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環濠はなぜ掘られたか異論

奈良県の唐古・鍵遺跡には、直線に近い長い環濠が、時代を追って掘られてゆき、一番多いときには九重もの堀が掘られたことがわかっている。そしてこの集落が消える前には、その堀は埋められていた。そして次にすぐ4キロほど南に登場した新しい時代の遺跡である纒向遺跡にはまったく環濠はなくなっていた。

このなぞは、これまで諸説が出されてきた。魏志の言うような倭国の乱があったり、狗奴国と邪馬台国の争いが起きたために、そのつど掘られたり、埋められたりしたのだ。高地性集落の登場も、そうした争いのせいだろう・・・。とく聴く説だ。

しかし別の考え方もある。岡山を掘ってきた松木武彦は、吉備の集落は低い場所にあり、墓は高い台地にある。吉備の環濠は集落より低いところにある。一方、纒向を掘った石野b博信は、大和の集落は高いところにあって、墓が低いところにある。これは、山地から降りてくる河川の氾濫がそうさせた。だから唐古・鍵の東側、三輪山の山地の麓に縦に幾重にも掘られた環濠は、川の氾濫を食い止める意味もあったのではなかったか?という異論である。


高地性集落は、一時的な避難場所ではなく、ほとんど山城に近い長期的移住地で、しかも稲作までそこでやっていた。それは時代を追って、長い期間、全国的に広がりを見せている。ということは、ある地域、瀬戸内海沿岸部などに決まったものではない。ならばそれは一時的戦闘態勢ではなかったかも知れず、Kawakatuなどはやはり環濠同様に、気候変動が長い多雨をもたらしたときの長期的避難場所の可能性もあったのかとも考える必要があると感じている。もちろんまだ仮説に過ぎぬが。急激な寒冷化があるなら温暖化もあったはずだから、あとの時代の朝鮮式山城などもそういった視点は忘れないほうがいいだろう。


もちろん九州の筑紫野をぐるっととりかこんだ天智天皇の防御の砦や水城、あるいは元寇の際の防塁はそれにはあてはまらない、あきらかな外敵防御壁である。




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