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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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金気の申年・筆者年賀状の意味解説

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申(金気始め)南西
酉(金気正中)西
戌(土気・金気終わり)北西

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筆者今年の年賀状に桃太郎エピソードを用いたわけは、今年から再来年までが陰陽五行の金気の年間だからである。

そう、桃太郎の三匹の連れたちは、「金=宝物の発見」に掛けられた桃太郎のキーワードになっているのだ。

金気とは?
金剋木(きんこくもく)で、金は木をくじき、火にくじかれるとなる。
金属は木よりも強く硬いが、火力で溶かされてしまう。

神職者や鍛冶屋や炭焼きたちが北西を聖なる方位としたのは、北西の風が火に強い季節風をふかせ、火力を増したからである。しかし一方で、一般人、市中の人々には火事を起こしかねない凶事の鬼門方位であった。

往古、金とはひとつゴールドだけでなく、広く金属を指した言葉である。鉄も銅もスズもみな「金」だった。鉱物=金。

それを中国の五行から、自由に方位や動物にあてたのが日本人の想像力と応用性だろう。


今年が金の年になるのかどうか?

しかし、日本の西側にある周辺アジア諸国は
「犬と猿は仲たがい、雉は戦力外」=「中国と朝鮮は仲たがい、韓国は戦力外」状態。困ったものである。彼らの東(辰・巳)にあるわが国やアメリカにとって、相変わらず東アジア三国は「やれやれ」の精神では三等国家のまま。『徒然草』の田舎者のように、礼も徳も知らぬ反対勢力にかき回され続ける不完全統一国家であり続けている。経済成長が精神成長と比例しない三流国家でしかなく、全くまとまらない。

イスラム世界などはそういうところにつけこんでくるに違いない。

高度成長期からのぬるま湯=平和ボケに浸かりきってきた日本人は、果たしてこれらの鬼にどう立ち向かうのでしょうか?水曜日のカンパネラの歌う桃太郎よろしく、ゲームとネットという実践なき虚像の中に身をまかせ切り、現実の脅威に立ち向かえない日本人は、虎であるアメリカの力を頼りきって、いつまでも気づかぬふりをしたまま。

これでは東アジア三国も、日本は「何も知らないうつけもの」と思い込んでしまうのもしかたあるまい。彼らが何年も前の日帝の侵略をいまだに言い募るのならば日本だって終戦後に北方四島に勝手に盟約を破棄して侵略し、奪い取ったロシアのやりざまや、シベリア抑留といった約束違反・人権無視行為を、もっと言い募ってもいい。

しかし、戦後、日本人は敗戦の大ショックを乗り切るがために、経済だけにまい進し、西側に或るアジアの情勢や西アジア・中東の現実、米ソの対立、半島の分裂などに、一切背を向けて生きてきた。それしか三等国と落ちたこの国を復興させる手段がなかったからだ。一刻も早くわが国は欧米並みに近づこうとして、同胞であるべき東アジア諸国も他人のように考え、背中をむけ、太平洋の東ばかりを見続けてきたのだった。


しかし世界情勢はすでに地球規模の「ひとつの地球」を望み始めている。奇しくも方位は西の年を迎えた。そろそろ日本も世界を視野に、新しい平和同盟のために立ち上がるべき時期にさしかかっているのではないだろうか?


それがアジアで最速の自由主義国家となりえた日本、唯一、二個の原爆を落とされながら、経済と精神の「金」を手にできた稀有な国家日本の進むべき道だろう。あのナチスのドイツでさえ核爆弾を落とされなかった。日本は極東の島国であり、そこから汚染風が向かうべき隣国に接していない位置にあったからにほかならない。ドイツは欧州のど真ん中にあり、ロシアに隣接していたから、爆風と汚染の広がりは連合国側に非常に都合の悪い政治事情をもたらす危険が多い位置だったから原爆を落とされなかったのだ。

桃太郎日本。
ここからが正念場。
災い転じて金気をものにできるかは、ひとえに日本人の心にかかっている。
そんな申年の始まりであります。






申年にちなんで、新春書初め記事は「サルと人間」に関する最新科学をいくつか扱おうと思っている。参考文献には京大霊長類研究所編集の『新しい霊長類学』を使うつもり。











ヒトとチンパンジーの塩基配列の差はほとんどない 日本人のルーツは多種多様

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DNA遺伝子の塩基配列を比較すると、ヒトと昆虫や線虫でも二倍ほども違わない。まして近縁のチンパンジーとでは1・23%しか違わない。それらの理由は後天的挿入と欠失によっている。必要がなくなって失われたものや、新しい必要性で生まれ入れ替わったものだ。それらをすべて足すとゲノムの全塩基のうち、だいたい1.5%程度の違いしかなかった。サルと比べても似たり寄ったりだろう。

(ただし
 これまで、ヒトとチンパンジーの塩基配列の違いは1%余りとされていた。しかし、今回の研究では、両者で塩基の種類が変わっている部分が1.44%あったほか、塩基配列が加わったり、逆に欠けている部分が約6万8000カ所も見つかった。合わせた違いは5.3%になるという。

 また、染色体上の遺伝子231個を両者で詳しく比べた結果、192個(全体の83%)で、遺伝子が作り出すたんぱく質に違いがあった)


ただしゲノムの差異がそのまま種の形態や機能の違いではない。むしろそれはごく一部だけしか作用していないといわれている。ヒトが言葉を発するためのアミノ酸からなるたんぱく質で、その303番目がチンパンジーではトレオニンだがヒトではアスパラギンが置かれている。また325番目は、チンパンジーがアスパラギン、ヒトはセリンが置かれてある。たった二つのこの違いは、ヒトとチンパンジーが500万年ほど前に分岐したあとにヒトの系統だけで生じた。ほかの類人猿(最近は類人という)やサルまでは、チンパンジーと同じだからだ。たった二箇所の違いだけでヒトは言語を持つに至ったわけである。

以上のことは、つまり人類が同じ原猿から少しづつ環境適応することで分岐したことを示すことにもなる。

そしてそれらの派生の原因は突然変異である。

突然変異を起こすのは女性よりも男性が圧倒的に多い。生活環境変化がメスよりもオスが多いためだろうか?

いずれにせよ種の進化(退化)は常に突然変異したゲノムの部分的因子によっていることになる。それを後の世代にまで引き継がせているのはY染色体でもMTDNAでもなく核DNAである。ということはその種の進化や退化に関して考えるには、核DNAの分析を中心にして、Y染色体やMTDNAの分析を補助的に使うべきである。しかし後者二種に比べて核DNAのサンプルは非常に解析しにくく、しぜん、サンプリングが難しくなるので、それが残存できる環境におかれた稀有な遺骸の発見が今後の正解のための大事な要素になる。考古学的発掘しだいなのである。

どっちにしても篠田教授もすでに昨年のテレビ出演で、自説のMTDNA分析にほかの研究成果を加味した、D4遺伝子の拡散と日本人のルーツについて語り始めており、バイカル湖起源説が母方だけであることはさすがに言わないが、もっと分析が必要なことを示唆しているのである。

バイカル湖の遺伝子も南下してD4震源に南下する。南方系遺伝子の持ち主やさまざまな遺伝子の人々が震源地である華北華南の中心部で出会い、そこからさらに多岐に変化しながらヒトは拡散したのである。そのもっとも混合して拡散したひとつが原日本人であろう。MT分析のサンプルデータは現代人のものが多かったということだ。もっと古代人の原種により近いサンプルが求められている。











大阪城陥落の影に欧州宗教戦争の影・NHK家康番組から

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昨夜面白い歴史推理番組を見て非常に面白い視点だと感じた。
家康が大阪城陥落させた背後に、イングランドのプロテスタントとスペインのカトリックの宗教戦争が大いに影響したというもの。


家康は一面でキリシタン弾圧はしたものの、それはカトリックへの弾圧であり、スペイン弾圧ではなかったか。その背後にはイングランドのプロテスタントとしての思惑があり、家康は女王から大砲を入手したと。それが大阪城の淀君を右往左往させ、結果的に天下は家康のものとなったというものだった。もしこのロング砲がなかったら大阪方が勝っていたかもしれない大阪の陣だとも。しかもその大砲はエリザベス一世がスペイン艦隊から戦利品をうばいとるための海賊行為のために存在。

