大和で前方後円墳型の墳墓が生まれた理由を考えるとき、大和盆地の東西に位置する代表的な山のことは忘れてはなるまい。
纒向から見て真西には二上山があり、真東には三輪山がある。
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卑弥呼の宮殿ラインの傾きを 推理する そして、.. ニギハヤヒ命のご陵を発見する!サイトよりhttp://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/makimuku_kyuden/kyuden_line.htm
特に大和の日没は二上山に沈む。人を葬るという観念と、西=日没=黄泉という思想が古代人にはあったことは、土井ヶ浜の渡来して戦死したらしき人々の遺骨の向きがすべて西を向いていたことからも理解しやすかろうと思う。
そればかりか記紀神話でも、ヤマトタケルの霊魂は白鳥になって西へ向かったとされており、大和の古代人にとって、二上山は魂の向かう、あるべき場所だったのか知れない。
このすばらしい二上山の日没画像をごらんいただこう。
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奈良の見学は、もう人生で何度もあったが、いつもその帰路は夕闇に包まれたものだった。とほうにくれるほど、昔の大和には宿も少なく、駅は遠い。わずか我が家があった京都に戻るのに、常に、こういう真っ赤な夕陽の沈むのを見ながらの、日没との競争感覚にさせられたものである。
その二上山の頂上は、二股に馬の鞍型である。対面する日が昇る三輪山は紡錘形のコニーデで「馬騎峰 まきみね」の別名があるが、なぜか二上山にはそれはないようだ。馬の鞍型の聖なる山は全国に多い。宇佐八幡の大元山(おもとやま)も馬騎峰の別名があることは拙著にも記した通りである。
二股の山にはそれ以外に「矢筈岳 やはずだけ」などの弓矢の先端の二股になった矢筈を名乗る山も多く、これも各地で聖なる大和なっているケースは多い。
その二上山の頂上の形状は、よくよく見れば初期の前方後円墳を真横から見た形状によく似ている。崇神天皇陵行燈山古墳 あんどんやまこふん、行灯山古墳 天理市柳本町)や景行天皇陵(渋谷向山古墳 しぶたにむかいやまこふん 奈良県天理市渋谷町)などの、後方部が前方部より高く天に向かってはねあがった形状は、まさに二上山のシルエットにそっくりに見える。
前方後円墳には時代によってさまざまに試作品があり、その形状は実は古墳時代を通してすべてが画一的なものではないが、大和の古代人の初期埋葬思想の端緒に、黄泉の方角にあった二上山の形状が影響した可能性はあったかも知れない。
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前方後円墳は最初3世紀末に纒向型として登場するが、それらよりもっと旧くは四国に後方部が細長い柄鏡の柄のような長細いものから始まって、やがて箸墓型に一旦落ち着くかに見えて、実は全盛期にはかなりのバラエティに富む氏族独自の好みが出現してくる。地方に行けば、見かけは大和型であっても、中身は独自の石室、あるいは別区のような祭祀場が突き出したものなどなど、種類が多い。
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行燈山古墳
現在は森になってこんもりしている場合が多く、その形状は判別しにくいが、図面で調べると樹木をどけてしまえばはっきりする。豪族たちの好みはあったには違いないが、それが二上山のような山頂部を切り取ったとすると、その形状には、死者の霊魂は天に近いところに埋葬したいという垂直的な死生観によるものではないか。その証拠として初期古墳が小高い丘陵を削って造られていたことからも裏打ちできる。
大和盆地に限らぬ話だが、多くの日本の盆地は往古は縄文海進で湖だったケースが多い。と申すか、もっと悠久の地質学で考えればそこはそもそも隆起する前は海底のくぼみだったと言える。したがって弥生時代から古墳時代初期まで、盆地の底は湿地帝で人は住めない。干上がってきてやっとせめて墓でもとなってゆくのである。だから盆地の古代人はだいたい丘陵部に住まう。これは縄文時代がまったくそうなっている。
これは松木武彦など、最近の考古学者の言う、住居が墓を見下ろす様式で、盆地都市の特徴である。一方、丘陵都市では墓をさらに高いところに造るものがある。そして平地が住めるようになってもまだ小高い盛り土した墓を造り、まだ「住居が墓を見上げる様式」にこだわる続けるのである。これは地域ややってきた人々の死生観の明確な違いを示している。前方後円墳は明らかに見上げる山を意識した墓である。つまり死者の霊魂、死者の国が自分たちよりも上=天空にあるという死生観である。反対なら、地下にあるとなる。大和の古墳は、当初は見下げるところしか土地がないから盆地の底の、干上がってきた縁に作られている。これは黄泉が下にある考え方と言うよりも、そこしかなかったからそうしてあるのだ。吉備では平地に住居遺跡があり、墓はみな2世紀には高いところにある。これは見上げ型である。大和では、地形的に見下げているが、それは仕方がないことで、やがて高く盛り上げた山形へ変化するから、そもそもは見上げ型思想の人々だったはず。これは大和の、竪穴式石室から横穴式石室へというながれにマッチする。黄泉天上界か地下世界かで言うならば、大和は折衷型で流動的だと言える。松木が言うような、必ずしも黄泉を地下に見ているというわけではない。
すると黄泉の考え方も、人ぞれぞれ、ひとつではなかったことに気づくはずである。
イザナギ神話の黄泉は地下にある。しかし古墳時代には墳丘の最上部に2mばかりの郭を掘り下げて棺は置いてあった。これは記紀神話の黄泉とはあきらかに違う観念である。すなわち8世紀の人の考えていた黄泉の国と、古墳時代の人々の黄泉の国は、違うところにあったわけだ。ということは、いよいよ筆者などは、古墳時代と飛鳥時代に死生観でも断絶があり、異なる種族の世界だったと思えることになるのだ。
神話の黄泉観念が反映されるのは、古墳時代が充実してくる中期に、九州の横穴式石室が大和に入ってからであろう。だからきっと古墳時代でも前期と中期以後ではなんらかの人種的交替劇があったのかも知れない。
阿蘇ピンク石のような赤い石棺を用いた種族は、ではどうだろうか?それはわざわざ熊本の宇土からもちこまれた。ここには蘇我氏と豊ネームがそうだったように、時代的な間隔があいていることがある。わかりやすいのは、推古・竹田陵植山古墳のものは、それまでの継体天皇時代の流れからぽんと100年離れた飛鳥時代に突然復活したりしている。だからこれは時代を追って、ちゃんと見直してみねばならない。例えば
長持山、鑵子塚古墳や峰ヶ塚古墳、兜塚古墳などの被葬者をしっかり推定してみる必要性があるだろう。それがただ継体一族のという「大王の」系列だったからというこれまでの見方ではなく、守屋や聖徳太子や竹田や入鹿のような、暗殺されたり、消されたという呪の観念から与えられたものではないかという検証である。時間がかかる。
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