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PCの停止性問題と人間のシャッター現象

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先の記事に停止性問題という用語を持ち出したので、ついでに最近気になるいくつかを書き留めておきたい。


停止性とはパソコン用語のひとつで、みなさん毎日体験しているPCのフリーズとか、重くなる現象の要因のひとつであるらしい。

計算可能性理論において停止(性)問題(ていしせいもんだい・ていしもんだい、halting problem)は、あるチューリング機械(≒コンピュータプログラムアルゴリズム)が、そのテープのある初期状態(≒入力)に対し、有限時間で停止するか、という問題。アラン・チューリングが1936年、停止性問題を解くチューリング機械が存在しない事をある種の対角線論法のようにして証明した。すなわち、そのようなチューリング機械の存在を仮定すると「自身が停止すると判定したならば無限ループを行い、停止しないと判定したならば停止する」ような別のチューリング機械が構成でき、矛盾となる。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%9C%E6%AD%A2%E6%80%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C


ちょっと違うのかも知れないが、ロボット三原則でも似たようなことが起こると書かれている。つまり機械にインプットされた理路整然とした現象と、あきらかに矛盾するものに出くわすと、機械はその矛盾を乗り越えようとするように仕組まれているので、しばらく「長考」に入ってしまうらしい。

これと似ているのはベトナム戦争時のベトナム兵によく起こった「シャッター現象」ではなかろうか?いや、シャッター現象のほうはまったく本人に回復の意思がないから違うかも知れない。停戦状態でベトナム兵は完全休養するために思考回路を「休め」にしてしまうわけだが、そういうときに「あれをしろ、これをしろ」といくらわめいても彼らはもうまったく微動だにしない。また、その人の思考のレベルを超えた出来事に出会うと人間は入り口のシャッターを下ろしてしまったように無反応になる・・・だからシャッター現象である。戦略で言えば腹案がABCあったとする。最初はAで実行していてもケースバイケースでBに変更は理解できる。しかし民間兵であるベトナム兵は教育度も高くないので、AとBを複合したD案を将校が命令すると理解不能に陥って動かなくなったというのである。

カメラによく起こるローリング・シャッター現象とはまた別である。

PCには回復機能がある。しかしそういうときにそれが助けになることはあまりない気もする。

ロボット三原則をロボットを人間に置き換えても通用すると聞く。

アシモフのロボット工学三原則


•第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
•第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
•第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
— 2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版 、『われはロボット』より[1]。

もちろんこれはSFの中のお話であるが、この中のロボットを人間に置き換えてみるといい。あるいは「奴隷」とか「奴婢」としても通用する。


そうすると第一条と第三条にはあきらかな矛盾が存在することに気がつくはずだ。危害を人間に加えられない、しかし自分に危害を加えようとするのが人間だったらロボットはどうするのか?

そういうときこそロボットは停止性で対処するんだろう。そうでないと自己矛盾でパニックになるか、自分自身を破壊し始めるかも知れない。


しかし、人間は停止などしない。ベトナム兵の停止現象は、自分の理解度をはるかに超えたときに作動する。しかしこれは幼少時からの学習やたたきこみで修正可能である。だが人間はそういうパニックになったとき、往々にして停止よりも相手を殺すほうを選んでしまう生き物である。なぜなら人間には感情があるからだ。

もしベトナム兵のそういう現象が、現代のわれわれに起こるといろいろ困ることが起こるだろう。今問題になっているバスの運転手が、走行中、突然運転がいやになって目を閉じ、ハンドルを放してしまったとしたら・・・。通勤中に嫌になって電車の中で立ち往生したり、自転車通学の高校生がペダルを踏みたくなくなり坂道を転げ降りたり・・・。


それがベッドの中で起こったなら実害はない。ただ学校や会社に行かないだけ。もう動かない。そんなやつなら山ほどいる。

一番困るのは、わざとシャッターガラガラ閉店するのがはやる事。十分ありうる現象である。猫も杓子も通勤したくないからってんで経済が動かなくなったりして。


古代の民衆はどうだっただろう?
ベトナム兵以上に知識や教養を持っていなかっただろう彼らも、そういう活動停止があったのだろうか?考えてみれば、新石器時代が来る前は氷河期である。いったいどうやって生き残ってきたのか?動物のように冬眠できたはずもない。火を手にするまでの人類は、いかにして寒気や氷河期を乗り越えたのか?

