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「ひらき」「ひらきき」再論/枚聞と開聞なぜ読み方が違うのか?


秦氏とユダヤ人見直し論・韓国人の特殊なうつ遺伝子について記事公開は終了しました。
残念でした。





「ひらき」「ひらきき」再論



枚聞神社(ひらきき・じんじゃ)
「右者薩之一宮ニ而 御座、被遊御鎮座之儀者天地開闢之砌枚聞宮与申時者天照太神(社伝では大日孁貴 おおひるめむち=アマテラス)」
とあるので、「ひらきき」の呼称は「開闢」である。土地を切り開いたので「ひらきき」。

またここの神職は代々、紀氏、田中氏、櫻井氏、池田氏と武内宿禰の子孫、特に紀氏関係氏族で占められる。

「『三国名勝図会』巻之二十四「頴娃之二」の「祠官舊式」には「當社の祝吏甚多し、其内紀氏・櫻井氏・池田氏・田中氏の四家は、其頭官なり(後略)」とある。奉納者の有春は「紀氏家系図」に枚聞神社神主で天明元年(1781年)に83歳で死去と記されている。」
以上の資料は
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=F6XBKUll1UEJ&p=%E7%B4%80%E6%B0%8F+%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE+%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E9%96%8B%E9%97%A2&u=www.city.minamikyushu.lg.jp%2Fcontents%2Ffile%2F20130610091330.pdf#search='%E7%B4%80%E6%B0%8F+%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE+%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E9%96%8B%E9%97%A2'




紀氏が九州に深い出自のある海人族であったことは、古墳の石室に石棚を持つ形式が北部九州と和歌山県に多いことで証明できる。また佐賀県にも紀氏由来の土地がある。

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鹿児島県の頴娃(えい)の池田湖は知られるがこの池田はおそらく池田氏由来ではあるまいか?

ひらききが開聞岳山麓の頴娃(えい)周辺を、おそらく紀氏(きのうじ)一族が?切り開いたので、山も開聞岳である。開聞(かいもん)とは開門、つまり開闢地名で訓読「ひらきき」の音読であるので、元はやはり「ひらきき」でああったろう。「ひらききやま」だったのではなかろうか?

「土地を拓きし」である。「ひらき」が開闢神であることは京都市の下鴨神社内の出雲井於(いのへ)神社=比良木(平木)の神と同じである。

この紀氏関係者らが頴娃に枚聞宮を建てるためにやってきた、それはおそらく平安の朝廷の指示だろう。記録の残されている『日本三代実録』は860年成立であり、三月二十日記事に、

「この日に薩摩国従五位上開聞神が従四位下を加えられた」

とあるから、それ以前からあったにしてもまだ国幣社ではないから、全国神社の例で考えれば中央側のアマテラスが祭神でも、なかったかも知れない。それは頴娃(えい)という地域が隼人の反乱(養老四年700~720年)の首謀者がいた土地ゆえに、それ以後の国幣神社としての成立だと見てよい。つまり紀氏たちは隼人の戦い以後120年=干支二順の年あたりまでに頴娃管理のためにやってきたことになってしまう。これでは反乱残党の監視としあまりにも遅すぎることになるから、実際はもっと早かったのではないか?社伝が成立年代を不明というのも奇妙なことで、全国の神社はほぼ成立年代は古くしているものである。隼人の反乱以後の成立がはっきりしている霧島市隼人町の鹿児島神宮(大隅正八幡)では創始が神武天皇の頃にしてあるが、これはあきらかに前倒しのやりすぎである。

紀氏がなぜ送り込まれたのかと考えると、参考になるのは隼人の反乱に勲功のあった宇佐八幡宮のある大分県北部や豊前一帯の紀氏の考古学的検証で証明できる可能性がある。すでに書いたことだが、佐賀県・福岡県境の武内宿禰の妻だった山下影姫を祭る地域である鳥栖市と小郡市一帯は紀氏の出身に深く関わる地域だが、紀氏は武内宿禰の後裔氏族であり、田中氏もまた武内氏族である蘇我氏の枝族とも名乗っている。

