この説には実は「?」マークはいらない気がする。
間違いなく前方後円墳は、吉備や讃岐・阿波よりも、兵庫県南部の播磨で始まっているようである。
かつてこのブログは、関東地方考古学が前方後方墳のさきがけが、弥生時代の方形周溝墓のブリッジが切り離されたときからだという説を紹介した。
2010年5月 誰でも納得!前方後円墳誕生試論1
弥生時代後半に全国に大量に増える墳墓様式には方形周溝墓、円形周溝墓があり、それらは周囲を堀がめぐる、ミニ前方後円墳である。
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周溝墓の架け橋部分があったのが、やがて切り離される。
そして九州からの時代の流れであったヒエラルキー思想が全国にも流布し、突然巨大化したという流れである。
しかしこれは前方後方墳の話が主であった。
ところが播磨では、最初方形周溝墓よりも円形周溝墓のほうが主力で、それは全国的には珍しい現象であった。
播磨の初期古墳は円形周溝墓から始まっている。
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たつの教育委員会・岸本道昭作成
播磨には日本海からの旧い交通路があって、出雲の土器などがよく入っており、出雲や出石にも播磨の土器が流れているという。すると普通はどちらも方墳あるいは四隅突出型墳丘墓なのだから四角い墓が播磨にも多くなるはずだが、なぜか播磨だけは丸い墓が多い地域が多かった(四角い地域もある)。おとなりの吉備の影響もあったはずだが、弧帯文や吉備式の円筒埴輪などは増えていない。それらは四国経由で近畿に入ったらしい。ということは吉備や四国や摂津、河内とは若干違った文化圏だったのが播磨。しかし河内からは多くの土器や人が入ってもいる。要するに近畿・東瀬戸内の「変わり者」的な、捨てがたい存在として播磨文化圏は古代人に認識されていたということだろう。
高句麗や新羅の影響、公孫氏の影響、日本海・吉備の影響・・・などなどがないまぜになって独特の文化圏や考え方を持っていた可能性がある。
そんな播磨で円形周溝墓から前方後円墳への変遷が、邪馬台国時代にすでに起きており、それは箸墓よりも旧い年代の出来事なのである。大和や河内がこの墳墓形式の影響を受けた可能性が高い。そして面白いのは、それが山城方面へいち早く流れていた気配があるのだ。筆者はこの影に秦氏、土師氏、壱岐氏などの京都選択があった気がしている。