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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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阿蘇ピンク石石棺再論 その1 植山古墳の二基のピンク石

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阿蘇ピンク石(馬門石)石棺について再論する。
出ている石棺、その他ピンク石製遺物について詳細にやっていこうと思う。


まずは飛鳥の植山古墳から。
推古天皇と竹田皇子の、改葬前の方墳墓である。
東西にそれぞれ石室が設けられ、阿蘇ピンク石製の完全な家型石棺があったのは東側石室、竹田皇子のひつぎだった。しかし、実は実際に発掘した記録を見ると、西側石室にも、阿蘇ピンク石の破片がたくさんあった。それは推古の石棺であるが、それがばらばらになって残存していたらしい。つまり植山古墳は母親も息子も阿蘇の赤い石がひつぎに使われたのである(石野)。

するとピンク石の石棺はひとつ増えることになる。

イメージ 2

植山古墳の阿蘇ピンク石石棺は、ほかのすべての阿蘇石石棺が4~5世紀に、継体大王の親族、関係者であろう墓の中で見つかるのに比べて、60数年も離れた飛鳥時代、蘇我馬子、推古女帝、聖徳太子の時代に存在した、歴史的には異形の石棺になる。なぜ蘇我氏の時代にこれが復活したのかはよくわからぬままだ。

これを分析するためには、継体大王、息長氏、それと親しかったはずの和邇氏の阿蘇石棺を細かく分析するほうがいい。

赤い石である必要、阿蘇からである必要、赤が死者再生の色であること、しかし、そのほかに理由がないのか、それらの共通性を探らねばならない。



今城塚古墳からはピンク石の破片が多数出たわけだが、残念ながら、この墓は信長が山城に使い、墳頂が平坦に削られたし、秀吉の時代には大地震によってすさまじく墳形が崩壊し、陵墓指定もないままほったらかされ、無残なものとなってしまった。だが、ここでは阿蘇ピンク以外に、二上山白石、竜山灰色石の石棺残骸が見つかっていて、都合、三人分の石棺があったと考えられる。赤い石が継体、白い石と灰色石がその息子二人のものではないかと筆者は考えるのが当然だと思うのだが、考古学者はなぜかそうは考えてはいないらしい。

息子の安閑も、宣化も、『百済本記』ではともに父親の死んだときに一緒に死んだとされており、父親以外はいずれも祟るべき死に方をしたと考えてもおかしくない。すると赤い石に葬られたのは息子のどちらかと見てもいい。

イメージ 1
今城塚古墳石棺か?



近江の安閑神社に筆者はだいぶ前に訪問したが、そこが墓であったかどうかは確信がないままだ。石室奥壁らしき一枚石が祭られてはいたが、その線刻画は九州海人族の装飾古墳的なものだった。



飛鳥の植山の二つの石棺は、しかしながら今城塚の筑紫津周辺からはじまる阿蘇ピンク石とは、どうつながるのだろうか?蘇我氏の娘である推古とその子竹田と、継体大王との間に、熊本を通じた何かの共通点はあるのだろうか?


推古は額田部姫という幼名があり、額田部は全国に広がった推古の名代部である。熊本の蘆北国造のいた地域でも、額田部は継体大王時代の靫負を率いた大伴(金村)氏が
磐井の乱ののち衰退していったあとの靫負を率いたとされる。大野巌屋あたりに額田部氏はいたはずである。それが阿蘇ピンク露頭のある宇土に近い。おそらく推古の墓に、最初に赤い石を用いた、その意味はそこだろう。

蘆北は吉備出身の管理者が来ていたと考えていい。例えば江田船山古墳や、井寺古墳は吉備の人であった可能性が高い。吉備には造山というこれまたピンク石が出てくる巨大古墳がある。


続く





次回、どうやって白肩津より北へ運べたか?




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