天理市和邇赤土山古墳の地震痕跡
「平成13年には、赤土山古墳から高さ1.1mの円筒埴輪や高さ1.4mほどの朝顔形埴輪12個が出土したと云う。
当初は古墳の上に並べられていたのが、地震の地滑りで埋まり割れたが、地震は過去2回あり、1回目の地震は埋まった埴輪の風化が少ないことから、古墳が造られて間もない5世紀初め頃、2回目の地震は887年の南海地震であろう」
天理市教育委員会PDFwww.pref.nara.jp/secure/118509/naranosaigaisi3 1-2.pdf
さてこの考古学実測による最初の5世紀初めにあったという地震痕跡は、果たして前記事の允恭地震であろうかということであるが、天理市で5世紀初めに地震が確かにあったのかどうかは、今後の科学調査が終わらないと何もわからない。考古学者は地震の専門家ではないのだから。
もちろん、日本は地震など毎日のように起きる列島。むしろ記録にもっとたくさんの地震記録があっておかしくはない。ところが『日本書紀』記録では416年が初めての記録で、次は推古天皇の飛鳥時代まで180年ほども記録が途切れる。推古天皇時代とは蘇我氏政権下であり、これも蘇我氏滅亡の前置き地震としておかれていることになる。
ただ、それがそういう政治的な記録だったとしても、小さな地震がそれらの時代にいくつあったところで、不思議はないのが日本である。ただし、その地震が大地震であったのなら、天理以外の同時代の古墳や地質にも、当然痕跡はあるはずだ。確かに記録されるほどの地震なら巨大だったと考えるのは間違いではない。他地域での調査と比べる必要があるのだが、なにしろ行政は「越境しない」のが建前で、グローバルな比較調査、つきあわせに時間がかかる。
筆者の記憶では、赤土山の調査は、赤坂にある東大寺山古墳に行った五年ほど前に、確かに行われていた。はるか南に赤土がむきだしになった古墳が見えた記憶がある。
また、古代の近畿地震の痕跡は、大阪府高槻市の今城塚古墳でも見られ、京都でもあったと聞いている。今城塚は継体大王の時代の古墳なので、允恭と飛鳥時代の中間、6世紀頃のもので、その後に地震があったことがわかる。京都の場合も允恭よりあとの時代である。
天理赤土山と同時代、ないしはそれ以前からある近畿の古墳に5世紀初めの地震痕跡はないのか?
5世紀以後の近畿の地震の痕跡が見られる遺跡・古墳
大阪府高槻市三島地域 新池遺跡(5~6世紀土師氏窯跡) 断層
兵庫県神戸市東灘区 液状化砂脈 5~6世紀
奈良県 カヅマヤマ古墳 地滑りによる崩壊 その後盗掘 1361年南海地震(太平記)の痕跡
大阪府高槻市 今城塚古墳 活断層(安威断層が真下を通る)のずれによる地滑り 崩壊
奈良県 赤土山古墳 墳丘亀裂 切断 地滑り
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55211315.html?__ysp=77yV5LiW57SA44Gu5Zyw6ZyHIOeXlei3oSDlj6TlorM%3D
寒川旭 地震考古学による調査資料
これも最新とは言いにくい資料だが、一応、5世紀に近畿で地震があったことは確認できる。
ということは『日本書紀』允恭年間の地震は、あったわけだが、だからと言って、日本では地震など日常茶飯事であり、貞観のような大地震であったなら、詳細な記録を書き記したはずである。ところがたった一言「地震」としか書いていない。その程度の地震だったということだろう。そしてこの場合、允恭時代記録の地震が8世紀の人々が覚えていたわけでもなさそうである。覚えていて、大きかったら、もう少しは具体的な結果報告と日時があっていいのに、すぐに玉田宿禰の謀反話へと移る。だからこの記事が即、赤土山その他の古墳・遺跡の発掘でわかった地震であると言えるはずもないわけである。