうすると502年の梁(りょう)への遣使もまた事実だったと考えられるためである。武はどうやら6世紀初頭まで生きていたようなのである。

もちろん倭王武=雄略であるという前提の話である。

筆者はもっと過激なことを考えている。

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古代の天皇(実際には大王であるが)が、地方有力豪族の持ち回り制であったことは、倉本ならずとも歴史学者の多くが認めているところである。これははっきりと言うならば、「天皇氏」というものはまだなかったという意味である。それを現天皇家が独占できるようになったのは持統天皇以後(特に持統の孫である文武)からだと言えるのだ。ちょうどその持統の即位の直前から宗像氏が天武外戚となり、考古学的には福岡の海の中の沖ノ島で太陽神を祭る祭祀が始まる。そして伊勢にはアマテラスが祭られる伊勢神宮も成立した。そして伊勢神宮へ参拝した天皇が持統以外記録にない。明治天皇も大正天皇も昭和天皇も伊勢にも沖ノ島にも参詣していない。これは有名な話である。要するにアマテラスが国家の神とされた持統の時代だけで、伊勢神宮は今もなお国家の宗廟といわれているわけである。それは明治~昭和の軍閥の受け継いだイデオロギーが、敗戦後もなお日本人をそう思い込ませているのであって、戦後教育を受けたものでそれを信じている者の、今となってはすでにわれわれ現代人の責任である




天智天皇まで、記紀の記事には、中国的な天命天皇はひとりも存在せず、ただ天孫ニニギの子孫という一系構造を受け継いだものとされている。その思想を、さて、どこの大王家だったかもわからない『宋書』の倭五王に当てはめようと学舎は懸命になってきた。ところがどうにもうまくあてはめられない。記紀の天皇人数のほうが多いからだ。五人しかないなずなのに天皇は何人も居る。どれがどれだかわからない。当たり前である、まず倭五王が大和の倭国の王だったかどうか宋書には記載がない。一方『日本書紀』の大和の天皇は、応神から武烈まで架空の人物なのである。


いや、そればかりか継体、欽明、広媛、敏達、聖徳太子などなど、これが一切合財全部創作の人物だった。宋書とつきあわせるほうがおかしいのだが、唯一、『日本書紀』の最初の記事になった雄略大王だけは、どうにも倭王武に合致するようであり、少なくとも「ワカタケル」という名前の大王がいたらしいことは鉄剣銘文で動かせない。雄略は「ワカタケ」なのでこれもどうかとは思うが。


雄略が武だったとして、6世紀初頭まで生きていれば、継体になる前のオオド王と同時代に生きていたことになる。ところがこのオオドがまた想像の人物である。彼が登場するわけはもちろん息長氏と三尾氏から出てくるという前提のため。天武のために書かれた人である。広媛も、神功皇后もそうである。しかしここで隅田八幡鏡の銘文が邪魔してくる。百済の武寧王(島王)がオオドに送った鏡・・・。


継体はもしいたとすれば誰かは知らないが天武の先祖ではあろう。しかし天智の先祖かどうかわからない。二人に血縁はなかったはずである。これは年齢問題などがあるが、『日本書紀』の文献記事はみな捏造で、信用できない。天智がもしか蘇我王家の忘れ形見・・・あるいは逆もある。天武のほうが?

天智宰相には蘇我倉石川の子孫が多い。ま、これも信用できないが。



倭五王が大和の王権だったかどうかは問題だが、そのあとを継いだのは継体などではなくまず蘇我本家しかない。だから欽明などはいない。ならば敏達もいない。ならば広姫には嫁ぐ相手はいないのである。だからここはまったくの虚偽であろう。
息長の血脈であることが大事だった。それは天智の息子・大友を始皇帝の息子胡亥をモデルにしてあるからだ(遠山美都男)。

天智はだから天命王初代=始皇帝という役どころなのである。
それをひっくり返すのが劉邦=天武という構図なのである。



そういうことだからわれわれは、いくらでも解釈を広げていくことになる。そうしてもいいように『日本書紀』は書かれてあるのだから致し方ない。つまり応神~天武も限りなく虚構となる。

その前も当然嘘八百なのだから、全部がうそ。持統だけ確かと。
神話などは持統=アマテラスで作られているのだからもうファンタジー小説である。



ちなみに最初の武烈のような書かれ方をした例
暴君ネロ
暴君煬帝
妊婦の腹割き・・・『呂氏春秋』『太平御覧』
生爪はぎ・・・『延喜式』「国つ罪」、『古事記』スサノヲ
酒池肉林・・・『古列女伝』『芸文類従』殷の紂王

なお、倭五王も天皇も、飛鳥時代までは互いに血縁がなかった可能性が高い。倉本
それまでは、大和や地方の豪族から代々交代して大王が選出されていた時代だったのである。つまりそれまではというのは蘇我氏以前という意味であろう。蘇我氏は世襲した最初の王家だ。それほど強力な政権だったわけである。

それをひっくり返してもいいと書くために、『日本書紀』は神話から神武から2000年分もの大変な労作をひねり出したのである。
それはそれでそのクリエティビティ根性には脱帽するしかない。







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[転載]藤原宮子

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●藤原宮子から見た、文武天皇との関係

697(文武1)年8月20日 文武天皇の夫人となる。(文武天皇15才のときです)
701(大宝1)年、首皇子(後の聖武天皇)を出産。出産後首皇子と面会することは無し。
723(養老7)年、従二位。
724(神亀1)年2月4日、子の首が即位(聖武天皇)。
2月6日、 天皇は正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する勅を発す。
3月22日、長屋王らがその称号の令に違反することを指摘し、公式には令通り「皇太夫人」とし、口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を発する。
737(天平9)年12月27日、皇后宮で玄の看病を受け、正常な精神状態に戻り、偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる。
754(天平勝宝6)年7月19日、崩ず。
760(天平宝字4)年12月12月 太皇太后(宮子)・皇太后(光明子)の墓を山陵と称し、忌日
(7月19日・6月7日)を国忌とする。

文武天皇は即位と同時に藤原宮子と結婚しています。子供が生まれたのは、4年後ですから、本当の夫婦関係が暫くは無かったのかもしれません。となりますと、本人の意思は無視されたことになります。
文武天皇は707年7月15日に崩御しています。首皇子が生まれて後、6年で亡くなっています。流石に、次の天皇は、文武天皇の子供である首皇子(7歳)というわけにはいきませんでした。しかし、その後の歴史の流れからしますと、藤原氏としては、首皇子が成長するまで、元明天皇ということになったと思われます。
707年7月 元明天皇 即位 (47歳)元明天皇は文武天皇の母親です。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page940.html

●略伝 697(文武1)年8.20、文武天皇の夫人となる。701(大宝1)年、首皇子(後の聖武天皇)を出産。これ以前から「人事を廃し」(続紀天平9年12月条)ていたため、出産後首皇子と面会することは無かったという。723(養老7)年、従二位。724(神亀1)年2.4、子の首が即位(聖武天皇)。その直後の2.6、天皇は正一位藤原夫人(宮子)を大夫人と称する勅を発するが、同年3.22、長屋王らがその称号の令に違反することを指摘し、天皇は先勅を撤回、公式には令通り「皇太夫人」とし、口頭では「大御祖(おおみおや)」とする詔を発する。737(天平9)年12.27、皇后宮で玄(げんぼう)の看病を受け、正常な精神状態に戻り、偶然行幸した聖武天皇に初めて相まみえる(続紀の記事によれば、聖武天皇はこの時まで生母の顔を見たことがなかったという)。754(天平勝宝6)年7.19、崩ず。火葬される。760(天平宝字4)年12.12、太皇太后(宮子)・皇太后(光明子)の墓を山陵と称し、忌日(7月19日・6月7日)を国忌とする。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/miyako.html

● 西暦700年頃、九海士の浦という小さな漁村で生まれた宮子という女児は大きくなっても髪の毛が生えませんでした。ある日、母親が海の底から小さな観音さまを拾い上げ、お祭りし、願をかけると不思議にも娘に髪が生え出し、日に日に長くなりそれはもうすばらしい黒髪の持ち主となりました。
ある日、この黒髪を燕がくわえて奈良の都に飛んで行き、藤原不比人の屋敷に髪で巣をつくりました。当時は髪が長い程美人であるとされていましたので、この髪の毛を持つ娘を探すこととなりました。そして、探し出された宮子姫は不比人の養女となり文武天皇の妃となりました。
宮子姫は自分を幸せにしてくれた観音様をお祭りしたいと天皇にお願いし、立派なお寺を建立しました。これが、道成寺です。
http://www.aikis.or.jp/~okada/si/menu_si.html

●大宝元年(701)、文武天皇はその夫人の藤原宮子の願いを受け、道成寺を
お建てになりました。宮子は、道成寺の言い伝えでは「髪長姫」とよばれる
村長の娘であったとされます。この言い伝えには賛否両論があり、色々な研
究もなされましたが、宮子の人生には今も多くの謎が残されています。
ここでは道成寺に残る『宮子姫伝記』という絵巻に従って紹介しましょう。
今から1300年前、九海士(現在の和歌山県御坊市湯
川町下富安)の村長に娘が生まれましたが、髪の毛が
全く生えませんでした。時を同じくして、九海士の入
り海に光るものが現れ不漁が続きました。髪の無い娘
の母が海底に探りに行くと、小さい観音様が光り輝い
ていました。
命がけで海底から引き揚げ、毎日拝んでいると、
娘にも髪が生え始め、村人から「かみなが姫」と
呼ばれる美少女に成長しました。
その姿が都人の眼にとまり…
かみなが姫は藤原不比等の養女として奈良に召し出
され、宮子姫という名を貰い、宮中に仕えることと
なりました。
宮子姫は、その美貌と才能を見込まれ、持統天皇
十一年(697)に文武天皇の夫人に選ばれました。
宮子姫は、黒髪を授けてくれた観音様と両親を
粗末な所に残してきた事を悩んでいました。
文武天皇は宮子姫がご恩返しをするための寺を
建てることを命じ、大宝元年(701)道成寺が
建てられました。
http://www.dojoji.com/kaminaga/kaminaga.html

●かぐや姫の物語、すなわち、竹取物語において、かぐや姫に求婚して失敗する五人の貴公子については、モデルにされた人物が歴史上に存在し、それらが、多治比嶋(たじひのしま)、藤原不比等、阿倍御主人(あべのみうし)、大伴御行(おおとものみゆき)、石上麻呂(いそのかみのまろ)であることは、江戸時代に加納諸平が指摘して以来もはや、ゆるがぬものとなっている。しかし、主役の「かぐや姫」や「竹取翁」については、歴史上にモデルと思われる人物が見受けられないので、この物語は、五人の貴公子、中でも藤原氏を揶揄するために、藤原氏を憎む氏族の人によって書かれたものと考えるのが一般である。
 しかし、私は、かぐや姫のモデルを文武天皇の夫人藤原宮子、竹取翁のモデルを大納言紀麻呂(きのまろ)と考える。宮子は藤原不比等(ふひと)と賀茂比売(かもひめ)の子とされているが、梅原猛氏は、宮子は実は紀伊国日高郡の海人(あま)の娘であったとする。このように、宮子の出自を海女(あま)とし、その流れの中で彼女の生涯を追ってゆく時、それが、物語の中のかぐや姫の持つ属性やイメージと一致することを論証する。その上で、彼女を紀伊の辺里から発掘した紀麻呂(きのまろ)こそ、かぐや姫を竹の節の間から発見した竹取翁であることを見る。
 そして最後に、竹取物語の作者としては、僧玄(げんぼう)しか考えられないことを論ずる。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/kaguyahime.htm

●道成寺という寺と、説話が結びついて、道成寺説話として登場したのは、文字に残されている点では法華験記(『大日本国法華経験記』)をはじめとするが、『古事記』にも、その道成寺説話的な物語を見ることが出来る。
南方熊楠は、「谷本博士は『古事記』に品地別命、肥長比売と婚し…中略……とあるを、この話の遠祖と言われた…中略…この肥長比売は大物主神の子か孫で、この一件すなわち品地別命が彼の神の告げにより、出雲にかの神を斎いだ宮へ詣でた時のことたり、この神の一族は蛇をトーテムとしたから、この時も品地別命が肥長比売の肌に彫りつけた蛇のトーテムの標か何かを見つけて、その部族を忌み逃げ出したことと思う。」(南方熊楠著『十一二支考』「蛇に関する民俗と伝説」の内、〈十・蛇の変化〉所収)。
この異種である部族は、印度におけるドラヴィダ人のナーガ族のように賤民や不可触階層になったものとは、全く違う存在であると考える。
この一文より推察されることは、『古事記』に仏典からの影響があったかどうかは別にしても、日本に蛇をトーテムとした部族が存在し、その女との婚姻も行なわれることがあったということである。
従って、大和朝廷によって征服(融合?)された部族国家も、その自治権や信仰まではうばわれずに、それぞれが独立して存在し、大和朝廷は、それら部族国家群を、少しづつ思想的にも自治権においても、侵して行ったということを考えることが出来る。
またこの話は、大和朝廷の一族に属する若者が、成人のための修行に出て、異部族の女と目交い、その信仰を恐れて逃げ出した話ともとれよう。
『古事記』に載せられた話は、ホムチワケノ王の物語として、「一皇子の奇蹟の回生譚という性格だけではなしに、神秘的な出生を持つ皇子の変身と聖婚への過程が語られている。」と記紀研究者の吉井巌は論じる(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
更に吉井巌は、ホムチワケノ王とホムタワケノ王(応神)、ホムツワケノ王が同一で、始祖伝説にちかいものと論述する(「天皇の系譜と神話 ニ」)。
そうであるならば、挿話としての『肥長比売譚 』も始祖伝説につながる、すなわち大国主の国譲りに結びつく伝承とみなす事が出来ないだろうか。
品地別命ホムチワケノ王の奇蹟の回生譚には、『肥長比売譚 』が必要だとは思えない。
話のつながり方が唐突で、出雲が出てきたから、ココにでも入れておくかという感じで挿入されている。
そこでの展開は、ホムチワケノ王がヒナガ比売から逃げ出し、ヒナガ比売は悲しんで、海上を光で照らしてホムチワケを追い掛ける。
ホムチワケノ王はヒナガ比売を恐れて、舟もろとも山越して大和へ逃げ帰った。
出雲からどうやって舟を引き上げて、大和へ帰れたのだろう。
それまでのホムチワケノ王の唖を直すために旅たった国巡りなど丁寧な記述から、ここでは全てが省かれている。
道成寺の建立譚にカミナガ比売が登場し、ホムチワケノ王の流離譚にヒナガ比売が登場する。
また、カミナガ比売の名は応神・仁徳の逸話に登場する。
ニニギノミコトに嫌われた醜女が、大山津見神の長女のイワナガ比売
此の相似形には、なにかつながりが深く考えられる。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok3.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok4.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok5.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok6.html
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok7.html

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

史書が虚構ならではあなたは何を頼りに過去を知る?