これまでにない視点で、実に説得力があった。

当時の欧州は海外へ船による拡大政策の真っ最中。スペインと言えば無敵艦隊の時代。一方イングランドは弱小の島国でしかなかった。北にカトリックのスコットランド、南にもアイルランドを控えて、なかなか世界に打って出ることもできない。フランスはイングランドを蛮族、古いケルトワールドとあなどり、ポルトガルにもスペインにも認められてはいない。しかし宗教的には古い大陸のカソリックではなく、改革された新しいキリスト教国家だった。

スペインは信長時代から日本へ伝道師を送り、日本人をカトリック化しようとしていた。ザビエル・フェノロサなど有名。その影響をもろにうけたのが長崎などのバテレンたち。秀吉はそれを弾圧。家康はそれを遠い関東から見ていた。そしてイングランドと手を結ぶ。手にしたのは大型の大砲だった。かわりに家康はエリザベス一世へ兜の贈り物をし、それがあるのはハリーポッターの舞台となった街。

日光東照宮にはその痕跡としてイギリス式のさまざまな産物のレプリカが石造として並んでいる・・・。


ということは大阪の夏・冬の陣は、英国とスペイン、いやカトリックとプロテスタントの植民地拡大合戦を日本に移した代理戦争だったともいえるわけである。
ちょうど卑弥呼直前の魏・呉戦争代理戦争だった倭国の乱と似た状況なのが面白い。エリザベス女王と家康をつないだのは、あの教科書で習った三浦按針(ウイリアム・アダムス)であったというところですべてがつながる。何をした人かがいまいちだった彼の意味がやっとわかった。学校は教えてくれない事実。


歴史はまことに面白い。
江戸時代は鎖国ばかりだと思ってきたが、実は英国との関係は明治時代になって海軍を学ぶところまでつながっているのである。

なるほど。


古墳時代/時代用語の不備について

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『古墳時代』は弥生時代から奈良時代までの間に置かれる歴史専門用語で、古墳が作られた時代すべてを言う言葉だが、教科書ではあまり使われていない時代だった。最近はやっと認知されたような気配。

学校では縄文・弥生ときて、あいだがなくて飛鳥時代、奈良時代、平安時代までが古代となり、清盛からが中世になることが多い。しかし、最近はこれえもかなりおかしく感じられるようになった。

古墳時代という区分も奇妙で、お墓の形式で時代区分されてしまっているが、その古墳にも大古墳もあれば中小古墳、横穴墓もあるし、それらが全部で数万基もあるうえに、無数の横穴までもすべ「古墳時代」に作られているわけだ。すると黎明期は弥生時代後期後半にひっかかるようになったし、終末期は飛鳥時代にかかっていることになる。

縄文時代は世界史なら新石器時代、弥生時代は金属器時代になるわけで、うまく体操できるが、古墳時代のような墓による区分は世界史にはないのでいささか困ることもある。弥生の墓が発展したのが古墳時代なのだから、九州や出雲・吉備に大型墳墓が作られ始めた弥生後期全般だって古墳時代でもおかしくない。知らないヒトにはその区分がよくわからない人も多かろう。

往古は「大和時代」という区分があって、これがおおむね古墳時代をさしてきた。しかしそれではまるで日本が当時から大和地方が中心であったと見えるし、ということは日本の古代史が地方を無視しているとして今は古墳時代になった。だが弥生時代と飛鳥時代の間は実際には名称がないことになる。古墳時代は考古学的な区分であって、史学的にはここは空白あるいは弥生~飛鳥転換期なのである。奇妙な。

平安から中世へと言うのも奇妙である。平安時代は朝廷を中心にもう律令体制が整い、その内容は西欧の国王と騎士や領主の関係に等しいのだから中世であっておかしくない。しかし区分は古代なのである。

こういうところが日本史のあいまいさを示していて、外国につけ込まれる弱点でもあろう。


参考 森浩一著作集1 『古墳時代を考える』

とうとう森さんの著作集が出ました。


 

四大文明 払拭すべき東アジアだけの旧史観

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世界四大文明とは、東アジアで生まれた東アジアだけの古い世界観、歴史観の用語。
発案者は中国清末~民初期の政治家である梁 啓超(りょう けいちょう)。

歴史上、4つの大文明(メソポタミア・エジプト・インダス・黄河)が最初に太古(ほぼ4000年前前後)に「常に大河流域で」起こり、以降の文明はこの流れをくむとする仮説。シュメール、長江などの旧大陸内のさらに古い文明の新発見、アンデス、マヤ、インカ、アステカなどの新大陸文明が発見される以前の古い仮説。

いまや日本の高等教育のみに残存するとも言える狭い、学校教育によって日本人のほとんどに刷り込まれている誤った史観である。現在は「六大文明」とする仮説が歴史学者・専門家たちの新しい仮説になっている。しかしそれももちろん便宜的な仮説であって、今後、新たな文明の発見もありえるし、そもそも「四大」「六大」などと決め付けたがる志向は、世界では日本人や中国人だけの考え方である。六大とは人によって選択肢が違い、四大文明にプラスして、地中海地域の各文明、新大陸の各文明をひとからげにしたくくりでしかない。

世界六大文明派生地
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池上彰と歩くアフリカビジネスサイトより「世界六大文明」分布図
ここですらタイトルはやはり四大文明となっている。



※そもそも日本人は「三大なんたら」が大好きだが、実はそういうくくりは西欧にはまったく存在しない。なんにでも順位をつけたがるのは日本人の奇妙な偏向である。そこには世界・民族を平等に観ようとする世界観が皆無で、すべてに順列、上下を求める悪い性癖だと言え、そこに日本人、東アジア人の西欧的な「平等」への理解度の低さが垣間見える。


世界に古代文明とされてる地域は、今現在約40箇所存在する。
古代文明一覧



四大文明より前、直後に派生した世界古代文明(四大文明含む。古い順。小文字は未だ不確定)
●シュメール文明
イラク・クウェート 中石器時代~3500年頃。中石器、新石器、ハラド、ウバイド文化など

●縄文文明(仮説) 日本。16000年前~? 土器、円の思想。木造高層建造物。貝塚。
いずれはあったとされるだろう。日本文明という仮説が欧米ですでに出てきている。
文明と呼べるための要素はまだ不明。

●長江文明
紀元前14000年~紀元前1000年頃 中国長江流域 稲作、彭頭山文化、大渓文化、屈家嶺文化、屈家嶺文化、石家河文化、河姆渡文化、 馬家浜文化、沢文化、良渚文化、呉城文化など 

●黄河文明
黄河流域~中原~江南 紀元前7000年頃
裴李崗文化、老官台文化、北辛文化、磁山文化、仰韶文化、後岡文化、大汶口文化、龍山文化、二里頭文化などの各文化。 

●メソポタミア文明(含むアナトリア文明=アッシリア・ヒッタイト・バビロニア文化紀元前5000以降)
 イラクチグリス・ユーフラテス川の間の平野 紀元前5000年~紀元前500年頃。楔形文字・粘土板。太陰太陽暦、60進数

●アンデス文明 (ラテン・アメリカ文明)
南米のペルーを中心としたアンデス中央高地 紀元前5000年ごろ。キープ文字(縄を括る文字代わりにする)。絵文字。金属器なし。石器文化。金や銀は装飾品のみではじまりは遅い。

●エジプト文明
エジプト・ナイル川周辺 紀元前3000年~紀元前30年頃 太陽暦 文字ヒエログリフ(甲骨文字)。天文観測、測量、幾何学

●インダス文明
インダス川と、ガッガル・ハークラー川周辺。 紀元前2600年~紀元前1800年頃。特徴青銅器、日干し煉瓦建築 都市ハラッパー、モヘンジョダロ 
 
●マヤ文明 (メソ・アメリカ文明)
メキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、ユカタン半島 紀元前2000頃?~16世紀植民地主義スペインによって滅亡。青銅器や鉄器を使用せず、食用・役用の家畜なし。焼き畑農業。天体観測天文学・数学・暦。象形絵文字。  はじまりはまだ不明。

※メソとはラテン語の「中間地域」

このほかに、原始フン民族やケルト民族、原始中東~イラン、スキタイなども筆者今後の候補。



例えば日本の教科書では、マヤ・アステカなどのメソ・アメリカ文明にもいろいろあるのに、距離で1000キロ以上離れたラテンアメリカのアンデス各文明をも1セクション、1項目で十把ひとからげにまとめてしまい、わずかなページしか割かない有様で、シュメールについても同じ。ましてフン族の始まりや好事家たちが興味津々のケルトなどはまったく書かれない。まことに世界の歴史観からの遅れが未だに観られる。受験用史学ここにきわまれり状態。

あたかも西欧文明と四大文明さえおさえておけば世界史は終わってよいという、キリスト教徒のようなカリキュラムがいまだに続いている。これは古い西欧史観というよりも、戦時中の中華思想の受け売りのままだとすらいい得る状態である。さらに大学受験に出てくる問題にも、バルカンや新大陸の新発見文明は割愛の傾向が強く、日本人全体の世界観・歴史観を世界が「?」する原因を作っている。しかもマヤ・アステカなどの文明には大河は必ずしも関与していない場合も多く、さらに金属器の使用例が皆無である。つまり四大文明的なくくりにはあてはまらないのに明らかに文明なのである。くくりが通用しないから例外扱いか?

