Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

縄文のオーパーツか食人遺跡2 上黒岩遺跡と居徳遺跡 日本ネコの祖先はシベリアオオヤマネコか?

$
0
0

上黒岩岩陰遺跡 かみくろいわいわかげ・いせき
「上黒岩岩陰遺跡は、愛媛県上浮穴(かみうけな)郡美川村(みかわむら)上黒岩(かみくろいわ)1092番地に位置し、愛媛県松山市から高知県佐川町を経て高知市に到る国道33号線沿い、久万川の清流を挟み道路の対岸にある。この地は四国の最高峰、石鎚山(いしづちさん)の西南麓の山地で、遺跡付近は標高約400mほどである。遺跡は東北面を高さ約20mの石灰岩の切り立つ断崖を背にした、西南に開いた岩陰(いわかげ)遺跡で、昭和36年(1961)当時、美川中央中学校1年生であった竹口義照氏によって発見され、翌昭和37年から昭和45年(1970)まで5回にわたる発掘調査がなされた。

発掘調査は、慶應義塾大学文学部教授江坂輝弥、愛媛大学教育学部西田栄、高知女子大学教授岡本健児、新潟大学医学部教授小片保などが中心となり、多くの人々の協力によっておこなわれた。本岩陰遺跡は、各時代の人々が住居として利用するとともに、第Ⅳ層の縄文文化早期中葉の人々は岩陰奥部を墓域として使用し、10体以上の人骨が埋葬された状態で発見された。また人骨より居住地区に近く、2体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8000年前と、遠い我々の先祖が既に日本犬を飼っていたことがわかった。」
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa.html



上黒岩岩陰遺跡
http://www.kumakogen.jp/modules/kjsection/item.php?itemid=118
愛媛県久万高原町
縄文草創期 12000年前ほど
特徴
1線刻像(女神石)
2装身具
3投槍骨角器の刺さった腰骨
4シベリアオオヤマネコ・巨大ニホンザルの下顎骨
5縄文早期人骨 16体
6改葬風習
7最古の縄文犬遺骨
8異常に磨り減った歯
9発達した下半身
10激しい骨増殖
11手足長し
12身長男160 女145
13乳幼児死亡率の低さ
14虫歯の少なさ
15少ない植物食

1線刻像(女神石)

4シベリア山猫の骨
日本のしかも四国でなぜかである。

イメージ 2

イメージ 9
シベリアオオヤマネコとはヨーロッパオオヤマネコのこと。

現代のネコ(イエネコ)はmtDNA遺伝子分析の結果ではリビアヤマネコの子孫で、弥生時代に持ち込まれたとされている。しかし、弥生時代に誰がどこからどうやってなどは何もわかっておらず、いい加減な推定による誤った定説でしかあるまい。

オオヤマネコは縄文後期まで日本に生存していたと言われる。これも推定であるが、縄文遺跡からのヨーロッパオオヤマネコの骨は何箇所からも出てきている。

高知県の居徳遺跡の金属器としか思えない、メスのような骨の傷跡とともに、北海道縄文人かシベリア人の来訪があったか?という「縄文のオーパーツ」だと言えるが、オオヤマネコは縄文時代までは日本にいたようである。といってもだろうという話。

「あらゆる動物を食っている。動くものは何でも捕まえたのだろう。「ニッポンイヌ」という表記があるが、これは食料になった犬なのだろうか。資料には2匹の日本犬(柴犬)が埋葬されていたとあるので、こっちは食料ではなく猟犬として可愛がられていたもののようだ。食べる犬と2通りあったのかもしれない。イヌは弥生時代にも食べられた形跡が残っているし、江戸時代、綱吉の「生類憐れみの令」が出ている最中でも、大名屋敷の中でさえイヌは食べられている。

