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土器革命 人は最初土器をナニに使ったか?なぜ土器を思いついたか?

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「人類は最初のうち、料理の際に、炉や灼熱した石を利用していたが、約9000年前に農業が始まり、穀物が栽培されるようににった頃から、粘土で形を変え、火で熱して食材を熱した水で煮る(煮沸する)ようになった。これにより固い穀物を柔らかくして食べるようになったからこそ、農業が始まったとも言える。・・・なお、「ポット」(pot)という言葉から壺の中で水とともに食物を煮る「ポタージュ」(potage)という言葉が派生している。」(『世界史を動かしたモノ事典』15ページ)


前回、石毛直道の著書から新石器革命が農業革命ではなかったという逆説を引っ張り出してみた。新石器が農業のはじまりを促進した道具ではないから、新石器革命という用語は西欧史には使えてもほかの地域には符合しないから、やめるべきだと。

では何が農業革命をもたらしたかというと環境変化と土器だとも書いた。土器はそれ以上に料理法革命をもたらしたわけである。しかしでは、人類最初の土器(今のところ縄文土器16000年前が最古)は果たして最初から料理のために作られたのだろうか?

遺跡・遺物から判断すると縄文土器の使用法には調理以前に、

1 堅果類の灰汁抜き
2 運搬容器、収納保管容器
3 焼き塩を作る容器

としての役目が一番目の発明品だった可能性が高い。堅果類は穀物以前の主食で、これによって縄文人にも虫歯が増えた。旧石器人には虫歯がない。堅果類が縄文の東北に増えた時代は土中の花粉分析でわかる。寒冷化で堅果植物類の植生も南下する。それを追いかけて動物も人も南下する。だから土器発明当時の東北の気温は冷涼程度の住み易い環境だったことになる。南方では堅果類植物はぐっと数が減るから、西日本以南で縄文生活を継続するのは大変だっただろう。中期中葉から晩期までの温暖だった時代になる。

その後調理にも使われ始めた。
弥生時代には墓に遺体を入れて埋める棺おけにもなっている。これが大きさでは最大級になり、その後須恵器の甕になっていく。


縄文から弥生なかばまで、土器のすべては土をこねて整形し焼くだけの土師器である。やがて硬質な須恵器が古墳時代までにもたらされ、これが今の陶器へ発展する。だから大きな古墳から、あとから埋められた須恵器の大きな甕がよく出てくる。つまり古墳時代の途中から須恵器埋蔵が始まったのである。『日本書紀』が書く「陶邑」の土器である。このことは近畿の古墳で、「殉死をやめてはに土で作らせた」埴輪の出現とほぼ合致する出来事であるから、おそらく土師氏や大三輪氏は同じ頃に日本にやってきたのだろう。

縄文土器とほぼ同じ頃の土器は、2万年前の中国の早期土器が仙人洞で粘土を焼いた片が見つかったが土器そのものは出ていない。この数値が正しければ仙人洞土器が最古になる。ほかは4000年ほど遅れるが今のロシアなどで見つかっているらしい。今のところは、まだ日本の縄文土器が最古の土器である。しかし、するとこれは人類史の人の移動の歴史とは矛盾することになる。なぜ人の来訪が遅かったはずの日本列島で最古の土器ができたのか、今は理由がわからない。

前回も書いたが、人類が道具に「凝り」を付加しはじめた直接の原因はおそらく温暖化による環境のよくなったことが一番である。四季で考えればわかるが、厳寒の冬には産業は停滞しがちで、斬新な発想も生まれにくい。地域で言えばロシアで新しい思想や宗教は生まれにくいはずだということになる。しかし春からは活動も活発化するのでいろんな創意工夫がやりやすくなる。手もかじかまないし、採集する植物・動物も多いからだ。という論法でいけば、東北・北海道よりも九州や西日本全般のほうがあきらかに温暖で、経済動向もいいわけである。雪もなく、一年中車が使える。

16000年前はしかし、気候はまだ氷期であり、温暖化は12000年前よりあとに始まる。縄文海進は1万年前くらいから徐々に始まり、瀬戸内海が海水で満たされるのは今から8000年前くらいである。それは瀬戸内海のど真ん中からナウマン象の骨が出たことで証明できた。そういう寒い世界だったはずなのに、地表は雪と氷に覆われつくしていたはずなのに、いったいどうやって土器に使える粘土を手に入れたのだろうか?

