諏訪神社なるものは全国にある。
その多くは本元の長野県周辺ではまず武田信玄の諏訪大明神崇拝崇拝を起源とし、武田恩顧の家臣らが各地に分祀したことをはじまりとしてある。
九州豊後(大分)のここもまずはそういうことが書いてある。そして武田氏敗北ののち、武田家あるいは諏訪や長野に由来のある氏族や、ある種の敗北して流懺させられた人々などが諏訪信仰を在地へ持ち込むことで始まるのだとしてある。
これらのいわれのさらに前として、やはり必ず付け足してあるのが記紀の言う諏訪タケミナカタ神の出雲からの流懺と隠棲である。
およそ敗者を、古代では「葛」とやや下卑した表現で言うのだと筆者は15年前に考えた。それは渡来した秦の部民でもやはりそうである。秦の民自身、やはり滅亡伽耶(狗邪韓國や金官伽耶=加羅)から逃れてきた敗残者だったからである。
そういうものどもの、記紀最初の代表としてタケミナカタは存在する。
およそ日本海沿岸のだいたい山口~出羽南部あたりまでを、古くは「イズモ」だったのではないかと森浩一は生前、石野博信に語ったことがある。出雲地域には、北の蝦夷、北テキの民人や、南は琉球・奄美・薩摩・日向・五島やあるいは壱岐・対馬、朝鮮の島々からの水人やら隼人やらもが集住した痕跡があり、いわば縄文と弥生に共有された地域だったとも言えるだろう。
タケミナカタはそういう人々の象徴的神格と、母神である姫川のヒスイ採取氏族の血脈を併せ持ち、記紀、特に『日本書紀』は強く、大和氏族によって諏訪へ追いやられた神であるとしてある。しかし記紀の言うのはあくまでも大和朝廷を中心にした政治的言辞、修飾であって、必ずしもそうだったとは考えにくい。前に申したように、考古学的に戦争や騒乱で傷つき死んだものの遺骨は広くイズモ地域と筑紫地域でしか出ないのだから、彼らはあるは西を向き埋葬され、あるは鳥を抱いて埋葬されしており、その出身は、筑紫西部の甕棺の埋葬者と同じく、祖先を中国南朝・・・呉・越やそれ以前からの長江文明の・・・いまや中国では少数民族となってしまった人々だっただろう。
葛城の民とは要するに長江のかつての王族であるまいかと思うのである。それが4世紀、一旦は伽耶の鉄をほしいままにした大和の西部の金剛葛城山地に住まう大氏族となって、畿内を左右に分ける位置に繁栄したのだ。
やがて雄略の前後に、大和の先住氏族だった吉備王家や倭王家、和邇王家などとともに大和の中心部を追われて、不幸な時代が久しく続き、その後も分かれた氏族でさえ、新たないくさにも敗れ、広く全国の山間の僻地、奥まった扇状地、山の上へと、それはそれは平家さながら逃げて四散した・・・。
諏訪神社には、そうした影の歴史がまとわりつく。あなたの近くにもし諏訪明神が祭られた神社があるなら、県史や史書を図書館でよくまさぐってみられたい。
おもわぬところで、そこに、かつて勝者だった狗奴国の残照を見出したりするかも知れないではないか。あるいは正反対に、それは邪馬台国の残り香であるのかも知れない。
いずれにせよ、5世紀あたりの出来事で、卑弥呼とはなんら関係もないと思っている時代が、時空を越えて一気にあなたをいざなうかも知れない。すくなくとも、筆者には全国を歩き回った中で、そういう瞬間があった。天啓ともいえる大ヒントは、歩いているときに浮かぶ。だからあなたもあちこちを歩け。だまされたと思って。