オオヤマネコは、ヨーロッパからシベリアに棲息する寒冷地で生きるヤマネコである。またそのごく近縁種のカナダオオヤマネコが北米大陸北部(主としてカナダ)に棲息する。ヨーロッパでは、ヨーロッパヤマネコについで人に馴染み深いヤマネコらしい。このオオヤマネコが、3~1万年前から縄文時代の中期~後期頃まで日本に野生していた。縄文人が、オオヤマネコの下顎骨や牙に穴を開けた装飾品が、岩手県陸前高田市・中沢浜貝塚で見つかっている。他にもオオヤマネコの遺骨が発見されているのは、鹿児島県市来町・市来(いちき)貝塚、山口県美祢郡・秋吉台遺跡、福井県鳥浜貝塚、宮城県宮城県桃生郡・里浜貝塚などである。」
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa_museum.html



3投槍骨角器の刺さった腰骨
腰骨を貫いて直腸に達する骨器利器で致命傷。女性。



7縄文犬(柴犬)遺骨二体
戦後一旦紛失するも、慶応大学倉庫で再発見。

8異常に磨り減った歯

イメージ 5


なめし皮でも作っていたのか?
そのために虫歯すら磨り減っていたために虫歯発生率も異常に低い(0・7%)。
あるいは動物皮のような固いものを常食に?
通常縄文人や狩猟民では虫歯発症率は低い。虫歯は圧倒的に農作民のほうが多くなる。植物食には糖分が多量に摂取されたからだ。

イメージ 6

虫歯発生率農作民と狩猟民比較 各地縄文遺跡人と世界各地新石器時代人との比較


14・15との関連性か?
穀類、堅果類の同位体少なし。獣肉中心食でそのために虫歯も少なかった。
乳幼児死亡の同時代としての少なさ(未成年死亡者中30%)は、サンプル数の欠落もありえるが、骨がなんらかの理由で持ち去られた、消えた、・・・・・食べられた?などが考えうる。

これほど全員の歯が磨り減ったというのは、あるいは骨付き肉・骨そのものをせせりつづけた結果か?カルビがお好みだったようで。とにかく肉食である。

6改葬・再葬

イメージ 4

一度土中に埋めた遺骸が白骨化したあと、掘り出して、ばらばらにしてランダムに組み合わせまとめて再び埋める縄文の埋葬様式。上黒岩岩陰遺跡はその代表で、これまでに総数28体分の改葬遺骨の確認がなされている。その明確な理由は不明。
この遺跡の縄文人は、少なくともほかの人々とは違い、死者の再生を望まなかった可能性も考えられる。複数の遺体をまとめるのに、実に淡々と、ばらばらに組み合わせ、中にはどれがどれやら残り物をただまとめただけのようなものも2体見つかった。すると最初は期待した再生が起こらなかったために、客観的にただの骨としてまとめていった改葬だったのか?と思えてくるのである。(Kawakatu)
実に冷淡、粛々とした儀式か?




高知県居徳遺跡の骨には、このように鋭利なメスのような利器で骨の中盤まで切り込んだ傷跡が、のちにくっついたあとが残っている。このような傷跡は縄文時代早期の石器や骨角器では考えにくく、中国の大刀のような銅器などで強くたたきつけたとしか考えづらい。
イメージ 7



同じく、骨にマーカーがつけられている。
猪の例では、これは肉を食べるときにナイフをたてて削いだり剥ぎ取るときに生じる傷で食べた印なのである。

イメージ 8



早計は禁物だが、居徳遺跡と合わせて四国西部の縄文早期遺跡人は「食人」がキーワードになりそうか。そして彼らはシベリア方面から太平洋を経て北海道・東北から南下してきたことになろうか。そのときに居徳では金属器を持った人が来て、在地縄文人を食べたとさるだろうか?ではその人食いたちは次はいずこへ消えたのだろうか?気になり始めないか?そのヒントはシベリアオオヤマネコにあるのではないか?

鹿児島県市来町・市来(いちき)貝塚、そしてその山猫こそは日本の家猫の始祖先祖だったのではなかろうか???????????????

みたいな


シベリアから鹿児島までとは、えらいやっちゃな。








Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>