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古代日本と東アジア交流史外伝 吉備・葛城・肥後・出雲・そして諏訪 直弧文は近畿鬼道支配のシンボルか? 


前回、光州栄山江沿岸域の13基ばかり存在する前方後円墳の主について、筑紫つまり九州勢力の墳墓であろうと書いておいたが、章の最後に、それとなく吉備・葛城氏のことを書き添えてもおいた。そして熊本の葦北国造が吉備王由来氏族であることも付け加えた。

つまり、倭五王時代の九州には、吉備・日本海由来の管理者が入っていたというわけだ。『日本書紀』では火葦北国造刑部靫負阿利斯登の子・日羅は大伴金村を「わが君」と呼んで崇拝しているとあり、金村が蘇我氏時代よりかなり前なのに、もう生きていたのかどうかは疑問だが、その時代には要するに『日本書紀』では河内王朝時代に大伴氏が靫負(ゆげい)部の大親分であって、西日本一帯に弓・武芸の集団を率いて管理していたことになっている。

こうしたことから以前もここで、九州の靫負集団はすでに河内王家の支配下に、ある程度はいってしまっていると考えざるを得ないことになると論じた。それを『日本書紀』でなく、現実的な倭王五人に置きなおせば、どうも吉備氏は王の宰相・外交を担う氏族だったとなる。そうすると、河内の巨大古墳に匹敵する全国最大規模の前方後円墳が吉備に二基あることが理解できることになろう。いわばそれほど信頼されていたのが吉備王後裔氏族だったこととなる。倭呉王か、河内王家かわからぬが、いずれにせよ吉備氏が、『日本書紀』の言うとおり伽耶経営を任されていたことは否定しにくい。


このわけはさほど難しくはない。

そもそも倭五王は河内に本拠を置き、そこは当時、古河内湖・古奈良湖が連なる二重潟湖(せきこ)である。大阪湾が深く入り込んだ日本最高の良港。だから彼らもそこを選んだ。その理由は、倭王がそもそも海の氏族で、瀬戸内を輸送路とした交易商人氏族だったからであろう。だから当初は海外への玄関口だった筑紫、有明を通じてすでに存在していた弥生からの貿易港システムに依拠したが、畿内へ向うとき、やはり吉備という歴史ある王族が出雲と丹後を港にして自在に半島伽耶と通交していることを重視し、血縁関係を結ぶことになったわけである。

纏向遺跡以前から、四国の讃岐や河内湾には吉備系土器が来ており、大和のフル式土器の基礎がそれだったと考古学では言われている。
吉備氏は弥生時代から近畿にいたのだ。


つまり、王家の貿易・外交の主力コースが近畿から遠回りな筑紫よりも、身近な吉備~出雲に切り替わったということになる。それはすなわち同時に筑紫の低迷を導いてしまっただろう。

しかも、その後、天武天皇以前から、信濃という内陸部の小国が、高句麗をメインに外交をしていた情報も入った。高句麗系積石塚を擁する松本平・安曇野には、安曇連というそもそもは日本海・玄界灘を又にかけた海人の長がいた。すでに弥生時代の根塚遺跡からは渦巻き紋装飾付鉄剣など、半島の遺物が多く出る。畦地遺跡では伽耶系耳飾が出る。信濃は北陸へ出るよい中継地であり、北陸からは新羅系垂飾耳飾などが出る。要するに古墳時代の国内把握は多元的で、取捨選択がバラエティだったのである。百済の倭人系官僚に「斯那奴 しなの」という人名すら散見できる。

そうした中で、既得権益を巡ってやがて吉備氏は煙たい存在にもなったのだろうか、『日本書紀』雄略天皇が葛城氏とともにこれを滅ぼしてしまう事態も起こり、倭王の衰退も始まったのだろう。しかし、吉備・出雲・諏訪などが優遇されれば、当然、筑紫はだまっていられない。やがて筑紫君磐井の反乱が起こってしまう。