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史書が虚構であることにあなたはいま、ようやく気づきました。
では、果たして、日本古代の真実とはどうやって探し当てればいいのか?
それは土の中にあります。
細胞の中にあります。

気の遠くなるような発掘と分析が、すでにこの国の先人先達の人々によって発見されて、研究室には山積みされています。

それらは古代人の原子だと言えます。
原子からやり直すしかありません。

それには何世代もの時間がかかることでしょう。








つまり、古代史の真実に近づくには、ぼくらの時間はまったく足りません。




記紀を否定した限りは、ぼくたちは後世にそれを託すしかほかに手はないのです。








鳥の目を持てばいくらかそこに近づけますが、それも真実からはほど遠い空想物語のひとつでしかない。だからといってお手上げするわけにはいきません。





あとはあなたの想像力と創造力が頼り。






だから、できる限り、多くの本を読みましょう。
中世も近世も現代も、広く深く読みましょう。






そしてそれは財産になるでしょう。



そして、それを後世に伝えていくことしかありません。



ぼくのブログにおそらくあふれかえっているはずの発想のヒント(ここにはそれしかないのですが)を、できるだけ書き残してしまいましょう。




笑われてもいい。ばかにされてもいい。時には住むところで奇人変人あつかいされることだってあるでしょう。

しかし必ず子孫たちがそのばかばかしい妄想にヒントを得ることがあるはずです。





ぼくたちはそうして消えていきましょう。それが古代史ブログを選んだぼくたちの宿命ですので。




外国の考古学者はこう弟子たちに言います。

「君が見つけ出したその遺物、それは君がすべてを知るために土の中から出てきてくれたのではない。君の子孫の誰かがその謎を解くために出てきてくれたのだ。君は、足元の土をただひたすらやさしく掘っていればいい。そうすれば、いずれは、はるかな先の誰かが、必ずそこから新たな発見を見つけ出す。君はそのための捨石なのだ。」









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白い雀 王 莽と蘇我氏 

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皇極元年(642)七月丙子「蘇我臣蝦夷がしとべ、白雀(しらすずめ)の子を獲(え)たり。是の日の同じ時に人有りて、白雀を以て籠(こ)に納れて蘇我大臣に送る」

天武の時代には瑞祥は赤であるが、それは『日本書紀』では天武の一時期に限られ、常はほぼ白い動物が瑞祥とされている。ここで蘇我蝦夷には白い雀が瑞祥だったことになている。


こうした瑞祥は要するにその人の政治が天意にかなっているという表現である。たとえば孝徳大王が年号を「白雉」としたのは、中国の王蒙(おうもう)が白雉を越裳(えっしょう)氏から送られたという記録にあやかってのものだろう。これを機に王蒙は「安漢公」という称号を賜っている。

『資治通鑑』「孝哀皇帝下元始元年(辛酉,公元一年)
春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、雉二。莽白太后 下詔,以白雉薦宗廟。於是群臣盛陳莽功,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周, 莽宜賜號曰安漢公,益戶疇爵邑。」

後1年春正月、王莽は益州にウソを言わせた。国外の蛮夷が、越裳氏を名のり、なんども翻訳して、白キジ1羽と、黒キジ2羽を献上してきたと。

胡三省はいう。越裳氏の注釈は、すでに『資治通鑑』二十八巻の前漢元帝、初元二年にある。越裳氏の土地は、益州の塞外にない。王莽は幼い平帝を助ける。王莽の功徳を、遠方の人がほめたことにするため、ウソをついた。周公をマネた。
顔師古はいう。「訳」とは、伝えて言うこと。道路が絶え、風俗が違うから、なんども翻訳が必要だった。本文にある「風」は「諷」におなじ。

王莽は王太后に、白キジを宗廟に供えさせた。郡臣は、言った。「周の成公は白キジをもらったから、周公を名のった。王莽を、安漢公として、食邑を子孫まで保たせるべきです」と。

胡三省はいう。聖王の法によれば、臣下に大功があれば、美しい号をあたえる。だから周公の故事を、郡臣が持ち出したのだ。

 張晏はいう。前漢のルールでは、食邑を子孫がつぐとき、代ごとに20%ずつ減らす。「疇」は、等しいこと。ふたたび減らさないことをいう。
賢はいう。「疇」は、等しいこと。功臣の子孫が、先代とおなじ食邑をつぐことを指す。つまり王莽が安漢公に進んだら、王莽の子孫は、永久に食邑をキープできる。





恵美押勝(藤原仲麻呂)の『家伝』上(鎌足伝)の中に、「入鹿の所業は安漢王王蒙のようである」と書いてある。藤原氏にとって蘇我氏はまさに王蒙のような乗っ取り政権だったわけである。つまり『日本書紀』の白雀記事は、王蒙の白雉を踏まえた上で蘇我大臣を卑劣な簒奪政権だと言っているのだと考えてよかろう(遠山 2014)。

また同署では入鹿の所業を後漢末期の乱臣・董卓にも例えている。

こういうことは『日本書紀』の作り話で間違いない。『日本書紀』は恣意的に蘇我氏を悪逆非道な乗っ取り王家に仕立てようとしたと見られる。まず間違いなかろう。ということは蘇我氏にはそういうひどいところは実はなかったと、逆にばればれになっているわけである。

そして瑞祥は同時に、半面で「おごり」であり、やがて王権が倒れてしかるべしだと言っていることになるだろう。


蘇我氏はではいったいどの政権を簒奪したと言うのだろうか?
『日本書紀』の順番から見て、蘇我氏直前の王朝といえば、まずは継体王朝である。あるいはもしそれが大和にあったとするならばだが、倭五王なども蘇我氏の前の王朝である。しかし『日本書紀』はまったく倭五王を意識して天皇を創作していないようにも見える。すると『日本書紀』が蘇我氏がそれを殺して奪ったことにしたかった政権とは継体・安閑・宣化の三代だったと見られるのである。

筆者は蘇我氏という氏族は確かに存在したと思う。問題はその書き方が藤原氏にとってどうみても気に入らない政権であり、始祖鎌足が滅ぼしてしかるべき氏族としてあるわけである。

ところがその蘇我氏からは厩戸や推古女帝も出てくるわけで、これが大王家だったことは間違いがない。それを大臣としてしまわねばならなかった。

飛鳥王権は蘇我王権であったと言える。だから蘇我氏の時代、称徳天皇などは実在であろう。ペルシア風石造物や石棺の残骸が飛鳥にはあふれている。これは称徳女帝時代の遺物であることはまず間違いない。ペルシア人建築士たちが百済から送られているからだ。その時代は半島でしだに百済が押し出されていきはじめた時代である。百済と大和の関係は緊密だった。だからこそ蘇我王家の後裔としての天智の白村江の戦いだったのだ。『日本書紀』はこの大事な期間をうまくできたお話にしてある。

だが嘘であることは間違いない。




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古代皇統・皇后の形成原理 だまされない古代史

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Q; 先生は古代の天皇制について皇統の形成原理があるとして提示されておられます。簡単にご説明ください。
 
A;あくまでも『日本書紀』の話ですが、仁徳以降の古代天皇には明確な三つの皇統論理が描かれています。簡単に申せば、

1 天皇や皇太子は20歳以上の成人が原則。この例外は前は応神、後ろは聖武・清和だけです。

2 天皇は死ぬまで在位する。つまり古代ではまだ譲位という概念がない。例外は皇極ですがこれは作為で、実際に譲位の開始は持統からでしょう。

3 天皇の妻は皇女、皇族女性がほとんど。例外はありますが。これは正妻つまり皇后の条件です。これを初めて破ったのは聖武の光明皇后(藤原光明子)です。彼女ははじめて皇族以外の氏(うじ)から皇后になりました。聖武は言い訳として仁徳の前例を持ち出したとされています。しかし仁徳が葛城氏から妻を迎えた事例は聖武から300年も前の話で、当時はまったく意外な出来事だったと思います。


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Q;相当もめたんじゃないですか?

A;かもしれませんね。(笑)

Q;しかし息長氏や尾張氏からの嫁入りもありましたが・・・。

A;あくまでも正妻、皇后と認められた女性、という意味です。

Q;なるほど、では皇后の詳細な条件としてはほかにはありますか?

A;あります。まず(A)所生子の子孫が皇位についていること (B)皇女であること
ですね。(A)について補足しますと、たとえその子供が即位したとしても一代限りだと皇后とはされていません。清寧・安閑・宣化・用命・崇峻のお母さんは皇后にはなっていません。

逆に言いますと、正妻はすぐには決まらないということですが、まず天皇の子供を生むのが第一条件だったと言えます。武家とはちょっと違いますね。もっとも、平民や武家でも、正妻が子供を生まない場合、家に戻された例はたくさんあります。

Q;例外はありますか?

A;履中の黒媛ですね。彼女の場合はしかし「皇妃」と書かれています。子供の仁賢さんが即位したのだから皇后でいいはずなのですか、なぜか皇妃です。これはのちに武烈で皇統が断絶したためかも知れませんが。

また補足しますが、(B)の場合、妻に皇女が存在しない場合、皇后の対象が皇族に広げられています。垂仁・景行・顕宗・天智。

また仁徳・敏達・履中の正妻は、(A)(B)ともに満たす女性が複数いた場合に、まずは(A)の妻を皇后にし、彼女が死んでから(B)を二番目の皇后にしています。どちらの満たさない女性しかいなかった場合は皇后は存在しません。つまり「立后」記事がない天皇は成務・反正・清寧・武烈・崇峻の例があります。

以上が『日本書紀』の皇后の統一的基準です。しかし、はっきり申して(A)などは、妻の「実績」しだいという選出基準なのですから、本当にそうされていたのかどうかは実は疑わしいですね。そもそも立后記事全体が編纂時になってばたばたっと付加されたんじゃないでしょうか。ですからこれを以て古代の歴史分析にはちょっと使い得ないと思います。あくまでも『日本書紀』編纂時の価値観が影響した記事になったと見ています。

特にこの3の皇后の条件については、それが鮮明、明確に書かれた時代は六世紀以降です。

Q;それより前は、つまり皇后の条件はけこうルーズ?

A;そういうことになりますね。と、申しますか・・・

(ここまで、『古代政治史における天皇制の論理』の内容を勝手に会話体にしてみました。しかし内容は参考文献の河内氏の書いていることをそのまま口語体にしてある。



ここから先は筆者の勝手な妄想であるが、
(これはないないの話ですが、雄略さんより前のことは、われわれはほとんど扱いませんので。

Q;え?雄略以前はアカデミズムは扱わない?それはまたなぜでしょう?

A;そんなことは戦後文献史学では自明の理ですから・・・・・・・・・・。)

とかなるんじゃないか。


さて、何が自明の理かといえば、もちろん、六世紀雄略(または仁徳からとも)から前の『日本書紀』記事は眉唾だということなんだろう。それはなぜか?まずは政治力学の問題がある。戦後直後からしばらくは、まだまだ世間には右よりな勢力が存在し、反対に左より勢力がメインであった。それが気に入らないものが作用反作用でかえって勢力を持てたのだ。すると天皇制について目覚しい斬新な歴史認識論考を発表すれば、学者個人ばかりか大学全体がそうした勢力からの恫喝や糾弾の対象にされかねない。また学者にも生活・家族がある。そうした大人の判断が、戦後しばらくは核心を語れなくしていたことは間違いない。しかも当時の学閥徒弟制度のもとで、そうした暗黙の了解は最近までずるずると尾を引いてきた。これでは言外の思いを自由には語らない学説ばかりになってしまう。変化、革新には常に世代を経て長い時間がかかってしまうのだ。だから当時、斬新そのものの説を発表した水野祐や江上波男先生らは、本当に勇気があったと言う事なのだ。

さて、六世紀から顕著にこうした皇后の条件が『日本書紀』に定型的に取り入れられたということは、まずは雄略から日本の古代史は語ってもよいという雰囲気の中での分析であり、その前後の時代は違うのだということになる。前の時代は虚構が多すぎ、後の時代は天皇政権が天皇本人の手から宰相藤原家によって左右され、それがやがては武家に切り替わるわけである。この前後の時代は天皇などはまさに傀儡となった時代であった。ということは天皇が実権を持っていきいきとしていたのが六世紀~8世紀までだということである。『日本書紀』はこの時代に一番力を入れて、だからこそ書き始めも雄略~天武までを「藤原不比等の持統正統性」の前提として描き出したのである。

前は虚構、中は改変、後は傀儡であるから、これでは『日本書紀』の天皇には実態がないといわれても仕方がない。

しかし雄略には唯一実態があり、しかも彼は武力王・政治王であったのだから、つまり正真正銘の世界史的な「国王」だったのかも知れない。また、そうして考えると、政治王白河法皇のあと実権を手中にした平清盛や源頼朝のような武家と、蘇我氏や藤原氏がよく似た政治性を持っていた・・・武家の天下布武のよい前例となると気づかされるのである。もちろん彼らは貴族であって「武」は持ってはいないが、蘇我氏にはどこか武力の影が見え隠れし、その実態を漢氏や秦氏にさせているフィクサーの感じは、藤原氏にも見えるところがある。少くなくとも蘇我氏 のように突然登場する豪族に武力が皆無だったなど考えにくい。

(どうもIME変換を更新してから変換が変で困っている。いちいち元に戻すのがあとになってしまい申し訳ない。PCが重くなるといろいろ苦労する。)

これは継体もそうである。突然、福井から招聘されたとなってはいるが、どう考えても前の倭五王政権をまともに引き継いだとは思えない。なぜなら継体と応神の間の四世代について『日本書紀』はなにも語ってはいないのである。そこには系図がない。いきなり五世孫とされているだけである。それは同じ息長系譜から敏達に嫁いできた広姫も同様である。つまりこの息長系の人物には系譜がないのである。つまり言い換えればどこの馬の骨かもわからない。

そういう意味では文武の母である宮子もまた、どこの誰かがよくわからない女性であろう。だから伝説がつきまとう。民衆がほっておかない。信仰対象になる。

鎌足もそうだ。談山かいわいでは神様である。聖徳太子などは全国的に信仰者が多い。継体の子供の安閑は滋賀県に神社がある。そういう概念、観念というのは神武さんもアマテラスもスサノヲもオオクニヌシも少彦名もみな同じである。

奈良に行くと、市民の信仰心の深さにはいつも驚かされる。奈良の人たちは、それぞれひいきの氏族を持っており、神様も持っている。それは当然のことである。歴史がよそとは違うのだから。彼らには奈良大和こそが日本の始まりという強い信念がある。それを見たよそ者に、やっぱり奈良から日本は始まるのだと思い込ませる力がある。しかし、その考え方は少し安直にすぎるだろう。それは感化されたのであり、客観的な見方とは言いがたい。客観していたら主観まで影響された・・・ミイラ取りがミイラになる人はけっこう多い。たとえばある俳優研究者などは九州出身なのに邪馬台国大和説になってしまった人がいる。奈良にはそういう神がかり的な霊気があるのである。

最大の理由が学校では『日本書紀』を詳しく教えないからである。そうすれば右や韓国が強く反発する・・・そういうことである。
しかしそれでは正しい日本史を習ったことにはなるまい。史学ですら主観的な外力に影響されて、科学であるべき歴史学を自由に学べない日本は、どこかいびつなままではあるまいか?

頭の中から、かじっただけの『日本書紀』イデオロギーをまずは払拭してこそ、正しい歴史は見えてくる。まず『日本書紀』を否定したほうが平等な考え方が見えてくる。文献に頼って個人的に歴史を勉強する非意図は多い。その人々から『日本書紀』を取り上げたら、さて、何も考えられなくなってしまうだろう。そこからはじめるべきである。子供のようにからっぽな脳みそに更新する。大変難しいことだろう。

神武さんが本当にいたと本気で思う人は少ないだろう。その前の神話もお話だとは思うはずである。しかしこれが崇神以後になると、急に3世紀の魏志との比較がはじまってしまう。卑弥呼と崇神、百襲姫と臺與・・・などが始まる。それはおかしいだろうと思わねばならない。最初から卑弥呼が大和の人だと思うから『日本書紀』と引き比べる。『日本書紀』をさほど知らない、ましてそれが中国や朝鮮の記録を脚色していることも知らない・・・。その程度の知識でファンは研究しはじめる。筆者もそうだった。だから遠回りした。けれど、常に眉につばしながら『日本書紀』を見てきた。「うそかもしれない」・・・そういうややひねくれたものの見方は、実は現代の詐欺商法には絶大な防衛力を発揮するのである。信じるものはたいてい救われない。それが仏教やキリスト教のような平等なものならある程度信じ込んでも大丈夫だ。しかし眉唾信仰は山ほどあり、だまされたとあとで気がつく。それははなっから信仰に他力本願だからだ。

筆者などは仏教すら信じてはいない。戒名など往古は自分で作るものだったのだし、お布施など出さなくても実はなにも問題がない。お布施は坊主の口の糊しろになる。

若い坊主がしたり顔で説教しているのを、経験をつんできた老女・老人が神妙な顔で聞いている。仏教の資格は通信教育と三年修行で手に入る。誰でも取得ができるものだ。そこからさらに研鑽を積んで大修行しているのは高野山や比叡山の人たちだけ。ほんのひとつまみである。あるいは民間から修行に入った大あじゃりもおられる。そういうかたがたの話には傾聴する価値がある。しかし民間のお寺の坊さんはさしたる修行よりも、生きていくための寺院経営の苦労しかしてはおられないわけである。それに百万円、二百万円もはらい、念仏のひとつふたつに三万円・・・あれに何万、これに何万・・・この連中はゆすりたかりかと思うことがある。そんな宗教に価値などない。檀家商売だ。

『日本書紀』もまったく同じことである。

問題はうそから真実をひっぱり出す逆転の着想なのではなかろうか?



次回、王朝交替説で気づくべきこと

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水野祐王朝交替説から見えること

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文献史学の偉大な先人・水野祐の王朝交替説は知らない人はいない斬新な説だった。
あらましは、『日本書紀』皇統の中に和風諡号で「イリ」「ネコ」「ワケ」の三種類が大別でき、それぞれ別の王朝で、順じ豪族たちが交替して大王となってきたのであるという説である。

もちろん別の王朝とは言っても、『日本書紀』イデオロギーでは日本の皇統は神武以来、天孫の子孫たちによる穏便な交替であり、易姓革命などはなかったという大前提からは逸脱しない範囲での別の王朝である。そこはかつての万世一系思想から、このラジカルな新説も一歩もはみ出してはいないものであろう。

しかし、気づくべきことは「三つの別の王朝があった」という水野の言外の真意である。当時の日本では言えなかった隠された真意がここにはあるのではないか?

「三つの「王朝」」とは、とりもなおさず易姓革命ではじまる別々の王朝であってもかまわないのではないか?


