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Channel: 民族学伝承ひろいあげ辞典
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縄文人はどこへでも行けた・近畿の亀ヶ岡式土偶、鹿児島の縄文土器

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筆者かねてから、日本人は縄文時代から海をはるかに渡れていたを座右の銘としている。最近、広く時代を越えて、「時代区分を乗り越える考古学」の石野博信の「ひょうごの遺跡をめぐる」を読んでいたら、まさに奈良県や兵庫県から出た縄文土偶を、彼は実際に見たのだと書いていた。彼はほかの本にも同様のことを重ねて書いている。宮城県出身の石野ゆえに、近畿の研究室にそれを見たときは「誰か東北から研究者が来たのか?」と驚くほどに、それらは東北縄文のものにそっくりだったらしい。

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奈良県橿原遺跡出土縄文土偶の腕




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兵庫県神戸市篠原遺跡出土土偶の一部分①②、及び鹿児島県東市来町市ノ原遺跡出土縄文土器断片



大和、近畿地方が弥生人が入ったときに、すでに縄文人が先住していたらしきことは、記紀などでもニギハヤヒの舅が縄文的な体躯のナガスネヒコだったことでも、うすうす想像は可能である。土ぐもなどという原住民も、どこかしら縄文的異人種として記紀は書いている。しかし驚くのははるか南の鹿児島にも東北縄文人は行ったらしい。


すでに黒曜石のやじりなんぞは隠岐や八丈島あたりのものが全国的に見つかるわけで、縄文土器もかなり広範囲で全国へ持ち込まれていたらしい。さらにこれは近畿の縄文土器が八丈島へ持ち込まれてもいた。下図

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縄文人の好奇心と行動力は弥生以降の倭人たちをはるかに凌駕して動いている。近畿の兵庫や和歌山から八丈島へは黒潮で、どうにかいけるとは思うが、ではどうやって帰るのか、また八丈島からはどうやって近畿へ行ったのかは長年謎であった。しかし海流について現代の漁師たちに聞くと、こともなげに「戻る親潮があるんだ」と言うので驚かされる。


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潮目時をちゃんと知っていれば、戻り海流がある場所が、ちゃんと伊豆諸島にはあるらしい。ある島まで行って、時期を待てば簡単に数日で近畿へ行けるらしい。それも手漕ぎの丸太舟である。http://agehama.com/process.shtml

日本の縄文時代の舟の遺物はかなり発見されている。数件ではない数が出ている。しかし、これまでは「まさか」の類の研究として、その舟にアウトリガーや双胴舟(二艘の丸木舟を丸太でつないだ舟)がついていたかどうか、意識して研究しておらず、記録がない。ついていたとしてもただの長い木材だから舟の一部だとは思われなかっただろう。

小林近畿考古学のころは、九州や海人的な遺物をなぜかは知らぬが決して認めず、舟の形の石棺や木棺、まして千葉あたりで多い船そのものに遺体を入れた洞窟埋葬など、関東考古学の発見を押し込めてきた歴史があった。それはやはり戦後日本の歴史学世界に、近畿を中心として、旧い大和至上主義というか、それを裏打ちする記紀中心の歴史解釈が残存していたためだろう。簡単に言えば右の思想が近畿の権威的歴史学・考古学には長く居残ってしまったという・・・まあ奈良県は今でも右よりなのだから学者も県内で叩かれたくないというような?あってもしかたない時代である。


しかし、考古学の発見はうそやごまかしがきかず、権威が亡くなると、舟関連の遺物が続々報告され始めた。「かせ」がなくなったからそうなったというのは、いささか「だから考古学は・・・」になりかねない悪習ではないか?


旧い遺物には、近畿からよそへ広がったものも確かに多いが、それは弥生後半や古墳時代の準構造船が必要であり、それにしてはありえない遠くのものが縄文時代に遠くの地域で見つかることだけでも、あって当然の必然だったわけだ。人間は権威につく。そうしないと世界から消される時代もあった。それが日本ではつい最近まで続いてしまった・・・そういうことなのだろう。しかし結果として、それは日本の考古学の信頼性、科学性を疑われる結果を導いてしまったわけで、罪は重い。


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以前、アメリカ大陸の南北で縄文土器にそっくりな模様の土器が出る話を書いた。けれどこれもある権威的考古学者が全面否定してことで、日本では相手にされなくなった事例がある。しかし石野は、それは毎度の渡航ではないにしても、偶然、たどり着くことがなかったとは言えないと、なかなか頼もしいことを書いている。そうなのだ、原始古代に国境も県境もない。海さえあれば人は渡れた。そうでなければ琉球列島にたどり着いた港川人はいないことになってしまう。しかしご存知のように、本土ではほとんど出ない先土器時代人の遺骨が沖縄の離島でたくさん出る。本土では二例ほどあったが、どさくさで肝心の遺骨が消えてしまった。これまでに、実は春成らが発見した「オーパーツ」がいくつかあることを筆者も知らずにいた。7万年も前の地層から「これが板でないと言うのなら、すべての板は板ではない」と考古学者に言わしめた木片などが見つかっているらしい。旧石器時代の瀬戸内技法で割られたサヌカイトのナイフが東北の山形の越中山K遺跡で見つかってもいる。板のほうは結論が出せないままである。あとの時代に誰かが深く埋めたものかも知れないが・・・。





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弥生時代の渡来が、そのほとんどを大陸の政治情勢や、それを引き起こす環境変化で、しかたなくやってきた逃避だったことを思うと、縄文人の移動は純粋に好奇心の賜物で、まことに畏れ入ってしまう。三内丸山から中国の製品が出たり、縄文時代の壷に中国で生まれた竜の絵が描いてあったり。まったく縄文人おそるべしである。

アウトリガーボートで、沖縄海洋博に漕いできたボルネオの人々、小笠原諸島に石の棒を残して消えたマリアナ諸島の人々・・・まったくねえ。すごいね。
















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