Quantcast
Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

阿蘇ピンク質問に答えて 熊本の額田部と武内宿禰氏族と磐井

$
0
0
過去の阿蘇ピンク石分析全部


質問がきたので前の記事の追補として書いておく。




熊本の額田部臣と部の記録
「寧楽遺文﹄中巻六一二頁︶ ..... 肥後 宇土. 大宅. 額田部君得万呂、及び戸口糠田部真島」
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%A1%8D%E7%94%B0%E9%83%A8%E8%87%A3%E3%80%80%E5%AF%A7%E6%A5%BD%E9%81%BA%E6%96%87%E3%80%80%E5%AE%87%E5%9C%9F%E3%80%80&aq=-1&oq=&ai=GwqdbOpJQzm87tLAJbPzuA&ts=22263&ei=UTF-8&x=wrt
時代は750年くらいの記事である。
熊本県宇土郷に額田部臣がいて、部民を戸口=その一家のひとりに部民がいたという意味である。

額田部臣の記録は、古くは6世紀後半の出雲地方の岡田山1号墳鉄剣銘文があり、額田部の管理者である。また吉備と安芸にもいた記録がある。

名代部としての額田部が何を各地でなりわいとしたのかはよくわからない。そもそも名代部は靫負や門番などなどの大王の雑用係であり、それを管理したのが額田部臣である。

なおのちの額田王氏族と額田部は異なる。額田王を額田部姫王(『薬師寺縁起』)とした記録もあるがこれは錯綜記事だろう。額田王、あるいは王女は、鏡王、鏡女王の系列で兵庫や近江の出自だろうとされており、苗字は地名をいただいた改名である。一方、額田部及び額田臣は、推古女帝の豊浦宮での名代部であり、由来は豊浦=飛鳥の地名であろうと思える。ただし大和飛鳥の額田の地名を鏡王がもらったという可能性はある。

なお、蘇我氏時代の大王に「豊」のつくのは「飛鳥の」という意味があり、豊浦は当時の飛鳥の代表的な土地だったと言える。なぜ内陸の飛鳥に海岸の意味の浦があったかというと、おそらく甘樫丘に連なる河岸段丘の西側が大和川・飛鳥川支流が流れているためか?

蘇我氏と熊本の曽我神社
益城郡だったと思える熊本市南部に小島阿蘇神社があり、その入り口に曽我廟があるとファンからうかがった。曽我神社とはそもそもは曽我十郎・五郎を関係氏族が中世くらいに祭ったもので、直接大和の蘇我氏とは関係がない。ただ、ここが新しく改装されたおりに、再建関係者だった石川さんらしき人が「石川氏」なる石碑を建てた。曽我と蘇我氏との、なにかの関与を感じてのこととは思う。ここは、近くを白川が流れ、もとは阿蘇國造氏の居館「浜の浦」があったところになる。阿蘇國造神社のある阿蘇地域から、国造家はここへ移動した記録がある。

その阿蘇国造氏であるが、阿蘇に入ったのは持統天皇時代は確実で、推古女帝時代の記録はない。しかし、阿蘇氏そのものが吉備に関わる下道氏と関係していた可能性はある。多氏の孫神を祖として、それとなく神ヤイ耳命との血縁を言うけれど、実際は派遣されて同化するための算段だったろう。そもそもの在地阿蘇氏は草部吉見系が祭る兄の彦ヤイ耳だった可能性はある。詳細不明。

ここで考えるべきなのは、多氏、吉備、そして紀氏の武内宿祢系譜との関係ではないか。かつて雄略時代には筑紫北部は大伴氏がしきっていた。しかし、彼の在地氏族管理は鷹揚で、厳しくない。というよりも、河内王朝時代までは、筑紫は大和。河内にとって別格で、ほとんど放置していた可能性が高い。そもそも、大伴金村らは、筑紫の直接の管理を、特に筑後・肥前・肥後全域を吉備の下道氏に依拠してたようである。その証拠は5世紀前後の肥後の古墳に、吉備弧帯文由来の直弧文が他出し、石棺の様式が在地のものとは違う形式が登場、石室も大和的な密封型と、九州の石屋形、横口、組み合わせ式石棺も用いないくりぬき型船形→長持形石棺が置かれたからである。この折衷型石棺と直弧文の×、あるいは石人・石馬が消える(岩戸山造営以後)と装飾古墳が増える。壁画で石人やらを代用するよういなった。その契機が磐井の乱である。筑紫は敗北し、大和がここで一気に九州を朝廷傘下に押し込めて言ったと思える。

その流れは、雄略から継体時代に朝鮮半島情勢が悪化し、百済が大和に援助を求めるようになったことがあり、継体以後の時代には、多くの半島への軍隊が筑紫に入るようになる。こうした状況で、筑紫君磐井は不満を持つことになった。

さてこの磐井を肥君磐井とする記録があると歴史学者は言う。筑紫ならその地域は福岡県のかつての奴国や伊都国の玄界灘沿岸のはずだが、磐井の本拠は筑後、つまり有明海沿岸だからだ。筑紫と肥後・肥前の中央土地勘の錯綜もあろうが、実は玄界灘地域に筑紫君が登場する記録は、あとの時代で名前は肥君猪手(ひのきみ・いで)などである。つまり歴史学者は、磐井敗北後、筑紫は「乱を裏切った肥君、豊後氏などに分与されたと考えるのである。その管理をまかせたのは物部あらかいであろう。

