「鴨氏の伝承は
「葛城磐余にニニギ子孫とともに入り、やがて山背の二つの川の合流する「石川の清流」に移り、そこは聖なる二股の地であったが、ごろた石の転がるところ」
などという記録になっている。
この記事を書いたときは気がつかなかったことだが、京都の鴨川・高野川合流点(出町柳の河合突堤)あたりの鴨氏関連資料にある「石川の瀬見」であるが、そういえば蘇我氏も場所は違い河内・大和境目の石川を一族の本拠地としている。石川という地名は、ただの石がごろごろした川だけでもなかったかも知れないと考えてみた。
すると思い出したのが、柿本人麻呂の石見自傷歌(じしょうか)にも石川は出てくることだった。島根県西部の石見は、人麻呂が左遷されたところだが、そこで人麻呂は川の水に伏して死んでいたとされてきた。
かつて自著で、人麻呂の遺体は石見でなく、近畿にあると予知したことがあるが、あれは天武の宮中歌人として、あらゆる歴史のうしろがわまで観てしまった人麻呂が、時の権力者によって消された可能性を臭わせたものだった。それはおそらく『日本書紀』編纂に関わったはずの藤原不比等ではないかと・・・。
『日本書紀』完成後、まず何度も言うが、過去の諸豪族の持っていたはずの歴史書はすべて焚書されたはずで、蘇我氏の国紀も帝紀もそうに違いない、ではなぜ物部氏の『先代旧事本紀』だけは残ったか?あるいは20年以上もかけて自国の無名の有志によって編纂された『出雲国風土記』も部分的にではあれほとんど残ったのも奇妙である。出雲の風土記だけは、ほかと違い、地元の意見が充分発揮され、国史に沿っていないのだから。
『日本書紀』は、かなり後世の加筆・修正・潤色書き換えがあったはずであると思う。例えば不比等の娘の光明皇后などは充分にそれが可能であり、それゆえこそ、聖徳太子像も形成された。形成すれば元の『日本書紀』にも太子の実在記事を書き込まねばならなくなる。光明子は聖武の妻なのだから、充分、弟の仲麻呂に書換えさせることは可能ではなかったか?
その仲麻呂にしても、祖父不比等の作ったといわれる大宝律令~養老律令の改変、または強制的に不完全な養老を成立使用させた張本人である。不完全な法律を無理やり施行してしまった。
結局、のちの彼らの権力も凋落し、同族犬養の血を引く橘一族によって押し込められ行くが、ここでも『日本書紀』改変・加筆は可能だろう。一書とはそういうところもあるのかと思える。
一書は、諸豪族の有力伝承や記録を、不都合ない限り、いくらかは取り込もうとした痕跡でもあるが、のちの加筆もないとは言えまい。ところが、日本の大学の古代史では、『日本書紀』はあくまでも本文を中心にすえ、一書はおざなりな扱いだった。それをやろうとすると権威のゼミ学者一派から「ばかよばわり」されたとも聞いている。まして世界の史書や神話との比較研究などはもっと見下げたこととされてきたんのだという。
さて、人麻呂は春日氏の一派である柿本氏の出であるが、伯父は有力な人でも、彼はあまり高い地位にはならない。代わりに、天武の寵愛をうけた歌人である。歌聖と持ち上げられたがずっとあとのことで、赤人がそう書いたに過ぎない。ほとんどが天武や皇族のための歌ばかりで、実際の短歌は、多くが伝・人麻呂作としてあるにすぎない。よくわからない人なのである。
それが石川というところで水死したというので、昔は歌人・斉藤茂吉などがさかんに石見で石川を探したもののわからないままである。すると石川という地名にこそ、何か符丁でもあるのかとかんぐりたくなる。
石川・・・蘇我石河宿禰・・・蘇我倉山田石川麻呂・・・
すべて殺された氏族である。どうにも石川にはあまりいいイメージがなく、みな死を感じさせることばかりだ。鴨氏の河合の突堤も、石川などという地名があるわけではない。そこは今は出町であり、河合である。河合も出町も地形で、合理性のある地名だ。そしてごろた石がごろごろしていたのなら、石川地名も残っていてもおかしくなかろう。
今、考えていることには、もうひとつ秦氏には葛城を冠した一族がいないことだ。鴨氏には葛城鴨、高賀茂という、あきらかに葛城氏との婚姻を感じさせる氏族名があるのに、松尾の、葛野の、豊前のといくらもある秦氏には、なぜか葛城秦氏という一族が記録にない。これは変ではないか?
もし葛城氏と秦氏が婚姻関係があれば、そもそも葛城鴨氏とは大和ですでに親戚であり、京都でまた婚姻するという伝承を作るはずはない。では婚姻はなかったのか?それもおかしい。全国どこへ行っても婚姻している秦氏が、なぜ葛城とだけはしないのか?もしやそれがあっては史上では都合の悪いことでも?
だから、それが実はあって、蘇我本家氏になったとしたら?
どうだろう?
普通なら記録上、秦氏は新羅系で、蘇我氏は葛城系つまり伽耶系と言ってもかまうまい。しかしこの「系」というのが曲者で、日本ではなく、伽耶での系統であると考えると、どちらも新羅系伽耶人なら問題あるまい。
筆者はどうもそこの機微が、南山背あたりにありそうに思える。木津川沿線である。
ここには狛地名があり高麗氏族、それから東漢氏らの痕跡があるが、彼らも新羅系であった。狛・高麗をかつての敗北高句麗からの離散者と見る向きもあるが、この時代、すでに高句麗はなく、高麗は半島王家全体を言う可能性もある。伽耶も百済も新羅も高麗と言った可能性があるわけだ。
筆者は八幡市に住んでいたから、狛を抜けて何度も奈良へは行っている。京田辺の同志社分校のあたりに、継体大王の宮があったところだ。木津川が湾曲するあたりが津だったはずである。そもそもここに継体が宮を置いた理由も、木津川が奈良へ通じ、渡来系住人が多かったからだ。枚方市宮坂には百済王家も入るが、そこに葛葉宮があった。継体大王にはそういう半島系王族との深い関係があったに違いない。なんとなれば騎馬民族子孫としての扶余民族とのえにしもありえる。
蘇我氏ももしやあったかも知れない。
なにしろ歴史上に、最初に半島で滅びた伽耶系の血統の混血があまり見らぬ理由がわからない。伽耶王家はどこでどう消滅するのか?いるとすれば日本ではどこにいたのだろう?
またわからない課題が生まれた。やめられないな。
はたのいろこ
うろこ
くじら
ん?くじらという名前、蘇我氏かなんかにあったような?
スサノオ子孫たちに神話が騎馬民族的イメージをのっけているのは、そういうことか?