これらの中南米文明の多くは、つまり、発見の遅れた隔絶地域だったために、10世紀前後まで「石器~青銅器~鉄器」という西欧考古学の進歩の定義があてはまらず、石器と土器を使い続けた旧世界であるにも関わらず天文や数学にたけた文化が根付き、農耕も高山斜面を利する棚田が中心の、狭い地域、高い高地で延々と(縄文文化のごとく)それが続いたということになる。また、われわれが彼らの死生観を語るとき常に代表的に考える「生贄儀式」ですら、マヤ人やアステカ人やマチュピチュ人らは、特別な場合しか、ほとんどまれにしかそれを行ってはいないことについてすら知らないままなのである。




「世界の文明は四大文明ではない」(青山和夫 『マヤ文明を知る事典』2015)

もちろん世界の文明の始まりも四大文明からではない。


今年、史上初めて南米でオリンピックが開催されるわけだが、その新大陸の各文明が、それぞれいつ始まり、それぞれが中南米のどこに存在したかについてすら、日本人の多くは充分に知っているとは言えない。(中南米文明一覧と始まりは別記記事にする)


あまつさえ、ネット上に、今のところ世界中の古代文明派生地の分布図すら見当たらない。インターネットの情報は「木や枝葉には詳しいが、相対的、包括的、俯瞰的な森林がない」。あるのは詳しすぎる断片ばかりで初心者には役に立たないものが多いのである。だから筆者はいつも自分で一覧や分布図を作ることになる。労力ばかりかかる。

つまり日本人の中で、すべての世界古代文明を総覧している人間がひとりもいないということになりかねない。あるのは四大文明分布図や文明ごとの狭い分布図だけ。「古代文明」「世界文明」で検索すると常に最上段に「四大文明」が出てきてしまう。それほど日本人は「四大文明」史観に束縛され、馴致されてしまっているわけであろう。


もう一度言うが、最も古い世界文明派生地は四大文明派生地ではないのだ。そして教科書の文明派生の項目もすみやかに書き換えるべきである。でないと、日本人はいつまでも世界的視野の歴史観や、グローバルで平等な世界観を持てない欠陥民族のままである。テレビの特集番組でしか教科書の外に有る最新世界文明を知ることができないとは、まことに残念な話ではないか。












マヤを中心にメソ・アメリカ文明の位置と年表

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中米の遺跡分布図とマヤ文明の遺跡分布
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メキシコを中心とした地形図
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諸文明の派生と歴史年表
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分布図・年表画像はすべて青山和夫『マヤ文明を知る事典』より編集



メキシコを中心とするメソ・アメリカ文明の遺跡は古い順に、
1 湾岸地域を利したオルメカ
2 低湿地と扇状地を利したマヤ
3 高地を利した(アンデス的)テオティワカン~トルテカ~アステカ
4 盆地を利したミシュテカ、サポテカ
に大別できる。


太古の時代から数えれば、それらの文明は紀元前2000年前後のオルメカ、マヤに始まって、紀元前500年以前のサポテカ、紀元前後のテオティワカン、1世紀頃のトルテカ、ミシュテカ、そして13世紀頃のアステカと続く。マヤだけはその間、延々と繁栄を続けている。日本で言えば縄文後期~戦国時代直前、植民地主義スペイン(イスパニア)に滅ぼされるまでまで続いた。


死生観を示すピラミッド。
冬至、夏至、春分、秋分の農耕カレンダーを意識しているマヤの神殿。
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火をもたらし、霊魂を運ぶ鳥、ケツァル・コアトル。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ケツァルコアトル

ガルーダや八咫烏、西欧ならコウノトリに当たる火と太陽の使者。
蛇の体に鳥の羽を持つ。

モデルとなったケツァル。



太陽と火とそれを運ぶ鳥、使者の観念は世界共通である。
しかし、ひとつ違うことは、唯一の潟湖であるテルミノス潟周辺に遺跡がないことである。

つまりこの文明は周辺との海の交易があまり感じられない文明ではないか。引きこもる文化だったのだろうか?

河川は潟から少し西側に大河が二本あり、これをを使ったのか?






ベトナム料理は倭人料理

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コウケンテツが行くベトナム「田んぼの恵みいっぱいの食卓へ」 
自然の恵みを大切にしたベトナム家庭料理を求める旅・コウケンテツが行くベトナム。今回はベトナム北部の町ハイフォンを訪れ、田んぼで捕れる田ガニとタニシの味わい深い料理を堪能します。田んぼでの昔ながらのカニ捕りから始まり、カニのみそが濃厚な味を生む野菜たっぷりのスープとメーという発酵させたソースに豚肉、バナナを加えたタニシの煮込み料理をベトナムの代表的なタレ・ヌックマムで味わいます。

【リポーター】コウケンテツ,【語り】木島京子
https://tv.so-net.ne.jp/schedule/200101201601190100.action



ブンズィウクア(Bún riêu cua) ※南部の呼び方は「ブンリュウクア」
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ブンは米粉の麺フォー(中華のビーフン)を発酵させた麺。

日本のモクズガニを使った「蟹汁 がんじる」とまったく同じ作り方で作るスープ。
つぶして、漉して、蟹味噌を炊くとスープはすっきりと澄み、蟹味噌が凝固して浮んでくる。


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豊前宇佐の郷土料理がん汁




干物こそないようだったが、ほかにタニシと豚肉のいためたものや、米を水につけ置いて発酵させ、塩を加えた塩麹メーもまったく同じ。ニョクマムは魚醤。

メーは発酵が進めば日本酒の腐り水で、ここに麹を入れれば発泡濁酒になるはず。それの上澄みが清酒なのだ。つまり往古のサル酒のような弥生の酒の原点で共通。ベトナムでは塩麹として調味料に使うのみなのはもったいない。


調理法には中華とフレンチと古代的な煮炊きのミックスが感じられる。これはベトナムの成立が長江民族が江南から移住した古代であったことと、華僑の影響、さらにフランス統治時代の影響があったことのためだろう。それで土器で煮炊きだったはずの生活に、華僑の炒めとフレンチのサラダがミックスしたのだろう。

往古ならまさに野菜はすべて生食で、はだしだったに違いなく、魏志倭人伝の風俗を思い出させるに充分である。


なにしろ遺伝子D4で日本人とはほぼ兄弟の血脈である。


ふぐはないかと見ていたが食べてはいなかったようだ。
ところで佐賀県、長崎県では猛毒のふぐの肝を食べられる飼育がなされて、今回、食用としての申請が国に出されたという。テトロドドキシンはふぐが貝殻を食うことで蓄積される猛毒。だから貝を徹底的に食べさせなければ、毒がないふぐを作ることが可能なわけだ。

筆者、死の直前にふぐ肝を食べたいと念願があるが、生きている間に食べられそうな按配だ。この世にあれほどの美味はないといわれるものだが。



さて、ベトナム人の顔の特徴に、小鼻が広いというのがあるが、日本人でも海岸部女性にこれが見られる。広く太平洋側でこの横広の小鼻が見られる。












古墳時代2 日本先史時代の新区分 古墳時代ではなく

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古墳時代という現在使われている日本古代史の時代区分では、その開始時期と終焉時期には、地方によってどうしてもタイムラグと地域の学者によっての考え方の違いが出てきてしまう。

前者は日本列島の地形が細長いために、どの論理で考えても地域差が生まれてもしょうがない。しかし、古墳の始まり、終わりを大和中心で考える現在の教科書的区分は明らかに対象を前方後円墳と言う形式に絞り込んでしまった片手落ちの論理でしかない。

形ではなく、その対象物である墓の背後にある時代背景、それが生み出した日本人のイデオロギーの相違で筆者は区分しようとするものである。

それは古墳時代という区分名そのものの否定でもあり、さらに縄文時代、弥生時代という土器中心の時代区分にも大きな提言となるだろう。



まず古墳時代の開始と終焉を先に規定してしまおう。そうすると背景にあるべきイデオロギーの本質が見えてくることになり、引いては現在の古代の区分が大きく変化することになるのである。それは形ではなく、その時代の人間の志向そのものを区分する結果を導くことになるのである。



