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縄文のオーパーツか食人遺跡2 上黒岩遺跡と居徳遺跡 日本ネコの祖先はシベリアオオヤマネコか?


上黒岩岩陰遺跡 かみくろいわいわかげ・いせき
「上黒岩岩陰遺跡は、愛媛県上浮穴(かみうけな)郡美川村(みかわむら)上黒岩(かみくろいわ)1092番地に位置し、愛媛県松山市から高知県佐川町を経て高知市に到る国道33号線沿い、久万川の清流を挟み道路の対岸にある。この地は四国の最高峰、石鎚山(いしづちさん)の西南麓の山地で、遺跡付近は標高約400mほどである。遺跡は東北面を高さ約20mの石灰岩の切り立つ断崖を背にした、西南に開いた岩陰(いわかげ)遺跡で、昭和36年(1961)当時、美川中央中学校1年生であった竹口義照氏によって発見され、翌昭和37年から昭和45年(1970)まで5回にわたる発掘調査がなされた。

発掘調査は、慶應義塾大学文学部教授江坂輝弥、愛媛大学教育学部西田栄、高知女子大学教授岡本健児、新潟大学医学部教授小片保などが中心となり、多くの人々の協力によっておこなわれた。本岩陰遺跡は、各時代の人々が住居として利用するとともに、第Ⅳ層の縄文文化早期中葉の人々は岩陰奥部を墓域として使用し、10体以上の人骨が埋葬された状態で発見された。また人骨より居住地区に近く、2体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8000年前と、遠い我々の先祖が既に日本犬を飼っていたことがわかった。」
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa.html



上黒岩岩陰遺跡
http://www.kumakogen.jp/modules/kjsection/item.php?itemid=118
愛媛県久万高原町
縄文草創期 12000年前ほど
特徴
1線刻像(女神石)
2装身具
3投槍骨角器の刺さった腰骨
4シベリアオオヤマネコ・巨大ニホンザルの下顎骨
5縄文早期人骨 16体
6改葬風習
7最古の縄文犬遺骨
8異常に磨り減った歯
9発達した下半身
10激しい骨増殖
11手足長し
12身長男160 女145
13乳幼児死亡率の低さ
14虫歯の少なさ
15少ない植物食

1線刻像(女神石)
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http://blog.livedoor.jp/pitibo2000/archives/2012-04.html

4シベリア山猫の骨
日本のしかも四国でなぜかである。

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シベリアオオヤマネコとはヨーロッパオオヤマネコのこと。

現代のネコ(イエネコ)はmtDNA遺伝子分析の結果ではリビアヤマネコの子孫で、弥生時代に持ち込まれたとされている。しかし、弥生時代に誰がどこからどうやってなどは何もわかっておらず、いい加減な推定による誤った定説でしかあるまい。

オオヤマネコは縄文後期まで日本に生存していたと言われる。これも推定であるが、縄文遺跡からのヨーロッパオオヤマネコの骨は何箇所からも出てきている。

高知県の居徳遺跡の金属器としか思えない、メスのような骨の傷跡とともに、北海道縄文人かシベリア人の来訪があったか?という「縄文のオーパーツ」だと言えるが、オオヤマネコは縄文時代までは日本にいたようである。といってもだろうという話。

「あらゆる動物を食っている。動くものは何でも捕まえたのだろう。「ニッポンイヌ」という表記があるが、これは食料になった犬なのだろうか。資料には2匹の日本犬(柴犬)が埋葬されていたとあるので、こっちは食料ではなく猟犬として可愛がられていたもののようだ。食べる犬と2通りあったのかもしれない。イヌは弥生時代にも食べられた形跡が残っているし、江戸時代、綱吉の「生類憐れみの令」が出ている最中でも、大名屋敷の中でさえイヌは食べられている。

オオヤマネコは、ヨーロッパからシベリアに棲息する寒冷地で生きるヤマネコである。またそのごく近縁種のカナダオオヤマネコが北米大陸北部(主としてカナダ)に棲息する。ヨーロッパでは、ヨーロッパヤマネコについで人に馴染み深いヤマネコらしい。このオオヤマネコが、3~1万年前から縄文時代の中期~後期頃まで日本に野生していた。縄文人が、オオヤマネコの下顎骨や牙に穴を開けた装飾品が、岩手県陸前高田市・中沢浜貝塚で見つかっている。他にもオオヤマネコの遺骨が発見されているのは、鹿児島県市来町・市来(いちき)貝塚、山口県美祢郡・秋吉台遺跡、福井県鳥浜貝塚、宮城県宮城県桃生郡・里浜貝塚などである。」
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa_museum.html



3投槍骨角器の刺さった腰骨
腰骨を貫いて直腸に達する骨器利器で致命傷。女性。



7縄文犬(柴犬)遺骨二体
戦後一旦紛失するも、慶応大学倉庫で再発見。

8異常に磨り減った歯

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なめし皮でも作っていたのか?
そのために虫歯すら磨り減っていたために虫歯発生率も異常に低い(0・7%)。
あるいは動物皮のような固いものを常食に?
通常縄文人や狩猟民では虫歯発症率は低い。虫歯は圧倒的に農作民のほうが多くなる。植物食には糖分が多量に摂取されたからだ。

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虫歯発生率農作民と狩猟民比較 各地縄文遺跡人と世界各地新石器時代人との比較


14・15との関連性か?
穀類、堅果類の同位体少なし。獣肉中心食でそのために虫歯も少なかった。
乳幼児死亡の同時代としての少なさ(未成年死亡者中30%)は、サンプル数の欠落もありえるが、骨がなんらかの理由で持ち去られた、消えた、・・・・・食べられた?などが考えうる。

これほど全員の歯が磨り減ったというのは、あるいは骨付き肉・骨そのものをせせりつづけた結果か?カルビがお好みだったようで。とにかく肉食である。

6改葬・再葬

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一度土中に埋めた遺骸が白骨化したあと、掘り出して、ばらばらにしてランダムに組み合わせまとめて再び埋める縄文の埋葬様式。上黒岩岩陰遺跡はその代表で、これまでに総数28体分の改葬遺骨の確認がなされている。その明確な理由は不明。
この遺跡の縄文人は、少なくともほかの人々とは違い、死者の再生を望まなかった可能性も考えられる。複数の遺体をまとめるのに、実に淡々と、ばらばらに組み合わせ、中にはどれがどれやら残り物をただまとめただけのようなものも2体見つかった。すると最初は期待した再生が起こらなかったために、客観的にただの骨としてまとめていった改葬だったのか?と思えてくるのである。(Kawakatu)
実に冷淡、粛々とした儀式か?




