現在の桂川渡月橋の堰。これは段差施設だけで、本来の大堰施設ではまったくない。大堰のスケールはもっと巨大で勇壮である。
「京都嵐山を流れている「大堰川(おおいがわ)」は、丹波山地の大悲山付近に源を発する川ですが、嵐山の付近では「大堰川」と呼ばれています。途中でよく名前の変わる川です。水源から亀岡盆地あたりまでは「桂川」、亀岡と京都の間の峡谷は「保津川(ほづがわ)」、渡月橋付近で「大堰川」、そして渡月橋より下流は再び「桂川」と呼ばれています。古くは葛野川と呼ばれていました。大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、(不確定情報を一部削除 Kawakatu)渡来氏族である秦氏が葛野地方に移り住み(5世紀とはまだ断定できていないKawakatu)、この付近で桂川の流れをせき止める大きな堰を築いたためです(せきとめたのではない、本流に支線を作って分水配流したのである)。
秦氏が築いた葛野大堰の原型はすでに失われていますが、今も渡月橋上流の川底には当時の段差があるといいます。桂川の欄干にもたれて、堰の様子を眺めていますと、堰作りに励む秦の氏人の姿が彷彿として浮かび上がってくるようです。彼らが築いたのは堰だけではなく、松尾大社に近い松室遺跡では、約60m幅の川のような大溝が発掘されています。葛野大堰に関連した放水路のような施設だったと推測されています。桂川の右岸はこうした水路を引いて田畑の開拓が大々的に行われました。」http://www.osaka-doukiren.jp/guidance/guidance01/guidance01_01/3774
多くの関連サイトで「葛野大堰 かどのおおい」は、川の中に作られたダムであるかのように書いているが、実際の「堰 せき」は大河の脇から取水するための施設で、川に段差をつけて水流を弱めることも大事だが、河岸の土手によって水流を二股にわけ、それを水路によって分水・配水する施設である。
「堰は川を分水する「魚嘴」、土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という3つの堤防状構造物からなる。」Wiki
中国では堰は「えん」と音読、秦の始皇帝の祖先が築いた巴蜀(四川・始皇帝の故地)の都江堰(とこうえん)などが有名である。
都江堰遠景 導水施設は二股に支流を作り、そこから分水した。これが堰である。段やダムなのではなく、自然の流れに逆らわない導水施設が堰である。
葛野大堰は「秦氏本系帳」に記載があり、それが秦の昭王の築いた都江堰などの偉業にならって造営されたと記録されるらしい。この「秦氏本系帳」逸文は惟宗充亮(これむね・ただすけ)編集の『政事要略』(1002年成立)に引かれている。本系帳とは、『日本後紀』及び『日本三代実録』の編纂時に、畿内各氏族から提出させた氏姓録である。しかし現在まで完全な形で残されたものはほとんどない。秦氏の記録もすべてが引用された逸文である。(惟宗氏はおそらく秦氏関連氏族だろう。別途分析を要する)なお、『新撰姓氏録』は『日本後紀』編纂用の姓氏の本系帳によって作られたようである。
葛野の広隆寺に寄り添うように大酒神社、渡月橋そばには大井神社があるが、これらの社は秦氏が嵯峨野開墾と土地開闢、堰と水路工事などを称えるための社である。
「おおさけ」は一見、松尾の酒の神のように思ってしまうが、酒を持ち込んだ伝承は渡来氏族にはいくらもあり、大酒は後世に、大氏族秦氏の栄誉を持ち上げて付加された名に過ぎないだろう。『延喜式』「神名帳」には「元は大辟神と名づく」とあり、もともとの意味は「洪水の害を辟く」である。「辟く」は現代漢字の「避ける」で「さく」であり、大辟も「おおさけ」と読む。兵庫の「おおさけじんじゃ」は大避神社と表記する。さくとはそもそもは「裂くで」、大地を切り裂くこと。「おおさけ」は各地で転じて「おおさき」となり「口の大きく裂けた狐の神=稲荷神」と変化していった。つまり大崎地名も大辟と同意であるとはすでにここでもずいぶん前に論じている。