●古墳時代の開始時期はフェアな立場から見るとこうなっていると考える。
A九州・・・北部九州2世紀中盤、平原墳丘墓の巨大化
B吉備・・・吉備2世紀中、盾築墳丘墓の巨大化
C大和・・・纏向3世紀中盤 、纏向プレ前方後円墳型墳丘墓の出現

しかし、全国教科書ではCのみが採用され、近畿中心の考え方が主流とされてしまっており、地方がまったく無視されている。この状況は奇妙でいびつである。なぜなら、それ以前まで、あらゆる大陸からの新文化が最初に入ったのは北部九州からだと認められていながら、古墳時代に入るといきなり説が逆転して、途中の吉備すら無視して纏向から始まったと決め付けられているからである。このようなアンフェアな、時代感覚無視の区分は、学ぶ側の人間を低く見た、押し付け論理でしかあるまい。

古墳時代は前方後円墳から始まらない。

それ以前の墳丘墓の大型化によって開始された。
その流れは九州も吉備もほとんど同時期で大和だけが100年近く遅れるのである。
それまでは三地域ともに方形周溝墓、円形周溝墓であり、それが大型化するのである。出雲型の四隅突出型墳丘墓はそのバリエーションのひとつと捉えられる。

最初は「平原古墳」からである。次にほぼ同時期に「盾築古墳」が築かれ、最後に「纏向型プレ前方後円墳」が3世紀中頃になって登場し、完全型の箸墓は後半まで遅れる。纏向だけが前方後円型を選んだのは、大和が地方出身豪族の寄り合い所帯で始まるからである。

これらすべてに共通するのが「大型化」願望である。それを別の言葉で置き換えれば松木武彦が言うヘテラルキーからヒエラルキーへのイデオロギー大転換に合致することになる。

外国ではピラミッドやマチュピチュ神殿のように、多くはそれが高さ(天上界に近いところに近づく志向性=欧州中世のゴチック建築も)で表現される時代が起きているけれど、日本では、当初こそ高山中腹や台地の腹部を切り開いて始まるのだが、次には高さよりもむしろ底辺の広さに転換して、平地で展開され始めた。そして5世紀までに古市のような、超巨大なものへと変化したわけである。仁徳天皇陵大仙古墳の底部の広さはピラミッドをはるかにしのいでいる。

このように、古墳時代を規定するならばその開始は2世紀中盤にあてるべきである。そしてその時代こそが、魏志が描いた倭国の乱の直後なのである。この歴史的大事件が軽んじられてはいまいか?倭国の乱は、東アジア諸国が知っていたグローバルな世界史の一部であり、ひとり日本国内の小事ではなかったのだ。当然、ここに日本史の時代区分が置かれてしかるべきであるのは、あとの鎌倉、室町、戦国、江戸、明治時代のすべてが大戦争によって転換することにまったく矛盾しないのだから。戦争はその時代を二分する大事件、イベントであり、だからこそそれらはいくさによって区分された。にも関わらず、「古代だけをいくさで区分していない」現行時代区分は非常に一貫性に欠けた不完全なものだと筆者は考える。



すると本来のあるべき区分は、倭国の乱における日本を二分した天下分け目の大戦争ではっきりと二分され、異論をはさむ余地がなくなる。そしてその前と後とでまったく倭人が変わった証拠品としての古墳が登場するという理解に行き着ける。ここに矛盾は存在しないはずだ。

墳墓を大きくしたがったのは、どういう心理の変化かが問題になるのである。これは日本人全体の歴史的転換を指し示すのであり、明らかな時代変化だ。


では、その「大きく立派にしたくなった」理由はなんなのかであろう。もちろん三国時代の中華大戦争が決着したための結果でそうなったのである。それは別の用語で言えば先に書いた「ヘテラルキー社会からヒエラルキー社会」への大転換のきっかけになったのである。ヒエラルキーとは現代社会まで存続する権威主義的な集団形成、政治形態だと言える。歴史用語では中央集権国家への道のはじまりである。

いわゆる弥生時代後期終盤の2世紀に、九州・吉備・出雲日本海、近畿などで墳墓が一斉に大型化した。その直前までほぼ一線の周溝墓で統一的、ヘテラルキー型だった墓が、格差を生じはじめ、同時に、地方と大和に軋轢や反駁、集散離合が起きる。その中で纏向型墳墓だけが生き残り、あとの時代にその形状が引き継がれた。

ところが5世紀後半を過ぎ6世紀前後になるとなぜか九州型の横穴式、横口式石室や石棺、さらに阿蘇凝灰岩製の石を使った家型石棺が登場し、それまでの大和的だった竪穴式石室、割竹型木棺にとってかわり、東へ一気に伝播。あっという間に東北まで拡大した。

河内・泉州の古墳でも、それまでの長持ち型で二上山石を使った石棺と、阿蘇の石棺が一緒に葬られる。最古の例は大阪藤井寺の唐櫃山(からとやま)古墳・長持山(ながもちやま)古墳などである。あきらかに大王(允恭?)の陪塚であるこれらの墳墓が、九州の阿蘇石を欲して造られたことになる。

ほぼ同時に九州式の大量威信財の埋蔵も始まって、祭礼(吉備)・土器(東海)以外の目に見える墳丘墓遺物、建造物形式が一切合財、九州型へ切り替わることになった。しかしそれらはすべて墓の内部にあって、生きているなまの民衆には見えないものばかりで目立たない。しかし間違いなく、大和は北部九州の実力者を、「吉備を仲介者として」=近畿では国司として派遣するための吉備への支配が起きた=招かねばならなくなったのだ。その理由は半島の争乱にあった。半島の、武力による制圧・安定の必要性=百済・高句麗干渉と新興新羅牽制の必要性=が生じたのだ。


さて墳墓形式の伝播の速さは日本のヘソの位置にあった近畿地方を経由したからである。近畿がその頃には情報の集散地つまり問屋になっていたことは間違いない。これが中央集権への大きな布石であるならば、倭国の乱で近畿大和が少なくとも6世紀までには実権を手にしたことは否定できない。しかしそれは九州型の墳墓形式を合体した結果生み出された和合だったこともまた否定できまい。そして使用された土器・埴輪には吉備や東海のものがあったことも重要で、3世紀には、争乱の上の結果としての地域の和合が起きたことも間違いない。



このように、古墳時代を再編成しなおすと、その中心にあったのが東アジア諸外国を意識した見栄えや権威主義にあることは丸見えになる。大事なのは大きさと広さと美しさ、海から見える小高い場所などのヒエラルキー要素だ。これがそれ以前と以後を大きく区分けする最重要の要素なのだ。そして同時に、ヒエラルキー社会への変貌以前のすべてはヘテラルキー(平等主義的、アンチピラミッド型の)社会だったことが見えてくる。


つまり縄文も弥生前半も、大差のない世界である。

鉄器や稲作で縄文と弥生は別けられてきた。しかしそのわけ目はいまやあいまいで、時代が徐々にスライスしながら変化していったことは間違いない。昔の年表のような、いきなりすぱっと切り替わるような図表にはならない。当然である。日本は細長く、伝播にタイムラグがあるからだ。へたをすると縄文後期~晩期~弥生初期に、遺物や文化では区分けがきかないものが混じっている。しかしイデオロギーで考えると古墳時代からは明らかにイデアが違う。したがって先史時代の区分は、弥生中期までのヘテラルキー時代とその後のヒエラルキー黎明期にはっきりとわかつことができるのである。



もうひとつ気になっている区分がある。
一万年以上も続いた縄文時代には、なぜ区分がなく、草創期~前期~中期~後期~晩期という名前での小区分しかないのか?実際に土器に当たれば、すべてが縄文だったのではないのに?なぜ擦紋時代とか火焔土器時代がないのか?世界史ではここを新石器時代として、それ以前の旧石器時代と区分される。なぜ日本史だけが土器形式で区分けしたのか?それは日本の考古学の有り様の歴史でもある。つまりは近畿考古学がほかを押し込んできた学閥世界の流れが、土器編年こそが唯一の時代区分のノウハウであると勘違いしてきたからではなかったか?炭素年代法以来の新たな手法を、取り入れたくない・・・保守的でアンチラジカルな考え方がこの国の歴史観をがんじがらめに縛り付けていたせいではないのか?という疑念でである。




次回、古墳時代終焉期の規定と群集墳・横穴墓の意味を具体的に。森浩一氏の文献から当たる。












科学ってなあに?技術ってなあに?