高知県居徳遺跡の骨には、このように鋭利なメスのような利器で骨の中盤まで切り込んだ傷跡が、のちにくっついたあとが残っている。このような傷跡は縄文時代早期の石器や骨角器では考えにくく、中国の大刀のような銅器などで強くたたきつけたとしか考えづらい。
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同じく、骨にマーカーがつけられている。
猪の例では、これは肉を食べるときにナイフをたてて削いだり剥ぎ取るときに生じる傷で食べた印なのである。

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早計は禁物だが、居徳遺跡と合わせて四国西部の縄文早期遺跡人は「食人」がキーワードになりそうか。そして彼らはシベリア方面から太平洋を経て北海道・東北から南下してきたことになろうか。そのときに居徳では金属器を持った人が来て、在地縄文人を食べたとさるだろうか?ではその人食いたちは次はいずこへ消えたのだろうか?気になり始めないか?そのヒントはシベリアオオヤマネコにあるのではないか?

鹿児島県市来町・市来(いちき)貝塚、そしてその山猫こそは日本の家猫の始祖先祖だったのではなかろうか???????????????

みたいな


シベリアから鹿児島までとは、えらいやっちゃな。








背後から殺傷するのは儀礼・生贄再論 アイスマン、銅鐸、春成仮説


過去記事『アイスマンはやはり生贄』
イタリア北部、アイスマンが見つかった地点ボルザーノから少し離れたアルグンドにあった石碑には彼のハンドアックスにぴったり合致する手斧の刻印がある。(石碑左上、人物の顔の真横)海外のアイスマンビデオより

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ここに背後から矢を射る儀礼についての壁画があった。


「生贄は背後から殺す」



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春成秀璽
「(上黒岩岩陰の女性の寛骨には)へら状骨器で後から二回刺した痕跡があり、出産時に死亡した女性に対する儀礼的処置の可能性がある」公式会見席上で。


◎女性を刺突したのは儀礼行為だった
 そして最後に骨器が刺さったままにしておかれたのは、「むしろ意図的なものであって、なんらかの病気で亡くなった女性に対する儀礼行為としての処置だったのだろう」と結論付けている。
 寛骨に妊娠痕が見られることから、この女性は出産時に死亡し、それに対して女性の霊などがさ迷い出ないように封じ込めたのでは」
国立歴史民俗博物館研究報告書




武家社会以降、うしろから殺すのは卑怯者というのがわれわれの常識。しかしそれは儀式だったとは常識が覆りそうな話。

そういう仮説を以前二度にわたってここに書いたことがある。今回はそれに春成の報告を付け足した。


「産後、産中出血死」はかなりあるそうだ。
上黒岩岩陰の女性のうちには眼窩に貧血特有のマークが見えるものもあった。
そして女性たちはかなりの重労働をしていたらしく、下半身がたくましく、脊椎や首骨に重量の重いものを長期間運んでいた圧迫変形が見られた。

背後から二度二箇所も骨角器で骨盤を突いた・・・背後からなのは本人に見えないようにという心やりかも知れぬ。カーボーイが足を痛めた馬を目隠しして殺していたように。するとそれは母の夫自身だったかも知れないとなるが。だがほかに例証はない。なぜ春成がそういう見解を書いたかよくわからない。どこかほかに例証があるのだろうか?まさか筆者の記事から?まさか。

いずれにせよ、先史時代にはそうした儀礼もあったかも知れないが、なにしろ証明が難しく、あれから数年立つのにいまだに「背後から矢 儀礼」検索でヒットしたのは筆者の記事だけだった。

実は以前、古墳の壁画の直弧文が再生禁忌の模様だと何度も書いてきたが、同じ事を言っていた学者が身近にいたことがある。しかしまさか、ここからとは思えない。


学者がしろうとに影響されちゃいけません。

これに対して人類学の中橋は別の結論を出している。もうひとつの孔は、改葬時につけられた破損穴であり、利器で開けられたものではない。先端の丸いこの骨角器では肉のある部位は突き通せない。という。



ではなぜ改葬時にへら状利器を突きたてたのだろうか?しかも角度的には春成が言うとおり背後からである。なんのまじないだろうか。それが女性をあらわす骨盤のかん骨だったことと関係があるのだろうか?また、各地の縄文~弥生遺跡であったと考えられる「女性死者だけがその脳みそを食われていた痕跡」とは何か関係は?

驚いたかも知れないが弥生の青谷上寺地でも脳みそが出ているし、やはり女性大たい骨に鏃が突き刺さっていたからである。

何か意味のある行動だったのか?あるいは考えすぎか?

先端が丸い骨角器でへらのような・・・まるでカニへらのようである。


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あなた、うまいもの・・・カニなんか必死でせせったあげく、満足して「ふ~~~食った食ったあ~~~」とか言いながらカニの甲羅にへらを突き立てたりしたことありませんか?やりとげたって感じで・・・。あるでしょう?それじゃないの?






泣けば山からモッコ来るぞ


「なげばやまからモッコくらあぞ」
津軽地方の子守唄
「モッコ」=蒙古のこと


「もくりこくり」or「むくりこくり」
『筑前国続風土記』に蒙古高句麗を「むくりこくり」と読ませている。
長崎県壱岐島や北部九州で。人形がある。
蒙古・高句麗連合軍のこと



「モンゴルが来るぞ」「フン族が来るぞ」
北欧の諺。
子どもを寝かしつけるときに親が脅す言葉。


「トルコ軍が来るぞ」
同じく南ドイツで。


「ハンニバルが来るぞ」
イタリア。




では中東では?
さしずめ「アレックスが来るぞ」とでも言ってはいないか?
アレックス=アレキサンダー=十字軍=侵略者
あるんじゃないのか。知らない。











大和魂 「やまと-ごころ」と読むべし


上田正昭
「紫式部は『源氏物語』の乙女の巻で学問について論及し、つぎのように述べている。「才(ざえ)を本(もと)にしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(か た)も強ふ侍(はべ)らめ」と。卓言である。紫式部と大和魂、『源氏物語』と大和魂というと、たいがいの人はびっくりするが、日本の古典でもっとも早く大 和魂について述べているのは紫式部であった。
 ここにいう「大和魂」とは戦前・戦中に喧伝(けんでん)された日本精神の代名詞としての大和魂ではない。日本人の教養や判断力を指しての大和魂であっ た。「才」とは「漢才」のことで、文学者である紫式部は漢詩・漢文学を内容とする「漢才」を意味した。私なりにいえば、漢才すなわち海外からの渡来の文化 をベースにしてこそ、大和魂がより強く世の中に作用してゆくということになる。
 後に「和魂漢才」といい、幕末・維新期に「和魂洋才」といわれるのも、同類の表現であった。
 日本文化の独自性は内なるものと外なるものをミックス(混合)・重層させて、その輝きを増してきたといってよい。日本の古典芸能でもっとも早く家元制を 採用した雅楽(ががく)じたいが、日本の楽舞はもとよりのこと、三国楽(高句麗・百済・新羅の楽舞)・渤海楽・唐楽・林邑(りんゆう)楽(ベトナムの楽 舞)を、日本で集大成した音楽と舞踊であった。」(「日本らしさとはなにか」)



