震災後の近所の古墳被害状況の確認に、昨日まず最寄の千代丸古墳へ出かけた。
外観に問題なし。
石垣に若干の崩落もあるがまずまず。
問題の石室内部だが・・・
線刻画及び石棚にも剥落、崩落は見られないようだ。
門扉があるため中に入れないが、ここは石棚(いしだな)・石床(せきしょう)・死床(ししょう)などの構造から紀氏の部であった木部の族長の墓かと考えている。
壁には線刻画があり、紀氏・木部が海人族だった可能性が見て取れる。
『大分の古代美術』より
ちょっと離れたところに丑殿古墳もあるが、今回、暑さのうえに水を持参し忘れたのでここだけにした。
装飾古墳は5~6世紀の北部九州、茨城県、福島原発そば双葉町、近畿大阪府などに点在し、近畿の7世紀代の高松塚・キトラなどの壁画古墳とは異なり、朝鮮絵師の作ではなく、在地氏族の部が描いた壁画である。その中に千代丸のような線刻画だけが刻まれた古墳がいくつかあり、首(おびと)クラスの、部民管理者の墓であろうと考えられる。
今回の地震は・・・テレビでは熊本と大分と言ってはいるが、正確には大分ではなく別府・由布市・九重町が震源地で大被害が起きたのでこれは旧速見郡に当たるから別府ー万年山の地震と言える。千代丸や丑殿古墳があるのは大分市西部の賀来地区になり、旧大分郡域の古墳である。この墓はみな大分川河岸段丘の下部にあって、頂上部に前方後円墳の蓬莱山古墳がある。千代丸だけはやや西のはずれになり、木部集団の族長であり、ほかはまた別の氏族かも知れない。
先の東北の大震災では、双葉町の装飾横穴墓たちは壊滅的打撃を受けた。熊本の多くの古墳もそうなったことかと思うと、いたたまれない思いである。(下は福島県双葉町の清戸迫横穴)
チブサン、鍋田横穴群などが崩落したのではないか?
あの阿蘇ピンク石が積み上げられた井寺古墳石室はどうなっただろう?
熊本県山鹿町チブサン古墳石室
上益城郡嘉島町井寺 井寺古墳石室の阿蘇ピンク石石積み
阿蘇ピンク石は熊本県宇土市でだけ産出されて近畿に運ばれた特殊な阿蘇溶結凝灰岩である。「大王の石棺」と呼ばれ、継体大王今城塚、推古女帝と竹田皇子の植山古墳、継体大王出身地である滋賀県などで多数発見されている。しかし九州でこの石を使った石棺はひとつもなく、唯一、この井寺被葬者だけがピンク石を石室に使うことを許された。
井寺古墳、石障(せきしょう)の直弧紋(ちょっこもん)。
直弧紋はやはり5~6世紀に、豪族の墓に多く見られる装飾。近畿では3世紀纏向遺跡からこれに類似する弧文円盤が出土。さらに葛城氏の本拠地にある古墳などから直弧紋を有するユギなどが出ている。おそらく武内宿禰関係氏族のステータスであろう。葛城氏、紀氏、巨勢氏、波多氏、蘇我氏などがその一族である。
関西以北の古代史ファンは、あまり装飾古墳を知らないだろうと思う。高松塚などの新しい時代の壁画古墳にばかり興味が集中するかもしれないが、あれらはみな、朝鮮工人を大和が招いて描かせた壁画であり、日本人オリジナルの絵画ではないのだ。しかし装飾古墳は確かに技術は稚拙かも知れないが、明白に、オリジナルの日本の海人たちが描いた壁画である。