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科学ってなあに?

・・・無目的な「Why」

技術ってなあに?

・・・「有目的」な「How」

目的ってなあに?

・・・何を何にどう使って役立てるかのこと





科学は純粋な「なぜ?」に始まり、本来無目的である。その科学を生かしも殺しもして利用し、ヒトにとって役立つ形にして見せるのが技術である。だから本来、科学と技術は別のものだが、たまたま、それらが出会うことで、平和にも戦乱にも利用できる道具やノウハウは作り出される。

つまりどっちも両刃の剣。
人間次第。使い方次第。



人間ってなあに?

・・・天使と悪魔が同居する不完全体。






古墳時代3 古墳の終焉 群集墳

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全国で古墳が終焉する時期は、全国で群集墳が終焉した時である。
群集墳の終了によって古墳の時代は完全に終わる。
これは森浩一の考え方である。


「現時点でいえば、群集墳とはあらかじめ選定され、限定された土地(墓地)の内部へ、おもに小古墳が次々に造営され、結果的に今日見るような古墳群となったものおをいうのである。典型的な群集墳型墓地は、たんに面積だけでなく、その位置の選定も中央政府によって規制されていたのではないかと推定されるが、そのような群集墳が大勢としてその形成を終わったとき、つまり群集墳型墓地の内部で新たな古墳を築くという造墓活動が終わった時点を古墳時代後期の終焉と考えている。」
1975年『岩波講座』日本歴史2古代史 「終末期古墳」

群集墳はほぼ首長墓の被葬者の同族、家族、家臣団の墓の集合体である。100基以上集合した土地もあれば、10基ほどの小規模な土地もある。それがほぼその氏族の規模であり、400年続いたものもあれば、100年で終わったものもある。しかし全体としては延々と古墳の時代間に各地で作られ続けた。首長の墓も最後のほうは規模を小さくしていくから全体が終わったときに終末期が終わったとなる。最後の群集墳が終わったときが「古墳時代」全体の終焉である。ただし、その終焉時期には地方でタイムラグがある。特に東国のように中央から離れて、住む人々の構成も西日本とは異なった地域では、8世紀まで大古墳は存続した。つまり一般に「古墳時代が終わった」というのは主として西日本のそれも近畿を目安にして7世紀~8世紀とされている。8世紀とは天武・持統合葬墓あたりで終わりということだろう。

近畿ではほかに先んじて早めに終焉期を迎えた古墳群がある。いわゆる「千塚」と名前のつく和歌山市の岩橋(いわせ)千塚と橿原市の新沢(にいざわ)千塚で、ともに5世紀から造営が始められた古い氏族の群集墳である。簡潔に言ってしまえば前者は紀氏が候補で、後者は大伴氏(白石太一郎説)あるいは地名が越智(おち)なので四国海人族有力者のものだ。

始まりが早いから、終焉もほかより一歩早かったわけだが、文献と兼ね合わせて考えればだいたい氏族は見えてくるかも知れない。

いずれも史上半世紀ほど早い時期に始まり、終わる。5中~6末のだいたい150年間だから、『日本書紀』が正しければ、雄略~継体・欽明時期に有力だった氏族ということになる。紀氏と大伴氏なら記述にはみあうことになるが定かでない。しかし岩橋の紀氏はまず間違い有るまい。


同じくらい早い時期に始まったのに、終末期まで繁栄した古墳群もある。大阪府柏原市平尾山千塚や兵庫県宝塚市長尾山古墳群の雲雀山東尾根B支群である。

奈良県で確認できている全古墳数は約5000基で、そのうち4000基が古墳時代後期、約1000基が前期・中期、終末期古墳はわずか100基しかない。つまり中央では、薄葬礼に素直に準じたものが非常に多いわけで、地方はこれの反対になる傾向にある。総じて終焉は西が早く、東は遅い。情報スピードの速度の落差と、朝廷の目の届き方の差異が見えてくる結果だろう。



「日本において死者のための壮大な墓、つまり古墳を築く風習が特に盛んであったのは、西暦四世紀から七世紀にかけてであり(1975年当時の意見)、最近まで遺存したことの証明できる古墳と現存する古墳を加えた数は10万(基)前後と推定される。さらに完全に消滅してしまって痕跡をとどめない古墳の存在を考慮すると、実際には莫大な数の(おそらく100万基ほどか?横穴墓まで入れたら想像を絶する数だろう)の古墳が築かれていたことになる。これらの古墳は約400年間、しかもその大半が最後の100年間に集中して築かれている」同書


少なく見積もって全部で50万基の大小古墳があるとして、400年間なら、年間平均1250人以上の力のある族長とその配下の有力者が死んでいることになる。1250人の「古墳を持てた人々」がいたことになる。もちろんあとへ行くにしたがってそれらは増えたので、当初はさほどの数ではないが。

一年に1250の長と副将とその家族にあたる人が全国で死んでいたとすれば、今の県で考えれば、各県で26人以上が死んだことになる。北海道や東北や沖縄をはずせば、30数名である。(魏志の110カ国で割れば、平均1クニ1人となるか。)

その中で首長と呼べた人はだいたい二世代2人ほどだろう。100年三世代とすれば、三世代目はまだ若いので2人である。もちろんこれは単純計算でしかない。




さて、群集墳が少なくとも6世紀以後には中央の指定によって各氏族に割り当てられていたのならば、地方で大古墳を造営することはなかなか大変であったことだろう。東国はさておき、海外に近い九州や日本海側の管理は早く、例えば6世紀中盤の筑後の岩戸山古墳のような大きな墓は、その主であろう磐井がはむかったことなどから考えても、おそらく死のかなり前からすでに作ってあったのだろう。同様に、継体大王の同時代の地方大型古墳を、勝手に地方が作れたとは考えにくくなる。九州の特殊な意見を持つ集団の言うような、継体がたとえ九州の大王だったと考えたとしても、その墓を巨大に作るわけにはいかなかったわけである。仁徳陵や応神陵のような巨大古墳ならなおのことで、そういうスケールの古墳が地方にはないことこそが、当時の政治体制を物語っていることになる。仮に九州に王家があったとしても、それは岩戸山の6世紀中で終わったと考えるのがまともな考察である。その後は中央に対しての迎賓港としての既得権益だけは握れるので、「遠の都」と呼ばれる特殊地域になれたのが北部九州だった。しかしそれは既得権益であって、せいぜい海外からの珍品の出し渋り程度の小さな役得だったであろう。




古墳時代の項はこれで終了する。















営利の建築史・土木史

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「しかしながら、日本の戦後建築史をたどると、所与の公式的な「建築家」像をいかに立てるかばかりが議論されて70年代にまで至っている。コールハースによる転回(『デリリアス・ニューヨーク』)は1978年、伊東豊雄のそれ(「消費の海に浸らずして新しい建築はない」)は1989年。いずれも建築論の転回だが、それはむしろ建築家像の転回だったのである。」
http://d.hatena.ne.jp/a_aoi/?of=292


建築・土木の歴史は住居と墓に始まり住居と墓によって終わると言える。
しかし、基本的居住スペースができあがると、ヒトは次第に祭祀と墓域の製作に邁進し始めた。気候の安定化、農業の安定化がなされると、神殿と古墳が立派になってゆき、次に為政者たちの居館に建築は向かい、最後にようやく市=商業施設が集まり始めるが、最後の最後まで商業施設の重要性は建築・土木関係者の中ではその重要性は最下段に置かれた。それは現代においてもまったく同じで、敗戦後、復興のために、まず建築士や土木業者が重視したのは公共施設の建設であった。戦争で大きな打撃を受けた建築界は、戦後復興、高度経済成長の中のみ、ようやく活躍の場を見出せたのである。だから警察、学校、役所、議事堂などの国家・地域的な建造物は基礎から立派な建造物が造られたが、東京オリンピックや大阪万博が終わると、全国的に公共事業はがたべりすることになる。すると建築家たちは次に商業施設・ホテルにその営利と名誉を求めることになった。

このように建築史・土木史は、まず衣食住の安定→祭祀建造物・墓地→神社仏閣→公共建造物→重工業工場→商業施設という順序で祭祀から政治、政治から経済へとすべてが移行してゆくものである。それはそのまま都市史でもあり、人類の歴史でもある。それ以外の市井の小建造物はみな、市民が個人で作成し、個人が集散して自然にできあがる。規則性のない無規格なそれらに規格と整備が政治によって加えられ都市は形成される。