やまとーだましい、と読むから戦前・戦中の奇妙だった精神主義を思い出すのだ。「やまとーこころ」と読めばいいのである。


水木しげるは戦時中、前線で「死ね、死ぬために戦え」と言われ、「ばかばかしい」と思ったという。つまり彼は、自ら戦争に身を投じていながら、客観的に、日本のばかばかしい戦いぶりを凝視していた。それは大和魂などではないのだとわかっていたのであろう。


漢才に対する和才である。
やまとごころとは、のちのわびやさびであり、大自然に身をおきながらそこに融合し、詠嘆する心根を言うのである。

そして、言わなければならないのは、古代~中世にかけて「大和」は決して日本全体を指さない。狭い世界のことである。地方のすべては大和が首都だとか、日本の代表する言葉とか思わないもののほうが多かった。

さらにそれらの日本的精神を作り上げたのは渡来人である。彼らはそもそもから歴史の敗者である。敗者が作り上げた平安な思想こそが和であった。戦時中、軍ははなからその敗者の和魂をもって、勝利者となるために間違った精神性(くそ忍耐)を大和魂であると置き換えた。

「内なる文化に外なる渡来の文化をたくみに結合し、変容して、固有で独自な文化を形成してきたのである。われらの祖先がすぐれているのは、外来のものをす べて受容したのではない。たとえば儒教は積極的に受け入れたが、革命思想は排除した。都城制は中国の長安城や洛陽城に倣ったが、藤原京や平城京でも、長岡 城や平安京でも、ついに羅城は構築しなかった。したがって日本の都には宮都はあっても、都城はなかったといわなければならない。官吏登庸(とうよう)の試 験というべき科挙(かきょ)や去勢された男子の小吏すなわち宦官(かんがん)の制はついに受容しなかった。
 日本の宗教史をひもとけば、神と仏は対抗するよりも習合の道をたどって、神宮寺や社僧が誕生し、平然と神前読経が行われた。」
同上引用文














奈良の大仏さん、螺髪数半分だったで気づくこと色々


東大寺大仏の螺髪数、定説の半分だった・・・。
というニュースが先ごろ国民にショックを与えた。
今の大仏さん、どうやら髪の毛のパンチパーマがいい加減なものにされているようだ。本当は最初は螺髪がもっと細かい丁寧な仕上がりだったようである。




ブラタモリ奈良編編集部の調査
によると、東大寺及び盧舎那仏の再建事情はこうなっている。

大仏の胸から下 … 天平時代当初のものが多く残存
金剛力士像 … 鎌倉時代に再建
南大門 … 鎌倉時代に再建
大仏殿 … 江戸時代に再建(木材不足から集成材も利用)
大仏の顔と肩 … 江戸時代に再建

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http://ブラタモリ.jp/2015070-nara-293



なお、大仏建立は聖武天皇の発願(ほつがん)で、当初の予定地は滋賀県甲賀郡の信楽だったが、なぜか不振な火事が信楽周辺で頻発し、今の東大寺に変更された事情があり、当時の信仰事情がまだまだ外来宗教の仏教に対して偏見も多かったことが垣間見える。

こうした中で、過去数度の再建も行われ、奈良時代当時のままの部分は下半身土台部分の一部だけだと考えられる。最後の再建修復は江戸時代、将軍綱吉の手になるが、このとき修復予算や木材に不足して相当な手抜きが起こった可能性が高いだろう。螺髪数の減少もこのとき起こったか?お顔の修復がなされているのもはきりわかるのは綱吉時代なので、可能性は一番高いだろう。ただし鎌倉時代などの修復状況記録が少ないためにそれで間違いないとも言えないのが実情。



大仏の鋳造方法は
「1.まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。

2.大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。

3.中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」(雌型)をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。

4.外型を適当な幅で割り、中型から外す。

5.外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。

6.中型の表面を一定の厚み(数センチメートル)で削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。

7.一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。

8.炉を持ち込み、高温で銅を溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。中型を削ってできた空洞がそのまま完成像の銅の厚みになる。大仏の場合、巨像であるため、脚の部分から頭部まで全部で8段に分け、丸2年かけて鋳造したことが知られる[6]。

制作は以上で完了した訳ではなく、鋳加(いくわえ)、鋳浚(いさらい)という、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われている。」Wiki同文から


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なお、金メッキのこうした手法をアマルガム工法と科学は名づけ、その発祥は欧州の中世以降とされているが、実はもっと古くから東アジアにはあった工法だったことになる。西欧科学はおしなべて自分を中心にものごとのはじまりを決め付けてきたが、これも一種の偏見である。われわれは学校教育を通じてかなり嘘も信じ込まされている。



大仏建立に至った奈良当初の事情は以下のとおり。
「大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、華厳経に説かれる盧舎那仏という名の仏である。華厳経は西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典で、60巻本、80巻本、40巻本の3種類の漢訳本があるが、うち奈良時代に日本へもたらされたのは60巻本と80巻本である。前者は5世紀、東晋の仏陀跋陀羅訳で「旧訳」(くやく)、「六十華厳」といい、後者は7世紀末、唐の実叉難陀訳で「新訳」、「八十華厳」という。盧舎那仏はこの華厳経に説く「蓮華蔵世界」の中心的存在であり、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏である。六十華厳では「盧舎那仏」、八十華厳では「毘盧遮那仏」と表記されるが、これらの原語はサンスクリットの「Vairocanaヴァイローチャナ」であり、密教における大日如来(Mahāvairocanaマハー・ヴァイローチャナ)と語源を等しくする。
『続日本紀』によれば、聖武天皇は天平12年2月(740年)、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、これが大仏造立のきっかけとなったという。知識寺の跡は柏原市太平寺に残り、7世紀後半の瓦が出土している。なお、ここでいう「知識」とは、信仰を同じくする人々の集団である「同志」「同信」といった意味である。同じ天平12年の10月、聖武の四十賀に際し、新羅で華厳教学を学んだ審祥が金鐘寺にて華厳経を講義している。盧舎那大仏造立の背景にはこうした華厳経に基づく信仰があった。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%9B%A7%E8%88%8E%E9%82%A3%E4%BB%8F%E5%83%8F#.E5.A4.A7.E4.BB.8F.E9.80.A0.E7.AB.8B.E3.81.AE.E6.80.9D.E6.83.B3.E7.9A.84.E3.83.BB.E6.99.82.E4.BB.A3.E7.9A.84.E8.83.8C.E6.99.AF


