播磨の鉄
『播磨国風土記』宍禾(しさわ)郡柏野里敷草村条 現・宍粟(しそう)市千種町
「草を敷きて神の座と為しき。故に敷草といふ。此の村に山あり。南方に去ること十里ばかり、二町ばかりの沢あり。此の沢に菅生じ、笠に最も好し。檜・杉・栗、黄蓮・黒葛生ふ。鉄を生ず。狼羆住む。」
『播磨国風土記』宍禾(しさわ)郡柏野里敷草村条 現・宍粟(しそう)市千種町
「草を敷きて神の座と為しき。故に敷草といふ。此の村に山あり。南方に去ること十里ばかり、二町ばかりの沢あり。此の沢に菅生じ、笠に最も好し。檜・杉・栗、黄蓮・黒葛生ふ。鉄を生ず。狼羆住む。」
同讃容(さよ)郡条 sayo-no-kohori (佐用郡佐用町・南光町・三日月町・上月町)
「鹿を放ちし山を鹿庭山(かにわ・やま)と号く。山の四面に十二の谷あり。皆、鉄を生す。難波の豊前の朝廷(孝徳天皇在位645~654)に始めて進りき。見顕しし人は別部の犬、其の孫等奉発り(たてまつり)初めき。」
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播磨の宍粟や佐用と言えば中国山地の山奥、となりはすぐに鳥取県である。
中世には砂鉄による蹈鞴製鉄が広く行われていた。
製鉄遺跡だけで144カ所確認されている。
中国山地のなだらかな丘陵を抜ければ豊岡、出石からもほど近い。
このラインはアメノヒボコの日本海側と吉備、播磨を結ぶ道である。
つまり、瀬戸内における製鉄技術の渡来コースだ。
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播磨国風土記に神埼郡八千種の戦いが記録されている。
新羅の王子アメノヒボコと在地神・伊和大神の激しい争いである。
伊和の神とは出雲のオオナムチの別名である。播磨一の宮伊和神社祭神である。
この「伊和」とは「岩」の神、つまり山の資源を指す言葉であろう。
新羅の王子アメノヒボコと在地神・伊和大神の激しい争いである。
伊和の神とは出雲のオオナムチの別名である。播磨一の宮伊和神社祭神である。
この「伊和」とは「岩」の神、つまり山の資源を指す言葉であろう。
砂鉄資源を巡る渡来と先住の奪い合いである。(新羅のヒボコ一族が岩と戦った=鉱山を開発したである)
この記事から7世紀中頃までには山陰~山陽地域にはすでに蹈鞴製鉄が渡来していることがわかる。
今、この一帯は「天児屋(てんごや)たたら公園」として蹈鞴遺跡の遺跡公園となっている。
千種の鉄は明治期まで使用され、備前長船の鉄として非常に著名である。
播磨は6世紀まで物部氏の管轄であったが、守屋死後、蘇我氏の管理下に入り、秦氏によって再開発された。
つまりこのエピソードにはアメノヒボコと秦氏系渡来民との関係がさりげなく隠されていることになる。
同じ播磨の加古川市に秦氏が帰依した鶴林寺がある。
生野銀山があり、姫路鋳物師がいて、陰陽道と傀儡(くぐつ)のメッカ・・・それが播磨とアメノヒボコを結んでいる。
参考文献 沖浦和光・川上隆志『渡来の民と日本文化』現代書館 2008
民族学伝承ひろいあげ辞典「播磨の鉄とアメノヒボコ」http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/48031707.html
現代兵庫県の鉱物分布
http://413828.web.fc2.com/03-30.html
http://413828.web.fc2.com/03-30.html
風土記にある鉄山とは千種町~島根県県境にかけて存在する高羅、荒尾、樅木山、天児屋(いずれも兵庫県千種町)、吉川谷(鳥取県)などひっくるめて泉屋(=住友家)鉄山と呼ばれる砂鉄鉱山である。現在の住友の前身である泉屋は、ほかに四国。吉備・出雲あたりでも鉱山を開発した。それ以前の鉄山開発を一手に握っていたのは言うまでもなく播磨秦氏である。
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そもそも播磨地名そのものが姫路鋳物師(いもじ)のつくる針から来ている。これはすでに何度か書いたので詳しくは書かないが、東北の南部鉄器なども姫路鋳物師を伊達藩が招いて発達した。
たたら製鉄のふいごの風を「あなじ」と言う。
奈良櫻井市の穴師坐大兵主神社(あなしにます・だいひょうずじんじゃ)の「穴師」がこれに当たり、祭神には「兵主神」すなわち中国由来の怪物「蚩尤 しゆう」を置く。よりしろは剣である。
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語源は「あな」は「おお!」、「し」は風である。驚くほどの激しい季節風である。扇状地の奥にあって吹き降ろす風、吹き込む風である。この様式はあきらかに渡来技術者の祭ったもので、中国を起源としていた秦氏の祭るものであろう。すると扇状地入り口にある珠城山(たまきやま)古墳群は秦氏、あるいは神社手前にある相撲神社にかかわったとされる土師氏、野見宿祢氏のものかも知れない。
蚩尤はアメノヒボコであると言える。つまり播磨・但馬・出雲の砂鉄に関わった渡来系工人氏族であろう。
播磨の秦氏に関わる「坂越 さごし」伝承には、秦氏と「宿神」についての深い関係があったことが見えるが、宿とは「しゃぐじ・みしゃぐち」とも言われ、その正体は中世に差別された芸能の浮遊民の祭る「後ろ戸」の闇の神である。秦河勝を播磨の秦の民どもが祖人とする理由もここにある。アメノヒボコと秦氏が実際にどう関わるかは不明であるが、少なくともヒボコという集団が出雲・播磨・但馬・吉備などに入り込んでくる日本海ルートに、秦の工人たちがリンクして入り込んでいることは間違いがない。
「しゅく」が被差別であることも否定しようがない。