都江堰(とこうえん、拼音: Dūjiāngyàn)は、中華人民共和国四川省都江堰市西部の岷江にある古代の水利・灌漑施設である。
「紀元前3世紀、戦国時代の秦国の蜀郡の太守李冰(中国語版)(り ひょう)が、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。
李氷は、春の雪解け水が山々から殺到することで岷江が増水し、岷江の流れが緩やかになり川幅が広くなる地点で周囲に水があふれ出して毎年洪水になると判断した。ダムを造ることが一つの解決策であったが、岷江は奥地の辺境へ軍を送る重要な水路でもあるため、ダムで完全に堰き止める案は採用せず、川の中に堤防を作り水の一部を本流から分け、その水を玉壘山を切り開いた運河を通して、岷江左岸の乾燥した成都盆地へ流すことを提案した。
李氷は昭襄王から銀十万両を与えられ、数万人を動員して工事に着手した。川の中の堤防は、石を詰めた細長い竹かごを川の中に投入して建設され、「杩槎」というテトラポッド状の木枠で固定された。大規模な工事には4年の歳月が費やされた。
岷江から盆地への運河を山を切り開いて建設することは、火薬や爆薬のない当時の技術では困難であった。玉壘山の岩盤を火で温めた後に水で冷ますことを、岩盤に亀裂が入るまで繰り返しながら少しずつ岩山が崩されていった。8年の工事により 20 m 幅の運河が山の中に建設された。李氷は工事の完成を見ることなく没し、息子の李二郎(顕聖二郎真君のモデルともされる)が工事を引き継ぎ完成させた。」Wiki都江堰
これらの出展は『史記』「河渠書」からであろう。
これらの出展は『史記』「河渠書」からであろう。
都江堰の分水配水システム図
葛野大堰もこれに模して造られたはず。
これに関連して岷江の神が青い牛の姿で戦った(『捜神記』17-415、水神の青牛を押さえ込んだ=治水神話 文公の話)とあり、文公も、李冰もまた牛だったともある。蜀の四川の牛は水牛であるから、牛=水の神となったのだろう。そうした伝説は南方系神話には山ほどある。それが広隆寺の摩多羅神(またらじん)牛祭の始まりとなったことは間違いない。摩多羅神は神農であり、後戸の神であるが牛と人とのキメラ=マダラ。(まだらとは色がまざりあった様子で転じてあいの子である。ギリシア神話やインドの神話にはキメラが多い。)で製鉄神、土木の神である。牛祭りで摩多羅神が黒い牛に後ろ向きにまたがる理由は、それが首のない牛であることを示しているからで、それは牛が水神の生贄にされ、首をささげていたからである。氏子から罵声を浴びせられるのは「乱声 らんじょう」が呪言葉(ほめ言葉)だったからだ。これらの派生元は朝鮮よりも四川に求めるべきであろう。要するに中国長江文明人の日本への四散とか、漢帝国滅亡から三国志時代の呉や蜀人民の逃避などと深く関わる観念を、移住した伽耶や新羅や百済、そして日本へとそれぞれ持ち込んだ氏族が秦氏に代表されたと考えるべきである。
(京都人は牛祭を復活させるべきである。それが今の京都を開発した最初の祭りなのだからだ。全国に、開闢神話を今も伝える奇祭は多い。すべて無料でやられている。京都は自分たちのアイデンティティを渡来人によって形成されたことなど考えたくもなく、もうそんな奇怪な祭りはやる気がないようだ。やれば必ず山のような観客が来る。有料ででもやるべきだ。日本最大の奇祭になるだろう。秦氏子孫は金を出すべし!闇の祭祀者とは聞いてあきれるな。金もやる気もないのか?それが千年の都のすることか?今上天皇が退位してお帰りになって住めるほどの文化が残っているのか?どうやねん。悔しかったら牛祭復活させい!!)