聖武天皇はつまり、「仏教を以て国家統一と安寧の大本」としようとしたわけであるが、現代政治以前、すべての歴史時代の国家はそのように、教義宗教を政治的に利用している。これを国家宗教と呼ぶ。大仏はその象徴だったわけである。現代は政教分離であるので、政治と宗教がきっぱりと切れたのはつい最近からだということだ。

と言うことは当然、仏教は政治に久しく利用されることで翻弄され続けたわけで、聖武天皇が華厳経仏像の1スタイルである大仏像建立にこだわったのも、当時の政治事情が危機的だったからである。都をそれまでの飛鳥から新天地奈良へ動かした理由も、奈良でなくてもよかったわけで、遷都予定地は当初紫香楽など複数あった。しかし、政治的な対立を繰り返していた藤原氏や橘氏、飛鳥旧態勢力などの複雑にからまる事情で、遷都も翻弄された。当然、仏教への旧神道信者からの圧力も残存していただろう。もっとも苦労の末に造られた大仏でさえ、水銀大量使用によって奈良を汚染したわけで、鍍金作業も途中で頓挫せざるを得なかっただろう。定説では金の不足があったとされ、仏像の半分くらいしか金色ではなかった。しかし本当に不足したのなら、その後の奥州藤原氏の砂金による繁栄はどうした?と言う新たな疑問が生じることになるのである。大仏の金は奥羽地方で発見され、それは百済王一族の発掘によったと『日本書紀』ではなっている。まだ同じ奥羽地域にある中尊寺あたりの金は見つかっていなかったということだろうか?

こうした歴史的背景の中で、大仏も東大寺も、その後も何度も災難をこうむってきた。再建は時代ごとの経済事情によってこれまた翻弄され、現在の東大寺と大仏に至っているので、螺髪の数も当然変化してもおかしくないわけで、それにしても、聖武時代の記録を学者らが疑いもせずにたったひとつの文献に頼り、一切疑問も持たぬまま受け継がれてきたのはいかがなものかと頭をかしげてしまう。

ことほど左様に歴史学は、一個の権威的文献記録に弱い一面がある。記録とは正確無比、信仰遺物に変化や省略があろうはずはない、という固定観念がそこに垣間見える。人間が陥りがちな欠陥をそこに見出すことも可能である。千年のあいだ螺髪数をちゃんと数えなかった、そこには記録過信もあったが、相手が盧舎那仏像という神聖なものゆえに、数えるのがはばかられたという一面もあるだろうか。日本人は権威と定説には疑いを持ちたがらないことが多いともいえる。今回、東大寺が螺髪を改めて数え直した背景には、見学者である学生たちからの率直な質問が何度もあったためで、やはり歴史は柔軟な頭で見るほうがよいものと思いを強くした。定説はくつがえされるもの。聖徳太子にせよ、有名武士の肖像画にせよ、記紀記録にせよ、ほんまかいな?と疑える勇気を持つほうが、新事実が出てくる大元である。信じるものは救われぬ。

府内城天守閣再建しよう!


こないだ街の路地を通り抜けていたらこれがあった。

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大分城別名府内城模型


路地裏の目立たない一角に市内案内所があり、別にこれが置いてあるショールームがある。偶然その横道を通りかかって発見した。


府内とは中世豊後国の首都である。
この城は戦国時代以降赴任した福原氏の造立。


Wiki府内城

豊後・府内はもとは大友氏が守護だったが、豊臣秀吉によって取り上げられたのち、小規模な大名が代々ころころ入れ替わりで管理したので、城が小さいし、おねの親戚筋が送り込まれた杵築城にも及ばぬ小さなものだった。そのせいか、地元では大分県人はまとまりが悪く、各地域でそっぽを向いてまったくひとつの文化が根付かなかったといわれる。いわゆる小藩分立政策がその理由だというのであるが、実際は、もっと前から地形が複雑で人が一箇所にまとまりづらいという事情があった。

府内福原氏もわずか12万石という小さな所帯である。

大友氏が、一時は北部九州一円博多までも手中にした大大名だったのに比べると、まったくグローバルさのない城ではあるが、かつてはここに県庁があり、父が県職だったので、たまに遊びにいった思い出の場所。その後文化会館になったがそれも移転してしまい、今はたんなる空き地か駐車場、季節にイベントが行われるだけで寂しい状態だ。

係りの女性に「天守閣を復元したらどうやねん?いい観光スポットになるで」
と言うと彼女が言うには「そういうアイデアも出ているんです」


「で、なんでこの家紋は○に釘抜き紋やねん?これうちの家紋と同じやでえ」と聞けばよかったな。福原氏の家紋は三つ巴のはずだ。で、調べたらこの城の最後の城主松平さんの家紋だとわかった。久しく釘抜きは大友氏だと思い込んでいたので、びっくりぽんであった。

丸に釘抜き紋は城下の神社に多く、うちのような関東藤原氏出身の武家にも多いようだ。

と、まあ、たまには地元の話題も扱わないとね。



温泉は別府、リッチな旅は湯布院、日田と、まあ県都の割りに大分市のネームバリューは低い。誰のお城か?と聞かれるような状態だし、せめて天守閣でもでっかく作って景気をあげてもらいわねば。大分トリニ-タなんかはついにJ3転落かというところまで落ち込んだし、有名人は南こうせつに竹内力、にしきのあきら、指原だけっていうのもねえ。なんかこうマイナーなんですよ。

大友宗麟じゃどうにも力が入りにくい。相模から来た国主だったしね。
九州の中でもどうにも大分市は人口の割には無名である。なに?おさるの高崎山がある?半分は別府市ですからあの山は。


金ぴかに再現したらどうかいな?









文政開 ぶんせいかい 地名


文政開
地名
文政年間に開墾された土地

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大分市字文政開バス停




岡山県倉敷市連島町鶴新田及び
大分県大分市大字新貝
にある地名。









大化 たいか 地名


大分県豊後大野市緒方町大化
たいか
地名


[転載]しばらくお休みします

誤解させてすみません。

写真にありますように、事故したのはぼくではなく、長年の友人である飲み屋の店主です。ご心配なく。誤解させたようです。すみません。


彼も一人暮らしの上、親の世話もしていましたので、経験者として僕たちお客が、なんやかやとしてさしあげていたのです。むち打ちと軽い胸部骨折があり入院させたり、なかなか大変でした。昨日退院したのでもう大丈夫でしょう。



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60過ぎて一人暮らしで事故にあう。仕事できなくなる。高齢で動けない親の世話もできない。
隔靴掻痒たる思いでベットに寝ていなければならない。収入もなくなる。かといってわずかな貯蓄さえない。弱者たるそんな人々は巷間に山ほどいます。同情というよりも共感があり、経験者として助けないわけにはいかないではありませんか。

もしそれがぼくであったとしたら、果たして誰かが同じ事をしてくれただろうか?
ぼく自身も非常によい勉強になった出来事でした。

心残りは今回、ぼく自身もお金がなかったために、ちゃんとつきそってやれなかったこと。ま、しかたがないことですが。あとちょっとゆとりがあればと、これからは少しお金も持っておこうと思ったしだいです。