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また武内宿禰が「黒尾神 くろおのかみ」として宇佐神宮関係神社に多数祭られるので、紀氏はそもそも武内系の「うち」神社を祭り、奉仕してきたと見てよかろうし、宿禰氏族の本貫もまた南九州および二次移住地であろう日本海出雲(葛城族)に比定してもよかろう。京都府京田辺町大住は大隅隼人地名で、しかも宇智神社が隣接する。「うち」と隼人地名は近畿では常に同居する。つまり紀氏は尾張氏・海部氏として隼人を管理したのである枚方市に隣り合った京都府八幡市の内神社も武内宿禰を紀氏が祭ったと考えられるから、枚聞神社も武内宿禰がもともとそれ以前の土地神だったのかも知れない。アマテラスはもちろんあとからかぶさったのである。

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内・宇智・宇治地名は紀氏と隼人の移住と深く関わるhttp://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56572396.html



隼人の反乱の首謀者とされたのは三人の隼人族の女族長と、衣君(えのきみ)である
(久売( くめ)・波豆(はず)・薩末比売(さつまひめ)・肝属難波(きもつきのなにわ))が、衣君の名はそもそも愛知の尾張・三河に出てくる衣君一族から送り込まれた評督である。

『続日本紀』29にはこうある。「『薩末比売・久売・波豆・衣評督衣君県、助督衣君弖自美」(続 一 29)

Wiki児ノ口神社(ちごのくち、愛知県豊田市久保町3-27-15、祭神落別王)の項目にはこうある。
「落別王(おちわけのみこ)は、『古事記』に「小月之山君・三川之衣君の祖」と記載されているが、 この「三川之衣君(みかわのころものきみ)」は三河国賀茂郡挙母郷(現・愛知県豊田市) を拠点とした豪族」

この「おちわけ」の「おち」は四国の越智かとも思えるし、都から落ちてきた貴種流離譚の創作王であろうし、そういう流離譚自体は隼人や海人族や渡来技術者にはつきものである。


尾張氏も海部氏族として紀氏とは深いつながりをもってきた海人族である。さらに大分県の豊後海岸地域から豊前海岸地域は秦氏渡来以後も紀氏・海部管理地であったと共通点が見えてくる。豊前の竹並横穴墓群からは隼人の剣と言われる蛇行剣や地下式横穴も出ている。つまり武内宿禰氏族や尾張海部たちと隼人は海で、古墳時代の早くから、深くつながっていたと言えるのである。

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これらの分布図と下に添付している矢筈・矢作地名分布を勘案すると、尾張・紀伊・佐賀県の基肄郡・京都宇治市巨椋池北部~伏見深草と稲荷の紀伊郡・そして紀伊国紀ノ川沿線地域はどう見てもリンクする。


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またこれらの人名と地名が偶然ではなく、隼人反乱後にも残り、全国各地に関連神社が存在する。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56627952.html
愛知県知多郡武豊町にある武雄神社は佐賀県の旧基肄郡だった武雄市地名とリンク。

愛知県知多郡南知多町師崎明神山にある羽豆(はづ)神社は隼人乱首謀者だった波豆(はず)に音が一致する。また幡頭神社は 愛知県三河の吉良町宮崎宮前/蛭子岬にありこれも一致。ここは宮崎宮があって日向由来である。

名古屋市石神白龍大王社はご神体の塞石(石神)が幡豆(羽頭)産である。

愛知県津島市神明町1の津島神社の神官家は紀氏堀田氏である。この「つしま」はおそらく「対馬」由来である。紀氏が対馬を経由したゆえの地名であろう。「つしま」は津軽にもある。あの太宰治の生家の名である。明治維新で福島から会津藩氏が移住した青森東部との関連も?ここは白山信仰で紀氏・堀田氏・織田信長がつながる。

愛知県矢作町字羽城になぜか鹿児島の奇妙な神である弥五郎どんを祭る彌五郎殿があり、ここは津島神社から勘定されている廟である。弥五郎は隼人・熊襲の神格化・擬人化ともされて「ひじりかわかみおおひと」「川上梟師=熊襲タケル」の神霊だとされる。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56627952.html