生物学的には人類は、何度も何度も絶滅しながら、亜種を生み出しながら継続したはずだ。しかし現在のホモ・サピエンスには亜種が存在しない。生き残っていないのである。残っているのは近縁種である大元のご先祖のサル類だけ。ヒト科ではチンパンジーやゴリラやオランウータンだけである。しかしそれらは亜種ではなくもっと上の区分である亜目とかである。

亜種がいないということは、過去の歴史上あった人種差別には、なんの科学的な根拠がないということだ。アフリカ人もアジア人も人類の亜種ではない。しかしいまだに人類は人種を差別する。そこでまた思いつくのが往古のキリスト教科学である天動説である。

天動説にもちゃんと科学的な解説がいくつも出されてきた。それを証明するためにさまざまの理論や数字さえある。しかし大前提でそれらは全部お笑いものであり、キリスト教がいかにおばかな「天体差別観」を維持しようとしたかの証拠品でしかない。

つまり彼らはどうしても地球が宇宙の中心であるとしたかった。それは彼らがやはりやってきた異教徒や意人種への差別と同じ意識から生まれているわけである。

キリスト教徒たちは太陽が地球を中心に回る恒星のひとつだと思っていた。すると四季の切り替わりの月日に矛盾が出てしまう。そこで恒星の軌道が真円でなく、偏っているからだとか、火星の場合などは軌道上を行って帰って螺旋を描くのだと、まあ、いろいろなこじつけで筋を通そうとしている。そしてコペルニクスやガリレヲによる地動説に何も矛盾がないことをこのあいだまで認めなかった。こういうことだから知識や教養を与えられなかった民衆は、それに準じるしかなかった。ということはそのまま民衆の地位の上昇も、旧態依然のキリスト教社会では絶対におこりえなかったのである。

それはまったく思考のシャッター現象であり、停止性なのである。

何がそれを変えたか?貴族社会から出た新しい科学者だった。それしかなかった。

それとそっくりだったのがキリストや釈迦やマホメッドである。聖徳太子もそういう聖者のイメージで創作されている。上流社会が自らそういう正邪を逆転するしか手はなかったのが古代である。だから当初は弾圧され、死刑になったり、監禁されることになる。固定観念の払拭、新しい論理や信仰の布教とは、そういうことである。生死をかけるか、思考停止するか・・・人間にはそれしかない。

あがらうか、したがうか。まつろうかまつろわぬかである。

天動説で人間を考えれば、自分が中心で、他人は周囲をめぐる脇役であるとなるだろう。しかしそうすると、ひとりひとりがそう考えてしまえばもう太陽系だらけの世界になって、あちこちで勝手に駒が回り始め、混沌にならざるを得ない。人間世界は消滅することになる。反対にあのヒトを中心に回っていてぼくは脇役だと考えれば今度はいじめの対象にされてしまいかねない。そうではなく中心には不動の何かがなければならないと考えてみる。するとそれは人間を動かす正しい論理だと気がつく。

つまり法である。

あとはその法に破綻部分があったとき、それを修正する能力である。




日本史でアマテラスが太陽ならば、それはもちろん天皇家と国家にとっての地動説的な法だったわけだろう。しかしその時代、実は中国にも新羅にも女帝が登場しているという不思議がある。つまりアマテラスは世界の絶対神ではなかったことになる。太陽があっちにもこっちにもあるというのは広い広い宇宙の話であって、そのころにそんな知識はない。アジア世界で、記紀ができあがったころに、太陽ともいうべき女帝が三人も同時に生まれるなど、そうそうある話ではない。どれかは虚像の太陽だったのではないかと思うほうがよかろう?

































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