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広隆寺の謎 1

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久しぶりに歴史、京都を扱う。

広隆寺と秦氏と本尊の変遷
資料 広隆寺縁起、『日本書紀』、広隆寺来由記、承和縁起、秦氏本系帳逸文、上宮聖徳法王帝説など



『日本書紀』推古紀
603年11月 秦造河勝に命じ蜂岡寺(太秦寺、広隆寺)を造る 皇太子が天皇に願って大楯と靭(ゆき)を作り、旗幟をえがく。

『広隆寺縁起』承和五年(838)十二月十五日
謹んで日本書紀をかんがみて云はく推古天皇十一年(603)冬 十一月巳亥朔(十二月十二日新月)、皇太子上宮王、諸太夫に謂りて曰く「我尊き仏像有てり、誰かこの像を得て、将に以て恭敬はん」と。秦造河勝進みて曰く「臣之を拝みまつらん」便ち仏像を受く。因りて以て蜂岡寺を造るてへり。(ただし建立は推古即位壬午歳=推古30年。聖徳太子のおんために造立)
ただし本の旧寺家の地は、九条河原里で狭かったので、五条荒蒔里に移転。その後現在の太秦に移転する。

『承和縁起』
九条河原里と荒見社里にまたがった場所にあったものが五条荒蒔里に移った。

現代解釈
広隆寺は、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。 Wiki広隆寺

まとめると、
記録では最初九条河原町→五条荒蒔里→太秦である。
考古学では、北野平野社境内(北野廃寺跡)に創建→太秦移転である。
まったく異なっている。創建が北野だったと考古学は言うのだ。
果たしてそれでいいのか?



九条河原里は今で言えば九条河原町だろうが、京都の町並みは大きく変化しているから、だいたい九条河原あたりとなる。当時の地名は紀伊郡東九条村河原里である。九条河原町交差点、中糺(なかただす)町あたりか?北野には油小路通りで北へ(アガル)すぐだ。

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五条荒蒔里(あらまきのさと)は現城北街道に沿う南北溝西側かと?天神川沿いか?西京極、山陰道沿いだろう。北上すればすぐ花園だから、その西が今の太秦広隆寺である。いずれも周山街道沿いである。福井の小浜に一本で出られる。つまり日本海直結街道だ。


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すると北野平野神社に移転するとなると、周山街道から東へ離れてしまうことになる。すると五条荒蒔からは西大路で向かうことになる。これらは現在の通りの名で、当時は何通りだったかは知らぬ。道があったかどうかもわからぬ。

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北野廃寺が今の北野白梅町北野天満宮そばの平野社境内にあったのは発掘が語ることだが、記録にはないし、北野は北野であって太秦ではない。では嵯峨野(旧葛野=かづの、かどの。秦氏本拠地)に当たるのか?

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嵯峨野とは、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名(Wiki嵯峨野)で、北野白梅町・花園はかろうじて嵯峨野の東の起点にある。立命館大学衣笠学舎のある旧衣笠村は葛野郡だったので、北野もそうだろう。ならばここに広隆寺の前身があってもおかしくはない。軒丸瓦などに太秦広隆寺との類似点もある。

本来、京都葛野郡は、そのすべてが秦氏が開発しているのだし、山背国のほとんどが秦氏の所領だったとしてもおかしくない。そこに賀茂氏や壱岐氏や出雲氏、中臣氏などが入っただけである。花道で有名な六角さんが油小路にあったし、そこもそもそもは河勝屋敷だったとか、京都御所も河勝の邸だった説が著名だ。全部が秦氏、秦公氏の所領だったのだろう。

しかし五条や九条ともなるとはてさて?紀伊郡であったのなら紀氏がいただろうが、紀氏は伏見の深草や宇治小倉に遺跡があるので、早くから秦氏と交わった可能性は否めない。伏見稲荷には深草・稲荷の秦氏が、おそらく葛野とは別系統だろうが住まっていた。



秦氏はいつも申すように、新羅系(伽耶系)渡来人の総称で、それぞれ氏族には地名をつけて言うべき氏族である。深草・稲荷の秦氏は祖人・大津父に見るように伊勢水銀で繁栄した商業氏族、葛野や松尾の秦氏は為政者、豊前の秦氏は鉱物採集などの工人部民氏族だ。それ以外に平安京以降に京都建設で繁栄した秦中氏や秦下氏もある。それらがそれぞれ別の氏族と血縁を結んで、そのすべても秦氏に入るから大氏族である。血縁でない上下関係でも同族になっている。

広隆寺は葛野秦氏の祖である象徴的人格の河勝が造ると伝わるが、広隆寺縁起にあるように、それはあくまでも『日本書紀』推古紀に沿って作られた伝説であり、河勝が実在したかどうか定かではない。推古時代は、聖徳太子も河勝も、そもそも推古天皇ですら、創作でないとは言えない。蘇我氏の事件だって怪しめばいくらでも怪しめてしまう時代である。ただ、広隆寺は別名が秦公寺で、秦公は実在した「はたのきみ」豪族一家であろう。それが河勝を祖人としての太秦伝承、太子伝説であることも間違いなかろう。かろうじて河勝は粗神ではないのは、渡来氏族だったから対外的に遠慮、あるいは大王家に気遣っての伝承だろう。氏族内部では河勝は、阿蘇氏の建磐龍命に匹敵する存在である。それは駿河の大生部多を懲らしめて、その仏教教祖・神的なところを見せていることでもわかるだろう。河勝は伝説上の始祖なのである。それ以前の弓月君とか融通王などは、秦始皇帝とつなぐための完全な創作系図だ。