阿蘇ピンク石石棺が、継体の今城塚古墳を最後に一旦ブームが終わるのも、吉備氏由来の葦北国造家が倭王の描くよき臣下の範疇からはずれてしまったからだろう。そしてそれもまた倭王王家衰退の象徴的証拠品となったと言える。絶頂期からまっしぐらに衰退は始まる。それも歴史だ。まるで小池百合子人気の凋落のようである。

葛城氏の遺跡、有名な古墳には、彼らもまた靫負の一角を担った証拠である弓入れの埴輪が出て、そこに直弧文が描かれていた。直弧文は吉備の古墳からも出る。つまり両者は靫負でつながる豪族でもある。

すると、光州の前方後円墳群からももし直弧文や弓矢に関する遺物が出てくれば、それらが葛城や吉備に関わる大伴靫負集団だと証明できるのだが。

直弧文で考えるなら、熊本の阿蘇ピンク石露頭に近い井寺古墳その他の古墳にもそれは描かれている。もし直弧文のデザインが吉備由来の王の紋章であれば、その被葬者は間違いなしの葦北国造一族だとなるだろう。彼らは吉備から倭王によって筑紫・肥後に派遣された人々だ。


直弧文は、そのデザインの前身が吉備・楯築の弧帯文であるとされる。そしてそれより前には3世紀纒向遺跡からよく似た弧文が出ている。これらが真実、同じ流れから変化した神仙思想の象徴なら、それは伽耶や公孫氏燕のあった遼東、帯方郡などで出てきてもおかしくないわけだ。もしそうなったとき、これは九州王朝を主張する人々には青天の霹靂になりかねない。なぜなら3世紀、すでに九州は近畿の支配下に入っていたあかしになるからである。


魏志倭人伝は卑弥呼の政治が鬼道を用いて民衆を惑わせていると書く。同じ鬼道を遼東の黄巾党も使ったという。それが同じものかどうかはわからねど、漢字にうるさい中国が同じ文字で表現したものなら、少なくとも似た信仰形態だったはず。それは公孫氏燕も利用した。ならばそれは卑弥呼と同時代の観念であろう。その象徴が纒向の弧文円盤だったのか?やがて公孫氏を通じて神仙思想の象徴は神獣鏡へと変化する。それは公孫氏が一時的に呉王と親密だったからではないか?神獣鏡もまた、筑紫の象徴的鏡だったことはない。

磐井の乱によって、筑紫の残照的権威・権力は歴史から消える。筑紫は衰亡し、迎賓館としての役目になってしまう。しかし、平安末期まで、実質、輸入品の既得権益は筑紫があらかた持っている。ために平安時代は衰亡し、武家集団平家が登場するのである。そのまま時代は武家社会の中世へまっしぐら。応仁の乱の混乱を招くと、政治の中枢は東へ動く。再び寒冷期は訪れて世は信長たちの群雄割拠へ・・・



筑紫の衰亡は、日本全土を変えるきっかけになったのである。磐井の乱はそれほどの歴史的敗北だったと筆者は言いたい。そこに2世紀までの筑紫の栄光を垣間見る思いがする。




おまけ
崇神天皇四道将軍のうち大彦命は北陸道を平定して、会津で、東海道を平定したタケヌナ河と出合うとあるが、出雲の特徴的弥生墳墓である四隅突出型墳丘墓は、まさに出雲から北陸道を経て会津に到達して消えている。『日本書紀』神話から歴史は出雲を重視してきたが、実は四隅突出型墳丘墓の始まったのは広島県の三次からであり、日本海岸部出雲へはあとで伝わるし、それは彼らイズモ集団が、まず広島に定着して墓を持ち、出雲へと出て行ったとなるだろう。そして出雲を大和よりも先に良港として半島交易を開始していたのは筑紫と吉備なのだ。その証拠は出雲に九州式横口式石棺、吉備の楯築の特殊器台が出るなどで確実。すなわち、神話のように大和が出雲を掌握するのは継体天皇時代くらいだったのである。遺跡や古墳や半島系遺物でも、実は丹後や北陸のほうが充実したものが出る。出雲を代表する弥生遺物は銅剣・銅鐸であり、鉄器がない。つまり古墳時代までは、出雲はまだ先進地帯ではないのではあるまいか?



















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