久しぶりに家に戻ると、ごたごたしているうちに季節は庭のかえでを色づかせていました。







友をもとめば 書を讀んで 八分の俠氣二分の熱















枕元に置いておくべき古代学基本の30冊


東大中世史学の保立道久がこの秋、「ブックガイドシリーズ 基本の30冊」で『日本史学』を著した。人文書院。2015年9月。


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目次だけ拾い上げるとこうなっていた。



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中世史にかぎらず、広く通史に渡った内容になっているので、古代史ファン、先史時代ファンにも役に立つ。




触発されてKawakatuも、久しぶりの復帰記事として、Kawakatuがお勧めする枕元に置いておきたい古代学必須の基本の30冊をピックアップしてみた。これだけは読んでおきたい古代学基本の30冊である。著作者ひとり一冊に限定したので、物足りないかもしれない。基本的に文献史学の従来的な主観的・文学部的分析にだけ頼って書かれた書物は割愛してある。森博達は史学だが客観的科学としての言語学・音韻学での分析ゆえに拾った。文献史学による分析は、いま、氾濫してきた「遺伝子学」、「年縞分析」、「環境考古学」などの科学的な分析の前で、その行く道を見失いはじめており、参考にするべき客観性が感じられないからである。記録が正しいという前提では今後、いかなる古代史研究も信頼性がなくなっていくのだろう。文学の論考のほとんどに、やはり客観性あふれる論理性が見られないように、文系史学の言動に目からうろこをはがされることは少なくなった。それは客観的分析を追及して書物を選んでいけば当然の結果である。「なぜ」を徹底的に追求する本を市井のしろうとも待ち焦がれているのである。


あくまでも、筆者が個人的にいつでも読み返したい本。
読んで青天の霹靂の天啓をもらえた本である。



○歴史の読み方の基礎を知るための本

1森浩一『敗者の古代史』中経出版・ちくま 2013年6月
 ※考古学者が見つめた記紀記録の登場人物の人間としての行動学の視点。人間の歴史、政治力学の基本を教えられる。

2津田左右吉 津田左右吉全集『日本古典の研究』 1948
 ※津田理論が左翼的であるとの過去の論評は戦中の右翼的思想の植えつけた刷り込みであった。津田の言っているのはあくまでも現代史学の平等・客観的な視線からの戦中皇国史観への冷静・客観的なアイロニーと批判であり、むしろ自由主義的である。あの右よりだった時代にこれが書けた勇気に賞賛。そしてその後長きに渡った津田史学への誤解を知るために、右の人々にも是非もう一回読み返して欲しい本。

3喜田貞吉 磯川全次編 『先住民と差別』喜田貞吉歴史民俗学傑作選 河出書房新社 2008
 ※明治人のシンプル・明快でえぐるような歴史の深遠への視線。



○古代人の死生観を知る

4辰巳和弘 『他界へ翔る船 「黄泉の国」の考古学』新泉社 2011
 ※古代人のデザインの源泉を、一方では民俗学的・精神分析で、一方で客観的科学性で見事に分析。特に直弧文と貝輪が縄文後期~弥生~古墳までの共通死生観をつなぐミッシングリングであることを考古学から証明。
 
5谷川健一 『賤民の異神と芸能 山人・浮浪人・非人』 河出書房新社 2009

6網野善彦『網野善彦著作集 芸能・身分・女性』『同 日本社会の歴史』
 ※古代~江戸期までを通観する網野史学の傑作

7田中史生 『越境の古代史 ―倭と日本をめぐるアジアンネットワーク』 筑摩新書
 ※歴史を知るには国境も県境も越え、さらに意識の壁すら越える必要を解く。

8飯尾恭之『サンカ・廻游する職能民たち 尾張サンカの研究』批評社 

9山本ひろ子『異神 中世日本の秘教的世界 上・下』 ちくま学芸文庫 2003
 ※能楽の裏に隠された「闇のうしろ戸」を覗く

10萩原秀三郎 『鬼の復権』 吉川弘文館歴史文化ライブラリー172 2004

11中沢新一  『精霊の王』 講談社   2003

12舟田詠子『誰も知らないクリスマス』 朝日新聞社 1999
 ※西欧・北欧におけるケルト民俗信仰がローマのキリスト教に飲み込まれる歴史を知る。

13林俊雄『興亡の世界史 スキタイと匈奴 遊牧の文明』講談社 2007
 ※東北縄文人のルーツはスキタイか?




○必須資料

14乙益重隆・小田富士雄他執筆『古代史発掘⑧装飾古墳と模様』 講談社 昭和49

15小林行雄編『装飾古墳』 藤本四八撮影 平凡社 1964  

16森本六爾・小林行雄共同編集 『弥生式土器聚成図録』正編 東京考古学会、1938-1939年
 ※弥生文化が北九州に始まって東に波及する状況などが明らかになった。
  小林の光の部分を知る良書。闇の部分はあわせて『舟葬論再論――「死者の舟」   の表象――岡本東三』を読まれたし。

17窪田蔵郎 『鉄のシルクロード 』雄山閣 2002
 ※製鉄の世界史
18石野博信編『増補新版 大和・纏向遺跡』 学生社 2008

19森博達 『日本書紀 成立の真実 - 書き換えの主導者は誰か』 中央公論社 2011
 ※決め付け的部分も多いが、画期的な『日本書紀』分類法。反論も併せて読まないと、これがたったひとつの解答だと信じてしまうので注意。反論として井上亘 「『日本書紀』の謎は解けたか」大山誠一編『日本書紀の謎と聖徳太子』所収。

20白川静  『漢字』 岩波新書 1970
 ※漢字を知って東アジアは見えてくる。



○通史の中の古代人
21松木武彦 『日本の歴史 1 列島創世記 』 小学館 2007
 ※縄文~弥生の移行の肝をヘテラルキーからヒエラルキーという思想史学用語で明快に喝破した。

22青木和夫 『日本の歴史5古代豪族』 小学館 1973
 ※天武朝氏族を知るための貴重な資料が横溢。あわせて『奈良の都』も。

23佐原真『佐原真の仕事』
 ※考古学とは何かを知るための本
24寺沢 薫  学術文庫『日本の歴史02 王権誕生』 講談社 2008
 ※森浩一の愛弟子が違う視点で。
25石母田正『中世的世界の形成』岩波新書 1985




○理化学
26佐藤洋一郎『<三内丸山遺跡>植物の世界 DNA考古学の視点から』 裳華房 2004
27中橋孝博『倭人への道 人骨の謎を追って』吉川弘文館 2015
 ※篠田のミトコンドリアDNAではわからなかった核DNA分析こそが次代の本命。
28ネリー・ナウマン『生の緒』※考古学基本中の基本
29安田喜憲 『環境考古学のすすめ』丸善ライブラリー 2001年
 ※「年縞」の名付け親が語る環境考古学。
30秋元信夫『石にこめた縄文人の祈り 大湯環状列石』新泉社 2005