広隆寺の本尊は最初は新羅的なマニアックな弥勒菩薩像だったのが、やがて日本の仏教をかんがみてか薬師如来に切り替わった。ところがここにはなぜか不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)が同居している。天台宗系では、真言宗系の准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。また准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 するとこれは天台の秘仏である。しかし弥勒菩薩は弥勒信仰には、上生信仰とともに、下生信仰も存在し、中国においては、こちらの信仰の方が流行したのだから、本来インド、大陸における大乗の
兜率天(とそつてん、梵: तुषित Tuṣita)で、仏教の世界観における天界の一つであり、三界のうちの欲界における六欲天の第4の天であった神であり日本では新羅系の、それも中国に出自を求めた秦氏的な未来神。薬師如来は一応密教の医療神ではあるものの、真言宗ではあまり重視されないで、日本ではむしろ出雲の少彦名の顕現したという習合神。どうも仏像にあまり一貫性がない。しかも秦氏の本系帳や松尾大社由来では、彼らは筑紫の宗像の三女神のひとつを神としている。いずれも仏像は国家が仏教を取り入れての信仰、松尾の女神は『日本書紀』の原始神道の神を(アマテラスとして?)取り込んでの表面的、経済活動的な信仰だろう。宗像の交易船力によってのつながりからだろう。

宗像氏が皇室で力を持つのは、河勝よりもずっとあとの、天武・持統時代だけであるから、飛鳥時代の秦氏とはいささか時代が違う。百歩譲っても、松尾秦氏が大社を造る時代にしても平安遷都以後である。そのときは藤原氏と婚姻関係を結ぶぼだから、なぜ中臣・藤原の春日神ではないのかも不思議ではある。あえて古い宗像との渡来当時からの関係を重んじたのは、松尾建立の天武を遡らぬことを言っている気がする。

 宗像の沖ノ島信仰にアマテラスが加わるのは、やはり天武時代であり、持統時代が頂点である。それは『日本書紀』がアマテラスを持統女帝のために持ち出して来た・・・つまり藤原不比等の策謀と国家統一事業のたまものであり、それ以前は宗像ではスサノオの娘であった三女神が中心。それが持統つまりアマテラス信仰に昇華したのであろう。

福岡で宗像の古墳を探すと、やはり宗像徳善の宮地嶽古墳が特大で豪華で、追随を許さぬ存在である。ほかはさしたる繁栄の痕跡は見つからない。けた違いなのだ。そして徳善以降、宗像氏からは実力ある人物名が消えている。それなのに松尾秦氏は宗像女神を祭り続けた。はて?

思えば宗像三女神は、豊前の宇佐八幡でも祭られている。比売神という名前の漠然とした女神だが、国史はこれを宗像の女神、市杵島比売であるとしてあり、大元山に祭られている。スサノヲとともにである。スサノヲは渡来。それも新羅の神だから、宗像も渡来なのである。宇佐も待つ主渡来神で新羅神だ。筑紫ではそれを呉から機織を教えに来た比売などとも造る。で、必ず神功皇后がからむ。応神天皇もだ。「くれはから来た女神」なので呉国との縁が渡来や日本は非常に重要だったらしい。呉は秦の後継だったからだろうか?そして呉王は顔に刺青を入れる海南の白水郎の風習を真似ていた。

渡来人がこうした海の民を大切にしたのは、もちろん彼らの舟と案内なしには渡来できなかったからに違いない。松尾大社の背後に広がる庭園は、たくさんの巨石を配置した、おそらく海の風景になっている。あれは一族の荒波を越えてやってきた来歴を表すのだろう。「はた」には「波」の意味もある。朝鮮語の「ぱた」が日本では「わた」で、海神は綿津見である。和田の原の「わだ」も海や波だろう。神戸が和田岬を持つのもそのためだ。

宗像も胸形で、海人特有の鯨面していたからだ。おそらく卑弥呼の使者も彼らではないか?

壱岐島の勝間や、対馬の豆酢にいる海士が、ツクヨミを信奉する影の部族であることは、秦氏が影の存在だったことと共通する。だから松尾にも壱岐氏の所領には月読神社があり、太子や神功皇后の伝承がある。太子は秦氏そのものなので、八角円堂が広隆寺にもある。夢殿も秦氏のアイデアだろう。スサノオではなく娘の女神であるのも、秦氏がそもそも渡来と日本の混血で存続したからだろう。その女神は同族だった山背の鴨氏の丹塗り矢伝承の女神に等しい。

広隆寺がなぜ二転三転、移転したのかを考えてみたら、いろんなことが見えてくるのである。











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