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筑紫次郎の氾濫と高木神と朝倉橘広庭宮の因果関係

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朝倉市、日田市、筑後川沿線地域のこのたびの大水害にまず哀悼の意を。





筑紫次郎とは筑後川の別名である。
日本三大暴れ川として、坂東太郎=利根川、筑紫次郎=筑後川、四国三郎=吉野川が代表で上げられている。ただし「本朝俗諺志」(延享3年 1746)では日本三大河川として坂東太郎、四国二郎、筑紫三郎としてあり、「和訓栞」「回国雑記標注」などにもこの記述が引用。
しかし明治7年、文部省発行の地誌教科書「日本地誌略」には、吉野川を四国三郎としてある。

しっかりと認識しておくべきは、古くはこれらの川が「暴れ川」としてではなく、三大河川であるとされていることである。どこにも暴れ川とは書いてはいなかった。つまり明治までの日本人の乏しい地理認識の中で、この三つの川は、単に日本で大きな河川であるという認識であったということで、実際に最大の河川である信濃川その他の大きな川が、まだ認識としては薄い時代だったということは忘れてはならない。

そしてこの三つの川が、なぜ大きな川であるとされたかの理由こそが、おそらく大きさよりも水害情報にあったがゆえに、有名になっていたのであり、それがこの川たちを三大暴れ川にしていくのだろうという歴史的推測である。


「本朝俗諺志」その他の書物の頃に、三つの川は、その災害の大きさ、多さゆえにこそ、単に大きい川だともされていたわけだろう。西日本、そして東はせいぜいが関東までの情報が中心だった時代の、当時の地理知識であったということである。


さて、当時、まずは大きな川と言えば、江戸の人にとってはやはり最も身近にあった利根川であった。暴れ川としてまずはこれが坂東太郎と呼ばれ始める。そのため、鎌倉幕府以前から何度もの利根川河川事業が重ねられてきた。最終的に今の霞ヶ浦へと導くのは1662年(寛文2年)の水戸藩の最終事業で新利根川が生まれる。それまでは埼玉から江戸湾の荒川と合流していた。「本朝俗諺志」時代の坂東太郎はつまりこの新利根川であったはずだ。しかし、坂東太郎の呼称そのものは、実際には荒川合流時代の奈良時代からあった可能性があるだろう。

「利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは768年神護景雲2年)、鬼怒川筋での流路付け替えである[72]。一方利水については645年大化の改新後施行された班田収授法条里制が利根川流域にも実施されたのが初見であり、群馬県高崎市や太田市、茨城県南部、埼玉県北部にその遺構が確認されている[73]。」


さて、筑後川と徳島の吉野川が加えられたのが江戸時代までのどこかだが、定かではない。いずれにしてもこれらの川はよく氾濫することが全国で知られていたことは間違いない。

もし三大河川として明治政府が上げていたら、さて信濃川が入っていたはずだが、明治政府はおそらくだが三大暴れ川との認識で記録したのではないか?

暴れ川なら、しかし天竜川や木曽川なども入ったはずだが、それはずいぶんあとのことになる。要するに、日本人の地理感覚はその程度だった時代が長かったということだろう。それはつまり、明治時代以前までの日本の為政者たちの地理感覚がそういうものだったということにもなり、列島管理体制、政治体制の全国的規模ではなかったことも言えることになるのだ。


われわれは、まるで奈良時代の律令体制や、鎌倉、室町、江戸、明治と続いた幕藩体制が、日本全域をしっかりと把握してきたような錯覚を持っている。しかし、実際には幕藩体制は所詮、各藩の為政におまかせ体制で、ついこのあいだまで、ばらばらだったわけである。昭和の、戦後になって、やっと、今のような政府による地理の把握は完成したのであり、日本が日本のことのほとんどを知ることになったという認識は大切である。日本は現在のような西欧に匹敵する科学や政治力をもてるようになったのは、戦後からなのである。それまでの日本は、世界から見ればずっと三等国家、開発途上国家だった思うほうが、つまらないナショナリズムに染まらずに真摯に日本を知ることにつながる。