イリ王朝とは「婿入り」王家
ネコ王朝とは祭祀者氏族の王家
ワケ王朝とは倭五王以前の王家から分離独立した王家

というのが筆者独自の捉え方である。

最後のワケ王朝はだからわかりやすい。応神以降の河内王朝のことである。しかし応神直前の三輪王朝の王たちにもワケがつくので、これでは河内王朝は三輪王朝から独立してはいないことになってしまう。だからこの説にも、少し難しいところは多いだろう。

思い切って継体以後と以前を切り離して考えるほうがいい。継体以後を「かなり実在性が高い王朝」と見て、それ以前をなかったものとしてとらえておく。
するとワケという言葉に別の意味を探す必要が出てくる。それはワケが3世紀纏向から続いた吉備系王家であるという見方である。

つまり大きく言えば、この王朝交替説のイリもネコもほとんどなかったもの、創造された王権と見ることになる。なぜなら、婿入りなどは当時の王権では当たり前であり、のちの武家政権でさえ、そういう非常事態は存在する。またネコが根子で祭祀者であるとしても天皇とははなっからシャーマン王なのだから全員に共通する概念だと考えられるからである。するとワケ=分家というのがつまりは実際は革命王権だったのではないかと気づくのだ。

そしてもしそれが吉備王家周辺にあった「別」氏族の王権だったならば、考古学的に、纏向遺跡の吉備系祭祀土器と合致でき、さらには卑弥呼までつなぎ得る古墳時代からの王統が大和にあったという説を導くダイナミックな仮説(邪馬台国大和説)にすることも可能であろう。

一方で、ところが、そのワケ王家は武烈でおしまいになっており、継体という新興勢力の登場から今の天皇家まで、一本の息長系譜でもって『日本書紀』は貫かれることになっている。ここに虚偽が見える。

ということは、卑弥呼の流れは継体によって、一旦断ち切られたことになるのではないか?となる。もちろん系図はうまいぐあいに河内王家の姫と継体が結婚して団結できたことにしてあり、そこから中継ぎ安閑・宣化を経て欽明が生まれ飛鳥へと、うまくぎりぎりセーフのつながりを見せている。


しかし、それは信用できないのではないか?

継体の実在もきわめて疑わしい。いや、攝津にそういう大王が入ってきたのは間違いないだろうが、それが息長氏との婚姻で生まれること、さらに河内王家の最後の娘と婚姻することも信用できない。つまり継体は実力で大和を乗っ取ろうとした百済系の王族かも知れないのだ。

継体の死後、二人の王はすぐに死んでいる。二人ともに。彼らは継体と尾張氏の娘から生まれてきた。尾張氏は海人系豪族である。息長氏も海人系商業氏族である。
大和王権にとっては「外人」でしかない。そして欽明はちゃんと河内の血脈を引いた正嫡である。


当然、『日本書紀』イデオロギーでは欽明があとをつぐのが正しい。そこで継体王家は消されたことに気づく。ところが消されたはずの息長系譜が、敏達に嫁入りしてくる。広姫として。突然。母親がわからない。先祖は父親しかわからない。継体や神功皇后とどう関わるのかも、オオホド王ともつながりが書かれていない。どこの女性なのか?しかしその子供たちがやがて天智と天武を生む。そんな馬鹿な話は聞いたことがない。


それこそワケがわからん系譜ではないか。



往古は豪族の持ち回りだった大王制度は世襲ではなかった。それが継体三代が初めて世襲し、それを蘇我氏が受け継ぐ。そしてそこで古代の持ち回り制度が終焉するのである。すると持統が登場し女帝時代が花開き、最終的には天智の子孫が世襲を存続してゆく。敗戦前まで、日本の天皇家にも複数継嗣の予備氏族があった。それがGHQによって整理され平民になっている。有名な竹田家などがそうである。それはつまりもしかして正嫡ができなかったときのために存在してきた一家である。もし敗戦前の制度が戻ったとしたら、彼らもまた皇族の仲間に復活する。そういう出来事が古代になかっただろうか?あってもおかしくはなかろう。


たとえば葛城氏や物部氏の復活がなかったか。




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2015年春福岡県遠賀川流域古墳一般公開案内

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福岡の装飾古墳専門家・蕨手さんのブログから転載します。




特に今日明日まで公開中の王塚古墳は一度は見ておくべき豪華な古墳。展示館の完全復刻した装飾ではにかわのにおいがして、往古できあがった当時の関室内の雰囲気がじかに体験できます。


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福岡県立王塚装飾古墳館
〒820-0603
桂川町寿命376番地
開館時間午前9時から午後4時30分
休館日・月曜日(祝日の場合はその翌日)
・年末年始:12月29日から翌年1月3日まで
入場料大人 320円(270円)
中高生 160円(120円)
小学生 100円(80円)
小中高生は土曜日無料
※消費税を含む。
※( )内は20名以上の団体料金
駐車台数58台
お問い合わせ王塚装飾古墳館
TEL:0948-65-2900


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三橋貴明の経済の考え方は古代史にも転用できそう?

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【日本経済】戦後日本の情報の歪み(情報提供:三橋貴明) 期間限定放映        

筆者は現代経済には興味はない。
ただここで言っていることを「経済」を「古代史」に置き換えた場合、ほとんどぼくがやっている発想法と同じものであると感じた。
だから参考までに貼り付けておきたい。
発想・着想のヒントにはなるだろう。


マスコミは信じない。
アカデミズムは信じない。
定説では納得しない。
自分なりのオリジナルな判断をくだしたい。
正確に事態を判定したい。
客観的でありたい。
古代史にそれらを求める人には。


限定放映だと言っている。いつ削除されるわからないとも。
しかし筆者にはここで言っていることはしごく当然の自由な考え方であり、それほどめくじらを立てるほど過激な発言だとは思えなかった。あたりまえのことを言っている。また客観的な見方、だまされないという手法は、そのまま詐欺商法対策としても流用できるのではないかと、いろいろに応用可能な、現代都市生活の基本を言っていると見えた。少なくとも、筆者の生活観、古代史観は彼の言っているとおりのノウハウでここ10年間以上やっているつもりである。いや、もしかすると社会に出て少ししてから、ずっとそうだったのかも知れない。


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蘇我氏と八佾(やつら)の儛(まい) 禅定 草壁皇子は天智の私生児

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『日本書紀』
皇極元年是歳「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟(おやのまつりや)を葛城の高宮に立てて、八佾の儛(やつらのまい)をす。遂に歌を作りて曰はく、

 大和の 忍の広瀬を 渡らむと 足結手作り(あよひたづくり) 腰作らふも

又、尽に国挙る(ふつくにこぞる)民、併て百八十部曲を発して(あわせてももあまりすそのかきのたみをおこして)、貯め双墓(あらかじめならびのはか)を今来に造る。一つをば大陵(おほみささぎ)と曰ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵(こみささぎ)を曰ふ・入鹿臣の墓とす。望はくは死りて(ねがわくばみまかりて)後に、人を労らしむること忽(ひとをいたはらしむることまな)。」



八佾の舞とは以前解説したが8×8=64人が列を組んで踊る、古代中国では身分が天子のものにしか許容されていない舞踏様式で、蘇我氏がただの諸侯であるなら当然、八佾は不遜。諸侯なら六佾(むつら・36人)程度がふさわしいものだった。つまり『日本書紀』は蘇我氏が天皇を乗っ取るつもりだと表現したのである。もちろんそれは王蒙の白い雉同様の、滅亡の前置き記事である。

しかし、なぜ舞台が葛城だったのか。蘇我氏が祖廟を葛城の高宮に造ったのはなにゆえだろうか?蘇我氏は本当に葛城氏の分派=言い換えれば武内宿禰の子孫だったのだろうか?

考古学の発掘では、葛城襲津彦の墓らしい場所からは、直弧文で飾られた楯をかたどった埴輪が出ている。だが蘇我氏の墓はというと、馬子の墓はからっぽだったのだし、蝦夷の「大陵」や入鹿の「小陵」もまだ今のところ「らしい」候補までで、発掘は進まないので、内容がわかっていない。この直弧文が3世紀以前、吉備の弧帯文にその源流があり、3世紀の纏向から似ている弧文が出ているので、葛城氏が吉備由来氏族であろうことはまず間違いがない。このことは邪馬台国大和説の強い助っ人になっている。卑弥呼と同時代の氏族は大和なら葛城氏・吉備王氏・吉備別氏・和邇氏・大倭氏・物部氏・尾張氏・丹後王氏などなどであろう。三尾や息長や宗像もそうかも知れぬ。九州なら宗像氏・筑紫国造家・大分君・火君・火中君などが考え付く。
阿多隼人氏もそうだろう。豊前にはすでに秦氏もいたかも知れない。 

しかし蘇我氏と吉備や纏向に今のところ関連はなさそうである。ただ出雲大社神殿の真西に素鵞(そが)社本殿が置かれていて、読みが「そが」なので、もしや蘇我氏と関係が?という説はあるにはある。もし蘇我氏が出雲由来氏族なら、当然、日本海に入った外来氏族である可能性はあり、蘇我氏がスサノヲを祖とした氏族であるならばそれを後押しするが、反対に、今度は武内宿禰が祖であるという葛城系譜には反する可能性も出てくるのである。もっともスサノヲは天孫、武内宿禰はいかに300年生きたといわれていても祖神ではなく祖人に過ぎない。氏族には祖神と祖人は常に別に存在する。

出雲からは吉備系祭祀土器が出るので、西谷古墳周辺が彼らの出身地であってもいい。スサノヲや安来に来てようやく心が「すがすがしくなった」と言う。その「すが」が「そが」かも知れない。スサノヲはあらゆる渡来系氏族にとって祖神にされる共通対象である。それがやがて比叡山では新羅明神と変化してゆく。新羅という国名を記紀の時代は、半島全域ととらえておくほうがよかろう。呉・韓・唐などと同じようなアバウトな扱いである。

そもそも蘇我氏という文字は、正しくはあとづけで、自称では「宗我」ではなかったかという説は強い。蘇我だと「我れ蘇る」という文字だが、宗我なら「我れこそ本家」になる。だから親戚だった蘇我倉氏と別けるためにはこちらのほうが「本宗家」でふさわしいとも言える。

奈良市には蘇我原という氏姓が今もあって、テレビにも登場したのを最近見たことがある。そもそも息長などと比べて「曽我」「曽賀」さんは全国にけっこうおられる。
蘇我氏は本家はついえたと書かれたが、倉石川家の人名は『日本書紀』にもまだいくらも出てくる。両者の血縁が本当だったかはこれまた不明で、なんとも言いがたいが。

いずれにせよ八佾舞をまわせたことも、墓を自分で名前をつけることも、天皇にとっては不遜なことだった。しかも皇極二年には、「枝葉を折りて木綿を懸掛けて、大臣の橋を渡るときをうかがいて」「神語」を巫覡に語らせたとあり、まったくの神にでもなったようなことだと書かれてもいる。国中からシャーマンを呼んで「神語」つまり神への寿ぎの祝詞を語り掛けさせたわけだから、これはもう天子の振る舞いである。『日本書紀』はどうしても蘇我氏を乗っ取り政権であるとしたいのである。

皇極二年十月「ひそかに紫の冠を子、入鹿に掛けて大臣の位になぞらえた」

この冠はしかし、蘇我氏内部での嫡子への印であろう。冠位を与えたわけではないのだが、まことしやかに天皇から冠位を受けるはずのことを勝手に蝦夷がやっと書き立てる。すでに冤罪も極まれりである。

さらに同月、蝦夷たちは蘇我系皇子である古人大兄を天皇に立てようとしたと書かれる。

しかし古人大兄は案の定、その後は夭折し、これはあきらかに蘇我氏を悪者としてゆく必要があった者のしわざとしか思えないのである。

蘇我本宗家氏の血脈はこうしてついえた。

絵に描いたように、蘇我氏の血脈はつぎつぎに消されてゆき、ついに聖人であるはずの厩戸の上宮までもが・・・。それをすべて蘇我氏のせいにしてしまう。こうして乙巳の変のための正当性は着々と文章の中で固められていった。


『日本書紀』乙巳の変は、当然、事件があったあとに書かれた記事である。100年前の事件である。覚えている人はもう当時の寿命(平均18歳。貴族成人でも20~30歳程度)では大半、死んでいるのである。おわかりか?寿命まで考えておかねば古代は見えナイ。


乙巳の変の大和注進主義古代史における意味は、継体一族も同じだが、世襲王家の暗殺であり、それ以前の天皇「禅定」制度にUターンさせることにあるのだ。それが藤原氏の傀儡女帝を動かす宰相としての最良の手段なのである。『日本書紀』を通読すれば、葛城氏、物部氏、吉備王家、和邇氏、尾張氏などなどの実力者たちが次々に消されていくことに気づかねばならない。なぜか?なぜ古い豪族たちの代表選手たちがどんどん消えてゆくのか?誰が考えても気づくはずだ。最後に笑ったのは誰なのか?藤原氏だろう?と。


禅定という前提は武烈から継体の継承の中に登場している。河内王朝最後の王だった武烈は、はっきりと越前近江の王オオドに天皇位を「禅定」す、と明記してあるのである。これが古代最後の持ち回り制王家の最終例なのである。以後、天皇は蘇我氏の世襲制に大変換しているのだ。つまり蘇我氏政権はこれははっきりと易姓革命実行者だったと言えるのではないのか?



蘇我氏は上宮王家も崇峻も殺したり滅ぼしたりはしていないのである。なぜなら新参氏族で、少数だった蘇我氏が、数少ない、しかも稲目・馬子から営々と築き上げてきた天皇との外戚関係で生まれた貴重な子孫たちを「あにころさんや」!


その「アニ」という使い方の間違いが、乙巳の変の臨場感あふれる天誅シーンで使われていることは前にも書いた。「あに天孫を以て鞍作に代へむや」である。

これは間逆でなければばらない。「なぜ天孫=天皇家を鞍作=入鹿にとって変わらせなくてはならんか」となってしまっている。天皇になろうとしたのは入鹿の方である。だからこれは天孫と鞍作がまったく逆になってしまっている。乙巳の変記事は森達博分析でα群、つまり中国人が正しい漢文で書いた記事である。なのに、なぜこんなケアレスミス?
当然、ここだけあとから誰かが書き換えたのである。※1


書き換えは文武朝時代に起きた。遠山美都男はそう推定する。『日本書紀』β群を追加したのが文武時代である。これは森の分析でまず正しい。日本人が造った。だから漢文がα群とβ群ではあきらかに違う。α群は正しく、β軍は奇天烈な部分が多い。文章にはくせが出る。それが双方を明確に別けられる決め手になっている。文武の後見人は藤原不比等である。だから不比等が書き換えの張本人である。


持統の孫である文武を誰が天皇にしたか?不比等しかいない。そのことは『日本書紀』の神話の中にちゃんと前置きしてある。

アマテラスは天孫として長男の天忍穂耳命を地上界へ降ろさせようとしたが、ちょうどそのとき忍穂耳には長男が生まれたので、これを代わりに降ろしてくださいと忍穂耳はアマテラスにお頼みした。こうしてニニギノ命は天孫として、まとこおふすまの船に入れられて地上に降りてこられたのだ。その場所は筑紫の日向の高千穂の峰である」


文武=ニニギ


母持統=アマテラス


長男忍穂耳=草壁=実は天命天智の子供


目から鱗は落ちたでしょうか?



もちろん妄想でしかないが。

証明不能。




※1
これについて筆者は、もうひとつの見方も持っている。
意図的改ざんならばそのままでもよいのだ。
つまり、すでに蘇我氏は大王になって認知されているという見方である。
それに対して「なぜ本当の大王家がとってかわらねばならない事態になってしまっているのか?」と取れば、文章はそのままでよかったことになる。だから最初はちゃんとなっていたところを、不比等は正反対にあえて変えた。するとすでに蘇我氏は乗っ取っていると言う事になり、王家として認められてしまったものを、もう一度元に戻すのだということがいよいよ強調される。








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隅田八幡鏡偽物、継体虚構、日十王複製、上宮紀大嘘 ばらしたら国賊ですか?

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本論の前に、先に蘇我氏の滅ぼしたという上宮という言葉について解説する。

「上宮 かみつみや」とは厩戸の一家という意味である。
蘇我馬子の妻は物部守屋の妹・大姫である。この女性は大変欲が強かったと思われる。守屋惨殺の背景に彼女が優柔不断な夫馬子をそそのかしたという説がある。兄を殺して守屋の持つ、物部総領としての宝物管理権を奪おうとしたとも考えられている。「「上宮記」とは厩戸の「撰」に仮託された歴史書」と『釈日本紀』引用「上宮記」にある。そもそも実態がよくわからない解説である。偽書である。

上宮については『日本書紀』には詳しい記事は少なく、
『上宮聖徳法王帝説』では厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児、山代大兄王(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非也)とされ、母は、蘇我馬古叔尼大臣娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)、妻は舂米王、子どもは難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、佐々女王、三嶋女王、甲可王、尾治王が生まれたとされる。

飛鳥天皇御世 癸卯年10月14日に、蘇我豊浦毛人大臣兄入鹿臣□□林太郎が伊加留加宮にいた山代大兄とその昆第等、合15王子等ことごとく滅すなり(「飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣□□林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆第等 合十五王子等悉滅之也」)と記述されている。(□は欠字)


『聖徳太子伝補闕記[6]』(これも後世の偽書)には、

癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害 (今見計名有廿五王)山代大兄王蘇、殖栗王、茨田王、乎末呂王、菅手古女王 舂米女王膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王
とある。 癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、6日後の 辛卯辰時に大狛法師[7]が事件後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。


こ3冊の書物は、しかしいずれも太子死後から相当あと、『日本書紀』からもあとの時代の記録で、いくらでも内容は想定できた時代のもの。上宮という一家があったかどうか、『日本書紀』が何も書かない限り、存在すら疑うほうがよかろう。








さて継体大王である。
継体の父の名前はちゃんと記載があり、オオホド王という近江の人であるという。
ところがオオホドと継体の男大迹・袁本杼命(ヲホド)は「大ほど」「小ほど」という意味しかないので、ただ親子だったよという名前になっている。

そして継体は母親が越前三尾氏の娘・振姫(ふりひめ)で、この人は垂仁天皇の七世孫となっている。きわめて疑わしい出自だと言える。垂仁とは崇神の子で、これは1世紀以上も前の人である。3世紀の王統など、当然、作り物である。

考古学では纏向の水路は崇神の作った水垣宮に合致すると近畿学者は言う。しかしそれにしても崇神という王も、いたのかどうか知れたものではない。3世紀なら卑弥呼の時代である。そこになぜ『日本書紀』は女帝ではなく、男帝をあてはめるのか?これからして謎である。なぜ女王卑弥呼を肝心なところでは無視するのだろう?さらに4世紀には宗女・臺與の片鱗すらない。なぜだ?