ひとつ追加させてもらうと、「老子」を忘れていた。




文化と文明


他世界へ影響を与えうる文化を文明という。

わが日本には久しくその痕跡が「なかった」。

以上。

2015年考古学新発見ニュース一覧


2015年話題になった考古学ニュースまとめ

1~20/198件
以上、ヤフーニュースアーカイブ考古学より
赤字は注目記事









取り扱った記事もある、気がつかなかった記事もあり。
考古学の発掘は面白い。新発見の山。
来年も考古学の新発見が待たれるが、さてどうなりますか。



常識逆転 縄文人はのっぺり短脚、弥生人はいろいろ



縄文人は短足だった! 寒冷地型の弥生人と大差なく 江戸時代になるといっそう胴長に
「温暖な地域からやって来て脚が長いと想像されていた縄文人は、弥生人と同様に短足だったことが骨の分析で分かったと、国立科学博物館のチームが発表した。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったことも判明した。
 縄文人は、顔の形の研究などから南方の出身とする説が古くからある一方、謎も多い。同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長は「体形から考えると、起源は南方よりも(寒冷な)北方とする説を支持する結果だ」と話している。
 チームは北海道や本州、四国、九州にある20の遺跡で出土した主に6千~3千年前の縄文人63人分の骨を計測。島根・山口両県と九州北部にある4遺跡から発掘された弥生人27人分を調べ、体形のデータを比べた。
 一般に、温暖な地域では胴に比べて手や脚が長く、寒冷な地域では短くなるとされる。縄文人は脚が長い熱帯型とは言えず、北東アジアを起源とする寒冷地型の弥生人と差がなかった。身長に関しては弥生人の方が大きいという特徴があった。
 東京都内で出土した94人分ある江戸時代の人骨のデータを調べると、縄文人や弥生人より明らかに胴長短足だった。原因は不明だが、江戸時代の平均身長が低いことと関係がありそうだという。」
http://www.sankei.com/west/news/151113/wst1511130101-n1.html

独立行政法人国立科学博物館
「世界各地の現代人の体形を比べると、アフリカなど温暖な地域の人々は細身なだけでなく、胴に対して腕(上肢)・脚(下肢)が長いが、シベリアなど寒冷地の集団は胴が大きくて四肢が短い“胴長短足(脚)”の傾向がある。これは動物学でいう「アレンの法則」に合致するもので、身体の体積と体表面積の関係に依存している。つまり熱帯地域では、身体の突出部を大きくして放熱を促進し、逆に寒冷地では突出部を抑えて放熱を防いでいるのである。

では、日本の縄文〜歴史時代の人々の体形はどうだったのであろうか? 渡来系弥生人は現代
東北アジアの人々と類似しているので、寒冷地型に近い体形をしていたと予測される。一方の縄文時代人については、アジアの南方起源説と北方起源説があって予測が難しいが、四肢の長さの特徴(近位の要素(上腕骨、大腿骨)に対して遠位の成分(橈骨、脛骨)が相対的に長いこと)は現代アフリカ人と似ているため、熱帯型の体形をしていたという推定も可能である。江戸時代人は両者の混血で形成されたので、両者のどちらかあるいは中間的傾向を示すと予測された。

ほぼ完全な骨盤や背骨(椎骨)のセットがあれば、腰幅や胴長を計測して胴体サイズを知ることができる。しかし遺跡から出土する人骨は破損していることが多いため、これまで縄文〜江戸時代人の体形はよくわかっていなかった。そこで本研究では、全国各地の研究機関をめぐって縄文人の胴体サイズデータを充実させ、縄文・渡来系弥生・江戸時代人の全身的な体形の検討を初めて行った。」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=ah3UPoxftfUJ&p=%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E8%83%B4%E9%95%B7%E7%9F%AD%E8%B6%B3%E3%80%8D&u=www.kahaku.go.jp%2Fprocedure%2Fpress%2Fpdf%2F93119.pdf#search='%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%80%8C%E8%83%B4%E9%95%B7%E7%9F%AD%E8%B6%B3%E3%80%8D'





弥生人がのっぺり顔というのも勘違い
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日刊ゲンダイ15.06.19)片山一道「骨が語る日本人の歴史」(ちくま新書)




想定どおりの結果が出たと感じている。
MTDNA遺伝子分析で日本人のルーツはバイカル湖方面と出ており、南方系古モンゴロイドの血脈の割合は少ないと出ていたから、当然縄文人もシベリア方面から南下したはずである。むしろ当たり前の結果だが、サンプルからもれた中に異種の人骨もある可能性はあるので、一概に決め付けるのはまだ時間が掛かるだろう。

さて、そうすると記録との違いが気になってくる。
記紀では「土蜘蛛」や「国樔の民」として近畿に先住していた異民族が描かれ、また蝦夷は毛人(もうじん)とされ、手足が長く、小さく、毛深いなどと描かれている。ではそれらは縄文人ではなかったのか?である。

縄文人とひとくくりにしてしまうのは何度も言うように危険であろう。さまざまな来訪者があったはずだ。縄文人もアイヌや蝦夷以外の民族・人種が来ていてもおかしくはない。それがすべて北方系だったかどうかは今後、もっと詳細な各論が出るべきである。

いずれにせよ、筆者はずいぶん前に遺伝子学の記事で、すでに、縄文人が北方系新モンゴロイドであると書いている。だから現代日本人のMT遺伝子には北方系の要素が多いのだということになる。ところが文化や言語はなぜ南方の要素を残存させるのか。それはおそらく長江流域人の渡来が、半島渡来よりも先んじていたことの証明ではないかとも考えうる。

すると記紀が書いた土ぐもとは、長江からやってきていた人々だったとも考えられる。

なかなか日本人は複雑である。
縄文人だって弥生人だって「いろいろあるのだ」(by神武天皇)



頭を切り替えてくださいって。




 

クリスマスではなく冬至カード 今年の言葉はハッピーユール!



今年のクリスマスカード。
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背景はなんだかわかるかな?




A Happy Yule!

