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古代日本と東アジア交流史 4 4~5世紀 広開土王・金官新金氏・嘉悉王・大吉備王と葛城氏と火の葦北国造と伽耶・任那経営


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265年 魏滅んで司馬氏西晋成立
280年 西晋、呉を完全に滅ぼす
291年 八王の乱起こり西晋の東方統治おろそかに。半島諸国活動活発化
311年 西晋滅亡
313年 高句麗美川王、楽浪・帯方両郡を滅ぼす。二郡の中国人高官らを接収し、反東北部を掌握
    これにより、南部は中国の属国から解放された
337年 遼東の慕容皝、前燕建国

西晋滅亡と混乱の時代(五胡十六国)・・・それは同時に、今度は南部全域が高句麗の圧迫を受けることになるだけだった。そこで韓地域に独立機運が高まった。馬韓地域では五十余国の小国の中で力があった伯済(はくさい)が四世紀半ばに百済となる。東岸辰韓では斯慮(しら)が新羅へ。南岸部弁韓では金官伽耶が力をつけた。しかしいずれも統一とは言いがたく、一強多弱の状況に変わりなかった。

313年、西晋が滅びた翌々年には、美川王がさっそく中国の出先機関を襲い、これをうばった。遼東地域には慕容(ぼよう)氏が勢力を広げつつある。これが高句麗と北部でいがみあいをはじめた。慕容皝が前燕を建国するさいに勢力争いに敗れた冬寿が高句麗へ亡命した。冬寿は高句麗で独自の存在となり、前燕に反駁する一派の受け皿となってしまった。これを受けて前燕は342年、高句麗の首都丸都(がんと)を攻略。先代美川王の墓を暴き、王母・王妃を拉致する。これを見た故国原王は前燕に臣下を自称して滅亡をかろうじて回避しようとする。しかしこの一件があって高句麗の新羅方面への侵略は頓挫。南下方針へと変換し、百済と対峙することになる。

371年、故国原王戦死し、百済は一応勝利。翌年、百済は東晋へ使節派遣し冊封を受ける。これにて百済の朝鮮での地場は固まった。また倭国へは七支刀を贈り、倭国と親和する。

377年 高句麗の南下がおさまり、新羅も華北にあった前秦へ朝貢。
383年 中国で淝水の戦い。五胡十六国の混乱始まる。いわゆる中国に文献のない謎の四世紀である。高句麗の南下はこうした中国の数度のどたばたのたびに起きる。結果的に東晋が勝つ。
391年 高句麗、内政の復活を図り充実させた広開土王が立つ。固有の官位、年号なども作って、国内を律令的国家へ。再び南下政策。百済のたのみで倭国北上。広開土王と対峙する。
396年 高句麗、報復として百済を攻める
広開土王、百済・倭連合に対抗して新羅を「奴客 どきゃく」として軍艦をおしつけ、無理やり同盟臣下に。北方の契丹、粛慎、東扶余を征服。
413年 高句麗長寿王即位




広開土王碑金石文(倭に該当する部分のみ)
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
新羅・百残(百済)はそもそも(わが高句麗国の)属民であり、かつてはむこうから朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■(伽耶か?)・新羅を破り、臣民となしてしまった。Wikiの翻訳では「399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。」となっている。

解説
広開土王碑文そのものが、まず高句麗を称える健勝碑であるから、当然文面は高句麗・広開土王が南の韓へ攻め込む行為を正当化しようという意図で書かれている。そうすると、海を隔てた別の国である倭国にすべての責任や原因を持たせることで、「おまえたち韓を私が攻めた原因は倭人であって、それはおまえたちが倭人の臣民と成り下がったゆえである」と言いたいのである。真実、百済・新羅・伽耶が倭国に支配されていたわけではない・・・というのが日韓の学者たちの判断であるようだ。「高句麗王が新羅の救援願いでしぶしぶ倭と対峙したのだ」と正当化してある解釈である。なお「百残」は百済を見下した表現。




倭国の半島進出の目的は3世紀の頃と変らず伽耶の鉄資源の獲得である。伽耶地域には百済や新羅のような突出する国家はなく、小国割拠。金官伽耶も安羅も小国だった。ゆえに、南岸部に出先機関としての「倭の北岸」的な場所を持つとすれば4世紀~5世紀初頭はうってつけだろう。高句麗と百済・新羅がきな臭い期間であった。どさくさにまぎれて南岸部を掌握しやすい。そのために目の上にある百済と戦略上の結びつきを持てば、倭にとっても恩が売れるから、伽耶の鉄は掌握しやすくなっただろう。なにしろいくさするには鉄がいる。百済も認めぬわけにはいかない。広開土王の南下に対して軍を送ったのは、さて大和か筑紫かとなるが、光州の前方後円墳を見ればそれが筑紫の倭だったことはあきらかである。九州式横穴の石室、ドーム型の石室・・・肥後氏族か?となる。古墳時代前期では、まだ大和は竪穴式石室で、鉄器威信財も少ないから、このときの倭の援軍はまず筑紫勢力。するとその勢力は?それはあとで。

