もちろんいらぬ世話でしかない。
熊本県行政は県都(県庁所在地)を熊本市から別の場所へ動かすか、南北二箇所への機能分離はやっておかなくてもよいかを考えていますか?
肥後の先史時代からの歴史の中で、おそらく熊本県民には久しく、南部地域=球磨地方を遠隔の別地域だという先入観はないだろうか?南部が記紀の言う「熊襲」というまつろわぬ人々がいた地域で、北部はそれを監視する中央側の正統な人間がいる場所だ・・・という先入観である。ないだろうか?
熊本へゆき、まず第一に感じるのは、昨今の市町村合併が進む傾向の中にあって、いまだに町と村が多いままで、なかなか「意見が一致しない県」という印象がある。もちろん地形的な理由もあろうが、それはほかの県でも同じ事なので、ほかにもしや人的な理由から、あるいは政治的、利害関係での意見の相違があるのかと、老婆心ながら思ってきた。盆地を転々と北上した往古の熊襲免田式土器を思い出した。
特に南北の認識度の格差は他県民にはとても興味がある。
古墳を経巡ってきたので、熊本の隅から隅まで回ったが、熊本にはあきらかに熊本市を中心とした北部と、今回の大地震を起こした断層帯地帯をはさんで八代、人吉市などの南部との間に文化的隔たりがあるようだ。
古代、持統天皇以降、つまり奈良時代から考えれば、中央から阿蘇氏が神社管理者、災害神の鎮護として入る。熊本南部の後期・終末期古墳にも阿蘇氏の影響が見える。終末期から阿蘇氏の影響が南部の鹿児島県境域まで広がっていったことが見て取れる。人吉市にある青井阿蘇神社はその象徴的なものである。阿蘇氏の始祖伝承はそもそも北部九州にもともとあった神八井耳(かむやいみみ)命という多氏(神武直系子孫を名乗った)の祖神を取り込むために、その子孫である建磐龍命(たけいわたつ)という阿蘇開闢の神を創作したところから始まっている。さらに南部にもともとあった古い草部吉見(くさかべよしみ)信仰の祖である彦八井耳(ひこやいみみ)まで取り込んで肥後を掌握していったのである。だから阿蘇神社の祭神は12以上の既存の在地神を阿蘇氏が取り込んでいった痕跡がそのまま祭られることになったわけである。
それ以前の5~6世紀から、すでに北部的な(奈良中央的な)直弧文や、中央靫負氏のステータスである靫などの的矢の陽刻(レリーフ)が人吉市、あさぎり町にあって、奈良の朝廷が始まる以前から、もう大和あるいは河内政権の(北部古墳で言い換えれば江田船山古墳被葬者らによる南下と熊襲監視体制であろう)監視下に球磨地方の熊襲が置かれていることを感じさせる。そこに阿蘇氏が奈良時代に入ったと見ている。
阿蘇氏は同時に、天武・持統が首都移転地として一考してきた長野県諏訪地域にも風の大祝・神長官(かぜのおおはふり、じんちょうかん)として入っており、阿蘇が阿蘇山の鳴動や地震をおさめるに対して、諏訪阿蘇氏は台風の発生元だとされた諏訪湖を鎮護したのであるから、間違いない。
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少しわきにそれるが、昨日の記事に関連して信州の「宿神」=「みしゃくじ」について書くと、しゃぐじとは「石神」で、渡来工人たちが鉱山開発する際に、自分たちが切り開く岩石、鉱脈、山の象徴として巨石を祭ったことと大きく関わる信仰である。東京の「しゃくじい」地名などもそのひとつだろう。多く秦氏が管理していた彼ら工人、職能民、芸能民(鉱山開発の食・娯楽として農業や芸能は必ず付属する)を「秦部」と言う。「はた」とは「とえはたえ」「はたち」とのちに言うように「十より多い」つまり二十のことだ。眷属が多い氏族の意味なので、阿蘇氏が取り込んだ多氏と同じ意味を持つ氏族になる。
この巨石信仰の大元は鉱山でもあろうが、秦部が在地縄文原住民の巨石信仰を、彼らを使うために吸収したためでもあろうか。要するに、古代の信仰や神は、その一族を取り込み、管理して利用することで、上から下まで一貫しているのである。氏から部までが、同じように古い先住氏族と信仰を取り込み、とってかわってゆく。それは利害的な発想であるから、奪った側に先住者の神への深い憧憬があったとは考えられまい。
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直弧文、家型石棺、靫(ゆき)、銘文入り鉄剣 など5~6世紀の北部熊本に多いステータスは、あきらかに飛鳥・奈良以前の河内や吉備政権=葛城系王家の影響が、熊襲征伐と関連づけられて記紀に描かれる下地の歴史的事実があったことを示す遺物である。ヤマトタケルや景行天皇の熊襲征伐も、大和朝廷以前の王家の事跡である。
いずれにせよ、九州はすでに5世紀の古墳時代から、畿内の渡来系政権の管理下に置かれていたことは、考古学からは絶対に否定できない。それを支えたのは多氏、安曇部、阿多隼人、豊前海部などの海人族なのである。
熊本県は全体が揺れの影響を受けた。しかし南部あさぎり町~水上町あたりは古い地層(祖母・傾山系が隆起させたひとけた古い岩盤)比較的安全だった。熊本市は危険な地溝帯の真上にある九州では唯一危険な県庁所在地だ。しかも埋立地で、もとは地盤が脆弱な有明湿地帯にある。大阪市や東京都と同じくらい危険。
さて、現代に戻り、熊本の県都は、このまま現在の大地震を引き起こす巨大な構造線の上に存続するつもりなのであろうか?
たしかに、400年に一度の大惨事ではあった。ならばあと400年はまた熊本は安泰・・・そういう発想もある。しかし長い目で見てそれでもよいのかではないか?
子々孫々、えいえいと安心してそこに住まわせて、はて、行政はよしとするのかという問題である。これは神戸や福島も同じである。またそこに住んでも安心か?と問うているのだ。
通潤橋の水は放流できなくなった。熊本城は破壊された。阿蘇神社山門は倒壊した。装飾古墳は破壊され、名水はにごり、水前寺海苔も壊滅的。湯布院観光は大打撃。
果たしてその復興にいかほどの資金がかかる?そしてまた400年後に崩壊させてしまう?さあて、行政・・・。
揺れが小さかった南部地域、それも構造線のある八代ではなく、球磨地方に少し行政の拠点を分けたほうがいいのではないか?
これは東京もそうだ。
人事ではない。
なぜ地震の可能性が高いところに首都や県都を置くのかという未来への大問題なのだ。
(あさぎり町の前方後円墳と流金鏡について、これは河内王権の派遣した管理者の墓と考える。それが中国呉越と関係を持ち、北部九州と対立したのが邪馬台国・狗奴国から続く)