この時代の天皇を女帝にすれば魏志の事実、倭王の王統をそっくりそのまま奪えたはずなのに、なぜ利用しないのか?ここが大和説の大きな弱点であろう。纏向は最初、学者はこれこそが邪馬台国に相違ない!!と色めき立った。ところが水路が張り巡らされていた。それはどうも『日本書紀』の崇神のやったことではないか?に方向変換せざるを得なくなったという経緯がある。


水路を作ったのは崇神や垂仁だったかは実は問題ではない。そんな王統は最初から『日本書紀』の作り出した創作、作文の登場人物でしかないのだ。そして考古学的には纏向は吉備の祭祀土器(弧文円盤・弧帯文つきの土器)が出たのだから、邪馬台国問題はさておいて、間違いなく吉備系王家がそこにいたという証明なのだ。客観的な事実はそれだけなのである。

これに勝手に最初から邪馬台国をからませたのは大和説側文献史学者たちだけである。九州は認めていないし、よそも認めてはいない。全国が納得してはいないのである。ここを間違えてはならない。

これは考古学では「やってはならない」手法なのである。そう、まさに経済学の三橋貴明が言っていることなのだ。

記紀や記録と考古学発掘に、最初から意識的に邪馬台国をからませるのは学者としては実は掟破りである。ところがマスコミが大騒ぎした。邪馬台国か?!ついに決まった!!などと、勝手に大喜びし始めた。これが一番の諸悪の根源だった。視聴者はもう邪馬台国問題は決したと思い込む人が急増した。常にマスコミは話題を求める存在だ。ありもしないことでも、しかし一旦言い立て、書き立てれば、いわしの頭もマスコミも神である。


さて、母親は越前の九頭竜川そばにある三国の出身で、これが三尾氏の本拠だったと思われるが、若狭湾にも三尾や三国があり、いまだ諸説ふんぷん。この女性も、また継体の父オオホド王も、それから先がわからない。誰かに似ている?そう息長広姫とそっくりの不明な祖先。先祖がはぶかれた氏族なのである。

継体の存在は、つまり『日本書紀』の易姓革命と禅定天皇位の前例である。倭五王がいたはずのところに応神以下を突っ込み、卑弥呼がいたところに崇神の三輪王家を突っ込み、そしてあとから魏志倭人伝に気がついたのだろう、あわてて神功皇后紀に倭人伝曰くというメモのような走り書きを入れるので精一杯。しまったと思ったはずである。だから崇神~仲哀も作文でしかないということなのだ。ただし、そのコラージュにはちゃんと大和地方や摂津地方、あるいは九州、吉備などの既存の氏族伝承の王たちをつぎはぎして名前だけ変えたのであろう。


こんないい加減な継体記事を信じるものがかつていたこと自体、驚きである。それはつまり昔の人々が記紀をほとんど読まず、言われたままの勉強で、わかったふりをしてきたからだと思うほかありえない。あなたもわたしも、そういえば、受験に無関係な歴史の部分はほとんどおざなりで、ふんふんと素直に聞いていたはず。しかし、そのいい加減学習が、あとで日本にとんでもない大災難を引き起こす。世界大戦での初めての敗戦である。そしてはじめての被爆。無知ほど恐ろしいものはない。その証明だった。歴史はうそはつかない。ちゃんと真実を語ってくれているのだ。

明治政府!!
『日本書紀』大うその上乗せ。
それがこの国を存亡の危機に追いやった!!


そして今、今また、大嘘によって原発事故という恥の上塗り!!!!!

ばかじゃないのかぼくたちは?






同じ間違いが繰り返される・・・。





継体の五世孫などの捏造は、すでに中国の後漢・劉秀の出自でも使われている。彼は前漢の劉邦の子孫である景帝の六世孫である。これもあやしいものだ。


劉邦そのものも実にあやしい出自。それが始皇帝からつながると強引。


こういう系譜はすべて信じられない。だいたい武家の系図もほとんどが源平藤橘の子孫・・・これまた真っ赤な大嘘でできている。系図などないのと同じである。祖神があって祖人が出てきて中興の祖が出て、最後はひどい大王で、天命によって転覆する。そういう作りなのだと思っているべきである。信じる人は基礎学力の足りない人だろうと思うことだ。そしてそんんあやからほど大騒ぎする。迷信に走る。マスコミを信用する。戦争を起こす、カルト宗教で犯罪を犯す。国を傾ける。外国に笑われてめざめるがもう遅い。国家は信用を落とす・・・。まるで悪の連鎖である。あなたは違う。違いますね?当然です。学識もある。客観性もアル。まともな人間だ。そうでしょう?そうだよね?




さて、そしてこの継体こそが天智を始めとする世襲天皇氏系譜の祖人だということに『日本書紀』はしてあるのである。どう思いますか?おかkしな話じゃあないですか?


ここで考古学的な遺物だと誤解されている国宝隅田八幡宮人物画像鏡の銘文である。この鏡はコピーされた画像鏡で、考古資料ではなく伝世鏡である。和歌山県の隅田八幡宮司家に代々伝えられてきたのを、国が国宝制度が始まったときにばたばた取り上げて東京へ持ち帰り国宝に指定してしまったが、実のところこんな鏡はいくらでも作れるのである。銘文などいくらでも捏造もできる。そう思ったほうがいい。


さておき、ここにはオオド・ヲホド王の名前は「日十王」と記されていて、読み方は「おしひ」であるという説がある。おそらく「押し日」のおおきみとか読ませるつもりの銘文だ。この「オシヒ」は分解すると「ヲヒ」と「ウシ」に別けられそうである。「ヲヒ」とは、記紀すら書かなかったのになぜかあとの時代の「上宮紀」に書かれている継体さんのじいさま「乎非」に、「ウシ」とは同じくおやじさんの「汙斯」を合体させたしろものだと沖森卓也や遠山などは言うのである。出ました、また出た、同じ名前でつきとおす大嘘であろう。いわゆるこれが『日本書紀』などの文献の手口なのだ。

参考沖森卓也『日本語の誕生』2003 遠山美都男『天武天皇の企て』2014


ここで「上宮記」もまた、信用できない書物であることに気づくはずである。あとからつじつまあわせをしているのである。あ、しもうた、ここはこれ書くのを不比等はんが忘れてはるわ~~~みたいなやり口である。上宮記は信用できない。ということは上宮の存在すら信頼できない。ということはその父親だった聖徳太子だってまったく信用できなくなるのである。そもそも大山誠一が書くまでもなく、聖徳太子関連の文献や遺物はすべて後世の捏造物である。



わかりますか?これがだまされない客観性なのです。
『日本書紀』のうそはまだまだある。次回はいよいよ大団円。神武さんのご登場でありま~~~す~~~~。




もし偽書を信じて起こした戦争であなたの親戚か誰かが戦死し、英霊となっていたとしたら、この問題は政治問題になりますよ。いいですか?天下の大嘘で何万人もが死んだのですからね。これが大問題だと気づきましたか?

だからこれまで誰にも書けなかったのです。わかりますか?国家を告発するのと同じことだったのでこのあいだまで。ぼくはでは国賊ですか?遠山さんも大山誠一も倉本さんも関裕二も全部、国賊ですか?違いますよ。真実をあばいただけですよ。ヒーローでしょう?さあ、殺せ。




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あま 天・海 /邪馬台国などなかった

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あま
海・天・空
海人・海士・海部・海女・白水郎・蜑

亜麻


あまのはら(天空)⇔わたのはら(海原)
      もろこしにて月を見てよみける         安  倍  仲  麿
  あまの原ふりさけみれば かすがなるみかさの山にいでし月かも

間人宿祢大浦の初月の歌二首
289 天原 振離見者 白真弓 張而懸有 夜路者将吉
    あまのはら ふりさけみれば しらまゆみ はりてかけたり よみちはよけむ

部宿祢赤人が不盡山を望む歌一首
317 天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者
あめつちの わかれしときゆ かむさびて たかくたふとき するがなる ふじのたかねを あまのはら ふりさけみれば わたるひの かげもかくらひ てるつきの ひかりもみえず しらくもの いゆきはばかり ときじくぞ ゆきはふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ ふじのたかねは

伴坂上郎女が神を祭る歌一首
379 久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齋戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞
ひさかたの あまのはらより あれきたる かみのみこと おくやまの さかきのえだに しらかつけ ゆふとりつけて いはひべを いはひほりすゑ たかたまを しじにぬきたれ ししじもの ひざをりふして たわやめの おすひとりかけ かくだにも あれはこひなむ きみにあはじかも

万 巻第十四 東歌相聞 3369 作者不詳
 安麻乃波良 不自能之婆夜麻 己能久礼能 等伎由都利奈波 阿波受可母安良牟
  天の原 富士の柴山この暗の 時ゆつりなば 逢はずかもあらむ
  あまのはら ふじのしばやま このくれの ときゆつりなば あはずかもあらむ
  (右五首駿河國歌)


参議篁(11番) 『古今集』羈旅・407
わたのはら やそしまかけてこぎいでんと ひとにはつげよ あまのつりふね

「「天」はあまと訓読する。
 天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】
 
【】内の注意書きの意味は「高の下の天を訓みてアマと云う。下は此れに赦へ」・・・・・『古事記』
 
この天(あま)は本来、海人(あま)を指していて、この海人の生活領域や支配領域が「天(あま)国」であり、その海人達が奉じる神々が「天の○○神」と呼ばれ、その神々を総じて天神(あまつかみ)と呼んでいる。
 
 『古事記』であれ『日本書紀』であれ、この神話が描く世界は海洋民族の世界であって、「天の領域」は「国生み神話」で語られる「天」という亦の名を持つ対馬海流が流れ来る玄界灘に浮ぶ、隠岐・沖ノ島・壱岐・対馬等々の島々で、その中核(中心地)となっているところが「高天原」である。
 
イザナギ・イザナミの神による国生み神話では下のような国を生みますがその特徴は、国とは云ってもその実質は「嶋生」みです。
 
①淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】→淡路島
 
②次生伊豫之二名嶋 此嶋者身一而有面四毎面有名故伊豫國謂『愛(上)比賣』【此二字以音下效此】 讚岐國謂『飯依比古』 粟國謂『大宜都比賣』【此四字以音】土左國謂『建依別』 →四国
 
③次生隱伎之三子嶋亦名『天之忍許呂別』【許呂二字以音】→隠岐の島
 
④次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名 故筑紫國謂『白日別』 豊國謂『豊日別』肥國謂『建日向日豊久士比泥別』【自久至泥以音】 熊曾國謂『建日別』【曾字以音】 →九州
 
⑤次生伊岐嶋亦名謂『天比登都柱』【自比至都以音訓天如天】 →壱岐
 
⑥次生津嶋亦名謂『天之狹手依比賣』 →対馬
 
⑦次生佐度嶋 →佐渡島
 
⑧次生大倭豊秋津嶋亦名謂『天御虚空豊秋津根別』 故因此八嶋先所生謂『大八嶋國』 →豊国の秋津
 
 然後還坐之時
 
①生吉備兒嶋亦名謂『建日方別』 →吉備の小島
 
②次生小豆嶋亦名謂『大野手(上)比賣』→小豆島
 
③次生大嶋亦名謂『大多麻(上)流別』【自多至流以音】→大島
 
④次生女嶋亦名謂『天一根』【訓天如天】→姫島
 
⑤次生知訶嶋亦名謂『天之忍男』 →五島列島
 
⑥次生兩兒嶋亦名謂『天兩屋』【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】→沖ノ島
 
以上『古事記』から
 
これらの淡路島以西の14の嶋の「国生み神話」のうち「天」という亦の名を持つ嶋が倭国の始源の歴史を持つ嶋なのだろう。
 
 
 
天照大神から神武天皇の父親までの名前に「天」が付きますが、これは上に記述した国生み神話で語られる天国のその支配者の名前です。
 
①天照大御神
 

 
②正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
 

 
③天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能迩迩藝命
 

 
④火遠理命亦名天津日高日子穗穗手見命
 

 
⑤天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
 
この天の領域の天神の(血)統を継いでいる者が姓は阿毎(あま)字は多利思北孤と『隋書』に記載されている「日出づる所の天子」であり、その統治する所は九州です。
 
 
 
2、「天の下」 九州の地にあった「天」に対して九州の地から大和の地へ東侵して来た初代の神武天皇から推古天皇までの大和を中心とした支配領域が 「~坐○○宮治天下~」とあるように「天の下を治す」と呼ばれているが、初代の神武から32代推古天皇まで「天」の名前を持つ天皇はいません。
 
 神倭伊波禮毘古命坐畝火之白梼原宮治天下
 
 神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下
 
     ・ 
 
     ・
 
 (32代)妹豊御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下
 
 
 
この大和を中心とした領域が「天の下」であり、九州の地たる天(国)からの分国を示しています。
 
 『盗まれた神話』古田武彦著が参考になりました。
 
 
 
3、この「天」と「天の下」を東アジアへと視点を拡げて、俯瞰すると『旧唐書』でいう倭国と日本国の姿として見えてきます。
 
この「天」が旧唐書に云う倭国
 
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり。山島に依って居る~世々中国と通ず。~四面に小島、五十余国あり、皆これに附属する」
 
対して「天の下」が旧唐書に云う日本国
 
「~その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸な大海至り、東界北界は大山ありて限りをなし山外は即ち毛人の国なりと」
 
そして、やがて「或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと~」。
 
 
 
これが日本側と中国側の史料が記述するところの古代の真相というものです。」
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_12-G.html

「あま」という言葉には、空と海という正反対の意味が持たされている。もともとは「あま」は海であろう。天は「あめ」。この「あめ」が「あま」へ変じたか?「天の」とつく天皇諡号は多いが「あめの」と読むか「あまの」と読むかに法則でもあったのだろうか?

阿毎多利思比孤
「あまたらしひこ」「あめのたりしひほこ」
「開皇20年(600)、俀王あり、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。~(略)王の妻は雞弥と号す。後宮に女6、7百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利となす」


『隋書』倭国伝は「阿毎」と表記してある。
ならばこの場合「あま」であろう。
この人物は蘇我馬子。
なぜならば中国から使者を迎えるこのシーンで、時の権力者馬子は出席していない。
かわりにこの「たりしひこ」なる人物が上座の壇上にいた。
厩戸も推古もここにはいない。
すると取捨選択していくと馬子だったとしか考えられなくなる。

俀国という表示も奇妙ではある。これは「たいこく」としか読めない国名である。するといったいこれはどこの国の話だろう?となってしまう。

俀国とは中国呉の近くにあった南越(かつてテン国というものあり)の俀のことである。圧迫により南下してベトナム北部で越南。この越南の読み方がベトナム。倭国と同じ蛇の鈕を持った金印を送られた国である。その風俗はほぼ倭人に似ていたのだろう。つまりどちらも海人文化の地だったことと思う。

現代のベトナムと日本文化を比較しても、コメ食・魚食・魚醤・船と、かなり似ている。ベトナムはかなり中国文化に染まっているけれど、それはあくまでも江南以南の文化の流入。のちに華僑の流入によって華北文化も。

隋書の言う俀国とは果たして日本の飛鳥時代なのかどうかがそもそも問題になっているのである。

ただし隋書は俀国の首都についてこう書き記す。


A:俀国は百済・新羅の東南にあり。水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。
B:魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国~
C:古よりいう「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里にして会稽の東にあり、儋耳に近し」と・・・・・『隋書』俀国伝


これはどう見ても日本である。



どうやら隋書編集者はかつての俀と倭を同じモノと勘違いしたようである。

「俀」は「たい」であるが「て」とも読む。
訓は「よわい」。
漢和辞書にはこの文字はない。

同音文字で「壹」「臺」「堆」「台」があるので、隋国人にはこれらとの混同もあったと考えられる。「壹」や「臺」の混同は魏志にもあるようだ。邪馬台国の表記に諸説ある。しかし「たい」は「台」であれば「うてな」「くに」「土地」であり、「台」「堆」と同じ意味となる。つまり「やま・たい」の「たい」は「台」=土地だった可能性が大(・・・にやり)。



これらの音のどこにも「いち」は出てこない。ゆえに九州王朝説の「邪馬壱国」説は却下される。大和説の「と」も出てこないから却下。



すると「やまたい」には「やま」しか意味が見出せない。「やま」は「山」「耶麻」か?「山がある土地」となり、ほとんど何も意味がない国名と言える。すなわち邪馬台国などは漢書・魏志の作った地名。そんな国はなかったことに帰結する。

江南諸国に対する政治的にけん制する位置にあってほしかった華北諸国代々の夢の国であろう。






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[転載]アレクサンダーと神武・奇妙な一致

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※これは決して興味本位な内容ではありません。日本の神話に反映された西洋の伝説を誰が持ち込んだかの分析です。西欧の伝承としては聖徳太子伝説にキリストの聖書伝承がどうやらいくらか紛れ込んでいる可能性が高い。すると神武やツヌガアラシトなどの説話にアレクサンダーの伝説が紛れ込んだ可能性は捨てられないことに気がつく。下はその対応一覧表である。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/87/53287287/img_0?20150420103956

あまりにも似ていることに気がつく。
アレクサンダー大王は4世紀の実在人物だったが、西欧人は彼を溺愛するゆえに、時代を経て、実にさまざまの荒唐無稽とも言える伝説を創作している。その範囲は中国から「ワクワク」=倭国?というありえない東征をしてゆく、ぶっとんだ主人公像まで生んだ。これらがすべて空想であることは間違いないにしても、では一体4世紀以後の人々はどうして東アジアの国々のことまで知っていたのか?
しかも中国からワクワクを訪問したあと、愛すべき伝説のアレックスは南米にまで足を運んでいるのである。

例えば、それらの話のほとんどはシルクロードのステップ交流によって高原を東西に、交易品を運ぶ人々によって持ち込まれ、もって帰られて、加工編集され、4世紀というありえない時代の出来事として創作されていったのは間違いない。聖書もまた商人とともに世界を横断し、伝承は東アジアに持ち込まれていたと見て間違いないだろう。しかし南米ともなると海の交流が必要で、それらはかなりあとの時代の創作だったと感じる。大航海時代だっただろうか?