都市計画の最終段階には団地、計画住宅地が登場する。営利を求めた結果、建築はまた住居に戻ることになったのである。そして最後の最後に遣り残したのは、環境整備という最も困難な、実は最初にやっておくべき骨格部分だった。耐震性、安全性、森林整備、Co2対策・・・などなどは実は都市の根本の骨格部分である。それが最後になったのは、それが人間だということでもある。重要なものほど金にならないからである。

経済社会における「合目的的」とは金がもうかるということである。もうからぬことには誰も邁進しない。だからあとからその重要性に気づく。だから金がもっとかかる。できてしまった形を再編成することほど手間と時間と金と慎重さがいる事業はない。しかも一銭にもならない。だから遅々として進まない。二の足を踏む。環境問題などはまさにそうである。原発を造る前から処理方法や処理場のことを考えていない。すべてあとから不具合を埋めるつぎはぎ、穴埋め作業になってゆく。だから大事故が起こる。1000年都市を考えていないからだ。上空からながめると現代の都市は、へたくそが縫い上げた杜撰で歪つなパッチワークである。

営利と名誉は実業とされ、科学や環境や都市再編は虚業とされてきた。役に立たないものが金を生み出し、役立つものにはつばが吐きかけられた。そして人類は転落への道を突き進んだ。

ぽっと出のアイドルの生足によだれをたらしている間に、その足元は腐って行く。金では作り出せない森林は破壊されてゆく。同じことである。バブルの再来を待ち望むところに人類のだめさ加減は集約されている。人類にかわって繁栄する生物はすでにいくつも登場して、虎視眈々と政権交代を待っている。



「食べり」「しり」 泉州弁と筑豊弁の類似性

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およそ言葉において、~せよ、~しなさいといった基本的言葉はなかなかその地域では変わらないものではないかと思う。語彙比較を歴史や地域で考察するときに、基礎語彙を比較するのがまっとうな方法で、あとから入った言葉や、あとからできた言葉は用いないのは当然である。

基本の語彙とは、名詞なら「さかな」「そら」「うま」などの古くからある単語。

大阪の和泉地方(奈良時代より前は河内国。堺市などの泉州地域)の言葉に「食べり」と言う命令形がある。堺市で働いたことがあるので、若いバイトの女子も使っていた古い言葉である。およそ西日本には奈良時代くらいから続く古語が多く残存し、伝統的にいまだにそれらが伝わって実用されているので助かる。
古語との比較がやりやすい。

「食べり」は「~しり」というのが基本形であろうが、「食べなさい」という泉州独特の言い回しである。

この知識があって九州に帰った筆者は、最初に筑豊出身者のイントネーションがどことなく、部分的に、大阪弁、関西弁の抑揚に似ているなと感じて暮らしてきた。
すると筑豊、豊前の一部などの出身者がやはり「食べり」と大阪弁のイントネーションを交えながら使うのを、会社の従業員から聞くことが有ったので、これは泉州と筑豊は往古から人の行き来があったかと常々感じてきた。

すると今度は最近、テレビの朝ドラ「あさがきた」でもその「食べり」という筑豊方言が出てきたので、ふっと思い出したのである。


弥生時代、筑豊の遠賀川周辺遺跡の人骨は半島南部人の骨格に類似し、在来縄文人との混血が薄いまま東へ移住し、遠賀川土器類似品は東北まで行っていることや、大阪の瓜生堂遺跡やらからも初期の九州遠賀川系土器、人骨、遺物が出ていることも思い出したのである。


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瓜生堂遺跡や久宝寺遺跡からは弥生初期の九州系土器が出ている。博多の西新町系土器や、九州の突帯紋土器と稲作遺跡がほぼ同時代的に存在するし、少し泉州より南の河内八尾市では九州と同じ吉備型土器も出てくる。どうやら唐古・鍵や纏向に人が集まる以前に、北部九州の那珂川~遠賀川地域(言い換えれば奴國地域)の人々は、弥生初期、大阪湾南部にやってきていることは間違いないのである。しかも甕棺に類似する棺容器も出ている。

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瓜生堂遺跡出土甕棺型土器


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「食べり」の「~り」で終わる使い型は、「ここに座り」「もっていき」「はようやり」などすべての命令形で関西弁に定着しているが、ほかに岡山県や長野県、山口県など九州に縁ある土地でも使用されているのが「食べり」である。九州では筑豊に限らず博多でも使うところはある。すると「~り」はかなり広く、瀬戸内・日本海沿岸で使用されており、「~しろ」「~しれ」「~しよ」「~なさい」よりも古かった可能性がある言葉なのではないか?どっちにせよ、紋切り型で打ち留め型の「り!」という命令形は、九州と関西を吉備経由でつなぐ使用法かも知れない。



ちなみにわが大分では「~しよ!」が一般的である。



ま、ひまつぶしに研究してみてね。








百済本紀と百済本記

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別々の史書である。
自分自身が混同してきたために、ここで亡備録として記載しておく。

高麗12世紀成立の『三国史記』の中の百済に関する資料が「百済本紀」。
百済三書として7世紀初頭頃に成立したらしき史書が「百済本記」で、こちらは現物が百済三書はすべて現存しておらず、「本記」は逸文が『日本書紀』に引用されているのみ。従って信憑性は、「本記」は低く、『三国史記』の「百済本紀」のほうが高い。

「百済本記」逸文は8世紀『日本書紀』編纂者によって創作された可能性もある。
理由は『日本書紀』が引用した「本記」逸文に、5~6世紀にはまだ成立していないはずの国名「日本」や称号「天皇」の記載があるためである。要するに『日本書紀』が継体大王以前から、すでに倭国が日本と名乗り、大王を天皇と称していた=日本と天皇が倭国王の二千年以上の万世一系の国であることを言うがための仮冒に利用するための逸文粉飾という可能性が非常に高い、日本側にとっての「幽霊史書」であろうと筆者は考える。




なお、この件についての過去記事の箇所はすべて訂正済み。



平安以前の大王なんか本当にいたかどうかも知れやしないぐらいでちょうどいい

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『日本書紀』継体天皇紀
廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵
 或本云 天皇廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者取百済本記為文 其文云 太歳辛亥三月 軍進至于安羅営乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨 由此而 辛亥之歳當廿五年矣 後勘校者知之也

「継体天皇の即位25年の春二月、天皇の病状はなはだしくなる。丁未その年、天皇宮に崩御。歳82。冬、藍野のみささぎに葬る。
ある本が書き記すには、天皇28年の歳とし甲寅の時崩じた。であるのに、ここに二十五年の歳とし辛亥に崩じたと云うのは『百済本記』の文によっている。その文に云うには「太歳辛亥三月、百済軍は進み于安羅に到り乞乇(こっとく)城に陣をとった。この月、高句麗の王である安が殺された。又聞くところによると日本天皇および太子、皇子ともに崩くなった」ということだ。天皇の崩じたと云う「辛亥の年」は継体二十五年にあたる。このことは後に良く考えた者がこの真実を知る事ができるであろう(解釈判断は後人に譲る)。」



継体大王の崩御年が、この記事には二つ出てくる。崩御年と言っても、『日本書紀』編集者にとっては、『日本書紀』記事はすべてが昔の出来事なのだから、『日本書紀』記事のすべては大前提として本当だったかどうかなどわからない話ばかりで出来上がっており、いくらでも嘘は書ける。そもそもここにある28年崩御記事の出典となるべき「ある書物」とは何かすらいっさい書かれていないではないか。それが国紀とか帝紀とかいう学説だって妄想でしかない。そういうものがあったということだって、『日本書紀』にはたった一・二行、蘇我氏滅亡の部分に「おつまみ記事」「添え物記事」として書き込んでいるだけで、本当に有ったかどうかわかったものでない。嘘八百の可能性が120%であろう。ここにまず気づかなければ詐欺にはまってしまう。

そこで編纂者は、これまた現存しても居ないかも知れない「百済の史書」なるものを持ち出してきて、外国史書がこういうのだから私の記述の「崩御25年」は間違いないぞ、というのがこの記事である。

それで継体の崩御年は、編纂者自分らは伝聞で即位25年だったと聞いているのだが、百済本記もそう書いているじゃないか、ところが古書は28年だったらしきことを書いているよ、おかしいねえと。つまり一応過去の常識、説も紹介しながら、やんわりそれを否定しているわけである。ということは「俺のが正しい」と言っていることになる。それ自体が作り事、虚妄の創作である。つまりこの記事は自説も、孫引き説も、旧説も、なにから何まで大嘘ばかりである。ある書の旧説を一応出したのは、旧態勢力へのおあいそでしかない。

その「百済本記」が実はどこにもないのである。韓国にも日本にも現物はない。すべては逸文の引用である。それが新羅に翻弄されて敗北した百済でなくなった、というならわかるが、そういう記録も朝鮮史書にはなく、なぜか倭国にはあって、そう書いてあるよとしてある。なぜ本国にないものが倭国にはあるのかについては、学者はまことしやかなつじつまあわせ考察をしていて、百済から大挙して逃げてきた王族が日本へ持ってきたからだというのが主流である。しかし、現物がないものをそう簡単にあったと信じてしまう学者ばかぶりも、いささかいかがなものか?