紀州式石棚分布図
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紀州式石棚を石室奥壁に持つ古墳は、九州では、装飾で有名な福岡県の竹原古墳、線刻画が知られる大分県千代丸古墳など多いが、これは和歌山県に多いために紀州式と名づけられたが、その震源地は間違いなしで北部九州である。

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同様の紀氏移動は筑肥型横穴式石室そのものの移動ともリンクさせることが可能である。
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そもそも「ひらき」地名をどの氏族も神にできた名前で、その命名は最初からその土地を切り開いた氏族の神が「ひらきき」だったと考えられるから、平安の朝廷はこれをそのまま使ったとも考えうる。文字をひとつだけ変えた(開聞と枚聞)だけで済ませてある。これを「かいもん」と音読して山の名になっているわけだが、もしや開聞岳の名前には古くは別の名があった?頴娃のもうひとつの聖山とも言えるのが矢筈岳であるが、この「やはず」地名は愛知県に多い。意味は以前、頴娃に行った記事で鏑矢の先の股割れした二上山型(馬の鞍型)の山容からだと考える。この形は馬騎山(まきさん)型とも言われ、大和三輪山、宇佐大許山(おおもとやま)も「まきさん」という別名がある。鏑矢は三輪山の丹塗り矢伝説に出てくる大物主の化身であり、鴨氏と大神氏、そしてこれまた豊後宇佐氏族だった大神氏末裔を名乗る緒方氏の伝承に類似が見られる(大蛇伝承・苧環伝承・丹塗り矢伝承)。つまり鴨氏、大神氏、尾張氏、紀氏などが共通して持っている伝承である。

矢筈が靫負氏族と関係する山ではないかとずいぶん前に考えたことがある。それで矢筈、矢矧(やはぎ)地名を徹底的に調べたのである。http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56628666.html

そうして見えてきたのが矢筈、犬地名に必ず隼人や海部氏族が存在することだった。


このように「ひらきき」ひとつですべてが紀氏につながってしまう。これが武内宿禰という人の真の正体である。

さらに言うならば「ひらき」を神にした京都の鴨氏が、大和では葛城山山麓の両袖にいて、出雲阿治須岐詫彦根=高賀茂神が出雲八重事代主を祭ることは、葛城氏と紀氏武内宿禰後裔氏族という共通点から見て同族だと考えられる。そして最後についに秦氏と葛城での同居記事が『日本書紀』に登場してくる。







さて、考古学では弥生渡来人の来訪者数を、出土状況から、あまり多くはなかったと見ている。人類学では遺伝子の80パーセントも占める渡来の血なのだから、大量に来たと言っている。遺伝子学では考古学と同じく少数だったとする。少数だったが、稲作などの先進技術で子孫を増やせたし、縄文を飲み込んでいったとするのである。筆者は狗奴国というものの構成民族がもし先住縄文であったならば、それが前方後方墳や方墳や四隅突出型墳丘墓の分布とリンクしているので、南九州氏族=武内宿禰と海人族隼人らではなかったかと見てはどうかと考えてもいる。邪馬台国の氏族も縄文系だったかも知れないとも思っている。

どういうことかと言うと、大王となれたものを担ぎ上げたのは先住日本人だった可能性があるのではないかということだ。物部氏や和邇氏や中臣氏などの古い氏族が縄文人だった可能性である。武内氏族や隼人らも加えたところで、だいたい豪族は倭人総数の数パーセントであろう。江戸時代の侍の割合でも15%といったところだからだ。すると縄文系平民もあわせて20%なら違和感がない。渡来が起きた当初はもちろんその割合は縄文系のほうが圧倒的に多かったが、弥生系はどんどん増えたとされている。昔は琉球とアイヌと蝦夷は南北へ追いやられたと考えられていたが、全部が全部そうだったわけではなく、本土では俘囚としての移住や、隼人の移住があって、血が薄まっただけではなかったろうか?



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