いずれにせよ、日本では応神天皇が、やはり4世紀あたりに移動している気配がある。神武東征が紀元前に起きているとは思えないが、応神の4世紀ならばありえぬ話ではなくなる。そしてその「東征」がアレクサンダーと同時代であろうことは、地球の気候の安定がその時代にあったことを勘案すれば、世界が同時に大きな移動をするきっかけとしての温暖化を見つめるにはヒントとして大きいだろう。

■乾豆波斯達阿(かんずはしだちあ)の漂着
面白いことに『日本書紀』斉明天皇三年(657)に吐火羅人一行が筑紫に漂流した記事が存在する。
イラン学の井本英一は、この乾豆波斯達阿の名前は「サマルカンド発ペルシアの王族ダーラー」と読み解いている。吐火羅とはどこであるかはいまだに決着がついていないが日本の南海のトカラ列島だろうか?再び薩南の隼人たちが関わったか?あるいはミャンマー、タイ説。あるいは西域のトハラだったか?
この話がすぐにアレクサンダーやキリスト伝説の来訪にはつながるわけではないが、海を越えての交流といえばやはり海人族の行動力の広さを思い出さずにはおれなくなる。

■ツヌガアラシトの角とアレクサンダーの角
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/87/53287287/img_1?20150420103956
マケドニアの大王であるアレクサンダーの系譜は、ササン朝ペルシャではペルシャ王統譜に入っている。
ダーラーとはダリウスで、ペルシャの王族だけに許された名前である。
その吐火羅人が来た時代はちょうど天智がまだ中大兄皇子だった時代で、天武・持統が『古事記』『日本書紀』を編纂する直前である。

そしてそれらは神武東征譚にあまりによく似ている。

さらにアレクサンダーには羊の角をはやしていたという伝説があり、鳥船のような籠に乗って空を飛んだ伝承まである。

新羅の王子である敦賀のツヌガアラシトにも角があって、「つのがある人」という日本名を持ち、その「つぬが」が敦賀の地名を生む。この王子の新羅での呼び名が「ウシキアリシチカンチ」別名「ソナカ(蘇那渇(サンズイはない))シチだった。
一方アレクサンダーの本名はイスカンダ-ル(マンガ「宇宙戦艦ヤマト」はここからか?)。あだ名がズ-ル・カルナイン(二本の角を持つ王)である。中国はそれを漢字で「徂葛尼」と表記(『諸藩志』1215)。

「ソナカ」には朝鮮語で「牛が来る」という意味がある。「ウシキ=牛来」と同じ意味である。「カンチ」は「ハーン」で東北アジア共通の王の尊称。

■海幸山幸伝説もマレー版アレクサンダー譚にはある
■カラスに救われる大王と神武
■一旦敵地に向かいながらどちらも南へ迂回
■山の中でさまよい異人種に出会う
一覧表から抜粋した神武とアレクサンダーの類似点である。

このような類似は、記紀成立までに、まず誰かが聞いてくるか、誰かがやってくるかがあったか、聞き伝えで来たかしか考えられない。やはり海人族やシルクロード交易のおかげだろう。
ある意味、頭の固くなりがちな歴史家に想像力と笑顔をもたらす。

ちょっとした気分転換にはふさわしいおはなし。
そして確かに誰かが来て、誰かが行ったのだろう。
それがはるかな中近東やユダヤやにいきなりつながるかどうかは人それぞれだろう。
自分はおそらく中国経由だろうと思う。海人の仕業である。


参考書 岡本健一「二つの東征伝説――神武天皇とアレクサンダー」『森浩一70の疑問 古代探求』1998所収  画像も






■神武東征説話とアレクサンダー東征伝承の対応

転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

[転載]今月の気になった考古学ニュース・神武とニギハヤヒに関与するか?

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神楽で霊慰める 高鍋・持田古墳群で厳粛に神事

宮崎日日新聞 11月5日(火)12時12分配信
神楽で霊慰める 高鍋・持田古墳群で厳粛に神事
高鍋神楽を奉納するなど、厳粛に神事が行われた古墳祭
 大小85基が点在する国指定史跡・持田古墳群に眠る古代人の霊を慰めようと、高鍋町古墳を守る会(山本隆俊会長)は、山の神塚前で古墳祭をこのほど開いた。満開のコスモスを背景に、厳粛な神事が執り行われた。
 
 
 
高鍋という地名の語源は、この周辺に「鷹の目」つまり鉱山関連者が多くいたからであろうと筆者は推定している。鷹の目一族は例神武東征伝説の大元ではないか?
もちろん今のところはただの妄想であるが、持田古墳群の古さから見て、西都原よりも高い場所からここまで九州山地を降りてきたものがあったことを髣髴とさせ、それは逆に海岸部から見れば、海からやってきた氏族が、山脈内に巣食っていた山の部民を管理した、鉱山管理、鉱物搾取の匂いも漂わせる。
 
神武伝説が西九州甕棺氏族の日向南下による隼人や熊襲の同化を導き、人吉~西米良~西都原~高鍋を経て太平洋へ漕ぎ出した狗奴国連合体をも想定させるのである。
 
 
 
 

 
 

鹿児島・喜界島で琥珀出土 南西諸島で初、岐阜産か

朝日新聞デジタル 11月1日(金)3時52分配信
鹿児島・喜界島で琥珀出土 南西諸島で初、岐阜産か
喜界島・川寺遺跡から出土した琥珀
 【伊藤宏樹】鹿児島県喜界町教育委員会は31日、奄美群島・喜界島南部の手久津久(てくづく)地区の川寺(かわでら)遺跡で、13~15世紀ごろの琥珀(こはく)が見つかったと発表した。本州や九州では古墳時代の遺跡から多く出土しているが、南西諸島の遺跡では初めて。
 
 
 
この琥珀は想像するに、東海氏族との南海産貝の交換品ではなかったか?東海氏族は海部氏や尾張氏がアメノホアカリを祖神としたように、海洋民族的な太陽信仰の神を奉じており、その部として隼人らが帰順していたことは想像に固くない。つまり尾張や物部を神武より先に大和へ向かった出雲系=朝鮮海岸部倭種と見れば、彼らの海を越えたつきあいがあったことは不思議なことではない。彼らが先に大和で、出雲族として前方後方墳を作っていった、弥生時代の玄界灘東部地域のかつては方形周溝墓を作った人々であったとしたなら、そこにはさほどの違和感がなくなる。
 
大和で、やがて前方後方墳よりも前方後円墳が主流と成ったわけは、そうするとあとからきた高鍋神武=狗奴国が勝利したからであろう。これまでの常識とは正反対のことを筆者は考えている。
 
 
 
 

 
 
 

<考古学>大阪・茨木の「東奈良遺跡」 全国初の発見って?

毎日新聞 11月4日(月)12時49分配信
 ◇弥生人が描いた銅鐸の絵 つぼに写実的な線、出土片から気付く

 なるほドリ 茨木市にある弥生時代の遺跡で全国初の発見があったそうだけれど、どんなものなの?

 記者 阪急南茨木駅近くにある「東奈良遺跡」のことですね。弥生時代中期(約2000年前)の土器のつぼのかけらに、線状に彫られた銅鐸の絵が確認されたのです。銅鐸の上部にある「飾り耳」と呼ばれる突起などが縦3センチ、横4センチほどの大きさで描かれていました。

 Q 銅鐸そのものじゃなくて、銅鐸の絵が発見なの?

 A そうです。銅鐸とは釣り鐘型をした考古学上重要な青銅器ですが、使い道などはよく分かっていません。東奈良遺跡からは1973~74年、銅鐸を作る際の鋳型など、青銅器の鋳造に関する遺物が大量に見つかり、国の重要文化財に指定されたものもあります。その後の研究の結果、同遺跡が銅鐸の生産拠点の一つである可能性が高まり、ここから各地へ伝わったと考えられています。今回の絵は文様が写実的で、日ごろから銅鐸を間近に見てきた弥生人が描いたとみられます。
 
 
以前はないと思われていた模様があることに気がつく・・・考古学ではよく起こる話である。
その不思議な経緯は疑えばきりがなくなるからまあ置くこととして、銅鐸の「ミミ」の部分だけが描かれるなどということは、かなり奇妙なことである。
実物の銅鐸の飾り耳が出たことはある。
ひきちぎったかのように渦巻きを描かれた両耳部分だけが出ている。
その形状は、考えてみれば耳にも似ているし、勾玉のような胎児や霊魂の形にも似ている。
耳の形状だったとしたら、耳=霊魂=勾玉=胎児は充分に神秘的な生命の根源として共通点がある。
摂津の耳原、百舌鳥耳原など、古墳のある地名に耳がよくつけられたのも、耳=霊魂のおさまりどころ=セメタリースペースとしての聖なる土地だったことになる。
 
またミミが魏志では投馬国長官の名であり、大和では長官名である「みまかく=みまき」「いきま=いくめ」「なかて=なかと」などの天皇の名前に類似するかという説さえ出てきている(村井康彦)のである。
 
 
 
この三つの発見や祭事、なかなか興味深く関連してくるから面白い。
 
 
 
 
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転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

神武東征記事の前にこれらを

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この記事の前に過去記事を二つ転載してあります。
そちらを読んでおいてください。

また以下の過去記事もお読みください。
心構えをしていただくためです。

セルクナム(オナ)族 日本人にDNA類似の南米最南端民族5
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55073807.html

黒歯國はここだ!南米チリのチロエ島・マプチェ族のDNAはアイヌ琉球縄文人系3
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55075561.html



縄文人はるかな旅 2 バヌアツの縄文土器は本当に間違いか?3
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55071632.html






神武記事をこれから書くつもりです。
しばらくお待ちください。

Kawakatu

神武天皇はアレクサンダー大王から作られた/日本神話の虚構と構造

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神武天皇

諡号 神倭伊波礼琵古命 かんやまと・いわれひこ・の・みこと
始馭天下之天皇 はつくにしらす・すめらみこと

生前名 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さの(ぬ)のみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)

出身地 不明

渡来地 北西九州

中継地
1肥後人吉市→椎葉村→高千穂町→日之影町→美々津浜→豊後水道→福岡県遠賀港→愛媛県道後→広島県福山市→岡山県吉備国→播磨国→摂津国→河内国→紀伊熊野灘→大和国磐余
   
2人吉→水上→西米良→椎葉→高千穂町→美々津浜→

3人吉→五ヶ瀬→西米良→日向峠→西都原→持田→日向たかなめ(現高鍋町)=鷹の目→美々津浜→
 
4人吉→鹿児島県高千穂峰吾平(あいら)周辺→都城→高千穂町→美々津浜→



磐余とは?
地名磐余は「岩が割れた土地」天の香具山東麓地域
磐余彦は=岩から生まれた男=岩生説話=孫悟空。
話の骨格 アレクサンダー大王東征伝説の流用
モデル  九州の北西部から南下してやってきた中国系江南民族=倭族と在地縄文海人とのハイブリッド倭人。いったん遠賀川の岡田宮に寄港した理由は遠賀川の半島系倭人と合体するため。そこから宇佐を経て同族のいる吉備を目指す。吉備で王となって大和へ向かう。

このルートは考古学では貝輪→貝釧→弧帯文→弧文のいわゆる「貝の道」に合致する


ルート
従ってこの伝承のモデルとしては武内宿禰の葛城氏、あるいは紀氏、あるいは阿多隼人、熊襲。紫金山古墳、宮山古墳、淡輪古墳群、紀州の紀国古墳群、京都の物集女古墳群などの被葬者が最もふさわしい。

あくまでも始祖王伝説を作っておく必要性から、『日本書紀』β群記事として文武朝以降にひねりだされた空想小説でしかない。


系図 

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 すべては初代持統天皇から遡って『日本書紀』は作られいる。持統=アマテラス、藤原氏の整合性が大前提であるので、あとから付け足された神話と神武~応神までは虚構である。仁徳からは古今伝授の口伝によってかろうじて記憶された残骸をコラージュしてある。そして雄略前半はほぼ真実。後半~継体は虚構、蘇我氏真実、乙巳の変~聖徳太子~壬申の乱~天武即位までは政治的虚像である。

合議制内閣が復活した持統朝以後において、無視できなかった連合氏族たちの伝説の断片を借りて、そこに中国の史書プロットをそのまま転用し、外見だけはあらましに史書の体裁を整えてはあるが、所詮、妄想の書物が『古事記』『日本書紀』である。大和のための歴史書に過ぎず、失笑ものである。

真実と思えるものはわずかで、大半は虚妄の背伸び記事で満ちている。神武紀は特にSFファンタジー小説の傑作。神話は体裁は神話に見えるが、8世紀の政治性が満ち溢れており、アマテラスを持統とし、渡来人をスサノヲ、敗者をオオクニヌシ、帰順者を天照国照彦天火明櫛玉饒速日として代表させ、伊勢信仰によって国家を統一しようとした懇請はありあり。しかもその政治性はすべて藤原正統のために書き上げられている。天孫から続く永遠性の死生観を中心にして、神武~天武までが切れ目なく続いたかに見せてはあるが、神武から崇神へのつながり、崇神から応神、応神と仁徳の間、武烈と継体の間、継体から蘇我王家の間、天智と天武の間に、それぞれ血統の破綻、矛盾、強引さが満ち満ちてしまい過ぎた。

崇神から仲哀までは完全に虚構である。応神と仁徳の間に断裂。これはひとりの伝説を二人にふりわけたためである。神功皇后記事は応神のためにあり、崇神から応神をつなぐための中継ぎで、さらにあとの継体以降の息長系譜正当性のための強引な挿入である。天武壬申の乱が滋賀県坂田郡を基点として開始されているのも、息長氏懐柔策である。

天武の多氏・尾張氏寵愛は、ひとえに海人政権をとりこむための作為であり、特に多氏などはこのときにはじめてできあがる氏族であろう。九州や東国とは血縁すらなく、これ以降の祭祀者派遣によって在地像族を取り込んで行ったことで多数の氏族を抱えた謎の氏族に仕立て上げてある。『古事記』もまた成立はかなりあとの時代で、文武朝であろう。すべては持統の女帝傀儡天皇を認めさせるための茶番劇である。

さらに持統即位もまた、中国の則天武后即位の前とされているが、後だった可能性が高い。武后が初めて中国の女性天子となったことこそが、持統持ち上げの最大の契機である。儒教国家では女帝は認められなかったからだ。だから卑弥呼・臺與時代にあたり崇神の時代に女帝がかけなかった。そこでしかたなく、三輪王家から河内王家へ切り替わるところに神功皇后を入れざるを得なかったのである。女帝ではなく、天皇の母親というあいまいな女王として挿入したのは苦肉の策である。

中国の読者に耐えうる内容にするには
1 漢文編年体
2 女帝はいない
3 しかし中国とは違って易姓革命はなかった共立国家=万世一系
4 流血は皆無(乙巳の変だけは原爆投下観念と同じで必要だった)
などなどの諸条件を想定している。