本当はないものを、勝手に『日本書紀』編纂者があるとして創作しているとすればどうなるのか?

そもそもそういう逸文の孫引き自体が怪しい行為ではないか?意図的ではないか?と考えてみるのがしごく自然である。そもそも継体大王なんていたのか?なのである。大王そのものが実在が怪しい存在だからこそ、その生没について孫引きが必要なのである。

だから九州に偏った人々はこりゃまた勝手にこう考えた。
継体=磐井だったならどうなのか?
日本天皇とは九州王家の王である磐井のことじゃないのか?

しかし、それもまたおかしい。
日本も天皇もまだないはずの時代である。
これは記事そのものがあとから作られたものだと考えるのが筋が通る。

そのどっちもがすでに5世紀九州にはあったのだと今度は考える。
しかし記録がない。ないものを持ち出して論ずるなぞは幽霊を見た見ない、UFOはいるいない論だ。意味がない。これでは水掛け論である。妄想である。

これまで、このブログでは九州5世紀の墓に菊花の紋が彫りこまれている、などの九州よりな記事も書いているが、今の筆者はそうした地域に肩入れした考え方はほとんどなくなっていて、できる限りフェアに、可能性ある選択しかするつもりはなくなっている。大和にも九州にも偏る気はうせてしまっている。

菊花などあとからいくらでも彫り込める代物なのだ。例えば親王や安徳天皇などに出自を求める全国木地屋氏族などなら、大昔、誰も古墳など見向きもしなかった時代に、いくらでも彫りこめるだろう。そもそも江戸時代にちょうちんに菊花、御所車などを描いて直系子孫をステータスにしていた木地師や漂泊のたみびとたちが、古墳を皇室と結びつけるために彫りこもうと思えばできた時代が久しかったわけである。

そのようなものはなんの物的証拠にもならない。昨今の超常現象ビデオや写真と同じである。技術さえあればいくらでも改変、編集ができるものはこのさい、一切証拠品には認められない。記録があれば、いくらでもそれに合わせて作り変えが可能であり、史書・記録はかえって偽証の道具でしかないのである。誰もが手を触れられないできた遺物しか信用できないのだ。それも自分自身でそれが掘られる現場を見ていなければ信用できない。人間が関わった限りはそのすべては信用しないほうがいい。日本の考古学はその始まりからしてすでに相当怪しげであったからだ。

天武・持統以前に「王朝」などどこにもなかった。統一王家などなかった。それだけでいい。場合によっては天武・持統もいなかったくらいでちょうどいいだろう。どこの馬の骨か知れないおおげさな権威が好きだった奴ら。それでよい。


すべてはむしろないと思うことからはじめねばなるまい。
ゼロから。
大王も天皇も、継体だろうが欽明だろうがいないというおころから始めることだ。記紀の登場人物の名前などは頭から消し去ったところから考え直すことだ。先入観をすべてゼロにするべきだ。

記録はすべて物語。
継体や欽明その名前すら創作である。脚本の登場人物でしかない。造られたネームである。考古学ニュースに見識者や学者の意見などいらない。発言を読まないことだ。載せないことだ。ただ事実だけを淡々と書いてあればよい。ドキュメントでよい。最近のニュースと同じである。客観的事実以外、見ないことが肝要である。

縄文土器、土偶を聖火台デザインに 

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縄文土器、土偶を聖火台デザインに 舟形町長らが遠藤五輪相に要望



世界で唯一無二の日本のオリジナルデザインである縄文土器の火焔土器をそのまま、東京五輪の聖火台に・・・。「縄文」は世界的な注目度の高い日本の文化。デザインとしてもパクリ事件を引き起こすようなことにもならず、しかもデザイン料もいらないのだからベストアイデアである。大賛成である。









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我輩は下層老人である。 活動費公開と究極生活

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誤解している人もいるようなので、すべてガラス張りにしておくことにする。

Kawakatuのひとつきの活動費。
食費2万5千円(すべて自炊)
嗜好品(たばこ・酒)2万円
光熱・暖房費2万円
交通費5千円
インターネット使用料3800円
合計せいぜい7万円強。ほかに収入一切なし。

つまり筆者は世に言う「下層老人」である。


それゆえに、金の使い方を少し誤ると月末には必ず食い詰まる運命にある。

ちなみにこの四日間に食べたものと言えば、さきおとといが麦だけ100%ごはん二杯(これがまずいのなんの。いわゆるブタ箱の「くさい飯」である)。かつおぶし。マヨネーズ。

おとといはパン粉を水でねって、フライパンであぶった再生パン(これはまあまあうまいかった)。マヨネ。マーガリン。ケチャップ。

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昨日は小麦粉で手打ちうどんと、米粉の白玉に砂糖。


今日は朝から片栗粉を練った「くず餅」だけ。


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けっこう腹が膨れる。
まずくはない。




さすがに今月はまいった。
なぜこうなったか?
計算の誤りである。
12月28日に収入が入ったが、そこから開けて1月31日まで収入がないと思っていなかった。29日に入ると思い込んでいた。そして12・28~1・31まで今月が全部で35日間の長きに及ぶことを前提に生活しなかったので、金欠病に落ち込んだ。さらに先月の借金を返したことと、光熱費の延滞があることを忘れていた。支払いが予定外に膨らんだのである。交通費もなくなってまったく身動きがとれなくなってしまった。しかしカードにまだ残金があるつもりだった。ところが年が開けていってみると、なんと公共料金が引き落とされてしまっていた。だからいきなり極限に落ち込んだ。あわてて会員に援助の借金を頼み込んだ。しかしなしのつぶてで孤立無援となってしまった。

この四日間、極限的なサバイバルを経験した。
おかげで体調がよくなった。血行もよくなり、ひざのいたみも消えた。
なぜか?
栄養価の低い消化のいい貧しい食品と酒・たばこなど十日間も喫することが不可能だったからである。


窮すれば貧す、貧すれば窮すというが、貧すれば健康でもあるようだ。


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ベトナム料理は倭人料理

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コウケンテツが行くベトナム「田んぼの恵みいっぱいの食卓へ」 
自然の恵みを大切にしたベトナム家庭料理を求める旅・コウケンテツが行くベトナム。今回はベトナム北部の町ハイフォンを訪れ、田んぼで捕れる田ガニとタニシの味わい深い料理を堪能します。田んぼでの昔ながらのカニ捕りから始まり、カニのみそが濃厚な味を生む野菜たっぷりのスープとメーという発酵させたソースに豚肉、バナナを加えたタニシの煮込み料理をベトナムの代表的なタレ・ヌックマムで味わいます。

【リポーター】コウケンテツ,【語り】木島京子
https://tv.so-net.ne.jp/schedule/200101201601190100.action



ブンズィウクア(Bún riêu cua) ※南部の呼び方は「ブンリュウクア」
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ブンは米粉の麺フォー(中華のビーフン)を発酵させた麺。

日本のモクズガニを使った「蟹汁 がんじる」とまったく同じ作り方で作るスープ。
つぶして、漉して、蟹味噌を炊くとスープはすっきりと澄み、蟹味噌が凝固して浮んでくる。


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豊前宇佐の郷土料理がん汁




干物こそないようだったが、ほかにタニシと豚肉のいためたものや、米を水につけ置いて発酵させ、塩を加えた塩麹メーもまったく同じ。ニョクマムは魚醤。

メーは発酵が進めば日本酒の腐り水で、ここに麹を入れれば発泡濁酒になるはず。それの上澄みが清酒なのだ。つまり往古のサル酒のような弥生の酒の原点で共通。ベトナムでは塩麹として調味料に使うのみなのはもったいない。


調理法には中華とフレンチと古代的な煮炊きのミックスが感じられる。これはベトナムの成立が長江民族が江南から移住した古代であったことと、華僑の影響、さらにフランス統治時代の影響があったことのためだろう。それで土器で煮炊きだったはずの生活に、華僑の炒めとフレンチのサラダがミックスしたのだろう。