都江堰の構造。中央の中州(4)が人工の堤防で、先端の「魚嘴」(2)で川を左右に分水する。左(3)が岷江本流、右(5)が灌江であり、「飛沙堰」(6)で土砂を灌江から排出し、「宝瓶口」(8)から灌江の水を右下の農業用水へと導く
「北から南へと流れる岷江に中洲を造り、西側(金馬河)を岷江本流とし、東側(灌江)を農業用水として活用する。堰は川を分水する「魚嘴」、土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という3つの堤防状構造物からなる。
「北から南へと流れる岷江に中洲を造り、西側(金馬河)を岷江本流とし、東側(灌江)を農業用水として活用する。堰は川を分水する「魚嘴」、土砂を灌江から排出する「飛沙堰」、灌江の水を運河へ導水する「宝瓶口」という3つの堤防状構造物からなる。
このほか川沿いの堤防(金剛堤・人字堤)、付属建築などもある。農地の灌漑・排砂・水運・街への生活用水の供給などを果たす、古代人の知恵を偲ぶことができる構造である。」Wiki都江堰
葛野大堰がどこにあったかは今はわからない。しかし嵐山渡月橋から下った月読神社前の松室中溝町の桂川沿いに松室遺跡(弥生~古墳)が出ていて、壱岐原ノ辻にも匹敵する高等技術製品の鉄製鋤先が出土 。江戸時代まで木製主流だった農具を考えると近畿では最先端の道具だ。
この6世紀のシルト土壌から水路が発見されている。おそらくこれが葛野大堰から分水されて引いていた農業用水路であろうとされている。もっとも、嵯峨野も桂川沿線にはたくさんの水路遺跡が見つかっており、どれが最初の大堰から引かれた水路であるかは特定は難しかろう。松室水路遺跡はこれまでのところ最古の6世紀のものなので、葛野に秦氏が(讃岐や摂津・播磨から5世紀後半までに移住してきて)最初の堰水路だろうとされているわけである。秦氏の渡来は、記紀記録の葛城襲津彦(かづらぎのそつびこ)の記事を正しいとするなら5世紀ごろとされている。これは例の半島南部における伽耶滅亡のための渡来になるので、5世紀前半頃のこととされてはいるが、考古学の発掘からは5世紀後半には秦氏は嵯峨野に入っていると考えてよいだろう(ただし、京都南部の小倉周辺に3世紀弥生時代のオンドル遺跡が出ており、秦氏の渡来をもっと早い時期の、広開土王碑文にある4世紀後半、あるいは深草遺跡のそれ以前に置く意見も存在する Kawaktu)。
深草の弥生時代終盤にもう秦氏が入っているかということでは、秦氏深草関連記事に深草天皇時代に葛野郷家の四隅にあった槻の巨木を倒したら神の祟りがあった話もある『本朝月令』。なお「槻」とは「ゆづき」とも読む。弓月君(ゆんず・ゆづきのきみ)は本系帳では融通王(ゆうづう・おう)に書き換えてあり、編纂当時、讃岐から移住してきた秦公一族が意図的にこれを作り、惟宗氏に書かせたことは間違いあるまい(北原糸子 2006)。
これらの事象を気象学で照らすと、『日本書紀』『続日本紀』などなどがさかんに、崇神~河内王朝時代の、飛鳥の記紀編纂前の池の造営記事を載せており(茨田堤、狭山池など。ほかにも寝屋川改修、宇治橋造営などなど)、河川が氾濫しやすかっただろう2~7世紀の古墳寒冷期の多雨の間に、各地で大堰や橋やため池の造営があったことは正しかろう。
葛野大堰に関してはのちの行基や道昌などが秦氏技術者の手を借りて修復にあたるが、この堰だけは『令集解』でも専門家でも改修困難な施設=秦氏でないと直せないとしてある。
すると少なくとも2世紀の倭国大乱よりも前に、すでに大量の大陸建築技術や製鉄、医療、金属発掘などの技術を持った渡来が起きていたことは否定できないことになるだろう。その中に、すでに秦氏の前哨部隊が含まれていたことも充分考えられるのである。秦氏が葛野だけでなく、深草、豊前などに入っているが、その渡来の時間枠に若干のずれがあったことも考えたほうがいい。豊前の例証では、時間だけでなく、場所も近畿と九州にわけてやってきていることも彼らの地理観や歴史観が深いことが見えてくる。当時、倭国は筑紫と大和が並立した勢力の移行期である。真ん中に東瀬戸内を置いて、東西の緩衝地帯となりながら、独自の前方後円墳を創出している。出雲経由で吉備、摂津、讃岐へと前方後円墳が生まれて育っていったことはすでに書いた。つまりその墳墓形態の行く末と秦氏ら渡来人の足跡は、微妙に時間のずれはあるものの一致するのである。
まとめ
葛野大堰は秦の昭王の治水工事を模範として築かれた。
その時代は6世紀前半。
3世紀から秦氏は来ている?