以上が『日本書紀』の全貌である。
始祖王神武とは葛城氏の始祖だったと想定できる。

合議制という吉備王家独自の共立もちまわり王権は倭五王直前まで続き、倭五王たちにも実は血脈の断裂が見受けられるので、ここも輪番制だったのだろう。それを武が切り開き世襲制にむかおうとしたところでクーデターがあり継体らしき渡来王家が大和に侵入したと思われる。これをひっくり返したのは百済と深くかかわった蘇我氏である。蘇我氏は武の世襲制だけを残して大和を安定させたが、飛鳥時代中盤に野望を持った孝徳に暗殺されて終焉。孝徳は天智に裏切られて終焉。天智は天武に裏切られて終焉。最後に持統女帝を共立する。あたかも女王卑弥呼の共立のように。そして政治的実権は中宮宮子を聖武に嫁がせた藤原氏が専横した。これに反発したのが宮子と同じ海人族氏族の県犬養氏から出る橘氏である。









以下はおまけ記事でミステリー小説です。

おまけ1
倭人とラピタ人
縄文の海人族は海洋民族である。
これはケルトなどの基層を作り出すラピタ人の血脈と、オセアニアで発見された小人族(ホモ・フローレンシス) の痕跡がまじっている。

こうした伝説や石造物の持つ話の類型からアレクサンダーの南洋や南米遠征伝説は生まれ出るが、すべては海の民たちの想像力であろうし、倭国の神武東征にもまたそれは影響している。逆に神武東征神話が逆輸入されてアレクサンダーのおひれになっていった可能性さえ考えられる。
いずれにせよ南米最南端に倭人種の痕跡は確かにあったようである。




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おまけ2
日本神話の構造

水平思考と垂直思考の渾然一体が記紀神話の特徴である。
神のいる天上世界から天つ神が降りてきるさまが天下りである。
巨大な神が降りてくることを「あもる」と言う。
「天降」である。ウルトラマンのでかい足が空からにょきっと出たと思いねえ。


そこから大王の名前も「あめの」「あまの」「足 たらし」などとなった。
「たらし」は空から雨が垂れることと同じ意味である。それを同じくだらりとたれる「帯」とも表記した。

「あまたらし・なかつひこ」などである。


「おきなが・たらし・ひめ」には息長氏の系譜から降りてきた天孫女性という意味がある。


その神の大半が太古的な災害神・自然神・宇宙神で、現代まで一歩も変わってはいない。これを道教で宇宙原理とした=摂理。

すなわちあらゆる事象と事物がこの摂理の天命によって動かされ、再生を繰り返すという死生観が神道である。

この永遠に繰り返すメビウスの倭のような思想を表現するのに、古代人は蛇とか渦巻きを用いた。それはケルトなどの概念にそっくりで、世界的なデザインになった。


これはご理解いただけるはずだ。




また、蛇やセミやカニのような生き物は脱皮して大きくなる性質があるが、それを見た古代人はこれは蘇ったと感じた。蘇りがあるのなら、われわれも再生できる。生まれ変われるとなった。そこで人が死んだ跡も、霊魂が戻るのだから肉体を腐らせてはならなくなった。ミイラが生まれた。水銀や弁柄で死体を腐らせないようにした。でも蘇らなかった。

※古代エジプトのミイラに習って、ソヴィエトではレーニンの死体をミイラにした。ついこのあいだの時代である。北朝鮮でも金日成がミイラにされた。人間の考えなどはさして進化していないところがあるといういい冷笑・・・いや例証である。苦笑
しかし社会主義者たちっていったい・・・?



祖霊が戻らない。ではどうするのか?考え方を改める。
祖霊は子供の姿で戻るのだ。その子供は特に夭折した幼児に戻ってくる、となった。
だから幼児の遺体を甕棺に入れ始める。やがて大人も。最後はこれを家の入り口埋める。家の事は祖霊は覚えていて戻りやすい・・・。これはそのままお盆の送り火と同じ発想だ。要するにそういう儀礼は古代人から変わっていないのだ。もちろん迷信である。


祖霊は山の頂上に戻る。だから墓も山に似せよう。古墳時代である。
山には蛇のような神がいる。それが祖霊だ。とぐろを巻くから三輪の神と呼ぼう。これがまたつい最近まで続いたのであるから驚く。奈良では今でもそうである。


弥生時代の貝輪のデザインには琉球のゴホウラ貝やイモガイの断面が使われてきた。それを北部九州人たちは装身具、魔よけとした。渦巻きがあるからだ。その渦巻きこそが永遠の形をしていた。それが摂津までいって銅製釧になった。紫金山古墳。

大和に入ってこのアクセサリーの渦巻きはやがて象徴的デザインとしての弧文を生み出した。それより先に吉備では弧帯文となる。それが纏向に入る。神殿の魔よけとなり、祭祀用土器にも取り入れられる。同じ物が吉備と出雲から出る。これが連合体の印である。

このデザインはやがて王族の石棺に張り巡らされて魔よけになった。肉体を食い荒らす魔物をよけるために。九州にこれが入ってなぜかそこに×がつけられた。それが直弧文である。こんどは大和に殺された在地王が蘇らぬように。あるいは在地が大和から来た支配者が蘇らぬように。封印した。



この直弧文は、つまり大和王権をいかに地方が嫌がったかの証になるだろう。



こうして「祟り神」の観念が生まれた。





以上、目から鱗は落ちましたか?
面白かったですか?
楽しんでいただけたら、筆者にとって、こんなうれしいことはありません。
『日本書紀』のうそに納得されましたか?


ではクリックお願いします↓

次回から、またまったく違う記事を考えてまいります。お楽しみに。ぼくが一番楽しんでいますがね。



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ビデオクリップhttp://www.youtube.com/my_videos?o=U














 

地名「ひそ」と天武の吉野比曽寺と地名と水銀

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ひそと言えば砒素であるが、もちろん当時、水銀の有毒成分である砒素という名前が知られていたかどうかはかなり難しいだろう。吉野はしかし水銀関連地名なのである。

よく知られている話は、神武東征で吉野の国巣(国樔 くず)である井光=イヒカという、尻尾のある土ぐものようなものが、井戸から出てきた話がある。これなどは命綱を結んで鉱山竪穴=井へ降りていた人々のことではないかと思っているが、まさに吉野という地名はそもそも「悪し野」から奈良時代に「よしの」に変えられて、そもそもは鉱毒の出た土地だったかとも考えられる。『地名語源』によれば往古「吉」地名はなかったとある。


福島県の「飯舘村」は震災と放射能でにわかに有名となった地名だが、四つの集落の合成地名で飯樋・比曽・大須・新舘の集落から来ていることをご存知?

「いいひ・ひそ・おおす・にいだて」が合併して今は飯館(いいだて)である。
「館 たて」は武家屋敷のこと。

つまりそもそもここは「飯」=鉱山飯場地名があり、当然砒素が出た。そういう地名なのだ。この村には不吉な名前の峠もある。卒塔婆峠。

「卒塔婆峠は、福島県相馬市と飯館村にまたがる峠。 この南のエリアはクビカケの森と呼ばれ、その昔、森に逃げ込んだ十三人の落ち武者を捕まえその首を晒したと言われて...」http://haikyo.crap.jp/s/572.html

だいたいこの手の怪奇伝承のある場所は戦場そばか鉱山そばと、相場が決まっている。そもそもはいくさよりも鉱山である場合が多いだろう。鉱山は落盤や鉱毒死がつきものだ。

探してみたら案の定、高ノ倉鉱山があった。


鉱山には必ず水銀鉱床が存在する。水銀は鉱物を溶解、あるいは集約して集めるという性質がある。鉄や金やスズや銅がメインの鉱山でも、必ず副産物として水銀が出てしまう。だから鉱毒は深刻化する。砒素は水銀に含まれている。たとえば世界遺産になった石見銀山などは江戸時代には「ネズミ捕り」「白粉」で知られていて、成分は水銀と砒素である。考えたら恐ろしいものを使ってきたわけだ。



では奈良県の吉野ではどうだったろう?
大和水銀鉱山(やまとすいぎんこうざん)は、奈良県宇陀郡菟田野町(現・宇陀市菟田野 )にあった水銀鉱山
これは丹生関連で興味がある人なら誰でも知っている場所であろう。
例の中央構造線に沿った水銀鉱脈である。同じライン上に徳島県の有名な水井(すいい)鉱山もある。東大寺大仏金メッキのさいに伊勢、徳島、吉野の水銀寄贈は有名な話である。


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大淀街比曽もこの岩盤上にあるのだ。


古代人が吉野川まで遡上して、ここから紀ノ川に舟を乗り換えるとすぐ、今の丹生川上神社や丹生津姫神社へ行き着く。やはり「比曽」は水銀地名だったようである。


すると吉野に井戸堀りがいたという記事は、信憑性があったことになる。


『日本書紀』には、たまさかこのように地名とその由来を見つけ出す正しいヒントがあふれている。だからいくらストーリーがうそでも、資料としては優秀なのである。そこのところを間違えて、うそだらけなら読まなくてよい、などと極論をいう馬鹿も多い。まさに不勉強、はしょりの達人で、それではいつまでたってもひとりがてんな妄想古代史から抜け出られない。そういうサイトは見極めて、相手にならぬほうがよい。



とにかく自分で調べない、決め付け、はしょりの多い人は、最初から謎解きに参加すべきでない。基礎学力も大学進学もしないような専門知識のないものほど、極論や異端論を振り回したがる。ようするに暴走族が難しい漢字を好むようなもので、肝心な基礎漢字は無知というのが基礎学力のない人、という意味である。




ほかの「ひそ」地名については各自独学されたし。
あえて書かない。腹が減ったしね。





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欠史八代(けっしはちだい)・聖徳太子・煬帝 国家の立場から

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書き忘れ。


欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)
  1. 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
  2. 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
  3. 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
  4. 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
  5. 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
  6. 孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
  7. 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
  8. 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)



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大和朝廷以前の大和の王の伝承から作られた九州由来王である神武天皇のあと八人を欠史八代と文献史学ではいい、それらはみな時間調整のための空想の人物で不在王というのが大方の定説である。

もちろん神武同様になんらかのモデルや伝承もあったかも知れぬ人物像であろうが、記事がどれも即位と死去と諡号解説だけで、流した書き方になっている。


そもそも、東アジアに対して国として打って出るための史書が記紀であるから、特に、八世紀の成立時には、唐との独立性を謳いあげ、くるなら来て見ろという国家アイデンティティを表明する必要があって、中国の歴史のような営々とした太古からの独自性や、天命国家たるゆえんを書く必要性があった。これはどことなく今の阿部内閣の右より強硬姿勢による中国やらとの並び立つ国家像の創出にかなり似ている。いや、そっくりだといってもよかろう。

聖徳太子などはその最たるものである。
太子の時代、中国の皇帝は悪名高いとよく勘違いされる煬帝であった。しかし彼は実は名君である。ただ史書が其の直後に皇帝が入れ替わることを正当化するために、極悪非道に書いただけである。これは雄略・武烈紀に取り入れられた手法・パターンである。

煬帝が日本に使者を送って国書を持たせた人である。彼には倭国に求めるものがあった。それはおのれのあやうい立場を救う、諸外国からの朝貢である。これは歴代の王がみなそういうことをしており、魏志や隋書や宋書でも構成はみな同じである。蛮族国家が国書を贈ってきた、朝貢にはるばるやってきた。とまあとりあえず書くのである。しかし本当に来たかどうかなど、知れたものではないわけだ。ちょっとびっくりしましたか?

あなたは記紀は信用できないが、中国史書なら客観的に諸外国を俯瞰して書いていて信用できると考えてきたはずです。けれどそうでもないのだ。

大陸の政治状況は、常に外敵にさらされており、わらをもつかむ思いで、実のところ中国皇帝はいつも冷や冷やしていた。と考え付くと、なるほど、じゃあ、史書も怪しいなあ?とうすうす感じはじめるのではないでしょうか?


所詮、記録は記録である。文献は人が書く。史記のよに個人がものした(しかも幽閉されて)史書はまあまあだが、これが国が国の威信をかけて書き上げた国史などに、まあ真実が書き込まれたはずはない。

聖徳太子の実在は記紀・持統政権には必要だった。だから聖人とされたわけで、これは言うならば始祖王伝説であり、周王みたいなものである。当然かっこいい、慈悲深く、神秘的で、超能力があり、仏陀のようだ・・・となる。

しかし神武もそれでいいけれど、そのあとのつなぎ王たちにはただ、長生きして数百年間をうめておいてもらえれば格好はつく。つまり国家がいかに古くからあったか、それが中国とそん色ない長い時間続くこと、これだけの存在である。


和風諡号はそういう仕上がりになっている。
数種類の系統(ねこ・みまつ・いり・・・)の天皇が入れ替わりながら天皇を相続する。それらはみな「おおやまと」の王で、「神」つまり天孫の直系ばかりだったよ。となっている。


なぜ神武を九州からやってくることにするのか?
それは言い換えれば、なぜ天孫降臨は筑紫の日向でなければならなかったか?という答えになる。

飛鳥・大和王権にとって筑紫はいったいどんな存在だったか?特に記紀が作られた8世紀になってもまだ?ということである。

なぜ筑紫に気を使うのかといえば、当然、筑紫が大和よりも古い王権だったからにほかなるまい。大和はそこの弥生時代を起源としながらも、立地から、独自に日本海を通じて北魏や朝鮮との交流を持ち、独自の外交路線を作り上げていかざるを得なかった。瀬戸内海航路の末端に穴門という関門があったからだ。その狭い通路をふさがれると、8世紀の大和朝廷でさえ容易に半島への最短コースである玄界灘へは出られない。6世紀に磐井が敗れても、代わりにそこには筑紫物部氏が入っている。物部氏は当然、大和で滅ぼされた守屋の子孫である。うらみがある。

大和は気を使わざるを得ない。いうならば母屋、親元、実家が筑紫である。これはなかなかいつまでもやっかいな目の上のたんこぶ。筑紫には迎賓館である大宰府鴻臚館があり、これを独占されたらお手上げである。だから都でかなりの重要な人物をあえておくしかない。菅原道真や藤原広嗣の左遷を、一元的に祟りだけで観ていたらだめなのだ。彼らはもちろん都では有能な人材だったのである。あえて彼らを送り込んだのは、それだけ期待されていたからだと、なぜ考えないのか筆者には不思議である。


そんな有能な人材を左遷したら、在地ととみに反旗をひるがえすかも知れない?そこが浅いというのだ。そういうのは史書のかきっぷりが彼らを悪人や祟り神に仕立てていることの、右から左の受け売りでしかない。それが政権にとって都合がいいからそう書いてあるだけなのだ。実は有能な人材で、朝廷を裏切らない人だから信頼して大宰府に送ったのである。

だが彼らにとってはそれは迷惑なことだったに過ぎない。だから落ち込んで死んでしまったり、乱を起こしたことにするには非常に都合がいいのである。どちらにでも表現できた。ちゃんとやればよく書かれた。そうではなかったから祟り神や乱の首謀者になったのだ。政治とは取捨選択である。すべては結果と都合によって書き方が変えられる。


大和は中世になってもまだ筑紫大宰府に気を使っている。それをやっつけたのは武家初代清盛である。


古い筑紫の影に公家たちはおびえていたのである。なぜ?弥生時代の実力を知っているからだ。

神武の古墳や神社は、実は明治時代の軍部皇国史観によって、ばたばた橿原あたりに決めたり、造られている。京都の平安神宮などと同じ維新直後の造営である。え?知ってましたよね?当然。まさか大昔から神武の橿原神宮があったんだなんて迷信してませんよね?調べてください。



さて、欠史八代の和風諡号をながめて、なにか気づきませぬか?
いり、ねこはあるが?

「わけ」がないでしょう?

はい、わけは応神(ほむたわけ)からになってますね。ほら、切れているでしょう?

あのね、「ほんまにたわけ」じゃあないですよ。ほむたわけ。
誉田別ですね。応神さん。


往古、神武から応神までの古い伝承が存在したのであろう。そして仁徳から武烈の記紀造作がここにひっつけられた。無理やりに。

そういうのは遠山さんである。そうかも知れない。しかし違うかもしれない。

むしろ、神武~応神は『日本書紀』のあとからばたばた考え付かれたものかも知れない。ま、それにしても「みまつ」なんてあきらかに百済王家の名前でできている。
「おおびび」って・・・。みたいないい加減な名前ばかりである。おまけに第二代綏靖さんなどは『古事記』を書いた多氏の出身ですからね。神武さんの子供が神八井耳とこの人です。それが南九州現地妻の子供を暗殺する。葛城系統のカットである。

そういう前振りばっかりが繰り返されできあがったから、あれ?また同じことを書いてあるぞ・・・と感じるのだ。


耳が遠くなったじいさまが、何べんも同じことを言いますが、ああいう繰言でできている。何度も何度も同じことをしつこく書く。そう、これは刷り込みの常套手段ではないですか?