聞きなれない言葉かも知れません。

ユールとは北欧の冬至祭り。

英語では冬至は Winter Solstice だが、冬至祭はYuleを使う。

「ユール(北欧語: jul、英語: yule)は、古代ヨーロッパのゲルマン民族、ヴァイキングの間で、冬至の頃に行われた祭りのこと。のちにキリスト教との混交が行われたが、北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼ぶ。英語でもユールタイド(yuletide)と呼び、クリスマスの祝祭自体を指す言葉となったが、現在は古語とされている。北欧のユールには、キリスト教伝来以前の習慣と結びついた、独自の様々な習慣がみられる。」Wikiユール


キリスト教ではこれを取り込んでキリストに関連させてクリスマスと呼んでいるが、ケルトやゲルマン系を色濃く残す人々にとってはクリスマスはユールあるいはノエルである。

だからクリスマスという言葉は僕は使わないことにした。だから今年のカードにはユールをあえて使ってみた。

冬至祭はすでに13日の聖ルチア祭から始まっている。ぼく的には日本でならば、おとといの前夜祭から始まっていていい「追儺行事期間」の一部でしかない。冬至、新年、節分までを含めて広く世界的には冬至祭(追儺)の期間だと考えられわけだから、西欧では年賀は冬至祭やクリスマスの挨拶・カードとして一括してしまうのだ。陰暦の時代が長かった北欧や東アジアでは、太陽暦での新年1月1日には深い意味などなかったわけである。

聖ルチアとはルチア=光なので北欧の太陽神・大地母である。

クリスマス前夜に炉で焚く大きな薪を、ユール・ブロック、ユール・クロッグともいう。フランス語で言えばこれがブッシュド・ノエルである。

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日本で言えば「高木神」で、樹木を聖なるものとして切り、持ち帰る風習が今のクリスマス・ツリーの始まり。欧州では薪となる大事な資材なのでこれを神聖視した。今でも暖炉にこうしたノエルを置く地域は多い。

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これはシンボルとなるユール・ゴート。山羊である。


「もともとは、北欧神話の神トールの車を引いた2頭のヤギにちなむ。トールはユールの時期にこの2頭を屠り、他の神々にふるまった。」

つまりこれこそがサンタクロースとトナカイに取り込まれた神話だったのだ。


翌日ヤギを殺したことを後悔したトールは、ミョルニルでヤギを復活させた。北欧では、ユール・ゴートは目に見えない動物で、クリスマスの時期直前の町を訪れ、すべての準備ができているかを確認する[18]。元々は、吉凶の双方をもたらすとされる、日本のナマハゲのような存在であり[19]、サンタクロースとは対照的に、ひとから贈り物をねだる存在でもあった。フィンランドでは、子供を脅かす醜い生き物とされ、家庭では男性がこのゴート(フィンランド語ではヨウルプッキ)に扮して子供を脅かす役目を負った[18]。ちなみにスウェーデン語ではユールボック、ノルウェー語ではユールブックという[20]。キリスト教と同化するにつれ、プレゼントの運び手、後にユールトムテ(ユールトムテン)のそりを引く役目となった。また、ワラで作ったこのヤギを、クリスマスのデコレーションとしたりもする。巨大なユール・ゴートが、町中に飾られることもある。」


こうした山羊の表裏のイメージが、キリスト教では古く、悪しき北欧野蛮人たちの信仰をキリスト教に変えてしまうための悪魔のイメージに摩り替えられる。悪魔が山羊の姿をするのはこのためなのだった。


神などはこのようにより大きな新しい信仰によって、政治的に変えられてゆくものだということです。


では、柚子湯にも入ったことでしょうし、よい冬至祭をお迎えください。


メリー ユール!
メリー クリスマス
&ハッピーニューイヤー



ええ年になったらええがな。好きにせい!



背景はぼくの洋服でした。







ユール・ミトラ・サトゥルナリアの関連性と太陽神・月神・災害神の三位一体


ユール・ミトラ・サトゥリアヌスの関連性

北欧の冬至祭の始まりはミトラ教(ゾロアスター)の太陽神ミトラ信仰を起源とする。冬の長い北欧では太陽は憧憬すべき最大の対象物となり、太陽=光=炎=生命力の根源=大地母であった。太陽神には山羊などの生贄をささげ、災害神として、あるいは生命の再生への願望を聞き届け、さらには天体としての太陽の永久をも願い、ひいては太陽を生んだ根源である宇宙観念そのものへの畏怖へと発展していったと思われる。

フン族の侵入によって民族大移動が起こると、北欧の民人たちはみな南欧や西欧を目指して移動してゆき、そうした古い信仰をプロヴァンスなどの地中海沿岸地域へ浸透させていくとともに、血脈の混合が起こった。このときにローマではもともとキリスト教を取り込む前から存在した、やはり古い民族信仰の神々といわば「神仏混交」的融合を認めざるを得ず、信仰のいわば混乱が引き起こった。これを国家としてローマはひとつにする必要に迫まられたであろう。そこでかつて自らが処刑したイエスが、ローマ民衆の心をつかんでいたのを逆転の思想で持ち上げようとする。宗教統一=国家統一が古代社会のはじまりである。キリスト教もミトラ教や、それ以前の農業神サトゥリニウス(時の神クロノス)を祭ってきた冬至祭サトゥルナリアをキリスト教へと置き換える作業の中で、ミトラ太陽神はイエスの母マリアへ、サトゥリニウスや牧神パンのような山羊や羊の形をした農業神はデビルへとすり替える。


民族学伝承ひろいあげ辞典わが子を食らうサトゥリヌス参照されたし

サトゥルナリア


「キリスト教のライバルだったミトラ教は、ゾロアスター教発祥で、太陽神ミトラを崇拝しており、このミトラ神が再生する日が冬至(その当時は12月25日)であった。キリスト教は、旧約聖書の「マラキ書」の「義の太陽」にイエスをなぞらえ、ミトラ教同様に、12月25日を祝うようになった。325年のニカイア公会議で、キリスト教会は、12月25日をイエスの誕生日に正式決定する。キリスト教とミトラ教の融合、そして、冬至祭の伝統を持つケルト民族やゲルマン民族を統合する狙いがあったと言われる[21]。また、真冬の時期で、えさの少ない小鳥のために、ユール・ネックと呼ばれる、の穂束を立てるならわしもある[12]


サートゥルヌスの像

ユール・ログ、ユール・ゴート、ユール・シンギング(家々や果樹園を訪ねてキャロルを歌うこと)その他のユールに関する系統のものは、キリスト教以前からの祭りで、はっきりした日付は分からないが、13世紀の時点では、11月14日から12月13日の間であったといわれる。その後、年末の時期となったが、ユールの時期を、いつかであるか特定するのは難しい。神々に供物をする時期は、他に参考となるものが見つからず、真冬の祭りに一体化させるというのが、一番信頼性があると思われる[26]。また、初期のゲルマン人の天文学の知識は大雑把なものだったともいわれている[27]

ユールは、古代ローマの冬至祭であるサトゥルナリアに起源があるともいわれる[28]。この祭りは元々、ローマ神話農業の神サートゥルヌスギリシャ神話クロノス)を祝うもので、12月17日に行われてのが、1世紀ごろに12月23日に行われるようになった。この日は完全な安息日で、には偽王(モック・キング)[注釈 4]が登場した。古代ローマにはカレンズ英語版という年明けの祭もあり、これもサトゥルナリアと同じやり方で行われた[30]。」
以上Wiki ユールより


