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気象と疫病 聖武遷都・大仏建立と光明子疫病に聖徳太子創作す

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聖武天皇の御世は、実に疫病が多かった。
その理由は大陸での気候風土の一時的悪化、それに伴う渡来人が持ち込んだ病原菌にあったことは間違いない。というのも、当時の日本列島の気候はまずまずで、そこには直積的な原因があったふうには見えないからだ。

『日本書紀』には数度の日照り記事、疫病記事、天然痘記事、その結果による藤原四兄弟の不審な連続死や皇后光明子の数度の不予(やまいがおもわしくない)記事があり、はたまたやたらに仏教関連施設や薬典・医院の建設、聖武の数度もの遷都、藤橘両家の政権対立によおる宮中内乱、はては東大寺大仏建立や宇佐八幡神の国家管理と祭神名変化、そして法隆寺東院伽藍を聖徳太子の居住地とした建設などなどが目白押しに並ぶこととなった。


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これらのすべてが事実であったかどうか知る由もないことだが、少なくとも、気候が異常に温暖化したために、真夏の日照がきびしくコレラや天然痘が蔓延し、農作物は枯れはて、民衆は飢餓と飢饉だったことは確かであろう。またそのために宮中も不穏な空気が漂い、藤原と橘のお家騒動や、藤原四家のつぎつぎの不審死が起きた。それが対立者のよる暗殺であったのは明白ではあるが、『日本書紀』はそれを菅原道真の怨霊のせいにして誤魔化してある。


年表でそれを見てみよう。

724 陸奥国に多賀城を築く
724 長屋王、左大臣。安宿媛が夫人となったのを機に、宮子を大夫人となし、初めて中宮識が設けられる。(→辛巳事件)
725 宇佐神宮一之御殿(比売神=アマテル)を造営
727 聖武に基皇子誕生(→皇后宮:元藤原邸で生むが1歳前に死去)
728 聖武に安積親王誕生(母は県犬養広刀自)。金光明経を諸国に配布
729 長屋王の変(一族滅亡)→武智麻呂、大納言。安宿媛、皇后となる。
729 厭魅呪詛する者は斬首。妖術妖言の書を持つ者は自首せよ
730 日照り、神祇官庁舎に落雷。諸国に盗賊。
730 皇后宮職に施薬院・悲田院をおく。興福寺に五重塔を建てる(皇后臨御)
731 皇后宮(旧不比等邸)の隅に角寺(海竜王寺)を建立
732 日照り
733 各地で飢饉。疫病。橘三千代薨去。皇后不予(不快、病)。興福寺維摩会復興。
733 宇佐神宮二之御殿(応神天皇)を造営。
734 大地震。皇后、法隆寺に施入(長屋王の鎮魂)(~736)
734 興福寺の東金堂に対面する西金堂を造営(母・三千代の弔い)
735 凶作、天然痘流行る。阿倍内親王「法華経」購読
735 吉備真備・玄ら帰国
736 皇后、行信による法華経講読の法会。法隆寺に施入。玄が持ち帰った五千余巻の経論の書写始まる(~749)
737 藤原四兄弟死去(推定疫病死か暗殺死)。皇后、法隆寺に経函四合を奉納
737 玄により宮子覚醒。皇后の館で夫・聖武と姉・宮子が会う
738 橘諸兄、右大臣。藤原房前一周忌に法隆寺に施入
738 阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が異例の女性皇太子として立太子
739 皇后不予(病気)。法隆寺の東院を造らせた(聖徳太子一族の斑鳩宮跡)。
740 藤原広嗣の乱。聖武、関東行幸(恭仁京遷都)
740 「一切経」の書写供養を発願「五月一日経」
740 国ごとに法華経十部を写して七重塔を建てさせる
741 国分寺建立の詔
741 藤原不比等の封戸三千戸を国分寺に施入
742 近江紫香楽に離宮を造営(聖武の大仏造営予定地)
743 橘諸兄左大臣
743 大仏造立の詔 (宇佐神宮が大仏建立費を東大寺に送る)
743 「一切経」の書写供養を発願
744 安積親王薨去(1/11 藤原仲麻呂に毒殺されたという説)
744 『楽毅論』を臨書(書写)。その奥書に「藤三娘」の署名
744 難波京に遷都(天武が双京の都とした地)。
745 平城京に都を復す。玄、筑紫に左遷。天皇不予
747 東大寺大仏鋳造開始。皇后、新薬師寺を建て7仏薬師像を造る。
748 元正太上天皇崩御
749 天皇・皇后、東大寺礼仏。「三宝の奴」の詔
749 聖武→孝謙天皇即位------------------------------------
749 大仏鋳造完成。仲麻呂紫微令(紫微中台長官)
750 吉備真備、築紫に左降
752 大仏開眼供養
753 皇后不予(病気)
756 聖武崩御。夫の死後四十九日に遺品を収めるために正倉院が創設
757 橘諸兄薨去。橘奈良麻呂の変(旧勢力一掃)
758 孝謙→淳仁天皇即位---------------------------------------
759 淳仁の宣命:太保(恵美押勝)は「朕が父」、その子等は「朕が同胞」
760 光明皇后薨去。恵美押勝(仲麻呂)、大師(太政大臣)となる
764 恵美押勝の乱。淳仁→称徳天皇即位。


ご覧の通りである。
道真の怨霊が考え出されてのち、日本にはまさに祟り、怨霊思想が急激に広がり定着してしまうと言っていい。そしてそれは、わが国のやんごとなき世界に、二つの大きな死生観の変化をもたらす。ひとつは大王・天皇家・豪族が殺しあえば祟り神になってしまうので、表面上殺さない、正しく順に引き継がれていったという建前系図、王家は一度も途切れず続いてきたという皇国史観を生み出させ、表面上では、仏法を中心にした三宝への寄依しているという清純潔白な理想主義を産み、ひとつは、主に藤原光明子の、みずからの疾病や兄弟の死による、いわゆる無常観による理想の聖人創作の開始が起きたことである。

彼女が悲田院を造り、薬典をいくつも設けるその影で、夫聖武は、藤原広嗣の筑紫での反乱をきっかけとした数度もの遷都が始まっている。その理由は第一は宮中の政権争いへの厭世観であるが、第二は、やはり飛鳥藤原京での長年の疫病を恐れてのことでもあっただろう。もちろん自身の暗殺も考えたかも知れない。

光明子は特に、天寿国繍帳の作成や上宮法皇帝説の書き換えなど、しきりに聖徳太子の慈悲ある聖人・かさぶた病の浮浪者を看取った話などを、クローズアップし、もしかすると父・不比等の七光りを利して『日本書紀』推古・蘇我氏部分に強引に太子事績を突っ込んだ可能性すら感じられるのである。


















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