耳にたこができる・・・。
そうです九州の王たちの耳にたこをつくるほど繰り返す。
だって彼らは「耳」の氏族ですから。耳にわっかをつけている王族。つまりそれは欠場耳飾=海人族しかありえませぬ。


じゃあ、鼻にわっかをつけてた氏族も?ウシ。





みみたり、はなたり、目はやんめ、あたまのよこちょうにはげがある~~~
それが大和朝廷。ジョークです。



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持統女帝の陰謀 和歌から見えるすべての謎 豪華おまけつき

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当ブログ「大内陵墓盗人の記録「明月記」「実身+弓(さねみ)卿記」1」より
なぜ持統女帝の遺灰は盗掘時打ち捨てられたのか?再論



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天武棺と持統遺灰銀容器 飛鳥大内陵




■持統の遺灰は捨てられた!
藤原定家「明月記 めいげつき」に曰く。
●「文暦二年(1235年)、三月二十日、大和国高市郡の天武・持統天皇合葬陵(大内陵)を破壊して金銀宝物が盗まれたと「百蓮抄」が言うが、これを聞いて奈良や京都から多くのギャラリーが押し寄せ、陵内に押し入り御遺骨を拝し奉り、感涙の涙を流す。」

持統遺骨は日本初の火葬であったため銀製の骨壺に収められていたが、盗人たちはその壺ごと持ち出し、事もあろうに中の遺灰を路傍にぶちまけ、壺だけを持ち去った。天武天皇の遺骸はそのままの状態で、頭蓋骨にはまだ白髪が残っていたとある。


「明月記」はまた記す。

●「山陵を見奉る者からの又聞きであるが、話を聞くたびに哀慟の思いがますことである。御陵においては再び埋め固めたそうであるが、定めし粗末で簡略なやり方であったろう。女帝の御骨においては、銀の筥(はこ)を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」原文


●「奉見山陵者、伝々説、毎聞増哀慟之思、於御陵者、又奉固由有其聞、定簡略歟、於女帝御骨者、為犯用銀筥、奉棄路頭了、雖塵灰、猶可被尋収歟、等閑沙汰可悲事歟」


この事件から60年後、再び盗掘があったことを三条実身+弓(さねみ)が書き残している。犯人は僧侶。このときは天皇のしゃれこうべ(頭骨)が持ち出された。


*大内陵は何度も比定地が変わった歴史がある。
1698年江戸幕府は高市郡の野口の王墓(現在の天武・持統天皇陵)に。
1855年今度は橿原市の見瀬丸山古墳に。野口の王墓は文武陵になった。
1881年明治政府は再び野口の王墓を大内陵と指定。以後、現在の場所に。



『阿不木乃山陵記』
●「件の陵の形八角、石壇一匝(ひとめぐり)、一町許攷、五重也・・・」
この記事が位置をもう少し書いていれば、二人の墓比定地はこうまで行ったり来たりはなかっただろう。

しかし、古墳の中の様子や形状についてはこれほど詳細な記録はほかにない。
この記録から、奈良では天武・持統の棺、骨壺が復刻された。
以上参考文献 平凡社選書『墓盗人と贋物づくり 日本考古学外史』玉利 勲より
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/33979525.html


■持統と火葬
●「薄葬令(はくそうれい)」と火葬
巨大古墳の造営は民衆に多大な負担をかけたことから、大化の改新の翌646年、新政権は民衆の犠牲を減らすため薄葬令を発布した。
(1)身分別に墳墓の規模を制限
(2)天皇陵の造営にかける時間は最大7日以内
(3)人馬の殉死や殉葬を禁止、
こうした制限事項を加えることで陵墓は小型&簡素化され、前方後円墳は消えていった。

またこれに伴って、持統天皇は仏教の火葬を自ら実践。諸侯への手本とした。遺灰は銀製納骨器に入れられ夫である天武天皇大内陵に埋葬される。しかしやがて盗掘を受けた際、持統の遺灰の入った銀製納骨器も引き出され、遺灰は路傍に討ち捨てられ、銀器だけが消えていたと『明月記』は語る。




なぜ天武の遺骨はそのままにされ、持統の銀器だけが盗まれたか?もちろん銀製だったからである。しかし、ではなぜ遺灰を道端に遺棄までされたのか。天皇の遺灰をそこまでする必要があったのだろうか?いくらんでも不遜ではないか?

天武と持統の間柄を、記録は非常に好意的に描き出す。陵墓にあとから一緒にするほど仲がよかったと、われわれも信じ込んでいる。本当にそうであろうか?



■天の香具山の歌に持統出生の謎が潜む?
昨日、かわかつWorldに持統天皇藤原遷都・即位後の和歌を載せておいた。
あまりにも有名な歌である。

はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あまのかぐやま
万葉集
はるすぎて なつきにけらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま
新古今・百人一首


その解説は、一般的に藤原宮から見える初夏の風景を詠じたもの、となっているが、それでは単なる情景詩となってしまう。初夏の香具山に干された白い布、ああ、もう初夏になったのねえ・・・。たったそれだけの和歌になる。


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大和三山位置関係図 持統は藤原宮から東の天の香具山を見ていた





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右奥が南方向 中央三山に囲まれた低地が藤原宮


■持統女帝も蘇我氏の末裔!
持統天皇の母親・造媛(遠智娘(おちのいらつめ、生没年不詳))は、父親が(つまり持統の祖父)蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらの・やまだのいしかわのまろ)である。従兄弟入鹿を惨殺できず、父中大兄によって冤罪をかけられ殺された人物だ。持統は蘇我倉山田石川氏の末裔でもあるのだ

すると持統にとって父親天智は、祖父を殺したカタキだったことになるのだが、実の父が天智天皇となり、やがて山科に狩りへゆき、その後病死しており、この事件も実は夫天武の周辺にいた豪族たちの暗殺だったという説がある。これを山科遭難として「履を残して消えていた」とする記事が見える(『扶桑略紀』)。

「二年後には天智自身もみまかった。このとき、すでに大海人は都を出ている。壬申の乱のきな臭い予感の中、天智は狩りに行き「履を残して遭難した」とも書かれる。これは「狩り」「履」「遭難」がセットなので典型的な「王の死」記事であり、履を残したとは「再生願望」の表現なので、天智・大友皇子という守旧派の希望的書き込みであろうか。」

記紀に対する異説である。体裁を重んじる正史『日本書紀』よりも異説。風聞には説得力があるのは世の常である。

そうなると夫天武もまたカタキになってしまいかねない。なんともややこしい人間模様ではないか?本当に持統女帝は天武の妻で、天智の娘だったのだろうか?


■額田王の前例
ここで面白い話を挿入しよう。天智の妃となったあの有名な額田王(ぬかたの・おおきみ)と天武の悲恋である。これもひとつの、古代貴人たちの複雑な結婚の例証である。

額田王は母親が鏡王女(かがみのおおのむすめ※)。鏡女王は最初は天智の妻で、天智が鎌足に下賜されたという。父親は鏡王。※ゆえにこれを「かがみのおうきみ」とは読まず「かがみのおうのむすめ」と読むべきだといわれ始めている人。その娘が額田である。最初は天武と恋に落ち、それを天智が奪ってしまう。紫野の歌とともに有名すぎる話である。

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

この和歌の分析はすでにかなり前に済んでいる。紫野とは薬典の植物園がある京都の鳥辺野にあった地名で、大海人皇子がそこへ山野草・薬草狩りに行こうとしている騎馬姿を、額田がそっと見送るときに、大海人は振りかえって「袖を振った」つまりバイバイした。その姿を野守なんぞの身分の低いものに見られたりしたら、それこそいっぺんにうわさが広がりますわ。大胆な片ね、はらはら。そういう歌だ。二人はつまり偲びあう仲だった。

そういうほのぼのした二人を、天智は引き裂き、無理やり額田を奪うのである。往古、こうした略奪結婚は普通にあったわけだ。

ならば持統と天武はどうだったのか?天智の娘なら、なぜ叔父の天武に、天智が娘を出すのか?それほどの「虎」だったのか天武の実力は。『日本書紀』は天武を確かに「虎を野に放つ」と表現しているが?天皇がおばやめいを嫁にする話は、ほとんどが天孫血脈を切らせないために、神話~かなり古い時代のこととして書いてはいる。しかし天武あたりの時代以後は本当にそうしていたか?これはわからない。大正天皇の例もあるからあったのだろう。しかし持統は実際には天武を憎み、また愛してもいた。

ここが複雑である。愛していたとは『日本書紀』が言うだけで、実はそうではなく、父のカタキと見ていたとすれば?持統の乳母は渡来系の河内地方の馬飼氏である。鸕野馬飼い、讚良馬飼いがあった。一方天武は岐阜の多氏湯沐である。馬と海。水と油のような氏族だ。天智のカタキと考えていたとすれば、持統は長男草壁に皇位を譲りたくなかったとも考え付くし、ならば草壁の夭折もなんらかの政治的暗殺か?となる。


当時の暗殺実行は、諸説あるものの、まずは本人よりも周囲の暗躍が多いと遠山などは書く。天智や天武がそう思う前に、周囲がそれを察してやってしまうということである。天皇が直接手を下すことも、命令も出すわけでもない。勝手にしてしまう。もちろん暗殺の命令など出すはずもないし、出しても記録されるはずはない。記録にはだいたい謀反を企んだのでとかのこじつけが書かれて、仕方なく追討令を出す形が多い。

天武の子供、草壁皇子や高市皇子だってそういう、ゆえあっての夭折は十分ありうるのだ。


■天武の赤、対する大友の白
壬申の乱で天武側は赤い衣装を身に着けた。これは実際にそうだったかとかではなく天武の天文遁甲趣味から、赤を貴重とした道教の考え方で、赤が南で赤い鳥つまり朱雀であるという考え方であり、壬申紀がそもそも『前漢書』の赤帝である劉邦の前例を基礎にして書かれているからなのである。天武治世の元号が朱鳥であるのもそこから来ている。記録では瑞兆として筑紫から赤い鳥が謙譲されたからだ、という定型パターンになっている。つまり赤い布=天武である。これは先日も書いた。

一方、天智の子・大友方は白である。これを火克金の遁甲思想だと先日書いた。

だから持統の遷都・即位後に詠まれたこの和歌の白妙の衣とは、つまり天智・大友のことを指しているのだと見て取れるわけである。すると解釈は一般的な情景詩から、一転して、政治性を帯びてくることになる。これが歴史の和歌の読み方である。

夫の時代はそれはまあ春だったけれど、憎い人だったわ。けれど今、ついに私たちの時代。初夏が来たんだわ。ようやく父の夢だった独裁の世がやってきた。(さらには蘇我家の復活でもあった!)

とこうなってしまうのだ。




■不比等が天智を皇祖に、天武を高祖に脚色
その後、孫の文武に繋ぐまで、元明・元正女帝と女帝が続くが、元明・元正は持統の姉妹、つまり天智の娘である。その時代に宰相となった藤原不比等は、記紀イデオロギー実現のための着々とした証拠作りに励んでいる。まずは藤原宮という宮そのものが藤原氏の土地である。すでに持統の頃からそうなのだから、藤原氏の力で持統も女帝になったようなものであろう。天智の陵墓を藤原宮の真北に当たる京都山科(鎌足所領)に造営し、天智=北=天子=北極星としてしまう。ちょうど徳川家が家康を大権現=始祖として日光に祭ったように。いやその前例である。


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また真南に天武大内陵を造営。この位置関係では天智=天命天子、天武=朱雀となる。つまり藤原宮にとって=大和朝廷にとっての始祖王は天智だとなるのであり、天武はそれより格下、南を守るだけの存在にされてしまったことになる。


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■天智 蘇我重用の謎と乙巳の変首謀者の真実
どういうことなのか?革命で権力を手中にした大王天武が、なぜ滅ぼした大友の父親より格下に?これこそが『日本書紀』の最大の目的なのである。蘇我の血を引く女帝が建てた藤原宮。天智の宰相もまた蘇我安麻呂、赤兄だった(ほかに中臣金ら)。蘇我氏?それを滅ぼしたのはほかならぬ天智(中大兄皇子)だったではないか?

蘇我本家とは母屋と分家とはいいながら、そもそも石川麻呂は馬子の孫である。蘇我氏に変わりはないのに、なぜ重視したのか?麻呂が本家を裏切り告発したからである。しかしどっちにしても蘇我氏であり、その分家の子孫を天智は宰相とした。それは石川麻呂へのつぐないだけだったか?それだけではあるまい。それだけで二人(蘇我倉安麻呂と赤兄)も重用するか?

つまり乙巳の変の首謀者とは中大兄ではなかったということだ。首謀者は軽皇子(孝徳)だったのである。だからこそ、天智は孝徳を裏切り、鎌足別宅が近い近江に
遷都したのだ。

ということは中大兄と鎌足が蘇我本家を滅ぼしたというのは『日本書紀』のうそだったことになるのである。実際は蘇我氏と中大兄と鎌足は敵対関係にはなかった。むしろ蘇我氏を滅ぼした孝徳を恨んでいたのである。

天武はどうだったか?政治的に天武は海人族に育てられ、それまで中央ではまったく力を持たされてこなかった多氏や尾張氏などの海部氏族を優遇した。つまりまさに新閣僚内閣である。そのせっかくの一新された閣僚を、今度は持統は藤原氏を優遇して、天智の白い血脈を復活させた。そして強引に孫の文武へと引き継ごうとした。文武は天武と持統の子であるはず。まさか?

文武から聖武へとつないだ天武の血は、案の定、いつのまにか光仁・桓武の天智の血統へ引き戻された・・・。赤から白へ。






赤い布から白い布へ!



天の香具山は宮の東
その向こうは伊勢・東国
アマテラス信仰の時代はここから始まった!!




さてここからが考古学の真骨頂である。





■蝦夷・入鹿の双墓は大内陵の真上に並んでいた
天武派閥が持統の遺灰を?

まずさきほどの位置関係図をもういちどごらんいただく。





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藤原宮の真南、天武・持統大内陵の真上に、小さな方墳がある。
菖蒲池古墳という。
この小さな方墳にえらい人物が眠っている。

 「菖蒲池古墳は明日香村に数多く存在する古墳の中でも謎の多い古墳の一つである。菖蒲池古墳は藤原京の朱雀大路の南延長線上の小高い丘に築かれておりその丘は蘇我蝦夷、入鹿の邸宅が存在した甘樫の丘へと続いている。横穴式石室を持った古墳で、国の史跡にも指定されている。石室の天井石が露出するほど墳丘の変形が進んでいるためその形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳(その後方墳と断定)だと考えられている。石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明であるが以前に調査が行われ、その結果両袖式の横穴式石室であることがわかっている。玄室の大きさは、長さ6m、幅2.4m、高さ2.5mあり、二基の家形石棺が石室の中心軸にあわせて縦一列に安置されている。 
 
 
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  家形石棺は極めて個性的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられ、本体部分にも柱状の装飾が施され、さらに石棺の内側に黒漆が塗られているなどこの当時の石棺としては他に例を見ない最高級の作りの石棺とされ、被葬者は相当な実力者だったことが伺われる。」 http://www.ookuninushiden.com/newpage111.html

当ブログ「ショッキング!聖なる藤原京ライン上の古墳被葬者を特定する。高松塚=石上麻呂・・・」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56223844.html
より



この記事は去年(2014年)の春、ちょうど今時分に書いた記事である。「小さな方墳」菖蒲池古墳・・・。『日本書紀』の蝦夷・入鹿の八佾舞記事のあとに墳墓造営記事がある。大臣の墓を「大陵」、入鹿臣の墓を「小陵」と呼び、これを「双墓ならびのはか」・・・と菖蒲池は入鹿の墓ではないか?!


なぜ天武・持統の墓は蘇我氏の墓よりも南になったのか?偶然だったのか?
またその大内陵墓のさらに南には文武天皇陵がある!


さらに・・・。
今年の一月、正月が過ぎて間もない頃、蝦夷の墓か?というニュースが流れ、ファンが大騒ぎしたのを覚えているだろうか?

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小山田遺跡~舒明天皇陵か蘇我蝦夷墓か
「先日、奈良県明日香村にある小山田遺跡で、古墳の周濠とみられる遺構が発見され話題になっている。

橿原考古学研究所によれば、遺構は7世紀中頃のもので、一辺が50メートル以上もある大型方墳の濠とみられており、古墳としては飛鳥時代最大級のものであるという。

現地説明会に参加した方がお寄せ下さったコメントによれば、1500年前のもであるにもかかわらず、敷き詰められた石は結構正確に切られていたらしい。

それだけの墓を築くことができるのは相当な有力者に違いなく、被葬者の候補としては、642年に崩じた舒明天皇、あるいは、同じ頃に墓を築いたという記録が残る蘇我蝦夷の2人があげられている。」

「一方、小山田遺跡が蘇我蝦夷の墓だったとしたら、話は全く違ってくる。
一辺が50メートルにも及ぶという墳墓は石舞台古墳より大きく、あの時代最大級とされる推古天皇陵にも及ぶほどの規模である。

それだけの墳墓を造ることができるのは、大王に匹敵する、いや、それ以上の権力を持つ人間に限られるはずだ。

巨大な墳墓を建設するためには多大な労力が必要で、日本書紀が記すように、皇子の領地の人々を使役したことも充分考えられる。蘇我蝦夷の横暴を記したとされる日本書紀の記述も、あながち誇張ではなかったということになる。

小山田遺跡は蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったとされる甘樫丘の南西に位置しており、それが蘇我蝦夷の墳墓であったとするならば、その巨大な墳墓と蘇我の氏寺である法興寺(飛鳥寺)を含む一帯、すなわち我々が現在飛鳥と呼んでいる地域は、蘇我が自らのために造り上げその権勢を示した、まさに「蘇我の王都」と言うべき場所であったはずだ。」
http://umerin326.blog.fc2.com/blog-entry-140.html


この遺跡、実は菖蒲池古墳の真横にあるのだ。まさに大墓と小墓が並んでいた!


