熊本大学の大坪志子(ゆきこ)は、例のケツ状耳飾の分布状況から、縄文前期にはすでに大陸と日本列島が人的な往来があったことを詳しく証明した(2013大坪「季刊考古学」第125号「玦状耳飾」)。
それがあまりに見事な論調であることを国立歴史民俗博物館の若い先史学者・山田康広は褒め上げている(『つくられた縄文時代』2015)。
この特殊なC型耳飾の一例はすでに何度かここで書いているが、アジア全体の発掘から、それだけではない、摩消()すりけし縄文文様の存在や、刺突文(しとつもん)などの縄文文化的な文様表現は東アジアでは日本と共通して見つかる。
さらに「石を多用する石棺墓・配置墓などの葬法などのほか、砂鉄を集めた事例などから製鉄を試みた可能性」についてまで首都大学東京の山田昌久はつぶさに証拠品とした(1990 『古代文化』第42巻「『縄文文化』の構図 上・下」)
縄文時代の前期から、すでに縄文人は「舟で」中国や朝鮮半島を往来していたのである。
そればかりではなく、彼らは東アジア人と人間的な交わりすら持っていたと充分に考えられる。東北地方を中心とするこれらの諸外国との交流は確かに存在したというのが最新の考え方になりつつあると筆者は考えている。
中国商時代由来の鋸歯文、環頭、内反り刀身などを持つ青銅製刀子が山形県三崎山で出ている。これらの中国江南的な文化を東北縄文たちは、1万年以上前からすでに自ら持ち帰る船舶技術をもち、当然のように、現地の女性との婚姻や、連れて帰ることすらあったのではないか?
これをさらに拡大化させてみると、ネアンデルタールやデニソワ人のいた時代、すでに台湾にはデニソワ人(ネアンデルタールやホモサピエンスと時代を経て、デニソワ洞窟周辺でまぐわった可能性ある旧人)は、南下拡散してインドシナからミクロネシア人の遺伝子にその色濃い痕跡を残すのだが、台湾から日本列島へむけて、沖縄の港川人や、台湾北側にある中国の柳江人といった、極めて原琉球の古い人々にもまじわりでDNAを残した形跡すら、今後出てくる可能性があるとも思える。
東へ拡散したデニソワ人は、今の江南民族、あるいはまた北方系の大元になって、東北縄文人、あるいはアイヌの一部などへ遺伝子をつないでいったことも考えられるのである。
今、旧人にはこれまでのネアンデルタール人のほかにデニソワ人、さらに小さなフローレンシア人がいたとなってきており、さらに現生人類であるホモサピエンスとの彼らの交わりが代々あったことも言われ始めてきた。こうなるとホモサピエンスがクロマニョン人だけではなかった発見がそろそろ出てきてもおかしくない状況だといえるだろう。
実は3万5000年前、それを証明するような遺跡がすでに発見されているのだという。石器が見つかっている。それは旧人の作ったものとしか考えられない年代であり、もっと驚くのは縄文よりはるかに古いやじりや土器模様すらもう見つかっているというのだ。