往古ならまさに野菜はすべて生食で、はだしだったに違いなく、魏志倭人伝の風俗を思い出させるに充分である。


なにしろ遺伝子D4で日本人とはほぼ兄弟の血脈である。


ふぐはないかと見ていたが食べてはいなかったようだ。
ところで佐賀県、長崎県では猛毒のふぐの肝を食べられる飼育がなされて、今回、食用としての申請が国に出されたという。テトロドドキシンはふぐが貝殻を食うことで蓄積される猛毒。だから貝を徹底的に食べさせなければ、毒がないふぐを作ることが可能なわけだ。

筆者、死の直前にふぐ肝を食べたいと念願があるが、生きている間に食べられそうな按配だ。この世にあれほどの美味はないといわれるものだが。



さて、ベトナム人の顔の特徴に、小鼻が広いというのがあるが、日本人でも海岸部女性にこれが見られる。広く太平洋側でこの横広の小鼻が見られる。












ヤフー友だちと民族学伝承ひろいあげ辞典友だちの違い

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ぼくはヤフーで三つのブログを管理しています。

1民族学伝承ひろいあげ辞典
2Kawakatuワールド(は復活できるのか?)
3民族学伝承ひろいあげ辞典ファンクラブ

です。

Kawakatuワールドの友だちとほかの友だちは大きく違いが有ります。

民族学伝承ひろいあげ辞典関連ブログの友だちは誰もがなれない「特別な」「会員」であり、Kawakatuワールドは申請すれば誰でもなれるヤフーの規定どおりの友だちです。

民族学伝承ひろいあげ辞典とファンクラブの友だちになるためには「どうしても、絶対見たい」という気持ちがなければならなくしました。1ランク上にしました。

なぜか?

ヤフーの来て通りの友だちは、なったら誰でもすべてが読めます。それでは「講読への強い希望」にはならないのです。だから講読意志の確認をして、ハードルを設けました。それは民族学伝承ひろいあげ辞典というブログが古代史の知識を切り売りするブログだという筆者のあなたさまへの強いメッセージがあり、それをどのような形であなたさまに明確にしていただくか、という差別の意識が有ります。

「絶対講読したい!」とはそういうことです。

身を切っても読みたいか?です。そうぼくはあなたに問いかけ、ならば形を見せれば・・・というものです。

ですが、それでは記事を不特定な人々には見せてさしあげられませんね。ではどう両者を区別すればいいのか。悩みました。

民族学伝承ひろいあげ辞典にはある程度満足度ある記事を書き、それは誰でも読める。しかしその奥にある隠された真実だけは「どうしても知りたい」人にしか見せたくない。そんな「続き」記事は簡単には見せられないってことに行き着いたわけです。普通の記事でも目からうろこは落とす。しかしさらに目からうろこが落ちる「うしろ戸」だけは簡単には見せないということなのです。うらわざ?コツのコツ?それがたった数人の「会員友だち」にしか見られないというスリルです。それをわかってください。


わずかな努力で見られるんです。友だちになれば。

あなたの好奇心次第でね。本は売り物です。宝石も売っている商品です。民族学伝承ひろいあげ辞典の続きも知識の宝石であろうとして書きます。ただでは知識は手に入りませんよね。教科書じゃないんだから。目から鱗の知識とは読み手が読みたい!と言う宝石なんです。それをぼくは切り売りしている。これがチャンスです。


ま、そうしなくてもほかのブログよりもかなり刺激的にここはできていますが。


しびれるほどの官能までは書いていません。それが「続き」にはあるかも知れんということです。



なかっても知りませんが。










平城京三山・平安京三山と藤原氏の画策 三山ってなに?という散々な話

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平城三山とはどの山を指すのか?
「平城京は和銅3(710)年3月に藤原京から遷ってきた都である。和銅元年2月に遷都を宣言した元明天皇の詔のみことのり中で、平城の地について「四禽(しきん)図に叶い、三山鎮めを作なし、亀筮(きぜい)並びに従う」と、選地の理由を述べている。

「四禽」とは青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)という神獣であるが、それが図(陰陽図緯)に叶うとはどういうことか、残念ながら当時の史料でその意味内容を正確に理解することはできない。しかし天武天皇や桓武天皇が、遷都候補地の地相を陰陽師や陰陽寮の官人に見せていることからすれば、平城遷都の時も陰陽寮が関与し、陰陽師によって平城の地勢は「四禽図に叶い」良い土地であると判断されたのであろう。

次の「三山鎮めを作し」とは、東の春日山塊、北の平城山丘陵そして西の生駒山地(ないしはその手前の矢田丘陵)が、平城の地を守るように包み込んでいるということであり、「亀筮並びに従う」は占いの結果が良かったとの意味である。要は東・北・西の三方に山があり南に開けるという地勢こそ、平城の地が選ばれた理由であり、それを宗教思想によって裏付けたのである。地勢による選地はほかの都城でも行われた。

藤原京については『万葉集』に香具山が東に、畝傍山が西に、耳成山が北に(これを今、「大和三山」と呼ぶKawa)、そして吉野の山がはるか南にあるという地勢が詠われている(藤原宮の御井の歌 52)。

平安京も例外ではない。平安京を置いた山城国について、桓武天皇は「此の国、山河襟帯(さんがきんたい)して、自然に城を作なす」(『日本紀略』延暦13(794)年11月丁丑条)と述べ、山と河がめぐり、自然に城となっているという地勢の良さを指摘する。そこは平城京と同じように三方を山が囲み、南に開け、東から南に鴨川、西に桂川が流れているのである。」
舘野和己「古代都市から見えてくるまちづくりの原点」
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=PzLadVB5Ov8J&p=%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC%E4%B8%89%E5%B1%B1&u=www.jcca.or.jp%2Fkaishi%2F237%2F237_toku8.pdf#search='%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC%E4%B8%89%E5%B1%B1'



さて、森浩一は大阪の難波京三山も推定している。

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森浩一『古墳時代を考える』「前方後円墳と平城京の三山」より



難波京は今、大阪城やNHKのある上町台地のはじっこで発掘されたが、大阪城のある土地はやはり台地で、小高い山塊をこぼってできあがった。縄文海進のころは眼下はみな海である。古河内湖と史学や考古学では呼んでいるがいわゆる大阪湾である。現在の大阪市街地の大半は「梅田」で埋めた土地で、これは湿地だった「住吉」を秀吉が「うめた」地名=「うめだ」というわけである。キタもミナミもかつては海の底だった。だから高度成長期は地下鉄工事のたびに水が出て、地盤沈下に苦しんだようだ。これは教科書にも載っているから誰でも習ったはずだ。

難波京三山はだからこの大阪城台地以外はすべて人口の山=古墳である。森はそれを天王寺茶臼山古墳と御勝(おかち)山古墳であろうと書いている。大阪のヒトに茶臼山が古墳だというと驚くかもしれない。発掘では何も出ておらず最近は古墳ではなく人口の丘であるとも言われている。



この間に会員用マル秘こぼれ話あります。リンクはこの記事の一番下。
 



では平安京三山はどこだろうか?これは京都のヒトなら誰でも知っている。船岡山を基点にして神楽岡、双ヶ丘が平安京三山である。ここはいわずと知れた渡来人秦氏と九州壱岐島を本貫とする壱岐氏の切り開いた「山城」である。

問題なのは聞きなれない「平城京三山」である。これは諸説ある。平城遷都のさい、聖武天皇は昔からあった多くの古墳を打ち壊して平地を確保した(『続日本紀』)が、その中であえて残された古墳があった。基点となる市庭(いちば)古墳、宝来山古墳、杉山古墳である。これが三山とされたらしい。すべて人口の山である。奈良市には春日山も石上山もあるがそれらは外延部になるので山城の一角扱いとなっている。大外は笠置山地や信貴山である。

こうして三山を見てくると、では有名な藤原京三山(寧楽(なら)三山とも)である畝傍山・香具山・耳成山もどれかは人口の山ではないか?という考えが出てこようというもので、確かに奈良へゆくと大阪人も京都人もそういう噂らしいでなどと必ず口にする。

さておき、平城京にも三山はあるという話だった。ほかにも出羽三山など各地に三山はあるが、だいたいすべては自然の大きな山々になっている。近畿の三山は規模が小さいが、全部造ったとなると別の意味で規模の大きなお話になるだろう。
 
続きとマル秘話すべてを読む→http://blogs.yahoo.co.jp/niko2nicol/14716858.html
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