黄洛、黄氏は今のところネット上に資料が少ないためここにメモっておくことにした。
黄洛 こうらく Huangluo ファン・グルォ
黄洛は中国南部少数民族が居住する地域の地名。現・桂林市。広西省桂林市チワン族自治区黄洛村。
黄洛は中国南部少数民族が居住する地域の地名。現・桂林市。広西省桂林市チワン族自治区黄洛村。
現在ヤオ族・チワン族など少数民族自治区。
棚田で有名。黄は柿渋色を指すことから柿の原産地の可能性もある?
棚田で有名。黄は柿渋色を指すことから柿の原産地の可能性もある?
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山間の扇状地奥地にある。日本にあるよく似た風景の土地は、そもそもここのミニチュア版だとも言える。稲作発祥地のひとつ。つまり日本の棚田風景はみな、リトル桂林であり、江南の長江文明人が移住して作ったニュー・黄洛原風景から始まったとも思える。
漢の光武帝の時代あたりまで、ここには長江由来氏族が住まっていたが、それ以前から黄河文明との軋轢で離散した氏族があり、光武帝時代にさらに黄氏らが離散逃亡し、朝鮮半島金海(金官伽耶・始祖金首露王キム・スロ)を中心に居住した。三国志時代になると伽耶そのものが再び戦乱に巻き込まれ滅亡。すると黄氏の子孫とその家臣団らは日本へ逃亡したと思われる。ときの金海王は筆者推測では葛城襲津彦(かづらぎの・そつひこ)。『日本書紀』に言うところでは襲津彦は秦氏120部を日本の大和の葛城地域に連れ帰ったとある。新羅以後の朝鮮黄氏は両班(りゃんばん)つまり貴族階級である。
黄氏には諸氏があり、Wiki黄氏(中国・韓国音でファン)では朝鮮氏族としてあり、内訳はこのようになっている。
昌原黄氏(韓国語版) 始祖は黄石奇、後漢光武帝期の黄洛の末裔
長水黄氏 始祖は黄瓊、後漢・光武帝期の黄洛の末裔
平海黄氏 始祖は黄洛・黄温仁、後漢・光武帝期の黄洛の末裔
尚州黄氏
紆燗黄氏
懐徳黄氏
黄州黄氏
江華黄氏
管城黄氏
豊徳黄氏
この中で奈良県の葛城地域に多いのが二番目の長水(ながみず)姓である。
長水の姓はおそらく彼らの先祖が江南長江流域を出自とした故の名乗りかと思えるが、あるいは扇状地の奥地の水が沸く土地に住んだ水のシャーマンからきたとも考えうる。
【始祖】黄瓊 【本貫】長水
【世系】長水黄氏は後漢光武帝時代の人、黄洛の末裔と云ふ。 建武4年(A.D.28)に新羅に渡來し、次男黄乙古を始祖と称すも故無きなり。 新羅敬順王の侍中、黄瓊に出づ。新羅の両班なり。
『本貫類聚』
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-c-kou-chosui.html
【世系】長水黄氏は後漢光武帝時代の人、黄洛の末裔と云ふ。 建武4年(A.D.28)に新羅に渡來し、次男黄乙古を始祖と称すも故無きなり。 新羅敬順王の侍中、黄瓊に出づ。新羅の両班なり。
『本貫類聚』
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-c-kou-chosui.html
黄氏の由来はもちろん本貫地(ほんがんち)だった黄洛であるが、黄とは長水=長江=揚子江の黄色い土だろう。しかし黄の文字には柿渋色という意味があり、ちょうど葛城地域も柿渋の産地で合致する。
本貫始祖である光武帝の漢というのは支配後のあとづけか、あるいはもしそうならば、華北系となるので、長江支配入植後の地名名乗りか?
筆者は江南民族と見るが。
長水氏が居住した地域は、かつての河内王朝末の雄略大王死後に擁立された忍海飯豊青皇女(おしみのいいとよあおのみこ)の墓域でもある。忍海は葛城市の地名氏族で葛城氏系母を持つ。飯豊皇女の忍海部があったところ。飯豊とはふくろう、青とは墓域で、この名前は『日本書紀』の意図的な卑下する命名になっている。葛城円臣(かづらぎの・まどか)の。円は音読みで「えん」ゆえに、同じ葛城氏族が出た修験者の祖人である役行者(えんのぎょうじゃ=役小角えんのおづぬ)の「えん」に通じることとなる。
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葛城市北花内にある飯豊青皇女の墓所北花内大塚古墳
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奈良県葛城山とたわわに実る柿畑風景
金剛葛城山地は大阪と奈良を分ける
中腹に葛城一言主神社や高鴨アジスキタカヒコネ神社がある
山の向こうは大阪堺市古市の巨大古墳群
右方向が桜井市纒向遺跡など
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同じく
襲津彦のあと、葛城氏は二派に分かれたと言われ、葦田宿祢系と玉田宿祢系があり、羽田・紀・巨勢、蘇我氏などとともに武内宿祢子孫で由来は中国や南九州次に出雲日本海にある。また襲津彦が伽耶から連れ帰った秦氏、及び先にここにいた葛城鴨氏とは、一旦葛城御所市に居住したのち、山背=京都市へと移動し、両者は婚姻関係を結びそれぞれが下賀茂祭祀者、松尾神社祭祀者となっていったと考えられる。葛城は地名由来とも、ほかになにかあったともわからないが、金海以前は呉時代に九州南部に入った一族がいた可能性もあるがその痕跡は不明。金海黄氏が新羅経由で伽耶に入ったことはまず間違いないだろう。民族的にはヤオやミャオだったのではないか?背が小さく、棚田で稲作し、魚食であり、稲作と柿を持ち込んだ民族のひとつだった可能性が考えられる。長江文明人の生き残りであろう。「生きている化石」ともいえる希少氏族で、日本では100数十人しかいない(奈良県御所市や葛城市・兵庫県宍粟郡・福島県喜多方市高郷村に集まっている)。それが長水黄氏だと今はしておきたい。秦氏との血縁は不明。
面白いのは長水さんが住む土地はどこも棚田の名所で柿の産地(柿は日本中にあるから指標にはしがたいが、柿渋染めなら指標になるのでまた調べる。)で、兵庫の宍粟郡長水山は秀吉に攻め滅ぼされた山城があり、福島の高郷村は旧耶麻郡にあってやはり扇状地の奥地、山都郡の地名もありどことなく大和葛城(その大元は熊本県南部の山都か?)に似ており、さらに福島にも飯豊山(いいでさん。喜多方市と西会津にまたがる)がある。奈良の葛城山は南北朝の戦乱で楠正成(くすのき・まさしげ)が立てこもった。つまりいずれも中国長江文明人少数民族が隠棲した黄洛と同じような環境であると言えないか?歴史上敗北者や渡来人、貴種流離譚、土ぐも伝説などに深く関わった隠れ家的土地である。
こうした場所は全国にあり、多くが平家伝説や忍者伝説、天皇遭難譚など共通点を持っていることが大きな共通点である。
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葛城山大阪府側の千早赤阪村の棚田Clik here to view.
以上読者の質問に答えとして書いた。
次回「金海王・首露は葛城氏だったか?」
ちなみに金首露王のテレビ上映は本日。BSフジ2時45分