物部氏はしかしのちに飛鳥で蘇我氏と聖徳太子によって反仏教勢力として天誅されてしまい、氏族としては河内の本拠地は奪われ、大和も天理市の石上を残してすべて没収。首領物部守屋の霊魂は西成のかささぎ神社から四天王寺に押し込められ、赤い阿蘇の石棺で厳重に封じ込まれたのである。この阿蘇ピンクの蓋らしき石は今も四天王寺に存在する。

水野正好ら史学者は、岩戸山も磐井の墓ではなく、中央から派遣された知事クラスだったのかも知れないと考える。例えば磐井の墓ならばそこから阿蘇ピンク石石棺が出ていいはずだ・・・。継体の今城塚古墳は、その時代にはすたれたはずの、墳頂に山ほどの円筒埴輪を置き、別区にはこれまた山ほどの埴輪が置かれていて、それは纒向や吉備のやりかたが復活したと言える。その頃の古墳は隣のやや古い大田茶臼山古墳では皆無である。そして岩戸山には石人と埴輪が同居し、形状も今城塚古墳と相似形であることから、これは吉備系下道臣の墓ではないか?と言うのである。ちなみに筆者は磐井の墓には直弧文があるはずで、石人山古墳周辺と見る。あるいは豊前のどこかかも知れないが。

磐井は最初、どうも大伴氏、物部氏、北関東の上毛野氏らととおに継体を担ぎ上げ、早くから葛城あたりに潜ませていた可能性がある。それは鈴がついた鏡が筑後でもみつかること、蛇行鉄剣や、舞踏する人々を描いた画紋帯神獣鏡など継体の下賜品らしき品が出るからだ。森田克行や和田晴伍などの阿蘇ピンク石棺大王の棺の高木恭二と親しい大和の学者たちも、これを示唆する(『継体天皇の時代』徹底討論今城塚古墳) 

つまり磐井は海外貿易による古い既得権益を、ともに担ぎ上げたはずの継体大王に、琵琶湖~出雲ルートによる直接交易によって侵害されたのではないかと筆者は考えた。出雲国譲りとはこのときの話ではないかと。

鈴鏡は和歌山の大谷古墳でも見つかった。そこは紀氏の本拠地である紀ノ川河口部である。つまり紀氏も、海運氏族で、磐井討伐で肥前に入った可能性がある、紀氏は葛城氏、蘇我氏同様の武内宿祢の後裔氏族だ。それが肥前佐賀県の有明海沿岸で、山下影姫という宿祢の嫁の神社を祭ってきた。彼らも継体時代まで、大和の中心選手である。和邇もそうだし、葛城、吉備、物部、大伴と、雄略時代までの伴の豪族がみな、欽明が即位したあとにどんどん身分を低くされている。つまり継体・安閑・宣化親子までは河内王朝の氏族がまだ残存存続して有力なのに、欽明と蘇我氏になったとたんに消えて行き、前方後円墳は縮小され方墳になってしまう。推古の墓はすでに完全に方墳である。しかしピンク石だけは復活した?高木は考える。そもそも仁徳~継体までの石棺は全部赤いのではないか?それらはしかし発掘ができないものばかりだ。今城塚はたまたま寮母指定されなかった。理由は墳形もとどめぬ「荒ら墓」だったからだ。なんと運のいい。石野博信が吉備の造山をあるきまわってこれも運よく、阿蘇石を見つけている。カーブのある、ふたの一部らしきピンク石だったという。今城塚は盗掘や、さらに崩壊にじょうじて時代の権力者らが勝手に石棺を壊して橋にしていたらしい(前記事画像)。

もし飛鳥以前までの大王がみな阿蘇の赤い石を求めたとするとその理由は、直弧文に見られる封じ込めよりも、赤色の持つ生命力へのあこがれを、吉備の氏族たちから知らされて本当に再生願望してとりよせたのだろう。しかし雄略から継体以後、その意味は死者霊魂の封じ込め(そもそも大和の竪穴式石室も、家型石棺も、完封思想に満ちたつくりだ)のために曽我氏を殺した人々によって取り寄せられた可能性があるだろう。

直弧文も家型石棺も竪穴式もそうだった。大和では九州型横穴式石室が取り入られても、竪穴式の石槨石積み密封型を存続し、九州のような開放的な死床、石屋形、動かせるとびらは採用しない。家型石棺のすべては蓋にちゃんと段があって、身からうごかないような細工をしてある。阿蘇の氏族にそうさせたのである。

その前身としての舟形石棺が滋賀県にある。高島市の稲荷山古墳だ。二上山白石製品だが、なぜか九州的な後期舟形石棺で、ちゃんと家型同様の段差がある。この被葬者は安曇川地名の安曇に関与し、そこを牛耳って、対岸の息長氏と手を結んだ人。継体の祖先とされる人物である。おそらく福井の三尾、あるいは坂田の息長、三上の和邇・息長か?





さて、息長氏がついに登場した。継体の父方であり、神功皇后の子孫である。次回ご期待。


参考文献
高槻市教育委員会編集『継体大王の時代』2008
澤宮 優『1000キロの海を渡った「大王の棺」』2008
石野信博『楽しい考古学』その他
高木恭二 大王の棺関係



なお、阿曽氏はもと宇治氏である。系図を見るとそうなっている。京都の宇治は、もとの紀伊郡で、紀氏の所領地を地名にしてある。うじにはもと兎道が使われ、道主命とは大伴氏の氏神だ。
それはすべて九州ゆかりの河内王朝氏族だったと言える。





Viewing all articles
Browse latest Browse all 1881

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>