420年 東晋滅亡して宋成立。高句麗と百済・倭の対立はピークに。
宋、高句麗王と百済王に大将軍位。遅れて翌年、倭王へ安東将軍。
大将軍と将軍では歴然として格の違いがあった。大統領と首相の違い。前者は元首であり、後者は朝貢関係である。しかしながら『三国遺事』には、新羅が対高句麗援助の見返りとして、倭に人質(王子未斯欣 みしきん)を贈ったともあり、半島内部での立場は中国が思っていたほどの上下関係にはなっていない。この王子はやがて新羅に逃げ帰ったと『日本書紀』『三国遺事』が伝える。また百済も太子腆支を倭に贈っている。人質とはいっても、この当時の「質」は盟約遵守の証拠であり、上下関係があるからではなかったらしい。

ただ、新羅に対しては、地の利の悪い東岸部の新羅が、裏切るケースも考えたはずで、その見返りと考えた戦略もあっただろう。新羅を百済同盟へ引き込むという作戦もあっただろう。倭王珍はそういった意味で新羅・百済の連合、ひいては統一も倭がなしえますよという含みも持たせて宋へ爵号をねだったのだろう。

しかしこのとき珍は、なぜか伽耶のことは併記していない。韓統一を匂わせるのなら伽耶も併記してしかるべきだろう。もしや伽耶そのものが倭の領土だったからではあるまいか?

4世紀の伽耶(加羅)には金官国があり、王姓は新金氏である。かつて滅びた公孫氏の末裔が日本に公孫淵(こうそんえん、公孫氏最後の盟主。子孫は滅亡後に日本へ亡命したとも)を祭る常世岐姫(とこよきひめ)神社を八尾市に持ったのとは少し違うが新金氏には仏教の大師となった人がいる。真鏡大師である。石碑に「大師は俗姓新金氏、その祖は任那王族」とある。任那王というのがつまり金官王であろう。

八王子社とも。祭祀は公孫淵子孫を名乗る常世連(とこよのむらじ)氏。これはいわゆる筑紫の赤染氏の名乗りである。

染色をなりわいとし、福岡県田川郡香春岳の古宮八幡採銅所に関わる氏族。宇佐の辛嶋氏とともに銅鏡製作、機織、染色に関わった神事氏族で、ともに半島渡来人氏族。福井・香春の敦賀氏も同じ。

※真鏡大師
昌原鳳林寺址真鏡大師塔
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室
Wiki任那より

※金官国の新金氏については諸説ある。いわゆる金官金氏で任那王だった、金海王だというのが主流。新羅王家の金氏とは別族。ただし加羅と任那の地理関係にも諸説ある。

たとえば・・・
「(高句麗広開土王碑)
⑮(永樂)十年庚子〔400〕教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

  (『三国史記』列伝第六 強首)

⑯及太宗大王即位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。

  (真鏡大師宝月凌空塔碑 924年)

⑰大師は諱は審希で、俗姓は新金氏である。その祖先は任那王族で、・・・わが国に投じた。遠祖の興武大王は・・・武略を携えて王室をたすけついに二敵(百済・高句麗)をたいらげた。(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』による)
    ⑮は同時代史料の金石文であり、政治目的があるとはいえ、その内容の信頼性はかなり高い。任那加羅は五十年後に倭王済が宋の皇帝から除授された号「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍」にあり、広開土王碑文にある「任那加羅」が「任那」と「加羅」であることを示している。
   それでは⑯の「任那加良人」はどうなのだろうか。「任那と加良人」では、一人の人間についてのことであるから意味が通らない。任那と加羅は『宋書』によれば、それぞれ一つの国として書かれている。しかし倭王珍の自称を除き、任那と加羅は常にセットであることも忘れてはならない。任那と加羅は地理的にも政治的にも非常に近い関係にあっただけではなく、同族だった可能性も含めて考えなければ「臣本任那加良人」は理解できない。任那と加羅は別の国であるが、非常に近い国、血縁関係にあった国と推測される。
   ⑰は[「任那」について]ですでに述べたとおりである。任那王族とは、始祖首露からの王族のことではなく、仇亥が新羅に投降した後にさらに投降した真鏡大師の先祖のことを指しているのであり、新金氏の先祖が任那王族だといっても、金海金氏も任那王族だったとはいえないのである。したがって田中俊明氏のように、任那を金官国だと言い切ることはできないのであり、この塔碑の碑文からは、任那は「任那」でしかないのである。
   朝鮮史料からいえることは、任那と加羅は別国であっても、血縁関係も考えられる、互いに非常に近い国であり、さらに任那が金官国だと決定づけるものはない、ということである」
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note11.html




5世紀には内陸部の半跛(はへ)国が勢力を持ち、「大加耶」と呼ばれるようになる。479年、加羅国の荷知なる王が南斉に使節を派遣したとあるが、この人は大加耶王の嘉悉(かしつ)であると言われる。「かち」「かしつ」・・・よく似ているが、倭国にも「か」ではじまる大豪族がいる。彼らも四世紀、加耶の鉄採集権益によって倭五王の妃を出す母方氏族になっている。葛城氏である。

さて、倭王は加羅の管理を大吉備氏という豪族に任せていたと『日本書紀』は言う。吉備王一族は葛城氏とともに倭王へ妃を出す氏族で、両者は大和・河内の葛城山周辺で隣り合って住まった氏族。つまり両者ともに倭五王の宰相である。彼らは外交官として加羅・伽耶ばかりでなく倭の筑紫へも管理知事として入っている。具体的には、吉備氏では火葦北国造アリシトはあきらかに吉備の王族の人である。例の宇土の阿蘇ピンク石石棺を近畿に送っただろう氏族だ。その子供が百済高官だった日羅である。





次回、金官滅亡から武寧王誕生まで

 

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