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葛城氏は倭の王族か?


複合王朝としてのヤマト王権---葛城氏の正体  萬 遜樹より抜粋引用
  「襲津彦は半島で何をしていたのか。書紀によれば、新羅へ人質を返しに行ってだまされ、腹いせに新羅から捕虜を連れ帰り(神功紀五年)、新羅征討を命じられたが、その新羅から美女二人を贈られて、かえって加羅王を討って百済へ追いやってしまい、皇后の怒りを買っている(同紀六二年「百済記」引用文)。また、加羅から弓月の民(秦氏に近い渡来民)を連れてきたり(応神紀十四・十六年)、無礼があった百済王族を連行したりしている(仁徳紀四一年)。

  ここから分かることは、朝廷の駐韓軍事大使のような役割を果たしていたことと、天皇の命令を重んじてはいかなったことだ。葛城氏は仁徳朝以降数代にわたり、皇后の家となり「大臣」ともなる。領地も狭くてろくな活躍もしない葛城氏を、なぜ外戚とせねばならなかったのだろう。それは、葛城氏が加羅の王族であり、その支持がこのときどうしても必要だったからだ。そして、葛城氏は天皇家と対等の氏族であったのだ。」

「紀記に雄略天皇の事績として、葛城山で天皇一行とそっくりな一言主神一行と出会い、対峙したという話がある(「一行」とは軍列でもある)。これについて様々な解釈がなされているが、天皇族の現人神と葛城氏の神との対峙であり、時の葛城氏の威勢を物語るものだする説がある。そうだとしても、その説明には何かが欠けている。それは、葛城氏は決して「臣下」なぞではなく、天皇族とは独立・対等の「王族」であったという視点である。」

「ニッポンの名となった「倭国」は「倭人の国」の意味ではあるが、初めは特にわが列島を指す名ではなかった。しかし少なくとも加羅南部と北九州(それに両者に挟まれた島々も)には「倭国」のいくつかはあった。謎の卑弥呼時代を生き延び、この日韓海峡にまたがるクニは、より広義(あるいは狭義と言うべきか)の倭国すなわちヤマト王権連合の一国を成した。葛城氏はそのクニの半島部で代表者として振る舞えるだけの地盤と権力を持った氏族だったのである。

  なぜ半島渡来民の仲介者のような役割を果たすのか、また出来るのか。神功紀六二年の記事によれば、新羅から美女二人を贈られて加羅王を攻めているが、ここには葛城氏の正体が現れている。一つは女を贈るのは王(族)たる者への処遇だということだ。もう一つは加羅を本拠としているはずなのに、その王を攻め立てていることだ。これは軍の精強さだけではなく、その神聖を冒すことができる資格があるということでもある。そしてこれが同時に、ヤマト王権の命を軽視できる理由でもある。」

「核心に入らねばならない。「未来を前にした現実」と「過去を総括する歴史」とは当然のことながら違う。紀記などの「歴史書」とは勝ち抜いた「大王」の記録に他ならない。もう一方の「未来を前にした現実」として再現しようとすると、ニッポン各地に王なり大王なりがいたと言わざるを得ない。一連合としては相対的優位が揺るがない畿内ヤマト王権も、その内部では天皇族と並立する別系の王族群、またそれぞれを支持する豪族があり、複合的な力学によって「大王位」があったのだろう。

  古墳時代とはそういう王や大王たちの群居時代である。国とはクニの集まりである。つまり連合の連合、あるいは連合の連合の連合が、例えば「倭・ヤマト」であった。「民族」とはあるレベルに自らのアイデンティティーを定めることである。古代人のアイデンティティーは多様であっただろうが、多くはより小単位のものであっただろう。すなわち、クニ=氏族(部族)こそが第一に「民族=国」であっただろう。

  わが国で言えば、畿内ヤマト連合、瀬戸内の吉備連合、山陰の出雲連合、東海の尾張連合などはそれぞれ別国であるし、それらはさらにクニに分解可能である。半島でも百済・新羅・高句麗の三国という枠組み以上に、それ以前の南の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)という枠組みがより重要である。三韓はさらに分解できる。例えば金官国など、クニ単位が最も遅くまで生き残ったのは弁韓であり、後ちの加羅である。

  そういう眼鏡のかけ直しをして、四~五世紀(古墳時代前期)の日韓状況を「未来を前にした現実」として理解しなければならない。金官加羅すなわち狗邪韓国はヤマト王権と連合を構成する一つのクニだったのだ。ここを根城に半島攻略が試みられ、また高句麗などとの闘争が行なわれた。一方では列島も未だ統一されず、三つのクニに分かれていた辰韓(後ちの新羅)の諸部族はさかんに日本海側に渡来していたはずだ。また、建国(征服)された百済からも権力闘争のたびに列島へ渡来があったはずだ。(注)」

 「(注)渡来氏族(部族)には、韓人や倭人という倭族だけではなく、高句麗や百済王族のツングース族系の者たちもいたことだろう。どれがどの氏族や王族だとは解明しがたいが、ヤマト王権中枢に非常に近いところでツングース族の血が流れ込んでいたとしても何の不思議もない。」
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-80.htm




以上多くの部分を引用したが、筆者は10年以上日本の古代史や東洋史での日本を見続けて来たが、このサイトのこの意見には共感できる。

倭種倭族が形成していた世界の範囲は鳥越憲三郎の意見を借り図にすればこうなっている。

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実際の居住地は河川沿線や河口部、海岸部に集中していただろう。いわゆる白水郎(あま)とは=倭種・倭族だろう。Kawakatu


これは民俗学が以前から言ってきた古い説である照葉樹林帯文化圏にほぼ一致する。
長江流域の古い長江文化をなしてきた人々は魏志が言う「倭人」と同じ倭種である。
そのことは『魏略』にある「海を度る こと千里にして、復国有り、皆倭種なり」に合致する。

 「倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種」
 「倭は帯方東南大海の中に在り、山島に依て国を為す。渡海千里にして、また国有り、皆倭種」


 朝鮮半島では倭種の分布はこのようなものだっただろう。

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『魏志』倭人伝では、「倭の北岸」が狗邪韓国=伽耶?なのであり、それはこの図の倭の部分にあったひとつの倭種の国だったということになる。

※倭種・倭族・倭人は使い分けがある。その違いを理解しておかねば誤解を招く。
倭種・倭族とは倭人=日本列島に限定された人々ではない。広い意味の江南諸族。今の中国少数民族やタイやベトナムや台湾やチベットなどに残存する諸族はその子孫だろう(ここを核ゲノムで比較した資料が早く欲しいところだ。現代日本人にもその共通遺伝子があるかどうか)。



葛城氏、というよりも、武内宿禰子孫たちは、そういう古い江南由来の倭種王族だった可能性は非常に高いと考える。



参考にすべき文献
安田喜憲『稲作漁労文明 長江文明から弥生文化へ』
安本美典『日本民族の誕生 環日本海古民族と長江流域文化の融合』
鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』『原弥生人の渡来』『古代中国と倭族』
諏訪春雄・川村湊『アジア稲作文化と日本』
佐々木高明『日本文化の多重構造−アジア的視野から日本文化を再考する』
池橋宏『稲作の起源:イネ学から考古学への挑戦』 中尾佐助『中尾佐助著作集第Ⅵ巻 照葉樹林文化論』
反論 松木武彦『日本の歴史1:列島創世記』小学館、2007年







では次回、葛城氏、いや武内宿禰の内の氏族とは狗邪韓国の王でよいか?


















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