筑紫次郎が大暴れしている。
往古から、暴れ川である。
無数の支流を持つこの九州随一の長い川は、英彦山、由布山などを源流とし、有明海へ流れ出る。有明のあの広大な遠浅の海は、この川を中心とするいくつかの河川が流出する土石流によって形成されてきたといえる。

ひとたび大雨が降ると、常に氾濫し、流域の人々を苦しめた。

さて、朝倉には斉明天皇と中大兄皇子の百済援助行動の際に、橘朝倉広庭宮が建てられたと『日本書紀』は言う。今回の大氾濫が、その痕跡をあらわにさせたのではないかと期待しているが、半面で、さて、本当に斉明女帝は朝倉に行宮を作ったのか、はなはだ疑問視もしている。なぜなら、筑後川は有明海に注ぎ、朝鮮半島には直接対面していない川だからだ。白村江の戦いに赴くのに、なぜ筑後川の、しかも河口から程遠い3間僻地に仮宮を造るのかが以前から不思議である。


朝倉と言うと高木信仰のメッカでもあり、筑後川の源流のひとつとなる英彦山の、英彦山神宮では、祭神タカミムスビ、主祭神天忍穂耳尊とは別に高木の神が祭られる。高木の神とは、『日本書紀』神話で登場するタカミムスビの別名であるが、要するに元を中華の江南方面にあった神樹思想、世界的に広がる高木思想をわが国に持ち込んだものだと言って良かろう。というよりも、先土器、縄文の昔から、日本民族も世界の民族も、共通して高木に天上界を見ていたと言える。『日本書紀』はそれを日本人の造化の神のひとつに当てたということである。

筑後川上流に玖珠川があり、ここに切り株山という、往古その台形上のメッサ山のてっぺんには巨大なクスノキが立っていて、世界をあまねく覆っていたという伝説がある。つまり筑後川周辺は、『日本書紀』以前から、広く高木信仰を持つ一団がいたということだろう。それが中華と交流可能な船の民らであったろうことは想像出来る。それが船の樹木の伐採に入った朝倉、日田あたりに集中して残存した、と考えてもおかしくはあるまい。

では、斉明天皇がここに宮を置いたと『日本書紀』が書いたわけはなにか?

斉明天皇は、前は皇極女帝である。中大兄の母であり、難波宮を築いて畿内にはじめて中国的律令体制を持ち込もうとした孝徳天皇(軽皇子)とは兄弟。孝徳こそは一巳の変首謀者であると筆者は考えるが、大化の改新そのものも孝徳が難波宮時代のみ開始した政治体系であろう。ゆえにこそ、出土木簡に大化ではない年号が書かれたと思う。つまり大化の改新は、実際には実現しなかった、『日本書紀』が年代を前倒しにした事績だろう。実際に律令体制を成功させるのはそのあとの中大兄~大海人を経た藤原不比等の時代であったはずだ。持統以前の天皇はすべて書き換えられた人々と思える。



朝倉宮は二つある。『日本書紀』で五世紀の雄略天皇に「泊瀬朝倉宮」を建てた記事がすでにある。これは奈良である。つまり朝倉と言う地名には、そういう天皇の宮があってしかるべき意味合いが東西に共通してあったのだ。というよりも雄略自身の出自にゆえんがあっての福岡の朝倉だった可能性も考えられる。それはつまりは河内王家そのものの出自でもあるか?

そのあたりも含めて、今回の氾濫では、日田の銘木日田杉という高木によって、朝倉が壊滅的な打撃を受けているという、筆者にとって、実に感慨深い、ショッキングな出来事なのである。






私事ですが、筆者の住まう大分市は、日田市、筑後川とはまったく反対方向の東部、太平洋方向にあり、ご心配は無用です。ご安心を。
大分市は県都が置かれているとおり、災害の少ない土地であります。巨大な台風も、特記するような大地震も、土石流も、これまで一回も経験していません。そもそも筆者、強い守護霊でも持っているのか、京都時代にあっているはずの阪神淡路大震災のときにはすでに大分に引っ越しており、先の熊本・大分地震でもまったく被害もなく、震度もたいしたことがなかった。どうも強運ありのようです。というようなことを書くと、きっと何かあるのも人生ですが。


























 

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