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小山田遺跡の位置



しかも場所はどちらも蘇我氏本拠地だった甘樫の丘である。舒明天皇陵かとも言われているが方墳は蘇我氏の墳墓で間違いなかろう。ならばそれ以前に出て話題になったピラミッド状の高句麗式方墳の被葬者は蝦夷に贈呈された高句麗の美女媛で間違いない。



以前、筆者は菖蒲池を石川麻呂だろうかと書いたが、どうもこれは入鹿であろう。家型石棺が二基、たてに入れ込んであった。一方が蝦夷だったか、あるいは妻か?あついはこういうことも・・・石舞台から引き出された馬子の石棺。もちろん様式から見たら作り直された新しい様式である。馬子の石棺は時代的に屋根が台状になっているはず。しかし入れ替えがあってもおかしくはない!?

以上、持統の初夏の歌から発展させて、組みあわせていった結果、季節にふさわしい記事に仕上がった。ご笑覧。










豪華おまけ
高松塚古墳
第一候補 石上(物部)麻呂 舒明天皇12年(640年) - 霊亀3年3月3日(717年4月 22日))近江朝重臣。壬申の乱後天武に寝返る。このとき物部から石上に改名した。
第二候補 弓削皇子
 第三候補 滅亡後逃げてきた高句麗系渡来王族
 
 
「ところで、『竹取物語』において、石上麻呂足は、「燕の持たる子安の貝ひとつ取りて給へ」という課題を与えられる。

 麻呂足は、大炊寮の飯炊きの建物の棟に燕が巣を作ると聞き、足場を組んで巣を探すが、人が大勢いては燕も巣に上がってこない。
そこで足場を外し、麻呂足自身が載った籠を引き上げさせて巣を探った。手が平たい物に触れたので籠を下ろそうとしたときに、綱が切れて麻呂足はあおむけに落ちてしまう。

それでも子安貝を掴んでいたので確認してみると、それは燕の糞だった。それが「カイナシ」という言葉の語源になった。」
 
 
「『続日本紀』で、死に際して「百姓追慕し、痛惜せざるなし(人々すべてが痛惜した)」とされる人徳の人であったことを反映しているとも考えられる」
 
 
「石上麻呂は、和銅3(710)年に藤原京から平城京へ遷都する際の藤原京留守司(最高責任者)に任ぜられている。

 平城京遷都が不比等を中心に推進されたとすれば、藤原京に残った左大臣の石上麻呂と、右大臣不比等の間に軋轢があったとも考えられる。
 
高松塚の被葬者は、発掘調査の際のX線撮影によって、頚椎に「変形性骨変化」が認められた。

 
鑑定にあたった研究者たちは、「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」としているが、被葬者が石上麻呂であるならば、『竹取物語』に描かれた籠からの落下という挿話とうまく一致する
 以上http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3324.html

またこの墓は考古学上の文武陵であろう中尾山古墳の陪塚の位置(南200M)にある。

 文武の死は707年、石上麻呂の死は717年である。
したがって北極星=太極を中尾山とした場合、高松塚は当然北斗七(八)星となり、八人官女もまた八であるので、文武直属の側近となりそれは左右大臣だった麻呂か不比等しかおるまい。和銅元年(708年)1月11日、従二位石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに正二位。文武初期までは最高位にある。

しかしその心は、やはり天智・大友にあったのかも知れない。守屋以降、大和物部氏はこれ以上落ち目になるわけにいかなかった。それで寝返って、物部の名にを恥じると考え石上に変えたのだろう。
 
 



 

中尾山古墳 
八角形であきらかに飛鳥の終末期天皇陵である。文武天皇の考古学上の正しい墓だろう。文武は火葬されているので、ここの小型の横口式石槨はそれにふさわしい。
 
 


 

では今の文武天皇陵檜隈安古丘上陵被葬者は誰?
 高松塚を麻呂の墓とすればその南側に天皇陵を置くはずはなくなる。『延喜式』(927)には「檜 隈阿古岡上陵 藤原宮御宇 文武天皇 在高市郡 兆域東西三町 南北三町 陵戸五烟」と ある。 江戸期の『阿不幾野山陵記』の記述によって、明治14年(1881)に現在の陵が治定されたが、その根拠は不明。 明治の初めころまでこの陵が天武・持統陵とされていた記録もあり、また、江戸時代中期の享保19年(1734)に刊行された『大和志』では、現在の中尾山古墳が文武天皇陵に比定されている。いずれにせよ藤原京の南側にある古墳は、『日本書記』歴史観では天武関連あるいは天智に反する皇族関係者だと考えてよいように思う。考古学的には栗原塚穴古墳と呼ばれ、山形墳という奇妙な形状。この時代の天皇陵(八角)ではありえまい(ただし江戸期に大幅整備改変された可能性。当時、考古学知識なく天皇陵の形状を山形としてしまったか?)。保留。」
これも去年の当ブログから転載。







いずれにせよ、持統は本当は、夫・天武よりも夭折したわが子、草壁、あるいは孫の文武とともに眠りたかったのではあるまいか?

そして持統の遺灰が放り出された理由は、その盗掘の目的こそがそこにあったというのは考えすぎだろうか?政治的に、天武と持統の虚構の夫婦生活を知っていた誰かが、盗掘よりも持統政治への恨みから実行した犯罪だった可能性は否めない気がする。







こんなに面白いのに講読自由だなんて!
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天孫降臨の地はどこだったか 神武東征と応神・ヤマトタケル東征の謎

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天孫降臨の地として記紀は筑紫の日向の高千穂のくしふる峰と書く。
その場所については諸説あり、九州王朝説は福岡県の日向峠をそれに当てる。
しかしここは「ひゅうが」でも「ひむか」でもなく「ひなた」峠と呼ばれている。



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日向峠 ひなた・とうげ

宇土庚申神社http://sora07.exblog.jp/22265688
福岡県糸島市(旧前原市)高祖

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「宇土神社 高祖の内宇土に在り。元山の神社とも云ふ。祭日十月十七日。」
社格, 不詳. その他社格. ご祭神, 不詳. 由緒等, 不詳
位置http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?bbox=130.2758929622479%2C33.53140657018716%2C130.28312419775202%2C33.53761305103986&id=undefined&cond=p%3Asc113%3Blat%3A33.53475580%3Blon%3A130.27950858%3Bei%3AUTF-8%3Bv%3A2%3Bsc%3A3%3Bdatum%3Awgs%3Bgov%3A40230.55.113%3Bz%3A18%3Bs%3A1334502178d65ec9f6f8fe93cf499f736529929db4%3Blayer%3Apl%3B&p=%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%AB%98%E7%A5%96113&zoom=18&lat=33.53419238723962&lon=130.2803025138689&z=18&mode=map&active=true&layer=&home=on&hlat=33.53415661487704&hlon=130.2802864206143&ei=utf8&v=3
ただし同名神社総社は三重県鈴鹿市にあり祭神は猿田彦。庚申とは猿田彦の別名で、行人を導く道しるべのこと。あるいはやってくる魔を妨げる塞の神も同じ。この神社は天孫降臨を先導し、やがて伊勢へ向かった猿田彦のルートそのものに造ってある。

日向峠のあるこの地を「高祖」と言う。高祖とは前漢の劉邦のこと。あるいは転じて日本では天武天皇、あるいは皇祖である。地名「ひなた」は全国どこにでもある日光が差し込む地形由来の地名。

「宇土」は熊本県中西部の地名。葦北・八代地方。阿蘇ピンク石産地。おそらく日向峠のこの神は、宇土から持ち込まれたか?とも思えるが、三重県の総社がすでに宇土であるので、これは道教の「木」すなわち「宇宙の」「樹木」「神木のある」「神の土地」が正解か?聖地。
ただ、高祖地名は『日本書紀』では始祖天智につぐ二番手の地位である。


結論
ここは記紀天孫降臨から後世作られた場所である。





一方宮崎県の日向峠は高千穂峰や笠沙からかなり離れた日向市に存在し、むしろ高千穂町に近い。


宮崎県日向峠(ひゅうが・とうげ)
日向峠(馬ヶ背)日豊海岸にある。
宮崎県日向市細島
http://www.joyphoto.com/japanese/travel/051119/hyuga.html
位置http://www.mapion.co.jp/m2/32.42273989,131.68473796,16/poi=L0652228
結論
場所的に笠沙と美々津よりも北側にあって、鵜戸神宮よりも北で、こことは考えにくい。



これでは日向説と福岡日向峠説のどちらとも決められない。

一般的には最も信頼性が高いのは鹿児島県霧島連山の高千穂岳と宮崎県高千穂町の祖母山が「くじふるのみね」にふさわしいと思われているようである。




記紀が主張する天孫降臨の山
筑紫の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」記・紀
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)



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候補地第一番手の霧島連山


 
日向の高千穂とは鹿児島県姶良郡霧島連山の高千穂峰。
「くじふる」とは「奇し降る」で神々しい天孫の降ってきたという意味。
候補 名前からなら「くじうさん」=久住山、地理的には高千穂岳、伝承なら宮崎県高千穂町に隣接する祖母山。

「韓国に向かい」は「韓」は当時、韓国ではなく広く東アジアのことだが、笠沙の岬は太平洋に面しており東アジアの大陸や半島には背を向けた位置にある。
すると日が差して韓国に向かうの意味は、霧島連山の活火山・韓国岳(からくに・だけ)であろうと推定できる。この部分削除。
訂正→東シナ海に面して朝日も夕日もよく当たる場所であるから、まさしく記紀開設にぴったりあてはまる。天孫降臨はここで間違いなし。



東隣が高千穂岳で、頂上に天の逆戈が刺さっている。ここしかあり得ない。北部に高原町、宮崎県小林市。ここからならすぐ南下すれば阿多、大隅へ、錦江湾、桜島へ出られる。笠沙(かささ)岬は少し離れた西南海岸にある。


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韓国岳


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おそらくこのロケーションを記紀は想定してある。





なぜ神武は南九州を出て宇佐と岡に立ち寄るか?
理由は明確。


宇佐は吉備と同族、兄弟であると『宇佐八幡宮託宣集』及び『吉備津彦神社社伝』にある。神武の当初の中継地は吉備を想定しており、これは記紀で吉備氏と葛城氏が合体して先に大和で王権らしきものを作っていたことに合致。さらに考古学的には纏向遺跡から弥生時代の貝輪を切り剥ぎしたデザインである弧文円盤が二枚出土。葛城の宮山古墳からは、吉備弧帯文、纏向弧文をアレンジした直弧文のある盾埴輪が出土している。この直弧文はやがて大伴部の靫負氏族がステータスとして九州南部~北部に守護に入ったときから古墳で多数出土する。これは大和の靫負(ゆげい)氏族がそもそもその出身を筑紫の肥後以南に持っていたからではないかと想定する。具体的氏族は大伴部、日下部、的臣(いくは)、刃連(ゆぎ)連らが記録にある。




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岡は往古「おが」で、やがて「おんが」と変化した地名で、場所は今の遠賀川河口部の古賀である。周辺の弥生遺跡からは半島系渡来の骨格と遺伝子を持つ遺骨が出ている。一方、神武が最初に江南から移住したであろう北西部菜畑周辺からは江南系中国人の遺伝子を持った人骨が出ている。葬送風習としてこちらは甕棺墓、遠賀方面では支石墓、方形周溝墓が出る。さらに篠原健二ら遺伝子学者の分析では、菜畑の倭人は縄文人と混血があり、遠賀川倭人ではそれがほとんどないこともわかっている。

遠賀川式土器は弥生時代に最速で東北日本海側へ類似品を創作させており、瀬戸内海では摂津や久宝寺遺跡から出てくる。これは神武よりも先にニギハヤヒが大和に入っていた記事に合致する。


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貝輪渦巻き~弧帯文・弧文への移動コース
北部九州が現物の貝輪が出るに対して、貝の現物が入手しにくい遠隔地の吉備や大和や摂津では、それの形状を模した遺物やデザインが代用されていることがわかる。




「天孫にはいくつもあるのだ」
神武がニギハヤヒの舅である長髄彦に言った言葉である。
上記考古学的検証結果は、幾種類もある天孫を確かに証明している。
つまり神武はあきらかに江南の長江流域から東シナ海をダイレクトに五島列島にたどり着き、菜畑周辺に入って混血した氏族の伝承から生まれた人物像であり、東征する前に、記紀が天孫はまず日向に降りて地元の吾平津媛と婚姻するという記事があるように、菜畑から南下して時間を経過したために、遠賀川から北上したニギハヤヒよりも大和到着が遅れたという記事に合致する。

検証結果
記紀が書いたとおり、「天孫には少なくとも二種類があったのだ」という結果が出た。
またこれらを総合すると、神武天皇のモデルは菜畑から南九州へ二回目の降臨をし、それを天孫降臨だとしてあることがわかる。一度目の降臨は菜畑周辺であろう。そのまた大元は長江。中国系である。それが南部吾平の氏族・・・おそらく葛城族=内の氏族と混血して神武は生まれ、そこから太平洋を北上したとしてよいように思う。なんとなれば内氏族の祖である武内宿禰には「黒男神」という別名がある。宇佐では黒男神の姿は隼人そのものとなっている。

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葛城氏同族の紀氏の居住地痕跡は神武・応神・ヤマトタケルの東征コースを網羅する。





黒男神社(宇佐八幡宮・薦神社の摂社)
祭神 武内宿禰

「一方、『書紀』は黙して語らないが、風土記や神社伝承を尋ねると九州北西部にも景行天皇の足跡が濃く残っている。『肥前国風土記』には佐賀県の武雄市を取り囲むように22ヶ所に景行天皇の足跡がある。この武雄市の中心には神秘的な形状をした御船山があり、その中腹に武雄神社が建っており、武雄心命が主祭神として、武内宿禰と共に祭られている。すなわちここにも実名の名残がしっかりと存在しているのだ。
また、武雄神社から北西約六kmのところに武内町という名称が残っていて、そこには武内神社が建っている。
さらに、全国的にも珍しい、武内宿禰の母、山下影姫が武雄神社から北北東約三kmの朝日町黒尾に黒尾明神として祭られている」http://www.geocities.jp/shoki_otoku/

黒尾神社
宮崎県都城市
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shimazu/cultural/kuroo.htm
旧愛宕神社

このように黒男神とは九州では武内宿禰を指している。であるので、武内宿禰の子孫たちはその大元をここ九州南部に求めることが可能である。

近畿地方では、
長等山園城寺 滋賀県 の伝承によれば
三尾明神社
「南院琴尾谷にあり。 五社鎮守のその一なり。 長等南院の地主神なり。 例祭三月中の卯の日。 神輿三基。 本地堂には普賢菩薩を安ず。 祭神赤尾・黒尾・白尾の神なり。 赤尾を本神とす。 この鎮座は太古にして知る人なし。 白尾は大宝年中に現じ、黒尾は神護景雲三年三月十四日、湖水より現ず。 その古跡を大波止という。 社伝にいわく、 赤尾天照太神、黒尾新羅太神、白尾白山権現。」
とある。http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/MIO.html

ここでは黒尾神は文殊菩薩の姿で顕現したとされるが、第三番目の地位にある。またこの三尾明神という名は鉱物地名であろう。尾=へび=鉱床のある台地。黒尾神は称徳天皇の神護景雲三年(七八九)三月十四日(第二の卯の日)の出現とされている。
さらにこれが継体の母方の三尾氏とどう関与するかは今後の問題である。園城寺は比叡山から分かれた天台別派であり、新羅明神を祭る。そのわけは近江南部に渡来系氏族が多かったからである。その氏族は新羅に限ったことではなく、新羅は代表であり百済や高句麗の王族の家臣団と部であっただろう。

新羅明神は彼らの出身地をそれぞれ思って作られた半島の神だと言える。渡来人専用の民間信仰である。園城寺をひとびとが親しみをこめて「みいでら」はん、と呼ぶが、「みい」は「三輪」「巳」である。これは紀州の三井寺を紀三井寺と呼ぶように、園城寺というものの信仰の本来神道への親近感、回帰思想であることを示す。習合とも言えるか。あくまでも民間信仰である。

武内宿禰氏族は熊襲のうち隼人の曽於族を擁して太平洋から北上し大和へ入るのだろう。このとき岡には朝鮮系の応神のような王がいたはずである。彼らは応神王の片腕となって大伴氏や物部氏とともに吉備を目指し、吉備氏と合体、最終的に大和へ入り、先住していた縄文系氏族を帰順させたのだろう。これはつまり内臣氏族や吉備氏族たちが神武伝説を持っており、それが大和で別氏族連合によって政権を奪取されたということではなかろうか?それが雄略紀などに反映したか?

神武の東征と応神の新羅からの帰国は、そういうことを分離して別にしたものかも知れない。またヤマトタケルのコースもまた、逆向きではあるが、帰国するときのコースは出雲・吉備によってから大和に戻り、次に太平洋コースを筑波まで進んでいる。
これらのコースが、類似するのは、まずそこに先住した有力氏族がいて、しかも彼らが武力のための鉱物資源を握る氏族だったためだと推定できる。


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