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こうしてクロノスはわが子を食べてしまう悪神とされ、悪魔とされながら、民衆のガス抜きとしての正反対観念、悪魔=堕天使(だてんし)ガブリエル=ルキフェル 、イエス=ユダヤの敵、マリア信仰=大地母神といった、裏表観念を容認するダブル・スタンダードな観念が生まれたのである。この大陸的な逃げ道は、現代の政治にもその多くが残存し、二枚舌外交のはじまりがそこにあったと見ることが可能である。そして民主主義の根幹でもある二大政党による政治交替によって治安を維持しようとする形も、まったくこの踏襲から生まれた手法と考え得るのである。


サトゥリヌスのStwuからサタンSatanの名称も考え出されたのだろう。その実態が斎の神であるのは時間=永遠。つまりそもそもは災害神のもう一つの性格である宇宙神、生命の誕生の根源・摂理としてのクロノスである。それがキリスト教徒の手に掛かると今度はわが子を食らう奇神として描かれた。つまり異端の鬼神である。わが子を食らうとはそもそも生贄を捧げて災害や一族の永遠を願う対象だったのであり、ミトラ教等の古い原始信仰においては悪鬼どころか善神だったのである。ところが宇宙神が災害神でもある以上、神には常に世界中で善神と悪神の二律背反はつきまとっていた。そこを利用するのである。

神が老人や童子の姿であることはそういう意味で当然である。神とはそういう表裏が一体化した観念として最初から始まるのである。なぜなら、自然がまさにそういうものだったからにほかならない。

これでわかることは、日本のアマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三神もまた当然、自然現象やそれを引き起こす宇宙の摂理の表裏を三つに分けたものであり、根本ではひとつであることだろう。太陽・月・地球。そしてツクヨミ=スサノヲとなるだろう。月は地球の恒星であって二つで一つなのだから。


神も大地も海も、おしなべてあるときは限りない慈悲と恵みを与え賜うが、時には限りなくすべてを奪い去る。神と悪魔は常にひとつの摂理である。時に迷惑、時に有難い。ゆえにこそ人も、政治も、宗教もみな、この地球の生み出したものは両面性を持った両性具備の不完全なものにできあがったのであろう。


完璧は永遠に起こりえない。
二律背反と三位一体とガス抜きによってかつがつ世界は動いている。ひとつになれるはずもない世界にわれわれは生まれてくる。滅ぼすか圧迫するかなだめあうしかない。かくして平和は永遠の観念の中の願い事になった。当然である。


実現不可能。






ちなみにYULEのつづりは北欧でJULE。
フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ つづりはJulesであるので、もしかするとユールを信仰した北欧人の血が混じった家柄の名前なのかも知れない。

日本にはなぜか夏至だ夏至だと神社信仰を考えたがる人がいるようだが、農業にとって夏至よりも冬至であったことは再認識していただきたいものである。太陽への希求という面で、それが消えてしまう冬と、猛暑が災害ばかりもたらす夏のどっちが太陽神への憧れが強いかという単純なことである。


人類はサルから進化したのですか?


来年の干支にちなんで。

答え・・・違います。サルは親戚のひとつです。サルから進化したのではなく、サル・類人猿・人類は共通の先祖である動物から枝分かれしました。

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その共通祖先とは、最新科学の説では真主齧上目(しんしゅげつじょうもく、Euarchontoglires)ではないかとされています。白亜紀頃出現。それ以前はネズミのようなげっ歯類でした。

あまりいいたとえではないですが、ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・・・と来て、ネズミから始まった干支が来年サルに到達した・・・程度のことです。

もっとずっとたどっていくと、恐竜の時代に海の中で隠れるように暮らしていた小さな脆弱な魚類だといわれています。カクレウオみたいな奴です。


つまり、人類の祖先や親戚は全員が、だいたい食肉獣から逃げかくれしながら生き延びてきたことになります。弱かったがために脳みそや手を発達させる道を選ぶ。つまりかなり卑屈で、弱虫で、頭脳的な生き方でしか人類は生まれなかったんでしょう。


強者の生き方はしてこなかったことをお忘れなく。
戦争でも、そういう生き方をするほうが、人類の進化には適合しています。
卑怯者と言われようが、なんと言われようが、生き残ることが客観的に正解なのがこの世界の摂理です。昔の武士のような生き方はむしろ大ばか者だということです。


戦時中、非国民などと誹謗された人のほうが正しかったことは大事な経験です。
その時代の万民が納得するような生き方はたいがい間違っていたと思ったほうがいい。要するに民意も主流も意に介さず正しい道を各自が考えることでしょう。

そういう生き方をしてください。


人類の進化などは「永遠の0」だったと考えてもいいかな?



逃げる、主観的に死を選ばない、かっこよさを選ばない、とにかく生きる。それが永遠の正体です。すると生命は渦巻きになって存続するでしょう。


猛獣はつながらない。です。







耶律= Yeliz 珍説新説


Yelizはトルコ~モンゴルまで広がる人名。
日本ではバレーボールNECロケッツの三番にçekilen Yeliz Başa イエリズ・アラカン・バシャ トルコ生まれ がいる。


耶律 氏(やりつ し、契丹語再建音: Yelü)は、日本では「やりつ」と読むが正確な発音はわからない。中国人がある異民族に対して、現地語に準じて漢字表記した民族名である。

契丹とはキタイでスキタイ人のことである。
スキタイとはトルコ系テュルク民族の一種。

かつて満洲に存在した契丹人(キタイ人)の氏族。10世紀始めに契丹族を統一して以来、西遼などの帝国を支配した有力氏族であり、漢化が進行した時代には風の姓として劉氏をも名乗った。

やりつ=イエリズ

ではないか?

ロシアにエリツィン姓があるが、それももしや「やりつ」系スキタイの血脈ではないか?





謹賀新年2016

BGM水曜日のカンパネラ 桃太郎




謹賀新年
みなさまへ年賀状です。


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初日の出に赤く染まる由布岳






新春初日の出です。

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お猿の高崎山も赤く

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日の出東に 月西に
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初詣
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冬の太陽が鳥居に当たるように建てられた在所の神社







初霜
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初雑煮

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初日の出と群雲をイメージしています・・・。





年越し八寸と手製のおせちです。

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新年があなたにとってよい年になりますように。




今年も良しなに。






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友だち様へお詫び

昨年誤って友だち削除してしまっていた方があり、いま、ようやくそれに気づきました。申し訳ないことでした。

酔っていたのか、当家の親しい訪問者が間違ったのか、とりあえず改めて申請しておりますので、ご面倒でしょうがよければ承認願います。

ほかにもおられましたらご連絡ください。


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