日本で土器が最初に作られたとするならば、そういう適正な粘土がそこにあったからだろう。そして世界に先駆けて、日本で容器が必要になり、作製の知識もない人がはじめてそれを作り始めたということになる。

では東北地方にそのような土質の土地はどこにあるのか?

日本最古の縄文式土器は、1万6500年前(1999年4月、青森県蟹田町出土土器のC14分析結果が報告された)のもの。

ならば青森県には陶質適確の粘土層があるか?
縄文式土器は粘土だけで作るのではなく、砂/土などのより粒度の大きい鉱物を混合してある。それらが採集される土地はどこだろうか?


あるいは2万年前とされた中国仙人洞の近くには?

こういう科学的視点がないと土器を作った人の時代にはなかなか行き着かない。


イメージ 1



日本の粘土土壌は多くがケイソウ類の生成する塩分が混じる。
「低地土壌グループの母材は主に洪水堆積物として供給されます。その粘土鉱物の大部分は各種層状ケイ酸塩鉱物の混合物ですが、その組成は上流の地質や堆積過程に影響を受けます。たとえば東北地方の事例では、流速の速い扇状地では粘土鉱物の大きさや性質による分級はほとんど受けず、同じ扇状地内の粘土鉱物組成は同様ですが、上流地質の異なる別の扇状地では粘土鉱物組成も異なることが認められています。下流の蛇行帯になりますと流路に近く流速の速い自然堤防地帯では粒径の大きいクロライト、ゼオライト、カオリナイトが、流速の遅くなる後背湿地ではスメクタイトが優勢になる傾向が認められています。大洪水は数十年ごとに繰り返されてきたと見られ、埋没した過去の表層が土壌断面内に観察されることもあります。しかし、この程度の期間では扇状地、蛇行帯とも新旧堆積物中の粘土鉱物組成にあまり変化が認められないのが普通です(三枝, 1978)。」

ケイソウ土というのはいわゆる七輪の素材だ。
日本でそういう土壌が大量にある地域は特定できる。大分県玖珠町など。
これが鉱物化して土に混じることで層状ケイ酸塩鉱物ができ、風化や洪水で平地にたどりつき、粘土を作る。粘り気がないと土器は作れない。これを原土という。

三内丸山で実際に土器を作っている女性は、遺跡そばにはないので、近くの山に取りにいくそうである。三内丸山遺跡は「八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。集落は住居・捨て場・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、計画的に配置されている。」Wiki三内丸山遺跡


八甲田山から流出する粘土だった。
これを1万6500年前の初期縄文人が使ったとなる。
遺跡内には採掘穴があるから、むかしは取りにいかなくてもよかったのだろう。
この粘土があったから大きな集落になれたということもあるか?


しかしそれにしても、どういうことからその土をこねて、焼いてみようという発想が生まれたのだろう?


考えてみれば、容器にするのなら木を切って、中をくりぬけば済む。温暖地なら竹をきればいい。そもそも木がたくさんあるから焼き物も作れるのだから八甲田山山麓地帯の扇状地ならたくさんあっただろう。なのにわざわざ誰も考え付かない土をこねて焼いて容器を作ろうと彼は思ったのか?その必然性がいまだに謎である。



「たき火をすると下の地面が赤く焼け、土が固くなることがあります。土器の発明にはいろいろな説がありますが、偶然土が焼けると固まって器状になる事を知り、その後工夫と改良を加えて土器を作ったのではないかといわれています。」

なるほど。しかし不完全な説でもある。
中国の焼けた土片はするとそういう偶発的産物だった可能性もある?

しかし、焼けた土の塊を見て、それを土器にしようと思うのがすごい。
いきなり土器か?いやもっと簡単な扁平なものからはじめたか?
謎は深まるばかりである。人類は面白い。




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