秦河勝は「川に勝つ」=大辟から作られた伝説の人名。実在かどうかは不明の人。
秦氏の来訪ルートは前方後円墳発生ルートに合致する。
秦氏の氏族名は秦の始皇帝から作られる。
広隆寺牛祭の始まりは大堰建設と葛野開闢伝承を、牛=李氷の堰築造伝承から得たもの。
融通王は平安京に土地を融通したことから造った名前。
このことから王家の影の殖産・金融氏族という意味の「月読」神として、聖徳太子=摂政=影の存在という信仰を松尾に持ち込む。天皇=太陽、太子(秦氏自身も)=月
秦氏は治水・開墾が1番の氏族=不動産王トランプに似るで、機織や養蚕、酒造はあとからのおまけ。氏族礼賛のあとづけ。ばらばらでやってきたこれらの技術をのちに勢力を持つ秦氏がすべて取り込み一括した。ゆえに養蚕や酒伝承で秦氏をあまり深読みせぬがよい。
弓月=月読。弓月とは上弦・下弦の月、あるいは三日月を言う言葉。月=王家の影の存在。蜀の西方に弓月国=三日月王国あり。民族はスキタイ。遊牧騎馬民族。これを故地とし、その血脈を継いだものだったからである。色白く、コーカソイド系であったが、アジア民族と混血した。今で言うカザフスタンあたりであろうか?季節変動で中国江南に入る境目に「三国志」で諸葛亮と戦ったスキタイ・インド系の王国あり。これか?のちに蜀に属し、混血。孔明死して敗北し、四川から長江を下り、四散した中にこれありて、のちに朝鮮半島新羅・伽耶に移住し日本に来たか?あるいは四川からダイレクトに逃避して琉球・薩摩あたりへ逃げたか?そういうのも混じって、のちには逃避地伝聞で集散した場所が基肄郡や豊前か。そこからとは別で伽耶から出雲・吉備もいたか。「秦」はそれらの総称となったことは間違いなし。民族と階級の坩堝氏族。
深草・葛野・豊前の順番でばらばらに来訪か?
秦氏のこの土壌改革が今の京野菜をはぐくむ。京野菜の産地はほとんどが京都市北部である。
秦氏は日本の首都京都を創った人々。その景色の大元は蜀・四川にあった。
言い換えると京都は日本人の故郷というのは昭和時代の旅ブーム雑誌の作り事である。日本人の故郷はむしろ奈良や博多。もっと古く縄文日本ならそれは青森や苫小牧や沖縄だったと思うほうがいい。いずれにせよ民族=レースはひとつ。アフリカ。やれ中国人や朝鮮人の血は受け継いでいないなどというのは、感情的な好き嫌いの話。全部人類はチンパンジーの枝分かれで同一。民族主義などは不勉強な古代人の妄想。
弓月君伝承は基肄郡の紀氏と関連可能。ここに大崎八幡宮と姫社がある。紀氏のスサノヲ始祖伝承は豊前秦氏のスサノヲ子孫自称とつながる。スサノヲが一旦新羅へ行って出雲に入ったというのは、伽耶王となった葛城氏伝承とつながる。そして紀州和歌山に木々の種をまいたその息子というのが紀氏であろう。葛城氏と紀氏は同族。
参考文献 北原糸子『日本災害史』